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JR山形駅東口から徒歩約15分、義光山・常念寺(じょうねんじ、山形県山形市三日町)は虎将と呼ばれ清和源氏を祖とし足利氏の流れを汲む最上義光(もがみ・よしあき、1546~1614)の嫡男義康(よしやす、1575~1603)の菩提寺です。<br /><br />慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに連動した出羽合戦で山形城に迫る会津上杉軍の猛攻を受け、劣勢に立たされた義光軍は劣勢を挽回するため援軍要請の為嫡男義康は父の命のもと叔父にあたる伊達政宗に走ります。<br /><br />政宗の支援約束を記した書状を携えて義康は直ちに山形の父の元へ帰陣、押し寄せる直江兼継(なおえ・かねつぐ、1560~1619)率いる上杉軍に対抗できる態勢作りを固めます。<br /><br />やがて関ヶ原で徳川家康軍勝利の知らせが両陣営に届くと、撤退する上杉軍を最上・伊達連合軍が追撃を開始、撤退する長谷堂から米沢への軍路では激烈な戦闘が展開、殿(しんがり)を勤める上杉軍鉄砲隊の巧みな射撃に苦戦を強いられ義光もあわや敵の攻撃を受ける中、義康は自軍と共に駆けつけ横合いから敵を追い散し父の危急を救います。<br /><br />翌慶長6年(1601)4月に一連の出羽合戦は終了、終始徳川方として戦った義光は戦後の戦功恩賞として攻め取った庄内地方を得るなどして57万石の大大名となります。<br /><br />58歳となった義光後の後継について義光の家臣と義康の家臣とで様々な思惑が生じ親子の仲がいつの間にか不和な状況に陥ります。<br /><br />今後の対応について義光が将軍となった徳川家康に相談すると、総領であっても親不孝であれば可愛い子供でも国には替えられない。どうするかは親が自ら考える事との示唆が発せられます。<br /><br />熟慮した結果、義光は義康に対し高野山にて出家し先祖の菩提を弔うよう命じ、義康は僅かの家来と共に山形を離れますが月山の峠を越えた所で樹林の伏兵から突然銃弾を浴び義康一行は全員討取られます。<br /><br />義康の死を知った義光はいたく悲しみ山形市内の常念寺を菩提寺と定めて寺領百石を寄進、同様に鶴岡市の常念寺にも寺領を寄進して義康を弔う寺と定めます。<br /><br />義康を襲ったのは家臣で戸井半左衛門らであったこと判明しましたが、義康暗殺が義光の意思によるものかどうか迷うところですが、最上家所蔵の資料では半左衛門の名に「成敗」と書添えがあり義光の遺志に反した行為故の「成敗」であったと思われます。<br /><br />然しながら最上家の領国安堵は奥州仕置きの際豊臣秀吉から受けたものの、その後秀吉から(関白秀次謀反に加担)嫌疑が懸けられた時には義康が取り成して父の立場を救った経緯があり、他方三男家親(いえちか、1582~1617)は近侍として江戸に在って家康・秀忠の覚えもあったことを義光は充分承知しており、自藩の行く末を考慮すれば幕府の心証を良くして改易など遭わない選択として家親を嗣子とせざるを得ない判断はあったと思われます。<br /><br /><br />2023年9月17日追記<br /><br /><br />常念寺HPには最上義康について下記のように記述されています。<br /><br /><br />『 最上義康について<br /><br />400余年前、山形城主の最上義光は、関ヶ原合戦の論考で、57万石の大名になりました。<br /><br />だが、後継者問題で嫡男の修理太夫義康を廃嫡にして、江戸城で徳川家康に仕えていた三男の家親を継がせることが最上家安泰につながると考え、また家康の長年仕えていた家親は信頼できる存在であったため義康の廃嫡を命じるとともに、将来の禍根を断つために、義康殺害を命じました。<br /><br />義康は、武勇に優れ、慈愛も深く家臣からも慕われて領主の資質を備えた大器でした。<br /><br />義光が義康を遠ざける挙動は、家臣にも敏感に伝わり、義光に媚びる家臣の一部はいろいろ策動を始めました。<br /><br />江戸から帰った義光は義康に対面も許さず、即刻、高野山に登れと厳命、義康は断腸の思いで妻との別れも許されず、失意の旅に出ました。<br /><br />義康主従10余人が山形から六十里越街道を抜け庄内に入った櫛引町の一里塚に差しかかった時、義光の命を受けた刺客の一団による凄まじい銃声がとどろきました。二発の弾丸が義康の腹部に命中、噴き出す血潮の中、義康は無念の自害を遂げます。時に慶長8年(1603)8月16日、義康29歳、義光59歳でした。<br /><br />義光が直ちに義康の館を捜索したところ、義康の手箱から父との不仲を嘆き、神仏に父との和解を願った祈願文が見つかりました。<br /><br />釈明の機会を与えずに誅殺した義光はこれを後悔、義康の菩提を弔うため<br />山形城下の常念寺を菩提寺とし、寺領百石を与えて義康の成仏を祈りました。<br /><br />当山では「常念寺殿補天錦公大居士」と?り名して供養しており、平成14年に400回忌に当たり、供養塔を建立しました。』<br />

羽前山形 最上家の将来安泰を期すべく義光は家康近侍の三男義親を嫡子とし泣く泣く成敗した廃嫡の長男義康を弔った『常念寺』散歩

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2014/08/26 - 2014/08/26

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR山形駅東口から徒歩約15分、義光山・常念寺(じょうねんじ、山形県山形市三日町)は虎将と呼ばれ清和源氏を祖とし足利氏の流れを汲む最上義光(もがみ・よしあき、1546~1614)の嫡男義康(よしやす、1575~1603)の菩提寺です。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに連動した出羽合戦で山形城に迫る会津上杉軍の猛攻を受け、劣勢に立たされた義光軍は劣勢を挽回するため援軍要請の為嫡男義康は父の命のもと叔父にあたる伊達政宗に走ります。

政宗の支援約束を記した書状を携えて義康は直ちに山形の父の元へ帰陣、押し寄せる直江兼継(なおえ・かねつぐ、1560~1619)率いる上杉軍に対抗できる態勢作りを固めます。

やがて関ヶ原で徳川家康軍勝利の知らせが両陣営に届くと、撤退する上杉軍を最上・伊達連合軍が追撃を開始、撤退する長谷堂から米沢への軍路では激烈な戦闘が展開、殿(しんがり)を勤める上杉軍鉄砲隊の巧みな射撃に苦戦を強いられ義光もあわや敵の攻撃を受ける中、義康は自軍と共に駆けつけ横合いから敵を追い散し父の危急を救います。

翌慶長6年(1601)4月に一連の出羽合戦は終了、終始徳川方として戦った義光は戦後の戦功恩賞として攻め取った庄内地方を得るなどして57万石の大大名となります。

58歳となった義光後の後継について義光の家臣と義康の家臣とで様々な思惑が生じ親子の仲がいつの間にか不和な状況に陥ります。

今後の対応について義光が将軍となった徳川家康に相談すると、総領であっても親不孝であれば可愛い子供でも国には替えられない。どうするかは親が自ら考える事との示唆が発せられます。

熟慮した結果、義光は義康に対し高野山にて出家し先祖の菩提を弔うよう命じ、義康は僅かの家来と共に山形を離れますが月山の峠を越えた所で樹林の伏兵から突然銃弾を浴び義康一行は全員討取られます。

義康の死を知った義光はいたく悲しみ山形市内の常念寺を菩提寺と定めて寺領百石を寄進、同様に鶴岡市の常念寺にも寺領を寄進して義康を弔う寺と定めます。

義康を襲ったのは家臣で戸井半左衛門らであったこと判明しましたが、義康暗殺が義光の意思によるものかどうか迷うところですが、最上家所蔵の資料では半左衛門の名に「成敗」と書添えがあり義光の遺志に反した行為故の「成敗」であったと思われます。

然しながら最上家の領国安堵は奥州仕置きの際豊臣秀吉から受けたものの、その後秀吉から(関白秀次謀反に加担)嫌疑が懸けられた時には義康が取り成して父の立場を救った経緯があり、他方三男家親(いえちか、1582~1617)は近侍として江戸に在って家康・秀忠の覚えもあったことを義光は充分承知しており、自藩の行く末を考慮すれば幕府の心証を良くして改易など遭わない選択として家親を嗣子とせざるを得ない判断はあったと思われます。


2023年9月17日追記


常念寺HPには最上義康について下記のように記述されています。


『 最上義康について

400余年前、山形城主の最上義光は、関ヶ原合戦の論考で、57万石の大名になりました。

だが、後継者問題で嫡男の修理太夫義康を廃嫡にして、江戸城で徳川家康に仕えていた三男の家親を継がせることが最上家安泰につながると考え、また家康の長年仕えていた家親は信頼できる存在であったため義康の廃嫡を命じるとともに、将来の禍根を断つために、義康殺害を命じました。

義康は、武勇に優れ、慈愛も深く家臣からも慕われて領主の資質を備えた大器でした。

義光が義康を遠ざける挙動は、家臣にも敏感に伝わり、義光に媚びる家臣の一部はいろいろ策動を始めました。

江戸から帰った義光は義康に対面も許さず、即刻、高野山に登れと厳命、義康は断腸の思いで妻との別れも許されず、失意の旅に出ました。

義康主従10余人が山形から六十里越街道を抜け庄内に入った櫛引町の一里塚に差しかかった時、義光の命を受けた刺客の一団による凄まじい銃声がとどろきました。二発の弾丸が義康の腹部に命中、噴き出す血潮の中、義康は無念の自害を遂げます。時に慶長8年(1603)8月16日、義康29歳、義光59歳でした。

義光が直ちに義康の館を捜索したところ、義康の手箱から父との不仲を嘆き、神仏に父との和解を願った祈願文が見つかりました。

釈明の機会を与えずに誅殺した義光はこれを後悔、義康の菩提を弔うため
山形城下の常念寺を菩提寺とし、寺領百石を与えて義康の成仏を祈りました。

当山では「常念寺殿補天錦公大居士」と?り名して供養しており、平成14年に400回忌に当たり、供養塔を建立しました。』

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 常念寺正門<br /><br />義光菩提寺の光禅寺から光明寺に移動する途中(三日町)に当該寺があります。

    常念寺正門

    義光菩提寺の光禅寺から光明寺に移動する途中(三日町)に当該寺があります。

  • 義光山<br /><br />正門右側には開基した自らの名を採って山号は「義光山」として建てられています。

    義光山

    正門右側には開基した自らの名を採って山号は「義光山」として建てられています。

  • 常念寺<br /><br />正門の左側には寺号である常念寺を表す標柱が見えます。

    常念寺

    正門の左側には寺号である常念寺を表す標柱が見えます。

  • 最上義光嫡男義康供養塔<br /><br />正門を入って参道のすぐ左側に義康の供養塔が在ります。

    最上義光嫡男義康供養塔

    正門を入って参道のすぐ左側に義康の供養塔が在ります。

  • 最上義康廟

    最上義康廟

  • 義康供養塔<br /><br />建立されてまだ日が浅いと思われる供養塔が重厚な佇まいを見せています。

    イチオシ

    義康供養塔

    建立されてまだ日が浅いと思われる供養塔が重厚な佇まいを見せています。

  • 「常念寺縁起」説明<br /><br />供養塔の背後に供養塔と同質の石材に常念寺縁起が刻されています。<br /><br />「 常 念 寺 縁 起<br /><br />この寺は「義光山常念寺」と称し、開山は福島県いわき市にある浄土宗檀林の一つであった専称寺の末寺である寿蔵寺の末弟、良権瞬翁上人が運慶作と伝えられる不動尊像を奉じて山形を訪れ、この地に草庵を結んで「不動山明王院」と称したのが天正11年(1583)3月といわれる。<br /><br />当時の山形城主最上義光は、愛娘の駒姫の受難にあい浄土観に心を傾け、上洛中に深く帰依したのが、京都の浄土宗本山の一つである清浄華院の高弟で学識高く知行兼備の?讃専阿上人で、義光の招きで山形に下向し、不動山明王院の3世住職となる。慶長4年(1599)春、明王院を「義光山常念寺」と改称、寺領百石を与えて伽藍を大改修し、同年8月、上洛中の義光は後陽成天皇に震筆勅額の下賜を願い出たところ、明王院当時の宗風(加持祈祷、邪気払い)が問題視されたので上人が急ぎ上洛して弁明、勅額の下賜が決まった。<br /><br />この際、勅額院宣書、参内式目之控書、法度書、亀鑑書の下附があり、義光は羽州における浄土宗の触頭とし、次の祝歌を残している、「みがきおく玉のひかりも吉野山空もひとつにかほるしらくも」<br /><br />その後、長男、義康の菩提寺としたさい、中野村の内百十石を寄進(徳川三代家光代から朱印地)した。このような由緒から江戸時代には羽州に於ける触頭という寺格だったが、元和7年(1621)の山形大火で類焼、正徳元年(1711)中御門天皇から勅額を下賜(’現存)された。その後文政2年、明治27年にも大火に遭い、太平洋戦争後の昭和42年、現住職代に現在の鉄筋コンクリート造りの本堂再建、伽藍等を整備した。<br /><br />    平成14年8月<br />       義 光 山 常 念 寺<br />           五 十 世   静 誉 正 光 誌 之  」

    「常念寺縁起」説明

    供養塔の背後に供養塔と同質の石材に常念寺縁起が刻されています。

    「 常 念 寺 縁 起

    この寺は「義光山常念寺」と称し、開山は福島県いわき市にある浄土宗檀林の一つであった専称寺の末寺である寿蔵寺の末弟、良権瞬翁上人が運慶作と伝えられる不動尊像を奉じて山形を訪れ、この地に草庵を結んで「不動山明王院」と称したのが天正11年(1583)3月といわれる。

    当時の山形城主最上義光は、愛娘の駒姫の受難にあい浄土観に心を傾け、上洛中に深く帰依したのが、京都の浄土宗本山の一つである清浄華院の高弟で学識高く知行兼備の?讃専阿上人で、義光の招きで山形に下向し、不動山明王院の3世住職となる。慶長4年(1599)春、明王院を「義光山常念寺」と改称、寺領百石を与えて伽藍を大改修し、同年8月、上洛中の義光は後陽成天皇に震筆勅額の下賜を願い出たところ、明王院当時の宗風(加持祈祷、邪気払い)が問題視されたので上人が急ぎ上洛して弁明、勅額の下賜が決まった。

    この際、勅額院宣書、参内式目之控書、法度書、亀鑑書の下附があり、義光は羽州における浄土宗の触頭とし、次の祝歌を残している、「みがきおく玉のひかりも吉野山空もひとつにかほるしらくも」

    その後、長男、義康の菩提寺としたさい、中野村の内百十石を寄進(徳川三代家光代から朱印地)した。このような由緒から江戸時代には羽州に於ける触頭という寺格だったが、元和7年(1621)の山形大火で類焼、正徳元年(1711)中御門天皇から勅額を下賜(’現存)された。その後文政2年、明治27年にも大火に遭い、太平洋戦争後の昭和42年、現住職代に現在の鉄筋コンクリート造りの本堂再建、伽藍等を整備した。

        平成14年8月
           義 光 山 常 念 寺
               五 十 世   静 誉 正 光 誌 之  」

  • 「義康公について」説明<br /><br />

    「義康公について」説明

  • 最上氏家紋<br /><br />義康供養塔には最上氏家紋を刻した小振りで円形の石柱が設置されています。

    最上氏家紋

    義康供養塔には最上氏家紋を刻した小振りで円形の石柱が設置されています。

  • 常念寺・本堂<br /><br />参道の奥にはコンクリート製と思われる本堂があります。

    イチオシ

    常念寺・本堂

    参道の奥にはコンクリート製と思われる本堂があります。

  • 本堂扉<br /><br />閉められた本堂扉には山号である「義光山」が見えます。

    本堂扉

    閉められた本堂扉には山号である「義光山」が見えます。

  • 鐘楼堂

    鐘楼堂

  • 境内風景<br /><br />本堂付近から左右に設置された石燈籠を挟んで参道を捉えます。

    境内風景

    本堂付近から左右に設置された石燈籠を挟んで参道を捉えます。

  • 社務所

    社務所

  • 境内風景

    境内風景

  • 境内風景

    境内風景

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