2014/08/18 - 2014/08/29
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ドクターキムルさん
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補陀洛寺の源頼朝像に関して調べてきた。鎌倉市立鎌倉国宝館の学芸員の話も聞いておこうと思ったが、あいにくの小雨だったので、とりあえず電話(047-22-0753)してみた。鎌倉国宝館の学芸員は補陀洛寺に行って源頼朝坐像を見ているが、時代が下がるのではという見方のようだ。補陀洛寺の住職にも伝えているようで同じようなことをおっしゃっていた。
Webでの検索は検索エンジンの問題があり、検索で入力した内容に関わる、あるいは、それから外れたものが表示されるが、入力した内容に関わる1割も表示されてはいないのかも知れない。これまでに数限りなく鎌倉の寺社を検索してきたが、今回は鎌倉シニア通信の2003年12月号に「補陀洛寺」(http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/0312taka/index.html)があり、その「補陀洛寺の写真集」に17枚の写真が掲載されているのが参考になる。古い仏像ばかりが20体余り写っているが、「補陀洛寺訪問記」には、平清盛筆とされる「九万八千軍神」の文字がしたためられた平家赤旗の写真も掲載されている。
補陀洛寺は養和元年(1181年)に源頼朝(久安3年(1147年)〜建久10年(1199年))の祈願所として創建され、位牌所となったと伝えられている。開山は文覚上人(保延5年(1139年)〜建仁3年(1203年))、開基は頼朝であり、七堂伽藍を備える大寺であった。後に頽廃し、文和年間(1352年〜1356年)に鶴岡供僧頼基が中興した。長八寸の開基・頼朝の木像は42歳の顔を鏡に写した自作像とされる。開山・文覚上人像を真似て作像したのであろう。頼朝像の前にある位牌に記された「征夷大将軍二品幕下頼朝神儀」は文覚の書とされる。
現存する本尊・十一面観音像や「新編相模国風土記」が書かれた江戸時代の長三尺の本尊・不動明王像は平家調伏のために智小證が彫ったと云う。また、薬師三尊像は運慶作と伝わる。このように、補陀洛寺本堂には平安時代から鎌倉時代初期の仏像が多く安置されている。七堂伽藍が建ち並んでいた時代には頼朝像や文覚上人像は開基廟や開山堂に安置されていたのだろう。中でも、平家赤旗は頼朝像の近くにあったと考えるべきもののように思える。火災時には平家赤旗より優先して頼朝像を運び出すのが道理であり、小像であった頼朝像は人一人でも容易に持ち運べ、それ故、難を逃れて現存しているのではあるまいか?平家赤旗が現存していることは頼朝像も難を逃れてきていることを暗示していよう。
鎌倉国宝館の学芸員は中興後の南北朝から室町時代に頼朝像が造立されたと考えているようだ。しかし、鶴岡八幡宮の境内に立てられていたニセ重要文化財看板にも気が付かず、横浜・乗蓮寺の北条政子像でさえ見てはいない学芸員では当てにはならない。文化財課や鎌倉世界遺産登録推進担当と同じ穴の狢(鎌倉市職員)である可能性も高い。文覚上人像−源頼朝像−北条政子像と続いた自刻像(自作像)と寺伝された一連の流れがある。また、源頼朝像と北条政子像は本人が自分の姿に似ていると納得して残した像で、鑑真像のように死後に造立された肖像木像とは異なるであろう。平成11年(1999年)に開催された源頼朝没後八百年記念特別展「源頼朝とゆかりの寺宝」展以降、何も進展したところがないように思え、鎌倉国宝館の学芸員には再度補陀洛寺を訪れて、こうした寺伝の各像をもう一度確認して「伝」が取れるように努力すべきだと促しておいた。やはり仏像が専門だといっても鎌倉周辺の見るべき仏像を全て見ている訳ではないのだ。
なお、梵鐘は大正時代に住職が天上絵を描いた東慶寺の鐘楼に吊るされている。
(表紙写真は補陀洛寺の源頼朝坐像)
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