鎌倉旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 鎌倉駅から若宮大路を渡ると、鎌倉生涯学習センターが目に付いたので寄ってみた。事務所横に「鎌倉世界遺産登録推進広報コーナー」が設けられているではないか。パネルには「鎌倉市歴史まちづくり推進担当」と書かれているから、鎌倉世界遺産落選後に設けられたものだ。しかし、内容は「武家の古都・鎌倉」の内容のままである。「まだこんなことを‥」と絶句し、隣の事務所に行って「世界遺産は1,000件程度あるが、推薦辞退して、その後同じ内容で登録になったものなどない。」と文句を言ったら、女性職員が対応してくれた。しかし、展示されているパネル内容を詳しく批評しだしたら、「担当の者を呼びますから少しお待ち下さい。」と言われた。待つ間にパネルや展示物を写真に収めた。<br /> 暫くすると担当者がやって来た。「課長以上をと言ったのですが、あなたは?」「係長です。」と答えた。市役所から担当部署の係長がわざわざやって来たようだ。「鎌倉市世界遺産登録推進担当」が「鎌倉市歴史まちづくり推進担当」に変ったことは知っていたが、12人いた職員が1人(係長)だけに減らされたのだという。次長や課長はいるが、担当者は係長だけで、それも兼務があるそうだ。他は嘱託かパートか派遣ということか。<br /> パネルに写真がある構成資産を例に挙げて私から説明したが、係長は全く知らないか初めて聞く話だという。ただ、真摯に話を聞く態度は評価できる。おそらくは、鎌倉の文化財や史跡については20数年掛けても結果を出せなかった鎌倉市世界遺産登録推進担当や文化財課の他の者たちと同様に文化財や文化財行政については殆ど何も理解していない状態のままではあるが、この前向きさがあるために1人だけ残すときに選ばれたのであろう。<br /> この1年半の多くをなぜ鎌倉が世界遺産になれなかったのか、その理由を分析していたようだ。平泉の件も検証したようだ。しかし、構成要素が正しく認識されていたかは検証はなされてはいなく、私がパネルにあるまんだら堂やぐら群の意義や特徴を説明すると聞き入っていたが、「やぐらを専門に研究している学者がいないので。」と本音を言う。鎌倉を特徴付けるやぐらでさえ誰も分からないということだ。これでは推薦書の内容があのように評価に値しなかった理由は誰にでも理解されよう。<br /> 私に言わせれば、鎌倉の世界遺産に関わった全ての分野の全ての学者のレベルが低く、結果、不記載になったのであり、殆どの構成資産に肝心なことが記載されてはいない。永福寺がその地に建立された理由は、その前を通る大手中路が鎌倉から唯一馬で北に出ることができる街道であり、頼朝が奥州平泉に遠征し凱旋した街道であるからである。そのために谷あいには切通が整備されている。当時は、道を伝って平泉で討ち果たされた亡者の怨霊がやってくると信じられており、その道の町(鎌倉)の入口に寺を建立して霊を鎮めたのだ。そのほかに鎌倉まつりの起源や、私が薦める鎌倉の3名所(二階堂の切通し、覚園寺、おんめさまの天井絵)などを話したが、覚園寺以外は初めて聞いた話ばかりだという。とりあえずは永福寺跡奥の切通と近くのおんめさま(大巧寺)本堂の天井絵を見てみると言っていた。<br /> 「武家の古都・鎌倉」では頼朝像も政子像も出てはこない。名前だけで顔も浮かばないような人が造り上げたのが鎌倉であるはずがない。この時点でもう鎌倉の落選は必死であったのだ。<br /> 係長は同じ内容での世界遺産登録には疑問を抱いているようだが、さりとて「武家の古都・鎌倉」に替わる題目は思い当たらないという。私は、時代を鎌倉時代から江戸時代に下げて、「大山詣でと物見遊山(江ノ島・鎌倉・金沢八景)」とする案を提案した。鎌倉時代の物が幾つもない鎌倉でも、江戸時代の物なら幾らでも残っており、構成要素もイコモスの評価のようにはならないことを指摘しておいた。たった一人でどれほどのことができるのかは甚だ疑問ではあるが、四半世紀前に検討されるべきことがようやく今になってなされようとしているのだと感じた。しかし、有能な人がいないと成就され得ないことは論を待たない。この係長がそのような人ではないことは明らかであろうが、どこまでやれるのかは見守るしかないようだ。<br />(表紙写真は鎌倉世界遺産登録推進広報コーナーにある永福寺の模型)

鎌倉世界遺産登録推進広報コーナー

7いいね!

2014/08/18 - 2014/08/18

3350位(同エリア7345件中)

0

15

ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉駅から若宮大路を渡ると、鎌倉生涯学習センターが目に付いたので寄ってみた。事務所横に「鎌倉世界遺産登録推進広報コーナー」が設けられているではないか。パネルには「鎌倉市歴史まちづくり推進担当」と書かれているから、鎌倉世界遺産落選後に設けられたものだ。しかし、内容は「武家の古都・鎌倉」の内容のままである。「まだこんなことを‥」と絶句し、隣の事務所に行って「世界遺産は1,000件程度あるが、推薦辞退して、その後同じ内容で登録になったものなどない。」と文句を言ったら、女性職員が対応してくれた。しかし、展示されているパネル内容を詳しく批評しだしたら、「担当の者を呼びますから少しお待ち下さい。」と言われた。待つ間にパネルや展示物を写真に収めた。
 暫くすると担当者がやって来た。「課長以上をと言ったのですが、あなたは?」「係長です。」と答えた。市役所から担当部署の係長がわざわざやって来たようだ。「鎌倉市世界遺産登録推進担当」が「鎌倉市歴史まちづくり推進担当」に変ったことは知っていたが、12人いた職員が1人(係長)だけに減らされたのだという。次長や課長はいるが、担当者は係長だけで、それも兼務があるそうだ。他は嘱託かパートか派遣ということか。
 パネルに写真がある構成資産を例に挙げて私から説明したが、係長は全く知らないか初めて聞く話だという。ただ、真摯に話を聞く態度は評価できる。おそらくは、鎌倉の文化財や史跡については20数年掛けても結果を出せなかった鎌倉市世界遺産登録推進担当や文化財課の他の者たちと同様に文化財や文化財行政については殆ど何も理解していない状態のままではあるが、この前向きさがあるために1人だけ残すときに選ばれたのであろう。
 この1年半の多くをなぜ鎌倉が世界遺産になれなかったのか、その理由を分析していたようだ。平泉の件も検証したようだ。しかし、構成要素が正しく認識されていたかは検証はなされてはいなく、私がパネルにあるまんだら堂やぐら群の意義や特徴を説明すると聞き入っていたが、「やぐらを専門に研究している学者がいないので。」と本音を言う。鎌倉を特徴付けるやぐらでさえ誰も分からないということだ。これでは推薦書の内容があのように評価に値しなかった理由は誰にでも理解されよう。
 私に言わせれば、鎌倉の世界遺産に関わった全ての分野の全ての学者のレベルが低く、結果、不記載になったのであり、殆どの構成資産に肝心なことが記載されてはいない。永福寺がその地に建立された理由は、その前を通る大手中路が鎌倉から唯一馬で北に出ることができる街道であり、頼朝が奥州平泉に遠征し凱旋した街道であるからである。そのために谷あいには切通が整備されている。当時は、道を伝って平泉で討ち果たされた亡者の怨霊がやってくると信じられており、その道の町(鎌倉)の入口に寺を建立して霊を鎮めたのだ。そのほかに鎌倉まつりの起源や、私が薦める鎌倉の3名所(二階堂の切通し、覚園寺、おんめさまの天井絵)などを話したが、覚園寺以外は初めて聞いた話ばかりだという。とりあえずは永福寺跡奥の切通と近くのおんめさま(大巧寺)本堂の天井絵を見てみると言っていた。
 「武家の古都・鎌倉」では頼朝像も政子像も出てはこない。名前だけで顔も浮かばないような人が造り上げたのが鎌倉であるはずがない。この時点でもう鎌倉の落選は必死であったのだ。
 係長は同じ内容での世界遺産登録には疑問を抱いているようだが、さりとて「武家の古都・鎌倉」に替わる題目は思い当たらないという。私は、時代を鎌倉時代から江戸時代に下げて、「大山詣でと物見遊山(江ノ島・鎌倉・金沢八景)」とする案を提案した。鎌倉時代の物が幾つもない鎌倉でも、江戸時代の物なら幾らでも残っており、構成要素もイコモスの評価のようにはならないことを指摘しておいた。たった一人でどれほどのことができるのかは甚だ疑問ではあるが、四半世紀前に検討されるべきことがようやく今になってなされようとしているのだと感じた。しかし、有能な人がいないと成就され得ないことは論を待たない。この係長がそのような人ではないことは明らかであろうが、どこまでやれるのかは見守るしかないようだ。
(表紙写真は鎌倉世界遺産登録推進広報コーナーにある永福寺の模型)

  • 鎌倉世界遺産登録推進広報コーナー。<br /><br />20数年間に亘って世界遺産登録を推進し、掛かったお金が5億円だったと1年半前に話題になった。しかし、鎌倉市世界遺産登録推進担当の部署では国内の他の登録された世界遺産には無頓着で、何処も見学には行っていないのだという。他の市であれば現地の視察名目で大挙して出張して散財するものだが、鎌倉市の担当部署の職員はそうしたことを一切しなかったのだという。よほど無能だったのだろう。こうした話はこれまでに文化財課や世界遺産登録推進担当と接触してきたので想像に難くない。<br />無能で何もしなかったが、それ故とてつもなく長く掛かり、平均すれば2000万円/年となる。担当者が12人もいた部署であったのだから、金を使い過ぎているということはないであろう。<br />単に、何もしなかったのでお金は掛けなかったが、何せ時間が掛かった。結果は元の木阿弥、双六の振り出しに戻っただけではあるが。<br /><br />このコーナーは平成26年8月9日(土)にリニューアルオープンしたばかりのようだ。10日も経たずに、私からの厳しい指摘や新しい提案を出され、何の意味もない展示コーナーに思えたが、鎌倉については取り分けて詳しい理工系分野の博士からの辛辣には聞こえるが鎌倉の歴史の見方を正しくして、真実に近付けることができる端緒になる意見や歴史的見解を聞けたのだから、それを生かしていかないと、再挑戦しても同じ結果となるであろうことが理解して頂けたと思う。まあ、第一回目のように時間は掛かるでしょうが。<br /><br />

    鎌倉世界遺産登録推進広報コーナー。

    20数年間に亘って世界遺産登録を推進し、掛かったお金が5億円だったと1年半前に話題になった。しかし、鎌倉市世界遺産登録推進担当の部署では国内の他の登録された世界遺産には無頓着で、何処も見学には行っていないのだという。他の市であれば現地の視察名目で大挙して出張して散財するものだが、鎌倉市の担当部署の職員はそうしたことを一切しなかったのだという。よほど無能だったのだろう。こうした話はこれまでに文化財課や世界遺産登録推進担当と接触してきたので想像に難くない。
    無能で何もしなかったが、それ故とてつもなく長く掛かり、平均すれば2000万円/年となる。担当者が12人もいた部署であったのだから、金を使い過ぎているということはないであろう。
    単に、何もしなかったのでお金は掛けなかったが、何せ時間が掛かった。結果は元の木阿弥、双六の振り出しに戻っただけではあるが。

    このコーナーは平成26年8月9日(土)にリニューアルオープンしたばかりのようだ。10日も経たずに、私からの厳しい指摘や新しい提案を出され、何の意味もない展示コーナーに思えたが、鎌倉については取り分けて詳しい理工系分野の博士からの辛辣には聞こえるが鎌倉の歴史の見方を正しくして、真実に近付けることができる端緒になる意見や歴史的見解を聞けたのだから、それを生かしていかないと、再挑戦しても同じ結果となるであろうことが理解して頂けたと思う。まあ、第一回目のように時間は掛かるでしょうが。

  • 「はじめに」パネル。<br /><br />「1.鎌倉において、武家政権を樹立し、禅や茶の文化的伝統が醸成された。」<br />「2.歴史的遺産が多く残り、往時のままの姿を色濃く残している。」<br />「3.このコーナーは鎌倉の歴史的遺産を再認識していただき、鎌倉の世界遺産登録を目指すもの。」<br />とある。<br /><br />1.の「文化的伝統」という言葉は初めて目にしたが、日本語にあるのは「伝統的文化」であろうか。Webで「文化的伝統」で検索すると、最初の10ページ(100件)中に13件の使用があった。世界遺産関連に多く、市や区のホームページなどにも見られる。まだ定着した日本語にはなっていないようだ。<br />茶室が少ない鎌倉に茶の文化とは、虚しく聞こえる。<br />2.は、地下に多くの遺跡があるために、イコモスから全否定された。<br />3.世界遺産登録は前回落選した内容「武家の古都・鎌倉」の二番煎じで実現される可能性はゼロである。国(文化庁)以下にはそうしたことが理解されていない。

    「はじめに」パネル。

    「1.鎌倉において、武家政権を樹立し、禅や茶の文化的伝統が醸成された。」
    「2.歴史的遺産が多く残り、往時のままの姿を色濃く残している。」
    「3.このコーナーは鎌倉の歴史的遺産を再認識していただき、鎌倉の世界遺産登録を目指すもの。」
    とある。

    1.の「文化的伝統」という言葉は初めて目にしたが、日本語にあるのは「伝統的文化」であろうか。Webで「文化的伝統」で検索すると、最初の10ページ(100件)中に13件の使用があった。世界遺産関連に多く、市や区のホームページなどにも見られる。まだ定着した日本語にはなっていないようだ。
    茶室が少ない鎌倉に茶の文化とは、虚しく聞こえる。
    2.は、地下に多くの遺跡があるために、イコモスから全否定された。
    3.世界遺産登録は前回落選した内容「武家の古都・鎌倉」の二番煎じで実現される可能性はゼロである。国(文化庁)以下にはそうしたことが理解されていない。

  • 「世界遺産とは」パネル。<br /><br />当時、鎌倉世界遺産推薦を担当した近藤前文化庁長官でさえも、同じテーマで再推薦すれば、鎌倉が世界遺産に登録されると講演で話しているが、とんだ勘違いであろう。一度落ちても同じ問題で再試験させてあげるなどということは世の中にはない。すなわち、「武家の古都・鎌倉」に類するものでは再び落選することは必然であるということだ。

    「世界遺産とは」パネル。

    当時、鎌倉世界遺産推薦を担当した近藤前文化庁長官でさえも、同じテーマで再推薦すれば、鎌倉が世界遺産に登録されると講演で話しているが、とんだ勘違いであろう。一度落ちても同じ問題で再試験させてあげるなどということは世の中にはない。すなわち、「武家の古都・鎌倉」に類するものでは再び落選することは必然であるということだ。

  • 「世界遺産を目指す「鎌倉」」パネル。

    「世界遺産を目指す「鎌倉」」パネル。

  • 「切通と港跡」パネル。<br /><br />切通として、どれが重要なのかが全く理解されていない。<br /><br />頼朝以前の鎌倉には山という山の尾根には道が通っていて街道になっていた。それを頼朝が切通として奥州遠征に備えた。頼朝没後には他の江戸時代に「鎌倉七口」と呼ばれる切通が掘削された。しかし、今でも、迂回路としてそれ以前の尾根道は一部が残っている。朝夷奈切通には頼朝創建と伝わる熊野神社裏山にその尾根道は残っている。どの切通にしてもこうした迂回としての尾根道はあったのだ。

    「切通と港跡」パネル。

    切通として、どれが重要なのかが全く理解されていない。

    頼朝以前の鎌倉には山という山の尾根には道が通っていて街道になっていた。それを頼朝が切通として奥州遠征に備えた。頼朝没後には他の江戸時代に「鎌倉七口」と呼ばれる切通が掘削された。しかし、今でも、迂回路としてそれ以前の尾根道は一部が残っている。朝夷奈切通には頼朝創建と伝わる熊野神社裏山にその尾根道は残っている。どの切通にしてもこうした迂回としての尾根道はあったのだ。

  • 「鎌倉大仏と北条氏ゆかりの寺院」パネル。

    「鎌倉大仏と北条氏ゆかりの寺院」パネル。

  • 「神社と禅宗寺院」パネル。前のパネルの「北条氏ゆかりの寺院」とこのパネルの「禅宗寺院」とはダブる。しかし、「源頼朝(将軍)ゆかりの寺院(と神社)」や「北条政子ゆかりの寺院」、「北条氏ゆかりの寺院」などの切り口は必要である。<br /><br />円覚寺の仏殿(本堂)が鉄筋コンクリート造であることは一度も問題にされなかったという。同じ年(1992年)に暫定リストに掲載された鎌倉と彦根城が20年にも亘ってそのままであったのはこの鉄筋コンクリート造が障害となっていると邪推していた。それが一度も議論されなかったとは‥。やはり、何もしてこなかったということか。

    「神社と禅宗寺院」パネル。前のパネルの「北条氏ゆかりの寺院」とこのパネルの「禅宗寺院」とはダブる。しかし、「源頼朝(将軍)ゆかりの寺院(と神社)」や「北条政子ゆかりの寺院」、「北条氏ゆかりの寺院」などの切り口は必要である。

    円覚寺の仏殿(本堂)が鉄筋コンクリート造であることは一度も問題にされなかったという。同じ年(1992年)に暫定リストに掲載された鎌倉と彦根城が20年にも亘ってそのままであったのはこの鉄筋コンクリート造が障害となっていると邪推していた。それが一度も議論されなかったとは‥。やはり、何もしてこなかったということか。

  • 「寺院跡と武家館跡」パネル。<br /><br />遺跡の類は世界遺産では受け入れられない。

    「寺院跡と武家館跡」パネル。

    遺跡の類は世界遺産では受け入れられない。

  • 永福寺復元模型。

    永福寺復元模型。

  • 「国指定史跡 永福寺跡の調査と整備」パネル。<br /><br />「2.建立の理由」がある。しかし、その前を通る大手中路は鎌倉から唯一馬で北に出ることができる街道であり、頼朝が奥州平泉に遠征し凱旋した街道であること。その谷あいには切通が整備され、馬の水飲み場も掘られていること。また、階段には斜めに線を刻み、馬の蹄が滑り難くしていること。この街道は平泉の藤原氏を滅ぼすために整備され、切通は頼朝存命中に造られた。後の朝夷奈切通のモデルとなっている。すなわち、永福寺の建立の理由は、平泉で討ち果たされた亡者の怨霊が道伝えにやってくるので、その道の町(鎌倉)の入口に寺を建立して霊を鎮めたのだ。<br /><br />

    「国指定史跡 永福寺跡の調査と整備」パネル。

    「2.建立の理由」がある。しかし、その前を通る大手中路は鎌倉から唯一馬で北に出ることができる街道であり、頼朝が奥州平泉に遠征し凱旋した街道であること。その谷あいには切通が整備され、馬の水飲み場も掘られていること。また、階段には斜めに線を刻み、馬の蹄が滑り難くしていること。この街道は平泉の藤原氏を滅ぼすために整備され、切通は頼朝存命中に造られた。後の朝夷奈切通のモデルとなっている。すなわち、永福寺の建立の理由は、平泉で討ち果たされた亡者の怨霊が道伝えにやってくるので、その道の町(鎌倉)の入口に寺を建立して霊を鎮めたのだ。

  • 「復元イメージ」パネル。<br /><br />現実に、3堂の基壇まで復元している。こんなことにお金を掛ける前に、なぜこの場所に永福寺が建立されたのかを明らかにすべきであった。<br /><br />大手中路が鎌倉のメインストリートであったために、六国峠に向かうこの奥に切通が造られ、六国峠からの尾根道の所々に切通が造られ、平坦な道で円海山へと続いている。そうした理由を明らかにすることが本当は重要だったはずだ。

    「復元イメージ」パネル。

    現実に、3堂の基壇まで復元している。こんなことにお金を掛ける前に、なぜこの場所に永福寺が建立されたのかを明らかにすべきであった。

    大手中路が鎌倉のメインストリートであったために、六国峠に向かうこの奥に切通が造られ、六国峠からの尾根道の所々に切通が造られ、平坦な道で円海山へと続いている。そうした理由を明らかにすることが本当は重要だったはずだ。

  • 遺跡からの出土品。<br />平泉が一度失敗した際にこうしたものでは世界遺産の構成要素とは成り得ないことを指摘されていたはず。<br />平泉のことは鎌倉が落選後に検証がなされたようだ。やるべき順番が転倒している。<br /><br />こんなものより、源頼朝坐像(鎌倉・補陀洛寺)と北条政子坐像(横浜・乗蓮寺)の写真を並べたパネルがある方がよほど鎌倉世界遺産登録推進広報コーナーを訪れる人の心を掴むことだろうに。<br />

    遺跡からの出土品。
    平泉が一度失敗した際にこうしたものでは世界遺産の構成要素とは成り得ないことを指摘されていたはず。
    平泉のことは鎌倉が落選後に検証がなされたようだ。やるべき順番が転倒している。

    こんなものより、源頼朝坐像(鎌倉・補陀洛寺)と北条政子坐像(横浜・乗蓮寺)の写真を並べたパネルがある方がよほど鎌倉世界遺産登録推進広報コーナーを訪れる人の心を掴むことだろうに。

  • 遺跡からの出土品。

    遺跡からの出土品。

  • 遺跡からの出土品。

    遺跡からの出土品。

  • 遺跡からの出土品。<br /><br />以前に、ここで鎌倉世界遺産に向けた講演会があり、五味先生のお話も聞いたことがあるが、「大倉幕府があった場所には清泉小が建っていて発掘もできず、構成要素に入れることができなかった。云々。」を聞いて、「遺跡はだめだろう。」と思った。しかし、鎌倉史の権威と言っても、あるいは東大教授だといっても、学者としてのレベルは鎌倉世界遺産落選が示した通りの実力だったのであろう。

    遺跡からの出土品。

    以前に、ここで鎌倉世界遺産に向けた講演会があり、五味先生のお話も聞いたことがあるが、「大倉幕府があった場所には清泉小が建っていて発掘もできず、構成要素に入れることができなかった。云々。」を聞いて、「遺跡はだめだろう。」と思った。しかし、鎌倉史の権威と言っても、あるいは東大教授だといっても、学者としてのレベルは鎌倉世界遺産落選が示した通りの実力だったのであろう。

この旅行記のタグ

関連タグ

7いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP