2009/04/17 - 2009/05/01
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jijidarumaさん
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期間 : 2009年4月17日(金)〜5月1日(金)15日間の旅
(2014年4月8日)
ドイツの旅では、バラの奇蹟Das Rosenwunderで知られる聖女エリザベート、美貌で名高いオーストリア・ハンガリー帝国の皇妃エリザベート、あるいはザクセン王アウグスト強王の愛妾であったコーゼル伯爵夫人(49年間、85歳で死ぬまで幽囚された)といった女性たちに加えて、
ナチス・ドイツ抵抗運動のシンボルとなったシュタウフェンベルク伯爵についても興味を持って、その事跡を巡る事が多かった。
写真はシュタウフェンベルク伯爵夫人ニーナのポートレート
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
≪シュタウフェンベルク伯爵一家が暮らしたラウトリンゲン城Schloss Lautlingen(シュヴェービッシュ・アルプ地方Schwaebischen Alb)≫
シュヴェービッシュ・アルプ地方、黒い森にも近い、その東に人口1800人のLautlingenラウトリンゲンの小さな村がある。
この村の中心に立つSchloss Lautlingenラウトリンゲン城は、かつてシュタウフェンベルグ伯爵一族が累代の居城とした所であり、ナチス・ドイツに対する抵抗運動の英雄Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・フォン・シュタウフェンベルグ伯爵一家が1942年の夏、休暇を過ごした写真がある。
ラウトリンゲン城は現在、村の所有になっているが、シュタウフェンベルグ礼拝堂が作られ、今も毎年7月20日(ワルキューレ作戦:ヒトラー暗殺実行作戦の日)には記念祭が催されるそうだ。
ラウトリンゲン城も訪れてみたいものだ。
写真は村の中心(写真の右中央に)に立つラウトリンゲン城 -
Schloss Lautlingenラウトリンゲン城
D-72459 Albstadt-Lautlingen
http://www.hpmelle.de/stauffenberg/index.html
<英雄クラウス・フォン・シュタウフェンベルグ伯爵一家の歴史>
父Alfred Schenk Graf von Stauffenberg(1860〜1936)アルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵はドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国(ドイツ南西部)ラウトリンゲンの領主、ヴュルテンベルク国軍の少佐であった。
また1908年からはヴュルテンベルク国王ヴィルヘルム2世のシュトゥットガルトの宮殿で侍従長として仕えた。この為、一家はその時期、シュトゥットガルトで暮らした。
母Caroline(geb. Graefin von Uexkuell-Gyllenband ・1875〜1957)カロリーネはオーストリア・ハンガリー帝国陸軍中佐Alfred Richard August Graf von Uexkuell-Gyllenbandアルフレート・リヒャルト・アウグスト・フォン・ユクスキュル・ギレンバント伯爵の娘であり、1904年5月30日にアルフレートと結婚した。
写真はラウトリンゲン城のシュタウフェンベルグ伯爵一家 -
カロリーネの母ヴァレリエの祖父はプロイセン参謀本部の創設者の一人であるプロイセン陸軍元帥・August Wilhelm Antonius Graf Neidhardt von Gneisenauナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウであった。
長閑な農村にある小さなラウトリンゲン城で、シュタウフェンベルグ伯爵とその兄弟(彼は男兄弟3人の3番目)が幼児期や、青少年時代を過ごした。
彼らが子供の頃に親しんだ場所は父の公邸があった王都シュトゥットガルト、ラウトリンゲン城、またイェッティンゲン城(既述)、アーメルディンゲン城、グライフェンシュタイン城(既述)といった親族の居城である。
写真は1942年夏の休暇で、子供たちと遊ぶニーナ夫人 -
クラウスは1907年11月15日に双子として生まれた。双子の弟Konradコンラートが生まれて直ぐ死んだ為、二組の四人兄弟のクラウス本人は三男になる。
兄に1905年3月15日生まれのBertholdベルトルトとAlexanderアレクサンダーの双子がいる。
23歳の誕生日・1930年11月15日にNina Freiin von Lerchenfeldニーナ・フォン・レルヒェンフェルト男爵令嬢と婚約した。
彼女の父Gustav Freiherr von Lerchenfeldグスタフ・フォン・レルヒェンフェルト男爵はかつてバイエルン王家の侍従長だった人で、クラウスが所属する第17騎兵連隊(バイエルン・バンベルク)の将校をよく持て成していたと云う。その縁で二人は知り合うことになった。
1933年9月に連隊勤務地のバンベルクで挙式した。
写真は1933年の夏、バンベルクの家のガルテンテラスで婚約中のNinaニーナとクラウス -
妻ニーナとの間に5人の子供をもうけた。
長男Bertholdベルトルト、次男Heimeranハイメラン、三男Franz-Ludwigフランツ・ルートヴィヒ、長女Valerieヴァレリエ、次女Konstanzeコンスタンツェである。
(次女はクラウスの刑死後、収容所で生まれた)。
写真はニーナ夫人 -
彼は大学では文学を志したが、結局、軍人の道を選んだ。
ヒトラー政権下で起こった、ユダヤ人襲撃事件(1938年11月の「水晶の夜」)でのナチスの行為を嫌悪し、ユダヤ人政策と宗教弾圧に反感をもったと云う。
1944年7月20日に起きたドイツ国防軍将校による、ヒトラー暗殺事件;その指揮を執ったシュタウフェンベルク大佐の“爆弾による暗殺”は様々な要因から、爆発したものの、ヒトラーは軽傷を負っただけで、失敗に終わった。
この為、ワルキューレ作戦によるクーダター計画も殆ど為すことなく事件は終焉した。
事件後のヒトラー派による、弾圧は激しく、暗殺に関わった軍関係者などは徹底的に糾明され、日付が替わった7月21日、大佐ら首謀者4名は早々と銃殺刑に処せられた。
写真は一族の紋章 -
事件後、ナチス政府の憎しみは抵抗者の中でも特に貴族に向い、その憎しみが最も向けられたのがシュタウフェンベルク伯爵家であった。
内務大臣ハインリヒ・ヒムラーは「シュタウフェンベルク伯爵家は一人残らず根絶やしにせねばならない」と言ったと云う。
伯爵家の財産は全て接収され、シュタウフェンベルクを名乗ることまで禁じられた。
“反逆者”シュタウフェンベルクの夫人とその長男ベルトルトは敗戦までの間、強制収容所に入れられ、幼かった子どもたちは児童施設に収容されている。
ニーナ夫人は8月17日に子供たちと切り離され、クラウスの母であるカロリーネと共に、Konzentrationslager Ravensbrueckラーフェンスブリュック強制収容所(ドイツ東部・メクレンブルク地方Fuerstenbergフュルステンベルク市の近くにあった)に収容された。
ニーナ夫人は当時身重で、1945年1月に末娘・次女コンスタンツェを出産した。
子供たちはBad Sachsaバート・ザクサ(ゲッティンゲンから東に50km、ハルツの南部)にあったナチスの養護施設に送られ、再教育を受けた。
1945年4月にバート・ザクサはアメリカ軍により解放され、8月になって漸くニーナ夫人は子供たちと再会できた。
写真はシュタウフェンベルグ伯爵一族累代の居城・ラウトリンゲン城 -
厳しい時代を生き延びたニーナ夫人は大佐の分まで更に長生きし、余生をおくっていたドイツ南部Bambergバンベルクの北30kmのKirchlauterキルヒラウターで、2006年4月2日に92歳で死去した。
彼女の生涯はドイツ語の表現でしばしばDie starke Frau Nina Schenk Graefin von Stauffenberg毅然とした(精神の強い)ニーナ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人と称されている。
写真は2003 年ニーナ夫人の90歳の誕生日に43名の子孫が参集した。
(下フランケン地方Kirchlauterキルヒラウターで) -
長男Berthold Maria Schenk Graf von Stauffenbergベルトルト・マリア・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は後にドイツ連邦軍の陸軍大将に進んだ。三男フランツ・ルートヴィヒはドイツ議会及び欧州議会の議員となった。
収容所で生まれた次女Konstanze von Schulthess-Rechbergコンスタンツェ・フォン・シュルテス‐レヒベルクは1965年以来チューリッヒに在住する。
2008年に母ニーナの伝記を出版し、ドイツでベストセラーとなった。
写真はニーナ夫人の墓碑 -
第二次大戦後の1970年、シュタウフェンベルグ家はラウトリンゲンの村に城を売却し、現在はAlbstadtアルプシュタットの町(ラウトリンゲンは町の一地域)所有になっている。
ここにシュタウフェンベルグ礼拝堂が作られ、今も毎年7月20日(ワルキューレ作戦:ヒトラー暗殺実行作戦の日)には記念祭が催されるそうだ。
写真は礼拝堂前で行われる記念祭の様子 -
写真はStauffenbergKapelleシュタウフェンベルグ礼拝堂内・Gedenktafel記念碑 1
(ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯とクラウス・フォン・
シュタウフェンベルグ伯爵兄弟の記念碑である。) -
写真はStauffenbergKapelleシュタウフェンベルグ礼拝堂内・Gedenktafel記念碑 2
(ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯とクラウス・フォン・
シュタウフェンベルグ伯爵兄弟の記念碑である。) -
写真はStauffenbergKapelleシュタウフェンベルグ礼拝堂
-
現在、Schloss Lautlingenラウトリンゲン城には、古くからの城主であったシュタウフェンベルク家を記念して、二階に“シュタウフェンベルクの部屋”が設けられている。
2007年11月15日以来、かつての村の役所の部屋であった場所にクラウス・フォン・シュタウフェンベルグ伯爵生誕100周年を記念して、その展示室が開設された。
そこにはヒトラー暗殺計画であるOperation ”Walkuere”ワルキューレ作戦(1944年7月20日)や、厳しい状況置かれてきた家族の歴史などが展示されている。
写真は現在のラウトリンゲン城 -
<シュタウフェンベルグ伯爵一族の起源とその支配>
シュタウフェンベルクのシェンク家は代々カトリック教徒であり、ドイツ南西部のシュヴェービッシュ地方の古くからの騎士領主・貴族の一門であったと云う。
Stauffenbergシュタウフェンベルク家の歴史は13世紀のシュヴァーベンに遡る。同地を統治していたGraf von Zollernツォレルン伯爵家に仕えていた貴族がSchenk シェンク「給仕!(酒をつぐ人)」に任じられたのを機に「シェンク」を代々の家族名にしたことに始まる。
この家は苗字を様々に名乗ったが、その一つに“シュタウフェンベルク”があった。これはシュヴァーベンの山の名前から取ったものであった。
15世紀末にSchenk von Stauffenbergシェンク・フォン・シュタウフェンベルクが永続的な家名となった。
12世紀にシュタウフェンベルクの騎士が城を築城し、1262年にシュタウフェンベルクのシェンク家は初めて貴族に列した。後、1317年に初めて、男爵を名乗った。
その居城であったBurg Stauffenberg シュタウフェンベルク城はプロイセン王やドイツ皇帝を輩出したBurg Hohenzollern bei Hechingenホーエンツォレルン城(ヘヒンゲン)からも良く見える場所にあったと云う。
写真はBambergバンベルク旧市庁舎の顕彰碑と集まり -
中世の頃、騎士たちはネッカー川から黒い森にかけた地方の支配を争い、Tierbergティアーベルクの騎士領主はMargrethausenマルクレットハウゼンおよびLautlingenラウトリンゲンの町々を治下に置いた。
1550年にはそれらの地はWesterstetten‐Drackensteinヴェスターシュテッテン・ドラッケンシュタイン家の騎士の領地になった。
その後、1625年にまだ小さな騎士団であったSchenken von Stauffenbergシュタウフェンベルク家のシェンケンが、ラウトリンゲンの地を継承した。
写真はSchloss Jettingenイェッティンゲン城(既述)
Schloss Jettingen イェッティンゲン城
D-71131 Jettingen-Scheppach 、Schlossstrasse 6
http://de.wikipedia.org/wiki/Schloss_Jettingen
1907年11月15日、この城で Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンケ・シュタウフェンベルク伯爵*(ヒトラー暗殺に関与したとして銃殺)が生まれた。
彼の母は出産の際に偶々、ここに滞在していたと云う。 -
シュタウフェンベルク家の栄進は、1698年に神聖ローマ皇帝レオポルト1世によりFreiherr男爵の世襲爵位を授与されたのに始まる。その後、シュタウフェンベルク男爵家の家系は四流に分かれた。
そのうち二流は18世紀中に断絶し、Wilflingenヴィルフリンゲンを所領とするシュタウフェンベルク男爵家と、Amerdingenアーメルディンゲンを所領とするシュタウフェンベルク男爵家の二流のみが残った。
写真はSchloss Wilflingenヴィルフリンゲン城
Schloss Wilflingenヴィルフリンゲン城
Franz Schenk Freiherr von Stauffenberg
D-88515 Wilflingen
http://www.schloss-wilflingen.de/ -
1791年にはヴィルフリンゲンを所領とするシュタウフェンベルク男爵家が皇帝レオポルト2世からReichsgraf帝国伯爵に叙されたものの、この帝国伯爵家は1833年に絶えている。結局、アーメルディンゲンを支配したシュタウフェンベルク男爵家のみが残った事になる。同男爵家はアーメルディンゲンに加えて、17世紀と18世紀にGreifensteinグライフェンシュタイン、Jettingenイェッティンゲン、Lautlingenラウトリンゲンなどを所領としていった。
アーメルディンゲン・シュタウフェンベルク家のFranz Ludwig Philipp Schenk von Stauffenbergフランツ・ルートヴィヒ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクは、1874年にバイエルン国王ルートヴィヒ2世からGraf伯爵の世襲爵位を授与された。
以降フランツ・ルートヴィヒの子孫のシュタウフェンベルク家は伯爵家となった。
写真はSchloss Amerdingenアーメルディンゲン城
Staufenberg Schloss Amerdingenアーメルディンゲン城
D-86735 Amerdingen im Landkreis Donau-Ries 、Graf-Stauffenberg-Str. 3
http://www.gemeinde-amerdingen.de/schloss.htm -
フランツ・ルートヴィヒの長男はクレメンスである。そしてクレメンスの次男にあたるのが、クラウスの父であるアルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵であった。アルフレートはシュタウフェンベルク家の所領のうち、ヴュルテンベルク王国領に属するラウトリンゲンを所領としていた。
写真はRisstissen Schloss Stauffenbergリスシュティッセン城
Risstissen Schloss Stauffenbergリスシュティッセン城
D-89584 Ehingen Donau Risstissen
http://www.schloss-stauffenberg.com/ -
1874年、Grafグラーフ(伯爵)を名乗るが、ワルキューレ作戦の実行者として知られたクラウス・フォン・シュタウフェンベルグ伯爵以外では、
歴史上、その名を知られた者は、
1686〜1693年の間、『バンベルクの領主司教』であったMarquard Sebastian Schenk von Stauffenbergマーカード・セバスチャン・シェンク・シュタウフェンベルクと、
1704〜1740年の間、『コンスタンスの大司教』であったJohann Franz Schenk von Stauffenbergヨハン・フランツ・シェンク・シュタウフェンベルク、
それに1871〜1892年の間、帝国議会議員であったFranz Schenk von Stauffenbergフランツ・シェンク・シュタウフェンベルクである。
写真はStauffenbergschloss Geislingen ガイスリンゲン城(bei Balingen ・Zollernalbkreis)
Stauffenbergschloss Geislingenガイスリンゲン城(Geislinger Wasserschloss水城)
Geislingen (bei Balingen ・Zollernalbkreis)
http://www.stadt-geislingen.de/2444_DEU_WWW.php -
一族の支配地はバイエルン王国とヴュルテンベルク王国の一部にあり、
Schloss Jettingenイェッティンゲン城*、
Schloss Wilflingenヴィルフリンゲン城、
Schloss Amerdingenアーメルディンゲン城、
Risstissen Schloss Stauffenbergリスシュティッセン城、
Schloss Lautlingenラウトリンゲン城、
Stauffenbergschloss Geislingen ガイスリンゲン城(bei Balingen ・Zollernalbkreis)、
Schloss Greifensteinグライフェンシュタイン城*(フレンキッシェ・シュヴァイツ地方)等の居城である。
*印は既に訪問した城である。
写真はSchloss Greifensteinグライフェンシュタイン城(既述)
Schloss Greifensteinグライフェンシュタイン城
D-91332 Heiligenstadt
http://www.schloss-greifenstein.de/
この城はDie Burgenstrasse古城街道 ・Fraenkische Schweizフランケンのスイスの古城群のひとつで、ハイリゲンシュタッド郊外の小高い丘に立っている。
この300年を越える歴史を持つ、Grafen von Stauffenberg伯爵家の城は、現在も城主の末裔が住むものである。かつての城主の甥Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンク・シュタウフェンベルク伯爵がヒットラー暗殺未遂事件の実行者となった。 -
以上、Wik・各地、各城のHP等を参考資料にヒットラー暗殺未遂事件の実行者となったクラウス・シェンク・シュタウフェンベルク伯爵、その家族・一族、関係者、一族の居城について書いて見ました。
お立ち寄りと、ご興味を持ってお読み頂きありがとうございました。
(2014年4月8日)
写真はアーメルディンゲンにあるホテル(朝食のみ)シュタウフェンベルク伯爵
Gaestehaus (Hotel garni) Graf Stauffenberg
Alfred Graf von Stauffenberg
D-86735 Amerdingen (Schwaben) 、Graf-Stauffenberg-Str. 3
http://www.jaegerhof-grafstauffenberg.de/
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この旅行記へのコメント (2)
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- utamiumiuさん 2014/04/11 14:09:55
- jijidarumaさん素晴らしい旅行記というか歴史記をありがとうございました。
- 読みいってしまいました。
よくぞここまでお調べになったものだと感心、そしておそらく、資料はドイツ語であったと思われますが、私にも分かるように翻訳してくださって感謝です。
最後のAmerdingenのお城のガストホフ、泊まってみたいですね。
シュットットガルトから2時間ほどのところなんですね。DBサイトでさっそく
検索して夢見ています。
住所からするとRathausと同じなので晩ごはんを食べに行くのにもさほど不便じゃないかもしれないなどと想像してしまいました。
素敵なお話と旅行記をありがとうございました。
- jijidarumaさん からの返信 2014/04/11 17:25:47
- jijidarumaさん素晴らしい旅行記というか歴史記をありがとうございました。
- Utaさん
シュタウフェンベルグ伯爵に関するシリーズ4編をお読み頂き、また、ご投票もありがとうございます。
趣味人の日記にさらに加えて、掲載してみました。少々ダブった部分もありますが、文章の流れでは止むなかったと思います。
纏めてみれば、私の旅行資料にもなりました。
Amerdingenのお城のガストホフ、実は旅の途中で1泊したBurg Katzenstein
猫城・・・城内中庭に車を乗り入れ、狭くて動きが取れなくなり、パニックになった古城ホテル・・・の直ぐ東数kmの場所にあるガストホフでした。
当時はこのあたりに古城の印がありましたが、気にもしませんでした。
分かっていれば、足を伸ばした事でしょう。
シュタイフの本社工場のあるGiengenギ―ンゲンからも北東にあたりますが、少々辺鄙で、残念ながら私の地図では鉄道の線路は見当たりませんよ。
jijidaruma
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