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水戸藩第9代目藩主徳川斉昭(烈公)が城域の一隅に開講した藩校弘道館があります。<br /><br /><br />現地で入手したパンフレットには次のように記載されています。<br /><br />『旧水戸藩の藩校である弘道館は、徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策の一つとして開設されました。<br />弘道館建学の精神は、天保9年(1838)に斉昭の名で公表された「弘道館記」に「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示されています。<br />弘道館は、天保12年(1841)8月に仮開設式が挙行され、さらに15年余の年月を要し、安政4年(1857)5月に本開設式の日をを迎えました。<br />弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で卒業はありませんでした。学問と武芸の両方が重視され、文館では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武館では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多様な科目が教えられていました。<br />その後、幕末の動乱期を経て、明治5年(1872)の「学制」発布により弘道館は閉鎖され、県庁舎や学校の仮校舎として使用されました。<br />幾度の戦火を免れた正門、正庁及び至善堂は、昭和39年(1964)に国の重要文化財に指定され、往時の姿を今に伝えています。』<br /><br /><br />現代で言えば総合大学にあたり、文武両道を教育方針としていますから剣道・馬術といった武道の他人文科学、社会科学から医学、天文学等の自然科学に至るまで広く学問が行われていましたので斉昭公の教育に対する考えは並々ならぬものがあったと窺えます。<br /><br />自分が訪問した時期は天候悪く小雨の中を歩きましたが当所でも東日本震災による被害を受けて、例えば正庁の玄関側面の壁は崩落しておりまして被害は甚大であったようです。<br />通常は至善堂は入館可能ですが被害の影響により庭周辺のみの開放に限定されていました。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

常陸水戸  藩士とその子弟が学び学問と武芸の両方が重視された第9代水戸藩主徳川斉昭が開講した『弘道館』訪問

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2012/02/07 - 2012/02/07

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滝山氏照

滝山氏照さん

水戸藩第9代目藩主徳川斉昭(烈公)が城域の一隅に開講した藩校弘道館があります。


現地で入手したパンフレットには次のように記載されています。

『旧水戸藩の藩校である弘道館は、徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策の一つとして開設されました。
弘道館建学の精神は、天保9年(1838)に斉昭の名で公表された「弘道館記」に「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示されています。
弘道館は、天保12年(1841)8月に仮開設式が挙行され、さらに15年余の年月を要し、安政4年(1857)5月に本開設式の日をを迎えました。
弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で卒業はありませんでした。学問と武芸の両方が重視され、文館では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武館では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多様な科目が教えられていました。
その後、幕末の動乱期を経て、明治5年(1872)の「学制」発布により弘道館は閉鎖され、県庁舎や学校の仮校舎として使用されました。
幾度の戦火を免れた正門、正庁及び至善堂は、昭和39年(1964)に国の重要文化財に指定され、往時の姿を今に伝えています。』


現代で言えば総合大学にあたり、文武両道を教育方針としていますから剣道・馬術といった武道の他人文科学、社会科学から医学、天文学等の自然科学に至るまで広く学問が行われていましたので斉昭公の教育に対する考えは並々ならぬものがあったと窺えます。

自分が訪問した時期は天候悪く小雨の中を歩きましたが当所でも東日本震災による被害を受けて、例えば正庁の玄関側面の壁は崩落しておりまして被害は甚大であったようです。
通常は至善堂は入館可能ですが被害の影響により庭周辺のみの開放に限定されていました。






交通手段
JR特急 徒歩
  • 徳川斉昭公像<br /><br />【藩主就任と藩政改革の推進】<br />徳川斉昭(烈公・れっこう)は、寛政12年(1800)第七代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸の小石川藩邸に生まれ、30歳で藩主に就任しました。就任後すぐに藩政の改革に取り組み、倹約の徹底、群生の改革と追鳥狩(おいとりがり)の実施、藩内総検地、弘道館と偕楽園の造成、定府制の廃止などの諸政策を3推進します(天保の改革)。<br /><br />【再び藩政へ】<br />斉昭の謹慎は、士民の雪冤(無実を明らかにすること)運動により半年後には解かれますが、藩政への参与が許されてのは5年後の嘉永2年(1849)のことでした。嘉永6年のペリ−来航を機に斉昭は海防参与として幕政に参加、藩内においても那珂湊に反射炉を築造し大砲を鋳造するなど軍備の充実に力を注ぎました。(安政の大獄)<br /><br />【激動の中での最期】<br />安政5年(1858)、将軍継嗣問題と日米修好通商条約をめぐり、斉昭は再び幕府の処分を受けます。将軍継嗣問題では、斉昭の七男で一橋家の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ・のちの第十五代将軍)を推す一橋家と、紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派との対立が表面化していました。<br />南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)は、大老にう就任すると条約に調印し、徳川家茂(いえもち・慶福)が第十四代将軍となりました。<br />直弼の断行に強く反対した斉昭や尊攘派の志士たちは、安政の大獄と呼ばれる弾圧や処分をうけ、安政6年(1859)8月、斉昭は水戸城に永蟄居(終身刑)を命じられました。<br />翌万延元年(1860)3月、桜田門外の変。同年8月、斉昭は水戸城内で死去、烈公とおくりなされ、水戸徳川家歴代の墓瑞龍山(常陸太田市)に葬られました。(パンフレット)<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    徳川斉昭公像

    【藩主就任と藩政改革の推進】
    徳川斉昭(烈公・れっこう)は、寛政12年(1800)第七代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸の小石川藩邸に生まれ、30歳で藩主に就任しました。就任後すぐに藩政の改革に取り組み、倹約の徹底、群生の改革と追鳥狩(おいとりがり)の実施、藩内総検地、弘道館と偕楽園の造成、定府制の廃止などの諸政策を3推進します(天保の改革)。

    【再び藩政へ】
    斉昭の謹慎は、士民の雪冤(無実を明らかにすること)運動により半年後には解かれますが、藩政への参与が許されてのは5年後の嘉永2年(1849)のことでした。嘉永6年のペリ−来航を機に斉昭は海防参与として幕政に参加、藩内においても那珂湊に反射炉を築造し大砲を鋳造するなど軍備の充実に力を注ぎました。(安政の大獄)

    【激動の中での最期】
    安政5年(1858)、将軍継嗣問題と日米修好通商条約をめぐり、斉昭は再び幕府の処分を受けます。将軍継嗣問題では、斉昭の七男で一橋家の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ・のちの第十五代将軍)を推す一橋家と、紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派との対立が表面化していました。
    南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)は、大老にう就任すると条約に調印し、徳川家茂(いえもち・慶福)が第十四代将軍となりました。
    直弼の断行に強く反対した斉昭や尊攘派の志士たちは、安政の大獄と呼ばれる弾圧や処分をうけ、安政6年(1859)8月、斉昭は水戸城に永蟄居(終身刑)を命じられました。
    翌万延元年(1860)3月、桜田門外の変。同年8月、斉昭は水戸城内で死去、烈公とおくりなされ、水戸徳川家歴代の墓瑞龍山(常陸太田市)に葬られました。(パンフレット)






  • 弘道館全景

    弘道館全景

  • 「徳川慶喜向学の地」石碑

    「徳川慶喜向学の地」石碑

  • 部分公開案内板<br /><br />東日本大震災の被害により部分公開となっています。

    部分公開案内板

    東日本大震災の被害により部分公開となっています。

  • 弘道館・正門

    イチオシ

    弘道館・正門

  • 旧弘道館・石碑

    旧弘道館・石碑

  • 弘道館・見取図

    弘道館・見取図

  • 弘道館・左近桜<br /><br />斉昭公夫人が水戸家に降下される折、仁孝天皇から桜の鉢植えを賜り、弘道館創設時に植樹されたものでありますが、長い年月を経たため枯朽してしまい、昭和38年修復工事を完了したのを記念して縁の桜の苗を宮内庁からいただき再び植えたものです。(説明板)

    弘道館・左近桜

    斉昭公夫人が水戸家に降下される折、仁孝天皇から桜の鉢植えを賜り、弘道館創設時に植樹されたものでありますが、長い年月を経たため枯朽してしまい、昭和38年修復工事を完了したのを記念して縁の桜の苗を宮内庁からいただき再び植えたものです。(説明板)

  • 弘道館・庭園一部

    弘道館・庭園一部

  • 弘道館・玄関<br /><br />東日本大震災の被害を受けて壁面が剥げ落ちていまして入場できない状態です。<br /><br />

    イチオシ

    弘道館・玄関

    東日本大震災の被害を受けて壁面が剥げ落ちていまして入場できない状態です。

  • 弘道館・玄関内部<br /><br />大震災の影響で玄関内部も損傷が見られます。

    弘道館・玄関内部

    大震災の影響で玄関内部も損傷が見られます。

  • 弘道館・梅林<br /><br />弘道館の庭には梅林がありますがまだまだ寒く開花には至りません。

    弘道館・梅林

    弘道館の庭には梅林がありますがまだまだ寒く開花には至りません。

  • 弘道館・対試場<br /><br />武術の試験が行われていた場所です。藩主や重臣は正庁・正席の間から試験の様子をご覧になりました。藩校当時、隣接する水戸市立三の丸小学校の敷地には武館が建っていました。(説明板)

    弘道館・対試場

    武術の試験が行われていた場所です。藩主や重臣は正庁・正席の間から試験の様子をご覧になりました。藩校当時、隣接する水戸市立三の丸小学校の敷地には武館が建っていました。(説明板)

  • 弘道館・至善堂(しぜんどう)<br /><br />藩主の休息所や諸公子の勉学場所として使用されました。徳川慶喜もここで学びました。(説明板)

    弘道館・至善堂(しぜんどう)

    藩主の休息所や諸公子の勉学場所として使用されました。徳川慶喜もここで学びました。(説明板)

  • 弘道館・至善堂<br /><br />第15代将軍徳川慶喜が幼い頃に学び、大政奉還後の明治元年に謹慎した場所です。(説明板)

    弘道館・至善堂

    第15代将軍徳川慶喜が幼い頃に学び、大政奉還後の明治元年に謹慎した場所です。(説明板)

  • 弘道館・徳川慶喜長持

    弘道館・徳川慶喜長持

  • 弘道館・井戸<br /><br />藩校当時この近くに「お台所」がありこの井戸が使われていました。(井戸屋形は復元)(説明板)

    弘道館・井戸

    藩校当時この近くに「お台所」がありこの井戸が使われていました。(井戸屋形は復元)(説明板)

  • 徳川斉昭夫人の歌碑

    徳川斉昭夫人の歌碑

  • 弘道館外観<br /><br />手入れの行届いた柵が整然と並んでいます。

    弘道館外観

    手入れの行届いた柵が整然と並んでいます。

  • 水戸市立三の丸小学校<br /><br />藩校当時は武館が三棟あり、一棟は撃剣場で一刀流、水府流、神道無念流の道場、一棟は槍術道場で宝蔵院流二派と佐分利流の道場、一棟は居合、柔術・長刀などの稽古場でした。(説明板)

    水戸市立三の丸小学校

    藩校当時は武館が三棟あり、一棟は撃剣場で一刀流、水府流、神道無念流の道場、一棟は槍術道場で宝蔵院流二派と佐分利流の道場、一棟は居合、柔術・長刀などの稽古場でした。(説明板)

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