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JR常磐線水戸駅から徒歩約10分、戦国時代には関東北部から東北南部にかけて打ち続く戦乱に勝抜き、全国統一した豊臣秀吉の時代では秀吉の意向を得て本拠を常陸太田から水戸に移し、更にその勢力を常陸国南部まで拡大した源氏の流れをくむ佐竹氏の本拠、そして徳川時代では徳川御三家の一つで天下の副将軍と言わしめた徳川光圀が生まれた水戸藩の水戸城(みとじょう、茨城県水戸市三の丸)を訪問しました。<br /><br />地勢的には北部に那珂川そして南部に広がっている千波湖(ちばこ)を天然の堀とした「馬の背」のような台地に水戸城は建てられ、しかも本丸と二の丸の間の空堀、二の丸と三の丸の間の空堀の大パノラマはそれぞれ印象的です。現在では前者はJR水郡線の軌道となっており、後者は県道232号となってそれぞれの橋から眼下を見渡しますと堀の深さを強く感じさせます。<br /><br />意外と知られていない事は常陸国の名門佐竹氏が水戸城を拠点とした期間が短期間(1590~1602)であったことです。<br /><br />それまでの佐竹氏は県北の常陸太田を本拠とし県北から福島県南部に至る広域を所領とし、会津若松の葦名氏家督相続に義重の実子を送り込むなどして影響力を高めていました。<br /><br />天正18年(1890)豊臣秀吉の小田原征伐の際、義重・義宣(よしのり)親子は秀吉方に参陣した結果秀吉から常陸一国を与えられ、北条側に与した江戸重通(えど・しげみち)の籠もる馬場城を攻め文禄3年(1594)遂に重通を追放、従前の太田城から馬場城に拠点を移し、城名を水戸城に改めます。<br /><br />常陸国一国を秀吉から与えられた佐竹氏ですが同時に関東へ転封された徳川家康をけん制する役割を果たす事になりますが、秀吉没後は石田三成と同調する中、慶長7年(1602)関ケ原の戦いでの曖昧な態度を戦後しばらくして咎められ、上洛中の義宣は家康より突然出羽国への国替えを命ぜられ、禄高の明示もないまま秋田・仙北へ転封と異例の処置となりました。<br /><br />突然の国替は、関ケ原の戦いで家康追撃に関する上杉景勝との密約が発覚したとの理由ですが、家康とすれば江戸から極めて近い佐竹氏は合戦に参加していないだけに佐竹氏及びその周辺の無傷の軍勢の存在が極めて脅威であり何かの理由をつけて江戸から遠ざけたかったと言うのが本意ではなかったのではないかと考えられます。<br /><br />さすがに領域の広さには驚かされますが、水戸駅から近いこともあり城跡は文教地区となっている為大部分が校舎(水戸第一高、水戸第三高、付属小学校、付属幼稚園)等に限定されています。<br /><br />そのためかひじょうに落着いた雰囲気ですが、遺跡らしきものは深い堀と所々に見られる大型土塁程度で城郭が目立たなくお城ファンとしてはいささか物足りなさが残ります。<br /><br /><br />現場の説明板には下記の通り記述されています。<br /><br />「水戸城は平安時代末期頃、常陸大掾(だいじょう)平国香(たいらのくにか)の子孫馬場資幹(ばばすけもと)がこの地(現水戸一高)に館を構えた事に始まり、後に常陸大掾となって石岡(府中)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏などが栄えました。<br />15世紀の始め(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房(えどみちふさ)が馬場氏を追放し、代わって居城しました。<br />それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学附属小、水戸ニ中、水戸三高)を築くなど城郭を拡張して約160余年間水戸地方を支配しましたが太田地方を本拠地とする常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は天正18年(1590)秀吉の小田原城攻の功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠しました。<br />こうして54万余石を領する佐竹義宣(さたけよしのり)の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移されてた商人によって栄えました。<br />ところが秀吉の死後、義宣は石田三成と結んで徳川家康に効したため、慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去りました。<br />その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられましたが、慶長14年(1609)に第11子頼房が藩主(25万石、第三代綱条の時から35万石)となってから代々その子孫が継ぎました。<br />頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の堀と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川家御三家として幕府を助けましたが、第二代光圀以来尊王の学風を興して、天下の大勢を導き、明治維新の源流を開きました。」<br /><br />

常陸水戸 清和源氏の流れをくむ名門佐竹氏が常陸太田から遷都後城郭を整備改修し家康時代には徳川御三家の居城となった『水戸城』訪問

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2012/02/07 - 2012/02/07

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR常磐線水戸駅から徒歩約10分、戦国時代には関東北部から東北南部にかけて打ち続く戦乱に勝抜き、全国統一した豊臣秀吉の時代では秀吉の意向を得て本拠を常陸太田から水戸に移し、更にその勢力を常陸国南部まで拡大した源氏の流れをくむ佐竹氏の本拠、そして徳川時代では徳川御三家の一つで天下の副将軍と言わしめた徳川光圀が生まれた水戸藩の水戸城(みとじょう、茨城県水戸市三の丸)を訪問しました。

地勢的には北部に那珂川そして南部に広がっている千波湖(ちばこ)を天然の堀とした「馬の背」のような台地に水戸城は建てられ、しかも本丸と二の丸の間の空堀、二の丸と三の丸の間の空堀の大パノラマはそれぞれ印象的です。現在では前者はJR水郡線の軌道となっており、後者は県道232号となってそれぞれの橋から眼下を見渡しますと堀の深さを強く感じさせます。

意外と知られていない事は常陸国の名門佐竹氏が水戸城を拠点とした期間が短期間(1590~1602)であったことです。

それまでの佐竹氏は県北の常陸太田を本拠とし県北から福島県南部に至る広域を所領とし、会津若松の葦名氏家督相続に義重の実子を送り込むなどして影響力を高めていました。

天正18年(1890)豊臣秀吉の小田原征伐の際、義重・義宣(よしのり)親子は秀吉方に参陣した結果秀吉から常陸一国を与えられ、北条側に与した江戸重通(えど・しげみち)の籠もる馬場城を攻め文禄3年(1594)遂に重通を追放、従前の太田城から馬場城に拠点を移し、城名を水戸城に改めます。

常陸国一国を秀吉から与えられた佐竹氏ですが同時に関東へ転封された徳川家康をけん制する役割を果たす事になりますが、秀吉没後は石田三成と同調する中、慶長7年(1602)関ケ原の戦いでの曖昧な態度を戦後しばらくして咎められ、上洛中の義宣は家康より突然出羽国への国替えを命ぜられ、禄高の明示もないまま秋田・仙北へ転封と異例の処置となりました。

突然の国替は、関ケ原の戦いで家康追撃に関する上杉景勝との密約が発覚したとの理由ですが、家康とすれば江戸から極めて近い佐竹氏は合戦に参加していないだけに佐竹氏及びその周辺の無傷の軍勢の存在が極めて脅威であり何かの理由をつけて江戸から遠ざけたかったと言うのが本意ではなかったのではないかと考えられます。

さすがに領域の広さには驚かされますが、水戸駅から近いこともあり城跡は文教地区となっている為大部分が校舎(水戸第一高、水戸第三高、付属小学校、付属幼稚園)等に限定されています。

そのためかひじょうに落着いた雰囲気ですが、遺跡らしきものは深い堀と所々に見られる大型土塁程度で城郭が目立たなくお城ファンとしてはいささか物足りなさが残ります。


現場の説明板には下記の通り記述されています。

「水戸城は平安時代末期頃、常陸大掾(だいじょう)平国香(たいらのくにか)の子孫馬場資幹(ばばすけもと)がこの地(現水戸一高)に館を構えた事に始まり、後に常陸大掾となって石岡(府中)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏などが栄えました。
15世紀の始め(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房(えどみちふさ)が馬場氏を追放し、代わって居城しました。
それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学附属小、水戸ニ中、水戸三高)を築くなど城郭を拡張して約160余年間水戸地方を支配しましたが太田地方を本拠地とする常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は天正18年(1590)秀吉の小田原城攻の功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠しました。
こうして54万余石を領する佐竹義宣(さたけよしのり)の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移されてた商人によって栄えました。
ところが秀吉の死後、義宣は石田三成と結んで徳川家康に効したため、慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去りました。
その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられましたが、慶長14年(1609)に第11子頼房が藩主(25万石、第三代綱条の時から35万石)となってから代々その子孫が継ぎました。
頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の堀と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川家御三家として幕府を助けましたが、第二代光圀以来尊王の学風を興して、天下の大勢を導き、明治維新の源流を開きました。」

交通手段
JR特急 徒歩

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  • 水戸城跡通り<br /><br />深い空堀の向かいが本丸跡です。

    水戸城跡通り

    深い空堀の向かいが本丸跡です。

  • 急峻な本丸跡

    急峻な本丸跡

  • 水戸一高<br /><br />二の丸から橋を渡りますと県立水戸一高があり、その一角に「旧水戸城薬医門」があります。

    水戸一高

    二の丸から橋を渡りますと県立水戸一高があり、その一角に「旧水戸城薬医門」があります。

  • JR水郡線<br /><br />橋の下はJR水郡線(水戸ー郡山)の軌道です。本丸と二の丸を分ける空堀にあたります。

    JR水郡線

    橋の下はJR水郡線(水戸ー郡山)の軌道です。本丸と二の丸を分ける空堀にあたります。

  • 水戸一高正門<br /><br />水戸城本丸跡地に水戸一高が建てられました。画面の向こうに薬医門の屋根が見られます。

    水戸一高正門

    水戸城本丸跡地に水戸一高が建てられました。画面の向こうに薬医門の屋根が見られます。

  • 本丸土塁<br /><br />所々に土塁が残されています。

    本丸土塁

    所々に土塁が残されています。

  • 本丸跡<br /><br />(金属板が反射して記載事項が読み取れません)

    本丸跡

    (金属板が反射して記載事項が読み取れません)

  • 水戸城薬医門<br /><br />水戸城跡の現存する唯一の建造物です。建立の時期は構造や技法からみて安土・桃山時代と推定されます。おそらく佐竹氏の時代(1591~1602)に創建され、徳川氏に引継がれたものと思われます。(説明板)

    イチオシ

    水戸城薬医門

    水戸城跡の現存する唯一の建造物です。建立の時期は構造や技法からみて安土・桃山時代と推定されます。おそらく佐竹氏の時代(1591~1602)に創建され、徳川氏に引継がれたものと思われます。(説明板)

  • 薬医門

    薬医門

  • 薬医門

    薬医門

  • 水戸城跡の大シイ<br /><br />戦国時代から自生していたと伝えられ樹齢は約400年と推定されています。

    水戸城跡の大シイ

    戦国時代から自生していたと伝えられ樹齢は約400年と推定されています。

  • 水戸城御殿・中門跡<br /><br />

    水戸城御殿・中門跡

  • 水戸城三階櫓跡

    水戸城三階櫓跡

  • 「大日本史編纂の地」石碑

    「大日本史編纂の地」石碑

  • 水戸彰考館跡<br /><br />光圀は大日本史を編集した彰考館ははじめは江戸の藩邸内にありましたが、光圀が隠居したため、元禄11年(1698)この地に移されました。しかし光圀が没した後130年間は江戸・水戸の両館に分かれて分担編集し、幕末に再びここに戻り、明治維新後は偕楽園南隅に移って明治39年(1906)に全てが完成しました。(案内板)

    水戸彰考館跡

    光圀は大日本史を編集した彰考館ははじめは江戸の藩邸内にありましたが、光圀が隠居したため、元禄11年(1698)この地に移されました。しかし光圀が没した後130年間は江戸・水戸の両館に分かれて分担編集し、幕末に再びここに戻り、明治維新後は偕楽園南隅に移って明治39年(1906)に全てが完成しました。(案内板)

  • 頼房公像<br /><br />大きな土塁を背景に家康の11番目の子、初代水戸藩主の頼房公の像が配置されています。

    頼房公像

    大きな土塁を背景に家康の11番目の子、初代水戸藩主の頼房公の像が配置されています。

  • 大手門跡<br /><br />大手橋に接する2階造りの大手門は佐竹義宣が慶長6年(1601)に建てたものですが、徳川時代に入っても水戸城への入口として使用されました。

    大手門跡

    大手橋に接する2階造りの大手門は佐竹義宣が慶長6年(1601)に建てたものですが、徳川時代に入っても水戸城への入口として使用されました。

  • 土塁<br /><br />大手門付近の大きな土塁が散見されます。

    イチオシ

    土塁

    大手門付近の大きな土塁が散見されます。

  • 大手橋<br /><br />佐竹氏による城郭拡張により二の丸・三の丸が築かれた際この堀に架けられた橋を、頼房が改修しその名を大手橋としました。

    大手橋

    佐竹氏による城郭拡張により二の丸・三の丸が築かれた際この堀に架けられた橋を、頼房が改修しその名を大手橋としました。

  • 大手橋下道路<br /><br />二の丸と三の丸の間には空堀はご覧の通り県道となっています。<br /><br />

    大手橋下道路

    二の丸と三の丸の間には空堀はご覧の通り県道となっています。

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