2012/02/07 - 2012/02/07
376位(同エリア842件中)
滝山氏照さん
JR常磐線水戸駅北口より徒歩約5分の地に水戸黄門神社(みとこうもじんじや、茨城県水戸市三の丸)がこじんまりと立っています。
水戸観光協会のパンフレットによれば詳細は下記の通りです。
『 徳川光圀(とくがわみつくに・1628~1700)は寛永5年(1628)、水戸藩初代藩主頼房(よりふさ)公の三男として側室お久の方を母に生まれ、幼名を長丸といいました。
頼房公は大勢の男の子の中から長丸を世継ぎと決めました。長丸は文武に秀でて情が深く、人の上に立つ力量を備えていました。世継ぎになってから名を千代松と改め、7歳のとき江戸城に登り、当時の将軍家光公に拝謁しました。
寛永13年(1636)9歳の時、江戸城内で将軍家光公立会いの下、元服し家光公の一文字をいただいて光国と名乗るようになりました。
寛文元年(1661)父頼房公が亡くなり、34歳で第二代目藩主の座に就いた光圀公は民政に力をいれ、勤農政策を実施、藩職制の整備、教育の振興等、善政を施し、数々の大事業を行いました。
中でも学問に情熱を注ぎ、特に歴史に深い関心をいだき、全国から優れた学者を集め「大日本史」の編纂に努めたことは特筆されます。
元禄3年(1690)、家督を兄頼重の子綱条に譲り、その翌年から太田郷西山荘に居を移し、自ら西山隠士と名乗って悠々自適の生活を送り、元禄13年(1700)、72歳の生涯を終えました。
名誉の誉れ高く、民治面での事績の多い事でも知られており、これが後に「この葵の紋所がが目に入らぬか!」と切り出して悪人を懲らしめる江戸時代のスーパーマン「水戸黄門漫遊記」の元となったのです。』(水戸観光協会)
名前は大きいですが神社の規模は小さいです。
天下の副将軍と言われた人物ですが出生に関しては最初から望まれて生まれたのではないとされていたようです。
父親頼房公の指名により継嗣となりますが、晩年光圀は家督を兄の頼重の子に譲るところは光圀の器量の大きさを感じます。
- 交通手段
- JR特急 徒歩
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