2001/01/01 - 2010/12/01
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A_KASAIさん
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洛東 生まれたところである。
小学校の6年生になるまでを過ごした。まだ誰もが京都に観光に来るような時代ではない。
京都は京都人のものだった。
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京都を俯瞰する。子供のころを京都で過ごした人間ならば一度は登ったことのある大文字山。
御所と糺の森がわかれば、後は地図を重ねてみる。ずいぶん北へ広がってしまったものだ。上終町は本当に市街の北のはずれだったのだが。 -
上終町から上は洛北と言っても良いだろう。畑が続く田舎だった。1960年代のはじめごろまで白川通りのバスは別当町が終点。その先はバスが通れる道ではなかった。
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瓜生山を削って大きな校舎を建てた大学は元は洋裁学校だった。白川通りも高度成長モータリゼーションとともに姿を変えてきた。
今のようにマンションだらけになる少し前。少しずつ通り沿いに洒落た店が出来だしたころ。non-noが創刊されたころの雰囲気が一番良かった。
フルーツパーラー「コヤマ」「クリオコージのコーヒー館」・・みんなもう無い。 -
銀閣寺道に昔からあるお店。
立ち寄って「かまそば」を頼む。昔は最初から山椒が入っていて独特の風味が良かった。今は別においてあるが・・。
目印だった釜の提灯が無くなった。 -
席に着く前に、背もたれを注意深く見てほしい。絵が描かれている。
周辺の名所を描いたものだが、箸袋もここの主によるものらしい。大文字山の昔の姿、立派な松林であったころが思い起こされる。 -
ご馳走様。ずっとここでやっていてほしい店である。
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関雪桜も染井吉野だから寿命が近くなっている。すでに市の手で何本か切られている。通行に危険だからと言う理由だったが、新聞を賑わせたと記憶する。
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銀閣寺道、まだ友達の家が沢山あるはずである。町内が大文字を守っている。
昔はこれほどは観光客がくることもなかった。八神社のお祭りの時は他の神社と違い白川の近くまで店が出ていたように思う。 -
哲学の道などと名前をつけて、整備されたのは30年位前のことか?
それ以前からも桜はきれいだったしわれわれの遊び場だった。
疎水から山のほう、法然院までは笹薮があって遊び場には困らなかった。
法然院の鐘が鳴ると急いで家に帰らねばしかられた。 -
私は家で生まれた。お産婆さんとは小学生になっても出会い「大きくなったね」と言われるのがこそばかった。
そんな家から、まっすぐ東に行った疎水沿いの家。当時のままである。
玄関の脇に洋風をくっつけて、応接間にする。日本によくあるプランである。 -
町内の集会所、今でも昔と同じようにお地蔵さんと一緒にある。
昔の地蔵盆は盛大だった。子供たちも沢山いた。 -
公園の近く、昔は駄菓子屋だった。今でも面影は見て取れる。
前に自転車が並び子供たちがたむろしていた。 -
この町並みも昔のままである。洋風なのはなんだったろうか??
床屋だったかな。 床屋は以外に沢山あって、近辺でも3軒くらいあった。
一番清潔そうな店に行かされた。 本当は終わるとチョコレートをくれるという店に行きたかったのだが。 -
白川通りを渡った反対側、馬場公園。最近まで知らなかったが、戦前からある児童公園なのだ。銘板は右からの表記になっている。
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後輩らしいのが遊んでいる。もう孫と言っても良い世代だ。
こんな狭いところでよく野球なんかやっていたなあ。 -
このあたりのお風呂屋さんはまだ残っている。
錦林車庫の洛東湯。 -
京都は路地の町、 ろーじ と発音する。
下手すると、よそんちの中を通ったりするが、たいていどこかに抜けられる。
珍しい舗装の無いろーじが残っていた。 -
一人通り抜けるのがやっと。 お彼岸やお盆には読経の声が聞こえたり、線香の香りがしたり。
夕餉のにおいがしたり、 人の生きている香りがする暖かい町であってほしい。 -
錦林車庫から西へ坂を上ると、真如堂:真正極楽寺。子供のころお寺はみんな遊び場であった。法然院でも真如堂でも永観堂でも・・南禅寺でも。お寺が住まいという友達も沢山いた。塔頭の子供やら、お寺に間借りしている家庭も沢山あったのだ。
真如堂の塔頭のご住職とはパソコンが縁で知り合い。小学校の後輩であることもあって良く立ち寄る。 -
初夏のころ、日陰を求めて、本堂で涼ませてもらったり。
桜のあと、新緑のころが素晴らしく、種々の花も楽しめる。 -
萩が咲き始めると秋はすぐそこ。はぎは写真になりにくい。絢爛豪華でないものほど愛おしく心に響くものが・・。歳のせいなのか。
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お隣は 萩の寺と呼ばれているようだが、この土塀は昔から変わらない。
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11月から12月にかけて、絢爛豪華な紅葉の季節。
境内も人でいっぱいになるが、お参りする人が少ないのが悩みの種か??
見せていただくのだ、せめて本堂に上がり心を鎮めて南無阿弥陀佛と唱えるくらいのことは。 -
グラデーションの時期も素晴らしい、また本堂の裏では散ってからの紅葉も素晴らしい。
年によって紅葉もいろいろ。色づき始めから散り終わるまで1ヶ月近く通わねばすべての美しさは知れぬらしい。 -
墓所から鐘楼と塔を見る。共に子供のころ遊び場にしていたところだ。
子供時代より墓所のほうが近くなった。いつごろから変わらぬ景色なのだろうか。たぶんこの景色はこれから先も変わることは無い様に思う。 -
同じ神楽岡に茂庵をたずねる。吉田山にこんなものがあることすら知らなかった。 子供のころ、法然院あたりから眺める神楽岡には銅版葺きの住宅が整然と並び、(今でもそうなのだろう、見えるとこは少なくなったが)あんな山の上に住むのは大変だろうと思ったが、棲んで見たい所のひとつだ。
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昔は、数寄者の所有であったものだが、今の成金と違って昔の金持ちは文化人でもあった。少なくとも文化に対するパトロンであった。
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時計を外し、仕事を忘れ、 静かに緑の中を流れる時間を感じるとき人間にとって重要なものとは何か、考えることが出来よう。
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吉田神社は節分である。
寒い中、雪が降ると東の参道に藁が敷かれ青竹で滑り止めが作られる。人の往来で雪が融けぬかるむ。凍える足で竹中稲荷の前から下りに向かうと、夜店の明かりが飛び込んでくる。わくわくする一瞬であった。
年越し蕎麦をテントで食べる。地におこされた炭火にあたり。ほっとする。
春はもうすぐである。 -
吉田神道の元締めだ、いろんな神様が集まる。料理の神様。お菓子の神様。
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西の参道。京都大学の前を遠慮せず店が並ぶ。
売っているものも昔とはすっかり変わってしまった。沢山出ていた「おたふくあめ」は見えない。 -
ろーじを歩く。角を曲がった先に何が見つかるだろうか。どこに抜けるだろうか・・。
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昔からある不動産屋さんだ。どんな物件を扱うのだろうか?佇まいからすれば、地上げなどとは無縁で、近所のいろんな斡旋をしていそうだが・・。
本当のところはわからない。 -
洛中との境目に残るJAZZ喫茶店。昔とは変わってしまった。
音盤も古くなったのかノイズが目立つが、今でもジャズをかけ続けている。
あのころの闘士はどうなったのだろうか。すでに年老いて闘争を・・。
現状を憂いていることは間違いなかろう。しかし、いかに成すべきかは?
戦後派のジレンマか。
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この旅行記へのコメント (1)
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- 義臣さん 2012/01/31 17:46:36
- 懐かしい
- 懐かしいお店をここで見られるなって
まさに驚き
あのプレーヤー スピーカー アンプ、、思い出します 夢みたいです
もう一度行ってみようかな
義臣
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