2010/01 - 2010/01
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ドクターキムルさん
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玉縄城は永正9年(1512年)北条早雲により築かれ、代々北条一門が城主となった。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出す事が可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。
徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信の居城となり、その後は水野正忠に預けられるが、元和の一国一城令により元和5年(1619年)に廃城となった。玉縄城は100年余り維持された。
以来300年余りが経ち、昭和38年(1963年)に清泉女学院中学高等学校が城跡に移転して、その多くが破却された。破壊を免れた遺構としては、城の最高部であったと言われる土塁「諏訪壇」がある程度になっている。幕末と明治期の遺跡しか重点的に残さなかった横浜市域にさえも、これと同じ時期に廃城となった北条一門の城跡が各地に打ち捨てられてあり、小机城址、茅ヶ崎城址、荏田城址、榎木城址などが知られているが、それでもここ玉縄城址よりは残りが良いと思う。今、玉縄城址の保存運動があるようだが、ここまで破壊された城址の保存運動は理解に苦しむ。むしろ、城跡に建つ女子校が存続している限り「諏訪壇」を含め、現状のままで維持されよう。
玉縄城址界隈の町では玉縄桜の植樹に力を入れているようだ。むしろ、こちらの方が現実的な町起こしになろうか。
(表紙写真は清泉女学院中学高等学校グランドの小屋)
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龍宝寺。
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諏訪・御霊神社。
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市立植木小学校。
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城山裾の大型マンション。
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玉縄随道。
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大型マンションは清泉女学院中学高等学校の坂道脇にあるのだ。
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大型マンション。
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「玉縄城址」石碑(大正15年 1月、鎌倉同人会)。清泉女学院中学高等学校正門横にある。学校事務所で入場許可書に記入すると見学できる。
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「諏訪壇」へ登る階段。この下に石碑が建っている。
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「諏訪壇」上。女竹の藪になってり、広さはテニスコート3面分くらいあろうか。
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「諏訪壇」上。
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「諏訪壇」上。
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「諏訪壇」上。
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「諏訪壇」上。
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「諏訪壇」上の道。
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「諏訪壇」の空堀跡。
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「諏訪壇」から降りる階段。
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「諏訪壇」の空堀跡。
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「諏訪壇」から降りる階段。
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かつての土塁跡か。法面の草は綺麗に刈られている。
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グランド下の法面の草は刈られている。かつての土塁跡か。
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グランド下から住宅地の道路への階段は閉められている。
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グランド下の法面の草は綺麗に刈られている。かつての土塁跡か。
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校内「諏訪壇」横。
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「諏訪壇」の空堀跡。
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清泉女学院中学高等学校グランド。
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清泉女学院中学高等学校校門前のタンポポ。
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清泉女学院中学高等学校校門前のタンポポ。
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玉縄随道。
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歩道の街路樹の玉縄桜。早咲きの桜だそうだ。
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歩道の街路樹の玉縄桜。
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玉縄城の土塁。
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咲くコスモスの花?
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コーナンを過ぎたコンビニから長い坂を上ると「陣屋坂もず公園」が。城下に陣屋などあるだろうか?玉縄城廃城後に由来する地名であろう。
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庚申塚に建つ庚申塔。
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庚申塚に建つ庚申塔。
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「玉縄城址」石碑(昭和31年3月、鎌倉友青会)。庚申塔は街道筋に建っているものだ。庚申塚に城址石碑はないだろう。場違いで、全く不要な石碑だ。
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清泉女学院中学高等学校グランド下から近道して降りる山道。
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この山道は「七曲坂」と名が付いているようだ。下水道管を埋めただけの戦後・昭和の代物か。コンクリートの階段もある。
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やはり、崖にはやぐらが見える。
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「玉縄城址緑地保全地区」の看板。七曲坂あたりは開発はされないのだ。
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