2008/02/23 - 2008/02/26
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瑞樹さん
市電に乗り、平和公園へとやってきました。
長崎の平和公園は、【願いのゾーン】【祈りのゾーン】【学びのゾーン】【スポーツのゾーン】【広場のゾーン】という特徴のある公園。
こんなにも、各国から贈られた像が沢山あるとはしりませんでした。
その願いの通り、皆が行動していれば平和な筈なんですが…。
ここにも居たにゃんこたちが、のんびりと生きていける世の中が続きますように。
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平和公園へやって来ました。
東地区の記念像地区、原爆落下中心地地区、長崎原爆資料館地区と、西地区の「スポーツのゾーン」、「広場のゾーン」を含む総合公園で面積は17.9ha。 -
結構、マンホールの絵とか土地柄が現れているところも多いですよね。
これはマンホールではありませんが、可愛いので撮ってみました。 -
「原爆殉難教え子と教師の像」が建っています。
1982年8月3日建立、同年10月15日に寄贈されました。
作者は富永直樹氏、碑文碑名書者は松竹太虚氏。
碑文はこちら。
昭和二十年八月九日。原子爆弾の却火とすさまじい爆風は、一瞬にして長崎 の北部一帯を廃墟と化し、十四万有余の市民を殺傷した。さながら地獄のごとき様相は、 核兵器の恐るべき脅威を示すものであった。この日家にいた国民学校児童五千八百余、 報国隊として工場に出動していた千九百余の生徒たちは、百有余の教師と共に即死、ま たは放射能によりつぎつぎと尊い生命を奪われた。
都市を経るに従い、この悲惨な事実が忘れ去られることは忍び難く、県内外の教職員 及び有志の協力により、亡きみ霊の安らかならんことを祈念し、再びかかる惨禍をく り返さぬことを誓い、ここにこの像を建立するものである。
昭和57年8月3日
(右側石柱の文字) 人の命が尊ばれますように
(左側石柱の文字) 世界が平和でありますように -
あっ、こっちにも可愛い絵が。
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セントポール市の花、クローカスのタイル。
セントポール市と長崎市の姉妹都市提携のきっかけは、米国ではヨーロッパいて、第二次世界大戦被災地への支援や市民の交流を通じた民主主義や自由主義の発展を目指そうとの機運が高まっていました。
そんな中、日本との姉妹都市提携の話が持ち上がり、ニューヨークの日本国連協会代表ウイリアム・ヒューズ氏(日系二世を夫人に持つ親日家)が原爆被爆から復興し、平和都市への道を歩んでいた長崎市とセントポール市の提携を斡旋。その後国連事務局が両市に勧誘状を出したからだそうです。
姉妹都市提携日は、 1955年12月7日。
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原爆死没者追悼平和祈念館のスリット型トップライト。
この平和祈念館は、原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律第41条の規定に基づいて、原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記し、 恒久の平和を祈念するための施設として、被爆地である長崎・広島に設置するものです。 -
あ、「アンネの形見のバラ」がありました。
この薔薇はアンネを偲んで、ベルギーで栽培された四季咲きの香り高いもの。レーヴ・ド・カプリ(Reve de Capri)とシャントクレア(Shanteclerc)という薔薇
が元になっているそうです。
どんな花が咲くのか見てみたいです。 -
山の手前には、沢山の建物が建っています。
あの時は、一面焼け野原だったなんて信じられないくらいです…。 -
長崎原爆資料館へ着きました。
さるくちゃんがこんなところにも。
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時間を掛けて、出来るだけ丁寧に見学してきました。
あの、焼き場の前で幼い弟を背負って唇をかみ締めた少年の、凛とした姿が忘れられません。
後日テレビで、その写真を撮ったアメリカ従軍カメラマンも放射能による後遺症に悩まされたことを知りました。
彼は長くトランクに封印してきたナガサキの写真をある時取り出し、これを世に広めなくては、と思いたったそうです。
「原爆投下は正しかった」とするアメリカの中では、そんな写真の展覧会さえままならず、彼の家には嫌がらせの電話や手紙も沢山あったそうです。
現在は息子さんがその遺志を継いでいます。 -
祈念館の主な機能は「平和祈念・死没者追悼」「被爆関連資料・情報の収集及び利用」 「国際協力及び交流」があり、「平和祈念・死没者追悼」は両祈念館共通の機能と位置付け、長崎は「国際協力及び交流」を、 広島は「被爆関連資料・情報の収集及び利用」をそれぞれの特徴とし、 相互に協力、連携していくことだそうです。
なるほど、広島も行きましたがそういう違いがあったのですね。 -
1945年8月9日のあの日、水を飲みたくて飲みたくて、苦しんだ人も大勢いたんでしょうね…。
今のこの静かな水面が、いつまでも続くといいです。 -
被爆したツツジ。
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長崎にふりそでの少女像をつくる会によって1996年3月31日設置された「未来を生きる子ら」。
高さ3.1m幅2.2m。
印象的な文章があったので、そのまま転載します。
未来を信じ、未来に生きる若者として、戦火の中で傷つき苦しめられたアジアの人々に、 そして、平和を愛し戦争のない世界を願うすべての人々にこの像を捧げたい。
戦後50年の春、「悲しき別れ一荼毘」に描かれた少女の一人、福留美奈子ちゃんの 母、志なさん(93才 京都府綾部市在住)の、「長崎に平和を祈るお地蔵さんをたてたい。」 という願いをつづった一通の手紙が綾部中学校生徒会に届いた。原爆にわが子を奪われた母 の思いを祈り鶴に込めて、ヒロシマへ修学旅行に行く私たちに託し続けてこられたおばあち ゃん。過去の歴史と現実について学んできた私たちの胸に、おばあちゃんの願いは強く響いた。 その願いをかなえたいと、中高生の仲間、父母、先生、地域の人々が集まり「長崎にふりそで の少女像をつくる会」が生まれ、募金活動が始まった。「像をつくって終わるのではなく、そ こから世界へ平和を考える輪を広げたい。」そんな私たちの思いに共感して下さった全国の方 々の支援と、像制作にたずさわった多くの方々の熱意と努力によって、像は完成した。核兵器 のない自由で平和な世界を願い、ナガサキから世界の青空へと舞い上がる二人の少女によって 人々の思いは一つに結ばれた。
この像がつくられた道のりこそ、平和な未来をつくる真実の道だと私たちは確信する。
1996年3月31日 長崎にふりそでの少女像をつくる会
悲しき別れ一荼毘
けが人や死体には驚かないようになっていた私が、忘れ得ない情景を見たのは8月19日のこと でした。爆心地より約4km、滑石の打坂というところの畑の中で、2人の少女が積み上げられた木材の上に寝かせてありました。
10歳前後で、私は姉妹であろうと思っておりました。
あの頃 見たこともない立派な着物を2人とも着ており、先ずその着物のあまりの美しさに私は我を忘れて見とれていました。
顔をみるとどこにも傷の跡は見られず、薄化粧がしてあり、その顔の美しさにも息をのんで見ました。死んではじめて着せられた晴着、死んではじめてされた化粧、周囲 の心遣いが逆に何とも哀れでなりませんでした。何と悲しいことであろうかと思いました。私に とっては強烈に印象に残った情景であり、その悲しい物語を残そうと、あの時とても美しい着物 は表現できませんでしたが、29年後1枚の絵に描きました。
松添 博 -
一番左は被爆40周年を迎え、この貴重な事業を多くの人びとに伝え、更に平和運動の輪が広がることを祈って、長崎青年団が長崎・広島両市青年の平和運動の輪を広げるため、1985年8月9日に建立した「平和」。
真ん中は長崎県俳句協会が1961年8月建立(1988年6月20日移転)した「原爆句碑」。碑は縦1.8m横1.03m奥行0.48m、台座は縦0.4m横1.85m奥行1.25m。
なにもかもなくした手に四枚の爆死証明
松尾あつゆき
凍焦土種火のごとく家灯る
下村ひろし
原爆忌の氷塊となり挽き切らる
久保田翠
厚葉夜は垂れて爆土のアマリリス
島田輝子
蝉籠に蝉の眼のあり原爆忌
柳原天風子
雲暑しわが籍ける草死者の花
田原千暉
原爆の日の?にむせびけり
山口半染草
武器つくるけむりが原爆忌の夜雲
隈治人
弯曲し火傷し爆心地のマラソン
金子兜太
原爆忌戸口をおそう海の太陽
芝生南天
枯れる向日葵被爆の僕に種こぼす
井川清澄
夕焼雀砂あび砂に死の記憶
穴井太
木の陰になってしまいましたが一番右は「長崎之原爆詩碑」。
長崎の原爆
原爆炸列天地轟く崎陽満目猛烟生ず。大厦楼瞬時に砕け山崩れ海翻り鉄塔傾く
須臾にして焔々大火起こり焦頭爛躯累々として横たわる
夫は妻を喚び妻は子を覓む阿鼻叫喚修羅の声
八万の生霊恨みを呑んで死す噫原爆の大犠牲
文化の悪用人類を滅ぼす平和の鐘何の時にか鳴らん
松口月城
1992年9月3日ライオンズクラブによって設置されました。
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1987年8月1日長崎平和の母子像を建てる会によって設置された「平和の母子像」。
長崎平和の母子像の会作、全長4.3m 奥行2m 高さ2.6m
合金・黒御影石製。
それぞれの「あの日」を生きつづける女たちの、たぎる思いをひとつにあわせ、再び、あの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて、ここにこの像を建てる。
戦争も核兵器も許してはならない。命ある全てのものが生きる、この緑の大地を、地球を守ろう。
あれから四十余年、いま第二の核戦争へとシグナルは点滅し、地球は破滅の渕にある。
ああ、あの閃光の下で、幾万もの男女、無数の母と子が灼かれ、ひき裂かれ息絶えた。
男たちが戦場に向かったとき、女たちもまた勝利を祈った。しかし、広大な大陸や、はるかな海の島々では、数知れない人々の血が流されていった。そして遂に一九四五年、沖縄での惨劇についで、八月六日広島、九日長崎への非道な原子爆弾攻撃に至った。
一九八七年 八月一日
長崎平和の母子像を建てる会
と書いてあります。 -
1967年8月9日長崎平和の折り鶴会が原爆犠牲者慰霊、永遠の平和祈念して設置した「平和を祈る子」。
作者は中田秀和氏、台座 高さ4m、像 高さ2.5mの大理石製。
輝いていますように
明るく太陽が
いつも
世界の子供のうえに
なりひびかないように
二度と
大砲の音が
くりかえさないように
二度と
長崎の子供の悲しみを
すがって泣いた
母さんに
原子雲の下 -
千羽鶴に囲まれた「電気通信労働者原爆慰霊碑」。
1975年8月9日、被爆者支援基金一億円達成記念して設置されました。
高さ2m 幅4m 奥行5.6m 折鶴掛金物、黒御影石ブロンズとステンレス・パイプ製。
いのちの
かぎり
消えぬ
被爆の憎しみを
いかに
伝えむ
澄みし
この瞳に
と書かれています。
建立の経過は、下記の通り。
1973年8月5日全国電通被爆者協議会が結成され、その活動の一環として長崎市に 被爆30周年を記念した慰霊碑建立が決定され、「全国カンパ」がとりくまれた。
このカンパは全電通全国の組織、長崎県労評傘下労働団体及び長崎市はじめ長崎市内有志 の方々から寄せられ、30周年の1975年8月9日11時02分に建立除幕された。
慰霊碑は、三面の台座に炎を象形したブロンズをすえている。
三面の台座は一面が原爆犠牲者を、一面は平和を希求する電気通信労働者を、それに もう一面は戦争に連なる一切の行為を拒否し世界の恒久平和を願う市民を意味し、「平 和の炎」をしっかりとこの三者がかかげている姿を表しています。
碑文は、長崎電話局に勤務中、原爆の炸裂を体験した婦人が読んだ歌を採用したもの である。(全電通長崎県支部) -
ひときわ大きな「被爆50周年記念事業碑」。
長崎市出身の富永直樹氏作、21世紀にはばたく日本の未来を、偉大なる母の慈悲心と温かな母の胸で眠る傷心の子供の姿で表現しています。 -
原爆落下中心地碑。
昭和20年8月9日11時2分、原爆はこの公園の上空500mで爆発して一瞬のうちに15万人もの人々を殺傷しました。
これは倒壊した浦上天主堂の遺壁の一部。
長崎の人々は、彼らに降りかかった出来事を忘れまいと、浦上天主堂をそのまま保存しようとしていました。
しかし、その動きを推進していた当時の長崎市長は、アメリカへ行った後に態度を急変、一転して取り壊しの決断をします。
ここにアメリカの策略があったことは明白です。もしかして金銭的な援助が長崎にあり、それが助けになったかも知れませんが、残していれば広島の原爆ドームと共に負の世界遺産になったことは確実でしょう。 -
原爆落下中心碑の周りは、何だか厳粛な気持ちになります…。
この地の上空500メートルで炸裂した原爆は、一瞬のうちに多くの尊い人命を奪いました。
塔の前に置かれた原爆殉難者名奉安箱には原爆により爆死された方、被爆者でその後亡くなられた方々の氏名(複製)を奉安しています。 -
ここには、被爆当時の地層が残されています。
この写真では見辛いですが、茶碗やガラス瓶などが一瞬にして閉じ込められた様子が分かります。 -
こちらの写真のほうが分かりやすいでしょうか。
いくら想像しても、当時この地にいた人たちの状況は計り知れませんが、こうした地層は貴重です。 -
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植え込みの向こうに、SO○Y・WALKMANのCMを髣髴させるような(古い?)、なんとも良い表情の白猫がいました。
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公園内には、こんなステンドグラスの美しいお手洗いがありました。
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こちらはアルゼンチン共和国サンイシドロ市寄贈の「戦争に対する平和の勝利」。
設置は1996年3月25日、作者はサンイシドロ市のカルメン・アリオラ・デ・ マリンスクール。
高さ2.1m 幅1.72m 奥行き0.82m 700kgで球は青銅、ボックス部はステンレス・スチール製。
全世界の人々と「愛の文明」を築き上げるために、平和のメッセージを広めることを目的としたものです。
赤い球以外の部分は、戦争の混乱、紛争および死を表し、上部の赤い地球は、それに対する生命の勝利を表しています。
ボックスの上に乗る赤い玉が、平和とはあやういもの何だという気がしてきます。 -
冒頭に書いた、長崎市が日本で初めて姉妹都市提携を結んだセントポール市寄贈の「地球星座」。
七つの大陸を表す七人の人間で世界の平和と連帯を表し ています。
設置は1992年10月10日、作者はポール・グランランド氏、高さ1.83m 幅1.83m 400kg で青銅製。 -
仲の良いにゃんこ二匹。
こうした猫たちも、当時は犠牲になったのでしょうね。 -
これ好き!と思ったら、私の初海外渡航先であるトルコ共和国の、アンカラ市寄贈のものでした。
タイトルは「∞無限」。
トルコ共和国の首都アンカラ市から同国と日本の修好100 周年を記念して、寄贈されたもの。
男性と女性が手と手をつないでいる姿は、全人類の平和と協調を表し ています。
1991年3月23日設置、作者エシュベル・カラヤルチン氏、高さ2m 幅1.95m 奥行き0.15m 400kgで、鉄製。 -
平和の泉。
水を求めて亡くなった方々の霊を慰めるもの。
平和の象徴・鳩と鶴の羽を広げた形に水が上がっています。
正面にある黒い碑には「のどが乾いてたまりませんでした」という一文で始まる、当時9歳の少女が書いた手記が彫り込まれています。 -
ブルガリア人民共和国から同国の建国1300年を記念して寄贈された「Aコール」。
平和と調和を求めて闘う若者を表現しています。
設置1980年12月3日、作者はボリス・ゴンドフ氏、高さ3.4m 幅0.6m 奥行0.7m 400kgで、青銅製。 -
こちらは「太陽と鶴」、キューバ共和国寄贈。
円は太陽、原爆犠牲者の顔は戦争の悲惨さを表し、折鶴により平和の尊さを表現しています。
設置は1988年12月10日、作者ホセ・デララ氏、高さ2.15m (彫刻部分:直径6cm、厚さ10cm)でホワイトセメントとスチールパイプで造られています。 -
ブラジル連邦共和国寄贈の、「平和の碑」。
在伯ブラジル長崎県人会・在伯ブラジル広島県人会・佐伯ブラジル被爆者協会・在伯ブラジル相互協会の協力により、サントス市から寄贈されたものだそうです。
世界恒久平和を願うブラジル国民の心を表しています。
設置は1988年12月17日、高さ1.6m 幅1.6m 奥行き0.25m 1tで御影石製。 -
1975年11月建立の「戦災復興記念碑」。
ベンチに座る少年と少女は、永井隆博士の2人の遺児をモデルにしたそうです。
1946(昭和21)年9月、戦災復興計画基本方針に基づき、原爆で焼土と化した浦上一帯が復興土地区画整理区域に決定し、復興事業が始まりました。以来28年余の歳月を費やし、1975年2月に完了しました。
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こちらは僅か2年前の2006年10月21日にフィル・ゴフ軍縮・軍備管理大臣により除幕となった「クローク・オブ・ピース(平和のマント)」。
ニュージーランド政府、及びクライストチャーチ、ウェリントン、オークランド、ネイピア、ワイタケレ、ファカタネの6都市から長崎市に友好の証として寄贈されたものだそうです。
”マント”は平和な世界に身をゆだねる人々の一体感と、それらを包み込み、守るものを象徴しています。
作者はキングスリー・ビアード氏、高さ2.2m 幅3.8m 奥行1.8m 重さ500kgのステンレス製。 -
こちらは中華人民共和国(中国日中友好協会を通じて)から寄贈の「乙女の像」。
人類の平和と末長い日中友好を願う中国人民の真心を表わしています。
1985年7月16日設置、作者は曹大澂(ツァオ・タォ・ツォン)氏他、高さ3.2m 幅2.65m 奥行2.65m 27tで大理石製。
裏面には
一九八五年七月胡耀邦 (印)
百折千回心不退 (印)
と書かれているそうです。
(註 百折千回心不退の意味は 一九六一年中日友好協会の副会長趙樸初氏の言葉で、「百回の曲折があっても、心はかわらない」 という意味)
しかしまぁ、未だに言論・宗教の自由のない国なのに、しらじらしいというか…。
勿論、中国にも平和を願う人たちは大勢いるとは思いますが。 -
被爆当時、ここは長崎刑務所浦上刑務支所がありました。
爆心地からわずか200mの場所。
中国人・朝鮮人45名を含む、受刑者や看守とその家族134名全員が死亡しました。
こんなにも整備されたところなのに、こうして遺構が残っているのは凄いです。 -
長崎の鐘。
当時、被爆地には魚雷や戦車などを生産する多くの軍需工場があり、動員学徒、女性挺身隊と呼ばれた中学生や女学生をはじめ、多くの人々が働いていたそうです。
この長崎の鐘は、ここで亡くなった方々の冥福を祈るために、33回忌にあたる1977年に造られたものです。 -
こちらはドイツ民主共和国平和委員会が1981年に寄贈した諸国民友好の像。
平和と人類の幸せな未来、そして諸国民友好を求める努力を象徴する像です。
作者はゲルハルト・ロンメル氏、高さ3.4m、幅0.5m、奥行0.5mほど。砂岩製。 -
こちらは「人生の喜び」、今はなきチェコスロバキア社会主義共和国からの寄贈。
女性が男の子を両手で差し上げ、母親と子供の喜びを表現しています。
1980年8月26日に設置、作者ヤン・ハーナ氏、高さ2.4m、幅0.5m、奥行0.5mの青銅製。 -
こちらも今はなき、ソビエト社会主義共和国連邦寄贈の「平和」。
母親が子供を抱いた姿で、愛とともに平和を表現しています。
1985年6月1日設置、作者はアニクシン・ミハイル・コンスタンチノビチ氏、高さ2.5m 幅0.5m 奥行1.2m、2.5tで青銅製。
やっぱり母親と子供というのは平和っぽい感じなのでしょうか。
確かに、母親が無条件に子供を愛する気持ちが皆にあれば、平和は続く気がします。
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こちらはこのゾーンにある中では珍しい形の「生命と平和との花」、ポーランド人民共和国寄贈。
特に生命の再生・力強い躍動を象徴しており、人類が平和な世界で繁栄してほしいという願いを表現しています。
1986年8月2日設置、マリウス・クルパ氏作。
高さ2mの青銅製です。 -
ポルトガル国ポルト市から姉妹都市提携を記念して寄贈された「平和の記念碑」。
碑文には「姉妹都市長崎市の原爆犠牲者に対しポルト市より敬意を表して 1978年11月」と刻まれています。 設置は1980年3月31日。碑文の日付と設置に随分差がありますねぇ。
縦32cm横22cm厚さ4cmで碑部は縦130cm横80cm厚さ50cmの大理石製。 -
長崎市と姉妹都市であるオランダのミデルブルフ市から寄贈された「未来の世代を守る像」。
設置は1983年10月7日、作は者ペーター・ドゥ・ヨン氏、高さ0.8m 幅1m 奥行0.6m 160kgの青銅製。
母親が幼い子供を危険から守っている姿です。 世界の人々が共に平和に暮らすためには、次の世代を守ることが大切であることを表しています。
が、私には「平和」をイメージする像には感じられません。もう少し開放感のある像を想像してしまいます。 -
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この像は、余りにも有名ですね。
長崎の方々が「平和は長崎から」のスローガンのもとに世界の恒久平和を祈る象徴として、昭和30年に5年もの歳月と3千万円(寄附金)をかけて造られた青銅像。
像の高さは地上9.7m、重量30t、製作は郷土出身の日本芸術院会員北村西望氏だそうです。
「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」という意味があるそうです。知らなかった…。
そういえば、私が育ったところの近くにある県のスポーツセンターにもこの像がありました。
全国にあるのかな?
◆「ひとりさるく日記10」へつづく
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