2008/02/23 - 2008/02/23
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瑞樹さん
ひとりさるいていきた長崎も、夕方になりました。
でもまだまだ歩きます。今日は一日さるきっぱなし。
続いて大浦天主堂(私のPC、「大浦天主堂」って打とうとすると「覆うラテン主導」って出る…)とグラバー園に行きます。
大浦天主堂は、絶対に行くべき場所だと思いました。ここに長崎のキリシタンの歴史と真髄を見た気がします。
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来ました!
日本で唯一教会として国宝建築物に指定されている「日本26聖殉教者聖堂」、通称大浦天主堂です。
現存する日本最古の木造ゴシック様式の教会です。 -
1853年のペリー来航により二百余年間続いた日本の鎖国は終焉を迎え、1858年9月に締結された日仏通商条約では外国人のための礼拝堂建立が認められました。
大浦天主堂は、1864年12月、フランスのプチジャン神父によって建立されました。
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大浦天主堂創建から約1ヶ月後の3月17日、凡そ250年という長きに亘って、キリストへの厚い信仰を潜ませていた浦上の信徒達がやって来ました。
そして聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と囁いた後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねた。
プチジャン神父は大喜びで彼らをマリア像の前へ導いたのだそうです。
これが「信徒発見のマリア像」と呼ばれる聖母子像。 -
1596年10月、土佐浦戸に漂着したスペイン船サン・フェリッペ号の乗組員が、キリスト教の伝道によって領土が拡張しそれを誇ったことに憤慨した豊臣秀吉は、一旦は宣教活動を許したペドロ・バウチスタ神父を含む24人を京都・大阪で引き廻したうえ、同行の者を含む26人をここ長崎の地で磔の刑に処したのだそうです。
大浦天主堂は、その処刑が行なわれたという「西坂の丘」に向けて建てられました。 -
堂内は写真撮影禁止なので、上の三枚は購入した絵葉書を写したものです。
大浦天主堂は、その歴史がまざまざと感じられかくも一途な信徒たちの想いが詰まった場所です。建物自体も素晴らしいので、是非行ってみて下さい。
続いて隣の旧羅典神学校へ。 -
中には、キリシタン資料室として天主堂の資料も含め多くの展示物があります。
これは学校で必ず習う、あの「踏み絵」です。
うう〜何とも卑劣なことをしたものです。こういうのって、キリスト教徒でない私でも実物を見るとその痛みが理解できます。 -
そんな踏絵や寺詣での後には、この「オラショ」を唱えたそうです。
コンチリサンは、罪を悔い神の許しを求める祈りと心得を示したものだそうです。 -
これは「納戸神」。
長崎、外海、五島地方の「みほとけ(仏壇に祀ったマリア観音など)」に対し、生月では他人に覗かれない納戸に聖画像を隠し、決まった日にだけ座敷に祀ったものだそうです。
聖画は傷むと写し変える(=お洗濯する)ので、その度に聖画の持つシンボルが変化したり、髪形や着物などが土俗化したそうです。
確かに、かなり日本的というか中華的というか…。 -
展示物は、かなり興味深いです。
こんなに長い間、公に信徒を集めることもなく、様々な迫害を受けながら…その信心たるや驚くほかありません。
展示もさることながら、やはり建物も面白いです。 -
この木造三階建ての建物は、キリスト教禁令廃止を契機にプチジャン神父が日本人聖職者育成目的に設立したものです。
設計・施工はキリシタンの里として知られる外海地方の主任司祭、ド・ロ神父が手掛けたもので西欧建築技術がふんだんに導入された素朴で実用的な造り。 -
これは、公審判と人類の復活を描いたもの。
上はこんな風に穏やかですが、 -
下はこんなに怖ろしい。
かなり漫画チックです。
この旧羅典神学校を建てたド・ロ神父は、貴族の出でしたが、施設建設や事業のために私財を惜しみなく投じました。 -
フランスで身につけた農業・印刷・医療・土木・建築・工業などの技術を広く外海の人々に教え、また活かし、地域の貧困者や海難事故で未亡人となった女性をすすんで雇い、西洋式の機織や日本初のマカロニ製造工場でもある、そうめん工場を造り人々の宗教的指導者であるとともに、地域の経済的発展にも貢献しました。
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ここは土産物が売られているほか、”愛の殉教者” 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の展示もされていました。
その隣人愛は、私にはとても真似できないし確かに素晴らしいとは思いますが、果たしてその身替わりになられた人は幸福だったのでしょうか。
彼の家族との写真もありましたが…私なら、とても申し訳なくて普通には生きられない気がします。 -
さてここからグラバー園へと参ります。
旧羅典神学校からグラバー園へは、裏を通って直ぐです。 -
長い動く歩道からは、青い屋根の海星学園、赤い屋根の活水女子大学、その他東山手の洋風住宅などが見えます。
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先ず見えたのは、明治時代の水道共用栓。
長崎市の水道は1891年(明治24年)に創設されました。
当時は水道の殆どが街路に立てられた共用栓であり、市街水栓番が朝水を出し、夕方に止めに回っていたそうです。
大変ですね〜。 -
グラバー園は高台にあるので、こんな風に良く街が見えます。
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最初はここ、旧三菱第二ドックハウス。
明治29(1896)年、三菱重工長崎造船所第二ドックの側に建てられた洋館で、明治初期建築の典型的スタイルです。
当時は乗組員の休憩宿泊施設として利用されました。 -
近くには、外国人居留地の境界を示す碑と実際の石柱が建っています。
また、三菱で使用していた大きな錨もありました。 -
内部はこんな風に当時の部屋の様子が再現されていたり、
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唐人船やポルトガル船などの船の模型、
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当時使われていた船の計器などが展示されています。
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前には池や展望台が有りますが、是非建物の二階から外を眺めは最高♪
向こうに見えるのは、稲佐山かな〜? -
建物から出ると、高島流和砲がありました。
長崎が生んだ幕末の兵学者・砲術高島流の祖である高島秋帆の指導により、鉄砲鍛治の野川清造が製造した大砲だと云われています。 -
ここから水のある公園の様なところを通って行きます。
モザイクが面白いです。 -
次に見えたのは、旧長崎高等商業学校表門衛所。
この長崎高等商業学校は1905(明治38)年の創立で、東京、神戸に次ぐ古い歴史と伝統を誇り、1944(昭和19)年長崎経済専門学校、1949(昭和24)年長崎大学経済学部となって現在に至っています。
この表門衛所は、学校創立以来70年間約12000人もの若者たちの出入りを見つめてきたものです。
中を覗くと、障子と畳が見えました。 -
続いて、旧ウォーカー邸。何故か引きの写真しか撮っていませんでした(笑)。
この家の旧主は、日本の海運業界に多大な功績を残した英国出身の船長ロバート.N.ウォーカー氏の次男、ロバート・ウォーカー・ジュニアです。
彼は明治後期に建てられたと推測されるこの建物を1915年(大正4)に購入し、1958年に亡くなるまで居住していたそうです。 -
その後、妻のシゲコ・メーベルが母屋の一部を市に寄付し、1974年にグラバー園に移築されました。
ロバート・N・ウォーカー氏の兄、ウィルソンは1868年に来日し、グラバー商会の船長を努めました。
1874年(明治7)には郵便汽船三菱の監督船長に抜擢され、翌年日本初の国際定期航路(横浜・上海)開設に重要な役割を果たしました。 -
その後、日本郵船会社(NYK)に勤務し、横浜でトーマス・グラバー氏と共にジャパン・ブルワリー・カンパニー、後の麒麟麦酒(株)を設立します。
筆頭株主であるとともに同社の支配人も勤め、1894年、家族と共に長崎へ移り住み、南山手10番地でクリフ・ハウス・ホテルの経営を行いました。 -
ロバート・N・ウォーカーは1874年に来日。
1876年に日本政府より甲種船長の免許を受け、三菱系列及び日本郵船に勤務。退社後、一旦英国に帰国。
1898年に「R.N.ウォーカー商会」を設立し、海運業を中心に貿易に関する業務を幅広く展開。
また日本初の清涼飲料水会社「バンザイ炭酸水会社」を設立。
1908年、次男のロバート・ジュニアに会社を譲り、カナダに移住したそうです。 -
向かいに有ったのは、旧長崎地方裁判所長官舎。レトロ写真館になっています。
レトロな衣装がレンタル出来て、グラバーさんと記念撮影が出来ます。 -
レトロ写真館は10:00〜16:00、料金も30分500円です。
この日はもう時間を過ぎていたので、誰も居ませんでしたが、靴を脱いで中に入ることが出来ます。 -
レトロ写真館か旧ウォーカー邸の壁にあった模様。
十字です。 -
この壁泉は、キリシタン迫害による隠れキリシタンの苦悩と救いを象徴したものだそうです。
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おっと、こんな所にまでフリーメイソン・ロッジの門が!
ちょっとびっくり。
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