2008/02/23 - 2008/02/26
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瑞樹さん
「ひとりさるく日記2 もっと出島篇」のつづきです。
何にも予定を決めていないので、思うままにさるく私。お昼を食べて、どこへ行こうかな?
直ぐ近くに唐人屋敷跡があるようなので、行ってみることにします。
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- 一人旅
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- 徒歩
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出島を出たら、寒そうに丸まっているにゃんこが!
この後も沢山のにゃんこに出逢いました♪長崎は、猫好きには嬉しい街です。 -
少し歩くと、「長崎電話交換局之跡」の碑がひっそりと立っていました。
長崎で電話交換業務が開始されたのは、明治32年(1899)4月1日で、ここが九州最初の開局だったそうです。
交換業務は昼間は女性、夜間は男性が従事したが、明治36年(1903)には女性の交換手だけとなりニックネーム「紫式部(!)」(和服に紫の袴着用だったから)が職場の花として市民に人気だったそうです。 -
そろそろ14時に近付きつつあります。お腹も減ったので、新地の中華街へ行こうと思います。
橋の柵の模様が可愛い♪ -
おっ、こっちはいかにも中華!
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川沿いに歩いて行くと、新地橋です。
向こうのコンビニが、ちょっといただけないです。
新地は、江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために、海を埋め立ててできた街。
東西、南北あわせて約250mの十字路は、長崎市の姉妹都市である福建省の協力で出来た石畳。 -
北の玄武門。
中国との貿易が盛んに行われた元禄の頃、出島に住むオランダ人と同様中国人についても居留地が設けられました。
中華門は、新地中華街商店街振興組合の方々が横浜・神戸と並ぶ中華街に発展するよう願いを込めて、本場中国福州市から資材を取り寄せ、職人さんを招いて築造したものだそうです。 -
門をくぐって左側に「会楽園」を発見。
ここは、来る前にチェックしていた所の内のひとつでした。どうしようかな〜と思い少し他の店も見てみましたがJALカード特約店でマイルが多目に貯まるという言葉につられて、入ることにしました。 -
店内は2階もあって結構広いようです。
会楽園は、中国福建省出身の先代が昭和2年に創業したという老舗です。
店員さんがきびきびと動いていて、観光客をはじめとする大勢のお客さんを手際よく相手していました。 -
温まるものが食べたかったので、特製チャンポンを頼みました。普通のは735円で、特製は1,050円。麺の量は同じですが、具が違います。
肉団子や牡蠣、きくらげに豚肉、かまぼこ、もやし、イカ、キャベツ、などなど…具沢山です!
そしてこちらの麺は結構太い麺。スープは鶏ガラ70%・豚骨30%。
ラーメンなら断然細麺が好きですが、ここの麺は太くても余り気になりませんでした。スープとの相性が良いからかも。スープはコクがあってしつこくなく、結構好きな味でした。 -
そして!8時間かけて作られた東坡肉!
蘇東坡(1036-1101)正式には蘇軾とは「赤壁賦」の詩で有名な、唐宋八大家の一人。蘇東坡は大才の人で、詩や文章だけでなく書、画にも一級の作品を残しています。
彼は誰からも愛され、門人や領民に慕われていました。農民たちは感謝の意を込めて豚肉を献上しましたがその肉が多かったので、彼はこれを貯蔵し味をつけて煮込み、彼らに返したそうです。
農民たちは「東坡様の作った肉」→東坡肉として賞味したそうです。
それがこの東坡肉の始まりなんですね〜。
もう肉はとろっとろで勿論箸で切れるほどに柔らかいです。それからこのふわっふわ軽い生地が美味しい!とってもきめ細かくて、驚きです。 -
は〜満腹満腹。
中華って、タダでお茶が出てくるのが良いですね。
てくてく歩いていたら、あら、もう中華街を出てしまいました。中華街と云えば横浜を連想してしまう私は、あっけなくて少々拍子抜け。南門を出ます。 -
でも素敵な住人にも逢えました!
直ぐに寄って来てしまうので、なかなか写真が撮れませんでした。 -
直ぐ向かいは湊公園です。派手ですね〜。
ランタン祭りをやっていたからかな? -
直ぐに左に曲がると、おおっ、なかなか趣のあるお店です!
その名も「つりがね堂 」。薬局でした。 -
そのまま真っ直ぐ行くと、唐人屋敷跡。
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ちょっと昭和のにおいのする、いい感じの商店街があります。
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密貿易への対策として1688年(元禄元年)に十善寺郷幕府御薬園の土地に設けられた唐人屋敷。
周囲を練塀で囲み、その外側に水堀あるいは空堀、さらに外周には一定の空地を確保し、竹垣で囲うという念の入れようでした。 -
先ず最初に着いたのは土神堂。
元禄4年(1691)9月、土神の石殿を建立したいという唐船の船頭たちの願いが許され創立されたものでした。
天明4年(1784)の火事で焼失しましたが、唐三か寺(宗福寺・興福寺・福済寺)により復旧されました。その後も数度にわたり華僑たちによって改修、保存に努めてきましたが昭和25年(1950)に 老朽解体され石殿だけが残り、現在の建物は昭和52年(1977)に長崎市が復元したものです。
人が梯子に上っていますが…修理かな? -
これまたいい感じの銭湯が!
長崎って、銭湯が多い気がします。歴史のある街だからでしょうか。 -
この建物は、ちょっとした売店のある普通のお家かなと思いきや、一階と二階の間にしっかりピンクの中華が見えます。
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この辺りは、道も狭くて建物が迫ってくる感じです。
こんな道を歩いていると、自分がこの街に少しは近付けたような気がします。 -
素敵な煉瓦塀が見えてきました。天后堂です。
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天后堂は、元文元年(1736)に南京地方の人々が航海安全を祈願し、天后聖母をお祀りしたのがその起源です。寛政2年(1790)に修復されました。
これもランタンフェスティバルの残りでしょうか。可愛いです♪ -
「長崎名勝図絵」に因ると、門外左右の旗竿に天后聖母の字が書かれた紅旗が揚げられ風に翻っていました。
現在の建物は明治39年(1906)全国の華僑の寄付で建てられたものです。天后堂は関帝も併祀しており、別名関帝堂とも呼ばれています。 -
赤い蝋燭がたくさん。
天井からは、トリコロールカラーの紙が下げられていました。 -
向かいの公園では、子どもたちが遊んでいました。
外で遊ぶ子どもたちの姿を見るのは、何だか嬉しいですね〜。 -
再び街の中を歩いて行きます。
いい街並みですね〜。 -
背の低いアーチ型の門をくぐると、次に着いたは観音堂。
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「元文2年…」との瓢箪池の奥の石の刻字から1737年に建立されたと云われています。
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天明4年(1784)に焼失し、天明7年(1787)に再建されました。その後何度かの改修の後、大正6年(1917)当地在住の中国商人の鄭永超により改築されました。
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堂の右側には、ひっそりと煉瓦造りの金爐(神様へのお供えの紙で作った紙銭を燃やす炉)が建っています。
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長崎は”坂の街”ですが、ここ館内町も坂が多くこんな石垣も見えます。
また小さな階段で上下の敷地が結ばれていたりして、面白いです。 -
更に進んで行くと、煉瓦造りの大きな建物が見えてきました。
福建会館天后堂です。 -
展示スペースには唐人屋敷の歴史などが覗けるパネルや井戸があります。
休憩所としても使えるところが、嬉しいですね。
中には誰も居ませんでした〜。ひとりさるく私にとっては、この方が嬉しいです。 -
本堂へ行ってみると、お祭の時に使われる龍が丸まっていました。
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明治元年(1868)、福建省泉州出身者が八ビン会所を創設した際に同会所内に建設したものだそうです。
その後八ビン会所が福建会館と改称され、この天后堂も福建会館右側に新設されました。 -
屋根の上には、魚が見えます。
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おおっ、またにゃんこが。
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庭には孫文の銅像が立っていました。
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門をくぐって、福建会館を後にします。階段を下りていきます。
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最後は、唐人屋敷跡の碑。
ここは籠町、四海楼があった場所です。初代の陳平順が中国菜館兼旅館として創業し、”支那饂飩”のちの”ちゃんぽん”が生まれたところです。
これで唐人屋敷跡散策は終わり。次は何処へ行こうかな?
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