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<2005年4月30日(土)><br /><br /> 今年2005年のゴールデンウィークは、29日の金曜日、緑の日に始まりました。週休2日のサラリーマンなら、5月2日の月曜日と6日の金曜日に休暇をとれば、10日連続の大型連休となります。今回の旅行はその前半を利用しました。<br /><br /><慌しい出発><br /> 私の場合、4月22日から27日までの龍勝、桂林方面の中国旅行に出かけていましたから、間が2日だけの、少し慌しい出発となりました。今回も一緒に旅行をしたMuさんも、ラスベガスからの帰国直後となりました。<br /> インターネットで予約したアシアナ航空のOZ123便は9時30分の 出発でしたから、セントレアには2時間目の7時30分を目標に出かけました。中国旅行の時と同じように、今回も地下鉄で金山駅まで行き、そこからは名鉄電車にしました。<br /> アシアナ航空で料金を支払った時に、私のパソコン宛に送ってもらった予約内容を記載したハードコピーを持参しました。これで、問題なくチェックインを済ますことが出来ました。このコピーは、「インチョン国際空港から戻られる時に、ハングルでも記載してありますから、役に立つと思います」と受付の方からお聞きして、持参したものでした。<br /> ゴールデンウィークの始まりでしたが、空港はそれほどの混雑ではありませんでした。チェックインを済ませた後は、2時間の余裕がありました。出国審査の列も長くありませでしたから、朝食の店を探しました。<br /> 目立つ場所のお店には順番待ちの列が出来ていましたが、奥の方の店には空き席がありました。一通り、回ってみましたが、早い時間なので、準備中の店が多くありました。24時間稼動のハブ空港を目指すには、もう暫くの時間がかかりそうです。朝遅く、終わりが早い、名古屋の地下街がモデルになってはいけません。<br /><br /><仁川到着、ソウル市内へ><br /> 順調なフライトで、インチョン国際空港へ到着しました。セントレア空港の待ち時間に、しっかりと朝食を食べましたので、機内食は少し手を付けただけでした。2時間ほどのフライトですから、缶ビールを1本だけ飲んで、朝早く起きた睡眠不足を取り戻しました。<br /> 混雑も無く、入国審査は簡単に済みました。まず最初は、ウォンへの両替です。手元に前回の旅行の残金の10万ウォン近くありましたので、2万円だけを両替しました。いつも通り、両替金額ごとにウォンが、予め袋詰めされていましたから、あっという間に両替できました。円の偽札チェックも瞬間でした。<br /> 次は空港からソウル市内への移動です。リムジンバスも市街バス乗り場も分かっていますので、これも簡単です。ソウルヨク(駅)と告げて、立ち売りの係りの方から、切符を買い求めました。1万2千ウォンでした。乗車時間は1時間ほどです。<br /> 当初の予定では、16時から17時の間に、予約したレジレンス・オモッキョにチェックインする計画でした。それで、ホテルへは向かわず、そのままソウル市内に向かいました。ソウル駅には、荷物を預けるコインロッカーがある場所も分かっていましたし、ここからは、今晩泊まるホテルまで、地下鉄を1回乗換えだけで済むことも計算に入れておきました。<br /> バスの車内はガラガラでしたから、最初に座った1人掛けの席から移動して、2人掛けの席にしました。荷物を隣の席に置いて、目一杯リクライニングシートを倒すと、そのまま眠ってしまいそうな乗り心地でした。予想通り、空港内の2箇所で客を乗せた後は、乗降客はありませんでした。ノンストップで、快適に高速道路を飛ばして、ソウル市内に向かいました。<br /> 暫くウトウトとしたあと、ソウル市街が近づいて、渋滞勝ちになったところで目が覚めました。ソウル駅が終点のバスでしたから、乗り過ごすこともありません。空の旅に続いて、安心、快適なバスでの移動でした。<br /><br /><ソウル駅のコインロッカー><br /> バスが停まったのは、ソウル駅の旧駅舎のほうでした。これも経験済みのことでしたから、直ぐに新駅舎へ向かいました。まずは、コインロッカーへの荷物預けです。新駅舎の1階にあるコインロッカーは全部塞がっていました。空いているロッカーにはキーがついていますから、直ぐに判ります。<br /> しかし、目の前で女性の方が荷物を取り出して、1つだけ空きました。早速必要な荷物だけを手にして、ロッカーへリュックを納めました。何度も旅行を一緒にした愛用のリュックではなく、今回は、新しく買い求めた少し大き目の黒いリュックです。このリュックに、少な目の荷物で準備をしてきました。<br /> 料金は500ウォン硬貨2枚の千ウォンでした。使用方法は図入りのハングルで、集中操作卓に記してありました。ロッカーを閉めた後、?ロッカー番号指定、?閉鎖の指定、?コインの投入、?暗証番号のインプット、を済ませると、使ったボックスのキーを抜くことが出来ます。記憶で記載しましたから、操作の順番は違っているかも知れません。もちろん、パスポートとお金の一部は肌身離さず所持していました。<br /><br /><宗廟見学に当たっての前書き><br /> 午後にMuさんたちと落ち合う予定でしたから、午後3時頃までをソウル市内の見学としました。今回の目的地は、1年半ほど前の旅行の際に、閉館日に当たって見学できなかった宗廟(チョンミョ)です。ユネスコの世界文化遺産に登録されています。<br /> ガイドブックを参照しながら、宗廟のことを簡単に紹介しておきます。「李氏朝鮮王朝の歴代国王とその妃の位牌を祀ってある」のが宗廟です。「正殿には19代国王とその王妃が、永寧殿には、その他の国王、王妃、死後王号を贈られた王族が、それぞれ祀られている」とされています。更に「李朝時代には、年に度々儒教の祭礼が行われていた」とも解説されていました。<br /> 次に、インターネット情報などを参照しながら、李氏朝鮮のことについて簡単に説明しておきます。こんかい、「李氏朝鮮」あるいは「李朝」の言葉自体が、日本帝国主義時代の名残でありことなども知りました。「李朝白磁」等の言葉に馴染んでいただけに、意外でした。<br /> この小冊子においては、この後の表記は、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」に倣って、漢字表記の場合は「朝鮮王朝」カタカナ表記の場合は「チョソン・ワンジョ」とします。ただし、「李朝白磁」の呼び方は、日本では「高麗青磁」と並んで、尊敬と賞賛の意味合いが強いので、そのまま使うこととしました。<br /> そのウィキペディアにおける記載です。「朝鮮半島には衛氏朝鮮などの朝鮮を国号に持つ王朝が、かって存在したので、日本ではそれらと区別するために『李氏朝鮮』あるいは『李朝』と呼ぶことが一般的である」更に、「大韓民国においては、『李氏朝鮮』『李朝』と言う名称は植民地史観に基づくものとされ使用されず、単に『朝鮮』『朝鮮王朝』と呼ぶのが一般的である。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は『古朝鮮』と呼び区別している」とされています。<br /> もう少し引用を続けます。「正式の国号は『朝鮮国』。太祖李成桂ははじめ高麗王を称したが、即位するとすぐに明に使節を送って新王朝の国名に『朝鮮』と『和寧』の二案を諮り、明がこれに応えて李成桂を『権知朝鮮国事』に封じたことにより朝鮮を国号とした。中国では李朝の用例が見られる。1897年には国号を大韓帝国と改称した。その略称は韓国である」とされています。<br /> 中日、韓日の国際関係が厳しくなっている今日、その相手国のことを正しく理解しておくことが、ますます重要になっていると実感しています。ここで、敢えて「日中」「日韓」の用字を遣わず、「中日」、「韓日」と記したのも、それぞれの国を訪問させて頂いた旅行記であるための、自分なりに敬意を表したものです。少し前から実行していることです。<br /> 最後に朝鮮王朝の簡単な年表を記しておきます。<br />*1392年 李成桂が、高麗・恭譲王の王位を簒奪し、高麗王に即位。 <br />*1393年 国号を朝鮮に変更する。<br />*1404年 室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。<br />*1592年-1593年及び1597年-1598年 豊臣秀吉の2度の朝鮮征伐(文禄・慶長の役 - 韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ぶ)を受ける。<br />*1607年 江戸幕府と日朝国交回復交渉始まる。<br />*1637年 朝鮮国王の仁祖降伏し、清に服属する。<br />*1811年 第12回の朝鮮通信使が家斉襲封祝賀のために出立するが、対馬に差し止められる。朝鮮側はこれを不服として以降断交。<br />*1876年 日本の明治政権と日朝修好条規<br />*1897年 日清戦争(1894年-1895年)後の下関条約により、清から独立し、大韓帝国に改称する。<br />*1906年 韓国統監府設置<br />*1909年 韓国統監府の初代統監伊藤博文が安重根により暗殺される。 <br />*1910年 日韓併合条約に基づき、日本に併合され消滅。<br /><br /><宗廟、昌慶宮見学><br /> 前置きの方が長くなって仕舞いました。宗廟の見学は地下鉄5号線で鐘路三街(チョンノサムガ)駅まで行き、5分以内の徒歩の距離です。経路は違いましたが、1年半ほど前の見学の時にも、降りた駅です。この鐘路三街の公園のことには、今回の旅行で知り合いになった韓(ハン)さんから、色んなお話しを聞きました。<br /> 宗廟見学の入口は南門からです。その前には公園があり、多くの人出がありました。観光にはもってこいの快晴になりました。帽子が欲しいくらいの日差しです。入口左横で入場券を買い求めました。丁度千ウォンでした。<br /> 宗廟の中も大勢の観光客で賑わっていました。不思議なことに、日本人の団体観光客は、ほとんど見かけませんでした。新緑とツツジなどの花が咲き、絶好の季節です。ところが、私の場合、この時期の韓国旅行の場合に、花粉症になるのが残念です。 帰国すれば直ぐに直りますから、医者にかかったことがなく、その発症因子も判っていません。自分なりには、火力発電所の排気が原因で、硫酸が付着した黄砂を疑っていました。松の木の花粉説も捨て切れません。<br /> 宗廟では、スピーカーを通して雅楽が流れていました。雅楽と呼ぶのが適当ではありませんが、日本の雅楽と同じような楽器の寝入るに思えました。メロディも奥床しく、緩やかなテンポでした。後で知ったことですが、明日の例大祭の準備が始まっていたためです。毎年5月の第一日曜日とされているようです。<br /> 宗廟の主な建物は正殿と永寧殿です。その正門には少し濃い黄色の布が飾ってありました。一番高貴とされている色でしょう。日本では、天皇の式服に使われている色と同じ系統ではないかと思い当たりました。臨時のテントが張られ、明日の式典へ向けての準備に余念が無いようでした。それで、正殿の中に入らずに、そのまま北へ歩き、昌慶宮を目指しました。宗廟の正殿は、臨時に入場制限がされていたかも知れません。<br /> 陸橋を渡って、昌慶宮までやって来ました。途中の通り道は、花粉症さえなければ、最高の新緑の散歩道です。陸橋の下は慶福宮(キョンボックン)からの帰りなどに何度か歩いた道で見覚えがありました。敷地内では、この辺りが一番高くなっていました。ここで、暫く景色を楽しんだり、写真を撮りました。この場所では、本格的なカメラを持った若い女性の方も撮影ポイントを探していました。<br /> 昌慶宮(チャンギョングン)は、初めての見学でした。正門が東向きに作られており、今日の見学では付近が工事中でした。先程の年表にも記載しておきましたが、秀吉軍によって、壊滅的にされた後は、一時、荒廃のままに捨て措かれていたようです。再興がなったのは、第9代の成宗王の時です。その時以来、昌慶宮と呼ばれるようになりました。<br /><br /><梧木橋(オモッキョ)のホテルで合流><br /> 昌慶宮の一番北方面を見学している時に、村井さんから「今、ソウル着、ホテルに行きます」のメールが入りました。14時43分でした。私もソウル駅に荷物を預けていましたので、いったんはソウル駅経由です。鐘路三街駅まで戻るのに、大分時間がかかって仕舞い、ホテルに着いたのは16時を回っていました。皆さんを大分お待たせしたようです。初めて泊まるホテルなので、Muさんにメールで最寄り駅などを誘導して貰いました。<br /> 地下鉄乗換えで、少しまごつきましたが、ホテルの最寄り駅は、ホテルの名前の「梧木橋』ではなく、1つ手前、東寄りの「楊坪(ヤンピョン)』駅でした。階段を登って、辺りを見回し「コーポ」の英文字が目に付きましたので、その宝庫に歩き始めました。ホテルの正式名称が「コーポ・レジレンス・オモッキョ」を思い出したからです。<br /> その間は当たっていました。3分ほど歩いたところに、その目的のホテルがありました。待ちくたびれた皆さんと、無事に合流することが出来ました。直ぐにチェックインを済ませ、エレベーターで7階まで上がりました。とにかく暑かったので、部屋で顔だけを素早く洗って、手荷物だけを持って、1階のロビーへ戻りました。<br /><br /><梨泰院で買い物、焼肉の店で夕食><br /> まだ17時前なので、明るいうちに買い物や、散策を楽しめる時間でした。早速、地下鉄で梨泰院(イテウォン)まで出掛けました。今度は地下鉄5号線で孔徳(コントク)まで行き、そこで、3号線に乗換え、降りる駅はイテウォンです。合計で11の駅ですから、30分程の行程です。<br /> 長い間、三角地(サムカッチ)とイテウォンとの間は工事中でしたが、今は全線開通になっています。開通した後、何度か乗車した区間です。イテウォンは、近くにあった米軍基地がなくなった後、相当に様変わりしているようです。しかし、相変わらず日本語で「立派な贋物です!」の呼び込みがある、お店が軒を並べています。細かいことは差し障りがあるといけませんので、割愛します。以前は大っぴらに商売をしていた店も、目立ち難いように気を遣っていました。<br /> 街頭での民族音楽のパフォーマンスを見学した後は、目的の買い物です。Kwさんの方の買い物は済みましたが、私の目的のアンズオイルは、中々見付かりませんでした。食事の後の、一番の中心街である明洞(ミョンドン)が頼りです。<br /> その夕食はイテウォンの焼肉屋さんにしました。「釜山カルビ」と「梨泰院カルビ」の2軒の店が並んでいる、右手の梨泰院カルビの方になりました。席はイテウォンの通りがよく見渡せる2階の窓際でした。<br /> 注文したのは骨付きカルビをはじめ、少しずつ色んな種類を選びました。それでも焼肉以外の料理では、思った以上に量が多いものもあり、最後の方は、休み休みとなりました。のみものは、ビールと焼酎です。やっと、窓の外が暗くなってきました。<br /><br /><明洞(ミョンドン)へ、アンズオイルの買い物><br /> ソウル市街までやって来て、一番の繁華街のミョンドンを見学しない手はありません。Kwさんご夫婦もハードスケジュールでお疲れの様子でしたが、すぐに話が纏まりました。今度も、地下鉄での移動です。5号線でサンカッチまで戻り、そこからは4号線で4つ目の駅がミョンドンになります。<br /> Kwさんご夫婦は明日が帰国の日ですから、今晩が一番の買い物に都合がよい日です。私の場合も、何とかアンズオイルが見付からないかと、Muさんにも頼んで、めぼしい店に声を掛けました。普段は、呼び込みを振り切るのに大変ですが、買い物の目的がある場合は別です。<br /> 色々と声を掛けて、最初に見付かったのは、ガラス瓶入りのアンズオイルでした。500ミリリットルは入っているようでした。とても、持ち帰りが出来るような容器ではありませんでしたし、贈り物にも、不向きでした。諦めかけていたころに「ありますよ」の日本語の返事がありました。日本語が堪能な若い女性の方でした。後でお聞きした話しですが、「このお店には、日本語が話せる店員として、派遣社員で来ています」ということでした。<br /> アンズオイルの値引き交渉は、うまくいきませんでしたが、代わりにそのお店にあった色んな品をサービスしてくれました。試食をした後での美味しい岩海苔、一抱えある干し白無花果、ピーチ粉ジュースなどでした。MuさんやKwさん達もこの店で買い物を済ませられました。<br /> 次回、明洞に来た時に、直ぐにこの店が見付かるかどうかは疑問です。少し怪しい方向感覚ですが、北西角の店ということだけは覚えておきました。屋台のお店ではなく、ちゃんとした老舗のお店ですから、時間をかけて探せば、多分、大丈夫でしょう。<br />やはりミョンドンは、ソウル随一の繁華街です。探せば何でもあるようです。<br /><br /><ホテルの近くの店で軽く一杯><br /> ミョンドンから地下鉄でホテルに戻った後、近くの店で、軽く一杯飲みました。小さな店で手が回らないらしく、簡単なつまみだけで本日の旅行の締めくくりとしました。お店の人と知り合いらしいお客さんが、料理を運んでくれたり、何かと気を遣ってくれました。<br /><br /><br />  昌慶宮のスミレに寄せて<br /> 菫草咲て懐し韓近し <br /><br /> 膝折て菫を愛でる旅始<br /><br /> 儚さを菫に託す宮の址<br /><br /> 哀しさも強さも秘し菫草<br /><br /> 小くも想は深し野の菫<br /><br />  宗廟で<br /> 夏近し宗廟飾る黄の式布<br /><br /> 旧き宮雅楽ゆかしや緑萌ゆ

2005春、韓国紀行13(2):4月30日(1)ソウル・宗廟、昌慶宮

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2005/04/30 - 2005/05/04

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

<2005年4月30日(土)>

 今年2005年のゴールデンウィークは、29日の金曜日、緑の日に始まりました。週休2日のサラリーマンなら、5月2日の月曜日と6日の金曜日に休暇をとれば、10日連続の大型連休となります。今回の旅行はその前半を利用しました。

<慌しい出発>
 私の場合、4月22日から27日までの龍勝、桂林方面の中国旅行に出かけていましたから、間が2日だけの、少し慌しい出発となりました。今回も一緒に旅行をしたMuさんも、ラスベガスからの帰国直後となりました。
 インターネットで予約したアシアナ航空のOZ123便は9時30分の 出発でしたから、セントレアには2時間目の7時30分を目標に出かけました。中国旅行の時と同じように、今回も地下鉄で金山駅まで行き、そこからは名鉄電車にしました。
 アシアナ航空で料金を支払った時に、私のパソコン宛に送ってもらった予約内容を記載したハードコピーを持参しました。これで、問題なくチェックインを済ますことが出来ました。このコピーは、「インチョン国際空港から戻られる時に、ハングルでも記載してありますから、役に立つと思います」と受付の方からお聞きして、持参したものでした。
 ゴールデンウィークの始まりでしたが、空港はそれほどの混雑ではありませんでした。チェックインを済ませた後は、2時間の余裕がありました。出国審査の列も長くありませでしたから、朝食の店を探しました。
 目立つ場所のお店には順番待ちの列が出来ていましたが、奥の方の店には空き席がありました。一通り、回ってみましたが、早い時間なので、準備中の店が多くありました。24時間稼動のハブ空港を目指すには、もう暫くの時間がかかりそうです。朝遅く、終わりが早い、名古屋の地下街がモデルになってはいけません。

<仁川到着、ソウル市内へ>
 順調なフライトで、インチョン国際空港へ到着しました。セントレア空港の待ち時間に、しっかりと朝食を食べましたので、機内食は少し手を付けただけでした。2時間ほどのフライトですから、缶ビールを1本だけ飲んで、朝早く起きた睡眠不足を取り戻しました。
 混雑も無く、入国審査は簡単に済みました。まず最初は、ウォンへの両替です。手元に前回の旅行の残金の10万ウォン近くありましたので、2万円だけを両替しました。いつも通り、両替金額ごとにウォンが、予め袋詰めされていましたから、あっという間に両替できました。円の偽札チェックも瞬間でした。
 次は空港からソウル市内への移動です。リムジンバスも市街バス乗り場も分かっていますので、これも簡単です。ソウルヨク(駅)と告げて、立ち売りの係りの方から、切符を買い求めました。1万2千ウォンでした。乗車時間は1時間ほどです。
 当初の予定では、16時から17時の間に、予約したレジレンス・オモッキョにチェックインする計画でした。それで、ホテルへは向かわず、そのままソウル市内に向かいました。ソウル駅には、荷物を預けるコインロッカーがある場所も分かっていましたし、ここからは、今晩泊まるホテルまで、地下鉄を1回乗換えだけで済むことも計算に入れておきました。
 バスの車内はガラガラでしたから、最初に座った1人掛けの席から移動して、2人掛けの席にしました。荷物を隣の席に置いて、目一杯リクライニングシートを倒すと、そのまま眠ってしまいそうな乗り心地でした。予想通り、空港内の2箇所で客を乗せた後は、乗降客はありませんでした。ノンストップで、快適に高速道路を飛ばして、ソウル市内に向かいました。
 暫くウトウトとしたあと、ソウル市街が近づいて、渋滞勝ちになったところで目が覚めました。ソウル駅が終点のバスでしたから、乗り過ごすこともありません。空の旅に続いて、安心、快適なバスでの移動でした。

<ソウル駅のコインロッカー>
 バスが停まったのは、ソウル駅の旧駅舎のほうでした。これも経験済みのことでしたから、直ぐに新駅舎へ向かいました。まずは、コインロッカーへの荷物預けです。新駅舎の1階にあるコインロッカーは全部塞がっていました。空いているロッカーにはキーがついていますから、直ぐに判ります。
 しかし、目の前で女性の方が荷物を取り出して、1つだけ空きました。早速必要な荷物だけを手にして、ロッカーへリュックを納めました。何度も旅行を一緒にした愛用のリュックではなく、今回は、新しく買い求めた少し大き目の黒いリュックです。このリュックに、少な目の荷物で準備をしてきました。
 料金は500ウォン硬貨2枚の千ウォンでした。使用方法は図入りのハングルで、集中操作卓に記してありました。ロッカーを閉めた後、?ロッカー番号指定、?閉鎖の指定、?コインの投入、?暗証番号のインプット、を済ませると、使ったボックスのキーを抜くことが出来ます。記憶で記載しましたから、操作の順番は違っているかも知れません。もちろん、パスポートとお金の一部は肌身離さず所持していました。

<宗廟見学に当たっての前書き>
 午後にMuさんたちと落ち合う予定でしたから、午後3時頃までをソウル市内の見学としました。今回の目的地は、1年半ほど前の旅行の際に、閉館日に当たって見学できなかった宗廟(チョンミョ)です。ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
 ガイドブックを参照しながら、宗廟のことを簡単に紹介しておきます。「李氏朝鮮王朝の歴代国王とその妃の位牌を祀ってある」のが宗廟です。「正殿には19代国王とその王妃が、永寧殿には、その他の国王、王妃、死後王号を贈られた王族が、それぞれ祀られている」とされています。更に「李朝時代には、年に度々儒教の祭礼が行われていた」とも解説されていました。
 次に、インターネット情報などを参照しながら、李氏朝鮮のことについて簡単に説明しておきます。こんかい、「李氏朝鮮」あるいは「李朝」の言葉自体が、日本帝国主義時代の名残でありことなども知りました。「李朝白磁」等の言葉に馴染んでいただけに、意外でした。
 この小冊子においては、この後の表記は、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」に倣って、漢字表記の場合は「朝鮮王朝」カタカナ表記の場合は「チョソン・ワンジョ」とします。ただし、「李朝白磁」の呼び方は、日本では「高麗青磁」と並んで、尊敬と賞賛の意味合いが強いので、そのまま使うこととしました。
 そのウィキペディアにおける記載です。「朝鮮半島には衛氏朝鮮などの朝鮮を国号に持つ王朝が、かって存在したので、日本ではそれらと区別するために『李氏朝鮮』あるいは『李朝』と呼ぶことが一般的である」更に、「大韓民国においては、『李氏朝鮮』『李朝』と言う名称は植民地史観に基づくものとされ使用されず、単に『朝鮮』『朝鮮王朝』と呼ぶのが一般的である。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は『古朝鮮』と呼び区別している」とされています。
 もう少し引用を続けます。「正式の国号は『朝鮮国』。太祖李成桂ははじめ高麗王を称したが、即位するとすぐに明に使節を送って新王朝の国名に『朝鮮』と『和寧』の二案を諮り、明がこれに応えて李成桂を『権知朝鮮国事』に封じたことにより朝鮮を国号とした。中国では李朝の用例が見られる。1897年には国号を大韓帝国と改称した。その略称は韓国である」とされています。
 中日、韓日の国際関係が厳しくなっている今日、その相手国のことを正しく理解しておくことが、ますます重要になっていると実感しています。ここで、敢えて「日中」「日韓」の用字を遣わず、「中日」、「韓日」と記したのも、それぞれの国を訪問させて頂いた旅行記であるための、自分なりに敬意を表したものです。少し前から実行していることです。
 最後に朝鮮王朝の簡単な年表を記しておきます。
*1392年 李成桂が、高麗・恭譲王の王位を簒奪し、高麗王に即位。
*1393年 国号を朝鮮に変更する。
*1404年 室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。
*1592年-1593年及び1597年-1598年 豊臣秀吉の2度の朝鮮征伐(文禄・慶長の役 - 韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ぶ)を受ける。
*1607年 江戸幕府と日朝国交回復交渉始まる。
*1637年 朝鮮国王の仁祖降伏し、清に服属する。
*1811年 第12回の朝鮮通信使が家斉襲封祝賀のために出立するが、対馬に差し止められる。朝鮮側はこれを不服として以降断交。
*1876年 日本の明治政権と日朝修好条規
*1897年 日清戦争(1894年-1895年)後の下関条約により、清から独立し、大韓帝国に改称する。
*1906年 韓国統監府設置
*1909年 韓国統監府の初代統監伊藤博文が安重根により暗殺される。
*1910年 日韓併合条約に基づき、日本に併合され消滅。

<宗廟、昌慶宮見学>
 前置きの方が長くなって仕舞いました。宗廟の見学は地下鉄5号線で鐘路三街(チョンノサムガ)駅まで行き、5分以内の徒歩の距離です。経路は違いましたが、1年半ほど前の見学の時にも、降りた駅です。この鐘路三街の公園のことには、今回の旅行で知り合いになった韓(ハン)さんから、色んなお話しを聞きました。
 宗廟見学の入口は南門からです。その前には公園があり、多くの人出がありました。観光にはもってこいの快晴になりました。帽子が欲しいくらいの日差しです。入口左横で入場券を買い求めました。丁度千ウォンでした。
 宗廟の中も大勢の観光客で賑わっていました。不思議なことに、日本人の団体観光客は、ほとんど見かけませんでした。新緑とツツジなどの花が咲き、絶好の季節です。ところが、私の場合、この時期の韓国旅行の場合に、花粉症になるのが残念です。 帰国すれば直ぐに直りますから、医者にかかったことがなく、その発症因子も判っていません。自分なりには、火力発電所の排気が原因で、硫酸が付着した黄砂を疑っていました。松の木の花粉説も捨て切れません。
 宗廟では、スピーカーを通して雅楽が流れていました。雅楽と呼ぶのが適当ではありませんが、日本の雅楽と同じような楽器の寝入るに思えました。メロディも奥床しく、緩やかなテンポでした。後で知ったことですが、明日の例大祭の準備が始まっていたためです。毎年5月の第一日曜日とされているようです。
 宗廟の主な建物は正殿と永寧殿です。その正門には少し濃い黄色の布が飾ってありました。一番高貴とされている色でしょう。日本では、天皇の式服に使われている色と同じ系統ではないかと思い当たりました。臨時のテントが張られ、明日の式典へ向けての準備に余念が無いようでした。それで、正殿の中に入らずに、そのまま北へ歩き、昌慶宮を目指しました。宗廟の正殿は、臨時に入場制限がされていたかも知れません。
 陸橋を渡って、昌慶宮までやって来ました。途中の通り道は、花粉症さえなければ、最高の新緑の散歩道です。陸橋の下は慶福宮(キョンボックン)からの帰りなどに何度か歩いた道で見覚えがありました。敷地内では、この辺りが一番高くなっていました。ここで、暫く景色を楽しんだり、写真を撮りました。この場所では、本格的なカメラを持った若い女性の方も撮影ポイントを探していました。
 昌慶宮(チャンギョングン)は、初めての見学でした。正門が東向きに作られており、今日の見学では付近が工事中でした。先程の年表にも記載しておきましたが、秀吉軍によって、壊滅的にされた後は、一時、荒廃のままに捨て措かれていたようです。再興がなったのは、第9代の成宗王の時です。その時以来、昌慶宮と呼ばれるようになりました。

<梧木橋(オモッキョ)のホテルで合流>
 昌慶宮の一番北方面を見学している時に、村井さんから「今、ソウル着、ホテルに行きます」のメールが入りました。14時43分でした。私もソウル駅に荷物を預けていましたので、いったんはソウル駅経由です。鐘路三街駅まで戻るのに、大分時間がかかって仕舞い、ホテルに着いたのは16時を回っていました。皆さんを大分お待たせしたようです。初めて泊まるホテルなので、Muさんにメールで最寄り駅などを誘導して貰いました。
 地下鉄乗換えで、少しまごつきましたが、ホテルの最寄り駅は、ホテルの名前の「梧木橋』ではなく、1つ手前、東寄りの「楊坪(ヤンピョン)』駅でした。階段を登って、辺りを見回し「コーポ」の英文字が目に付きましたので、その宝庫に歩き始めました。ホテルの正式名称が「コーポ・レジレンス・オモッキョ」を思い出したからです。
 その間は当たっていました。3分ほど歩いたところに、その目的のホテルがありました。待ちくたびれた皆さんと、無事に合流することが出来ました。直ぐにチェックインを済ませ、エレベーターで7階まで上がりました。とにかく暑かったので、部屋で顔だけを素早く洗って、手荷物だけを持って、1階のロビーへ戻りました。

<梨泰院で買い物、焼肉の店で夕食>
 まだ17時前なので、明るいうちに買い物や、散策を楽しめる時間でした。早速、地下鉄で梨泰院(イテウォン)まで出掛けました。今度は地下鉄5号線で孔徳(コントク)まで行き、そこで、3号線に乗換え、降りる駅はイテウォンです。合計で11の駅ですから、30分程の行程です。
 長い間、三角地(サムカッチ)とイテウォンとの間は工事中でしたが、今は全線開通になっています。開通した後、何度か乗車した区間です。イテウォンは、近くにあった米軍基地がなくなった後、相当に様変わりしているようです。しかし、相変わらず日本語で「立派な贋物です!」の呼び込みがある、お店が軒を並べています。細かいことは差し障りがあるといけませんので、割愛します。以前は大っぴらに商売をしていた店も、目立ち難いように気を遣っていました。
 街頭での民族音楽のパフォーマンスを見学した後は、目的の買い物です。Kwさんの方の買い物は済みましたが、私の目的のアンズオイルは、中々見付かりませんでした。食事の後の、一番の中心街である明洞(ミョンドン)が頼りです。
 その夕食はイテウォンの焼肉屋さんにしました。「釜山カルビ」と「梨泰院カルビ」の2軒の店が並んでいる、右手の梨泰院カルビの方になりました。席はイテウォンの通りがよく見渡せる2階の窓際でした。
 注文したのは骨付きカルビをはじめ、少しずつ色んな種類を選びました。それでも焼肉以外の料理では、思った以上に量が多いものもあり、最後の方は、休み休みとなりました。のみものは、ビールと焼酎です。やっと、窓の外が暗くなってきました。

<明洞(ミョンドン)へ、アンズオイルの買い物>
 ソウル市街までやって来て、一番の繁華街のミョンドンを見学しない手はありません。Kwさんご夫婦もハードスケジュールでお疲れの様子でしたが、すぐに話が纏まりました。今度も、地下鉄での移動です。5号線でサンカッチまで戻り、そこからは4号線で4つ目の駅がミョンドンになります。
 Kwさんご夫婦は明日が帰国の日ですから、今晩が一番の買い物に都合がよい日です。私の場合も、何とかアンズオイルが見付からないかと、Muさんにも頼んで、めぼしい店に声を掛けました。普段は、呼び込みを振り切るのに大変ですが、買い物の目的がある場合は別です。
 色々と声を掛けて、最初に見付かったのは、ガラス瓶入りのアンズオイルでした。500ミリリットルは入っているようでした。とても、持ち帰りが出来るような容器ではありませんでしたし、贈り物にも、不向きでした。諦めかけていたころに「ありますよ」の日本語の返事がありました。日本語が堪能な若い女性の方でした。後でお聞きした話しですが、「このお店には、日本語が話せる店員として、派遣社員で来ています」ということでした。
 アンズオイルの値引き交渉は、うまくいきませんでしたが、代わりにそのお店にあった色んな品をサービスしてくれました。試食をした後での美味しい岩海苔、一抱えある干し白無花果、ピーチ粉ジュースなどでした。MuさんやKwさん達もこの店で買い物を済ませられました。
 次回、明洞に来た時に、直ぐにこの店が見付かるかどうかは疑問です。少し怪しい方向感覚ですが、北西角の店ということだけは覚えておきました。屋台のお店ではなく、ちゃんとした老舗のお店ですから、時間をかけて探せば、多分、大丈夫でしょう。
やはりミョンドンは、ソウル随一の繁華街です。探せば何でもあるようです。

<ホテルの近くの店で軽く一杯>
 ミョンドンから地下鉄でホテルに戻った後、近くの店で、軽く一杯飲みました。小さな店で手が回らないらしく、簡単なつまみだけで本日の旅行の締めくくりとしました。お店の人と知り合いらしいお客さんが、料理を運んでくれたり、何かと気を遣ってくれました。


  昌慶宮のスミレに寄せて
 菫草咲て懐し韓近し

 膝折て菫を愛でる旅始

 儚さを菫に託す宮の址

 哀しさも強さも秘し菫草

 小くも想は深し野の菫

  宗廟で
 夏近し宗廟飾る黄の式布

 旧き宮雅楽ゆかしや緑萌ゆ

交通手段
鉄道
  • 先に出発されたMuさん達は、ソウルとは反対側の東海岸に移動され、今日、そちらから戻られる予定でした。それで、昼にインチョン国際空港へ着いた後は、一人で宗廟の見学にでかけました。

    先に出発されたMuさん達は、ソウルとは反対側の東海岸に移動され、今日、そちらから戻られる予定でした。それで、昼にインチョン国際空港へ着いた後は、一人で宗廟の見学にでかけました。

  • 宗廟は世界文化遺産に指定されています。新緑が綺麗な時期でした。この花木は、入口近くにありました。

    宗廟は世界文化遺産に指定されています。新緑が綺麗な時期でした。この花木は、入口近くにありました。

  • 立て看板の写真です。大きな行事が執り行われている場面でしょう。明日の例大祭を控えて、その準備の日に当たっているようでした。

    立て看板の写真です。大きな行事が執り行われている場面でしょう。明日の例大祭を控えて、その準備の日に当たっているようでした。

  • 宗廟の配置図です。一番南の門が彰葉門、中央の大きな建物が政殿、その左上が永寧殿と呼ばれています。

    宗廟の配置図です。一番南の門が彰葉門、中央の大きな建物が政殿、その左上が永寧殿と呼ばれています。

  • 彰葉門からまっすぐに北へ登った東側の建物です。静粛、禁煙の札が貼られた門の付近で、何人かの人が打合せをしていました。

    彰葉門からまっすぐに北へ登った東側の建物です。静粛、禁煙の札が貼られた門の付近で、何人かの人が打合せをしていました。

  • その門から入ろうとしたら、手で静止され、その門は閉められてしまいました。大きな行事を控えての、打合せのために開いていたようです。

    その門から入ろうとしたら、手で静止され、その門は閉められてしまいました。大きな行事を控えての、打合せのために開いていたようです。

  • 入口から近くの池の風景です。人工に作られた島には松やその他の樹木がラッシュ状態でした。つつじの彩りがありました。

    入口から近くの池の風景です。人工に作られた島には松やその他の樹木がラッシュ状態でした。つつじの彩りがありました。

  • 民族衣装に麦藁帽子の女性の方とすれ違いました。正面からは写真が撮れませんでしたから、その後姿です。観光ガイドの方でした。

    民族衣装に麦藁帽子の女性の方とすれ違いました。正面からは写真が撮れませんでしたから、その後姿です。観光ガイドの方でした。

  • 緑が眩しいばかりに輝いていました。人通りが少なく、ゆっくりと散歩が楽しめる一角でした。

    緑が眩しいばかりに輝いていました。人通りが少なく、ゆっくりと散歩が楽しめる一角でした。

  • ご年配の方は後ろに手を組んでゆっくりと散歩を楽しまれていました。実は、この後、いきなり花粉症気味になって苦労しました。松花粉が原因?

    ご年配の方は後ろに手を組んでゆっくりと散歩を楽しまれていました。実は、この後、いきなり花粉症気味になって苦労しました。松花粉が原因?

  • 4ヶ国語の案内看板がありました。この写真の大きさでは読み取ることが出来ません。特別な「井戸」についての記載でした。柵の向こう側に見えます。

    4ヶ国語の案内看板がありました。この写真の大きさでは読み取ることが出来ません。特別な「井戸」についての記載でした。柵の向こう側に見えます。

  • 幹が黒い落葉樹の林です。自然林のようです。林の中では、手入れをされている制服姿の人も見かけました。

    幹が黒い落葉樹の林です。自然林のようです。林の中では、手入れをされている制服姿の人も見かけました。

  • 新緑と合わせ、色んな花も満開でした。これで花粉症にならないと最高なのですが、例年、韓国に着くと症状が出ます。

    新緑と合わせ、色んな花も満開でした。これで花粉症にならないと最高なのですが、例年、韓国に着くと症状が出ます。

  • 花の名前も分からず撮った一枚です。葉や花の形からすると、アジサイの仲間のようです。ユキノシタ科のノリウツギにも似ているようです。

    花の名前も分からず撮った一枚です。葉や花の形からすると、アジサイの仲間のようです。ユキノシタ科のノリウツギにも似ているようです。

  • この下の通りは何度も通ったことがあります。宗廟(チョンミョ)から人道を渡って、同じ世界文化遺産の昌徳宮(チャンドックン)、昌慶宮が続きます。

    この下の通りは何度も通ったことがあります。宗廟(チョンミョ)から人道を渡って、同じ世界文化遺産の昌徳宮(チャンドックン)、昌慶宮が続きます。

  • 橋を渡ってすぐに下り坂となります。坂に沿って作られた段差のある塀が、風情のある光景を作り出しています。

    橋を渡ってすぐに下り坂となります。坂に沿って作られた段差のある塀が、風情のある光景を作り出しています。

  • 坂道から少し北の方にアングルを変えるとビル群が見えてきました。地図で調べると、明倫洞(ミョンジュンドン)の方角に当たるようです。

    坂道から少し北の方にアングルを変えるとビル群が見えてきました。地図で調べると、明倫洞(ミョンジュンドン)の方角に当たるようです。

  • 昌慶宮(チャンギョングン)は、李朝第四代の世宗王が父の太宗のために建てた寿慶宮が前身とされます。再興なった門の1つです。

    昌慶宮(チャンギョングン)は、李朝第四代の世宗王が父の太宗のために建てた寿慶宮が前身とされます。再興なった門の1つです。

  • 5弁の白い花を咲かせていた潅木です。坂を下る途中にありましたが、図鑑で探しても名前が分からない、地味で清楚な花でした。

    5弁の白い花を咲かせていた潅木です。坂を下る途中にありましたが、図鑑で探しても名前が分からない、地味で清楚な花でした。

  • 昌慶宮のマップです。昌徳宮(チャンドックン)の東側に隣接しています。1952年に秀吉軍により破壊され、1986年に復興されました。

    昌慶宮のマップです。昌徳宮(チャンドックン)の東側に隣接しています。1952年に秀吉軍により破壊され、1986年に復興されました。

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2005春、韓国旅行記13

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