2006/08/01 - 2006/08/20
10904位(同エリア16384件中)
スキピオさん
【ガラスのピラミッドとスケート部隊のお巡りさん】
故ミッテラン前大統領が押し進めた、革命二百年を記念するいわゆる「グラン・プロジェ計画」のひとつ。デファンスの「グラン・アルシュ」と同様、世界のコンペにかけられた。選ばれたのは中国系アメリカ人のイヨ・ミン・ペイ。
ピラミッドという最も古い建築物を最もモダンな素材(ステンレス・スチールとガラス)で作るという斬新な発想が買われた。この中庭は「ク−ル・ナポレオン」と呼ばれる。
今やこのピラミッドは都市軸の中心と言ってもいいのではないだろうか。
さすがに観光都市パリ、パトロールのお巡りさんもロ−ラ−・ブレイド部隊。一説には年齢、身長などクリアーしないとなれないとか・・・本当かな?
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【ガラスのピラミッド=ル−ヴル美術館入口】
ピラミッドは美術館の入口としてはあまりお薦めではないかも・・・、いつも混んで並んでいますし、寒さ、暑さ、雨の時にはうんざりします。「カルーゼルの凱旋門」の近くにある階段をおりると、地下の入口があります。天気がよくない時は、そっちのほうが断然いいです。 -
【クール・カレ(正方形の中庭)、シュリ−門】
この中庭はル−ヴル宮殿の中心、いやパリという都市の中心と言っても過言ではない。
一辺が110メートルからなる正方形の中庭は、西隣の町デファンスに立つ新凱旋門とも言われる「グランド・アルシュ」の立方体に一辺の長さを与えることによって都市軸としての矜持を保つ。
門の中にガラスのピラミッドが見える。
シュリー(1560〜1641)は「ナントの勅令」で有名なアンリ4世の腹心だった。 -
【クール・カレ、シャンポリオン門】
セ−ヌ川に面した門はヒエログリフの解読に成功した言語学者であり、ル−ヴル美術館の最初のエジプト部門の責任者の名が付けられている。
ここを出ると・・・ -
【フランス学士院】
芸術橋を渡ると対岸にク−ポ−ルの美しい「学士院」がある。
この建物こそ、フランスの知性が集合する場。ここに五つのアカデミーが、毎週一回の常会、年一度の総会を開いている。
その中で最も古く(リシュリュ−枢機卿の創立、1635年)、有名なのは、アカデミ−・フランセ−ズだ。フランス語の保存と純化を目的とする。定員は40名、終身だ。
つまり、どなたかが亡くならない限り、アカデミ−・フランセ−ズの椅子は空かない。運悪く入れなかった学者もいたでしょうね。 -
【サン・ジェルマン・ロクセロワ教会】
クール・カレの「サン・ジェルマン・ロクセロワ教会門」を抜けると教会がある。この教会こそ、あの「聖バルテレミーの大虐殺」開始の合図の鐘を鳴らした教会だ(1572年)。 -
【サン・ジェルマン・ロクセロワ教会】
ファサード(教会正面)の彫刻 -
【サン・ジェルマン・ロクセロワ教会】
ファサード、聖者に踏まれる悪魔達。 -
【サン・ジェルマン・ロクセロワ教会】
ファサード、聖者に踏まれる悪魔達。表情のおもしろさ。 -
【オテル・ド・ヴィルのエチエンヌ・マルセル騎馬像】
エチエンヌ・マルセル(1315〜1358)はパリ市の自治権を王家から完全に取り戻したパリ市長。シテ島をにらんで立つ。後、追放された王太子派により殺される。 -
【オテル・ド・ヴィル(市庁舎)のルドリュ=ロラン像】
オテル・ド・ヴィルの建物の側面にはずらりとパリ市に貢献した偉人たちが並んでいる。
ルドリュ=ロラン(1807〜1874)は二月革命(1848年)の立て役者となった革命家。ナポレオン3世に敵対し、亡命を余儀なくされる。1870年(普仏戦争後)、祖国に戻り、極左の代議士として、活躍する。ジャン・ジョレスと共に人気のある社会主義者。 -
【オテル・ド・ヴィル(市庁舎)東側】
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【サン・ジェルヴェ=サン・プロテ教会】
聖ジェルヴェと聖プロテは兄弟で、古代ローマのネロ帝の治世下に殉死したローマ軍兵士だった。 -
【サン・ジェルヴェ=サン・プロテ教会の内陣】
内陣が美しい。ここで1656年から1826年までク−プラン家の8人がオルガン奏者を務めた。 -
【サンス館】
1475年から1507年にかけた作られた、サンス大司教の公館。 -
【サンス館】
映画でもお馴染みの「王妃マルゴ」は、後にフランス国王アンリ4世と離婚し(離婚されて)、長い追放から解放されて、1605年パリに戻り、この館に居を構えた。53歳になったとはいえ、まだまだ盛んだったマルゴ姫はここでかなり浮き名を流していたらしい。 -
【ボ−ヴェ館】
サン・ジェルヴェ=サン・プロテ教会前からサン・ポ−ル=サン・ルイ教会まで続く「フランソワ・ミロン通り」は、古い町並みの残るしゃれた通りだ。車が通らなければいいのだが・・・バス通りにもなっているのが残念。ちなみにフランソワ・ミロン(1560〜1609)はアンリ4世時代のパリ市長で、「民衆の父」と呼ばれた。
この通りの30番地に映画『王妃マルゴ』でも登場したシャルル9世の愛妾「マリー・トゥーシェ」が住んでいたと言われる。殺伐としたシーンの多いあの映画の中で彼女の部屋のシークェンスは心の和む、美しい場面だ。
ル−ヴルからの都市軸を歩いていると、どうしても映画『王妃マルゴ』(原作者は『三銃士』を書いたアレクサンドル・デュマ)のシーンが浮かんで来る。
映画はル−ヴルから始まり、「サン・ジェルマン・ロクセロワ教会」の鐘の音を合図に凄惨な聖バルテルミ−の大虐殺が勃発する(寒気がするほどリアルな撮り方だ)。そしてル−ヴル宮殿の陰謀・・・
ヴァロワ家の三兄弟(カトリ−ヌ・メディシスの子供達、その1人がアンリと言う)と婿のアンリ(マルゴの夫、後のアンリ4世)、そこにカトリック同盟のリーダー、アンリ・ド・ギ−ズが絡むので、複雑だ(これを「3アンリの戦い」と言う)。
それさえ、クリアーすればこの映画はすばらしい。マルゴ姫とラ・モ−ル伯の恋は限りなく美しい。欲を言えば、小説『赤と黒』を読んでいればさらにお・も・し・ろ・い(ラ・モ−ル伯はマチルドの祖先という設定になっている)。 -
【ボ−ヴェ館入口から中庭】
これはしたり、映画の話に夢中になって、すっかりボ−ヴェ−館のことを忘れてしまった。
マルグリット・ド・ヴァロワ(通称マルゴ姫)がこの通りを歩いていた(歩いたかな?きっと馬車だったな)頃には、まだ、この美しい館はなかった。なぜなら、この建物はアンリ4世の孫、ルイ14世にまつわるからだ。
登場人物はルイ14世の母親アンヌ・ド−トリッシュの小間使いだったカトリーヌ・ベリエ。
彼女は16歳の若きルイ14世に愛の手ほどきをしたことで莫大な財産を手に入れた。カトリ−ヌは40歳だった。そればかりか夫ピエール・ボーヴェとともに貴族に叙されて、この館を建てた。つまり「ボ−ヴェ館」はまさに愛の結晶と言うわけだ。
ちなみにルイの母親アンヌ・ド−トリッシュはアメリカ映画『仮面の男』ではダルタニャンと恋に落ちて不義の子を生んだ、それがルイだったと匂わせていたような気がするが・・・デュマの原作ではない話だ。念のため。 -
【ボ−ヴェ館の入口の扉】
結婚したルイ14世とマリ−=テレ−ズは、都市軸の西側に位置するエトワ−ル広場と対極にある「ナシヨン広場」(いずれ紹介したい)を通ってパリに入城した。その時、母親のアンヌ・ドートリッシュ初めイギリス王妃その他の高官たちが若いカップルの行進を見守り、拍手喝采したのはこの「愛の結晶」ボ−ヴェ館のバルコニーだったそうな。 -
【ボ−ヴェ館、入口の車よけ】
時代も下って、時はルイ15世の御代、ロココ時代の真っ盛りに、ザルツブルクの音楽家一行が投宿し、ここで演奏会を開いた。パリっ子達は天使のように巧みに演奏する1人の子供に夢中になってしまった。その子こそ7歳のモ−ツァルト坊やだった。 -
【サン・ポール=サン・ルイ教会】
フランソワ・ミロン通りをさらに東に行くとサン・タントワ−ヌ通りに合流する。そこにある教会がサン・ポ−ル教会だ。土地をルイ13世が提供したので、敬意の証に聖ルイを守護聖人とした。
写真はファサ−ドのあるサン・タントワ−ヌ通り側からではなく、リセ・シャルルマーニュ側から撮っている。ここは、大都会の中にあって不思議にひらけた地点だ。
ちなみにこの右側に「サン・ポ−ル村」があり、職人たちのアトリエ兼店舗が集合している。 -
【サン・ポ−ル教会のク−ポ−ル内側】
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【フィリップ・オ−ギュストの城壁】
サン・ポ−ル教会の裏側には中世の城壁が現存する。今から八百年ほど前はこのあたりがパリの中心だった。 -
【バスチーユの城塞・・・カルナヴァレ美術館所蔵】
サン・タントワ−ヌ通りの先端にあの有名なバスチ−ユの城塞があった。写真はカルナヴァレ美術館にある複製で、本物の城塞の石で作られている。
現在はこの地点に記念塔が立ち、近くにオペラ・バスチーユがある。 -
【バスチ−ユの記念塔】
右の建物は新オペラ座の一部。 -
【ヴィアデュック・デ・ザール】
バスチ−ユ広場からサン・タントワ−ヌ通りをさらに行くとフォ−ブ−ル・サン・タントワ−ヌ通りに入り、ナシヨン広場に至る。
我々は広場を右にとってドメニル大通りを行くことにする。左側は職人さん達のアトリエ兼店舗が1キロ以上に渡って続くヴィアデュック・デ・ザ−ルだ。これはもとの線路の高架線を利用している。
上はヴァンセンヌの城へと続く遊歩道だ。
都市軸の東の果てはヴァンセンヌの城と言えるかも知れない。 -
【12区の警察署】
ドメニル大通りをヴィアデュック沿いに東に行くと右側に奇妙な建物が見えて来る。ミケランジェロの「瀕死の奴隷」のレプリカがずらりと並んだ警察署だ。フランスはいつもどこかに滑稽味というスパイスを利かしている。 -
【ナシヨン広場】
現在、パリの都市軸においてエトワ−ル広場の対をなすのはナシヨン広場だ。かつては、むしろコンコルド広場と対をなしていた。だから、革命中は、名前も「王座転覆広場」と名付けられ、ここに据えられた断頭台が革命広場(現在のコンコルド広場)に負けじと稼動した。
また、ナポレオンはここから、バスチーユ、ルーヴル、コンコルドに至る凱旋道路(都市軸)を夢想したが、結局シャン・ゼリゼの先端の丘に凱旋門を立て、ここと対とした。そのために都市軸は西に重心を移してしまった。
このブロンズの彫刻群は『共和国の凱歌』(ダル−作)と呼ばれる。上の女性はもちろん共和国の象徴「マリアンヌ」だ。本来は「共和国広場」を飾るために製作されたが、ここに移された。この広場よりも狭い「共和国広場」を想定して作られたので広大な「ナシヨン広場」の中央にあっては少々サイズの点で地味かも知れない。ちなみに、「共和国広場」には巨大な「マリアンヌ」がすっくと立っている。
この広場から東にのびる都市軸は「ク−ル・ド・ヴァンセンヌ」と呼ばれ、多分、シャン・ゼリゼ通りよりも広い、まっすぐな道路だ。
この道路の出発地点にニ本の円柱(ルドゥ−作)がそびえている。円柱上からはフィリップ・オーギュストと聖王ルイがヴァンセンヌ城を見つめる。 -
【共和国広場、マリアンヌ像】
参考までに共和国広場のマリアンヌ像を紹介します。今回の写真集の中で、唯一東西を結ぶ都市軸上に
ないものです。
マリアンヌは共和国の象徴、ドラクロワが描いた『民衆を率いる自由の女神』の女神もマリアンヌ。フランスでは、その年のマリアンヌが選ばれるとか・・・かつて、カトリーヌ・ドヌーヴ、ブリジッド・パルド、レティティア・カスタなどが選ばれたらしい。
ちなみにマリアンヌがかぶっている帽子は「フリギア帽」と言う。自由を象徴するそうだ。 -
【ヴァンセンヌ城】
都市軸の東の果ては中世の面影を残すこの壮大なヴァンセンヌ城だ。この城砦はまさに中世のまっただ中、1369年に完成した。賢王の異名を持つシャルル5世の時だった。
[写真はガイドブックから転載しています] -
【ヴァンセンヌ城、主塔(ドンジョン)】
まさに14世紀の城砦建築の傑作だ。
この最上階(日本式に言えば3階)で、1574年、24歳のシャルル9世は、聖バルテルミーの大虐殺を引き起こした苦悩から夜な夜な恐ろしい幻覚に襲われていたとか・・・
ここは、後牢獄として有名になった。バスチ−ユよりも格が高かったのか(?)、囚人も有名人が多い。大コンデ公、コンティ公、レス枢機卿、(三銃士にも登場する)財務大尽フーケ、哲学者ディドロ(百科全書が禁書になったため)、ミラボー伯などなど、そうそうたる面々だ。
ちなみに、ここに閉じ込められたディドロに差し入れをするためにやって来たジャン=ジャック・ルソ−が、途中で見た懸賞論文のテーマについて相談して、音楽家ルソーから思想家ルソ−が誕生したそうな。
ルソーは百科全書の音楽の項を担当してディドロと知り合いだった。もちろん日本でもなじみの『むすんでひらいて』のメロディーはルソ−が作曲した数多くの曲のひとつだ。 -
【ヴァンセンヌ城の王室礼拝堂】
ゴチック様式の美しい礼拝堂もシャルル5世時代のもの。
中にはナポレオンの汚点と言われる死刑判決による犠牲者、アンギャン公の墓がある。
アンギャン公(1772〜1804)は革命による亡命貴族たちのリーダーの1人で王族でもあった。陰謀事件に連座し、ここヴァンセンヌで銃殺刑にされた。罪状は濡れ衣説があり、ナポレオンを生涯苦しめたらしい(セント・ヘレナでも思い出して「間違いない」と強調しているのがあやしい)。
上の写真と共にこの写真はご覧の通り、ガイドブックから転載しました。
パリの都市軸はこの先ヴァンセンヌの森に行き着く。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- パルファンさん 2007/01/11 12:46:18
- 今年もよろしく
- スキピオさん
新年の挨拶にしては時間がたってしまいましたが・・
今年も旅行記で学ばせて頂きたいと思いますので、どうぞよろしく。
因みに、今回紹介された、フランス学士院を奥に臨む門が
クール・カレ、シャンポリオン門であり、オテル・ド・ヴィルの側の
騎馬像がエチエンヌ・マルセルという人であったというコメント、
フムフムとうなずきながら見せて頂きました。
目に留まっても中々知らないものですから・・
でも、このお正月はあらためてフランスの歴史に関する
本をどっさり図書館から借りてき、読んだんですよ
(読んだのは結局は半分くらい?)
これからも楽しみに、そして、もう一度行く時はそのコメントを
思い出しながら歩いてみたいなぁ、と。
- スキピオさん からの返信 2007/01/12 20:58:20
- RE: 今年もよろしく
- こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
これは多分フランスに限らないのでしょうが、欧州の街路や広場や公園の名前にはそれぞれ歴史が込められています。もちろん日本の地名も同様ですが、それでもやはり歴史に対する思いが西洋に比べると薄いようです。
ですから、フランスの町歩きは歴史好きの僕にとってはたまらない魅力です。またフランスに今年も行くことができれば、今まで以上に通りや広場を慈しみたいと思っています。
パルファンさんの旅行記を今年も楽しみにしております。
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