2006/08/12 - 2006/08/12
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スキピオさん
墓地、そこは人と魂が交錯する場。一日、冥界に遊ぶ先達たちを偲び、彼らに語りかけてみた。
墓地内のメイン・ストリート、ベルリオーズ・アヴニューをまっすぐ行き、突き当たりの「サンソン階段」を下るとサンソン・アヴニュー、墓はその通り沿いの右手にあった(注:このサンソンは後出の「サンソン家」は異なります)。
そこでは、ペトルーシカの衣装を着た舞踏家ニジンスキーが、世紀を超えて我々を待ち受けていた。
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《ニジンスキー(1890〜1950)の墓》
他の墓地ほど大きくないので、モンマルトルの墓地に来ると必ずこの天才舞踏家の前に佇む。現代の我々にとってすでに伝説となった『シェーラザード』(1910)『ペトルーシカ』(1911)そしてドビュッシーとの芸術的融合を果たした『牧神の午後』、フィルムや写真でしか見ることはできないが、それでもフォルムやフィギュールを超越した精(エスプリ、スピリッツ)の発散が感じられる。あるいはそれは危険な、人を超えた境地だったのか。ニジンスキーは翌年ディアギレフ(1872〜1929)との確執を経て、1919年、彼自ら「神との婚礼」と呼んだ最後の踊りの果てに狂気の闇に沈んでいく。 -
ニジンスキーの墓前から「サンソン階段」を望む。階段を上りきったところを左に曲がるとデュマ・フィスの墓がある。
緑が多く、静かな墓地は散歩に最適だ。 -
《スタンダール(1783−1842)の墓》
「アッリーゴ・ベイル/ミラノ人/書いた/愛した/生きた」と墓碑名に書かれている。本名アンリ・ベイルはドーフィーヌ地方の首都グルノーブルに生まれた。 -
作家は生涯自分の家というものを所有しなかった。傑作『赤と黒』はリシュリュ−通りのホテル(旧国立図書館のほぼ向かい)で書かれ、ヴァンド−ム広場近くのダニエル・カサノヴァ通りのホテルで亡くなった。ちなみにそこは現在「Stendhal」というホテルになっている。
スタンダールは「ミラノ人」と称するだけあり、ミラノの町を好み、何度も滞在する(「スカラ座」があるから)。音楽はチマローザ、モーツァルト、ロッシ−ニを、絵画はコレッジオを、そして女性はイタリアの女性をこよなく愛した。生涯独身であった。 -
左が「ベルリオーズ・アヴニュー」、右が「コルディエ・アヴニュー」
その二つの道に挟まれて、中央に劇作家アンリ・メイヤック(1831〜91)の墓がある。 -
《石の美女に永遠にその死を悼まれるメイヤック》
メイヤックは第二帝政期(1852−70)に音楽家オッフェンバック(後出)と組んで、流行の劇作家として一世を風びした。 -
もちろん左に行くと作曲家ベルリオ−ズ(1803〜69)の墓がある。
ベートーヴェンの後継者と称していた彼は、1830年に『幻想交響曲』を世に問うてフランスロマン主義の旗手となる。同年、ヴィクトール・ユゴーは戯曲『エルナニ』で、文学におけるロマン主義の勝利を確実とする。一方、やはり同年『赤と黒』を発表したばかりのスタンダールは美少女のジウリア・リニエリに恋を打ち明けられ、結婚を考えるが「住所不定・無職」に限り無く近い身の上、彼女の後見人に拒絶される。そんな中、ドラクロアの絵画『民衆を率いる自由の女神』で永久保存された「七月革命」が勃発する。 -
その「七月革命」に感激し、フランス革命の精神をしっかりと背負ったまま、戦闘的ジャ−ナリストとしてパリに赴き、そのまま亡命してしまったドイツ青年がいた。ドイツ革命の青写真を作り、ドイツ民衆の覚醒と解放を夢見つつ、パリの二月革命(1848)のドイツへの飛び火の報に接するも病床にありて、ままならず。パリで没し、パリの土となる。
ベルリオーズのすぐ先に、その情熱的なドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネ(1797〜1856)が眠る。 音楽家と詩人、彼らはどんな話をしているのだろうか。 -
その二月革命の年(48年)、若干24歳の若者が、美しい高等娼婦との恋物語を小説にしたと言って、超流行作家の父親の元にやって来る。父親はその妾腹の子供の小説を読んで大喜び、さっそく出版する。作品の題名は『椿姫』。こうして二代に渡る流行作家が誕生した。父親の名はアレクサンドル・デュマ(1802〜70)、息子の名もアレクサンドル・デュマ(1824〜95)、区別するために後者はデュマ・フィス(息子)と呼ばれる。
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《ゆったりと眠るデュマ・フィス》
傑作『椿姫』のモデルとなったアルフォンシーヌ・プレシスもこのモンマルトルの墓地に眠る。彼の墓から最遠の所に位置しているとはいえ、同じ墓地内のこと、二人は逢瀬を楽しんでいることだろう。
彼女の墓を撮って来なかったのは私の一生の不覚。以前撮ったことがあったので油断してしまった(いずれ揃えるつもりです)。 -
《作曲家オッフェンバック(1819〜80)の墓》
東(ウィーン)にヨハン・シュトラウスがいるなら、西(パリ)にオッフェンバックあり。帝政はナポレオン3世の時代(1852〜70)、パリ中に『地獄のオルフェウス』(和名『天国と地獄』)のメロディーが響き渡る。日本では、今でも運動会に欠かせない曲だ。 -
日本の墓地と違って、食物を供える習慣がないにもかかわらず、徘徊する猫が多い。
やはり墓地に猫はよく似合う。 -
非行の果てに感化院、そんな少年時代の自伝的な映画『大人は判ってくれない』で鮮烈なデビューを果たしたヌ−ヴェル・ヴァ−グの鬼才、フランソワ・トリフォー(1932〜84)。
彼はその後も矢継ぎばやに傑作を発表し続ける。『ピアニストを撃て』『突然炎のごとく』『黒衣の花嫁』『アデ−ルの恋の物語』『隣の女』などなど、彼は仲間達よりも早く幽界へと旅立ったが、人の一生涯分以上の傑作を残してくれた。
シンプルな黒大理石の下には静謐の世界が広がっているのだろうか。安らかであれ。 -
その墓は狭苦しそうにひっそりとあった。
サンソン家、こう言っても日本ではあまり馴染みがないかも知れないが、今から百五十年以上前まではパリの死刑執行人の家として知られていた。
革命時代、ギヨタン博士の提唱によりギロチンが発明されるまではまさに、死刑執行はプロの技であった(身分の差により、打ち首と絞首刑に分かれた)。
革命の平等思想は、処刑方法にまで及び、また当時の人道主義から、無痛による処刑方法が追求された。
その結果、「首筋に軽いさわやかさを感じたかと思うと、一瞬にして終わる」機械(ギロチン)が採用されることとなった。
執行がらくになったとはいえ、恐怖政治下において多忙をきわめたのは歴史の教えるところである。
ルイ16世の首を見物人にさらしているサンソン氏の姿は印象的だ。
《サンソン家の墓》
[注1:「 」の引用文は『パリ市の裏通り』堀井敏夫著(白水ブックス)より p.131]
[注2:この「サンソン Sanson」という名前は表紙に登場した「サンソン Samson」とは全く違います] -
モンマルトルの墓地の一番高いところで燦々と光を浴びて彼女は立つ。雨の日も風の日も敢然たる姿で彼女は立つ。強くあれ、ダリダ!
モンマルトルの街にあんなにも愛されていたのに、自らパルカの糸を断ち切ってしまったダリダ。けれどもここであなたが歌う限り、あなたの歌声は永遠にモンマルトルの街角に響き、人の心に感動を与え続けることだろう。 -
《シャンソン歌手ダリダ、本名ヨランダ・ジリオッティ(1933〜87)》
ダリダのレパートリーでどうしても1曲だけ選べと言うなら(500曲近くありますからまず不可能ですが)、夏も終わり落ち葉散る秋ともなれば、『ブリュッセルに雨が降る』Il pleut sur Bruxelles がぴったりです。
モンマルトルの墓地にはまだまだたくさんの文人、芸術家、著名人が眠っていますが残念ながら、割愛せざるを得ません。他の墓地(ペール・ラシェーズ墓地やモンパルナス墓地など)も紹介したいですから。
最後に墓地に眠る方々に合掌します。写真を好き勝手に撮り、お騒がせしました。
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この旅行記へのコメント (4)
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- けーしちょーさん 2006/10/28 01:00:26
- 掃苔☆inベールラシェーズ。
- スキピオさん。初めまして。
けーしちょーと申します。
いつかは行きたいベールラシェーズ。
苔を掃くと書いてソウタイ。
故人をしのぶお墓参りはライフワークになりつつあるワタシです。
わざとそうするのでないかぎり
路傍で死ぬということを
私はなんら笑うべきものとは思わない
スタンダールの日記の、予言めいた一節に胸を打たれて以来
是非とも掃苔しておきたい墓所の一つです。
日本の都営霊園とは、また違った趣に、
ひどく惹かれるワタシです。
他にも、アポリネールやマリーローランサンが
あちらの世界で逢瀬を重ねているのかもしれませんね。
他の写真も追加される予定なのでしょうか。
楽しみデス。
一票♪
- スキピオさん からの返信 2006/10/28 17:32:27
- RE: 掃苔☆inベールラシェーズ。
- けーしちょーさん、書き込みありがとう。
今回は、「モンマルトルの墓地」でしたが、次は、「モンパルナスの墓地」か「ペール・ラ・シェーズ墓地」を紹介したいと思っています。アポリネールの眠る「ペール・ラ・シェーズ」はいつ完成するか、何しろ他の墓地と異なり、巨大ですから。いつかはパリの4大墓地(パッシーの墓地)を完成させたいです。
人は生まれたところで死ぬのかな、と思っています。つまり、昔のように畳で生まれれば、畳の上で、今は病院の寝台で生まれるので、病院の寝台でというふうに・・・
《僕はどちらだったっけ?》
墓地は色々なことを考えさせられる場でもあります。でもフランス語では「墓参り」は visite を用いるようで、日本語のように表現が豊かではありません。少なくとも「苔」に関する表現はありません。夏は乾期でパリの墓地に「苔」が生えないからでしょうね。
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- おでぶねこさん 2006/10/23 23:46:07
- 何と華やかな。。。
- スキピオさん。今晩は。
さすがパリですね。
墓地に眠る方たちも、そうそうたる顔ぶれですね。
フランスの・・・パリのパリたる所以がここにあり。
そんな気がしました。パリに生き、パリに眠る。
ああ、美しすぎる・・・。
地下鉄偏といい、充実の解説に感激です。
スキピオさんのフランスへの精通振りには驚くばかりです。
日本の墓地はひゅ〜っどろどろ。。。
と、チョッと怖いですけど
やっぱりパリはお墓まで素敵ですね。
おでぶねこ
- スキピオさん からの返信 2006/10/26 19:06:38
- RE: ありがとう。
- モンマルトルとメトロを見て下さり、ありがとう。ここ何日か忙しくて、返事が遅れました。時間が許してくれれば、今度は、パリの町歩きと他の墓地散歩を書こうと思っています。よろしくお願いします。
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