本所松坂町公園
公園・植物園
3.54
本所松坂町公園 クチコミ・アクセス・周辺情報
両国 観光 満足度ランキング 5位
旧吉良邸跡地を公園としたもの。なまこ壁が往時をしのばせる。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
深々と雪の降る中、討ち入り装束を着た赤穂義士の行列が吉良邸に迫ってきます。
4.0
- 旅行時期 2023/12
- by Lily-junjunさん
「吉良邸跡」は、墨田区両国3丁目の「本所松坂町公園」にあります。「吉良邸跡」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を... 続きを読む出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、右手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り道なりに110mほど進みます。3つ目の角がありますので、その角を右折し、50mほど進むと右手に「本所松坂町公園」があり「吉良邸跡」はその中にあります 「吉良邸跡」は、「忠臣蔵」で知られる「吉良上野介義央」の江戸上屋敷跡です。かつて「吉良上野介」はこの一帯に、東西に「733間」(約134m)、「南北」に34間(約63m)、坪数2,550坪(約8,400㎡)もある広大な屋敷を構えていたそうです。現在の「本所松坂町公園」の面積は、97.56㎡なので、86分の1の規模しかありません。それを考えるといかに広大であったか想像できます。「吉良上野介」が「近藤登之介」の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701年)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703年)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。「吉良邸」は、最初は「鍛冶橋」にありましたが、元禄11年(1698年)の「元禄の大火」で焼失し、その後呉服橋で再建しました。そして、江戸城「松の廊下」での殺傷事件の後で、呉服橋の吉良邸を召し上げられて、江戸郊外の「本所松坂町」に移っていたのです。「吉良邸跡」の往時を偲ぶ高家を表す海鼠壁長屋門を模した塀と門に囲まれ、「吉良上野介」の首を洗ったとされる「首洗いの井戸」や「供養碑」が残されています。また、公園内にある「松坂稲荷大明神」は、江戸時代はじめに「御竹蔵」の水門内に鎮座した「兼春稲荷」で、討ち入り以後に「吉良邸跡」へ地所清めのために遷座したものだそうです。「本所松坂町公園」、は昭和9年(1935年)に、当地で赤穂義士による仇討ち事件が起こり、その名所を惜しんだ地元の両国三丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入し、同昭和9年(1935年)3月に、京都に寄付しました。当時ここは「本所松坂町」と呼ばれていたので、現在は「本所松坂町公園」という名称になっています。 01_【吉良邸跡(本所松坂町公園)の一口メモ】 所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目13-9 本所松坂町公園 02_【吉良邸跡(本所松坂町公園)へのアクセス】 1 電車を利用して ⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩6分400m ⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩7分500m 閉じる
クチコミ・評判 10ページ目
181~200件(全223件中)
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吉良邸跡は赤穂浪士47人が討ち入った舞台で、現在は「本所松坂町公園」となっています。
- 3.5
- 旅行時期:2013/12(約12年前)
- 1
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広くはありません
- 3.5
- 旅行時期:2013/12(約12年前)
- 1
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「江戸」を感じます
- 3.5
- 旅行時期:2013/10(約12年前)
- 0
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忠臣蔵の世界
- 3.5
- 旅行時期:2013/10(約12年前)
- 0
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吉良邸あった場所の一部が公園になっています
- 3.5
- 旅行時期:2013/10(約12年前)
- 0
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白壁があるのですぐにわかります。
- 3.5
- 旅行時期:2013/10(約12年前)
- 0
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「吉良邸跡」の公園登録名なんですね
- 3.5
- 旅行時期:2013/10(約12年前)
- 1
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1/86
- 3.5
- 旅行時期:2013/10(約12年前)
- 2
先月は泉岳寺に行ったので、今月は吉良邸跡に行って来ました。旧本所松坂町、現在は住宅やマンションが建て込んでいる中に吉良邸跡... 続きを読むはありました。泉岳寺が往時の雰囲気を残しているのに対して、この吉良邸跡は29.5坪、たった18畳ほどの面積しかなく、実際には広大であった吉良邸(東西132m、南北62m)の約86分の1という面積に過ぎません。それでも昭和9年に地元の有志の方々が「みしるし洗いの井戸」を中心に土地を購入し、東京市に寄付したことで貴重な旧跡が維持されたわけですから、感謝・感謝です。さて高家の格式を示すような“なまこ壁”に囲まれた吉良邸跡に入ると、まずは吉良公の首を洗ったとされる「みしるし洗いの井戸」が目に入ります。その左手には討ち入りの際に命を絶たれた吉良家の家臣20名を祀る「吉良家家臣二十士碑」、そして「吉良上野介追慕碑」があり、井戸の右手には愛知県吉良町の吉良家菩提寺に現存する像そっくりに造られた「吉良上野介義央公像」があります。また“なまこ壁”の内側には、事件の顛末をあらわした絵や文章のパネルが展示されていました。地元では名君として有名な吉良公、やはり吉良家の菩提寺や吉良公のお墓を訪ねて見たいという気持ちになりました。 閉じる
投稿日:2013/10/15
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吉良氏側から忠臣蔵を深く知れる公園
- 3.5
- 旅行時期:2013/09(約12年前)
- 0
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吉良上野介の人形など、忠臣蔵に縁のある品が並びます。
- 3.5
- 旅行時期:2013/09(約12年前)
- 0
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思ったより小さかったです。
- 3.0
- 旅行時期:2013/08(約12年前)
- 0
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吉良の首を洗った井戸も
- 3.0
- 旅行時期:2013/02(約13年前)
- 0
国技館の最寄り駅、JR両国駅の南側住宅街に忠臣蔵の一方の当事者、吉良上野介が住んでいた吉良邸がありました。かつて8400平... 続きを読む方メートルという大邸宅だったようですが、現在は100平方メートルほどの小さな敷地で、本物かどうかは定かではありませんが、ナマコ壁と黒塗りの門に囲まれてました。中には自由に出入りでき、中央に吉良上野介の座像、討ち入った赤穂浪士が切った吉良の首を洗ったという「みしるし洗い井戸」がありました。ところで、格式の高い吉良のような人物がなぜ江戸城から離れた両国のような場所に住んでいたのかなあと不思議に思いました。パンフを読むと、松の廊下の刃傷沙汰の時は江戸城に近い鍛冶橋に住んでいたのに、赤穂浪士が討ち入りにはいるという噂で周囲の大名から苦情が寄せられ、両国に移されたのだそうです。このことで、さらに討ち入りしやすくなったというのが世間の見方のようでした。 閉じる
投稿日:2013/02/17
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こんなところに
- 3.0
- 旅行時期:2013/01(約13年前)
- 0
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吉良上野介の上屋敷跡を公園としたところです
- 3.0
- 旅行時期:2012/12(約13年前)
- 0
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当時の広さの 1/86 と狭く意外だった
- 3.0
- 旅行時期:2012/12(約13年前)
- 0
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吉良邸跡 ~両国~
- 4.0
- 旅行時期:2012/12(約13年前)
- 0
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吉良上野介の屋敷跡です。
- 3.5
- 旅行時期:2012/12(約13年前)
- 0
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吉良上野介の像があります
- 3.5
- 旅行時期:2012/11(約13年前)
- 0
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中には「吉良の首洗い井戸」があります。
- 4.0
- 旅行時期:2012/09(約13年前)
- 0
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赤穂浪士に興味があれば。
- 4.0
- 旅行時期:2012/09(約13年前)
- 0
投稿写真
基本情報(地図・住所・アクセス)
このスポットに関するQ&A(0件)
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