「飛鳥山公園」は、さくらをはじめ躑躅、紫陽花など四季の折々の花々が咲き乱れ、私たちの目を楽しませてくれる名所として有名です...
続きを読む。しかし、その中でも特にさくらが有名です。まず「飛鳥山公園」の歴史を紐解いてみると、この「さくら」は、八代将軍「徳川吉宗」がこの地を桜の名所に仕立て上げました。当時、江戸幕府は財政難に陥り、早急な財政改革が必要で、江戸幕府創立の時代を理想に、綱紀の粛正、質素倹約、旗本・御家人の救済、農村対策などをはかるとして、娯楽等は制約されていました。その中で、江戸の新しいお花見の名所として誕生した「飛鳥山」は、当時、桜の名所地では禁止されていた「酒宴」や「仮装」が容認されていたため、人々が楽しめる唯一の場所の一つでした。そして、「飛鳥山」は、明治6年(1873年)に、太政官布達によって、「上野」、「芝」、「浅草」、「深川」とともに日本最初の公園の一つに指定されました。
「あすかパークレール」の山頂駅を降りると、正面には「飛鳥山公園の案内図」があります。ここでどのような巡路で「飛鳥山公園」を見て回るか順番を自分で決めます。やはり、「飛鳥山公園」の歴史を詳しく知りたいので、点在する石碑などを見て回る巡路にしてみました。「飛鳥山公園」は、東京一低い山「飛鳥山」の山頂に位置する公園です。その根拠となるのが、「飛鳥山公共基準点」です。平成18年(2006年)に、北区が実際に測量したところ、今まで、東京都で一番低い山と言われていた港区の「愛宕山(標高25.7m)」よりも低いと確認されたそうです。その標高は25.4mと30cmほど「愛宕山」よりも低くなっています。それを示すのが「飛鳥山公共基準点」で、「飛鳥山公園の案内図」のちょうど裏あたりに、「飛鳥山公共基準点」のモニュメントが設置されています。「飛鳥山」は、「愛宕山」より低いので、北区では「東京都内で一番低い山であることを確認した」として、国土地理院へ地形図への記載を申請したのですが、残念ながら今のところ承認されていません。
「飛鳥山公共基準点」をまっすぐ進むと左手に「明治維新百年植樹記念碑」があります。明治維新百年を記念し、都区内のさまざまな公園で植樹が行われました。「飛鳥山公園」には、この活動の記念として「明治維新百年植樹記念碑」が、昭和43年(1968年)に建立されました。
「明治維新百年植樹記念碑」の先の道は二又に分かれています。右方向に進むと「櫻の賦の碑」があります。「櫻の賦の碑」は、「佐久間象山」が50歳(万延元年:1860年)の作である「桜の賦」の遺墨をもとに門弟「勝海舟」の意により、作製されました。「櫻の賦の碑」は、「北沢正誠」の文で書は「日下部鳴鶴」です。そして、碑には、明治14年(1878年)11月15日と刻まれています。「佐久間象山」は、松代藩士の幕末の兵学者、朱子学者、思想家で、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えたのがこの「桜の賦」です。「佐久間象山」は、西洋の兵学、蘭学を学び江戸に塾を開き、「勝海舟」、「吉田松陰」、「坂本竜馬」など多くの人材を輩出した。「徳川慶喜」に公武合体と開国を説きました。残念ながら「佐久間象山」は、尊皇攘夷論者によって京都で刺され、元治元年(1864年)7月11日54歳でその生涯を閉じました。また、「櫻の賦の碑」の下には、「佐久間象山」が暗殺された時に着けていた血染めの「挿袋」(今でいうポシェット)が「挿袋石室」に埋蔵されています。ちなみに、賦とは、古代中国の韻文における文体の一つことです。
「櫻の賦の碑」の次が「飛鳥舞台」です。「櫻の賦の碑」から来た道を戻ると「飛鳥舞台」があります。「飛鳥舞台」の北側のすぐそばには「多目的広場」もあります。「飛鳥舞台」は、能舞台をイメージしたヒノキ造りの野外ステージです。観客席は階段状になっていて、見やすく、座りやすく工夫されています。「飛鳥舞台」の中央には、一本松が植えられ、いかにも能舞台らしい雰囲気を醸し出しています。そして、「飛鳥舞台」は、北区に申請すれば、誰でも利用することができます。
「飛鳥舞台」の次は、「水上赤鳥の歌碑」です。「飛鳥舞台」を下り「多目的広場」へ向かう途中に左手に階段があるので、それを上ると階段がまたあります。その階段を上り右方向に道なりに進んでいくと、左手に「水上赤鳥の歌碑」があります。「水上赤鳥の歌碑」は、「水上赤鳥」が、「飛鳥山公園」について詠んだ歌の碑で、昭和54年(1979年)11月に「ぬはり社友」によって建立されました。「水上赤鳥の歌碑」には、「そのかみの山をおほひし花ふぶきまぼりしにしてあがる噴水 赤鳥」と刻まれています。
「水上赤鳥の歌碑」の次は、「水上赤鳥の歌碑」です。「水上赤鳥の歌碑」を進むと左手に「聖観音菩薩像」があります。「聖観音菩薩像」は、彫刻家「赤堀信平」の作で、世界平和と人類の幸福を願って製作され、昭和51年(1976年)6年に北区に寄贈されました。彫刻家「赤堀信平」は、明治32年(1899年)に福島県で生まれ、東京美術学校(現東京芸大)を卒業後に「朝倉文夫」に師事し、木彫,ブロンズを制作,肖像彫刻などにすぐれた作品を残しました。
「聖観音菩薩像」の次は、「飛鳥山碑」です。「聖観音菩薩像」を進むとすぐ左手に、江戸時代には飛鳥山のランドマークとなった「飛鳥山碑」があります。「飛鳥山碑」は、八代将軍「徳川吉宗」による飛鳥山における事績を顕彰するため、元文2年(1737年)に、王子権現社別当金輪寺の住職の「宥衛」によって建立された碑です。享保5年(1720年)から享保6年(1721年)にかけて、「飛鳥山」に桜が植えられ、享保18年(1733年)には桜が根付いて花を開かせるようになり、水茶屋が10ヶ所建てられ、江戸市民の行楽の場となりました。大正8年(大正9年)3月に、「東京都指定有形文化財」になりました。ちなみに、「飛鳥山碑」は、「高さ」が218.5cm、「幅」が215cm、「厚さ」が34.5cmで、元享年間に豊島氏が王子権現を勧請したことが記されています。続いて、王子、飛鳥山、音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記されています。そして、最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記されています。
「飛鳥山碑」の次は、「明治三十七八年戦役記念碑」です。「明治三十七八年戦役記念碑」は、「飛鳥山碑」のすぐ先の左手にあります。「明治三十七八年戦役記念碑」は、明治37年(1904年)から明治38年(1905年)の日露戦争の戦役に当時の北豊島郡内から出征した約2000人の軍人に対し、明治39年(1906年)に建立された記念碑です。ちなみに、「日露戦争」は通称で、当時の政府は公式には「明治三十七八年戦役」という言葉を使っていました。そして、北区は、陸軍の後方支援施設が集中していたそうです。
次は、「都電・蒸気機関車の展示」です。「都電・蒸気機関車の展示」は「明治三十七八年戦役記念碑」を少し行ったところに「飛鳥山公園児童エリア」が広がっていて、「児童エリア」入口前に、引退した「都電」や「蒸気機関車」設置され、展示車両にも乗ることができます。「都電6080号」は昭和53年(1978年)4月まで「飛鳥山公園」横の「荒川線」(都電さくらトラム)を走っていた車両で、木造の車内がノスタルジックな車両です。令和2年(2020年)11月に再塗装を施し、リニューアルしました。そして、きれいに保存された車内は、木造の床や椅子に温かみがあって、まるで当時にタイムスリップしたよう錯覚にとらわれます。車両の先頭と後方には運転台があり、ハンドルを触って遊ぶことができます。「都電6080号」の隣にあるのが、「蒸気機関車D51853号機」で存在感があり、ひときわ目立っていました。「蒸気機関車D51853号機」は、昭和18年(1943年)に製造され、昭和48年(1972年)6月まで煙を吹き出し、走っていた車両です。操縦席には、たくさんの機器があり、本物の機関車の運転士になった気分にもなります。窓から顔を出し、下を見下ろすと驚くほどの高さがあり、蒸気機関車のスケールの大きさを体感できます。動輪や主連棒、空気圧縮機など、蒸気機関車の仕組みを間近で見ることができます。いずれにしても、新幹線や在来線、貨物列車などの列車が見えるスポットもあり、鉄道ファンにもたまらない公園です。飛鳥山公園の「展望ひろば」の「さくら亭」横の展望デッキより新幹線(東北新幹線、山形新幹線、秋田新幹線、上越新幹線、北陸新幹線)を見ることができます。
次は、「船津翁の碑」です。「都電・蒸気機関車の展示」の反対側の「飛鳥山展望ひろば」の右手には、明治政府の農業政策、特に農作物栽培法の技術的発展と普及に貢献した「船津傳次平」について書かれた顕彰碑があります。「船津傳次平」は、天保3年(1832年)10月群馬県勢多郡富士見村に生まれ、近世三老農のうち最もすぐれた人です。「船津傳次平」は実験と学理をもととし農蚕業の改良を唱え、足跡全国に及び近世日本の農事を刷新しました。ちなみに、近世三老農とは、群馬県の「船津伝次平」、奈良県の「中村直三」、香川県の「奈良専二」の3人のことです。「船津翁の碑」の篆額は、「小松宮彰仁親王」、文は「品川弥二郎」で、書は「小野鷲堂」によるものです。「横井時敬」等の提唱によって全国からよせられた寄付金で明治33年12月に建てられました。さらに驚くことにこの碑は翁の郷里赤城山麓を向いて建っています。
「都電・蒸気機関車の展示」の次は、「平和の女神像」です。「蒸気機関車D51853号機」の脇にある小路を直進すると右手に「平和の女神像」があります。「平和の女神像」は、長崎市「平和記念像」の作者として有名な北村西望氏の作品です。この像は、日本と中国の国交正常化を記念し、人類の理想である平和と幸福を願って、北区民有志を中心とした「日中友好・世界平和祈念“平和の女神像”建立の会」と北区、北区議会、北区自治会連合会、区内企業、関係団体等によって 昭和49年(1974年)に建立されました。ちなみに、彫刻家「北村西望」は、明治17年(1884年)に長崎県生まれました。大正元年(1912年)に年東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科を首席で卒業後し、北区西ヶ原のアトリエで数々の名作を製作しました。昭和56年(1981年)に「飛鳥山公園」のある北区名誉区民になりました。
「平和の女神像」の次は、「旧渋沢庭園」です。「平和の女神像」の小道を更に進むと左手の「旧渋沢庭園」の中に「晩香廬」と「青淵文庫」が見えてきます。「渋沢栄一」は、日本の近代経済社会の基礎を築いた人物で、埼玉県の農家に生まれ、幕末の20代のころ武士となり、明治維新後は大蔵省の官僚、実業家として活躍しました。「飛鳥山邸」は、かつて「渋沢栄一」の本邸だった場所です。戦災で主屋などは消失し、現在では、大正時代に建てられた「青淵文庫」と「晩香廬」が残り、「国の重要文化財」に指定されています。「渋沢栄一」は、明治維新後、「知識なくして興隆なし」という理念で、新聞、雑誌を印刷する洋紙の国産化が急務だと考え、明治5年(1872年)に「抄紙会社」(後の王子製紙、現・王子ホールディングス)を王子に創立しました。そして、「渋沢栄一」は工場を眼下にする「飛鳥山」に、まずは明治12年(1879年)に、別荘を構え、内外の賓客を招く館として活用、さらに飛鳥山をこよなく愛したことから、明治34年から亡くなる昭和6年までは家族と過ごす日常の生活の場にもしたのです。ちなみに、「渋沢栄一」は、昭和6年(1931年)11月11日に老衰(満91歳)で亡くなり、墓所は谷中霊園(台東区)にあります。
その他、「飛鳥山の狛犬」、「飛鳥山1号墳」(飛鳥山古墳群)、「飛鳥の小径」など見どころ満載の公園です。そして、飛鳥山公園児童エリア側には、「紙の博物館」、「北区飛鳥山博物館」、「渋沢史料館」3つの博物館が並んでいますので、ゆっくり鑑賞すると一日がかりになると思います。
01_【一口メモ】
⑴ 所在地…〒114-0002 東京都北区王子1丁目1-3
02_【アクセス】
⑴ JR京浜東北線「王子駅」中央口か南口出口から徒歩1分70m(あすかパークレールまで)
⑵ 東京さくらトラム(都電荒川線)「王子駅前」出口から徒歩2分130m(あすかパークレールまで)
⑶ 東京メトロ南北線「王子駅」1番出口から徒歩2分140m(あすかパークレールまで)
⑷ 東京さくらトラム(都電荒川線)「飛鳥山」出口から徒歩4分350m(あすかパークレールまで)
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投稿日:2024/07/11