法華堂跡(源頼朝の墓 北条義時の墓)
名所・史跡
3.41
法華堂跡(源頼朝の墓 北条義時の墓) クチコミ・アクセス・周辺情報
鎌倉 観光 満足度ランキング 34位
現在の墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂と呼ばれた。墓の層塔は1779年(安永8)に島津重豪により大御堂から移されたものといわれ、明治の神仏分離により墓前に白旗神社が建立される。国指定史跡。
ピックアップ クチコミ
クチコミ・評判 2ページ目
21~40件(全84件中)
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本当の源頼朝のお墓は島津重家が整備した供養塔の東側にあります
- 3.5
- 旅行時期:2022/02(約4年前)
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鎌倉駅から徒歩圏内 頼朝の墓は高台
- 3.0
- 旅行時期:2022/02(約4年前)
- 2
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アプリも
- 3.0
- 旅行時期:2022/01(約4年前)
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大河ドラマで話題
- 3.0
- 旅行時期:2021/12(約4年前)
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塔の周囲にあるいくつかの説明を読んでいくと、とても興味深い
- 3.0
- 旅行時期:2021/11(約4年前)
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JR横須賀線鎌倉駅が最寄り駅。
鎌倉駅東口から北東へ約1.7㎞のところにあります。
説明板によると、鎌倉幕府を開いた源... 続きを読む頼朝は正治元年(1199)に没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。
法華堂はその後廃絶しましたが、こちらはその跡です。
現在建っている塔は、後に島津藩主島津思豪が整備したものだそうです。
塔の近くには、この説明板の他にも、頼朝と島津藩・長州藩とのつながりや頼朝とその弟とのエピソードなどの書かれた説明板が」いくつかあり、それぞれ興味深い読み物になっています。
近所の小学生が書いたと思われる説明板もわかりやすくて重宝しました。
閉じる投稿日:2022/09/13
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荏柄天神社とともに巡りました。
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- 旅行時期:2021/10(約4年前)
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18世紀に薩摩島津家により整備
- 3.0
- 旅行時期:2021/04(約5年前)
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鶴岡八幡宮の東400m程のちょっと奥まった山の中腹にあります。史上初の武士政権鎌倉幕府を作った源頼朝の、しかも、その鎌倉... 続きを読むの中心にある国指定史跡のお墓と聞いて参拝に向かいましたが、想像を絶するほど質素でした。法華堂とは墓所に建てられるお堂を指すそうです。
53歳で没した頼朝は、こちらに葬られたと伝えられているそうですが、当初は武士たちの熱い信仰を集めていたものの、17世紀初めには、お堂はなくなっていたとのことです。18世紀末に第8代薩摩藩主島津重豪によって層塔が整備されたそうです。ゆえに、頼朝の墓なのに、島津家の家紋の十文字紋を確認できます。なんでも、薩摩藩島津家の祖となる人物である島津忠久が頼朝の庶子と言われており、その忠久のお墓と共に整備したとか。その忠久のお墓は、山裾を右の方に進んでいくとあります。
この山の麓がちょうど鎌倉幕府(大蔵幕府)のあった場所ですので、往時は鎌倉の中心地から崇められる最高の場所だったんでしょうね。
閉じる投稿日:2021/09/16
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法華堂(鎌倉):わかりにくい背中がゾックとする場所、源頼朝・北条義時や鎌倉時代の御家人の墓が
- 1.0
- 旅行時期:2020/11(約5年前)
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法華堂跡の指定範囲は山稜部と南側山裾部の東西約110m南北約70mで、法華堂跡内には点在して源頼朝・二代目執権北条義時や同... 続きを読む時代の御家人の墓がある歴史的な空間の総称。
法華堂跡の説明不足で案内表示方法が不親切で、源頼朝の墓以外は個別の名称表示板が無いため、非常にわかりにくい場所だった。
山稜中腹部の塚と石塔が源頼朝墓。場所が変わり、源頼朝の墓から東に100m程にある平坦な広場が北条義時墓とされる法華堂跡。
法華堂跡の奥の山肌のやぐらが三浦泰村一族の墓とされる洞穴。
法華堂跡の急な階段を登ると島津忠久(向かってに左)・大江広元(中央)・毛利季光(向かって右)の墓が仲良く三つ並んでいる。
源頼朝の墓以外は観光客がおらず、薄暗い静寂な空間で背中がゾックする場所だった。
閉じる投稿日:2021/05/05
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40数年ぶりに訪れました
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- 旅行時期:2020/11(約5年前)
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鎌倉幕府開祖の墓はひっそり
- 3.0
- 旅行時期:2020/11(約5年前)
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北条義時と源頼朝の墓
- 4.0
- 旅行時期:2020/10(約5年前)
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源頼朝公墓前祭の祭祀権は篤姫が輿入れした後に島津家に移った
- 3.0
- 旅行時期:2020/09(約5年前)
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鎌倉市西御門の白旗神社前の石段を上ると源頼朝の墓がある。
この多層塔(供養塔)は、安永8年(1779年)に薩摩藩主の... 続きを読む島津重豪(しまづ しげひで)が勝長壽院跡にあった多層塔(供養塔)を運んできて建てたものである。
この時の将軍は第10代徳川家治である。第11代将軍は徳川家斉(御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男)である。
重豪は頼朝公のお墓を建てさせていただいたお礼に娘を第11代将軍徳川家斉の御台所として差し出した。
その後、薩摩藩主の島津斉彬(しまづ なりあきら)は本家には良い娘がいなかったので
分家の一(かず)を本家の養女として安政3年(1856年)11月に第13代将軍徳川家定(とくがわ いえさだ)の御台所として嫁がせた。その人が篤姫、後の天璋院である。
家定の将軍在位は嘉永6年(1853年)~安政5年(1858年)であるが、この間に頼朝公墓前祭の祭祀権が徳川宗家(将軍家)から島津家に移された。
若尾登美子の小説では篤姫は一橋慶喜を次期将軍(第14代)にすることが斉彬からの命として描かれているが、密命は頼朝公墓前祭の祭祀権を手に入れることであった。
それに成功して、今では源頼朝公墓前祭から鎌倉まつりに発展している。篤姫は隠れた鎌倉への貢献者である。(https://4travel.jp/travelogue/11595621) 閉じる投稿日:2020/09/06
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頼朝の墓
- 3.0
- 旅行時期:2020/07(約5年前)
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大蔵山(法華堂山)に残る横穴墓群には伝北条義時墓も
- 5.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
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源頼朝公の廟所
- 4.5
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
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鶴岡八幡宮近くの法華堂跡に建つ白旗神社から石段を上ると源頼朝公の墓がありました。
- 3.0
- 旅行時期:2019/02(約7年前)
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武士の棟梁らしい質素な墓
- 4.0
- 旅行時期:2018/12(約7年前)
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今は小さな石塔を残すのみ
- 3.5
- 旅行時期:2018/12(約7年前)
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昔は立派な墓標だったんでしょうか
- 3.0
- 旅行時期:2018/08(約7年前)
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小さなお墓
- 3.0
- 旅行時期:2018/06(約8年前)
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