今時、こんな父親はいないのでは・・・と思います。
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- 旅行時期:2021/05(約5年前)
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by リラクマさん(女性)
萩 クチコミ:317件
1855年(安政2年)に松陰が幽囚された大きな家ですが、実際に生活出来たのは東側にある3.5畳の部屋です。でも、松下村塾を設けて、教育の場を与えるなど、藩の意向とは異なり、人との接触を制限しなかった父親の度量も大したものだと思います。この建物は実父の杉百合之助が1853年(嘉永6年)に友人の瀬能吉次郎から借りた家です。百合之助の藩職は百人中間頭兼盗賊改方です。警察署長の様な役目でしょうか。
そもそも、松陰は1852年(嘉永5年)に、藩の許可が下りる前に東北視察に出掛けてしまい、脱藩の罪で家禄没収と藩士の身分をはく奪されて、百合之助の「育み」とする裁定が出ています。浪人にはしないで保護観察処分みたいなものでしょう。また、藩主・毛利敬親の温情で10年間の遊学が認められます。これ幸いと早速視察の旅に出て、1854年(嘉永7年)には黒船での密航を企てます。杉百合之助は責任を取って、切腹を申し出ますが不問とされています。国元蟄居となり幕府より萩藩に引き渡されて野山獄に収監されます。藩の罰則には、士分は個人刑がなく家単位です。野山獄は家族からの申し出による借牢です。松陰も形式的に百合之助の申し出となりました。14ヶ月ほど収監され、藩の怒り?も収まり、幕府裁定の蟄居として、百合之助の家に幽囚されたのです。1859年(安政6年)に老中暗殺謀議を問われて江戸護送になると、百合之助はやっとというか初めて責任を問われて藩職を罷免され、家督も長男に譲っています。それでも、1863年(文久3年)になると、原職に復帰となります。1865年(慶応元年)に辞職しますが、程なく亡くなっています.享年62歳でした。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2021/06/22
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