2015/05/09 - 2015/05/09
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
サン・セバスティアーノ。日本語ではセバスティアヌスと呼ばれることが多いこの聖人。これまで、いくつかの教会でおじいさんの姿で登場し、内心ショックを受けたのですが、一般的には若くてイケメンの裸の男性で、木に縛りつけられ、体に何本かの矢が刺さっている姿を目にすることが多いです。昨年フィレンツェのウフィッツィ美術館でソドマ(ジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ)による「聖セバスチャンの殉教」を見て以来、気になる存在となりました。
ソドマというニックネームからも連想できる通り、実は彼、ゲイの人たちの憧れ、 守護聖人でもあるようです。かの三島由紀夫も興味を持っていたそうですよ。皇帝ディオクレティアヌス(在位 284年〜 305年)時代の近衛兵の長で、弓矢で射られても死なず、最後は撲殺されたということです。
そのセバスティアヌスに捧げたサン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂は、ローマの七大聖堂の一つです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
サン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂です。
紀元1世紀頃はセメントを作るための採石場でしたが、1世紀末に地盤が崩落し、その跡地にローマの神々の霊廟が作られ、それが地下墓地へと徐々に姿を変えていったようです。
ローマの二大聖人サン・ピエトロとサン・パオロの遺体も、皇帝ヴァレリアヌスの迫害を逃れるために一時ここにあったと言い伝えられています。
教会の創建は4世紀初め。コンスタンティヌス1世の時代でした。当初は使徒の教会、つまり、ピエトロとパオロに捧げられた教会だったようです。地下墓地には他にもサン・セバスティアーノ、クリヌス、エウティキウスといった殉教者が葬られており、9世紀にはサン・セバスティアーノに捧げる教会となり、彼の聖遺物は現在の教会下にある地下室へと移されたのです。 -
9世紀ともなるとローマはその支配力を失い、城壁の外はしばしばイスラム教徒、ロンバルディア地方の未開人、ならず者らに襲撃されました。その結果、教会は聖人の聖遺物を城壁内に持ち帰り、それらを再安置せざるを得ませんでした。多くのカタコンブではこの頃盗掘が横行しました。ここからほど近いサン・カッリストのカタコンブもその例外ではなかったようです。
唯一、中世の間一度も閉じられることがなく、常に参拝者が訪れていた教会、それがここサン・セバスティアーノ聖堂でした。
カタコンブはこちらかな? と最初間違えて裏に回ってしまいました。 -
聖堂の裏です。一見古ぼけた佇まいに見えますが、騙されてはいけません。裏口の扉付近に注目。何本もの電線の束、そして監視装置?がいくつも作動中でした。
正面、電線の束を実にぎこちない方法で隠しているのが面白い・・・ -
カタコンブ入り口は、聖堂のすぐ右隣でした。30分毎に言語ごとのツアーが出発します。英語を選びましたが、私の入ったツアーはその殆どがロシア人でした。昨年からの旅行で多くのロシア人達を目にしましたが、概してロシア人は愛想がなく、ぎこちなく、フレンドリーでない印象を持っていました。しかし、話してみると案外気さく。今回時間があったので、そのうちの2、3人と話し始めたら、あっという間に大勢のロシア人に囲まれてしまいました。
お互いたどたどしい英会話なので、たいした話は出来ませんでしたが・・・ -
ツアーが始まるまで、建物の奥にある博物館を見て回ります。
例えば、こちらの古いローマの石棺。 -
この下に、写真のようなイラスト入り説明がついているのですが、悲しいかな。イタリア語オンリーでした。読んでも二人が姉妹であること位しか理解できませんでした。中央に十字架があるので、キリスト教徒の墓かしら? この腕を交互に曲げたポーズには一体どんな意味があるのかなあ・・・
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博物館内部の写真です。殆どが断片のみで、きちんとした形を残しているものは少なかったです。
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ツアーはこちらから階段を下りて行きます。残念ながら撮影は一切禁止です。
中は驚くほど広く、地下4階までありました。大型の長方形の箱がいくつもアパートのように積み重なったタイプや、家族用の小さな祠タイプのもの、キリスト教徒だけでなく、それ以前のローマの人々のもの、キリストを象徴する魚等が彫られた石板などを思い出しますが、画像がないため、すぐに忘れてしまいそうです。
一番印象的だったのは最下層部にあった、キリスト教以前の時代の、神殿のような立派なファサードを持つ廟が立ち並んだ場所。お金持ちの墓所だったに違いありません。ローマ風の三角形のペディメントを持ったファサードから中を覗くと、そこには更に下に降りていく階段があり、奥に3段、4段になったカプセルホテル風! の墓が並んでいました。
人骨が見当たらないので、ガイドさんに質問したところ、全ての人骨は調査の上集められ、別の場所に改めて埋葬したとのことで、このカタコンブには骨は一切残っていませんでした。
ツアーは約30分間。全長12kmにも及ぶ迷路のような地下世界を暫し体験しました。カタコンブと言えば、パリのモンパルナスにあるような地下墓地を想像していたので、これほど美しい建物群に会えると期待しておらず、思いがけない収穫を得たような気がしました。 -
無事に地上の世界に戻ってまいりました。ツアーにはロシア人が多かったと書きましたが、彼らは聖堂に戻ってくると、なんとアカペラで讃美歌(と呼ぶのかどうか分かりませんが)を唄い出したのです。
静かだった聖堂内に素晴らしいハーモニーのロシア語?の歌が流れ、他の観光客の皆さんも立ち止まって聞き惚れていました。こちらも予定外の収穫。
さて聖堂です。もっと大きな派手なものを想像していましたが、こじんまりとしていて全く予想が外れてしまいました。一廊式で側廊のない構造。大きなアーチの奥に礼拝堂が納まっているスタイルです。 -
17世紀になってシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の命により行われた改修工事で、ヴァサンツィオが作った木彫りの天井が見事です。ひときわ目立つ装飾は、こちらの紋章。本にはボルゲーゼ家の紋章と書かれていましたが、確かそれは鷹とドラゴンの組み合わせのはず。これは教皇グレゴリウス16世の紋章だと思うんだけど・・・おかしいなあ・・・
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そしてもう一つが、アニバーレ・デュランテ作のサン・セバスティアーノの見事な彫刻。彼の殉教のシーンを再現しています。
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祭壇は、フラミニオ・ポンツィオの設計で左右2本ずつの緑の柱が中央の祭壇画を支えています。祭壇の脇には、ピエトロとパオロの胸像。こちらはニコラス・コルディエの作品です。
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こちらはアルバーニ礼拝堂。主祭壇より豪華さで優っていました。ドームの複雑なスタッコ装飾が印象的なこちらの礼拝堂の設計は、1706年のカルロ・フォンターナによるものです。
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様々な植物を交差させたデザインを多用していますね。複雑だけれど、ごてごてはしておらず、結構気に入ったようで、何枚も同じ写真を撮っていました。
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祭壇の上に立つ彫像は、列聖されている教皇ファビアヌス(在位 236年〜250年)。彼はあまり馴染みのない人ですが、教皇に選ばれたいきさつが変わっています。教皇選のために、広場に集まってきたキリスト教徒は、一羽のハトがまるで聖霊のように彼の頭の上に下りるのを見たというのです。その結果、ライバルらを退け、ファビアヌスは教皇に選ばれました。250年に皇帝デキウスの迫害を受け殉教するまで、精力的に仕事をこなしたことでも知られています。
彫刻は、フランチェスコ・パパレオの作品です。 -
途中で見かけたポスター。左上に描かれたゴルゴダの丘らしきものが気になりました。光り輝く洞窟の入り口をふさぐ丸い大きな石は、何かの映画で見たような気分。
下に書いてある文句、なんて訳すのかなあ・・・「私は昇天し、いつもあなたと一緒にいる」てな感じでしょうか?間違っていたらご指摘ください。 -
こちらは、身廊右中ほどにあるサン・セバスティアーノ礼拝堂。チロ・フェッリによって1672年に作られました。とはいえ、そもそも肝心の礼拝堂そのものを写していませんねえ。
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こちらの矢の刺さったセバスティアーノの彫像は、ベルニーニの弟子の一人だったアントニオ・ジョルゲッティの作品です。大理石で作られていて、横向きになったセバスティアーノの姿は大変珍しいです。なんでもベルニーニが直接描いたスケッチを元に作ったと言われています。
伝説によると、セバスティアーノは体中に矢が刺さった状態でも死ななかったそうです。その矢を抜き取った跡が、ペストにかかった時の皮膚の小出血斑に似ているため、中世の時代には、ペストでも死ななかった聖人として、多くの信仰を集めたのだとか。
やはり、サン・セバスティアーノはこうでなくっちゃ! サン・ジョルジョ・イン・ヴェラーブロ教会でみたあの老人は一体誰だったのかしら??
http://4travel.jp/travelogue/11030004 -
こちらは、教会の入り口付近の写した1枚。
教会には、このほか、クォ・ヴァディス?教会にあったキリストの足型「キリスト足」の本物や、セバスティアーノに当たった矢の内の1本、彼が縛られていた柱等の展示もあったのだそうですが、とんと記憶にございません。 -
最後にご紹介するのは、こちらの胸像。題名はサルヴァトール・ムンディSalvator Mundi。サンヴァトール・ムンディとは、右手を挙げて祝福のポーズをし、左手はオーブ(地球を象徴する)を持つキリスト像のことで、強い終末観的意味合いを感じさせるものです。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品が有名ですが、こちらのキリスト像は(解説を読むまで、キリストとは思いませんでした)なんと、ベルリーニの作品と書かれていました。
キリストは右手を揚げてはいますが、古典的なやり方ではなく、また、左手のオーブは服の中に隠れて、オーブがあるかどうか私には確認できませんでした。しかし、大理石にもかかわらず、こういうふうに服のひだを表現できる人は、ベルニーニ以外考えられませんね。
ローマ近郊のオデスカルキ城からこの教会にこの像が持ち込まれたのは、ナポレオン侵攻時代ですが、ずっとアルバーニ礼拝堂の隣にひっそりと飾られていて、それがベルニーニと判明したのはなんと、2001年のことなのだそうです。
どの解説書をみても、この教会にベルニーニがあるとは書いていなかったので、思いがけないサプライズとなりました。 -
こちらが、その解説ですので、興味のある方は拡大してお読みになってください。
上のスケッチは、ベルニーニによる、サルヴァトール・ムンディの胸像のスケッチだそうです。 -
外に出てきました。ちょうどバスが来ていたけれど、反対方向なので乗れません。少し先に円筒型の塔が見えているので、もう少しアッピア街道を歩いてみようかしら・・・
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いつの間にか、街道は静かになっていて、先ほど恐れをなした車がびゅんびゅうん行きかう狭くて怖い道ではなくなっていました。
このくらいの交通量なら、ゆっくり歩いてアッピア街道というプランもありです。 -
やがて、左手に見えてくるのはマクセンティウスの競技場。チルコ・マッシモと同様の戦車競走等を行う複合施設として、皇帝マクセンティウス(在位 306年〜312年)により建造されたものです。
マクセンティウスは312年、ミルウィウス橋の戦いでコンスタンティヌス1世に敗れ、わずか6年で皇帝の座を降りることになるのですが、そのためか、ここで行われた行事で記録にあるものはわずか1回のみだそうです。 -
マクセンティウスの別荘と競技場 その下にはロムルスの霊廟 と書かれた看板がありました。
ロムルスとは、早逝したマクセンティウスの長男ウァレリウス・ロムルスのことで、彼を追悼した309年の行事が前述の競技場での唯一の公式行事でした。
ロムルスの霊廟は、古代の図を見ると、ぐるりと回廊で囲まれた長方形の柱廊に円筒形の建物がくっついた、いわゆるパンテオン型の建物で未公開と聞いていたけれど、入れたのかしら? 現在、周りの回廊部分は殆ど残っていません。多分、上の写真はその一部だと思われます。 -
塀の外からの眺めですが、宝物のような景色が続きます。
次に見えてきたのは、マクセンティウスの競技場の一番西端に立つ塔です。トラックは、斜め右奥の方向に伸びていて、全長513m、幅92mもあります。空から見たグーグルマップの画像では、ほぼ完ぺきな形で残っているようです。 -
この辺りのアッピア街道は上り坂。午後の強い日差しが少々きついです。
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ここが、先ほどのマクセンティウスの別荘、競技場等の入り口のようですが、閉まっていました。
調べてみたら、開場は9:00〜13:00のみですって。
ありえねー!! -
ローマの「石松」の並木が続くアッピア街道。右側にも古さを感じさせる家並みが続きます。
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やがて見えてきたのが、チェチリア・メテッラの墓。墓っていうより要塞みたいな巨大な建物です。
この辺りはちょうどアッピア街道の始まりから3マイル(1ローマンマイルは1481m)マーカーがあったところだそうです。 -
チェチリア・メテッラは紀元前1世紀のローマの執政官の娘で、カエサルの部下だったマルクス・リキニウス・クラッススの息子(同名)の妻だそうです。彼女自身は特段有名人でも何でもありませんが、墓は素晴らしく大きな円筒形の建物です。直径29.5m、高さ12mあって、その塔の上に、高さ8.3mの正方形の神殿が建てられていました。合計の高さは、計算が合いませんがなんと21.7m! 中世の時代には、やはり要塞として使われていました。
円筒形の建物の丈夫な理由は、ここでも半液体モルタルと骨材から作られるローマンコンクリートにあるようです。この墓に使われていたモルタルからは、砂の代わりに溶岩が用いられたことがわかっています。 -
1302年頃、教皇ボニファティウス8世の支援を受けたカエターニ家は、チェチリア・メテッラの墓を含む土地を購入し、墓を要塞化し、隣に城、厩舎、住宅、倉庫、聖ニコラス教会等を築きました。
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カエタニ家は、アッピア街道の通行を牛耳り、道を通る馬車、人から法外な通行税を取り立てていました。その後砦の持ち主はサヴェッリ家、オルシーニ家と変わりましたが、1435年にはローマ元老院の持ち物となり、1485年の段階で廃屋となったようです。
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3階建てのカエタニ城です。3階部分については利用目的が不明ですが、2階部分には暖炉があり、洗練された品々がみつかったことから、上流階級の家庭によって使われていたことが明らかになっています。
現在、この城では遺跡や屋敷跡から見つかった様々な装飾品を展示しています。 -
ここは開館中でしたが、チケットがカラカラ浴場、クインティーリ荘との共通券しかなかったので、入場はしませんでした。クインティーリ荘はここから歩いて1時間半、カラカラ浴場はサン・セバスティアーノ門から歩いて10分位のところにありますが、いずれも今回の訪問予定には入れてませんでした。
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さあ、そろそろ戻りましょうか? 入場券売り場の人に訊いたら、バス停はサン・セバスティアーノ聖堂を通り越して、500m位いった先まで行かないとないとのこと。ここからたっぷり1km以上ありそうです。
夕方になり、日陰の部分が多くなってきたので、大変気持ちの良い散歩コースでした。
ねっ! 美しいでしょう? -
歩きにくい道なので、底の厚い靴が必需品です。
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15分近く歩いて、ようやく118番のバス停到着です。バス停のある側は日差しが物凄かったため、通りの向かい側に避難してバスを待ちます。
短い間でしたが、アッピア街道をこの足で歩けて良かったです! -
このバスは、ピラミデ、チルコマッシモ方面に行くのですが、私はサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂に向かうために、サン・セバスティアーノ門で下車しました。
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折角なので、アウレリアヌス城壁に沿って歩きましょう。パッと見、とてもこの城壁を超えるなんてできないように思われます。
こんなすごいものを、わずか5年弱で仕上げたとは恐れ入ります。 -
まだ明るいのに人通りも殆どなく、殺風景と言われれば、確かにその通り。
私がローマに侵入しようとする異民族であったら、その場で取って返すでしょうが、476年西ローマ帝国の滅亡後力を得た東ゴート王国(大王テオドリックによって建国された東ゴート族の王国。首都はラヴェンナ。)のトティラ王は545年、実に城壁の三分の一を破壊してしまうんですよね。そういう東ゴート王国も、その後は短命に終わってしまうのですが・・・ -
サン・セバスティアーノ門が見えてきました。
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門は何度か改修されています。名君の反対、暗君として知られる皇帝オノリウス(在位 395年〜 423年)は、401年、城壁の高さを高くするとともに、塔も1階分高さを加えて、門を更に強固なものにしています。現在の門は、この時の改修後の姿にほぼ近いそうです。
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サン・セバスティアーノ門に併設されている城壁博物館の営業も終了していました。09:00〜14:00のみの公開だそうです。ありえねー!!!
こんなことだから、ローマの観光は時間が予定以上にかかります。 -
城門をくぐると、すぐ先に、もう一つ門が見えました。ドゥルーゾDrususの門です。
正確にはこちらは門ではなく、アーチ。3世紀後半までカラカラ浴場に水を送っていた高架式水道橋の一部という説が有力ですが、アーチ部分の外観がカラカラ浴場よりかなり古く、元々は水道橋ではなかったという意見もあります。 -
現存しているのは、アーチの中央部分のみですが、オリジナルは三重のアーチあるいは少なくとも、両サイドに何らかの装飾物があったと考えられています。
高さは7.21m。石灰岩の表面に大理石を張り合わせた構造で、アーチの上のコンクリートに煉瓦をかぶせた部分とは時代が異なるようです。 -
アーチの両側に立っているのは、古代ヌミディア産(現在のアルジェリア)の大理石の柱です。すごく立派なこの柱を見ても、やはり下の部分が単なる水道橋のアーチという説には意義を唱えたくなります。
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ドゥルーゾの門の右手を見ると、水道橋の遺構らしき煉瓦のアーチが森の中に続いていました。
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いつもは日の目を見ない、サン・セバスティアーノ門の内側の写真を1枚。塔の継ぎ目を見ると、徐々に高さを増していった歴史がわかりますね。
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門の建物の下の方に、直方体の蓋か栓のような石が三つ並んでいました。これを外すと、水が流れてきたりするのかなあ・・・二つずつ開いた穴が面白いです。
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さあ、それでは本日最後の訪問地、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノに向かうとしますか。
短い距離ですが、今日もかなりの距離歩いたので、バスで移動することにします、 -
通りの向かい側のバス停から見たアウレリアヌス城壁。ここまで下がるとあまり威圧感は感じず、城壁の変遷に思いを巡らします。
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次回は時間を調整して、城壁博物館伺いますよ。
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ということで、サン・ジョヴァンニ門まで戻ってまいりました。教皇グレゴリウス13世(在位 1572年〜1585年)のために1574年に完成したこの壮大な門は、製作者が誰なのか・・・ジャコモ・デッラ・ポルタか、あるいは、ミケランジェロが設計したピア門で、彼の死後仕事を引き継いだジャコモ・デル・ドゥカかで意見が分かれています。何せ、文献には、「有名な建築家ジャコモ」としか書かれていないそうなのです。
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ここは南イタリアへの重要な交通の要衝であり、交通量の飛躍的な増加に伴い、古くからのアジナリア門に隣接して作られた門であるため、機能ばかりが優先された結果、両脇の塔、塁壁、胸壁といった防御に必要なものに欠けているのが特徴と言えるかもしれません。
現代の車社会に対応するために、1926年には道路の幅を広げ、城壁に穴を開けて、車の通行を可能にしたのだそうです。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その16 ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノで。
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この旅行記へのコメント (2)
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- マリアンヌさん 2015/08/19 12:51:58
- サン・セバスティアーノ・ラテラノ聖堂
- こんにちわ、junemayさん。
また興味深い場所にご案内いただきありがとうございます。
サン・セバスティアーノの彫像、さすがベルニーニの弟子、魅力的ですね!
撮影禁止だった地下世界、興味深々です☆
ローマの棺のアニメのイタリア語、辞書ひいてみました。直訳で間違ってるかもしれませんが。
マントに包まれた期待(不安)で震える二人の姉妹(尼僧)のまなざしは、生死を接合する合意を示す、十字架において同じ到着点を示す 的な・・・
城壁も本当に立派、歴史を添えていただきとても楽しいお散歩でした。
また続きを楽しみにしています。
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2015/08/19 22:57:03
- RE: サン・セバスティアーノ・ラテラノ聖堂
- こんばんは マリアンヌ様
またまたご訪問いただき、嬉しい限りです。
素敵な翻訳、ありがとうございました。
そういう意味だったんですね。
手の動きとは関係がなかったんだ。納得です。
お陰様ですっきりしました。
どこへ行っても、何か見逃したり、時間がなかったりで、やること中途半端だなあと思っておりましたが、15回もいかれたマリアンヌさんでもまだ見ていらっしゃらないところが沢山あるのですね。
改めてイタリアの奥深さを感じました。
またお出かけください。お待ちしております。
junemay
> こんにちわ、junemayさん。
>
> また興味深い場所にご案内いただきありがとうございます。
> サン・セバスティアーノの彫像、さすがベルニーニの弟子、魅力的ですね!
> 撮影禁止だった地下世界、興味深々です☆
>
> ローマの棺のアニメのイタリア語、辞書ひいてみました。直訳で間違ってるかもしれませんが。
> マントに包まれた期待(不安)で震える二人の姉妹(尼僧)のまなざしは、生死を接合する合意を示す、十字架において同じ到着点を示す 的な・・・
>
> 城壁も本当に立派、歴史を添えていただきとても楽しいお散歩でした。
> また続きを楽しみにしています。
>
> マリアンヌ
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