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日本100名城巡りを始めました。

【日本100名城】No.27 上田城

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2026/06/21 - 2026/06/21

685位(同エリア694件中)

旅行記グループ 日本100名城

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tenko__mori

tenko__moriさん

この旅行記のスケジュール

2026/06/21

  • 長野駅→上田駅

  • 上田駅→上田市観光会館

  • 上田市観光会館→上田城

  • 上田城→岡崎酒造

  • 岡崎酒造→上田駅

この旅行記スケジュールを元に

日本100名城巡りを始めました。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
ショッピング
3.5
交通
3.0
交通手段
徒歩
  • 新幹線を使って長野駅から上田駅に移動しました。<br /><br />上田駅から二の丸通りを15分ほど歩いて上田市観光会館に着きました。ここではスタンプと御城印をゲットできます。

    新幹線を使って長野駅から上田駅に移動しました。

    上田駅から二の丸通りを15分ほど歩いて上田市観光会館に着きました。ここではスタンプと御城印をゲットできます。

  • 真田幸隆(真田幸綱)、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)、真田三代の甲冑が展示されていました。

    真田幸隆(真田幸綱)、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)、真田三代の甲冑が展示されていました。

  • いつもの。<br /><br />上田城は上田市観光会館と道路を挟んだところにあります。

    いつもの。

    上田城は上田市観光会館と道路を挟んだところにあります。

  • 上田城の説明。

    上田城の説明。

  • 二の丸橋を渡って二の丸に侵入します。

    二の丸橋を渡って二の丸に侵入します。

  • 橋の下は遊歩道になってます。当時は空掘だったのかな?

    橋の下は遊歩道になってます。当時は空掘だったのかな?

  • 二の丸の東側、現在上田市立博物館がある場所には当時は米を蓄えておく米倉があったようです。

    二の丸の東側、現在上田市立博物館がある場所には当時は米を蓄えておく米倉があったようです。

  • 二の丸は一部工事中。

    二の丸は一部工事中。

  • まずは本丸に向かいます。

    まずは本丸に向かいます。

  • 木々の向こうに見える建物らしきモノは二の丸と本丸の境にある櫓です。

    木々の向こうに見える建物らしきモノは二の丸と本丸の境にある櫓です。

  • 本丸の堀の近くに冠塀台石垣(かんむりべいだいいしがき)なるものが存在していたとのこと。侵入者がこの石垣を迂回するところを四方八方から攻撃する、と。

    本丸の堀の近くに冠塀台石垣(かんむりべいだいいしがき)なるものが存在していたとのこと。侵入者がこの石垣を迂回するところを四方八方から攻撃する、と。

  • 東虎口櫓門に着きました。<br />門の前では甲冑を着た方が来訪客に何かしら説明しているようでした。<br /><br />調べたら「信州上田おもてなし武将隊」という方々のようでした。

    東虎口櫓門に着きました。
    門の前では甲冑を着た方が来訪客に何かしら説明しているようでした。

    調べたら「信州上田おもてなし武将隊」という方々のようでした。

  • そんな橋の上からのお堀の景色がこちら。

    そんな橋の上からのお堀の景色がこちら。

  • こちらは門に連結している石垣。<br />他と比べて大きい石が確認できます。

    こちらは門に連結している石垣。
    他と比べて大きい石が確認できます。

  • こちらは真田石と呼ばれているものです。<br /><br />当時は城の玄関口に巨石を配置することで、訪れる者に城主の権威や力を見せつけるという慣習があったそうで、こちらの真田石も真田昌幸が上田城を築城した際、上田盆地の北方に位置する太郎山から切り出してきたものだそうです。<br /><br />また、看板に書いてありますが、1622年に真田信之(昌幸の長男)が松代への移封を命じられた際、「父の形見」としてこの真田石を一緒に持っていこうとしましたんですが、数万人もの労働者を集めて引かせても微動だにしなかったため諦めたという逸話もあります。<br /><br />ただ、数万人でも微動だにしなかったというのはフィクションだそうです。真田石は大きく見えますが、厚さは数十センチくらいしか無いらしい。

    こちらは真田石と呼ばれているものです。

    当時は城の玄関口に巨石を配置することで、訪れる者に城主の権威や力を見せつけるという慣習があったそうで、こちらの真田石も真田昌幸が上田城を築城した際、上田盆地の北方に位置する太郎山から切り出してきたものだそうです。

    また、看板に書いてありますが、1622年に真田信之(昌幸の長男)が松代への移封を命じられた際、「父の形見」としてこの真田石を一緒に持っていこうとしましたんですが、数万人もの労働者を集めて引かせても微動だにしなかったため諦めたという逸話もあります。

    ただ、数万人でも微動だにしなかったというのはフィクションだそうです。真田石は大きく見えますが、厚さは数十センチくらいしか無いらしい。

  • 真田時代の上田城は土塁がメインで、石垣はこの門の周りなど重要な場所にしか存在しなかったとのことです。<br /><br />関ヶ原の戦いの後、上田城は徳川により破壊されました。石垣も。その後、新しい城主仙石忠政により再建されました。

    真田時代の上田城は土塁がメインで、石垣はこの門の周りなど重要な場所にしか存在しなかったとのことです。

    関ヶ原の戦いの後、上田城は徳川により破壊されました。石垣も。その後、新しい城主仙石忠政により再建されました。

  • 本丸から見た東虎口櫓門。

    本丸から見た東虎口櫓門。

  • 櫓門をくぐったところには真田神社があります。<br />真田神社では歴代の城主(真田氏、仙石氏、松平氏)が祀られています。創建されたのは明治時代。その後、昭和に入って真田氏、松平氏も祀るようになったそうです。松平氏のみ祀っていた頃の名称は松平神社(しょうへいじんじゃ)でした。

    櫓門をくぐったところには真田神社があります。
    真田神社では歴代の城主(真田氏、仙石氏、松平氏)が祀られています。創建されたのは明治時代。その後、昭和に入って真田氏、松平氏も祀るようになったそうです。松平氏のみ祀っていた頃の名称は松平神社(しょうへいじんじゃ)でした。

  • こちらは東虎口櫓門の北側に隣接している北櫓。

    こちらは東虎口櫓門の北側に隣接している北櫓。

  • こちらは南側に隣接している南櫓。<br />中に入るには入場券(300円)が必要です。入場券は真田神社の北側にある券売所で売ってます。

    こちらは南側に隣接している南櫓。
    中に入るには入場券(300円)が必要です。入場券は真田神社の北側にある券売所で売ってます。

  • 南櫓への階段からの南側の景色。<br />この辺りは尼ヶ淵と言い、本丸とはかなりの高低差があります。<br /><br />また、当時はこの辺りに千曲川の分流が流れており、川と崖による天然の要塞となっていました。

    南櫓への階段からの南側の景色。
    この辺りは尼ヶ淵と言い、本丸とはかなりの高低差があります。

    また、当時はこの辺りに千曲川の分流が流れており、川と崖による天然の要塞となっていました。

  • ちなみに南櫓は復元です。

    ちなみに南櫓は復元です。

  • 矢狭間です。

    矢狭間です。

  • 格子窓(武者窓)です。<br />侵入者からの攻撃を難しくするため柱が太くなっており、攻撃が厳しくなってきたら格子の外にある突き上げ戸を閉じることで防御します。突き上げ戸はつっかえ棒を外すだけで閉じることができます。

    格子窓(武者窓)です。
    侵入者からの攻撃を難しくするため柱が太くなっており、攻撃が厳しくなってきたら格子の外にある突き上げ戸を閉じることで防御します。突き上げ戸はつっかえ棒を外すだけで閉じることができます。

  • 鉄砲狭間。

    鉄砲狭間。

  • 真田昌幸、真田信繁、真田幸昌のご紹介。<br />

    真田昌幸、真田信繁、真田幸昌のご紹介。

  • 家紋瓦と駕籠。<br />家紋瓦には真田の家紋である六文銭が確認できます。

    家紋瓦と駕籠。
    家紋瓦には真田の家紋である六文銭が確認できます。

  • 廃城令により北櫓と南櫓も取り壊され、その木材などは近くの遊郭の建築材として再利用されました。1943年に北櫓と南櫓を復元することになったとき、遊郭の建物を解体しその木材で北櫓と南櫓を復元しました。<br /><br />この柱はそういった歴史のあるものです。

    廃城令により北櫓と南櫓も取り壊され、その木材などは近くの遊郭の建築材として再利用されました。1943年に北櫓と南櫓を復元することになったとき、遊郭の建物を解体しその木材で北櫓と南櫓を復元しました。

    この柱はそういった歴史のあるものです。

  • 上田城の歴史。

    上田城の歴史。

  • 武者窓からの景色。

    武者窓からの景色。

  • 鉄砲狭間からの景色。

    鉄砲狭間からの景色。

  • 矢狭間からの景色。

    矢狭間からの景色。

  • 櫓門にあった石おとし場。<br />櫓を登ってくる輩に対してはここから石を落として応戦します。<br />

    櫓門にあった石おとし場。
    櫓を登ってくる輩に対してはここから石を落として応戦します。

  • 北櫓です。

    北櫓です。

  • 本丸から北櫓への階段。<br />こちらは利用が禁止されているようです。

    本丸から北櫓への階段。
    こちらは利用が禁止されているようです。

  • 鉄砲狭間。

    鉄砲狭間。

  • 武者窓からの眺め。

    武者窓からの眺め。

  • 鉄砲(種子島御筒)。<br /><br />この後は真田神社近辺を見学します。

    鉄砲(種子島御筒)。

    この後は真田神社近辺を見学します。

  • 武田神社構内にある真田幸村(信繁)の像。

    武田神社構内にある真田幸村(信繁)の像。

  • 真田井戸です。<br />これは給水のためだけではなく、井戸の底には抜け穴があり、城の北にある太郎山の麓や真田氏館までつながっていた、と言われています。<br /><br />が、どうやらこれはフィクションのようです。

    真田井戸です。
    これは給水のためだけではなく、井戸の底には抜け穴があり、城の北にある太郎山の麓や真田氏館までつながっていた、と言われています。

    が、どうやらこれはフィクションのようです。

  • そんな真田井戸の説明。

    そんな真田井戸の説明。

  • 真田井戸の先にある西櫓です。<br />

    真田井戸の先にある西櫓です。

  • 西櫓の説明。

    西櫓の説明。

  • 南櫓や北櫓は復元遺構ですが、この西櫓は現存遺構です。<br /><br />西櫓は1874年、他の櫓と同様に民間に払い下げられました。購入したのは丸山平八郎氏です。1889年に上田藩最後の藩主松平忠礼が上田へ戻ってきた際、あの立派だった上田城の櫓がほとんど壊され、跡形もなくなっているのを見て嘆き悲しみました。<br />忠礼の悲しむ姿を知った上田の元家臣や領民たちは動き出します。買い手だった丸山氏に必死に返還の協力を求めたところ、丸山氏は快諾しさらに無償で松平家へ返還してくれました。<br />

    南櫓や北櫓は復元遺構ですが、この西櫓は現存遺構です。

    西櫓は1874年、他の櫓と同様に民間に払い下げられました。購入したのは丸山平八郎氏です。1889年に上田藩最後の藩主松平忠礼が上田へ戻ってきた際、あの立派だった上田城の櫓がほとんど壊され、跡形もなくなっているのを見て嘆き悲しみました。
    忠礼の悲しむ姿を知った上田の元家臣や領民たちは動き出します。買い手だった丸山氏に必死に返還の協力を求めたところ、丸山氏は快諾しさらに無償で松平家へ返還してくれました。

  • 西櫓近辺から尼ヶ淵の景色です。<br />これを登って侵入するのは不可能でしょう。

    西櫓近辺から尼ヶ淵の景色です。
    これを登って侵入するのは不可能でしょう。

  • そんな西櫓ですが、通常は中に入ることができません。<br />ただ、上田城のホームページには360°映像で西櫓の中を体験することができます。<br />中央の柱には仙石氏の「仙」の文字が何個も刻印されてるらしいんですが見つけられなかった…。

    そんな西櫓ですが、通常は中に入ることができません。
    ただ、上田城のホームページには360°映像で西櫓の中を体験することができます。
    中央の柱には仙石氏の「仙」の文字が何個も刻印されてるらしいんですが見つけられなかった…。

  • こちらは真田神社の拝殿です。

    こちらは真田神社の拝殿です。

  • 本丸に移動してきました。<br />昨日と違ってめちゃくちゃ暑くなってきました。

    本丸に移動してきました。
    昨日と違ってめちゃくちゃ暑くなってきました。

  • かなり広いです。

    かなり広いです。

  • 本丸には複数の石碑があります。<br />こちらは戊辰役上田藩従軍紀念碑。<br /><br />戊辰戦争において、新政府軍として戦った上田藩士たちの功績と追悼のために建てられた記念碑です。

    本丸には複数の石碑があります。
    こちらは戊辰役上田藩従軍紀念碑。

    戊辰戦争において、新政府軍として戦った上田藩士たちの功績と追悼のために建てられた記念碑です。

  • 手前は上田城本丸跡の碑、奥は不染城の碑。<br /><br />不染城は上田城の別名です。徳川の2度にわたる侵攻を防ぎ、敵の軍勢に染まらなかったことからそう呼ばれたようです。

    手前は上田城本丸跡の碑、奥は不染城の碑。

    不染城は上田城の別名です。徳川の2度にわたる侵攻を防ぎ、敵の軍勢に染まらなかったことからそう呼ばれたようです。

  • 新田義徳先生寿蔵碑。<br /><br />江戸時代末期の上田藩士であり、維新後地域教育に命を捧げた高名な教育者新田義徳(にった よしのり)先生などの功績を称えて、教え子らによって建てられた顕彰碑(寿蔵碑)です。

    新田義徳先生寿蔵碑。

    江戸時代末期の上田藩士であり、維新後地域教育に命を捧げた高名な教育者新田義徳(にった よしのり)先生などの功績を称えて、教え子らによって建てられた顕彰碑(寿蔵碑)です。

  • 上田城の本丸は東西と北が堀で囲われています。

    上田城の本丸は東西と北が堀で囲われています。

  • 上田城には7つの櫓がありました。<br />これは本丸北東隅櫓跡の説明。

    上田城には7つの櫓がありました。
    これは本丸北東隅櫓跡の説明。

  • 本丸は土塁に囲まれていますが、その土塁の上の北東の位置に本丸北東隅櫓はありました。

    本丸は土塁に囲まれていますが、その土塁の上の北東の位置に本丸北東隅櫓はありました。

  • 本丸北西隅櫓跡の説明。

    本丸北西隅櫓跡の説明。

  • これは北西隅櫓の名残(礎石)かな?

    これは北西隅櫓の名残(礎石)かな?

  • 本丸の周りの堀は結構幅があります。

    本丸の周りの堀は結構幅があります。

  • 上田城の説明。

    上田城の説明。

  • 堀の向こう側に移動しようと思います。

    堀の向こう側に移動しようと思います。

  • 先ほどの西櫓です。

    先ほどの西櫓です。

  • 西櫓の向かいには火薬を保管していた煙硝蔵跡がありました。

    西櫓の向かいには火薬を保管していた煙硝蔵跡がありました。

  • 内堀を本丸の西側から回り込んで本丸の北側まで行きます。

    内堀を本丸の西側から回り込んで本丸の北側まで行きます。

  • 二の丸北虎口跡です。<br />ここにも東虎口櫓門と同じような櫓門を作る計画がありました。ですが、よし作ろうとなったときに城主仙石忠政が急死します。それ以降、ここに門が作られることはありませんでした。<br /><br />なお、奥の石垣は平成初期に復元されたものですが、手前の石垣は現存遺構です。<br /><br />

    二の丸北虎口跡です。
    ここにも東虎口櫓門と同じような櫓門を作る計画がありました。ですが、よし作ろうとなったときに城主仙石忠政が急死します。それ以降、ここに門が作られることはありませんでした。

    なお、奥の石垣は平成初期に復元されたものですが、手前の石垣は現存遺構です。

  • 北虎口跡の近くにベンチがあったので休憩しました。<br /><br />暑さで疲れてきたので、城見学は以上として次の目的地に向かいます。

    北虎口跡の近くにベンチがあったので休憩しました。

    暑さで疲れてきたので、城見学は以上として次の目的地に向かいます。

  • 二の丸通りを北上し、旧北国街道を東に向かいます。

    二の丸通りを北上し、旧北国街道を東に向かいます。

  • 15分くらい歩いて岡崎酒造に到着しました。<br />こちらで日本酒の信州亀齢を購入しました。<br /><br />目的を果たせたので上田駅に向かいます。

    15分くらい歩いて岡崎酒造に到着しました。
    こちらで日本酒の信州亀齢を購入しました。

    目的を果たせたので上田駅に向かいます。

  • 15分ほど歩いて上田駅に着きました。<br />駅の左側に六文銭が見えます。<br /><br />この後は小諸に向かいます。

    15分ほど歩いて上田駅に着きました。
    駅の左側に六文銭が見えます。

    この後は小諸に向かいます。

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