2026/06/21 - 2026/06/21
1516位(同エリア1968件中)
tenko__moriさん
- tenko__moriさんTOP
- 旅行記54冊
- クチコミ4件
- Q&A回答0件
- 26,379アクセス
- フォロワー1人
この旅行記のスケジュール
2026/06/21
-
徒歩での移動
長野第一ホテル→長野駅
-
バスでの移動
長野駅→松代駅
-
徒歩での移動
松代駅→松代城
-
徒歩での移動
松代城→真田邸
-
徒歩での移動
真田邸→松代駅
-
バスでの移動
松代駅→長野駅
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
日本100名城巡りを始めました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
-
長野第一ホテルで頂く朝食。
いなり寿司とサラダバーをいただきました。
朝食サービスはこれだけじゃなく -
蕎麦もいただけます。
朝からお腹いっぱいになりました。
今後長野駅近辺に宿泊する場合の選択肢第一候補に長野第一ホテルがランクアップしました。 -
では、長野駅に向かいます。
-
前日は到着時間的に、夜間の長野駅近辺の景色しか見れてませんでしたが朝の景色を見るとかなり栄えてるように思いました。
-
長野駅に着きました。
ここからバス停に移動するんですが -
東口に来ました。
…が、行くべきバス停は逆側でした。
急いで松代城に行くバス停に向かいました。 -
長野駅からバスに揺られて30分ほど。
松代駅(バス停)に着きました。
松代駅という名前が示す通り、こちらは2012年に廃線となった長野電鉄屋代線の駅でした。 -
こちらは小山田家。
あの小山田信茂の従兄弟、小山田茂誠の子孫が住んでいた現存遺構です。 -
小山田家の説明。
-
右は冠木門。
左は番所です。 -
こちら、奥が真田宝物館、手前が信州松代観光協会。
御城印は手前の建物で購入できます。 -
さらに進んだところにある三の堀跡と大御門跡です。
手前の看板のあるあたりが三の堀跡、奥の石柱が立ってるあたりが大御門跡です。
三の堀は城と城下町の境にあった堀です。
大御門はいわゆる大手門。松代城ではVIPクラスの人しかこの門を通れなかったようです(一般クラスの人は別の門から入城)。そういった背景もあり、松代城ではこの門を大御門と呼称してたそうです。 -
山の頭頂部が雲に覆われてます。
-
奥に松代城の太鼓門が見えてきました。
-
近くまで来ました。
当時、石垣のあたりには二の丸南門がありました。
門の手前が三の丸、奥が二の丸です。 -
松代城跡の説明。
-
松代城ごあんない。
-
スタンプと御城印のごあんない。
-
松代城の説明。
松代城はもともと海津城と言う名前で武田信玄山本勘助により上杉謙信に対抗するために築城されました。
第四次川中島の戦いでは武田軍の作戦基地として使用されました。武田軍は城の眼の前にある妻女山にスタンバってた上杉謙信に奇襲をかけようとします(啄木鳥戦法)。隊を2つにわけて、夜中に上杉の後方から奇襲をかけ、山から降りてくる上杉を前方部隊(本隊)が八幡原で仕留める作戦です。
夜中の奇襲ということで、通常よりも早い時間に兵士の食事を作る必要がありました。上杉謙信は通常よりも早い時間に飯を炊くときに出る煙が立ち上るのを目撃しました。
上杉謙信は作戦を見抜き、夜中のうちに山を降り翌朝本隊に襲いかかりました。パニック状態になった武田本隊はこの戦いで武田信繁(信玄の弟)や軍師山本勘助を亡くしました。 -
二の丸南門。
-
夜はライトアップされるのかな?
-
太鼓門と太鼓門前橋の説明。
-
斜めの角度から見ると橋詰門(高麗門)の奥に太鼓門が見えます。
-
太鼓門前橋右手の景色。この内堀は現存遺構です。
-
太鼓門前橋左手の景色。
入城は9時からということなので30分くらい二の丸をぶらぶらします。 -
城の東側です。
あの橋は通行不可です。 -
二の丸の東側。
野外ライブとかやれそう。 -
城の東側にある石場門跡です。
-
当時、この石場門の外には武田の代名詞(?)の丸馬出と三日月堀が存在していたそうです。
-
石場門を出て三の丸に来ました。
-
三の丸から松代駅が見えました。
-
二の丸に戻ってお城の北側に行こうと思います。
-
こじんまりしたお堀がありました。
-
この橋を渡ると二の丸の北側です。
-
良い景色です。
-
北側の石垣です。
ご覧の通り、こちらには内堀がありません。
実は城の北には千曲川が流れています。それを天然の堀として利用していたようです。 -
石垣は無加工の石で組まれています(野面積み)。
-
北から見た当時の想像図。
-
二の丸の北から出たところ。
搦手口(勝手口)です。 -
前日と違って気持ちのよい天気です。
-
では搦手口から二の丸に戻ります。
-
北不明門の説明。
なお、不明門は「あかずのもん」と読むみたいです。
名前の通り、めったに開けない門だそうです。 -
こちらも太鼓門と同様に二重の門で枡形を形成してます。
-
石垣の隙間から草が生えてます。
-
屋根付きの休憩所(とやたら大きな木)があるのであそこで休憩します。
-
石垣と土塁が並んでます。
土塁は城建設時に武田氏により築かれたもの、石垣は武田氏滅亡後に森長可(森蘭丸の兄)や田丸直昌により築かれたものです。 -
土塁の説明。
-
土塁の途中に侵入口みたいなのがありました。
-
埋門(うずめもん)と言います。
ここから侵入されそうになったらこちらを埋めて侵入を抑止するそうです。
土塁と石垣が続いてたので、この埋門の先は本丸?と思ったんですが -
埋門の先も二の丸でした。
実は先ほどの北西から西にかけての土塁は二の丸を分断しています。
外側の二の丸を占領されても内側の二の丸で食い止めようという狙いだそうです。 -
この角度の石垣、グッときます。
-
こちらの図で土塁が二の丸を分断してることがわかります。
-
時間になったので城に入ります。
-
太鼓門です。
-
太鼓門をくぐると…
かなりスッキリしてます。 -
正直な感想としては
木しか無いじゃん!です。 -
石垣に登るのは禁止です。
-
東側の渡れない橋です。
こちらは東不明門跡です。 -
武田氏滅亡後に築かれた石垣です。
-
こちらも登るのは禁止です。
-
危険なので。
-
北不明門です。
-
北不明門から出るとこんな感じ。
-
高麗門と不明門で枡形を形成しています。
-
海津城址之碑。
1921年に開催された松代開府300年祭向けに作られたものです。
川中島の戦いの舞台としての海津城という知名度にあやかり、松代城ではなく海津城と記したそうです -
城内北西の位置にある戌亥櫓台にこちらから登ることができます。
-
戌亥櫓台から見た北不明門です。
手前から奥に伸びているのは石垣です。
石垣の上部は土で固められています(2004年の工事では特殊な透明ウレタン樹脂で土の上からコーティングしたそうです。)
当時は石垣の上に土塀が並んでいたそうです。土塀には狭間が開いており、そこから鉄砲や矢で城を守っていました。 -
戌亥櫓台頂上(?)のスペースは結構広いです。
-
本丸の景色はこんな感じ。
-
東方向の景色。
-
二の丸の北側。井戸が見えます。
-
二の丸を分断している土塁。
-
当時の兵士も同じように城の周りを監視してたんでしょうか?
-
石垣の説明と本丸御殿跡の説明。
-
若山牧水の歌碑です。
若山牧水は大正から明治にかけての歌人。
若山は信州がお気に入りで、ここ松代で詠んだ
山出で来て 尾長の鳥の 遊ぶらむ 松代町の 春をおもふよ
がこの石碑に刻まれています。
この歌碑は若山の酒友であった中村柊花が昭和38年に自費で建立したそうです。 -
戌亥櫓台を下から見たところ。
-
こんな感じで至る所に石垣に登る階段があります。
-
ぱっと見だと、真ん中辺りから崩れそうに見える…。
-
それでは、太鼓門から二の丸に戻ることにします。
-
先ほどの石垣の上にもこのような土塀が設置されていたものと思われます。
-
この枡形にいると侵入者の気持ちになれます。
多分、後ろの太鼓門から討たれます。 -
松代城を出て少し辺りをぶらぶらしてみます。
-
スタンプの設置場所を看板で教えてくれています。
真田邸の近くに設置されています。 -
真田邸(現存遺構)です。
こちらは、1864年に9代松代藩主の真田幸教が隠居する母親(貞松院)のために建てたものです。
当時、城主が代替わりするとその母親は本丸から出ていかなければならなかったそうです。 -
スタンプ置き場です。
-
時間的に真田邸を見学する時間が無かったので次回再訪したときには見学したいです。
ちなみにこの真田邸、完成してからわずか数年後に明治維新が起きて江戸時代が終わりを迎えるんですが、この真田邸だけは個人の持ち物としてそのまま手元に残すことが許されたそうです。その後、真田家の人々は東京に引っ越すんですが、松代に帰ってきたときの別邸としてこの建物を大切に使い続け、1966年に長野市に寄付されるまで、実際に真田家の子孫がここで生活していたそうです。 -
旧樋口家邸宅(現存遺構)です。
松代藩の目付役を務めた樋口氏が住んでいました。
ただ、私邸ではなく社宅のようなものだったそうです。 -
松代藩文武学校(現存遺構)。
真田氏が江戸時代末期(1855年)、武士の子息向けの文武の学び舎として建てたものです。明治時代以降も松代小学校として1965年まで使用されていました。 -
旧文武学校の説明。
-
こちらも再訪時には見学したいですね。
-
松代藩家老前島氏の長屋門。
この長屋門は門口の左右に長屋(部屋)があります。
その長屋では前島氏に仕える門番や家臣が生活していました。 -
お庭が見えます。
-
バスの時間が近づいてきたのでバス停に向かいます。
-
もう一度、真田邸の写真を。
真田邸の左手に見えるのは真田信之(初代松代藩主)です。
松代藩の400年記念として2022年に建てられたものです。 -
恩田木工(おんだもく)の像。
江戸時代中期、松代藩は千曲川の洪水や松代城の火災により数十億、数百億という借金を背負い、一揆も頻発していました。
1755年、当時の6代藩主真田幸弘からの依頼により恩田は家老に就任します。恩田は、領民や武士に対して嘘をつかない、約束は必ず守るという公約を立てて信頼を得ました。
また、財政状況の公開、不正役人の処罰、逆転の発想(増税せず、本業に集中させる)、武士の給与カット中止によるモチベーション向上により、黒字化と借金完済を実現しました。
この像のポーズは恩田が家老に就任した際に「私のこれからの政治に1ミリの不正や嘘もありません。もし私利私欲に走るようなことがあれば、この場でいつでも首をはねてください!」と宣言したシーンを再現したものだそうです。
現代にもこんな政治家が欲しいです。 -
松代駅に戻ってきました。
-
松代駅舎は大正時代に建てられたものです。
耐震性の面から解体が予定されていましたが住民の反対により存続させることに方針変更したようです。だだ、駅舎の移転は行われるらしい。 -
木製の駅舎って良いですね。
-
歴史が感じられます。
-
ホームからの景色。
ホームの向かいは駐車場として使用されています。 -
バスに揺られて30分ほど。
長野駅に戻ってきました。
この後は上田駅に向かいます。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
日本100名城
-
【日本100名城】No.22 八王子城
2026/04/29~
高尾・八王子
-
【日本100名城】No.18 鉢形城
2026/04/30~
深谷・寄居
-
【日本100名城】No.19 川越城
2026/05/02~
川越
-
【日本100名城】No.20 佐倉城
2026/05/04~
佐倉・四街道
-
【日本100名城】No.23 小田原城
2026/05/06~
小田原
-
【日本100名城】No.14 水戸城
2026/05/09~
水戸
-
【日本100名城】No.17 金山城
2026/05/16~
太田
-
【日本100名城】No.16 箕輪城
2026/05/24~
高崎
-
【日本100名城】No.21 江戸城
2026/05/31~
丸の内・大手町・八重洲
-
【日本100名城】No.24 武田氏館
2026/06/13~
甲府
-
【日本100名城】No.25 甲府城
2026/06/13~
甲府
-
【日本100名城】No.30 高遠城
2026/06/20~
伊那
-
【日本100名城】No.29 松本城
2026/06/20~
松本
-
【日本100名城】No.26 松代城
2026/06/21~
長野市
-
【日本100名城】No.27 上田城
2026/06/21~
上田
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
長野市(長野) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 日本100名城
0
101