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日本100名城巡りを始めました。

【日本100名城】No.21 江戸城

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2026/05/31 - 2026/05/31

4084位(同エリア4763件中)

旅行記グループ 日本100名城

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tenko__mori

tenko__moriさん

この旅行記のスケジュール

2026/05/31

  • 竹橋駅→江戸城跡

  • 江戸城跡→大手町駅

この旅行記スケジュールを元に

日本100名城巡りを始めました。

旅行の満足度
3.5
観光
3.0
交通
5.0
交通手段
私鉄 徒歩
  • 江戸城見学に来ました。<br />最寄り駅はいくつかありますが今回は東京メトロ東西線竹橋駅から。<br />竹橋駅から行くと、竹橋を通って北桔橋門から入城することになります。<br /><br />こちらは竹橋までの途中で見た景色。<br />石垣や堀の大きさにため息が出ます。

    江戸城見学に来ました。
    最寄り駅はいくつかありますが今回は東京メトロ東西線竹橋駅から。
    竹橋駅から行くと、竹橋を通って北桔橋門から入城することになります。

    こちらは竹橋までの途中で見た景色。
    石垣や堀の大きさにため息が出ます。

  • 竹橋から見た石垣です。

    竹橋から見た石垣です。

  • 竹橋を渡り切ったあたりに竹橋御門という門があったようです。<br />竹橋御門は江戸城内郭15門の一つ。<br />15門のうち、清水門、田安門、桜田門が現存しています。

    竹橋を渡り切ったあたりに竹橋御門という門があったようです。
    竹橋御門は江戸城内郭15門の一つ。
    15門のうち、清水門、田安門、桜田門が現存しています。

  • 竹橋から東方向の景色です。<br />正面に見える橋は平川橋。<br />平川橋を境に、こちら側の濠が平川濠、向こう側が大手濠となります。

    竹橋から東方向の景色です。
    正面に見える橋は平川橋。
    平川橋を境に、こちら側の濠が平川濠、向こう側が大手濠となります。

  • 奥に北桔橋門が見えてきました。

    奥に北桔橋門が見えてきました。

  • 北桔橋門の説明。

    北桔橋門の説明。

  • もうちょいです。

    もうちょいです。

  • 北桔橋門前の橋から西側の景色。

    北桔橋門前の橋から西側の景色。

  • 北桔橋門(現存)です。<br />

    北桔橋門(現存)です。

  • 苑内ご案内。

    苑内ご案内。

  • 北桔橋門から入るといきなり天守台の裏が正面に見えます。

    北桔橋門から入るといきなり天守台の裏が正面に見えます。

  • かなり高さがあります。<br />石積の工法は切込接です。しっかり四角く加工されてます。

    かなり高さがあります。
    石積の工法は切込接です。しっかり四角く加工されてます。

  • それでは天守台に向かいます。

    それでは天守台に向かいます。

  • 天守台の石垣です。<br />色が濃い石は1657年の明暦の大火で焼かれた跡(もしくは幕末の火災跡)のようです。

    天守台の石垣です。
    色が濃い石は1657年の明暦の大火で焼かれた跡(もしくは幕末の火災跡)のようです。

  • 江戸城本丸御殿の説明。

    江戸城本丸御殿の説明。

  • 天守台から東側の景色。

    天守台から東側の景色。

  • 天守台から西側の景色。

    天守台から西側の景色。

  • 天守台から北側の景色。<br />北桔橋門がかすかに確認できます。

    天守台から北側の景色。
    北桔橋門がかすかに確認できます。

  • 東側に見える派手な建物は1966年に昭和天皇の皇后の還暦を祝して建てられた音楽堂 桃華楽堂(とうかがくどう)です。

    東側に見える派手な建物は1966年に昭和天皇の皇后の還暦を祝して建てられた音楽堂 桃華楽堂(とうかがくどう)です。

  • 江戸城の天守は1657年の明暦の大火で焼け落ちました。<br />再建にあたっては、当時の4代将軍徳川家綱の叔父保科正之の反対(街の復旧や庶民の救済に予算を回すべき)により再建されず今現在の状態となっているようです。<br /><br />ちなみに、天守は武器や兵糧の倉庫や城のシンボルとしての位置づけであり、将軍の居住地としては本丸御殿がそれにあたるようです。

    江戸城の天守は1657年の明暦の大火で焼け落ちました。
    再建にあたっては、当時の4代将軍徳川家綱の叔父保科正之の反対(街の復旧や庶民の救済に予算を回すべき)により再建されず今現在の状態となっているようです。

    ちなみに、天守は武器や兵糧の倉庫や城のシンボルとしての位置づけであり、将軍の居住地としては本丸御殿がそれにあたるようです。

  • 本丸跡です。

    本丸跡です。

  • 本丸にある井戸(金明水)です。<br />3代将軍徳川家光が、籠城戦になっても飲み水に困らないように、ということで掘ったものです。

    本丸にある井戸(金明水)です。
    3代将軍徳川家光が、籠城戦になっても飲み水に困らないように、ということで掘ったものです。

  • 天守台の説明。

    天守台の説明。

  • 本丸の天守台に近いこの辺りが大奥(正室、側室、女中らが暮らした男子禁制エリア)だったようです。<br />

    本丸の天守台に近いこの辺りが大奥(正室、側室、女中らが暮らした男子禁制エリア)だったようです。

  • この辺りは中奥(将軍の生活エリア)かな?<br />どうやら、奥に見える休憩所が大奥と中奥の境の目印になるようです。

    この辺りは中奥(将軍の生活エリア)かな?
    どうやら、奥に見える休憩所が大奥と中奥の境の目印になるようです。

  • 大奥(中奥?)の西側にある石室です。

    大奥(中奥?)の西側にある石室です。

  • 火事が多かった江戸城で貴重品を火事から守るための保管庫だったようです。

    火事が多かった江戸城で貴重品を火事から守るための保管庫だったようです。

  • 石室の説明。

    石室の説明。

  • 富士見多聞(現存)です。

    富士見多聞(現存)です。

  • 富士見多聞は西側から本丸への侵入を防ぐ最終防衛ラインです。<br />そのため、ここには多くの武器が保管されていたようです。<br /><br />「多聞」についてですが、戦国時代の松永秀久が居城である多門城において石垣の上に櫓を建てました。そこから、石垣上の長屋風櫓を多聞櫓と言うようになったそうです。富士見多聞もそこから来ているようです。

    富士見多聞は西側から本丸への侵入を防ぐ最終防衛ラインです。
    そのため、ここには多くの武器が保管されていたようです。

    「多聞」についてですが、戦国時代の松永秀久が居城である多門城において石垣の上に櫓を建てました。そこから、石垣上の長屋風櫓を多聞櫓と言うようになったそうです。富士見多聞もそこから来ているようです。

  • 松の大廊下跡です。<br />1701年3月14日、この廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかりました。<br />分かりづらいですがこの写真の奥、高くなっているあたりの右から左にかけて廊下があったようです。明治時代以降の整備により土手が作られたとか。

    松の大廊下跡です。
    1701年3月14日、この廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかりました。
    分かりづらいですがこの写真の奥、高くなっているあたりの右から左にかけて廊下があったようです。明治時代以降の整備により土手が作られたとか。

  • 富士見櫓(現存)です。<br />立ち入り禁止です。

    富士見櫓(現存)です。
    立ち入り禁止です。

  • 本丸内では先ほどの富士見多聞とこの富士見櫓が現存遺構です。

    本丸内では先ほどの富士見多聞とこの富士見櫓が現存遺構です。

  • 富士見櫓は天守焼失後、代用天守として城のシンボルとされていました。<br />また、どの角度からも同じ形に見えるように設計されているようです。

    富士見櫓は天守焼失後、代用天守として城のシンボルとされていました。
    また、どの角度からも同じ形に見えるように設計されているようです。

  • 富士見櫓の説明。

    富士見櫓の説明。

  • 富士見櫓の概要。

    富士見櫓の概要。

  • 大手門に向かいます。<br />こちらは中雀門跡(たぶん)。

    大手門に向かいます。
    こちらは中雀門跡(たぶん)。

  • 中雀門の石垣は打込接。石と石の接する部分だけ加工されてます。<br />しかし綺麗な景色です。

    中雀門の石垣は打込接。石と石の接する部分だけ加工されてます。
    しかし綺麗な景色です。

  • さらに大手門に向かう途中にある大番所(現存)です。<br />こちらは本丸御殿に入るための最終検問所となります。<br />江戸城には他にも番所はありますがこの大番所に詰めていたのは上級武士だったそうです。<br />

    さらに大手門に向かう途中にある大番所(現存)です。
    こちらは本丸御殿に入るための最終検問所となります。
    江戸城には他にも番所はありますがこの大番所に詰めていたのは上級武士だったそうです。

  • 大番所の裏には石段があり、敵襲の際にはこれを登って石垣の上から狙撃できるようにしていたようです。

    大番所の裏には石段があり、敵襲の際にはこれを登って石垣の上から狙撃できるようにしていたようです。

  • 大番所からすぐのところに中之門跡があります。

    大番所からすぐのところに中之門跡があります。

  • 中之門跡。<br />石垣の一部に小さな石が使われていますが、これは1703年の元禄大地震で石垣が崩壊した際に鳥取藩主の池田家が修復した痕跡です。

    中之門跡。
    石垣の一部に小さな石が使われていますが、これは1703年の元禄大地震で石垣が崩壊した際に鳥取藩主の池田家が修復した痕跡です。

  • 百人番所(現存)。<br />ここでは、伊賀組、甲賀組など4つの部隊が交互に100人体制で警備していました。彼らは鉄砲百人組と呼ばれていたそうです。また、新宿近辺に屋敷を与えられており、新宿区百人町の地域名が残っています。

    百人番所(現存)。
    ここでは、伊賀組、甲賀組など4つの部隊が交互に100人体制で警備していました。彼らは鉄砲百人組と呼ばれていたそうです。また、新宿近辺に屋敷を与えられており、新宿区百人町の地域名が残っています。

  • 同心番所(現存)。<br />こちらは大手三之門の後ろにあります。<br />大番所と違い、下級武士が詰めていたようです。

    同心番所(現存)。
    こちらは大手三之門の後ろにあります。
    大番所と違い、下級武士が詰めていたようです。

  • 大番所に比べると簡素かな?

    大番所に比べると簡素かな?

  • 大手門の説明。

    大手門の説明。

  • 大手門です。<br />一の門と二の門が直角になっており枡形を形成しています。<br />右の高麗門は現存です。左の櫓門は1966年に復元されました。<br />侵入者は櫓門の窓(白く凹んでる部分)から狙撃されます。<br />

    大手門です。
    一の門と二の門が直角になっており枡形を形成しています。
    右の高麗門は現存です。左の櫓門は1966年に復元されました。
    侵入者は櫓門の窓(白く凹んでる部分)から狙撃されます。

  • 大手門を城の外から見たところ。<br />入城した北桔橋門もそうでしたが警察による持ち物検査が行われています。

    大手門を城の外から見たところ。
    入城した北桔橋門もそうでしたが警察による持ち物検査が行われています。

  • 大手門から南側の景色。

    大手門から南側の景色。

  • 大手門から北側の景色。

    大手門から北側の景色。

  • 濠の外側から見た大手門。<br /><br />それでは…帰宅のため、大手町駅に向かいます。

    濠の外側から見た大手門。

    それでは…帰宅のため、大手町駅に向かいます。

  • 途中で隅櫓唯一の現存である巽櫓が見えました。

    途中で隅櫓唯一の現存である巽櫓が見えました。

  • 高層ビルバックの和田倉橋の1枚で終了です。

    高層ビルバックの和田倉橋の1枚で終了です。

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