2026/03/30 - 2026/03/30
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3月30日(月)
当日は広島空港からの便の予約をしてあった。
すでにレンタカーも返却したので、呉駅前から広島空港までのリムジンバスに乗る予定だった。
ホテルのカウンターに置かれていた、入船山記念館で「金唐紙」の展示があるとのチラシが気になっていた。聞けば、記念館はホテルのすぐお隣、山一つ隔てたところにあるそうだ。午前中のすき間時間には丁度良い見学場所になると思い行ってみることにした。夫も、青山クラブへ行ってみたいと思っていたそうで、そこもすぐそばらしいよ、と話していたので、おあつらえ向きだった。
このような気軽な動機から出かけたのでしたが、思ってもみなかった素晴らしい記念館の内部を見学できて、旅の最後の時を過ごすことができたひと時となりました。
(表紙写真は入船山記念館・旧呉鎮守府司令長官官舎)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
3月30日
「入船の宿」での朝食をいただいた。 -
食後、屋上へ行ってみた。
屋上にはYamato Deckと名付けられた
デッキがあるようだった。 -
名前の由来は
戦艦大和の甲板は木製だったそうで
その甲板のように作られたことに因んでいるそう。 -
すぐ近くを電車が通過するのを眺めた。
このガードのそばを海側(左側)へ曲がるとすぐに
あるのが
旧呉海軍下士官兵集会所(青山クラブ)。
意外にもすぐお隣?にあったので、驚いた。 -
本当に、特徴ある形の建物があった。
-
階級毎に利用できる集会所があったそうだが
下士官・兵が利用できたのが、この集会所だった。
1903年に開設され、1905年には敷地内に桜松館(海上
自衛隊音楽隊庁舎)が建設された。
1936年には集会所が建て替えられた(現存する建物)。
1945年の呉空襲の折には、長官官舎ともども被害を免れた。
戦後、英連邦軍が使用。
1956年、返還されると海上自衛隊青山クラブと改名。
2017年クラブが廃止された後に、呉市に移管。
建物のアールの部分は、以前は開口部だったようだ。
内部には日用品なども販売されていて、一般の人たちの出入り
を意識していたようだ。
今は、アニメ「この世界の片隅に」のポスターが貼られていた。
戦時下の広島県(広島市、呉市)を舞台にした
名作アニメのようだ。
呉を知る為には、このアニメを見なくては、と思い
旅行記を書く前にプライム・ビデオで見てみた。
以下は、この集会所に貼られていたアニメの一場面を
実際の景観写真と並べてみました。 -
「この世界の片隅に」
広島市で生まれ育った主人公・すず。
周囲に勧められるまま、20キロ離れた呉へ18歳で嫁いでくる。
夫は海軍に努めている北條周作。
戦時中も一身に嫁ぎ先で働き、空襲の激しくなってきていた
呉の町で、時限爆弾の爆発によって、姪っ子と自らの右手先
を失ってしまう。
アニメの中でも、当時の姿の呉の景観が数多く出てきた。
集会所の当時の外観はスクラッチタイルの落ち着いた色だったが、
その後外観は赤茶色に塗られてしまう。 -
左から夫の周作
中央が主人公のすず
右が白木リン、遊女、ふとしたことからすずと知り合う。 -
モダニズム建築の建物。
(1920年代ヨーロッパで発祥。装飾を排し、機能性・合理性を追求していった建築)
コの字型に配置された下士官集会所。
中庭の、車を駐車できるスペースへの出入り口前での場面。
集会所の機能としては、休憩のほか、飲食、宿泊、武道場や
各種娯楽が揃っていたそうだ。
日用品の販売は1930年代には小さなデパートのような品揃えと
なっていて、市民も利用することができた。 -
アニメに登場してきた場面
・呉湾と市街地が一望できる灰ヶ峰のふもと
・昭和19年の戦艦大和の姿
・北條家から市街地へむかう途中にある「三ツ蔵」
(旧澤原家住宅は重要文化財)
・周作さんと二人で眺める小春橋 -
建物名称 青山クラブ
「青山クラブは、明治36年、海軍下士卒集会所として竣工し、昭和11年に下士官集会所として建て替えられ、戦時中は海軍と市民をつなぐ交流の場として親しまれました。戦後は、英連邦占領軍が昭和31年の撤退まで「呉ハウス」として利用し、昭和33年からは陸上自衛隊が厚生施設等として使用していましたが、平成29年に全ての使用を終えました。」
現在は耐震性がないからとの理由で、立ち入り禁止となっている。 -
入船山地区案内板もあった。
そのままの案内文をのせます。
「ここはすずさんと周作さんが
デートの待ち合わせをした場所です。
すずさんが迷子にならんように、
案内板を設置しとります。」
だそう。 -
「入船山公園」
昔は海軍の敷地じゃったけえ、地図にのっとらんかった場所。
「伝説の乙女椿」
呉浦の長者の娘と貧しい漁師の若者とが愛し合ったが、結ばれぬまま二人は海に身を投げた。娘のなきがらは呉浦に流れ着き、乙女椿の一輪の花を咲かせ、夜になると光を発し、舟人たちが夜の舟旅の目印にした、との伝説が残っているそうだ。 -
青山クラブ
(旧・下士官兵集会所)
海軍さんとその家族が会うた場所。
進駐軍とまちの人が出逢うた場所。
自衛隊と市民が集うた場所。
外と内との接着地点で、
呉の歴史を見てきた場所。 -
「入船山記念館」
このまま突き当たりまで進むと
大正時代、呉海軍工廠に設置された
塔時計が左手に見えます。
レトロな門をくぐってください。 -
美術館通りの角に立つ、彫像。
ゆるやかな登り坂の美術館通り。
赤レンガ敷きの並木道には、著名な作家17人の
彫刻が点在。 -
左側には下士官集会所
突きあたりには海軍病院(現国立病院機構呉医療センター)がある。その南側に周作さんの勤務先(軍法海事所)があった。 -
静かな通りをまっすぐに進む。
歩道に作られた錨のマーク。 -
マンホールなどの蓋は色とりどり。
-
旧呉鎮守府司令長官官舎との門柱。
案内板に書かれていたとおり
右手奥には時計塔が見えている。
なだらかな登りの坂道
日本で6番目に開通し、明治42年から昭和42年までの57年間、呉市内を走っていた電車の敷石を再利用したものだそう。 -
旧東郷家住宅離れが、門柱から入って左手にある。
(国登録有形文化財)
明治23年(1890)5月から明治24年12月、海軍大佐東郷平八郎が鎮守府参謀長として呉に赴任している。この建物は東郷平八郎が暮らしていた屋敷の離れ座敷で、1980年に宮原地区から現在の地に移築したものだそう。 -
簡素な造りの離れだった。
現在は休憩所として利用されているそうだ。 -
故山苑
昭和57年、呉市立美術館の開館と旧東郷家住宅離れの移築に合わせて造られた庭園。作庭は多くの庭園を手掛けた中根金作によるもの。
芝生を主体として、白砂が敷かれた枯流れと枯滝石組で構成されているそう。 -
日本遺産 鎮守府 と書かれた標識。
鎮守府は、当時 横須賀 呉 佐世保 舞鶴 の4か所に置かれていた海軍の司令部。主な役割として、港湾や軍事施設の管理、軍艦の建造・修理を行う海軍工廠、隊員の育成機関などを担っていた。
日本近代化の躍動を体験できるまち、と書き添えられている。 -
旧呉海軍工廠塔時計
(呉市有形文化財 昭和56年指定)
大正10年(1921)に呉海軍工廠造機部の屋上に設置されていた時計。戦後入船山に運ばれ、昭和56年に整備された。 -
番兵塔
警備の為、長官官舎や海兵団等の入り口に建てられていたものの一つ。昼夜を問わず立哨が行われていたため、足元の部分(礎石)がすり減っている。 -
旧高烏(たかからす)砲台火薬庫
(国登録有形文化財)
明治30年(1897)以降、呉湾や広島湾を見下ろすことのできる要所に、陸軍の砲台が築かれていた。この火薬庫は、明治35年に呉軍港に近い休山(やすみやま)に建設した高烏砲台に置かれていたもの。 -
火薬庫前に立っている標識のような柱は
「要塞(ようさい)地帯標」と言って
軍の重要な地域であることを示していて
立ち入り禁止であることを示している標識。
呉軍港を囲む周辺の山々にあったものを移設。」 -
四十五口径十年式十二糎糎(センチ)高角砲の砲身
この高角砲は、昭和56年(1981)に呉海軍工廠砲火工場跡の地中から発見されました。砲身と砲架との接合部に、「昭和二十年海軍工廠」と刻まれている。
昭和18年から19年の2年間で、約2,000門が生産された。 -
砲身の先に、椿の花がたくさん散り落ちていた。
-
日本の西洋建築教育は明治6年(1873)に始まった。
明治12年、英国人教師ジョサイア・コンドル(1番上の写真)によって日本人建築家が世に送り出された。第1回卒業生は、辰野金吾(上から2番目)・片山東熊・曾根達蔵・佐立七次郎の4名だった。
最初の長官官舎は曾根の設計によって建てられた。明治23年、天皇のご宿泊所として使われた後、呉鎮守府司令長官官舎として使われるようになった。 -
旧呉鎮守府司令長官官舎
国指定重要文化財
この官舎は、明治38年(1905)に起こった芸予地震によって倒壊、同年建替えされ、第7代から第32代までの約40年間にわたって鎮守府司令長官とその家族が公邸として利用しました。
官舎の設計は、イギリスで建築を学び、ヨーロッパを遊学したのち、呉鎮守府建築科長となった櫻井小太郎が行いました。
洋館部の外観は、ハーフティンバー様式で、屋根は天然スレートの魚鱗葺きとなっている。 -
玄関ドアを外部から見ている。
-
玄関内部
-
宿泊したホテルのカウンターに
「金唐紙」展のポスターが置かれていて
時間があったら、行って見てみようと思っていた。
(以下のコメントは、mistralの金唐紙への個人的な興味もあって、現地にあった解説文をそのまま書き写しています。「 」でその部分を表しています。
写真のみをどうぞご覧になってお進みください。) -
金唐紙(きんからかみ)
「洋館部の壁紙として使われている金唐紙。
版木棒(桜材)と刷毛によって手漉き和紙(金属箔を張ったもの)に凹凸をつけ、着色している。
洋館部の金唐紙は次の5種類、張り面積は250平方メートルもあった。
①玄関・広間・廊下の腰壁(復元)
②応接所の壁紙(復元・修復)
③客室の壁紙(復元)
④食堂の壁紙(復元)
⑤食堂の天井(復元・修復)
写真はフラワーロードと名付けられた金唐紙
廊下と玄関の腰壁部分に使われている。
実をつけた花と、つるバラが二重の連続模様になっている。白い油性ペンキが塗られた状態で発見。落とす作業をしたが完全には落としきれず、金唐紙の上にベニヤ板をはり、上に金唐紙を貼った。
同じデザインの版木棒が紙の博物館に所蔵されていて、その版木棒を使って復元された。」 -
玄関ドアとステンドグラス
「玄関ドアのすりガラスには、錨と桜の模様が入っています。
玄関ドアの両側と上側のステンドグラスはイギリス製だといわれています。」 -
明治38年の建築当初からのもの。
日本のステンドグラス初期の作品であると考えられている。
外部からの光のゆらぎから、幻想的な様子が素敵だった。 -
応接所
「復元:壁紙の金唐紙、カーテン、絨毯、家具
応接所は、ごく簡単に客と話しをしたり、打ち合わせをしたりする部屋です。日本ではよく主人の書斎を兼ねていましたが、ここでもそのように使われていたそうです。
家具はすべてイギリス製で、18世紀のジョージアン様式のものの複刻品です。」 -
金唐紙 花と流水文様
「流水文様の中から菊花模様が浮き出ているデザイン。応接所の壁紙から、白い水性ペンキを塗られた状態で発見されました。
壁紙の重ねしろから、【WWC.THE LUCENA REGD 991939 R&Co. MADE IN JAPAN>という刻印が発見され、日本製であることが分かりました。
大部分の壁紙は、水性ペンキを水拭きし、彩色を補うことで復元しました。」 -
籐張り肘掛椅子
「長官官舎で使用されていた家具のうち、唯一残っていたものです。ダブルになった籐編みと馬脚形の脚が特徴です。
イギリス製で、19世紀後半にロンドンで有名なメープルという家具店のカタログに類似品が載っていることから、その当時に制作されたものだと考えられます。
その他の家具調度品類の製作復元は「小泉和子生活史研究所」によって行われました。」 -
クラッシックな雰囲気たっぷりのペンダントライト
-
薪ストーブ
(GODIN社のBELLE EPOQUEというモデルのようだ。
100年以上前からカタログに記載されているそうだ。) -
客室
-
金唐紙 草花と昆虫
「壁紙はクロス張りにされていましたが、長官官舎時代の写真を見ると、金唐紙が使われていたことが分かりました。修復工事中に、調光器のスイッチボックスや、カーテンボックスの下から、金唐紙が発見され、写真の裏付けをとることができました。
紙の博物館の収蔵品と照合作業をし、チョウのデザインが一致したことでオリジナルの版木棒を発見することができました。紙の博物館の版木棒を借りて、金唐紙を復元しました。」 -
セミとカブトムシの部分
-
描かれている昆虫たち
-
「チョウの他にセミやトンボといった14種類の昆虫と、草花があしらわれたデザインで、春をイメージしたものでした。」
-
客室
「復元:壁紙の金唐紙、絨毯、カーテン、壁付け照明器具、家具。
客室は、長官と客が食事前に待ち合せたり、食堂で一休みしながらおしゃべりしたり、音楽を楽しんだりする部屋です。官舎の中で最も重要な部屋で、主人の趣味などを最もよくあらわすところです。
この部屋は、イギリスで19世紀に興った美術工芸運動(アーツアンドクラフト)と呼ばれるデザイン改革運動の主導者ウィリアム・モリスのデザインした室内と大変に雰囲気が似ています。椅子類の足先は「パッドフッド」といい、ジョージアン様式の特徴を示しています。」 -
-
食堂
-
金唐紙 入船の森
「木の実のドングリやイガグリをあしらったデザイン。長官官舎洋館部食堂の壁面に使われている金唐紙は、紙の博物館における調査の段階でも見本や版木棒がみつかりませんでした。そのため、官舎で発見された図柄を元に版木棒から復元し金唐紙を制作しました。その際、図柄の名前は、復元をした上田氏によって「入船の森」という名前がつかられました。
更にイギリスの王室研究所の講堂において、同様の図柄が発見されました。イギリスにおいて発見された金唐紙には、日本製であることを示す刻印が発見されたこと、また会社名を記した刻印も発見されています。イギリスの入船の森には彩色がなく、金色をしたものでした。」 -
天井部分の金唐紙
花幾何模様
「このデザインは、旧日本郵船小樽支店応接室天井に使用されていた金唐紙と同じデザインです。発見当初は、淡い青色の水性ペンキで塗られた状態でしたが、これを丁寧に水拭きしペンキを落として彩色を補う事で復元しました。」 -
海軍艦午餐会(昼食会)の献立例
-
昭和5年(1930)9月1日軍艦「出雲」における艦上午餐会の献立を海軍の料理教科書により再現したものです。
-
木造平屋建てだが、公的な利用をする洋館部と、私的な利用のための和館部が結合しているのが特徴。
-
座敷
「和館部には、使用人室や茶室を含めると座敷が9室あり、床の間や違い棚、付書院、押し入れなどが設けられています。
和館部の壁は土壁で聚楽仕上げ又は漆喰仕上げとなっています。聚楽仕上げには錆色、土色、鶯色の3色が使われています。」 -
-
「炊事場と台所は、進駐軍が利用していた当時は、倉庫として使われていましたが、屋根裏を見せて室内に高さを出す化粧屋根裏天井(掛込天井)に戻しました。炊事場の土間も約12センチ掘り下げ、長利と水溜を復旧整備しました。」
-
雄勝産天然スレート
東京駅の改修工事の折にも使われていた雄勝産の天然スレート。ここ洋館部の屋根にも使用されていた。
天然スレートは、加工しやすく、耐久性にも優れた玄昌石から製造される。古くは硯用として加工されてきた。
この雄勝石を利用したスレート施工に着目したのが、屋根職人・篠崎源次郎でした。ドイツで技術を学び、帰国後、東京にスレート商会を設立。雄勝で製造されたスレートの販売・施工を行うようになりました。
現在、平成23年(2011)に発生した東日本大震災によって雄勝産天然スレートの精算が激減している。
東京駅改修工事の折には、出荷を待つばかりだった雄勝産の天然スレートが津波で流されてしまったことが報道されていた記憶がある。 -
和館部を出て
-
併設されている「呉市歴史民俗資料館」を見学。
「一度は失われていた金唐紙の制作技術は、昭和59年、旧日本郵船株式会社小樽支店壁紙修復事業を機に、上田尚氏の手により復活しました。その後、上田氏は平成6年に長野県岡谷市の旧林家住宅、平成8年に旧呉鎮守府司令長官官舎、平成12年に神戸市の移情閣、平成15年に東京都、旧岩崎邸洋館、平成22年に秋田県大仙市の旧池田家庭園洋館の壁紙復元に携わりました。」 -
「近年では、平成25年、旧岩崎邸の撞球室、26年には福岡県、築上町の球蔵内邸、平成30年には東京都目黒区の旧前田家本邸洋館、国会議事堂参議院内閣総務官室の壁紙が復元されました。」
-
版木棒のない壁紙の復元
「各地の金唐紙は、東京・王子の公益財団法人紙の博物館」に所蔵されている版木棒を借用し、復刻をしています。
しかし、中には紙の博物館にも同じデザインの版木棒がない場合があります。その場合、残された壁紙の断片から模様を写し取り、一から版木棒を制作しました。
版木となる桜材を探すのも一苦労で、何年か寝かせた桜の木材をようやく見つけ出し作成しようとしても、途中で割れてしまうことなどもあります。
ここの金唐紙5種類のうち、3種類はこうして新たに版木棒から復元したものです。」 -
「長官官舎には5種類の金唐紙が使われていて、上田氏に依頼してすべて修復・復元することになりました。
上田氏にとって、金唐紙の修復事業は3度目となり、かつ、貼り面積や酒類も多い修復工事でした。後に上田氏は、「金唐紙の技術は入船で大成、確立した」と語っているそうです。」 -
最後に、振り返って長官官舎をもう一度見て。
-
郷土館
最初に入場券を購入した場所。
昭和54年に開館。一階は券売所と事務所があり、2階が展示室になっている。歴代長官関係の資料などが展示されている。 -
往来安全石燈籠
明治17年、広村と郷原村を結ぶ旧街道に建てられた常夜灯4基のうちの1基を移築したもの。
最後に見送ってくれた石燈籠。
この後、ホテルに一旦戻り、キャリーなどをピックアップ。
呉駅まではほとんど一直線に続く道を徒歩で向かった。
呉駅前 13:52→広島空港 14:50
広島 15:55→羽田 17:25 ANA680便
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この旅行記へのコメント (2)
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- マリアンヌさん 2026/06/06 12:58:30
- 呉の洋館
- mistralさん こんにちは。
さすが呉、海軍関係のものが、ずいぶん保存されていますね。私の父は志願兵で飛行機乗りでしたので、感慨深いです。
そして洋館、素晴らしいですね。
行ってみたくなりました。金唐紙が萌えです。
ただいま、絶賛旅行中。
後半には、ショーヴィニーにも挑戦予定です。
マリアンヌ
- mistralさん からの返信 2026/06/06 15:42:28
- Re: 呉の洋館
- マリアンヌさん
まさに絶賛旅行中ですね。
旅先からのコメントをありがとうございました。
お父さま、志願されての飛行機乗りだったそう。
ご無事に終戦を迎えられたのでしょうか?
マリアンヌさんが生まれたのですから、きっと何事もなくご帰還なさったことでしょうね。
呉もさっと通り過ぎただけでしたから、もっとじっくりとみたのなら、様々な記録が残っていることでしょう。
ところでショーヴィニーへいらっしゃるんですね。
そこまではバスの路線があったんでしょうか。
旅行記を楽しみに待っていますね。
mistral
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