2026/02/05 - 2026/02/14
-位(同エリア1002件中)
しにあの旅人さん
- しにあの旅人さんTOP
- 旅行記256冊
- クチコミ254件
- Q&A回答18件
- 321,992アクセス
- フォロワー77人
前日の雪がまだ残っていました。佐田の里です。
飛鳥の駅で電動自転車をレンタルしてやってきました。寒い、寒い。
佐田に草壁皇子の殯宮(もがりのみや)があったのですが、その痕跡でもないものか。
束明神古墳が発掘されたとき、石槨が発見されました。その実物大模型が奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に展示されていました。
草壁皇子のお墓は、宮内庁が岡宮天皇真弓丘陵と治定しています。でも束明神古墳が真墓ではないかという説が有力だそうです。それでちょっと確かめたいことがあったのです。
一書に曰く、
近鉄吉野線の飛鳥駅から、すぐのところに、佐田の里はあります。
飛鳥駅は、明日香村にありまして、駅と村の読みは同じでも字が違うんですよ。
ついでに言うと、二上山は、文学的、歴史的には、ふたかみやま。
でも現代の奈良県民は、にじょうざんといっております。
ホテルで、「あ、ふたかみやま が見える。」と叫んで、ホテルの人に、冷たくつめた~く、「にじょうざん!」となおされました。
で、今は、飛鳥駅のお話。
駅の周りには、レンタル自転車屋さんがいっぱいありました。
我が家は、前もって予約していきましたし、さらに、前日、by夫が、確認の電話をしております。
by妻、内心、「くどい。」と思っております。
でもまあ、彼のこういう性質で、海外旅行もなんの事故なくすごせたのでありましょう。
ついでに文句書いちゃうと、この日のために、自転車用ヘルメットを購入して、わざわざ持っていきました。持っていきましたではなく、「いかされたんですよ」って、不平たらしく言いたい。訴えたい。
かさ張って、他の荷物が入らなくて。
わたくしは、この旅行中、ずっと同じ服でした。十日間。
さすがに、エベレスト登頂のときの冒険家じゃないんだから、セーターをズボン下代りにはしませんでしたがね。
By妻
投稿日:2026/03/16
参考資料は「六国史の旅 草壁皇子1 束明神古墳」をご覧下さい。
万葉集の現代語訳は、原則折口信夫の口訳万葉集です。
僭越ながら引用では敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 自転車 新幹線 JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
一書に曰く、
久しぶりの束明神古墳です。
前の時は、一度来て、翌日また来て、それからまたまた来てってことをしましたから、もう、すっかり、おなじみ。
何なら、九州にある私の実家のお墓くらいなじんでいます。
なつかしい。
最初のときに驚いた、細いお寺わきの階段も、今は、トーゼンって気分で登ります。
いつも通り、静かです。
人類死滅したのかなって思うくらい。
By妻 -
鳥居をくぐってすぐ、長屋門のような建物があります。
門だと思うんだけれど、でも、通路中央に炉があって、通りにくい。
門かな?衛兵控え所かな。 -
囲炉裏かな。
この炉がいいんですよ。
火が入っている様子が、想像出来ちゃいます。
束明神古墳は宮内庁の管理ではありません。
小さな火でしょうが、それを囲んで、里の何人かの人達が暖をとりながら、この古墳をきれいにしているんだろうなあ。
ここに眠っている古代の貴公子が、例え誰だとしても、「佐田の貴人」として大切に大切に御護りしてきたのだろうと、思えました。
そういうのが、大津皇子より一歩控えめな印象の、草壁皇子には、ふさわしく思えるのです。
By妻 -
雪が残っていました。
-
これは古墳全体の頭頂部のようです。直径30mの八角墳で、天皇かそれに準じる重要人物のお墓だそうです。
草壁皇子の古墳と考えられています。
このあたりは、
「六国史の旅 草壁皇子1 束明神古墳」
https://4travel.jp/travelogue/11707416
をご覧になってください。 -
この古墳からは家型石槨が発掘されました。
石槨は発掘を担当した「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」建物入口の右に、実物大模型が展示されています。 -
書き起こします。
★昭和59年5月高取町佐田で発掘調査した束明神古墳の実大石槨模型である 切石積の石槨は飛鳥時代古墳構造の中でも特色あるもので その構造技術を明らかにするため同質の疑灰岩により制作した なお天井と入口部分は推定復元による(以下略)★
石槨は現地にそのまま埋め戻されました。 -
天井部分の傾斜も本物の家をかたどっています。
-
これを造らせた持統天皇は、わが子を生きているそのままに葬りたかった。
持統天皇は火葬された最初の天皇です。しかし自分の子は、火葬するにしのびなかった。万が一の復活を信じたのでありましょうか。
古代屈指の君主でありました。
しかしわが子に関しては、ただの母親だなあ。
束明神古墳現地の説明版には、石室内で歯が発掘され、
★
歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期から壮年期と推定される。
草壁皇子(天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子)の墓である可能性が大きいといわれている。
★
草壁皇子の享年は27才。青年期の終わりです。 -
奈良県立高取国際高等学校の北の路から佐田に入りました。全体としてゆるい上りで、電チャリならすいすいと走れました。
-
こんな感じの坂道です。
-
古墳の丘の裾野の集落を北に向かって走りました。
-
一書に曰く、
今回は、自転車なので、周囲を走り回ります。
で、発見、奈良ってところは、平坦な場所はないのね。
どこもかしこも、でこぼこしてるの。
道そのものは、整備されております。
田んぼの畦道を通りますが、畦道と田んぼの高低差が、半端ないんです。
場所によっては1メートルくらいもあるの。
それを見なければいいんですが、今回は、気になって気になって。
すると、どんどん近づくのは、なぜでしょう?
九十九里がぺったんこすぎるのかなあ。
By妻 -
目標は3本の高圧線の鉄塔。
奈良の古い集落はどこもそうですが、道が狭い。軽トラックでもぎりぎりと思います。側溝があるので自転車も怖いくらいです。 -
3本ある鉄塔の真ん中の足元まで行きたかった。しかし集落を超えたあたりから道は舗装がなくなり、急坂で、帰りは電チャリでも無理そうでした。鉄塔の写真を撮り損ねたのが、今回の旅行一番の失敗でした。残念!
なぜそこまでこだわったか。
以前どこかのブログで、佐田で大型建物の遺跡が発見された、という記事を読んだことがあります。
今回調べたら佐田タカヤマ遺跡でした。
私たちの妄想旅行記の古くからの読者さんならもう分かったはずです。
これこそ草壁皇子の殯宮跡ではないか!
「高取の考古学」
Takatori_Archeology_V.pdf
で見つけました。 -
これによると高取町教育委員会が令和2年に実施し、大型土壙・大壁建物・掘立柱建物・古墳・土壙墓・木棺直葬墓・区画溝・柱穴を検出しました。
表紙1枚目の写真です。
発掘の結論は、
★
遺構は検討の結果、大型土壙は烽台、大壁建物は烽を可動させる人の屯舎か燻る材料を備蓄する倉庫、 掘立柱建物は烽を管理する役人の詰め所と理解できます。これらの遺構からの出土遺物はありませんでしたが、検出状況からそれぞれの遺構は同時期と判断しました。
下層の古墳や木棺墓が7世紀前半までに削平されている事から7世紀後半以降と考えられます。佐田タ カヤマ遺跡は見通しの良い小高い丘陵上の標高152.5mで、丘陵下と約30mの比高差のある小高い丘の上にあります。
★
(P6)
「檀の岡」と「佐田の岡」は別物?
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
う~ん、残念。はずれでした。
狼煙の煙の燃料の倉庫と、狼煙係の詰め所だそうです。
「でも、まてよ」と往生際の悪い私たち。
佐田に殯宮があったのは間違いない。
舎人の歌に、
2-177
★朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつ、わが泣く涙やむ時もなし★
△我々皇子の遺臣が、朝日のさす佐田の丘の辺に集まってゐて、泣く涙が、何時迄も絶えずに落ちて来る。△
など佐田が何か所にも出てきます。
ひょっとして、既存の建物を改修して臨時に殯宮として使ったのではないか。
発掘された建物跡の一つは、
★3トレンチでは、東西に幅1m、長さ5m以上を測る区画溝を検出しました。区画溝の断面形態は箱形 で底面は平坦になっています。区画溝間では、方形掘形をもつ掘立柱建物の柱穴が4ヶ所検出されました。検出した柱穴は約東西1m、南北1.2mを測る方形の掘形で柱痕跡は直径0.3~0.4mを測ります。トレンチの南北は既に削平されていて不明ですが、東西幅3mの細長い平坦面に東西1間、南北1間以上の建物 が存在した可能性が高いと考えられます。★
直径40㎝の柱って、かなり太いですよ。
前回の人麻呂の長歌、
★・・・あの寂しい檀(まゆみ)の岡に御所の太い柱を御立てになり、御殿を高く御造りになって、其處におちつき遊ばされ・・・★
できあがった御陵に御殿を建てることはないので、これは殯宮です。
「御所の太い柱」が気になります。
「檀(まゆみ)の岡」というのも。
舎人の歌
2-174
★外に見し檀の岡も、君在(ま)せば、常(とこ)つ御門と侍宿(とのい)するかも★
△これ迄は、何とも思はずすごしてゐた檀の岡だが、皇子が御いでになってからは、何時までも変わらない御所と思うて、宿直をすることだ。△
この「侍宿」について、中西の現代語訳注3では、
★殿居。宮殿に奉仕することだが、ここは殯宮奉仕。★
となっています。
人麻呂も舎人も殯宮は「檀の岡」にあると言っています。
「佐田」は舎人の歌に5回出てきます。「佐田の隈曲(くまじ)」が1回、これは「佐田の里の隈曲」
4回は「佐田の岡邊」これは、遺骸が正式に葬られた後の御陵、つまり現在の束明神古墳を言うのではないか。
「檀の岡」は殯宮で「佐田の岡」は御陵
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
2-179
★橘の島の宮には飽かねかも、佐田の岡邊に侍宿しに行く★
△舎人達は、橘の里の島の御所には満足できないからか、佐田の岡あたりへ宿直しにいくことだ。△
2-187
★つれもなき佐田の岡邊にうつり居ば、島の御階に誰か住む
まはむ★
△私が今御留守居役をやめて、あの寂しい佐田の岡の方に移って行ってしまうたら、此島の御殿の階段の下には、誰がぢっと残って番をするすることだろう△
2-192
★朝日照る佐田の岡邊に鳴く鳥の、夜鳴き変らう。この年頃を★
△御子の御陵の出来ない時分の、佐田の岡に鳴いていた鳥も、此頃では、其夜鳴きの声が変わっている。(即、お墓に奉持する侍臣が、夜鳴くのを云うたのである。)
この歌では折口は「佐田の岡」を「御陵」とはっきり訳しています。
ほかの3首も「佐田の岡」を「御陵」として意味は通ります。
御陵に正式に葬られても、遺臣たちは宿直で近くの宿舎に通っていたのです。 -
青じるしがタカヤマ遺跡。
束明神古墳の住所は「高取町佐田」です。古代のままですからこれは古い地名。
北の真弓も古い地名のはずです。近くのマルコ山古墳は「明日香村大字真弓」
真弓=檀です。
殯宮は「檀(真弓)の岡」の上にあったのです。
タカヤマ遺跡は現在の明日香村と高取町の境目ですから、古代は檀でいいでしょう。
ひょっとすると、ひょっとするかな~~~
タカヤマ遺跡は改装された草壁皇子の殯宮じゃなかったのか。
どなたか若い方、あとを引き継いでくれませんかね。
学部の卒論なら「おもしろいねえ」と指導教授が言ってくれるかも。優は無理でも良くらいはいけるんじゃないですかね。
「高取町の考古学V」によると、倉庫、役人の詰め所と思われる建物跡から遺物は発見されませんでした。(P6)
普通ですとこの程度の建物の撤収ではガラクタがいっぱい残りそうなものです。それがなにもないということは、最後にはなにか特別な建物ではなかったのか。草壁皇子の殯宮であったなら、持統天皇はさぞかし立派に飾らせたでありましょう。建物が役目を終えたとき、徹底的に撤収したと考えられます。 -
「持統天皇は、愛する息子のために、倉庫を殯宮にするようなケチったことをしないよ」By妻。
分かりませんよ、持統天皇だって一家の主婦でしょう。そのときの財政事情で、しょうがないと思ったかも。
などと妄論をかわしながら、冬枯れの佐田をサイクリングしました。
鉄塔の足元まで行けなかったのは残念。現場の説明版があれば、ネットなどにない情報が書かれているケースが、少なくないのです。
2-175
★夢にだにみざりしものを、おぼゝしく、宮出もするか。佐田の隈曲(くまじ)を★
△こんなことにならうとは、夢にさへも見もしなかったのに、今、佐田の岡の曲がり角の辺りの御門を退出することだ。△
「風蕭蕭たると」はこんな風景かもしれません。冷たくて、寂しかった。 -
一書に曰く、
この送電線だか何だかの近くまで行くと言われた日にゃあ、どうしようと思った。
そこにあるのが、殯宮跡だろうがなんだろうが、たとえ金鉱があって、金の塊が拾い放題だとしても、行きたくない。 -
見てください。この枯れた雑草の谷。これをかき分けて進めと?
離婚しようかなあ。
このあたり、ちゃんとした住宅地です。
農地に囲まれた家や、牧場もありました。
田んぼ道を行ったり来たりしていると、牧場の犬が怪しんで、吠えるんです。
その声が、響くのです。
彼は、立派にその任務を遂行しておりました。ご苦労!
金塊は、守られました。
犬が、あれだけ吠えて、出てこないって、やっぱり、人類は滅亡しちゃったんだろうか。 -
もう、ここいらになると、草壁さんがどこに葬られようといいじゃない。こっちが、ここで葬られそう。なんて思いながら自転車こいでます。
いい景色なんですがね。梅は香り、鶯のささ鳴きが、時折聞こえて、この世の楽園。
なのに、坂道、坂道。
十年前は、なんでもなかったのにぃ。
By妻
束明神古墳から飛鳥は見える
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
宮内庁は草壁陵を、直線で270mほど南の岡宮天皇真弓丘陵と治定しています。治定されたのはそんなに古いことではないようです。江戸時代みたい。
専門家は圧倒的に束明神古墳を真陵としています。
私たちも束明神古墳が本物だなと思いました。
現在の束明神古墳は木立に覆われていて外の景色は見えません。 -
これは集落の高台から見た東北の方向です。
佐田の里が飛鳥方向に開けているのが分かります。 -
見えている丘陵が何なのかはわかりません。
-
青〇天武持統陵と赤●束明神古墳を直線で結びました。間にいくつか丘陵がありますので直接見えるかは分かりませんが、とにかく開けております。
草壁皇子が薨御したとき、天武天皇はすでにこの陵に葬られておりました。持統天皇もいずれこの陵に眠るつもりでした。
菟野さんは、いつまでも息子を見つめていたいと思ったのではないか、というのが私たちの説です。
悲しく空しい母親の願いといってしまえばそれまでですが、この二人の関係を慮るに、ありえるのではないかと思います。 -
一書に曰く、
この枯草に覆われた佐田の里に身を置いてみると、埋葬された人より残された人のことが、心に浮かびます。
草壁皇子の薨御のとき、持統天皇は、いくつだったのでしょうか。
この時代、死は、現代人より身近なものだったのではないかとは、思うのですが、子供に先立たれるのは、相当な衝撃だと思います。
例え家族でも、苦難を共にした仲間だとしても、殺し合う。
そういう時代だったし、そういう地位でした。
それでも、たった一人の子供だった。
この子のために無理を通した。
邪魔なものは、排除した。
さあ、今からよ!ってときの、死。
あきらめてもあきらめきれない草壁皇子の死でした。
それでも、夫を亡くし、子を亡くした女帝は、立ち上がり、まだまだ戦わなければなりませんでした。
持統天皇は、死後の世界を信じていたでしょうか。
死んでもなお、我が子を見守りたかったのでしょうか。
天武・持統陵から、束明神古墳までさえぎるものはないのです。
「お母さん、来て!」と言われたら、飛んでいける。
By妻 -
岡宮天皇真弓丘陵です。
草壁皇子は皇位に就くことはありませんでした。後年天平宝字2年(758年)、時の淳仁天皇から岡宮御宇天皇の称号が贈らました。 -
お隣の素盞鳴命(すさのうの・みこと)神社です。この神社の陰で、東方向は塞がれています。
-
北。鳥居は素盞鳴命神社。
-
北東。
-
東。
飛鳥方面の眺望は全部塞がれております。
鵜野さんが、ここに愛する息子のお墓をつくるはずがないのです。
不幸な親子でした。
持統天皇は政治家として、草壁皇子に夫天武のような絶対専制君主を要求したのですが、息子はそれに応えられなかった。
それに気づいたときは息子は死んでしまった。いつまでも息子を守っていたいという、母親の気持ちを汲んで、こういう解釈をいたしました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
飛鳥(奈良) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 六国史の旅 草壁皇子
0
30