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2025年はトーマス・マン生誕150年ということで、小説の舞台など関連する場所を巡った。既に訪れたことのある街が多い。<br />ワイマール近郊のブーヘンヴァルトにナチスの強制収容所跡がある。小説とは直接関係ないが、トーマス・マンはナチズムに抗し民主主義の側に立つことを表明したため、ナチ政権が成立した直後から亡命生活を送ることになる。

2025.6 ドイツ・スイス、トーマス・マン生誕150年記念の旅 その2

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2025/06/17 - 2025/06/23

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ミータ

ミータさん

この旅行記のスケジュール

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2025年はトーマス・マン生誕150年ということで、小説の舞台など関連する場所を巡った。既に訪れたことのある街が多い。
ワイマール近郊のブーヘンヴァルトにナチスの強制収容所跡がある。小説とは直接関係ないが、トーマス・マンはナチズムに抗し民主主義の側に立つことを表明したため、ナチ政権が成立した直後から亡命生活を送ることになる。

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • エアフルトからワイマールまで電車で16分。予定の電車が遅延のため1本遅い便になった。ブーヘンヴァルト強制収容所跡行きのバスは1時間に1,2本。乗り継ぎ時間が2,3分しかなかったが何とか間に合った。バスの運転手さんに行き先を告げ料金を払おうとしたら「要らない」と言われ(多分)、お金を受け取ってもらえなかった。20分ほどでブーヘンヴァルト記念館(Gedenkstaette Buchenwald)に到着。<br />写真は案内所(インフォメーション)で書籍の販売なども行っている。

    エアフルトからワイマールまで電車で16分。予定の電車が遅延のため1本遅い便になった。ブーヘンヴァルト強制収容所跡行きのバスは1時間に1,2本。乗り継ぎ時間が2,3分しかなかったが何とか間に合った。バスの運転手さんに行き先を告げ料金を払おうとしたら「要らない」と言われ(多分)、お金を受け取ってもらえなかった。20分ほどでブーヘンヴァルト記念館(Gedenkstaette Buchenwald)に到着。
    写真は案内所(インフォメーション)で書籍の販売なども行っている。

    ブーヘンヴァルト収容所跡 博物館・美術館・ギャラリー

  • 強制収容所跡の地図。

    強制収容所跡の地図。

  • 入口の門。監視塔も兼ねているので、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制・絶滅収容所(ビルケナウの方)やダッハウ強制収容所跡の門に似ている。私は2002年にも訪れているので2回目の訪問になる。

    入口の門。監視塔も兼ねているので、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制・絶滅収容所(ビルケナウの方)やダッハウ強制収容所跡の門に似ている。私は2002年にも訪れているので2回目の訪問になる。

  • ただ鉄扉の文字は”ARBEIT MACHAT FREI”(働けば自由になれる)ではなく”JEDEM DAS SEINE&quot;(各人に各人のもの)となっている。Wikipediaによる「ラテン語の表現 &quot;Suum cuique&quot; をドイツ語に訳したモットーである。そもそもはローマ法における正義の理念を表した慣用句で、各人にはそれぞれが応分に持つべきものを与える」ということらしい。つまり「この収容所に入っている者にはその人に応じた物しか与えられない(生存が困難なほど乏しい食料や燃料、衣服で我慢しろ)」ということだろう。

    ただ鉄扉の文字は”ARBEIT MACHAT FREI”(働けば自由になれる)ではなく”JEDEM DAS SEINE"(各人に各人のもの)となっている。Wikipediaによる「ラテン語の表現 "Suum cuique" をドイツ語に訳したモットーである。そもそもはローマ法における正義の理念を表した慣用句で、各人にはそれぞれが応分に持つべきものを与える」ということらしい。つまり「この収容所に入っている者にはその人に応じた物しか与えられない(生存が困難なほど乏しい食料や燃料、衣服で我慢しろ)」ということだろう。

  • 門の中は牢屋になっていた。

    門の中は牢屋になっていた。

  • ところどころにこういうパネルがある。1945年4月11日にブーヘンヴァルト強制収容所が解放された後、ナチスの親衛隊員らが反対に収容され、そこに連合軍の視察団が入った時の写真である。

    ところどころにこういうパネルがある。1945年4月11日にブーヘンヴァルト強制収容所が解放された後、ナチスの親衛隊員らが反対に収容され、そこに連合軍の視察団が入った時の写真である。

  • 電流が通っていた有刺鉄線の柵。

    電流が通っていた有刺鉄線の柵。

  • 門を入って向かって右側にクレマトリウム(焼却炉跡)や資料館がある。

    門を入って向かって右側にクレマトリウム(焼却炉跡)や資料館がある。

  • 私は資料館のある方とは逆の方から廻ってみた。中央の白っぽい建物が入口の門でその右隣が食堂の建物。

    私は資料館のある方とは逆の方から廻ってみた。中央の白っぽい建物が入口の門でその右隣が食堂の建物。

  • 食堂の説明。例によってグーグルレンズの自動翻訳機能を使っている。<br />「1941年に建てられた囚人食堂 収容所内で安価に購入された品物や生産された品物を販売するこの販売店は、囚人の親族が収容所の管理者に送金することを許可された少額の金銭を横領するために SS によって設立されました。 地下室では、囚人たちがレジスタンス組織のために焼夷弾の瓶や爆発装置を密かに製造していたほか、食堂用の石鹸やその他の品物も製造していた」

    食堂の説明。例によってグーグルレンズの自動翻訳機能を使っている。
    「1941年に建てられた囚人食堂 収容所内で安価に購入された品物や生産された品物を販売するこの販売店は、囚人の親族が収容所の管理者に送金することを許可された少額の金銭を横領するために SS によって設立されました。 地下室では、囚人たちがレジスタンス組織のために焼夷弾の瓶や爆発装置を密かに製造していたほか、食堂用の石鹸やその他の品物も製造していた」

  • 監視塔と通用門。

    監視塔と通用門。

  • ここにバラック(収容小屋)がずらっと建ち並んでいたのだ。

    ここにバラック(収容小屋)がずらっと建ち並んでいたのだ。

  • 復元されたバラック。中学生ぐらいの集団も見学に来ていた。

    復元されたバラック。中学生ぐらいの集団も見学に来ていた。

  • バラックの説明<br />「バラック。1945年初頭 この場所にあったバラックは、1945 年春に収容所が壊滅的な過密状態にあった際に、病気の囚人のための追加宿泊施設として使われました。1950 年代初頭に解体され、テューリンゲン州南部にある中隊の管理兵舎として使用され、1994 年にここに再建されました」

    バラックの説明
    「バラック。1945年初頭 この場所にあったバラックは、1945 年春に収容所が壊滅的な過密状態にあった際に、病気の囚人のための追加宿泊施設として使われました。1950 年代初頭に解体され、テューリンゲン州南部にある中隊の管理兵舎として使用され、1994 年にここに再建されました」

  • 瘦せこけた人々の写真。<br />その横の説明文には<br />「小さなキャンプの検疫区域<br /> 戦争の最後の年に、小キャンプはいくつかのセクターに分割されました。 SS は病人や虚弱者を東側の兵舎に強制収容し、新たに到着した大量輸送員たちを柵で囲まれた隔離区域に一時的に収容したが、その生活環境は特に劣悪だった。現在、この場所には小収容所の囚人を追悼する記念碑が建っています。 1944年半ば以降、ドイツ占領下のほぼすべての国からの囚人がこの地域を通過した。その中には、フランス人、ポーランド人、ハンガリー人、ポーランド系ユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、ユーゴスラビア人、ベルギー人、イタリア人、チェコ人、オランダ人、デンマーク人など数千人、さらに2,000人を超えるシンティ族とロマ族が含まれていた」とある。

    瘦せこけた人々の写真。
    その横の説明文には
    「小さなキャンプの検疫区域
    戦争の最後の年に、小キャンプはいくつかのセクターに分割されました。 SS は病人や虚弱者を東側の兵舎に強制収容し、新たに到着した大量輸送員たちを柵で囲まれた隔離区域に一時的に収容したが、その生活環境は特に劣悪だった。現在、この場所には小収容所の囚人を追悼する記念碑が建っています。 1944年半ば以降、ドイツ占領下のほぼすべての国からの囚人がこの地域を通過した。その中には、フランス人、ポーランド人、ハンガリー人、ポーランド系ユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、ユーゴスラビア人、ベルギー人、イタリア人、チェコ人、オランダ人、デンマーク人など数千人、さらに2,000人を超えるシンティ族とロマ族が含まれていた」とある。

  • ”Kleines Lager&quot;(小さな収容所)と呼ばれる疫病の隔離区域だった一角。<br />「「小さなキャンプ」、1942/43年に設立<br />特別区「小キャンプ」は、メインキャンプから疫病を遠ざけるための隔離区域として設立されました。この収容所は、もともと馬50頭を収容することを目的として窓のない厩舎で構成されており、最大1,900人の囚人を収容していた。 SSはドイツ占領下のすべての国から囚人をここに連れて来て、強制労働のために選別しました。彼らのさらなる旅は、通常、数多くある衛星キャンプの 1 つにたどり着きました。劣悪な衛生環境、飢餓、害虫に悩まされ、馬小屋で数週間以上生き延びることはほとんど不可能でした。 1945 年 1 月から 3 月末までにアウシュビッツとグロス・ローゼンからの避難輸送が到着しただけで、5,000 人以上がここで亡くなりました」

    ”Kleines Lager"(小さな収容所)と呼ばれる疫病の隔離区域だった一角。
    「「小さなキャンプ」、1942/43年に設立
    特別区「小キャンプ」は、メインキャンプから疫病を遠ざけるための隔離区域として設立されました。この収容所は、もともと馬50頭を収容することを目的として窓のない厩舎で構成されており、最大1,900人の囚人を収容していた。 SSはドイツ占領下のすべての国から囚人をここに連れて来て、強制労働のために選別しました。彼らのさらなる旅は、通常、数多くある衛星キャンプの 1 つにたどり着きました。劣悪な衛生環境、飢餓、害虫に悩まされ、馬小屋で数週間以上生き延びることはほとんど不可能でした。 1945 年 1 月から 3 月末までにアウシュビッツとグロス・ローゼンからの避難輸送が到着しただけで、5,000 人以上がここで亡くなりました」

  • 「小さなキャンプ」の慰霊碑。<br />地面にはアウシュヴィッツなど他のナチスの強制・絶滅収容所のあった地名が書かれている。

    「小さなキャンプ」の慰霊碑。
    地面にはアウシュヴィッツなど他のナチスの強制・絶滅収容所のあった地名が書かれている。

  • 少し長いけど碑文の全文の翻訳。収容所の中でも特に悲惨な状況の区域だったとある。<br />「悪名高い「リトルキャンプ」はこの場所にありました。有刺鉄線のフェンスでメインの収容所から隔てられたこの収容所の囚人たちは、ブーヘンヴァルトの囚人全員の中で最もひどい拷問を受けた。この小さな収容所は1942年末に設立されました。最初の収容者はポーランド人、ロシア人、フランス人、オランダ人でした。何年もかけて、小収容所のユダヤ人の数は増加し、ナチスによって両親を殺された子供たちも含め、ユダヤ人が多数派を占めるようになった。 1945年1月からは「ユダヤ人収容所」と呼ばれるようになりました。これらのユダヤ人のほとんどはアウシュビッツや東ヨーロッパの他の強制収容所からブーヘンヴァルトに連れてこられた人々だった。 1945年、小規模収容所には同時に約2万人が収容されていました。非人道的な環境により、収容所全体で最も高い死亡率が生じた。宿泊施設は窓も床もない馬小屋で、もともと50頭の馬を収容することを目的としていたが、時には2000人もの人が詰め込まれたこともあった。水道も衛生設備もなく、暖房もほとんどありませんでした。囚人の中にはテントで生活している人もいた。その一帯は厚い泥で覆われていた。<br />食糧配給量はメインキャンプに比べてほんのわずかで、飲料水さえないことも多かった。トイレは一つしかなかったため、多くの囚人は食器用容器を便器として使わざるを得なかった。 1945 年の初め以来、収容所には人間の排泄物の悪臭が絶えず漂っていた。亡くなる人が増えるにつれ、死体は野外に放置された。小さな収容所は、移送され、寒さ、飢え、渇き、過酷な労働、残酷な拷問、そして絶えず蔓延する疫病によって命を落とした人々にとって、深い絶望の場所でした。解放前の最後の数日間、強制収容所の囚人の多くが死の行進や鉄道輸送に送られ、何万人もの人が死亡した。選ばれた人の半数以上はスモールキャンプ出身者でした。解放後、メインのキャンプ地は保存され、記念碑が飾られましたが、小さなキャンプ地は放置され、木や茂みが生い茂るままになりました。 1990 年まで、東ドイツ当局はこの地域を管理していませんでした。リトルキャンプの生存者の中にはアメリカに住んでいる人もいます。彼らとその子孫はこの記念碑の建立を支持しました」

    少し長いけど碑文の全文の翻訳。収容所の中でも特に悲惨な状況の区域だったとある。
    「悪名高い「リトルキャンプ」はこの場所にありました。有刺鉄線のフェンスでメインの収容所から隔てられたこの収容所の囚人たちは、ブーヘンヴァルトの囚人全員の中で最もひどい拷問を受けた。この小さな収容所は1942年末に設立されました。最初の収容者はポーランド人、ロシア人、フランス人、オランダ人でした。何年もかけて、小収容所のユダヤ人の数は増加し、ナチスによって両親を殺された子供たちも含め、ユダヤ人が多数派を占めるようになった。 1945年1月からは「ユダヤ人収容所」と呼ばれるようになりました。これらのユダヤ人のほとんどはアウシュビッツや東ヨーロッパの他の強制収容所からブーヘンヴァルトに連れてこられた人々だった。 1945年、小規模収容所には同時に約2万人が収容されていました。非人道的な環境により、収容所全体で最も高い死亡率が生じた。宿泊施設は窓も床もない馬小屋で、もともと50頭の馬を収容することを目的としていたが、時には2000人もの人が詰め込まれたこともあった。水道も衛生設備もなく、暖房もほとんどありませんでした。囚人の中にはテントで生活している人もいた。その一帯は厚い泥で覆われていた。
    食糧配給量はメインキャンプに比べてほんのわずかで、飲料水さえないことも多かった。トイレは一つしかなかったため、多くの囚人は食器用容器を便器として使わざるを得なかった。 1945 年の初め以来、収容所には人間の排泄物の悪臭が絶えず漂っていた。亡くなる人が増えるにつれ、死体は野外に放置された。小さな収容所は、移送され、寒さ、飢え、渇き、過酷な労働、残酷な拷問、そして絶えず蔓延する疫病によって命を落とした人々にとって、深い絶望の場所でした。解放前の最後の数日間、強制収容所の囚人の多くが死の行進や鉄道輸送に送られ、何万人もの人が死亡した。選ばれた人の半数以上はスモールキャンプ出身者でした。解放後、メインのキャンプ地は保存され、記念碑が飾られましたが、小さなキャンプ地は放置され、木や茂みが生い茂るままになりました。 1990 年まで、東ドイツ当局はこの地域を管理していませんでした。リトルキャンプの生存者の中にはアメリカに住んでいる人もいます。彼らとその子孫はこの記念碑の建立を支持しました」

  • 奥に資料館が見えてきた。

    奥に資料館が見えてきた。

  • だが、メインの資料館の前に脇道にそれて、1945年から1950年までソ連の収容所として使われていた時代の資料館にも寄ってみる…と思ったが、閉館中だった。そう、ワイマールは連合国の中でもソ連の占領下だったので、戦後も強制収容所には政治犯などが収容されていたのだ。

    だが、メインの資料館の前に脇道にそれて、1945年から1950年までソ連の収容所として使われていた時代の資料館にも寄ってみる…と思ったが、閉館中だった。そう、ワイマールは連合国の中でもソ連の占領下だったので、戦後も強制収容所には政治犯などが収容されていたのだ。

  • それではようやくメインの資料館。

    それではようやくメインの資料館。

  • 国民社会主義と暴力<br /><br />1937年 - ヒトラーの政党、NSDAPが間違いなく政権を握る。国民の大多数は新しい秩序に共感し、あるいはそれを受け入れている。再軍備に伴う経済の好転から恩恵を受ける人は多い。<br />国民社会主義者は、社会的、政治的な対立のない「人種的に純粋」で調和のとれた「国民共同体」という目標を宣伝した。実際には、彼らは暴力に基づく状況を作り出し、継続的に暴力を生み出していました。<br />民主的な権力分立、法の下の平等、表現の自由、その他すべての公民権といった平和秩序の基盤が破壊されました。メディア、司法、国家行政は国民社会主義者の利益のためにのみ機能している。 1933年に政権が樹立されると、強制収容所が設置された。彼らの目的である、政治的反対者への迫害と脅迫は達成された。それにもかかわらず、新たな強制収容所が建設され続けています。今や、それは単なるテロの問題ではなく、何よりも社会の人種差別的変容に関するものとなっている。<br />国民社会主義が人々を優劣に分類することは、永続的な暴力につながる。戦争以前から、数十万人もの人々が迫害と排除の犠牲となっていた。政治犯に加え、主にユダヤ人であったが、「ジプシー」として迫害されたシンティやロマ、同性愛者、前科者、労働嫌いなどの烙印を押された人々も含まれていた」<br /><br />つまり「国民共同体」から外れている者は、自分たちと同じ人間とは見なさい。では「国民共同体」に入るか、外れるかの基準は何か?トーマス・マンだって1936年にドイツ国籍をはく奪された。近年の「アメリカ人ファースト」や「日本人ファースト」はこのナチスの「国民共同体」の考え方と似ていて気持ち悪い。

    国民社会主義と暴力

    1937年 - ヒトラーの政党、NSDAPが間違いなく政権を握る。国民の大多数は新しい秩序に共感し、あるいはそれを受け入れている。再軍備に伴う経済の好転から恩恵を受ける人は多い。
    国民社会主義者は、社会的、政治的な対立のない「人種的に純粋」で調和のとれた「国民共同体」という目標を宣伝した。実際には、彼らは暴力に基づく状況を作り出し、継続的に暴力を生み出していました。
    民主的な権力分立、法の下の平等、表現の自由、その他すべての公民権といった平和秩序の基盤が破壊されました。メディア、司法、国家行政は国民社会主義者の利益のためにのみ機能している。 1933年に政権が樹立されると、強制収容所が設置された。彼らの目的である、政治的反対者への迫害と脅迫は達成された。それにもかかわらず、新たな強制収容所が建設され続けています。今や、それは単なるテロの問題ではなく、何よりも社会の人種差別的変容に関するものとなっている。
    国民社会主義が人々を優劣に分類することは、永続的な暴力につながる。戦争以前から、数十万人もの人々が迫害と排除の犠牲となっていた。政治犯に加え、主にユダヤ人であったが、「ジプシー」として迫害されたシンティやロマ、同性愛者、前科者、労働嫌いなどの烙印を押された人々も含まれていた」

    つまり「国民共同体」から外れている者は、自分たちと同じ人間とは見なさい。では「国民共同体」に入るか、外れるかの基準は何か?トーマス・マンだって1936年にドイツ国籍をはく奪された。近年の「アメリカ人ファースト」や「日本人ファースト」はこのナチスの「国民共同体」の考え方と似ていて気持ち悪い。

  • ブーヘンヴァルト強制収容所<br />1937-1945<br /><br />40万平方メートルの捕虜収容所<br />3,500メートルの電気有刺鉄線フェンス<br />139のサテライトキャンプ <br />277,800人の囚人<br />3万人の未成年者<br />28,230人の女性<br />249,570人の男性<br />50か国以上から<br />5万6000人が死亡<br />アウシュビッツへ死の移送を受けた1,944人の男性、女性、子供<br />1938年2月: 囚人2,728人<br />1945年2月: 112,050人の捕虜<br />受刑者の年齢:2歳から86歳

    ブーヘンヴァルト強制収容所
    1937-1945

    40万平方メートルの捕虜収容所
    3,500メートルの電気有刺鉄線フェンス
    139のサテライトキャンプ
    277,800人の囚人
    3万人の未成年者
    28,230人の女性
    249,570人の男性
    50か国以上から
    5万6000人が死亡
    アウシュビッツへ死の移送を受けた1,944人の男性、女性、子供
    1938年2月: 囚人2,728人
    1945年2月: 112,050人の捕虜
    受刑者の年齢:2歳から86歳

  • 資料を一つ一つ見ていたら日が暮れるので、駆け足で廻る。

    資料を一つ一つ見ていたら日が暮れるので、駆け足で廻る。

  • 「最後の数ヶ月<br />1944 年秋 - 連合軍は西と東からドイツ帝国に進軍します。ドイツ国防軍は撤退中である。戦争はとっくに負けているにもかかわらず、政権はあらゆる手段を使って戦争を続けている。国民の間には、狂信、戦争への疲労、「最終的な勝利」についての幻想、そして連合国による報復への恐怖が入り混じっている。広範囲にわたる反乱は起きていない。<br />SSは前線付近の収容所や拘留所を掃討する。囚人たちは帝国内部の強制収容所に移送されます。東部では、SS が絶滅の痕跡を隠蔽し、移送するには衰弱しきっていた囚人を殺害したり、死なせるまで放置したりした。多くは移送中に生き残れず、あるいは過密状態のキャンプに到着すると衰弱して死んでしまう。強制労働を維持するために、SSは死にゆく人々のための区域を設け、彼らをどこにも移送できないようにした。死者数は何倍にも増えます。<br />連合軍が帝国内部の強制収容所に近づくと、SSも彼らを避難させた。行進中に殺害した<br />疲れ果てた囚人たち - 時には目の前で、住民の参加を得て。<br />連合軍兵士だけが犯罪を阻止した」<br /><br />連合軍が近づいたとき、強制収容所の実態を知られないように、囚人たちを「死の行進」とも呼ばれる移送で収容所から「避難」させ、その途中でも多くの人々が亡くなった。

    「最後の数ヶ月
    1944 年秋 - 連合軍は西と東からドイツ帝国に進軍します。ドイツ国防軍は撤退中である。戦争はとっくに負けているにもかかわらず、政権はあらゆる手段を使って戦争を続けている。国民の間には、狂信、戦争への疲労、「最終的な勝利」についての幻想、そして連合国による報復への恐怖が入り混じっている。広範囲にわたる反乱は起きていない。
    SSは前線付近の収容所や拘留所を掃討する。囚人たちは帝国内部の強制収容所に移送されます。東部では、SS が絶滅の痕跡を隠蔽し、移送するには衰弱しきっていた囚人を殺害したり、死なせるまで放置したりした。多くは移送中に生き残れず、あるいは過密状態のキャンプに到着すると衰弱して死んでしまう。強制労働を維持するために、SSは死にゆく人々のための区域を設け、彼らをどこにも移送できないようにした。死者数は何倍にも増えます。
    連合軍が帝国内部の強制収容所に近づくと、SSも彼らを避難させた。行進中に殺害した
    疲れ果てた囚人たち - 時には目の前で、住民の参加を得て。
    連合軍兵士だけが犯罪を阻止した」

    連合軍が近づいたとき、強制収容所の実態を知られないように、囚人たちを「死の行進」とも呼ばれる移送で収容所から「避難」させ、その途中でも多くの人々が亡くなった。

  • 資料館の窓から眺めたブーヘンヴァルト強制収容所跡の敷地。

    資料館の窓から眺めたブーヘンヴァルト強制収容所跡の敷地。

  • クレマトリウム(死体焼却炉)。<br />この建物の中には解剖台も置いてあり、2002年に訪れた時にはそれを見た瞬間に何が行われていたのか想像してしまった。改めてみれば白いタイル張りで、知らなければ大きめの浅い流し台のようにも見えなくもない。それでも写真に残す気にはなれなかった。

    クレマトリウム(死体焼却炉)。
    この建物の中には解剖台も置いてあり、2002年に訪れた時にはそれを見た瞬間に何が行われていたのか想像してしまった。改めてみれば白いタイル張りで、知らなければ大きめの浅い流し台のようにも見えなくもない。それでも写真に残す気にはなれなかった。

  • 死体焼却炉。

    死体焼却炉。

  • 1時間半余かけて一周し、入口の門に戻ってきた。

    1時間半余かけて一周し、入口の門に戻ってきた。

  • ソ連占領下時代の強制収容所の管理棟の建物。

    ソ連占領下時代の強制収容所の管理棟の建物。

  • ソ連占領下時代の強制収容所の管理棟の建物の説明。<br /><br />「1948年から1950年にかけて建設された収容小屋<br />1945 年 9 月から 1950 年 2 月末まで、ソ連占領軍は旧ブーヘンヴァルト強制収容所の一部を「特別収容所第 2 号」の名称で、合計 28,500 人の男性、女性、若者を収容する収容所として使用しました。兵舎はキャンプ管理のための管理棟として機能した。ソ連の特別収容所の歴史は東ドイツでは秘密にされていた。<br />ブーヘンヴァルト国立記念碑の管理者は、故意か無意識かを問わず、東ドイツのこの建物をナチス強制収容所のゲシュタポ(秘密国家警察)の「政治部」の本部として紹介しました。実際、この建物の裏の敷地にある木造の兵舎に建てられており、1944 年 8 月に強制収容所付近の兵器工場への空襲で破壊されました」

    ソ連占領下時代の強制収容所の管理棟の建物の説明。

    「1948年から1950年にかけて建設された収容小屋
    1945 年 9 月から 1950 年 2 月末まで、ソ連占領軍は旧ブーヘンヴァルト強制収容所の一部を「特別収容所第 2 号」の名称で、合計 28,500 人の男性、女性、若者を収容する収容所として使用しました。兵舎はキャンプ管理のための管理棟として機能した。ソ連の特別収容所の歴史は東ドイツでは秘密にされていた。
    ブーヘンヴァルト国立記念碑の管理者は、故意か無意識かを問わず、東ドイツのこの建物をナチス強制収容所のゲシュタポ(秘密国家警察)の「政治部」の本部として紹介しました。実際、この建物の裏の敷地にある木造の兵舎に建てられており、1944 年 8 月に強制収容所付近の兵器工場への空襲で破壊されました」

  • 最後に案内所の書籍販売コーナーを覗く。簡単なパンフレット程度のものがあれば買おうかと思ったが、適当なのがなかったので止める。帰りのバスではちゃんと運賃を払って(受け取ってもらって)、ワイマール中心部に向かう。<br /><br />続く。

    最後に案内所の書籍販売コーナーを覗く。簡単なパンフレット程度のものがあれば買おうかと思ったが、適当なのがなかったので止める。帰りのバスではちゃんと運賃を払って(受け取ってもらって)、ワイマール中心部に向かう。

    続く。

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