2025/05/03 - 2025/05/04
197位(同エリア834件中)
Bachさん
二世帯家族恒例の旅行で、今回は初めてゴールデンウイーク真っただ中に「下呂温泉と飛騨高山」へ、1泊2日のドライブ旅をしてきました。
いつも孫中心の旅になりますが、今回も目的は飛騨の民芸品「さるぼぼ」を作ることで、小学校の研究課題にあげたことで興味を持ち、ぜひ作りたいと思ったそうで、自作の「さるぼぼ」が完成したら大満足、これだけで旅行目的は達成ですが、大人たちも「日本三大名泉」と言われる良質の温泉に何回も入り、途中で地元の美味しいグルメを頂き、インバウンドで賑わう小京都「高山」の風情ある町歩きも楽しめて、往復の渋滞の疲れも吹っ飛んだ2日間でした。
二世帯同居を始めて5年目になり、最初はコロナ禍にも見舞われて、お互いの精神的リフレッシュをはかるために始めた「二世帯家族旅行」ですが、孫たちは成長し、親たちも年を重ねると、いつまで出来ることやら、孫たちの喜ぶ顔を見ながら、無理のない範囲で続けていきたいと思いながら帰路につきました。
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行程(1日目) 8:00 京都~名神高速・中央高速~50km 10:00 菩提寺PA~150km 13:00 瑞浪市~50km 16:30 付知道の駅~50km 18:00「下呂温泉」 (2日目)下呂温泉11:00~40km 11:40 飛騨一之宮・臥龍桜~10km 12:30「高山」 16:30~200km 多賀SA~100km 21:00 京都
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「菩提寺 PA」
ゴールデンウイークでさすがに渋滞に巻き込まれてトイレ休憩、「菩提寺 PA」は、近くに「菩提寺」という寺院があり、地名も「湖南市菩提寺」であることに由来 -
信楽焼のたぬき親子と、天然記念物「うつくし松」
「うつくし松」とは、この辺りにのみ自生するアカマツの変種で、東海道五十三次を往来する人々にも松の名所として古くより知られ、国の天然記念物に指定されており、主幹がなく1本の根から枝が放射状に分かれて上方へ伸び、傘を逆さにしたような美しい形をしている -
ランチは瑞浪のうなぎ屋「こぶし」
岐阜県瑞浪市の知り合いの家に立ち寄り、ランチは「うなぎ屋」さんへ -
ランチ「瑞浪のうなぎ」
孫たちも大好きなウナギたっぷりの2段重ね「三河一色産」を頂く -
瑞浪から下呂温泉への途中「うら木曽街道」
美濃国と信濃国を結ぶ木曽街道の裏側(西側)にあたり、木曽川に合流する「付知川」沿いの国道を裏木曽街道という -
道の駅「付知」(標高423m)
「つけち」と読む、森林と清流のイメージからきているとの説明があるが、良く分らない -
「つけち森林の市」
たまたま5月3、4日で、毎年開催している今回33回目のお祭りが行われていた、木工素材や木工製品、クラフト雑貨や飲食店、体験コーナーや野外ステージまで楽しめて良かった! -
伊勢神宮「式年遷宮」の御神木
「式年遷宮」の御神木は、ここのヒノキの木を使うそうで、20年に一度の「式年遷宮」は、8年後の令和15年(2033)だが、今年からその準備が始まり、6月3日にご神体を納める器の材料となるヒノキを切り出す「伐採式」が行われるという -
大きな一枚板から木っ端や木工製品まで割安で買えて、欲しそうなものが一杯あったが、形の良い桜木の椅子があったので買ってしまった
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木のモノ以外にも、アウトドア用品やクラフト雑貨やワークショップ、飲食店など様々なお店が並んで楽しい!
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野外ステージではバンド演奏やダンスなど、子供用の遊び場まであり、予定外に時間を費やしてしまった
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18:00「下呂温泉」到着
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LDKにベッドルーム2、和室12畳、ドッグラン付きの会員制別荘
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愛犬モコも長旅でお疲れ気味
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早速、6階にある温泉へ
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食事までに、フロントで借りてきた「人生ゲーム」で遊ぶ
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食事は、「飛騨牛のローストビーフ」お手製とデリバリーのお寿司、孫の定番は「マグロづくし」と「サーモンづくし」
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(2022.1.3 撮影)時々買っている飛騨牛の店「養老ミート」
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食後は持ってきた「マリオゲーム」、今日は特別にやり放題
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(2日目)7:00 朝の散歩
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朝から森林浴になって気持ち良い
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下呂温泉「合掌村」
少し歩くと、白川郷などから移築した10棟の合掌家屋で集落を再現した「合掌村」がある -
朝早いのでまだオープンしてないが、中は広く合掌集落の生活文化を身近に体験できて、食事処の「合掌茶屋」もあり、「和紙の絵付け体験」や「陶器体験」などもあるというが、今回はパス
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別荘に帰って「ドッグラン」で愛犬タイム
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朝食は、地元で評判のパン屋さんで買ってきたパンと昨日の残り物
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朝の散歩の後の朝食は美味い!
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(2022.1.4 撮影)今回は行かなかったが、前回行った時の下呂温泉中心街
白鷺橋(しらさぎばし)にある「林羅山像」は、江戸時代の儒学者「林羅山」(1583-1657)が、下呂温泉を草津、有馬と並ぶ「日本三大名泉」と称して世に広めたことから建立したもので、訪れた時に猿と戯れていたという逸話から3匹の猿を従えている -
(2022.1.4 撮影)「チャップリン像」
奇妙なことに、隣に「チャップリン像」があるのは特にご縁があるわけでもなく、ただ町興しで「映画通り」にしたいという思いで作ったらしい -
(2022.1.4 撮影)「かえるの滝」
下呂温泉のマスコットは「かえる」で、カエルの鳴き声が「下呂」の地名に似ており、カエルは幸運のシンボルで、「無事かえる」の語呂合わせかららしいが、そもそも「下呂」という奇妙な地名は、かつて「下留」と呼ばれたのが「げる」と音読みされ、「げろ」に転じたとされ、後で分かったことだが、川の上流から順に「上呂」「中呂」「下呂」の地名が実際あるという -
(2022.1.4 撮影)「しらさぎ横丁」
「しらさぎ」(白鷺)の由縁は、下呂温泉が薬師如来の化身であった一羽の白鷺によって導かれて湧き出たという伝説によるという -
(2022.1.4 撮影)「さるぼぼ神社」
「さるぼぼ」は、飛騨のおばあちゃんが作る猿のぬいぐるみで、郷土人形からお守りや魔除けとしても人気になっていて、高山名物だと思っていたが、一応、飛騨の地域商標に登録されているので、飛騨に入る下呂でも観光グッズとして取り扱っているらしい -
11:00 「下呂温泉」で朝風呂をもう一度楽しんでから、高山へ向かう途中で、飛騨一之宮の「臥龍桜」に立ち寄る
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「臥龍桜」(がりゅうざくら)国の天然記念物(写真は合成)
幾度の枯死状態からも、たくましく復活した樹齢1100年の日本を代表するエドヒガンザクラの大樹で、一本の大枝が重みで地面に着き、そこから発根して独立し、まさに龍が臥せたような樹形をしている、大幢寺(だいどうじ)の境内にあり、和尚により「臥龍桜」と命名され、臥龍公園として整備された -
「臥龍桜を守り、育てる」
昭和34年(1959)の伊勢湾台風により龍の胴体部分が折れ、平成3年(1991)台風19号により大きな枝4本折れるなど大きな被害を受けたが、樹勢回復、樹根復活改善事業に約20年間にわたり取組み樹勢を取戻した -
「桜は生き物と信じ、桜と語り合いながら復活の道をたどった」という、地元の人達の地域の財産は自分たちで守るという熱意には頭が下がる
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「カラーマンホール」
「臥龍桜」を中心に、岐阜県と高山市の木で天皇の即位に使われている笏(しゃく)の原材料となる「イチイの木」を産出する「位山」(標高1,529m)から流れる「宮川」が描かれているという -
12:30「飛騨高山」に到着
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まずはランチで、御当地グルメの「高山ラーメン」
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お目当ての店が見つかったが、ここも1時間待ち!
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辛抱強く待つことに
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その間、少し町歩き
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宮川を越えて「朝市」通りへ
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飛騨高山の魅力は「高山祭」と「朝市」、「朝市」通りから「高山屋台会館」方面へ歩く
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高山「宮川朝市」
午前7時から12時までの開催で既に終わっていたが、地元の野菜、くだもの、漬物、民芸品などの店が建ち並ぶ、高山の朝市は、江戸時代に養蚕の「桑市」から始まり、野菜や米、花などが並べられ発展した -
突然「鳥居」が出現
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「櫻山八幡宮」(さくらやまはちまんぐう)
鳥居は昭和48年建立、社殿は昭和51年造営 -
「櫻山八幡宮」
仁徳天皇377年頃の創始と言われ、室町時代に京都石清水八幡宮より勘請したが、戦乱で荒廃し、江戸時代1623年に再興、明治8年高山の大火で殆ど消失したが同年33年までに復興、戦後かつて奉行祭と呼ばれた例祭(秋の高山祭)が全国に知られ参拝者が急増した -
「高山祭屋台会館」
「高山祭」に曳出される11台の実物の屋台を年3回入れ替えて展示しているが、今回は時間がないためパス、「高山祭」は京都「祇園祭」、埼玉「秩父夜祭」と並び「日本三大曳山祭」で、飛騨の国は、都の宮殿やお寺の建築に従事する「飛騨の匠」という匠を朝廷ヘ送り出した長い伝統と培われた技術が脈々と受けつがれており、これが江戸時代になって1718年「高山祭」の屋台として花開き、さらに財力を持った豪商が屋台の改修に金を出し飛騨の匠に技を競わせ、華美な懸装品を京都より手に入れて「豪華絢爛」な屋台へと変貌させていったという *ちなみに「秩父夜祭」は、養蚕・絹織が盛んで、江戸時代には「秩父絹」として広く知られるようになり、絹市に遠方から来る人々を楽しませるためにはじめられた -
「高山祭の屋台」
「高山祭」は毎年春と秋の2回行われ、春12台、秋11台、計23台の屋台がある、祇園祭では「山車」(だし)とか「曳山」と呼ぶが高山、秩父では「屋台」と呼ぶ(岸和田はだんじり)が、高山の場合は、屋根の部分が高さを変えられる、方向転換する際に戻し車と呼ばれる車輪を引き出して一時的に3輪の状態にするのが特徴 *祇園祭では「山」と「鉾」があり、先端に鉾飾りがついているか、ただの木がついているかの違いで、特に大きい山が「曳山」(祇園祭は前後祭合わせて34基、岸和田だんじりは80基、大津祭13基) -
早速「高山祭」の屋台蔵
大きな扉のついた白壁の土蔵のような建物は、高山の町並みの特徴にもなっており、「高山祭」の各町内の屋台を保管しており、火災から屋台を守るだけでなく、町内の防火壁としての役割も果たしている -
「行神台」(ぎょうじんたい)
全23台の屋台は、それぞれ歴史的な意味をもっており、「行神台」の創建は享保3年(1718)、明治8年の大火で焼失したが再建、明治36年(1903年)から車輪が損傷し曳行できなくなったが昭和26年(1951)から再開、この地域を開拓したと伝えられる「役の行者」(えんのぎょうじゃ)を祀っている、他には「神楽台」「布袋台」「金鳳台」「鳩峯車」「神馬台」「仙人台」「宝珠台」「鳳凰台」など、名前だけでも豪華! -
「一位一刀彫」
江戸時代から受継がれる伝統工芸品で、岐阜の県木である「イチイの木」をノミで彫り上げ、着色や加飾を施さず、木そのものの色合いと質感を楽しめる作品で、年月とともに木そのものの色合いが変化し光沢が出るのが魅力で、伝統的な小物入れや置物、茶道具、携帯電話のアクセサリーなどある -
「みたらしだんご」
高山の「みたらしだんご」は醤油ベースのタレで、京都の甘ダレとは違うが、もともとの発祥は「下鴨神社」の「御手洗池」(みたらしいけ)で後醍醐天皇が水を掬おうとしたら大きな泡が1つ出て、続いて4つの泡が出てきたという逸話からで、これが「祇園祭」が「高山祭」に伝わったのと同じ頃に伝わり、その頃は「醤油味」だったが、京都では大正時代に「加茂みたらし茶屋」の店主が「甘ダレ味」を考案したのが主流となっている、またもう一つの違いは、高山は5個の団子がくっついているが、京都は先頭の1個だけ離れていること -
「豊明台組保存区域」
高山は古くから飛騨の政治経済の中心として栄えた地で、1586年から城下町が形成され、東側が武家屋敷、西側が町人町となった、その後幕府直轄領となり商人を中心に発展し、南半分は日枝神社、北半分は桜山八幡宮の氏子区域として高山祭の屋台を護持する屋台組を中心にした町並みが残っている -
「吉島家住宅」(よしじまけ)
吉島家は江戸末期に生糸繭で栄えた豪商で、建物は明治40年(1907)に建てられた町家建築、全体的に簡素で、隣接する「日下部家」が男性的な建物であるのに対し、繊細で女性的と言われ、日本における民家建築の最高峰とも言われる -
「日下部民藝館」(くさかべ)
日下部家は幕府の御用商人として役所の御用金を用立てする掛屋や両替屋で栄え、明治8年(1875)焼失後、江戸時代の建築様式そのままの住宅を造り上げ、整然とした梁組や整備された中庭など風格の高さが表れ、畳が147畳もある大きな旧商家 -
「飛騨の小京都」
高山は、城下町・商人町として栄えた当時の古い町並みが残り、「飛騨の小京都」と言われる -
13:30 再び「ラーメン店」に戻る
殆どの店頭に「提灯」を見かけるが、この「高山提灯」は飛騨では欠かせない工芸品だという、デザイン文字が気になり調べると、ここの「熀」(コウ:さかん)の他にもたくさんの文字や柄がある、「敬熀」(ケイコウ:あきらかな光を敬う)、「惶栄」(こうえい:恐れと栄え)「焰」(かがり火)など -
「高山ラーメン」
しょうゆをベースにしたシンプルなラーメンで、地元では単に「中華そば」と呼ばれている -
1時間も待ったから完食、美味しかった!
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ランチが終わってから、年寄り組2人は「高山散歩」の続きを、孫たち親子4人は「サロボボ制作体験」の出来る高山グリーンホテル内の「飛騨物産館」に分かれた
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「チャパラ」メキシコ料理店でもお祭り提灯が似合う
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高山「有楽町」(うらまち)
「この辺りは武士や町人の住まいが密集する地域で、およそ三百年前の町家が建ち並んでいた頃の面影が色濃く残っている」と書かれている、裏町が有楽町になったらしい -
「高山陣屋朝市」
既に撤収しているが、高山の朝市には「宮川朝市」と、高山陣屋前の「陣屋朝市」の2か所がある、1820年頃は高山別院の境内で「桑市」(養蚕)として開かれていたが、その後現在地に移転してきた -
「高山陣屋」(たかやまじんや)
飛騨国は江戸時代初期1586年から金森氏を藩主とし、6代107年間続いた高山藩「高山城」の城下町として発展したが、1692年から金森氏が出羽国(山形、秋田)に国替となると、幕府直轄領になり、金森家の屋敷が幕府の拠点となった、幕府の狙いは、飛騨国の豊富な木材や金、銀、銅などの資源を直接統括し経済的基盤とすることで、1868年までの176年間、25代の代官が執務を行った -
「高山陣屋」表門
「陣屋」とは、江戸幕府直轄領の役所(代官所)のことで、明治以降も昭和44年(1969)まで県事務所として利用され、平成8年(1996)江戸時代の姿に復元し一般公開を始めた *「陣屋」は幕府の陣屋だけでなく、大名の陣屋もあり、京都の「小川家住宅」は「二条陣屋」と呼ばれ、西国大名が宿舎として使用した -
幕末には60数ヶ所あったが、当時の主要建物が残っているのは唯一「高山陣屋」のみで、一部残っているのは、栃木県真岡「桜町陣屋」、静岡県伊豆「韮山代官所」、三重県名張「名張陣屋」、京都府南丹「園部陣屋」等
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「高山陣屋」全貌
3,000坪の広大な敷地(東京ドームは3,930坪)に、役人が仕事をする「役所」、役人と家族が生活する「役宅」、年貢米を納める広大な「蔵」などで構成され、庭園もある -
建物は、平成8年(1996)までに復元したので、現在の建物の大部分は昭和後期から平成年代の再建だが、「表門」は1832年、大広間も含む役所は1816年建立で、御蔵は江戸時代初期に建てられた高山城から移築したもの
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「玄関」には「葵紋」
「表門」の提灯や、「玄関」には天下人(徳川将軍)の施設でしか掲げられない「葵紋」がある -
玄関の間「大床」(おおどこ)の「青海波」(せいがいは)
存在感ある床の間には「青海波」の文様が描かれており、玄関前の砂紋も、ふすまや壁などにもこの模様があるが、海の波のように終わり無く徳川の世が続くことを願う縁起物の模様らしい -
「御役所」(おんやくしょ)
代官・郡代や部下が執務する役所の中枢部で、年貢徴収や山林の管理、土木行政、警察や裁判まで地方行政にまつわるさまざまな実務を行っていた *郡代が代官より地位が高い -
「御用場」(ごようば)
幕府の派遣でなく、旧金森氏家臣の地役人が執務をした部屋は別部屋で、山林管理や人や物資の出入りを取り締まる口留番所(くちどめばんしょ)の仕事に携わっていた -
「御白洲」(おしらす)
砂利が敷かれ白く見えることから付いた名前で、陣屋内に2ヶ所あり、一方は、罪を犯した人の取り調べや裁きが行われる物々しい所だが、ここは、村からの訴えや願いごとを受ける、今で言うところの役所の窓口となる所で、現在と違うところは、庶民が役人に御目通りする際に土下座する時に額をつける位置の目印として、土間に平たい石が置かれている -
「町年寄詰所」(まちどしよりつめしょ)
町年寄は今の「町長」、町組頭は「町長を補佐する助役」で、御役所からの御触(おふ)れの伝達、町民からの陳情や町政関連の事務を行っていた -
「町組頭詰所」(まちくみがしらつめしょ)
事務の内容は訴訟、普請願い、戸籍、年中行事、犯罪、上納金など多岐にわたる -
「寺院詰所」(じいんつめしょ)
お寺の僧侶が、過去帳や領民の身元の確認などをしていた -
「帳綴場」(ちょうとじば)
幕府に提出する文書等を作成する役人が使った部屋 -
「地役人出勤口」
玄関は7ヶ所あり、身分によって出入りする場所が決められていた -
「湯呑所」(ゆのみじょ)休憩所
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「真向き兎」の釘隠し
「真向き兎」とは、正面を向いたウサギの姿で、家紋や釘隠しなどに用いられ、子供をたくさん産むので縁起が良く、火災を防ぐ魔除けとして寺社仏閣や家屋の装飾に取り入れられることが多いが、さらにこの陣屋では、ウサギの大きな耳が民衆の声をよく聞き良政を行うという意味もあって、150匹のうさぎがいるという -
「お勝手」台所
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「書役部屋」(しょやくべや)事務室
「帳綴場」は幕府宛の書状を上役の役人が作成していたが、ここは、それより下の立場の者が「事務見習い」的な仕事をしていた -
「お役所」と、代官・郡代とその家族の居住スペース「役宅」が渡り廊下で繋がっている
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「座敷」(ざしき)
代官・郡代がお客様を接待する応接室 -
「中ノ口」(なかのくち)
ここから先は、代官・郡代とその家族が住んでいた居住スペースで、「中ノ口」は、代官・郡代が建物に入る出入口 -
「女中部屋」
代官・郡代の身の回りの世話をする女中の部屋 -
「下台所」女中や用人の食事場所
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「台所」
代官・郡代とその家族の食事を作る場所 -
「台所土間」
使用人の食事は土間のかまどで作る -
「御勝手土蔵」
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御居間「嵐山之間」
代官・郡代が生活した部屋で、奥には茶室が設けられている、平成27年に、ここで将棋の羽生名人の名人戦対局が行われた -
茶室「御囲い」(おんかこい)
さらにその奥には風呂がある -
「嵐山之間」から「庭園」
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「庭園」
説明書によると、江戸の天明年間1780年頃に作り替えられたとあるので、それ以前の江戸初期ごろの庭園が、何回も手を加えられたものと思われる、建物から飛び石が伸びて、奥に進むと「池泉庭園」になっている -
背後の、特徴的な板を木の棒と石で押さえる「板葺き屋根」の「御蔵」も庭園に溶け込んでいる、御居間から眺めながら「年貢米」の皮算用などしていたのだろうか
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奥の「池泉庭園」からの遣水(やりみず;小川)が庭を流れて趣深い
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派手さはないが、広く庭園の要素を取り入れ、1年を通して四季の移ろいを楽しめそう
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御奥「扇面之間」(せんめんのま)
代官・郡代の奥方の部屋 -
「居間」
代官・郡代が日中に執務をしたり、休憩した部屋 -
こちらからは「池泉庭園」と「御蔵」の特徴的な「板葺き屋根」が庭園と一体となっている
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「雪隠」(せっちん)便所
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「トイレ」小?
「出入り口」と同様、「トイレ」も身分ごとに分かれて、全部で12箇所もあるという -
「大広間」(49帖)
重要な年中行事などで利用され、高山陣屋で最も広い部屋 -
縁側から季節ごとに変わる庭の景色を眺めることが出来る
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「使者の間」(使者の控室)
幕府から派遣された役人が利用した部屋 -
「御白洲」(おしらす)吟味所(法廷)
取り調べを行ったり、判決を言い渡した場所で、右側は「囚人駕籠」(護送カゴ)、左側は「責台と抱石」(三角形の角材を並べた台に囚人を座らせ、膝の上に抱石をのせる)、中央に「箒尻」(ほうきじり;拷問用に割竹2本を麻の糸で巻いたもの) -
「御蔵」(おんくら)へ
年貢米を収納する米蔵だが、現在は資料館になっており、奥左手から1~4番蔵、手前右手から9~12番蔵まで奥に続き、手前にも5~8番蔵があったが今はない -
この「御蔵」は、日本に現存する江戸時代の米蔵のなかで最も古く、建物の規模も最大級で、もとは高山城の米蔵だった建物を、陣屋改築に伴い1695年ここに移築したもので、江戸初期のもの
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建物の特徴は板葺き屋根で、釘を使わずに板を木の棒と石で押さえる「石置長榑葺」(いしおきながくれぶき)という葺き方をしており、5年単位で上下・表裏を返して20年間持たせており、台風にも地震にも強いというが、この伝統を引き継ぐための技術の継承が課題だという
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「年貢米俵」
天領俵と呼ばれ、玄米4斗に「込米」(こみまい)1升を入れて1俵とし、約60㎏ある *「込米」とは、自然乾燥や運送途中に減ることを考慮して一俵につき一升程度余分に入れておく米 -
「御蔵」の手前にあった「5~8番蔵」の空き地と、昔の「井戸」
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陣屋を出た処に「山岡鉄舟」像
江戸無血開城の立役者が、何故この地にあるのか、分からなかったが、(説明文)によると、「山岡鉄舟」(1836-1888)は、江戸に生まれ、飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごし、15歳で入木道(じゅぼくどう)の書と、北辰一刀流剣術を学び、21歳で清河八郎らと尊王攘夷を標榜し、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが失敗、その後1868年32歳で、徳川慶喜の使者として西郷と面会し、勝海舟と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会い、その後は明治天皇に仕えて52歳で死去 -
宮川に架かる「中橋」を渡り、「三町通り」へ
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「三町伝統的建造物群保存地区」
江戸時代の城下町、商人町として発展した歴史的な地区で、前半で歩いた「下町」と後半の「上町」にそれぞれ三筋の通りがあり、江戸時代の面影を色濃く残している -
ここにも高山祭の「恵比寿台」
高山で最も大きな屋台の一つで、狭い路地で回転を容易にするための車が前後2つある、屋台が700両(1.7億円)で出来た時代に、金具だけで1250両(3億円)もの純金を注ぎ込んだという屋台で、江戸時代から「完成型屋台」として他の屋台組の完成モデルとされた屋台 -
「酒ばやし」(杉玉)が下がる造り酒屋
高山は酒造りが盛んで、古い町並には7軒の造り酒屋があるという、代表銘柄の「深山菊」「甚五郎」は1703年創業の酒屋 -
飛騨牛の握りや串焼き、みたらし団子など、食べ歩きの外国人観光客で溢れかえっていた
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ここにも屋台「五台山」(ごたいさん)
飛騨の屋台では最も贅を尽くした屋台だという -
思わず美味しそうだったので「飛騨牛コロッケ」を買う
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この「龍神台」は「からくり屋台」
高山祭の特徴は「からくり屋台」もあることで、子供が持つ壺(つづら)から突然龍神が飛び出す仕掛けを、35本の綱で操っているという -
高山城の二の丸の登城門を復元したという「高山カフェ」
総檜造りの門と中庭に沿った石畳のアプローチは古民家を改装したもので、風情がある -
「安川通」から下町へ
「高山祭」はこの通りを境に、宮川の川上の「上町」と川下の「下町」に分かれ、祭も春の「山王祭」と秋の「八幡祭」に分かれる -
「鳩峰車組保存区域」
「伝統的建造物群保存地区」は、さらに地域別の町並・景観保存会に分かれて、保存活動を行っている -
この辺りは「鳩峰車」(きゅうほうしゃ)組
珍しく三輪の屋台で、男山八幡宮に因み「鳩峯車」と命名した -
「村半」(むらはん)
大規模町家「村田邸」を活用し、令和2年(2020)地域活性化を推進する拠点として設立した高山市の施設 -
「村田家主屋」
明治大正期に製糸・製板・林業などの実業家として財を成した「村田半六」の邸宅は、飛騨高山の城下町でも最大級の町家建築で、現在の建物は明治8年(1875)に建てられた150年の古民家、正面は店の間と居住空間の「主屋」、左手には「まゆ市場」として利用された吹き抜けの「まゆ倉庫」があり、「中庭」をはさんだ背面には4つの「土蔵」が建ち並ぶ -
「主屋」
15畳の主座敷を始め8つの部屋がある -
「本座敷」から「中庭」を見る
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石灯籠や大八車の車輪、番傘などある「北庭園」
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庭の奥には「土蔵」
「土蔵」は、火災から財産を守るものとして非常に大切にされた -
「囲炉裏の間」
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「台所」
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「安川通」に出ると、「獅子舞」が商店街を周っていた
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宮川に架かる「鍛冶橋」の袂
伝統工芸「一位一刀彫」の「大黒天」- -
「鍛冶橋」(かじばし)の「足長像」
鍛冶橋の欄干にあるインパクトのある像は、嘉永元年(1848)に屋台彫刻の名手「谷口与鹿」(たにぐちよろく)によって彫刻されたという「足長像」で、反対側には「手長像」がある、(説明書)によると、この像は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の妻・奇稲田媛(クシナダヒメ)の両親、父「足名稚(アシナズチ)」と、母「手名稚(テナズチ)」で、祭の「恵比寿台」に飾られているものをいつでも見れるように設置しているらしい -
「飛騨国分寺」にあったサルボボの「満願成就の棚」
毎年4月の庚申の日に供養が行われるという -
孫たち家族4人は、別行動で「さるぼぼ」の手作り体験へ
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「さるぼぼ」
飛騨地方の伝統文化を象徴する民芸品で、飛騨の方言で「ぼぼ」は赤ちゃん、顔がないのは、持っている人を「映し鏡」とし、身代わりになって災難から守ってくれることを意味し、元々は奈良時代の貴族の間で「産屋のお守り」として作られたものが徐々に民間に広がって「安産」や「良縁」「子供の成長」「無病息災」などのお守りとなり、時代とともに廃れていったものが、山間部で周囲の影響を受けにくい飛騨地方に残ったと言われ、「飛騨のさるぼぼ」は2007年に商標登録され、岐阜県の郷土工芸品に指定されている -
今回の「高山旅行」は、孫の希望で、何故か「さるぼぼ」に興味を持ち、自分でも作ってみたいと言い出したことからの決定
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「さるぼぼの色」の意味
孫たちは、「緑」の健康・長寿と「黄」の金運・財運をチョイス、「青」の勉強・合格祈願・出世運と「赤」の勝負運、家内円満、子どもの成長、良縁・安産、「ピンク」の恋愛・結婚はまだ早いか・・・その他、「オレンジ」は子宝・友人関係・旅行運、「紫」は出世運・健康運・長寿祈願、「白」は浄化らしい -
「さるぼぼ神社」
最後に、神社で魂を入れてもらって、家族の健康と繁栄を願って、今回の旅行を締めくくる
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