2026/01/02 - 2026/01/04
258位(同エリア521件中)
Bachさん
二世帯家族恒例の旅行で、今年の正月は広島方面へ初詣に行くことにし、正月2日から2泊3日の渋滞覚悟のドライブ旅でしたが、思いがけずの大雪で高速道路がストップするというアクシデントに見舞われ、予定していた広島「宮島」初詣は断念し、安芸の小京都と呼ばれる「竹原」で初詣し、瀬戸内海の離島で初日の出を拝むという行程になりました。
今回の見所は、江戸情緒を残す小京都「竹原」と白壁の町「倉敷」の2つの町並みと、瀬戸内海の離島ヴィラでの宿泊、名物グルメで「カキオコ」と呼ばれる牡蠣お好み焼き、日本六古窯の一つ「備前焼」ですが、孫たちには「竹原温泉」での雪見風呂・雪合戦と、船でしか行けない離島での宿泊が、楽しい体験になったようです。
また、今回訪問した「竹原」と「倉敷」は、両方とも「重要伝統的建造物群保存地区」と「北前船寄港地船主集落」という日本遺産にも認定され、奇しくも、江戸時代から製塩業と廻船業で栄えたことで共通しており、さらに「倉敷」は綿花業でも成功を納め、それを紡績事業として現代まで引き継ぎ、「大原美術館」という素晴らしい文化芸術の町まで作り上げたという、いずれも豪商という金持ちならではの遺産をまざまざと見せつけられ、いつの時代でもこういう人の存在は必要かなと、思わず納得したもんです。
7年目になる二世帯同居家族の生活も、毎年レフレッシュしながら、いつまでも続けられるよう、孫たちの喜ぶ顔を見ながら、また新しい1年をスタートした旅でした。
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(1日目)10:00京都~(名神・新名神・山陽)~320km15:30「竹原」(竹原町並み)~15km17:00「賀茂川荘」、(2日目)11:00~100km13:00「倉敷」(大原美術館)15:30~60km17:00 日生(食事)「活魚料理天坊」~日生港発18:50~鴻島着19:10~(送迎)19:15「ログあした」、(3日目)鴻島発 10:27~11:00 日生港着~11:50「カキオコひろし食堂」~15km13:50 備前焼窯元 14:00~160km 17:00 京都
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10:00 京都出発~90km 11:30 三木SA
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地元グルメに誘われ、明石焼きで小腹を満たす
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12:30 2回目の休憩(~50km)「龍野西SA」
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「龍野」(たつの)は、「醤油」、そうめん「揖保乃糸」と童謡「赤とんぼ」で知られる、「赤とんぼ」は作詞者・三木露風の出身地で、「醤油」は揖保川の軟水と播磨産の大豆、小麦、赤穂の塩などに恵まれ、「淡口(うすくち)醤油」発祥の地で生産量日本一、「ヒガシマル醤油」は、天正年間(1580年頃)に創業した老舗醤油メーカー
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昨日の「おせち」の残り物でランチ
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15:30 ~180km走り、「竹原」に到着
「竹原」は、広島県の瀬戸内海沿岸部中央に位置する港町だが、すぐ北側は山にも囲まれ、古くから交通・経済の要衝の地として発展したところで、平安時代には「京都下鴨神社の荘園」があり、江戸期の古い町並みが残っていることから「安芸の小京都」と呼ばれる -
「竹原」の歴史
「竹原」は、古代から山陽道の要衝で、平安時代に「京都下鴨神社の荘園」として開発され、戦国期には小早川氏の領地になり、南北朝・室町期にかけて勢力を拡大し、江戸期には広島浅野家の保護のもとで、塩の一大生産地として繁栄し、明治期の半ばまでは北前船の寄港地として塩の積出など廻船(かいせん)問屋が栄え、京都や大阪の商人と交流が活発になり、その経済力を示す江戸期からの商家が立ち並ぶ「安芸の小京都」と呼ばれる美しい町並みが残り、特にNHKの朝ドラ「マッサン」で紹介されてから脚光を浴び有名になった、1982年「重要伝統的建造物群保存地区」、2019年には「北前船寄港地・船主集落」として「日本遺産」にも認定されている -
「京都下鴨神社の荘園」について調べると、
平安時代の貴族や大寺社は、私有地となる「荘園」(農園)を開発し、そこから上がる税や収穫物を得ていて、「下鴨神社」も、全国に約60箇所の荘園や食材を供給する御厨(みくりや)を持ち、神社の経済基盤を支えると共に、地域経済の発展にもつながり、特に「竹原」はその代表的な町として、竹原発展の礎となっている *全国60箇所は、幡磨国伊保崎、伊予国宇和郡内海、紀伊国紀伊浜、讃岐国内海、豊前国江嶋、豊後国水津木津、周防国佐河牛嶋、近江国堅田安芸河、越中国倉垣、越後国など -
「竹原の塩づくり」の歴史
江戸時代の広島浅野藩は、埋め立てによる新田開発を瀬戸内海沿岸各地で始めたが、竹原の干拓地は塩分が濃すぎて作物が育たず、赤穂から塩田技術を導入し成功し、塩の一大生産地となり全国へ出荷された。これは赤穂から始まり、瀬戸内海沿岸中心に伝わった「入浜式塩田」という、潮の満ち引きを利用して海水を集める方法で、それまでの海水を汲み上げる方式に比べ労力が軽減され、大規模生産が可能になり、昭和30年代まで続いた方式で、当時は藩の機密情報だったにもかかわらず赤穂藩が広島藩に伝えたのは、広島藩主と赤穂藩主が同じ浅野家でいとこ同士だったかららしい、しかし昭和35年(1960)には塩づくりは終了し、塩田跡は埋め立てられ、官公庁が建って市街地へと姿を変えたが、2005年に再現に取り組み、「たけはらの塩」として販売している *昭和46年(1971) 国策により塩田が廃止され、伝統的塩田方式から生産性が高いイオン交換膜法に切り替えられ、平成9年(1997)からは専売制度が廃止され自由競争になった -
「竹原の酒づくり」の歴史
江戸時代に栄えた竹原の塩は、北前船によって北海道まで運ばれ、魚や昆布を塩漬けにして再び船で大阪や江戸へ運ばれたり、また米を積んで戻るので、この豊富な米を使った酒づくりが盛んになり、製塩業と共に酒造業も発展し、最盛期には26軒の酒蔵があったが、現在はマッサンの「竹鶴酒造」を始め、3つの酒蔵だけ存続している -
「竹原の竹」は、地名の由来
「竹原」は、竹林が多かった事から竹原荘(たけはらのしょう)と呼ばれたことに始まるが、「竹」は生活文化に密着し、古くから笊(ざる)や籠(かご)、箒(ほうき)、箸、食器などに使われるだけでなく、製塩作業で海水を汲み上げるための桶や、燃料としても利用され、現在も竹をテーマにした新しい町づくりとして、市中心部に孟宗竹の並木道が整備され、「竹灯り」など「竹」のオブジェが町並みにはいたるところにある -
江戸時代中ごろから明治にかけての建物が多く残る「町並み」
江戸時代の製塩業で栄えた歴史的風情が色濃く残り、江戸中期から明治期に建てられた、豪商の屋敷と町人の町家130件ほどが立ち並ぶ、近代の新しい商店街や公共施設などは、塩田跡地の広大な敷地に造られたので、古い町並みが残されたという好事例になっている -
「町並み保存センター」
「竹原の町並み」は、1982年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されて、駅前広場や主要道路の整備、電柱撤去などと共に、この「保存センター」が建設され、町並み保存の中核となっており、町並みの「保存」と「活用」の2本柱で、後世に継承していくことに取組んでいる -
「竹原市歴史民俗資料館」
江戸中期の儒学者「塩谷道碩」(しおやどうせき 1703-1764)宅を、文人「頼山陽」の叔父「頼春風」(らい しゅんぷう 1753-1825)が学問所として使っていた旧宅跡に、昭和初期に図書館として建てられたレトロモダンな洋風建築で、製塩業の歴史や資料などが展示されている -
「憧憬の広場」(どうけい or しょうけい)
平成27年(2015)竹鶴酒造で生まれ、ニッカ創業者である「竹鶴政孝」(1894-1979)生誕120年を記念して建立された -
「竹鶴政孝・リタ像」
平成26年(2014)NHK連続テレビ小説「マッサン」のモデルになった「竹鶴政孝」(たけつるまさたか)はスコットランドのグラスゴー大学に留学し、留学中にリタと出会い結婚した -
「竹鶴政孝生家」
「竹鶴酒造」(たけつるしゅぞう)は、江戸中期の1660年代に「小笹屋」(おざさや)の屋号で製塩業を営み、冬場に余剰の労働力を流用して1733年から酒造業を始めた「竹原の三大塩田地主」のひとつで、これを「小笹屋酒の資料館」として、土日限定で開放し、代々伝わる酒器や酒造りの道具を見ることができるが、当日は不可、「竹鶴政孝」は、ここの三男として生まれ、現大阪大学醸造科で学び、先輩をを頼って当時洋酒業界の雄であった「摂津酒造」(後に宝酒造と合併)に1916年入社、純国産のウイスキー造りを計画しスコットランドに留学したが、戦争で頓挫し退社、その後現サントリーの「寿屋」がウイスキーの国内製造を始めたため、1923年「寿屋」に入社し、1929年山崎工場初のサントリーホワイトを発売、1934年理想のウイスキー造りを追求するため独立、北海道余市でウイスキーを熟成する間、地元のリンゴを集めリンゴジュースを生産販売する「大日本果汁」という会社を設立し、1940年初のウイスキーを発売、社名の「日」「果」から「ニッカウヰスキー」と命名した -
「佐倉酒店」
竹原には現在3つの酒蔵が残っており、日本酒愛好家や地酒ファンから高い評価を受けており、代表銘柄としては、1733年創業の竹鶴酒造「竹鶴」、1863年創業の藤井酒造「龍勢」(りゅうせい)、1871年創業の中尾醸造「誠鏡」(せいきょう)が知られる -
「春風館・頼惟清旧宅・光本邸」
「竹原の三大塩田地主」は、「竹鶴家」の他、「頼家」(らいけ)、「吉井家」で、「頼家」は海運業から2代目の「頼春風」(らいしゅんぷう1753-1825)が塩田経営で財を成し、1781年建築した邸宅が「春風館」で、春風は学問にも力を入れ町の子弟の教育に力を入れ、兄の子にあたる甥の「頼山陽」(らいさんよう)の才能には一目おき、「日本外史」の相談にものっていたという、建物は1855年再建されたもの、また「頼惟清旧宅」は父の当主が紺屋(染物屋)を営んでいた時の家屋で、「光本邸」は、春風館の離れ座敷として1859年建てられ、後に春風の孫の光本家が居住した邸宅 -
「吉井邸」(堀川の隣)
手前の「堀川」の隣にあるのは、「竹原の三大塩田地主」の一つ「吉井家」で、竹原でいちばんの豪商といわれ、町のリーダー的存在となり、酒造業、廻船業から質屋まで幅広く事業を展開し、北前船の船乗りたちが宿泊し、広島藩の本陣としても使用されたという竹原の町家の中で最も古い1691年の建築 -
「堀川醤油醸造場」
大正8年(1919)、吉井家の酒造蔵を醤油蔵にして創業し、今でも地元のスーパーや飲食店に販売している -
お好み焼「ほり川」
昭和56年(1981)、「堀川醤油」の築200年を超える醤油蔵を改装してオープンした人気のお好み焼き店 -
初代郵便局跡「上吉井邸」
「吉井邸」の向いに、明治4年(1871)分家にあたる「上吉井邸」が建てられ、明治7年(1874)から竹原で初めての郵便局として使われた、創業当時使用していたものと同じ「書状集箱」(ポスト)は、現在でも使える -
「松阪家住宅」
松阪家は1674年頃から、沢田屋の屋号で塩田の必需品である薪・石炭問屋から、塩田経営、廻船業、醸造業と多角経営を行い、明治維新後には竹原町長もつとめた名家、建物は、江戸末期(1820頃)のものを明治12年(1879)に現在の形に改築したもので、唐破風の屋根や庇、出格子など町並みの中でも一際目立ち堂々とした構えをしている -
「竹原の塩田豪商」は、「竹鶴家」「頼家」「吉井家」だけでなく、他にも「松阪家」や「森川家」など複数の豪商たちは、当初100軒近くもいた製塩業者が、塩田の濫造による価格の下落と燃料薪の高騰で減少し大規模経営に集約化され、成功した業者だけが残ったもので、彼らは「浜旦那」と呼ばれ、互いに競い合うように築き上げた財産を建築に注ぎ込み、自慢の家でお客さんを招き盛大にもてなして更なる富を生み、町づくりや文化の発展に寄与した
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豪商の邸宅は、客の接待を目的としているので全てが華やかで、寺院に用いられるような高価な「本瓦葺」の屋根と太い柱や梁に、黒漆喰と白壁土蔵の商家は、重厚な佇まいと格式を表し、外側へ突き出した「猪目模様の出格子」や、窓額つき菱格子(ひしこうし)の「虫籠窓」(むしこまど)、窓に施された「竹原格子」と呼ばれる芸術的な格子など、町屋の一軒ごとに工夫が凝らされた家並みは変化に富み、美しい景観を形づくっている
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竹楽(ちくらく)「旧村上邸」
江戸末期、町年寄りであった菅超右衛門(すが ちょうえもん)の家と伝えられる建物で、のち呉服屋となり、現在は竹細工の工房と土産物屋になっている -
「NPO法人ネットワーク竹原」
「竹楽」は、地元で作ったNPO法人によって買い取られ運営されているそうで、古いものを守っていくご苦労が推察される、(HPによると)住民としての立場で地域の再生活動をするという目的で2003年設立され、歴史的建物・空き家の保存・活用、竹原の塩再生、竹原市文化施設の指定管理受託、地元物産の発掘・製造・販売、竹まつり・町並み竹灯り・雛めぐり等各種イベントの企画・運営など -
「RIG HOUSE」ローカルイノベーション創出の拠点
「RIG」(ローカルイノベーショングループ)は、2022年設立のReGACY Innovation Group(株)と、竹原市NPO法人と連携して、地域事業者、市民によるイノベーション 事業を加速・定着させるための拠点として 2023年設立、実態はよく分からないが、1993年生まれの若手が竹原に移住して起業し、全国展開を狙っている模様 -
古民家利用では、土産物店や飲食店、旅館ホテルが多い、これは和食店「のんびり亭」
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お好み焼き「ゆきちゃん」
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喫茶店「花みづき」(プリザーブドフラワー&カフェ)
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喫茶店「cafe青」
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雑貨店お土産屋さん「ぎゃらりぃ梅谷」
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陶工房「風土」陶芸教室
竹原の陶芸は、世界的にも有名な日本陶芸界の重鎮の一人「今井政之」(1930-2023)を輩出したことから、全国的に知られるようになり、「今井政之展示館」や、陶芸体験ができる「陶工房 風土」などで、陶芸文化が受け継がれている -
喫茶店「舮澪-1648- rulé(ルレ)」
江戸時代後期の1850年頃に建てられた建物で、「礒邊旅館」だった所を改装し、2019年甘味処「茶寮一会」から2025年に新装オープンした、(HPによると)「舮」は北前船の(へさき)、「澪」(みお)は船が通る水路、「rule」(ルレ)はフランス語で「宿駅」の意味らしいが、分かり難い名前が多い -
竹の宿「竹楽」(ちくらく)
明治から大正末期に建築された建物で、竹原市に移住を検討している人向けに、市の補助も受けて、お試し体験も出来るという -
古民家宿「TAKENOWA風」
江戸時代からの築200年以上の二宮邸で、箪笥屋(たんすや)さんから写真屋さんとして受け継がれ、2023年旅館に改装 -
「NIPPONIA HOTEL」(ニッポニアホテル)
最近よく聞く「分散型ホテル」で、フロント棟と、離れたところにダイニング棟と宿泊棟2つの4棟があり、古民家や商家、蔵などの歴史的建造物をリノベーションして、まち全体を一つのホテルとして活用し、地域の歴史的景観の保存と地域再生を目指しているブランドで、現在全国33地域に展開する。仕掛けたのは兵庫県丹波篠山市の藤原 岳史(ふじわらたけし)1974年生で、2015年古民家を活用した宿泊施設9棟と店舗13店舗の「篠山城下町ホテルNIPPONIA」を皮切りに全国33地域に展開し、自治体や金融機関からの問い合わせも多いというが、条件は明治時代以前の歴史があるかどうか、と地域に主体性があるからしい *近畿(美山、丹波篠山、伊賀上野、伊勢、近江五個荘、豊岡、竹田、播磨福崎、ならまち、田原本、九度山、(中国)出雲、福山鞆、竹原、(四国)仁尾、大洲、(九州)八女、熊本甲佐、沖縄国頭(中部)佐渡、白山、美濃、(関東)秩父、小菅、千葉佐原、(東北)山形白鷹、福島楢山、(北海道)函館 -
「KIKKO棟」は、明治期は造り酒屋として、大正から昭和にかけてはビリヤード場などの娯楽施設として竹原の賑わいを支えてきた建物
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「MOSO棟」は、元々「旧水儀(みずぎ)旅館」であった建物が、明治期に「旧芸備銀行」(現広島銀行)に建て替えられたもので、旅館と銀行の2つの面影を残す
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「HOTEI棟」は「MOSO棟」の向かいにあり、「旧水儀本店」として料理仕出し屋だった建物で、この先少し離れたところに「旧森川家住宅」を活用したフロント兼クラブラウンジ棟がある
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「西方寺」 (さいほうじ) *京都の苔寺は「西芳寺」
竹原の町並みに、突如として城郭のような石垣のある寺院があり、この高台にある「普明閣」という目立った建物が、展望台になって、古い町並みと瀬戸内海が一望できて、竹原市のランドマークになっている -
「西方寺」山門
100段近くもある石段を上がり、山門に到着すると「ようこそ ようこそ お寺に来られたら 本堂・本尊様に向かって まず一礼」と書いてあった -
「本堂」に、今年の初詣
「西方寺」は、1560年に方誉(ほうよ)という僧侶が念佛道場として開山した浄土宗の寺院で、1610年大火に遭ったが近くにあった小早川隆景建立の「妙法寺」の廃寺跡に移転し、1647年堂宇を建立し再興した。現在の本堂は1702年に再建されたものだが、もとは禅寺を浄土宗に改宗したので、禅宗様式の須弥檀(しゅみだん)に、阿弥陀如来(阿弥陀三尊)の御本尊が祀られており、代々町の発展につくした吉井家や、多数の町人学者の墓も祀られている -
本堂にお参りしていると、「西方寺庭にある枯れても落ちない ヤマコウバシの葉 受験生を応援しています お守りとしてお持ち帰りください」、「ヤマコウバシ」とは、香ばしい香りがすることからの命名で、葉っぱが冬でも「落ちない」ことから合格祈願のお守りにされる
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「竹原」は、平家ゆかりの地で、平忠盛(清盛の父)が日宋貿易の航路である瀬戸内海の海賊を捕らえた功績によりこの地一帯を賜り、平清盛が厳島神社を造営した際には頻繁に立ち寄り、壇ノ浦で滅亡した後も平氏残党が潜伏し、重臣の平貞能(たいらのさだよし)は平氏の守り本尊である阿弥陀如来を抱え、この辺りに隠れ住んだ後、仙台に逃れ、これを祀る「西方寺」というお寺があるというから、何らかの関係があるかもしれない
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右手の階段を上った高台に「竹原」のシンボルにもなっている「普明閣」がある
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石段前にある「守護堂」は、かつてこの地にあった妙法寺の本尊「木造十一面観音立像」が、当初「普明閣」に安置されていたが、現在はここに収められ、年に一度御開帳されるという
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石段途中に、洞窟(籠堂?)があり、中に石像らしきものが2体あるが、毘沙門天様を祀るらしい
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「普明閣」は、毛利元就の三男で竹原小早川家当主であった小早川隆景(こばやかわたかかげ1533-1597)が、1560年頃に「妙法寺」の観音堂として建立し、その後1610年に焼失した跡地に「西方寺」が移転し、1758年に再建され、妙法寺の本尊であった十一面観音像が安置された
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「普明閣」建物は、京都「清水の舞台」を模した二重屋根の舞台造りで、その特異な屋根形式と優れた意匠は、竹原市の景観の中心となる重要な建築で、竹原の町のどこからでも見上げることができるシンボルタワー的存在となっている
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「木造十一面観世音菩薩立像」(もくぞうじゅういちめんかんぜおんぼさつりゅうぞう)は、清盛の長男・平重盛が宋の僧侶から贈られた持念仏といわれ、「妙法寺」の本尊として祀られていたが、現在は途中にあった「守護堂」に移されている
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舞台からは、竹原の町並みが一望でき、その先には瀬戸内海まで見渡せる
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町並みを見ていると、平安の荘園時代に始まり、元々海が深く入り込んだところに、賀茂川から土砂が入り込んで埋まっていき、江戸時代には新田開発が行われたが、海水が入って使用できず、苦肉の策で進めた塩田が成功し大きく繁栄し、製塩業や廻船業で豪商が生まれ、その時代の家々が残され、これを何とか残そうとする地元の努力があるという、脈々と続く歴史の流れを見て来て、思わず郷愁に浸る
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町並みからの帰り道、見つけた昔懐かし昭和のレトロな看板
この「日立の看板」は、真ん中の「亀の甲マーク」は見たことはあるが、左にある鳥のようなマークは覚えがない、調べて見ると、この「鳥」のマークは、1960年代~70年代にかけてカラーテレビ「キドカラー」のキャラクターとして使われた「ポンパ鳥」と呼ばれるキャラクターで、鳥が羽ばたいているのを抽象化したものらしい *カラーテレビが発売されたのは、1960年(昭和35年)で、1964年東京オリンピックから普及が始まり、1975年に普及率90%を超えた -
「坂田時計店」の横書きの店名は、右書き文字で、「計」の字体が十字に点が付いたレトロな文字
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「堂面薬局」(堂面養志堂)創業文久元年(1861年)
江戸時代から続く廻船業や商業に関係する豪商であったらしい、「養志堂」とは、王が祭祀の前に身を清めるために宿泊した場所 -
「日の丸写真館」
昭和7年建造、昭和20年頃改修の建物で、この頃の写真館も木造3階建も珍しく、昭和初期の建築技術の高さを伝え、幕末期にもたらされた写真店がこの地区にあったことを示すことから、歴史的景観に寄与していると評価され、国登録有形文化財に登録されている -
途中に見かけた「竹原俳句会」の俳句も、なかなか味がある! 「罠の中 牙むく熊の目になみだ」(熊は冬の季語)
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17:00 賀茂川沿いに15km、竹原の奥座敷「湯坂温泉郷」に到着
温泉郷と言ってもポツンと1軒だけだが、泉質は珍しいラドン温泉で「延命の湯」 として親しまれ、古くは菅原道真が筑紫に下る途中に憩い、参勤交代で諸大名が江戸の途中で疲れを癒したと言われる、楽しみの温泉 -
「ホテル賀茂川荘」は、全45室の内の一部を契約別荘として使うリゾートホテルで、1967年に創業し2019年にリニューアル
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ロビーからは、1500坪の広大な日本庭園が広がり、庭園内には能舞台や、茶室、日本画のギャラリーなどもあり、日本の伝統文化を体験できることを売りにしている
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部屋に入り、4階からの眺め
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とりあえず甘酒などのウエルカムドリンクがあったので、少し休憩
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早速、温泉に入ると、まだ誰もおらず独占様態
温泉は、放射能を含む「放射能冷鉱泉」(ラドン温泉)で、ウランやトリウムの多い花崗岩などを通過する地下水で生成され、細胞活性化、免疫力向上、血行促進、疲労回復など万病に効果があるとされる -
露天風呂には、信楽焼の壷風呂があり、これも独占状態
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温泉の後は、久しぶりに孫と温泉卓球
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夕食は、準備して持ってきた食材で「すき焼き」パーティ
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食材以外は全て揃っているので、有難い
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ワインもいつもより少しグレイドアップ
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食後は早速、持ってきたゲーム
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約束の冬休みの宿題も
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(2日目)7:00 翌朝、起きると、外は真っ白、雪景色の初日の出になった!
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昨夜からの大雪で、広島から山口方面の高速道路はストップになり、「宮島」で初詣の計画は残念ながら断念! 代替策を考慮中
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とりあえず、朝風呂へ、男湯、女湯が入れ替わったので、また新しい信楽焼の露天風呂で、まだ雪がちらつく中、久しぶりの雪見風呂が楽しめて感激!
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湯上りの朝食は、昨夜の「すき焼き」残りと、パンor卵かけご飯
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外で雪遊びをしている人がいたので、食事が終わってから庭園へ
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思いがけずの雪景色に大興奮!
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雪合戦も
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雪だるまも
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お宮もあり
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離れ茶室も
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寒椿や南天も雪映えする
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池には鯉も
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水車小屋に狸も
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能舞台も真っ白
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予定外の雪景色を楽しめたが、今日の予定は変更せざるを得ない
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11:00 結局、「宮島」を諦めて「倉敷」に変更し、出発
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竹原から100km、13:00「倉敷」に到着
「倉敷」は、若かりし頃の時代の思い出しかないが、「クラボウ」(倉敷紡績)と「大原美術館」という印象しかない -
「倉敷美観地区」(綿花と運河が生んだ繊維のまち)
あらためて「倉敷」の町の歴史を見ると、かつては海だった一帯の干拓が江戸時代から始まり、海水(塩)に強い綿やイ草などが生産され、徳川幕府の「天領」(直轄地)として、米や綿花の積出港・運河が整備され、綿などを扱う商人で大いに賑わい、明治以降には紡績所が創設され、綿花を使った繊維産業が発展し、その顕著な存在である「大原家」が創設した「大原美術館」が脚光を浴びたことで、伝統的町並みと調和した美しい伝統美観保存地区になった *「竹原」も製塩業や綿花業で潤った豪商までは同じだが、その後時代に合った事業の継続発展が出来たかどうかが違う -
とりあえず、ランチの店を探したが人気店は行列で6人団体はなかなか入れない
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「美観地区」の町並みには、伝統的な町家や白壁の土蔵が軒を連ね、町家を改装した個性的なカフェや雑貨屋などの店が立ち並ぶ
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「白い漆喰壁」は、「美観」と「防火」の日本の伝統的建築の知恵から生まれ、石灰を主成分とした不燃性の漆喰は、町家や土蔵の2階の窓の防火戸や塗り壁として、美観と防火だけでなく、防湿、抗菌・消臭効果、耐久性もあり、姫路城に代表される「白漆喰総塗籠造」(しろしっくいそうぬりごめづくり)は、その美しさと機能性を兼ね備えている
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倉敷は綿花を使った繊維産業から「日本一の繊維のまち」まで発展し、ジーンズや学生服、帆布などで全国トップシェアを誇る、ここは備後かすりやデニムを使った店 *「デニム」は、綿100%の糸を使った耐久性の高い厚地織物で、この生地を使ったズボンがジーンズ
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「誓願寺」(せいがんじ)は、1849年建立の浄土宗寺院で、江戸時代初期の倉敷の豪商「水澤家」が作った菩提寺とされ、本堂は倉敷で最も古い建物とされる、「水澤家」は、1800年代には備中(岡山県西部)で一番の富豪と言われ、大原美術館の東洋コレクションにも、水澤家から寄贈されたものが多い
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やっと「カフェナチュール」で遅いめのランチ
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「なまこ壁」の土蔵は、商人が大切な財産や商品を保管するための建物で、町家よりも壁が厚く、屋根瓦と同じ素材の平瓦を貼り、その上から漆喰を塗ることで耐久性を高め、この盛り上がった形が「ナマコ」に似ていることから「なまこ壁」と呼ばれている
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「倉敷物語館」は、江戸期の「東大橋家」の建物を全面改修した観光・文化施設で、近くにある国指定重要文化財になっている豪邸「大橋家」の分家に当たり、この成り立ちを見ると、倉敷の歴史がよく分かる *「大橋家」は、祖先が豊臣家に仕え、京都の五条大橋の袂に住んだことから「大橋」を名乗るようになり、江戸期初めに既に「天領」になって発展しつつあった倉敷に移り、水田や塩田で力を蓄え、その2代目の長男も「東大橋家」として分家し、当初からの豪商を凌ぐほどの勢力になり、明治になると庄屋として倉敷の発展に寄与した
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レストラン「亀遊亭」は、明治42年建造の建物の外観をそのまま生かした地産地消の洋食レストランで、倉敷国際ホテルの直営店として40年ほど営業している
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「倉敷運河」(倉敷川)が、ちょうどここから始まって、「美観地区」を流れ、児島湖(瀬戸内海)へ注ぐ
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カフェ「エルグレコ」は、大正末期の洋風建築を改修した喫茶店で(HPによると)大正14年、大原美術館の設立者である大原孫三郎は大原邸の川向かいに事務所を設立し、ここに出入りしていたご縁で、先代の経営者が、この事務所を喫茶店に改装し、大原美術館に展示されている「受胎告知」の作者「エルグレコ」の名から大原総一郎(孫三郎の長男)により名付けられた。当時植えられたアイビー(蔦)が建物を覆い、店内にはエル・グレコの「受胎告知」の模写を掛けている
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「大原美術館」は、倉敷紡績など大原財閥の二代目「大原孫三郎」が昭和5年設立した日本最初の私立美術館で、モネやエル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティスなど有名な西洋名画や、日本近代美術や東洋、オリエント美術まで多数展示されている *エル・グレコの作品は日本に2点しかない(大原美術館の「受胎告知」と、国立西洋美術館の「十字架のキリスト」)
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「大原孫三郎」(おおはら まごさぶろう1880-1943)は、倉敷紡績所(クラボウ)の初代社長、倉敷銀行(中国銀行の前身の一つ)頭取「大原孝四郎」の三男として生まれ、26歳で家督を継ぎ、社会福祉事業などにも取り組み、地元の子弟のために開設した大原奨学会の奨学生で、その後もヨーロッパ留学など経済的支援を続けた洋画家・児島虎次郎に収集させた世界の美術品を収蔵する大原美術館を1930年に開館した
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ギリシャ神殿風の本館の前には、ロダンの彫刻「洗礼者ヨハネ」と「カレーの市民」の像が立っており、左の「説教する洗礼者ヨハネ」は、キリストに洗礼を授けたヨハネが、右の人さし指は口を、左の人さし指は足を指して説教しているという、洗礼者の姿を表現しているそうで、児島虎次郎がフランス政府の許可を得て鋳造された本物のブロンズ彫刻を直接選定・購入したもの
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右の「カレーの市民・ジャン=デール」は、英仏の百年戦争で、フランス北部の港町カレーの町がイギリス軍に攻め込まれ、人質と町の門のカギを要求された際に、自ら名のり出た6人の姿を表現したもので、その中で、大きな鍵を持ち、首には縄を巻かれて静かに力強く立っているジャン=デールだけを、児島虎次郎がロダン美術館と交渉し鋳造してもらったものだという *戦時下の金属類回収令で岡山県でも170体の銅像が供出対象となったが、大原美術館のこの2体を含め7体は免除されたという
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「大原美術館」は、約3,000点の作品を収蔵し、その内の約半数を展示しているというが、大原財閥の金儲けだけでなく、教育や福祉、芸術文化活動にも熱心であった実業家をあらためて凄いと思い、同時にこれを未来永劫維持し続けていることも凄い
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アイビー(ツタ)の絡まる城郭のような石門と、ギリシャ神殿風の建物の対比が、江戸風レトロ町並みに際立って、なかなかいい
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その前に広がる「倉敷運河」(倉敷川)の景観は、江戸時代に物資を運んだ運河を再現し、周りの白壁の街並みと、柳並木や川舟に「白鳥」も加わって、江戸風のノスタルジックな景観を醸し出している
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「倉敷運河」の風物詩として彩を添える「白鳥」は、コブハクチョウと言って、「亀遊亭」の辺りに住み家があり、ソラ(雄)とユメ(雌)のつがいが住んでいるそうで、一昨年にヒナが誕生して話題になったらしい
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今では観光の目玉になっている「倉敷運河」だが、もともと江戸時代に米や綿などの特産物を瀬戸内海へ船で積み出すための「物流運河」として造築されたもので、この河畔には備中米の集積地として多くの蔵屋敷が立ち並び、倉敷紡績の原綿の運び込みにも活用されたが、 1959年の児島湾の堤防建設で役目を終え、高度成長期の観光ブームで再び脚光を浴びることになり、1968年倉敷市の「伝統美観保存条例」よる町並みの保存・整備が開始され、1979年重要伝統的建造物群保存地区として選定された
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「大原美術館」前の「今橋」は、大正15年に当時の皇太子(昭和天皇)の来町の際、大原孫三郎によって架け替えられたもので、画家の児島虎次郎デザインにより孫三郎の干支である龍が彫られており、橋を渡った左に「大原家住宅」(大原本邸として公開)、右に迎賓館として利用された大原家別邸の「有隣荘」(特別公開)がある
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対岸には白壁の町並みが連なる、白にピンクの看板は人気店のフルーツパフェ専門店で、その隣が、築100年の土蔵を改装した「御食事処かも井」、その隣が「料理旅館鶴形」
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「料理旅館鶴形」は、倉敷美観地区で「大橋家住宅」に次いで、二番目に古い建物で、老舗料理旅館として、結婚式や披露宴などでも使われる
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「大山日ノ丸証券」(倉敷支店)という地元密着の証券会社もあり、黒板に手書きで書かれたような「2026年の相場見通し・高市トレードが相場を押し上げ・・・・・」が掲げられている、ので思わず見てしまった
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倉敷町役場として大正時代に建てられた洋風木造建築の「倉敷館観光案内所」の前にあるのは「書状集箱」(しょじょうあつめばこ)で、(駒札によると)「このポスト(書状集箱)は明治4年(1817年)郵便事業創業当時使用していたものと同じ型のものです。この周辺が伝統的建造物群保存地区であるため、その景観に合わせて設置したものです。また、このポストは他のポストと同様に取り集めを行いますのでご利用下さい。昭和60年4月20日 倉敷郵便局長」とある
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「くらしき川舟流し」という観光川舟で、昔ながらの手漕ぎ舟に乗り、船頭さんの話を聞きながら、江戸時代の白壁の町並みを眺めることが出来る、約20分で700円
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観光地にはよくある「人力車」も待っている、昨年乗ったことのある京都嵐山に本店のある「えびす屋」は、従業員60名で、小樽、函館、鎌倉、奈良、倉敷、宮島、門司下関、湯布院に展開している
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15:30 時間に限りがあったので、全部は見れなかったが、美観地区の最南端の「高砂橋」で終了し、今日の宿泊地「日生」(ひなせ)へ向かう
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17:00「倉敷」から60km、「日生」の食事処に到着
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「日生」(ひなせ)は、「カキ」の養殖が盛んで、カキ料理を食べるのが目的だが、正月3日はどこも開いてなくて、唯一オープンしていた店をみつけて予約した「活魚かき料理天坊」は、地元でも人気の割烹らしく、今日は職人タイプの大将と奥さんだけで切り盛りしている
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刺身盛り合わせ(オコゼも名物)
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酢ガキ (残念ながら牡蠣の不作と正月で入荷が少ないらしい)
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カキフライ
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カキと黄ニラの柳川鍋
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天麩羅盛り合わせ
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たい茶漬け、ガンゾウ(ヒラメ)茶漬け、のり茶漬け、穴子酒蒸し
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今日の宿泊は、瀬戸内海の「鴻島」(こうじま)という離島にある、ログハウス一棟貸しヴィラで、船でしか行けないから、車を「日生港」に駐泊し、必要なものだけ持って島に渡る
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「日生港」18:50発、50人乗りの定期船で、1日7便しかない、日生港から4kmの「鴻島」まで15分、
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19:10「鴻島」に上陸
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宿の送迎車で10分、一棟貸しヴィラ「ログあした」に到着
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1階は、リビングとダイニングキッチンと和室、浴室、トイレ
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2階は、9名まで寝れるベッドルーム
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我家にコタツがないから、孫たちは大喜びで、早速コタツでトランプ
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外は真っ暗なので、今夜は風呂に入って寝るだけ
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(3日目)7:10 翌朝、ベランダから瀬戸内海が拡がる
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瀬戸内海の小島で、今年2回目の初日の出
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この辺りは「日生諸島」(ひなせしょとう)と呼ばれ、大小13の島々がある
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周りは別荘だらけ
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自然の中で食べる、朝ごはんは美味い!
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気が付けばリビングに誰かのサイン、わずかに2012年羽野晶紀、山村紅葉、2023年たんぽぽ が見える
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10:27 発の定期船に合わせて、宿舎を出る
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中腹にお宮さん(鴻島神社)があったので途中下車
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「鴻島」(こうじま)は、人口約50人の離島で、300軒の別荘が斜面に立ち並ぶ景観から「日本のエーゲ海」とも呼ばれる、温暖な気候の中、海水浴、釣り、みかん狩り、移住先としても注目されている *江戸時代には岡山藩の流刑地で、その後は無人島となっていたが、昭和5年(1930)18世帯が入植して有人島となり、最盛期は300人暮らしていた
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「鴻島港」船乗場
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10:27「鴻島」発、観光客だけでなく、買い物などで行く島の住民も乗船する
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午前中3便しかないが、島民の重要な足である
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運賃は、日生~鴻島で350円、フェリーもあるが、非定期で10,000~15,000円
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外から見ると、「鴻島」も結構大きい
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「日生諸島」(ひなせしょとう)には、大小13の島々があるが、正面の島は「頭島」(かしらじま)人口360人で、隣の「鹿久居島」(かくいじま)と「頭島大橋」と繋がり、さらに「備前日生大橋」から「日生」に陸続きになっている
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「頭島大橋」は、鹿久居島と頭島を結ぶ300mの橋で、2004年に完成し、2015年に完成した「備前日生大橋」経由で本州と繋がる
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「日生港」(ひなせこう)は、カキの養殖や新鮮な魚が水揚げされ、隣に魚市場もある漁港と、周辺の離島を結ぶ定期船や観光船の港でもある、過去には「小豆島」へのフェリー航路もあったが、2023年に廃止された
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11:00「日生港」に到着
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日生から備前市へ行く途中にある「備前海の駅」(魚市場)に立ち寄る、日生や近くの牛窓などで水揚げされた新鮮な魚介類が並ぶ
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11:50 今回の目的の一つは、カキたっぷりのお好み焼き「カキオコ」を食べること、だったが、正月休みで殆ど開いてなく、備前市への途中でやっと見つけた!
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「カキお好み焼き」は、通称「カキオコ」と呼ばれ、カキ愛好家としては一度は食べてみたいと思っていたので、念願叶って大満足!
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「カキオコ」は、カキの岡山県内屈指の産地を誇る「日生」の郷土料理として、新鮮なカキを贅沢に混ぜ込んで焼く冬の人気ご当地グルメで、日生の漁師の奥さんたちが、小さなカキや傷ついたカキをお好み焼きに入れて食べたのが始まりとされ、2008年に商標登録され、20軒を越えるカキオコ店があるという
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「カキオコ」は、広島焼でもなく大阪焼きでもない「日生焼」という両方のいいとこ取りの焼き方と、ソースも日生で伝統的に使われてきた「タイメイソース」というソースが中心で、とにかくカキの量が凄い
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カキの量は、通常100g(4~6個)のところ、120g、150g、さらに200gの「こぼれカキオコ」まである
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美味しさの秘密は、新鮮なカキを使うため余分な水分は含まれず、焼いても縮まないプリプリの食感が楽しめることで、現地でないと味わえない
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広島焼にもカキ入りはあるが、どこを切ってもカキがザクザク入ってるので、一口食べるとカキの旨味がパーっと口の中に広がり、全く違う
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13:50 日生港から 15km、「備前焼のふるさと」に到着
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「備前焼のふるさと」は、中世から現在まで生産が続く「日本六古窯」(瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波・備前)の一つである「備前焼」の窯元や陶芸店が集中しているところで、備前市の中心から約4kmの地点にあり、窯元数300、作家数400人は、日本六古窯の中でも最大級の規模
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「備前焼」の特徴は、「日本六古窯」(ろっこよう)の中で最も古い焼き物で、古墳時代の須恵器の製法から始まっているので、素朴な土を練って作るという焼き物の原点をそのまま引き継ぎ、原始的で味わい深い美しさがあり、(表面に塗る)釉薬を使わず絵付けもしないので、外観は土の性質や焼き方で究極にシンプルな模様になり、土の凹凸で水がまろやかになるのでお酒やコーヒーが美味しくなり、使えば使うほど味わいが増していくのが特徴
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信楽焼に似てないこともないが、六古窯の内、信楽と常滑と備前は釉薬を使わないので、素朴な土の風合いや、自然の焼成色の模様で頑丈な器を作るのは同じだが、土の違いで信楽は大物作り、備前は薄造りの細工しやすい小物作り、明るい土味と温かみ、と堅く引き締まった土味と渋さの違いが出て、信楽は大型陶器から日用食器まで幅広く、備前は徳利・ぐい呑などの酒器や湯呑・マグカップ・皿などの食器、茶碗や急須などの茶器、花器、置物などの商品が多い
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何ヶ所か廻って、今回の旅の記念として、マグカップを買ってしまった
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14:00 備前を出発して、160kmの高速を走り、17:00 京都に到着、3日間 670kmのドライブ旅行となりました
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