1982/06/13 - 1982/06/13
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【1982.06.13.デュッセルドルフ近郊の小旅行:①アイフェルの真珠と謳われる、雨のモンシャウを久しぶりに訪れた】
デュッセルドルフからアイフェル地方はそれほど遠くもないので、駐在当時も定職後のドイツ感傷旅行でもよく走ったものだ。
アイフェル地方を愛した、写真家のErich Justraエーリッヒ・ユストラが好んで写した景観、それらはアイフェルの城、宮殿といった古城群、この地方独自のマーレ(湖)、河川、丘陵地、森林、草原の花々であった。
私の好みで言えば、それらに古城ホテル、グルメレストランがあるが・・・。
改めて、アイフェル地方のことを調べてみると、面白い。
知らなかったことも多く出てきて興趣が湧いてきたものだ。
アイフェルの真珠と謳われるモンシャウの章に加えて、アイフェルを愛した写真家エーリッヒ・ユストラのことや、太古の時代は火山地帯であったから、バルカン(火山)街道なる観光街道もあり、アイフェルの目と称するマール湖(火山湖、火口湖)なども纏めてみた。
ご興味あれば、お目通し頂ければ幸いです。
尚、或る読者から、以下のコメントを頂きました。
【アイフェルと言う名前を聞いてエッフェル塔を作ったアイフェル(エッフェル)氏もこ地方の人かなと思い調べてみるとドイツ系アルザス人の家系に生まれているようでした。】
Wikiによれば、確かに<Alexandre Gustave Eiffelアレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル氏(1832年~1923年)は、フランスの技師、構造家、建設業者。一般にはエッフェル塔を設計した人物として知られる。エッフェルはコンテストへのプラン提出責任者、その建設を受託したエッフェル社の代表であった。
1832年12月15日一家の長男として、フランスのディジョンに生まれる。家系はアルザスから移住した*ドイツ系アルザス人>とあります。
Die Eifelアイフェル地方とEiffelエッフェル氏はちょっと綴りがが違いますが・・・。恐れ入りました!アイフェルからエッフェル塔がひらめいたとは驚きました。
ドイツ語のEifelから、フランス人(ドイツのアルザス系)のEiffel氏を思うなど、私の頭には少しも思い浮かびませんでした。
Eiffel氏がドイツ人であった、フランス人であった、さてどちらの意識が強かったのか?
当時の目まぐるしい独仏の支配の変遷を思うと・・・。
本編にこうした小話が出て来るのは嬉しいですね。感謝です。
*Der Name ?Eiffel“「エッフェル」という名前 :
エッフェル氏の祖先はBonickhausen (ドイツ語はBönickhausenベニクハウゼン) dit Eiffelボニックハウゼン・ディ・エッフェル(「エッフェルと呼ばれる」)という名前だったらしい。
17世紀の終わりには、 アイフェル地方のKreis Ahrweilerアールヴァイラー地区の ArembergアレンベルクとKreis Euskirchenオイスキルヒェン地区のMarmagenマルマーゲンに住み、Eifeler Schulmeisters Leo Heinrich Bönickhausenアイフェルの校長レオ・ハインリッヒ・ベニクハウゼンは教会の聖職者も兼ねていた。
1680年にマルマーゲンで洗礼を受けた息子のヴィルヘルム・ハインリッヒが1710年頃にフランスに移住し、アイフェル地方の出身であるdit Eiffelエッフェルを付け加えたジャン・ルネ・ベニクハウゼンと名乗ったという説があるようだ。
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写真はMonshauモンシャウ:時計回りで左上から、モンシャウのワッペン、モンシャウの絵葉書、Haller Ruineハラー城址の塔に登って、下に(モンシャウ城の建物の一部)ユースホステルが見える、雨に濡れた急な石段を登る娘達。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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デュッセルドルフからベルギーとの国境沿いになるアイフル地方のモンシャウは約100km、アーヘンからは南に30kmの距離になる。車で行くとアイフェル地方一帯は山間なので1時間半~2時間程度はかかる。
モンシャウは200年ほど前に布織産業で栄え、当時のままの木組み建築の家並みが見事に残り、私個人にとっても魅力にあふれた町である。
個人の思惑とは別に、かつてのモンシャウについては観光案内書(手元の観光資料Aral Auto Buch1974・75年)に述べられていることは少ない。
第一にBug Monshauモンシャウ城、
Haller Ruineハラー城址、
布織産業で栄えた企業家のDas Rote Haus赤い家、
ルール川沿いに建つ木組み建築の美しさで、
他の山間の町々と特段変わった印象は無かった。
まずは高い所に登る。城郭からの眺めは木組み建築の旧市街の景観が好まれた、静かな国境の山間にある小さな町であった。
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この写真はDie Eifelアイフェル地方のMapで、1984年に改定版として出版された写真集の裏表紙のものだ。
アイフェル地方はドイツ西部からベルギー東部にかけて広がる標高の低い山地で、太古の時代は火山地帯であった。この為、噴火口の後に水がたまっていわゆるマール湖(火山湖、火口湖)が多く見られる。
参考写真:Die Eifelアイフェル地方 ・表紙は写真家が最も好んだSchloss Bürresheimビューレスハイム城の写真(後掲)で、こちらは裏表紙にあるMonshauモンシャウ:Die Eifelアイフェル地方のMap(抜粋)である。
尚、参考までにドイツ・アイフェルの写真家Erich Justraエーリッヒ・ユストラについては後述した。 -
モンシャウの旧市街を流れる細流、Die Rurルール川はNaturpark Hohes Venn-Eifel高地フェンズ・アイフェル自然公園に源泉があり、全長164.5 kmである。
ルール川はMaasマース川の支流で、ベルギー、ドイツ、オランダを流れるが、川の約80パーセントはドイツ領内を流れている。
尚、ライン川の支流であるDie Ruhrルール川(全長219.3 kmでノルトライン・ヴェストファーレン州を流れる)と区別する為、マース川の支流のDie Ruhrルール川を1960年より<h>を外し、Die Rurルール川となった。
参考写真はMonshauモンシャウ:アイフェル地方を流れるVerlaufskarte_Die Rurルール川の流域図・・・ノルトライン・ヴェストファーレン州デュッセルドルフの北部を東から西に横に流れてライン川に合流するVerlaufskarte_Die Ruhrルール川とは違う。 -
イチオシ
【デュッセルドルフ近郊の小旅行:
①アイフェルの真珠と謳われる、雨のモンシャウを久しぶりに訪れた】
ノルトライン・ヴェストファーレン州アイフェル地方の山間部にある小さな町(人口12千人)、Monschauモンシャウは「Die Perl der Eifelアイフェルの真珠」とも呼ばれるほど、木組み建築の美しい家並みが見られる。
今はクリスマス時期になると、山間の町に観光客があふれると云う。
Burg Monschauモンシャウ城は、おそらく13世紀初頭にHerzöge von Limburgリンブルフ公爵によって建てられ、14世紀にさらに拡張されました。
城塞から眺める町やルール川渓谷の景色は確かにすばらしい。
写真はMonshauモンシャウ:時計回りで左上から、モンシャウのワッペン、モンシャウの絵葉書、Haller Ruineハラー城址の塔に登って、下に(モンシャウ城の建物の一部)ユースホステルが見える、雨に濡れた急な石段を登る娘達。 -
モンシャウの旧市街を行くと、町の中心を流れる細流、ルール川が流れ、狭い通りに黒灰色のスレートが鱗状に屋根や壁に使用された木組み建築の家並みが軒を連ねている。似た景観は我が家のゴスラーちゃんの故郷、Goslarゴスラーを思わせる。
尚、Haller Ruineハラー城址はモンシャウにある13世紀の古い要塞である。
今はモンシャウ城の向かいたつ城郭施設で、モンシャウ城の望楼(監視塔)ではなく、独立した要塞構造の様な施設と見なされている。
写真はMonsshauモンシャウ:時計回りで左上から、木組みの家並み、ハラー城址の塔、細流Die Rurルール川、濡れた石畳と生き生きとした窓辺の花、雨に煙るモンシャウ。 -
イチオシ
Echbacstrasseエッシュバッハ通りはモンシャウ第一の絵となる場所といわれ、人々に好まれ、皆さん写真におさめている。
写真(絵葉書)の右奥に見える民芸品のお店で、今も割れずに残っている花瓶(Westerwaldヴェスターヴァルトの焼き物)を買った記憶がある。
写真はMonsshauモンシャウ:時計回りで左上から、木組みの家並み(絵葉書)とルール川の景観、右奥は民芸品のお店。 -
写真はモンシャウの絵葉書:時計回りで左上から、城郭とユースホステル、赤い家、ルール川と旧市街の景観、パノラマ、キャンプ場、旧市街の俯瞰、赤い家とハラー城址、教会と赤い家、ルール橋と赤い家、エッシュバッハ通り・・・絵葉書には赤い家ばかりで存在感がすごい!!
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<Monschau_Wappenモンシャウの紋章>
モンシャウの紋章には黒い獅子が描かれ、1435年にモンシャウが支配した Herzogtum Jülichユーリッヒ公国の獅子である。
また、小さな盾には、1354年からモンシャウを統治したHerren von Schönforstシェーンフォルストの領主の紋章が描かれている。
紋章は1940年に付与され、1974年4月16日に確認されました。
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参考写真はMonschau_Wappenモンシャウの紋章 -
写真はMonsshauモンシャウ:ルール川とエッシュバッハ通りの旧市街
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イチオシ
モンシャウ第二の絵となる場所と云われ!人々に好まれ、皆さん写真におさめている。・・・上にハラー城址と赤い家が左に(絵葉書)、ルール川の流れ、木組みの家並み(絵葉書)、Markt 8にある老舗のカフェCafe Kaulard(カウラード)は好ましい佇まいで人気も高く、入店してお茶にしたかったが、雨模様もあって店内はお客さんがいっぱいだったから、やむなく諦めて仕舞った。
写真はモンシャウ:時計回りで左上から、ハラー城址と赤い家(絵葉書)、ルール川の流れ、木組みの家並み(絵葉書)、カフェCafe Kaulard(カウラード) -
写真はモンシャウ:時計回りで左上から、雨も上がったモンシャウの通りにある赤の家の前で娘達と、雨の上がる前の景観・・・ハラー城址と赤い家(絵葉書)とは違って・・・真っ暗!、下の二枚はデュッセルドルフの旧市街の夜景、北公園。
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参考写真はモンシャウ:Burg_Monschauモンシャウ城_um_1650年頃の絵
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参考写真はモンシャウ:Monschau,am_Markt 2015年モンシャウのマルクト広場 8番地にある老舗のカフェCafe Kaulard(カウラード)、天気の良い日の佇まい。
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参考写真はモンシャウ:Monschau_Panoramic_2014年モンシャウの高台からのパノラマ・・・右手にモンシャウ城。
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【Das Rote Haus赤い家】
モンシャウで成功した布織業者Scheiblerシャイブラー家の代々住んできた「赤い家」は現在、「Museum Rotes Haus赤い家博物館」となっている。
そのファサードの色から「赤い家」と呼ばれてきたが、街中でも一番目立つ建物かも知れない。1752年に建てられたものだ。
赤い家の所有者はJohann Heinrich Scheiblerヨハン・ハインリッヒ・シャイブラー(1705年~1765年)である。
左半分は住宅で「Zum goldenen Helmツム ゴールデンヘルム(金色の鉄兜の意味だが、建物頭部がそう見えるが)」と呼ばれ、右側は「Zum Pelikanツム ペリカン」と称されたオフィスでした。
参考写真はモンシャウ:Museum Rotes Haus赤い家博物館_2014年 -
住居はロココ様式などの美しい調度品で飾られ、当時モンシャウで生活していた企業家一家(つまり上流階級)の生活を垣間見ることができる。
中でも住宅の3階に通じる木製のTreppeトレッペ(階段)が素晴らしい。
参考写真はモンシャウ:「赤い家」の美しい階段 -
参考写真はモンシャウ:「赤い家」_Blauer Salon青の間(サロン)
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参考写真はモンシャウ:「赤い家」_Herrenzimmer主人の居間
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参考写真はモンシャウ:「赤い家」_Esszimmer食事の間
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参考写真はモンシャウ:「赤い家」_Küche台所
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参考写真はモンシャウ:「赤い家」_Schlafzimmer寝室
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【Die Eifelアイフェル地方の図】
(ドイツのアイフェル地方とバルカン(火山)街道&アイフェルの目)
デュッセルドルフからアイフェル地方はそれほど遠くもないので、駐在当時も定職後のドイツ感傷旅行でもよく走ったものだ。
アイフェル地方を愛した、写真家のErich Justraエーリッヒ・ユストラが好んで写した景観、それらはアイフェルの城、宮殿といった古城群、この地方独自のマーレ(湖)、河川、丘陵地、森林、草原の花々であった。
私の好みで言えば、それらに古城ホテル、グルメレストランがあるが・・・。
改めて、アイフェル地方のことを調べてみると、面白い。知らなかったことも多く出てきて興趣が湧いてきたものだ。この章に加えて、纏めてみた。
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Die Eifelアイフェル地方はドイツ西部からベルギー東部にかけて広がる標高の低い山地である。ノルトライン・ヴェストファーレン州の南西部、ラインラント・プファルツ州の北西部、ベルギーのドイツ語共同体の南部にまたがる。
アイフェル地方はAhrアール、Rheinライン、Moselモーゼルに囲まれた地域である。つまり、アイフェルの南がモーゼル川、東はライン川、北はその大部分がHohes Vennホーエズ・フェンの丘陵地(アイフェルで最も高い山Hohe Achtホーエ・アハト(747m)がある)であり、Ahrgebirgeアールゲビルゲの丘陵地と称され、アール川(全長85.1km)沿いを北上したところにAhrweilerアールヴァイラー地方がある。
西はベルギーとルクセンブルクのArduenna -Hochlandアルデンヌ高地に隣接している。
アイフェル地方の地図をよく見ると、様々な名前が見られる。
ベルギー国境側から、右へ下にと書き連ねると、
Hohes Vennホーエズ・フェン、
Nordeifelノルド・アイフェル、
Ahrgebirgeアールゲビルゲ、
Belgische Eifelベルギーアイフェル、
Schnee-Eifelシュネーアイフェル、
Hocheifelホッホアイフェル、
Westeifelベストアイフェル、
Vulkaneifelバルカンアイフェル、
Südeifelズードアイフェル、
Moseleifelモーゼルアイフェルである。
2004年から、ドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州内にあるアイフェルの110km2 が、<Nationalpark Eifelアイフェル国立公園自然保護区>として保護されている。また、同年に世界ジオパークにも登録された。
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写真はEifel-Deutsche_Mittelgebirge,_Serie_A-de アイフェル地方の中央山地の地図 -
イチオシ
以下はアイフェル地方の自然、古城、僧院・教会などを写した手元の写真集であるが、写真家Erich Justraエーリッヒ・ユストラについて書かれた記事があったので、訳して下記した。
【 EIFELON eMailZeitungアイフェルオン(2015.01.30.)(抜粋・訳)】
ドイツ・アイフェルの写真家Erich Justraエーリッヒ・ユストラ
Seit 60 Jahren die Eifel im Fokus、Der Fotograf Erich Justra
60年という長い間、アイフェルの景色にフォーカスして写真を撮ってきたという:ドイツの写真家エーリッヒ・ユストラ氏。
参考写真:Die Eifelアイフェル地方 ・表紙(1984年改定版)は写真家が最も好んだSchloss Bürresheimビューレスハイム城の写真(後掲)である。
「Die Eifel im Farbbild (The Eifel in Colour Image)」写真集147頁は1968年初版を1984年に改定版として出版されたものだ。それをスキャン、カメラで撮ったものだ。 -
知らないうちに、この地域の多くの人々は、子供の頃からユストラ氏の写真に精通してしまっている。人々はポストカード、地理の本、クイックグラブから牛乳パックまで、彼のアイフェルのモチーフを知っているのだ。
そして、常にこの地域を愛おしそうに見つめ続けてきた、この写真のパイオニアは今、人生の90年目を祝った。
祝賀会はSchmidter Hotel Roebシュミッター・ホテル・ローブで行われました。
ユストラ氏は若い頃、コンサートピアニストになりたかったのですが、第二次世界大戦によってすべての計画が頓挫してしまったそうだ。彼は学校の机から離れて戦争に行かねばならなかったからでした。
写真について、先見の明を持つエーリッヒ・ユストラは、常に時代を先取りしていました。1968年、彼は大判のカラーイラスト入り本「Die Eifel im Farbbild (The Eifel in Colour Image)」を出版し、それに成功した最初の写真家となった。初版で2万部という発行部数に達した作品を通じて、大企業はHeimbachハイムバッハ(人口4500人)在住の写真家の存在を知ることとなった。
参考写真はDer Fotograf 写真家:Erich Justraエーリッヒ・ユストラと編集者 -
その後の数年間、彼は1817年に創業の名門Bitburger Brauereiビットブルガービール醸造会社の写真カレンダーをデザインした。
「当時、アイフェル地方のBurgen城、Schlössern宮殿、Seen湖、Flüssen河川を写した、私の航空写真はアイフェルのすべてのレストランに飾られていたものだ」と90歳のユストラ氏は微笑みながら語った。
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参考写真はDer Fotograf写真家Erich Justraエーリッヒ・ユストラ作の「Die Eifel im Farbbild」・・・写真右上には「アイフェルの目(後述)」と呼ばれるDauner Maareダウナー・マーレ(火山湖):前から後ろにGemündenerミュンデナー・マール、 Weinfelder ヴァインフェルダー・マールund Schalkenmehrener Maarシャルケンメーレナー・マールが見られる。 -
手元に、この古城を表紙にしたもう一冊の本がある。
「Romantik in Deutschlandドイツのロマンチックな古城群の写真集」である。ドイツに始めて駐在した際に購入したもので、題名と素晴らしい写真(117頁、1975年版)が気に入って買ってしまった。
思えば、ユストラ氏の事をほとんど知らずにいたのだが、「Romantik in Deutschlandドイツのロマンチックな古城群の写真集」を第1回の駐在時に購入し、「Die Eifel im Farbbild 」写真集(1985年改訂版)を第2回目の駐在時に買って、手元に2冊とも残っているのは、縁があったという事なのだろう。
アイフェル地方の写真集と同様に、Schloss Bürresheimビューレスハイム城はここでも写真集の表紙を飾るほど、知られた古城なのだが、当時の私は近くを通ったものの、残念ながらその存在を知らずに一度も訪れていない城だ。
<Schloss Bürresheimビューレスハイム城>
D-56727 Mayenマイエン、Bürresheimer Str. 1ビューレスハイマー通り1
(Rheinland-Pfalzラインラント・プファルツ州)
Mayenマイエンの北西にあるNettetal ネッテ渓谷には、中世の城をバロック様式で再建したラインの騎士貴族と生活文化の証であるビューレスハイム城がある。
*Mayenマイエンはドイツの西部、ラインラント・プファルツ州の北部にある都市。モーゼル川とアイフェル高原の間に地域で、農業地帯の中心都市となっている。約25km東にはライン川沿いにコブレンツがあり、交通の大動脈にも近い。
市街地は城門や塔など中世の面影を残し、自然石の採掘や建築材や金属、繊維、製紙などの工業も盛んである。
ビューレスハイム城は1157年に最初に言及され、何世代にもわたった騎士貴族は、1938年までこの城に住んだと云う。
宮殿の城郭の西にある、所謂「Kölner Burgケルン城」の遺跡は、13世紀にまでさかのぼり、1473年から1796年まで城主であったHerren von Breitenbachブライテンバッハの騎士は17世紀に、中世の城郭を拡張してバロック様式の建物に改造した。
城内のインテリアは、中世の終わりからウィルヘルミアン時代(1871年~1873年)までの生活文化の様子を示している。15世紀から19世紀の家具、シャンデリア、革の壁紙、プレート、鋳鉄製のストーブが快適な生活環境を作り、17世紀のタペストリーに加えて、貴族の肖像画や家系図が壁を飾っている。
城の礼拝堂はバロック様式の祭壇とベネチアのガラス芸術のシャンデリアで飾られている。
<知っておきたいこと>
この古城は過去に映画のセットとして利用されてきた。おとぎ話の映画『Rumpelstilzchenルンペルシュティルツヒェン 』と、ハリソンフォードとショーンコネリー主演の映画『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦(1989年公開)』の一部がここで撮影された。
城の南側にあるバロック様式の庭園も数多くの絵画に描かれており、一見の価値がある。
(Museumsverband Rheinland-Pfalz e.V.より抜粋引用)
尚、付け加えれば、Burg Elzエルツ城やBurg Lissingenリッシンゲン城と並んで、アイフェルで征服されたり荒廃したりすることのなかった数少ない城郭の1つであり、17世紀と18世紀の戦争とフランス革命の社会的激変を無傷で生き残ることができた。
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参考写真:手持ちの「Romantik in Deutschlandの写真本」の表紙を飾るSchloss Bürresheimビューレスハイム城 -
さすがに<Die Perle der Eifelアイフェルの真珠>と謳われるだけあって、Monshauモンシャウの写真は、「Die Eifel im Farbbild 」写真集(1985年改訂版)の2頁から出て来る。
古城大好きな私としては、まずアイフェル地方に残る古城群から見ていきたい。
*ついでながら、アイフェルの古城群の事を追記した:
<保存状態が良い城>
Burg Elzエルツ城
D-56294 Wierschem 、Burg-Eltz-Str. 1
www.burg-eltz.de
Burg Lissingenリッシンゲン城
D-54568 Gerolstein 、Prumer Str. 1
www.burglissingen.de
Burg Satzveyサッツヴェイ(ファイ?)城、
Burg Dudeldorfドゥーデルドルフ城、
<19、20世紀に再建された城>
Burg Bollendorfボレンドルフ城、
Genovevaburgゲノフェーファ城、
Burg Vlattenフラッテン城、
Reichsburg Cochemコッヘム・ライヒスブルク城、
<城址>
Burg Gerolsteinゲロルシュタイン城、
Burg Gödersheimゲーデルスハイム城、
Löwenburgレーヴェンブルク城とPhilippsburgフィリップスブルク城、
Manderscheider Burgenマンダーシャイダー城、
Burg Monschauモンシャウ城、
Burg Nideggenニデッゲン城、
Burg Schöneckenシェーネッケン城、
Ulmener Burgenウルメン城、
Nürburgニュルブルク城、
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Monshauモンシャウ:Ruine Haller ハラー城址と旧市街 -
【ドイツ ライン・モーゼル周遊】
2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間
今回の旅の目的地は二度目のドイツ駐在を終え、1985年5月31日に帰国して以来、21年ぶりとなる“デュッセルドルフ訪問”が第一です。
そして週末や休暇の帰途に、何度も立ち寄った“ライン・モーゼル川の流域等”を旅するものです。
05.13(土)曇り 20℃ 昨夜猛烈に雨が降ったので、一日涼しい。 151km
朝食後、Hotel-Petryを9:15に出発する。車が昨夜の雨で洗われて、きれいになって、ありがたい。今日は城見物が中心となる、ドライブです。
Karden B416->11km、Hatzenport、L113->5km、Muenstermaifeld、K37->7km、マロニエの並木道をWierschem、K38->2km Antoniuskapelle、9:40駐車場(1.5Euro)より、寒いぐらい(13.5℃しかなく)の森の中を歩き、さらに下り坂を800m、20分程の距離を歩いてゆく。途中から、谷間の視界が開けて、ドイツ一の名城Burg Eltzエルツ城が見えてくる。城には10:00に着く。
ガイドツアーは約40分。宝物館。Antoniuskapelle K38->2km Wierschem、K37-> L118 10km Pllig K27->2km、12:00、Burg Pyrmont (bei Roes)ピルモント城内見学。Roes 13:00 L109->5km Brohl、L110->5km、B416 Karden で対岸への橋を渡り、B49->10km、Burgen、Burg Bischofs-stein、B49->8km、13:30 Burg Thurant(Alken)、
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Burg Elzエルツ城エルツ城 城・宮殿
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Burg Eltzエルツ城はドイツで“行って見たい観光地10選”に選ばれていて、名城として名高い。
モーゼル川から少し北に入ったエルツ川の谷間に、モミの木の鬱蒼と繁った山中にある。1151年シュタウフェン王朝のコンラート三世はCochemコッヘムの城を手にすると、その帝国領内に城塞の構築を進め、その一環として、家臣のEliasエリアス(Kleveの白鳥の騎士と同じ名前)により、Eltz城も建設された。1356年にはカール四世から、トリアーの大司教に与えられたが、その後も、山城は増築を重ね、一度も陥落した事がない難攻の城という。Eliasはエルツ家を名乗り、その家系は城主として、中世から現代にいたる800年以上も連綿と続いているそうである。
写真:Die Eifelアイフェル地方・1977.03.12.Burg Eltz エルツ城(1977.03.12.~13.モーゼル下り) -
イチオシ
エルツ城ガイドツアーは約40分、日本語の説明書を借りて、集まりだした大勢の観光客と共に、城内へ。
城内には
①下の広間---1450年、樫の木の天井は堅牢なもの。ここは居間にあたる。1537年アイフェル製の暖炉、16世紀のクラナッファの絵“マドンナとキリストと葡萄”が架けられている。
②寝室---①の上層階、16世紀、後ゴシック様式の壁絵、15世紀の鉛製窓のあるカペレ。独特の1520年天蓋付きベッド(暖房の面から、階段を上がった所にベッド)。中世後半から用いたと言う、部屋の隅の城郭から突出した部分に設けられた、水洗式トイレ!!(屋根に溜めた雨水の利用)が見られた。
③騎士の間---樫の木の天井、城一番の広さ、17世紀のゴブラン織り(太陽神と月の女神の会食)が壁に架けられ、最後の騎士と謳われた皇帝マクシミリアンの甲冑(1520年代製、27kgの重量)がある。
写真:Die Eifelアイフェル地方・1977.03.12.Burg Eltz エルツ城 -
④Fahnensaal旗の間---1881年南独製オーブンがあり、エルツ一族の紋章がタイル張りされている。後ゴシック様式のガラス絵(騎士階級の守護神、聖Georgのドラゴン退治の図)も見ることができる。
⑤Komtessenzimmer伯爵令嬢若しくは貴婦人の間---居間に掲げられた、いくつもの絵から、そう呼ばれたという。Brautbett花嫁のベッド(1520年製、2.05x1.45mの大きさ。この時代は、座って眠るスタイルの小さなベッドが主流で、これは珍しい大きさである。)や、16~19世紀の陶磁器コレクションが。
その他に⑥台所⑦狩りの間など、中世の色合い濃い、興味深い部屋部屋を見る。40分はあっという間である。(12Euro)。
写真:Die Eifelアイフェル地方・B2006.05.13.モーゼル川:名城エルツ城 -
昔は無かった、出口側の地下に宝物館もあって、一族の貴重な品々を1981年から公開し、12~19世紀の宝飾品等500もの品々を展示している。
代表的なものは①狩りの女神ダイアナが鹿に跨った姿---1600年、アウグスブルグの銀製品。②騎士の乗馬像---スウエーデンの王G・Adolf、1650年銀に金メッキをした見事な像である。③Der Dukantenscheisser金貨(糞)をひり出す男---デュッセルドルフの旧市街でも見たものと同じで、ユーモラスな格好をしている。1650年アムステルダム製の高価な象牙品。④弓、銃器等の武器⑤ヘキスト、ウイーン等の陶磁器がある。(5Euro)
写真:Die Eifelアイフェル地方・2006.05.13.モーゼル川:名城エルツ城、左上から時計回りで、ガイドツアーを待つ、日本語の説明書を借りて城内へ、出口側の地下に宝物館見学、エルツ川に架かる橋が眼下に見える、帰途は同じ道を戻る。 -
外は雨がぱらつく天候になってきた。城門から出て、右に行く道から城を眺める。形の良い城である。
眼下に小さなエルツ川が城に沿って、流れている。以前にここを訪れた時は、モーゼルから少し入った駐車場に車を置き、エルツ川沿いに山中をハイキングしながら、登った。今日もその道をたどって、エルツ川に架かる橋を渡っている人々が遠くに見える。
モーゼルからは直線で数キロの距離の谷間に城を作る意味合いがどれほどのものか?理解し難い場所だが。
ともあれ、こうした立派な城が残ったのは素晴らしい事だ。
写真:Die Eifelアイフェル地方・B2006.05.13.モーゼル川:名城エルツ城の冊子1 -
Antoniuskapelle K38->2km Wierschem、K37-> L118 10km Pllig K27->2km、12時、Burg Pyrmont (bei Roes)ピルモント城に到着。
<Burg Pyrmont (bei Roes)ピルモント城>
ピルモント城も“Die Perle der Eifelアイフェルの真珠”と呼ばれている。
エルツ城ほど有名ではないが、やはりエルツ川に沿った山上に、25mの塔を中心に堅固な城壁を持った城である。
塔からのアイフェル、モーゼル、フンスリュック地方の眺望は素晴らしいとある。観光客の一団が塔の上から、なにやら叫んでいる。ここでは騎士の扮装をして、【騎士とお姫様ごっこ】ができるサービスもあって、面白そうだ。
ピルモント城は953年頃から、砦のようなものが建てられ、1225年に初めて歴史に城の名が出てくると云う。その後の変遷を経て、城は1963年に再建され、1990年から一般に公開されるようになった。
城への橋を渡り、案内のビデオを鑑賞してから、城内を見て廻る。騎士の間、広い食堂、城主の間、カペレ、テラス、地下室、庭園など小さい規模ながら、興味深いものがある。(8Euro)
橋を戻った広場にはBurgschaenkeブルグシェンケ(レストラン)があって、“騎士の食事(25名以上)”なるものも、サービスされるとか。
昼食と思ったが、団体客で満席のレストランは、とても注文を聞きに来る余裕がなさそうなので、あきらめた。
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Burg Elzエルツ城近くのBurg Pyrmont im Elztal ピルモント城、手前はエルツ渓谷 -
<Burg Satzveyサッツヴェイ(ファイ?)城>
Bonnボンの東南東約20kmのところにあるMechernichメヒャーニッヒにある小さな水城で、堀の水は近くを流れるVeybachファイバッハから引き込んでいる。
12世紀に堀に囲まれた城郭が作られ、Dietkirchenディートキルヘンのベネディクト修道院から管理を任されたVeyファイ家が廷吏として居住していた。
1368年、Köln Engelbert III. von der Markケルン大司教エンゲルベルト3世フォン・デア・マルクは、Satzveyサッツヴェイ(ファイ?)をOtto von Veyオットー・フォン・ファイに封土として与えた。
15世紀、城の要塞化が進み、二重の塔を持つTorhaus トアーハウス(楼門)が建設され、Zwingerツヴィンガー(腰曲輪)ができ、Vorburgフォアブルク(外郭)はより強固なものとなった。
1561年、Wilhelm Spies von Büllesheimヴィルヘルム・シュピース・フォン・ビューレスハイムに簒奪された。
1578年、ユーリヒ・ヴィルヘルム5世富裕公がこの城を占領した。
1882年、水城は帝国伯爵Dietrich Wolff-Metternich zur Grachtディートリッヒ・ヴォルフ・メッテルニヒ・ツア・グラハトのものとなり、ディトリッヒは荒廃した城を大規模に改築し、水掘は排水され、館を増築し、新しい塔を建てた。
中世の美しい水城はラインライント地方では最も保存状態の良い水城とされていて、現在この城は、 Graf von Gymnichギムニッヒ伯爵が所有している。
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Burg Satzvey in Euskirchenオイスキルヒェン -
<Schloss Merodeメロード城>
12世紀にさかのぼるSchloss Merodeメロード城はノルトライン・ヴェストファーレン州のLangerweheランガーヴェーエ市のメローデ地区にある。
ラインラントで最も美しい水城の1つとされている。
1174年から現在まで、かつてはGraf von Merodeメロード伯爵、現在の Fürsten von Merodeメロード侯爵が所有してきた。
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Graf Eugen von Merodeのオイゲン・メロード伯爵の水城(17世紀) bei Langerweheランガーヴェーエ -
<Burgfeste Nideggenニデッゲン城(要塞)>
アーヘンから東に35km、Nideggenニデッゲンという町にある長方形の城(要塞)である。
Graf Wilhelm II. der Große von Jülichユーリッヒ伯ヴィルヘルム2世が、1177年から1191年にかけて建設したBurg Nideggenニデッゲン城である。
この城は15世紀までユーリッヒ伯爵の居城であった。しかし、現在、城は建設当時の形は留めておらず、天守閣の部分が現存している最も古い部分である。壁の厚さは最大2mあり、中世の城で最も堅牢であったため、居住用および防御用の塔として機能した。
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Burgfeste Nideggenニデッゲン城(要塞) 、Grafen und Herzöge von Jülich ユーリッヒ伯・公爵 -
クローネンブルクはルクセンブルクやベルギーにも近く、アイフェル山地の美しい風景を望む高々とした位置にある。
今はアイフェルのKronenburgクローネンブルクの土地の名を付けて、古城ホテル クローネンブルク城と称している。
(更に現在はMapを見ると、Burghaus & Villa Kronenburgに変わった)
<Schlosshotel Burghaus Kronenburg古城ホテル クローネンブルク城>
D-53949 Kronenburg 、Burgbering 2-4
4S・全18室。当時の名はDas Burghausブルクハウスであり、クローネンブルクは付いていなかった。(訪れた当時は2星・全15室)
1978年10月14日、一日遅れだが、秋めいたEifelアイフェル地方で見つけた、小さな村全体が城郭とも言える村には、古城ホテルDas Burghausダス ブルクハウスがその中心に建っていた。城郭の入口と思われる城門は実に素敵な趣で、訪れた小さな古城は好ましい佇まいをしていた。
近年に改装されたクローネンブルク城からはKyllキール渓谷の風景が見られる。
ホテルにはグルメレストラン、オランジュリーテラス、リッターケラーが用意されている。
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Kronenburgクローネンブルク(Malerdorf画家たちの村と呼ぶらしい) 古城ホテル ダス ブルクハウス・Kronenburgの俯瞰2016年 -
1969年には住居やホテルに利用された(私共が初めて訪れた頃だ)が、1990年の終わりごろ、3年をかけて改装し、新装なった古城ホテルを再開した。
14世紀の北門の背後には、かつての城下町が400年の歴史を体現している家並み、を残し、かつてそこでは騎士、市民、僧侶、農民、職人たちが生活したことを物語っている。
<クローネンブルク城の歴史>
1277 年にクローネンブルク城は歴史にその名(スタヴロ マルメディ修道院の書)が登場する。
14世紀にクローネンブルクの騎士が居城とした小さな城砦があった。
15 世紀の初め、円形の城壁、天守閣、塔が付け加えられ、1450年頃にはこの村もクローネンブルクと呼ばれるようになった。その後、クローネンブルク家は滅亡し、戦争やペストの流行で城の必要性が失われていた。
1978年の秋はもう駐在4年9ヶ月を過ぎていた。
その年のクリスマスカードで、出身本部の本部長になっていた、かつての上司に「ソロソロ帰国は?」と希望を伝えた所、
驚いたこと(ありがたいこと)に翌年の正月明けに帰国の内示が出た。
それから後任者が決まり、8月半ばの帰国まで一気に時計の針が回った。
・・・・・・・・・・・・・・・
写真:Die Eifelアイフェル地方・1978.10.14.古城ホテルDas Burg Haus(Eifel)で私の35歳誕生日をケーキで祝う。右上から時計回りで城門、ホテル入口、俯瞰、ホテルのテラス -
【2006年5月.ドイツ ライン・モーゼル周遊の旅】
今回の旅の目的地は二度目のドイツ駐在を終え、1985年5月31日に帰国して以来、21年ぶりとなる「デュッセルドルフ訪問」が第一です。
そして、週末や休暇の帰途に何度も立ち寄った「ライン・モーゼル川の流域等」を周遊する。
5月10日(水)快晴 26℃ 、 195km(通算距離:785km)
この日はアールヴァィラーを見学後、同地のWeinort・Walporzheimワイン産地ヴァルポルツハイムにあるRomantik Restaurant ・Weinkirche Brogsitters St.Peterロマンチック-レストラン・ヴァインキルシェ ブログジッター ザンクト・ペーターでお茶をして(14:45~15:45 )小休止し、16:15にアール赤ワイン街道を走る。
74km、凡そ1時間半走ってDaunダウンの町に着く。
この辺りは太古の昔は火山帯であった事から、Vulkan(火山)eifelヴァルカンアイフェルとも呼ばれている。
ヴァルカンアイフェル地方は起伏のある山地と深い森、火山湖、そして鄙びた谷間の町が魅力である。ローマ時代からの古い町Daunダウンもその一つで、坂道の多い、人口8千人、周囲が山に囲まれた小さな町である。
ダウンの周辺は森林地帯で、ダウン城のあるのは町の高台だ。
ともかく、古城ホテルのある、町の上へ上へと登る。
高台に上がり、メイン通りをゆっくり行くと、左手に石門があり、側にホテルの案内板が出ているのに気付く。この門をくぐり、上り詰めると結構広い平場になる。左に教会、右に古城ホテルが出てきた。駐車場には数台の車が置かれ、オランダ・ベルギーの車もあって、国境に近いことを思う。
ホテルのレセプションの小母さん(オーナーの妹さんらしい)は愛想も良く、よくしゃべる人だ。アイフェルの田舎町、日本人はさすがに珍しいお客のようで、しばしば聞かれることが多いが、「何処でこの古城ホテルを知ったのか?何に興味があるのか?」と聞かれた。
<(1泊)Schlosshotel Kurfuerstliches Amtshaus
古城ホテル クーアフュルストリッヒェス・アムツハウス>
D-54550 Daun-Vulkaneifel 、Auf dem Burgberg
全30室・4星、Suiteスイートの108号室(四柱式ベッドルームは約35~50平方メートル)、Euro 125 +Kurtax入湯税Euro 2.4
108号室はスイートらしい!?2階の角の部屋で静かな場所である。
趣のある、立派なクラシックな家具が揃っていて、ベッドは天蓋付でした。
1950年代にドイツの迎賓館で使用したベッドを購入し、客室用に利用していると云う!フランスのドゴール大統領の寝たベッドなどだが、さて、私共の立派なベッドはドンナ有名人が利用したのでしょうか!!?
ホテルのChronik年代史に依れば、城の歴史的変遷は次の通り:
紀元前700年頃、先住民族のケルト人が砦としていた。その後、紀元前50年にはローマ軍団の前線基地が置かれ、紀元12年にはローマ軍(Augustusアウグストゥス帝)の要塞が建てられた。
最初の城の形となる、Dauner Burgダウン城が11世紀に築かれ、
1712年にトリアーのKurfuersten Karl III. Joseph von Lothringen選帝侯カール・ヨーゼフ・フォン・ロートリンゲンが「行政府兼狩猟用の館」に建て直し、
(ホテル名Schlosshotel Kurfuerstliches Amtshausは選帝侯の
「行政府兼狩猟用の館」であった歴史からきているようだ)
1793年にはフランス支配に、
1815年、プロイセン、第二次大戦後はラインランド・ファルツ州がここの管理者となるといったように、変遷した後、
1978年個人所有となり、
1981年古城ホテル・レストランに大改造され、現在に至る。
写真:Die Eifelアイフェル地方・Daunダウンにある古城ホテル クーアフュルストリッヒェス・アムツハウスRomantik Schloßhotel Kurfürstliches Amtshaus Dauner Burg ホテル
-
≪ヴァルカンアイフェルの小さな町ダウンにグルメレストラン 「レオポルト伯爵(ミシュラン1星)」がある。≫
(Graf Leopoldレオポルト伯爵はGraf von Daunダウン伯、「"Retter österreichischer Staaten. "オーストリア帝国の救世主」と墓碑銘に書かれたGeneralfeldmarschallオーストリア帝国陸軍元帥のことだ。
レオポルト伯爵(1705年~1766年)は、オーストリア(ハプスブルク帝国)の軍人として、Maria Theresiaマリア・テレジア女帝の治世を軍事面で支えた人物として知られる。祖父のWilhelm Johann Anton Graf von Daunヴィルヘルム・ヨハン・アントン・ダウン伯爵、父Wirich Philipp Lorenz Graf von Daunヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・ダウン伯爵もまた、オーストリアに長く仕えた歴戦の軍人で、いずれもオーストリア帝国陸軍元帥となった)
このホテルのグルメレストランは2006年版ミシュランの星一つ、ゴー・ミョーで15点である。
こうしたホテルが大都市に集中しない所がヨーロッパの良さなのでしょう。
19時に、ホテル内にあるグルメレストラン-レオポルト伯爵に、小母さんが先導してくれて、予約席に案内される。
豪華に飾れたレストランの奥まった所に、一段下がった場所があり、館に関係した?!夫人と思われる、肖像画の前の席でした。
『ドイツの古城ホテルとレストラン:ダイヤモンド社1992年版』には、このホテルのレストランの写真にこの場所が掲載されているから、多分、良い席なのだろう。
19:00~22:30 、Euro 195=28,300円
レオポルト伯爵は2006年Volkenborn Hitlisten(前頁)によると、ミシュラン星一つ、ゴー・ミョーで15点、ドイツランク138位、客席50席、スタッフ14名。
「Menue・Graf Leopoldレオポルト伯爵」(5品Euro 70)を私が、家内は「Fischmenue魚料理」(4品Euro 58)を注文する。
写真:Die Eifelアイフェル地方・Daunダウンの古城ホテル クーアフュルストリッヒェス・アムツハウス:グルメレストラン レオポルト伯爵・・・メニューと夕食後にレストラン内を撮影 -
イチオシ
<2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅>
2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの4つの地域を中心に巡る。
第8日:10月21日(金)38km、小雨・時に晴れ間もあるも曇天、寒い日8.0~11.0℃*
<“Ahr-Rotwein Strasseアール赤ワイン街道”を行く>
アール赤ワイン街道の村々Marientalマリエンタール、Dernauデルナウ、Rechレッヒ、Mayschossマイショスがつづき、Altenahrアルテンアール(Burg Areアール城)までがワイン街道である。この間にはRuine Saffenburgザッフェンブルク城址、Burgruine Areアール城址、Burg Kreuzberg クロイツベルク城の三っの城がある。
11:30、アルテンアールの町の郊外に向かう。目的のBurg Kreuzberg クロイツベルク城には11:37(距離表示は1023km)に到着した。
この旅でひょっとしてと思って、城門近くまで車で上がったが、やはり駄目であった。11:45、そのまま帰路に着く。
Burg Kreuzberg クロイツベルク城はベーゼラーガー男爵家の居城で、あのシュタウフェンベルク大佐たちが企てた「1944年7月20日にヒトラー総統打倒」の同志だったGeorg & Phiripp Freiherr von Böselagerのゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟*の弟フィリップが終の棲家にした所だ。この事もあって、一度は訪れたい城であった。
写真:Die Eifelアイフェル地方・AltenahrアルテンアールのBurg Kreuzbergクロイツベルク城 -
≪ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅≫
2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
第7日:10月20日(木) 118km、小雨・曇天、寒い一日7.0~11.5℃
13:10コッヘムを出発し、モーゼル川から離れ、ひたすら北上した。
雨も強まり、7℃と低くなって寒々しい。
この地方はDie Eifelアイフェル地方と呼び、Ahrアール、Rheinライン、Moselモーゼルに囲まれた地域である。
つまり、アイフェルの南がモーゼル川、東はライン川、北はその大部分がAhrgebirgeアールゲビルゲの丘陵地と称され、アール川が流れている。
西はベルギーとルクセンブルクの Ardennen ?Hochland‘アルデンヌ高地に隣接している。
<Abtei Maria Laachマリア・ラーハ僧院>
D-56653 Maria Laach
14:00~15:40 11.5℃
Eifelアイフェル地方のMendigメンディヒという町があるが、その町から北4kmにあるLaacher See ラーハ湖(火山湖)の南西に立つBenediktinerklosterベネディクト派の僧院である。
1093年から1216年、湖と共に在る僧院としてPfalzgrafen Heinrich II. von Laachプファルツ宮中伯ハインリヒ・ラーハ2世と妻Adelheidアーデルハイトによって建てられた。
1859年、13世紀からの大回廊を改装した。見事な西の入口、いわゆる“パラダイス”はアルプスの北における唯一のものとして評価が高い。
“パラダイス”の中央に“Löwenbrunnenライオン=命の泉”がある。6塔あるラーハ大聖堂はアーチ型のバシリカをもつ後期ロマネスク様式の僧院教会で、ドイツにおける最も素晴らしい建築の一つとされている。
写真:Die Eifelアイフェル地方・Kloster Maria Laachマリアラーハ僧院(修道院)マリアラーハ修道院 寺院・教会
-
聖母マリアとミラの聖ニコライを祭る僧院教会には迫力ある聖母マリアとミラの聖ニコライ、キリストのモザイク画のある大聖壇が見られ、聖歌隊席、キリスト教の歴史を描いたステンドグラス、聖画、円天井の聖母マリア、15世紀の夕べの祈り・ピエタ像、地下のKryptaクリプタなどなどが見られた。
とりわけバジリカのガラスの中に、13世紀の僧院建設者であったプファルツ宮中伯ハインリヒ・ラーハ2世が木彫りを施した蓋で覆った石棺に生きるがごとく、大事に敬われていたのが印象的であった。
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・ Laacher See ラーハ湖畔にKloster Maria Laachマリア・ラーハ僧院が建っている。Laacher Seeラーハ湖(標高275m)の周辺一帯2000haは自然保護地域になっている。 -
【シューマンが完成・上演できた唯一のオペラ『Genovevaゲノフェーファ』について】
伝説「ゲノフェーファ」はドイツのアイフェル地方のラーハ湖周辺に起源を持ち、この湖一体周辺に伝説に絡んだ話が残っているそうだ。
この伝説はヨーロッパ中に流布した伝説で、他の伝説にも影響を与えていると云われている。
グリム兄弟の『ドイツの物語』にも収録されている(Nr. 538)。
なぜか日本語には訳されていないと云う。
ドイツの作曲家Robert Alexander Schumannロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810~1856年)のオペラは
Ludwig Tieckルートヴィヒ・ティーク(1773~1853年)の『Leben und Tod der Heiligen Genoveva聖女ゲノフェーファの生と死』(1820年作)と、
Christian Friedrich Hebbelクリスチャン・フリードリヒ・ヘッベル (1813 ~1863年)の戯曲『Genoveva. Eine Tragoedieゲノフェーファの悲劇』、全5幕(1843年作、ハンブルク初演)をもとに作られた。
1850年の6月25日に、ライプツィヒの国立歌劇場でシューマン自身の指揮で行われたが、評判は芳しくなく、大きな成功を収めることはできなかったと云われている。
『ゲノフェーファ』悲劇、全5幕 Christian Friedrich Hebbel (1813 - 1863)
Genoveva. Eine Tragoedie in fuenf Akten. Hoffmann & Campe, Hamburg, 1843. 劇はおおむね伝説に従っている。
第1幕 宮中伯ジークフリート出征、家臣ゴロー(ジークフリートの友人)はゲノフェーファ妃に恋心を抱く。無茶な冒険。
第2幕 城内の生活、迷い込んだユダヤ人。
第3幕 ゴローの乳母カタリーナとその姉マルガリータ(魔女)の登場、ゴローのゲノフェーファ妃への告白と妃の拒絶。
第4幕 牢に入れられた妃、子を産む。陰謀は進みマルガリータは宮中伯に幻影を見せる。
第5幕 森の中で妃と子は処刑されかけるが逃れる。ゴローは破滅する。
幕番号なしの「後のゲノフェーファ」が続く。七年後の森、狩で森に来た宮中伯と再会。
シューマンが実際にオペラとして取り組んだのは2曲だが、このうち『海賊』は未完であり、『ゲノフェーファ』(作品81)のみが完成した。
しかし、唯一のオペラである『ゲノフェーファ』も、優れた場面はあるものの、音楽・台本に一貫性を欠いており、親しまれているとは言い難い。(Wiki)
・・・
ラインの左側の支流Netteネッテ川沿いに発展したStadt Mayenマイエンの町は東アイフェルにあり、人口18千人・・・中世の要塞ともいえるGenovevaburgゲノフェーファ城が目立って見える。
マイエンの歴史:
1041年、 マイエンの名は初めて歴史書に出てくる。1291 年、Rudolf I. von Habsburgルドルフ 1世・ハプスブルクによって、都市権を授与された。
プファルツ継承戦争(1688~1697年、9年戦争とも言い、仏王ルイ14世に対し、ドイツ諸侯などヨーロッパ諸国が同盟して対抗したもの)でトリアー選帝侯領に属するマイエンはルイ 14 世の軍に占領され、ひどく破壊された。
また、1794年晩秋にもナポレオン旗下の仏革命軍に占領されている。この為、
マイエンの市民は二十年もフランス市民でした。
1814~15 年のウィーン会議後、Preussenプロイセン(後のドイツ帝国)はRheinlandラインラントを自らのものにし、マイエンもドイツに復帰し、郡庁所在地となった。
第二次世界大戦では1944 年 12 月 12 日、1945 年 1 月 2 日の2度の連合国の空爆で、町の約 90% は破壊された。戦後、市民の尽力で町は現在の如く再建されている。
ゲノフェーファ城と伝説:
マイエンの町の南西側に、中世の要塞ともいえるGenovevaburgゲノフェーファ城が立っている。
町にとってはランドマークともいえる歴史的な城であるが、1689年、プファルツ継承戦争で初めて破壊され、その後も、度々破壊と再建が繰り返されている。
ゲノフェーファ城の名は一つの伝説に基づくもので、伝説の登場人物であるPfalzgrafen Siegfried und seiner Frau Genoveva von Brabant宮中伯ジークフリートと妃ゲノフェーファ・ブラバントが居城としていたと・・・。
古くは17世紀頃の地域の伝承によるとされているが、城のBergfried天守閣を伝説の人物の名を採って“Goloturmゴロー塔”と呼ぶようになったのは何時の事か、よく分かっていないそうだ。
・・・・・・・・・
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Schloss Genovevaburgゲノフェーファ城 in Mayen マイエンゲノフェファブルク城 城・宮殿
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参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Dorfe Bruch 、Bei Wittlich Weinland
ブルッフはBernkastel-Wittlichベルンカステル・ヴィットリッヒ地区の人口495人の小村です。ヴィットリッヒから西に10㎞、海抜190mにあり、村には14世紀築城のWasserburg Bruchブルッフ水城がある。上の写真の如く、双頭の塔が残る。
下の写真はヴィットリッヒ地区の葡萄畑の景観。 -
参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Felsenlandフェルゼンラントの景観
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参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Der Mosenberg bei Manderscheid mit Kratersee 火口湖(Kratersee)があるマンダーシャイト近くのモーゼンベルク
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参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Rursee-Jachthafenルールゼーのヨットハーバーの光景
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参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Tal und Rur in Winter冬の渓谷とルール川の景色
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参考写真:Die Eifelアイフェル地方・花々
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参考写真:Die Eifelアイフェル地方・花々
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参考写真:Die Eifelアイフェル地方・Heideハイデの花々
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【Deutsche Vulkanstraße ドイツバルカン(火山)街道】
アイフェル地方には近年になってできたのだろう、「DeutscheVulkanstraße ドイツバルカン(火山)街道」という全長約280kmに及ぶ観光ルートがある。
(改めて調べてみると、この観光街道は2006年に開設されていた)
ドイツといっても、火や煙が上がる活火山は私も見ていないから、何万年前の火山の後という事だろう。ドイツにも火山はあったのだ。
アイフェル火山群はライン川からHocheifelホッホアイフェルに至る一帯におおよそ東と西の2群に分かれ、東にあるものを東アイフェル火山群、西にあるものを西アイフェル火山群と呼んでいると云う。合計で340もの火山があるとされているから予想以上である。
ただ、日本の富士山、浅間山の如く、目立つほどの山容ではないから、人は殆ど気にならない。
また、火山はまだ活動中であることが研究で示されており、アイフェル地方は毎年1から2ミリ上昇していると発表されているそうだ。
歴史的にアイフェル火山の休止期間は1万から2万年であり、現在もそのような長い休止期間のひとつにあたり、1万1000年前以降の噴火の証拠は見つかっていない。将来の噴火リスクが指摘されているのだ。
参考写真はアイフェル火山地域・・・Deutsche-Vulkanstrasseドイツ火山街道Map「 ドイツバルカン(火山)街道」という全長約280kmに及ぶ観光ルートはバルカンアイフェルのGeopark Vulkanland Eifel内にラーハ湖を始点として、39のサイトを結んでいる。
ドイツ火山学会(Deutsche Vulkanologische Gesellschaft、DVG)により選ばれた、アイフェルの火山活動に関する地質学的、文化的歴史的、産業的歴史的自然と文化的モニュメントのサイトが作られている。 -
例えば、代表的なものとして挙げれば、Kloster Maria Laachマリア・ラーハ僧院が湖畔に立っているLaacher Seeラーハ湖(標高275m)であろう。
このLaacher Seeラーハ湖はこの地域が噴火した結果、出来た火山湖だと云う。東アイフェル火山群はおよそ100個の小火山の集合体で、中でももっとも噴火年代が新しく、かつ大規模・爆発的な噴火を起こした「ラーハ湖火山」は凡そ1万1000年前の災厄(噴火)だったとされている。
今は円形の湖となっている大きな火口や周辺に噴火堆積物を見ることができるが、火口の窪地に水がたまったラーハ湖の直径は2km、湖の深さは50m、面積は、3.31hほどあると云う。湖畔で見た感じは大きな湖だなといったものだが、
・・・・・
<(blaue) Augen der Eifelアイフェルの目>
バルカンアイフェルで特徴的なのは点在する「Maare Seeマール湖」である。
Maarマールとはアイフェル地方の方言で湖を意味し、火山地形の一つで、上昇マグマが地下水と接触して水蒸気爆発を起こし、周囲の岩石を吹き飛ばすことでできた漏斗状の空洞である。
この空洞に水が溜まると湖ができる。まん丸な湖を縁取るように森が広がっているので「アイフェルの目」と呼ばれることも多い。
アイフェル地方には75ほどのマール湖があるとされるが、その大部分は干上がっていて、現在、常に水に満たされているマール湖は10程度しかない。
その中でもDauner Maareダウナー・マーレと呼ばれるマール群は、Daunダウン市周辺に数kmずつ離れて存在する。
参考写真はDauner Maareダウナー・マーレ:前から後ろに3つのマールが見える。それらはGemündenerミュンデナー・マール、 Weinfelder ヴァインフェルダー・マールund Schalkenmehrener Maarシャルケンメーレナー・マール。 -
其々の名前と所在地は以下の通り、()内は所在地。。
Schalkenmehrener Maarシャルケンメーレナー・マール(Gemünden、 Schalkenmehren)、
Weinfelder Maarヴァインフェルダー・マール(Gemünden、 Schalkenmehren)、
Gmündener Maarグミュンデナー・マール(Gemünden)、
Pulvermaarプルファー・マール(Gillenfeld、 Immerath)・・・このマールがドイツで最大面積38.48haを有し、最深は72.0mになると云う。
Meerfelder Maarメルフェルダー・マール(Deudesfeld、 Meerfeld)、
Holzmaarホルツマール(Eckfeld、 Gillenfeld)。
参考写真はアイフェルの目:Pulvermaarプルファー・マール(Gillenfeld、 Immerath)・・・このマールがドイツで最大面積38.48haを有し、最深72.0mだと云う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2025年02月25日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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この旅行記へのコメント (2)
-
- クリスさん 2025/03/10 09:01:28
- ニデッゲンについて
- 興味深く拝読させていただきました。モンシャウについては候補地のひとつには挙がるのですが行く事はなかった。綺麗な街であるのは間違いないのですが、私の対象であるロマネスクの教会がないので。ただニデッゲン城の写真で気付いたのですが、この城はロマネスク起源である事と写真の上に映る聖ヨハネ教会が、再建ではありますがロマネスク起源の教会でスタイル的にも保たれている事、フレスコ画も再建ですが良く再現されているという事です。
この町は確かヒュルトゲンの森に含まれていましたね。
- jijidarumaさん からの返信 2025/03/10 17:05:38
- Re: ニデッゲンについて
- クリスさん、
今日は。いつもありがとうございます。
写真集の中でも、なかなかの見栄えだったニデッゲン城(要塞)、城址の先のSt. Johannes Baptist Nideggen聖ヨハネ教会(ニデッゲン)に気が付かれた辺り、さすがですね。
私などは古城好きもあって、俯瞰された写真を見て、形の良い要塞だとスキャンして投稿させて頂きました。従って、説明も城中心です。
ご指摘もあって、早速この教会のHPに入り、教会内の写真を拝見しました。それでロマネスク様式やフレスコ画も見る事が出来て、納得した次第です。
当時、勢力を持ったユーリッヒ伯爵の居城があり、それを守るような聖ヨハネ教会がたち、今は要塞が城址になってしまったのが残念です。
それではまた。
jijidaruma
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