
1982/05/30 - 1982/05/30
90位(同エリア424件中)
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【Kröller Müller Museumクレラー・ミュラー美術館】
この日は日曜日。朝食を家で食べてから出発した。
5月、ドイツの天気は安定した時期で、すこぶる快晴である。
距離往復300km、車で片道 95 分かかる。
ドライブには丁度良い距離であろう。
A3のアウトバーンを利用して、デュッセルドルフからはおよそ150km の距離にあるオランダの目的地Kröller-Müller_Museumクレラー・ミュラー美術館を訪ねた。
写真はクレラー・ミュラー美術館の再訪
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
Düsseldorfデュッセルドルフ=>A3 95km、Emmerich am Rheinエメリッヒ・アム・ライン=>20km、Grenzübergang Elten Autobahnエルテン・アウトバーン国境通過点=>A12 20km、オランダのArnhemアーネム=>N311 5km、Schaarsbergenスカールスベルゲン=>10㎞、Kröller-Müller_Museumクレラー・ミュラー美術館へと走る。
再訪と書いているが、何時頃だったか?
オランダのArnhemアーネム(またはアルンヘム)はGelderlandヘルダーラント州の州都である。オランダとドイツとの国境の町と言ってもよく、ドイツ語ではArnheimアルンハイムと称する。
アーネムは1233年に誕生し、1443年にはハンザ同盟に加入し、1579年にはユトレヒト同盟に加入している。
ライン川はルールから河口までは「下ライン」と称し、ルールを過ぎるとライン川は西へと向きを変え、オランダに入る。オランダ領に入るとすぐ、ライン川はいくつもの支流に分かれ、網の目のようにオランダ南部に水路を広げる。
アーネムはライン川に沿った美しい都市で庭園都市、公園都市などとも呼ばれる。
面積101.5平方km、人口約14万人(2003年)。
参考写真はライン川畔の町Arnhemアーネムの景観 -
アーネムの市街地から郊外に向かう道N311を走る。木々のトンネルを抜け、森のレストランに至った。ここはフェルウェ国立公園の入口にあたる。
<Restaurant Rijzenburgレストラン ライゼンブルク>
NE-6816 TC Arnhem、Koningsweg 17
De Hoge Veluwe National Parkデ・ホーゲ・フェルウェ国立公園の3つある入り口の一つであるSchaarsbergenスカールスベルゲン傍にレストラン「ライゼンブルク」がある。
実はこのレストランの場所をすっかり忘れていて、レストランの名刺を頼りに調べてみた。
しかも何故このレストランで昼食をとったのかも疑問でしたが、理由は簡単で、このレストラン ライゼンブルクがデュッセルドルフから来ると、一番近い公園入口になり、その入口傍にレストランがあったからだ。
このレストラン(公園入口)から、それでも公園内を約10km走ると、Kröller-Müller_Museumクレラー・ミュラー美術館に至る。
参考写真はRestaurant Rijzenburgレストラン ライゼンブルク(1950年の写真) -
イチオシ
写真の様に、レストランはたいへん好ましい感じでしたし、丁度昼時になっていたので、森の中のオランダ風のレストラン「ライゼンブルク」に寄ったのでした。
観光客やら自転車で散歩中の方々が日当たりの良い場所に座って、食事やビールを飲んで談笑している。
私共は日陰の室内に入って、窓際の席で昼食をとった。
室内はなかなか趣のある様子で、やはり落ち着く。
子供たちはちょっと小さくなったディルンドルクライドを着て、嬉しそうだ。
写真は1982.05.30.Restaurant Rijzenburgレストラン「ライゼンブルク」で -
かつてのレストラン、現在のヴィラ・ライゼンブルクを検索して見ると、今は認知症の高齢者のための22の部屋を備えた小規模な家に改装されていた。
つい、日本の老人ホームと比べてしまった。
参考写真は現在のVilla Rijzenburgヴィラ・ライゼンブルク -
3つある内の画面下のSchaarsbergenスカールスベルゲンの「Rijzenburgライゼンブルク」という入り口から入った。
参考写真はデ・ホーゲ・フェルウェ国立公園・クレラー・ミュラー美術館Map -
公園内の途中は砂地(荒地)が続き、季節にはこのように色づく。
ドイツ北東部 Lüneburger Heideリューネブルガーハイデ(ドイツ・エリカ街道)で見たことがある光景だが、北ドイツ平原は、氷河による浸食を受け、やせた土地が広がっていて、ドイツ語でこの土地をハイデと呼んでいる。Heideはドイツ語で「ヒース(の生えている荒地)」を意味する。紫やピンク、白い小さな可愛らしい花が密集して咲く。
オランダの荒野に咲くハイデも同じで、日本語ではエリカとも呼ばれ、英語ではHeathヒースと呼ぶ。
参考写真は美術館までの道 -
イチオシ
左上はクレラー・ミュラー美術館前にあるdie rote Skulptur K-piece赤い彫刻のKピースはMark di Suveroマーク・ディ・スヴェロ(1972年:抽象表現主義の彫刻家)の作品。
右上はレストラン「ライゼンブルク」の室内で昼食中。
右下はVincent van Goghゴッホ(オランダ 1853~1890年)の作品<アルルの跳ね橋>(1888年)。
左下は画面が暗くて作品は不明。
写真は1982.05.30.Restaurant-Rijzenburg&Kröller Müller Museumクレラー・ミュラー美術館クレラー ミュラー美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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【Kröller Müller Museumクレラー・ミュラー美術館】
NE-6731 AW Otterloオッテルロー、 Houtkampweg 6
アーネムから北西10kmにHet Nationale Park De Hoge Veluwe デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園があり、同公園内に「Vincent Willem van Goghフィンセント・ファン・ゴッホ」のコレクションで知られるクレラー・ミュラー美術館(オッテルロー村)があることから、アーネムを経由して訪れる観光客も多い。
デュッセルドルフからはおよそ150km の距離にあり、車で 95 分かかる。
個人で行くにはアクセスが少々難しい場所である。
実業家のAnton Kröller-Müllerアントン・クレラー・ミュラーと、その夫人Helene Kröller-Müllerヘレン・クレラー・ミュラーのコレクションを基に、クレラー・ミュラー美術館は1938年に開設された。
この美術館は「フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年~1890年、オランダのポスト印象派の画家)に関するコレクションで知られている。
その絵画87点におよぶ規模はアムステルダムのゴッホ美術館とならび、2大ゴッホ美術館と称されている。
屋外での展示もあり、緑に囲まれた広大な敷地に彫刻が散在する
美術館の入館料の他に、国立公園の入場料が必要となる。
参考写真はKröller Müller Museumクレラー・ミュラー美術館外観・・・ゴッホの森と称されるのも納得。 -
美術館内と屋外で見られる作品の主なものは:
・フィンセント・ファン・ゴッホ『アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)』(1888年)
・フィンセント・ファン・ゴッホ『夜のカフェテラス』(1888年)
・フィンセント・ファン・ゴッホ『種まく人』(1888年)
・フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉と星の見える道』(1890年)
・Lucas_Cranachルーカス・クラーナハ(Kröller-Müller_Museum)・Venus und Armor (Cupid)、ヴィーナスと(ハチミツを盗んで蜂に刺された)キューピッド(1531年)
・Édouard Manetエドゥアール・マネ(フランスの画家・写実主義):ある男の肖像画(1860年)
・Paul_Cézanneポール・セザンヌ(フランスの画家・ポスト印象派)・Road_leading_to_the_lake池に続く小道(1880年)
・Paul Signacポール・シニャック(フランスの画家・印象派)『朝食』(1886-87年)
・Georges_Seuratジョルジュ・スーラ(フランスの画家・印象派), 『シャユ踊り』Le Chahut (Can Canカンカン踊り)(1889-90年)
・Odilon_Redonオディロン・ルドン(フランスの画家)-The_Cyclops『キュクロープス』Cyclops (1914年)
・Isaac-Israelsイサーク・イスラエルス(オランダ印象派)、The Waitress ウェイトレス(1915年)
彫刻はジェイコブ・エプスタイン、エミリオ・グレコ、リチャード・セラ、ジャン・アルプ、コンスタン・ペルメーク、ジョージ・リッキー、ケネス・スネルソン、ルーチョ・フォンタナ、ヘリット・リートフェルト、バーバラ・ヘップワース等の作品がある。
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参考写真はKröller Müller Museumクレラー・ミュラー美術館館内・・・ゴッホの 『夜のカフェテラス』(1888年)が中央に。 -
参考写真はVincent van Goghフィンセント・ファン・ゴッホ『疲れ果てて:永遠の入口で』(1881年)
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参考写真はVincent van Gogh_ゴッホ・Autumn Landscape秋の風景(1885年)
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参考写真はVincent van Gogh-ゴッホ『ジャガイモを食べる人々』(1885年)
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参考写真はVincent van Goghフィンセント・ファン・ゴッホ: Selbstporträt自画像(1887年)
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参考写真はVincent van Gogh_ゴッホ・ひまわり(1887年)
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参考写真はVincent van Gogh_Brücke von Langlois ゴッホ・アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)(1888年)
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参考写真はVincent van Gogh_ゴッホ「種をまく人」(1888年)
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参考写真はVincent van Gogh_ゴッホ、 『夜のカフェテラス』(1888年)
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参考写真はVincent van Goghゴッホ:サン・レミ、Olivenhain『オリーブ畑』(1889年6月)
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参考写真はVincent van Goghゴッホ 『糸杉と星の見える道』(1890年)
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以下抜粋:
ゴッホ以外の画家たちの作品もクレラー・ミュラー美術館に所蔵され、展示されている。
参考写真はLucas_Cranachルーカス・クラーナハ(Kröller-Müller_Museum)・Venus und Armor (Cupid)、ヴィーナスと(ハチミツを盗んで蜂に刺された)キューピッド(1531年) -
参考写真は Édouard Manetエドゥアール・マネ(フランスの画家・写実主義):ある男の肖像画(1860年)
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参考写真はPaul_Cézanneポール・セザンヌ(フランスの画家・ポスト印象派)・Road_leading_to_the_lake池に続く小道(1880年)
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参考写真はPaul Signacポール・シニャック(フランスの画家・印象派)『朝食』(1886-87年)
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参考写真はGeorges_Seuratジョルジュ・スーラ(フランスの画家・印象派), 『シャユ踊り』Le Chahut (Can Canカンカン踊り)(1889-90年)
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参考写真はOdilon_Redonオディロン・ルドン(フランスの画家)-The_Cyclops『キュクロープス』Cyclops (1914年)・・・『キュクロープス』は、ギリシャ神話に登場するナーイアス(水辺の妖精)のガラテイアを愛するキュクロープスのポリュペーモス(一つ目の巨人)を描いた、オディロン・ルドンの絵である。
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参考写真はIsaac-Israelsイサーク・イスラエルス(オランダ印象派)、The Waitress ウェイトレス(1915年)
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クレラー・ミュラー美術館見学の帰り道、こちらのWasserburg Anholt Parkhotelアンホルト城(水城である古城ホテル アンホルト パークホテル)を訪ねた。
写真は1982.05.30.Kröller-Müller_Museum:フィンセント・ファン・ゴッホ『疲れ果てて:永遠の入口で』(1881年)、Schloss Anholt アンホルト城の冊子 -
【Wasserburg Anholt Parkhotelアンホルト城(水城である古城ホテル アンホルト パークホテル)】
D-46419 Isselburg-Anholt 、Klever Strasse
http://www.schloss-anholt.de/
4星・全31室。オランダの国境近く、ライン川が蛇行し地域の湖沼には水城が多く築かれたが、この古城ホテル・レストランも掘割に囲まれた水城である。
いかにもオランダを感じさせる白い跳ね橋を渡り、城の城門を入ると、中庭になる。
正方形の中庭の回りに秩序よく建てられた水の城は12~17世紀に築城・増築され、17世紀以降、オランダ・バロック様式に改築されている。
本館にくっついている“Dicke Turm太っちょの塔”は最も古く、12世紀のものだそうだ。1968年から右手の建物を古城ホテル・レストランとして、開業する。
この門の右手に18Hのゴルフ場も備えていて、デュッセルドルフの日本人たちも結構利用しているようだ。
私自身はゴルフ下手なので、かつて一度も利用した事が無い。
参考写真は2006.5.08.-2Anholt城・Map① -
イチオシ
先の娘達に買ってやったバイエルンの民族衣装ディルンドルクライドもクレラー・ミュラー美術館やアンホルト城の写真を見ると、少々小さくなってしまった。
18世紀のオランタ式幾何学模様庭園にはオランダ風の白い跳ね橋もあり、水城の周囲の手入れの行き届いた大庭園は美しい。庭園の周辺はもう森で、なんとも言えぬ良い環境にある。
写真は1982.05.30.Schloss Anholtアンホルト城:庭園の散策 -
イチオシ
ホテル棟の横に張り出したテラスレストランも御客でいっぱいで、皆さんお茶をしている。
私共は久しぶりに庭園(ホテル宿泊客以外は有料)の散策に出てみた。
白鳥、鴨の親子が泳ぐ様子や、庭園の高々とした木々の緑を見ながら、ゆっくりした時間をもつことができた。
写真は1982.05.30.Schloss Anholtアンホルト城:庭園の散策 -
堀に突き出した形で、半円形の立派なレストランWasserpavillonヴァッサーパビリオンが浮かんでいます。
主にドイツ料理、地中海料理を提供するレストランで、城内にあるメインレストランはフランス料理、イタリア料理が主体である。
写真は2013.10.20.アンホルト城:レストラン ヴァッサーパビリオン -
<アンホルト城の歴史>
ここはオランダに近いためにその昔はオランダ・Utrechtユトレヒトの教区に属していた。
城の起源は1169年、ユトレヒト司教領主治下のHerr von Sulenズレンの騎士領主により築城された。
1380年、ズレンの騎士領主は男系が無く、アンホルト城を失い、Herberga von Sulenヘルベルガ・ズレンの夫Hermann III. von Gemenゲーメン家のヘルマン3世が城主になった。所がこの夫婦も男系の相続人がいなかったので、1402年、ゲーメン家のMargaretha von Gemenマルガレーテと結婚したGysbert von Bronkhorst-Batenburgギスベルト・ブロンクホルスト・バテンブルクがアンホルト城を治めることになった。
1431年にはKaiser Sigismund皇帝ジギスムントにより、ブロンクホルスト・バテンブルク家は正式にアンホルトの領地を認められた。
参考写真は2013.10.20.アンホルト城:ホテルのお客は無料で、観光客は有料でバロック庭園の散策も出来る。 -
15~17世紀にかけて、Herzogtum Kleveクレーフェ公国とHerzogtum Geldernゲルデルン公国の争い、八十年戦争(オランダの対スペイン独立戦争:1568~1648年)が起こると、アンホルト城も巻き込まれ、25年の間、ゲルデルン公国が治下に置いた。1531年、公国の縁戚だったDietrich IIIディートリヒ3世がアンホルト城の支配権を認められ、Dietrich IVディートリヒ4世が亡くなると、皇帝は伯爵に叙任している。
1647年、彼の娘Maria-Annaマリア・アンナはReichsgrafen Leopold Philipp Carl zu Salm, Wild- und Rheingraf帝国伯レオポルト・フィリップ・カール・ザレム及びヴィルト・ライン伯にアンホルト城を譲渡した。
1743年、Nikolaus Leopoldニコラウス・レオポルトは ザレム公の称号を得た。
1810年、ウィーン会議でザレム公国は未承認となり、領土はプロイセンのものになった。
但し、アンホルト城はザレム公の居城として、認められた。
参考写真は2013.10.20.アンホルト城:西側から見ると、左の本館にくっついている“Dicke Turm太っちょの塔”が目立つ。 -
第二次大戦では二度も爆撃を受け、70%が戦禍を被ったが、1945年以降、Fuersten Nikolaus Leopold zu Salm-Salmニコラウス・レオポルド・ザレム公爵によって再建された。
1968年、アンホルト城は古城ホテルをオープンしたが、その当時からHeinz Bruneハインツ・ブルーネがホテルの経営に携わっていたが、その後もザレム家の借地人ながら、ホテル・レストラン営業を継承した。
現在もザレム公爵家が城主・所有者として、この城に住んでいる。
参考写真は2013.10.20.アンホルト城:南側から、ホテル棟である別館がある。 -
このホテルにはオランダへの旅の途中で宿泊し、或いは週末のドライブで、ゴッホのクレラー・ミュラー美術館(Arnheimアーネム)の往復の際に、何度か立ち寄った所である。
私のお気に入りの古城ホテルと言って良い。
中庭に入ると左手に見えるのが城の本館で、現在は博物館になっている。
12~4世紀に建てられている。
宮殿内装ではオークの大きな階段が特に目を引き、先祖の肖像画が並ぶ廊下がある騎士の間、フランドル地方のタペストリーで飾られた祝宴の間、17、8世紀の日本や中国の陶磁器コレクション、16、7世紀のオランダ(レンブラント)、ドイツ(ホルバイン)、イタリア、スペインの巨匠たちの絵画700が展示されている。
開館:ガイド付き11~16時。
http://www.fuerst-salm.de/
写真は2013.10.20.アンホルト城:公爵様の住む本館であり、たまに中央門内から出て来た大型のメルセデスに出会わすことがある。
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1970年代の駐在時、ベルヒテスガーデン近くのKönigssee王の湖の店で、家内や娘たちにディルンドルクライドを買ってあげた。
当時、夏の休暇旅行に喜んで着ていましたが、今、家内は着られない体型に^^、娘たちのものはもう孫娘に下げ渡されたようです。
ディルンドルクライドは確かに良い品は値段も高い。それでも、あの高い日本の着物からすれば、まだまだ安い。ドイツの方が民族衣装として、ハレの日に着飾るものとしては素晴らしく、一番のものと思う。
以下はおまけ:
【Dirndlkleidディルンドルクライド】
Mittenwald ミッテンヴァルト:2008年4月20日(日)
オーストリアとの国境近くに位置する、人口7千人の町。
昔よりアルプス越えのルートの一つであり、ドイツ・アルペン街道の近くにある。標高は約900m。17世紀よりバイオリン生産が盛んである。
約15kmキロ北西にガルミッシュ・パルテンキルヒェン、20kmキロ南東にインスブルック(ただし直線距離)、45km北西にフュッセンが位置している。
ミッテンヴァルトの市街を散策すると、バイエルン独特の民族衣装“Trachtenトラヒテン”のお店があり、素敵な色合いの衣装が飾られているのが見えた。
Dirndlkleidディルンドルクライドと呼ばれる、白い提灯袖のブラウスと可愛いジャンバースカート、カラフルなエプロン、そして好みのスカーフを組み合わせた姿はとても品よく、美しい。
昔ながらの民族衣装もあれば、今風というか少し変ったデザインの物もある。
日本の着物も色合いは変化してきたようだが。
バイエルンの人たちが祭りや結婚式といったハレの日に、これを着て出る気持ちはよくわかる。
写真は2008年4月ミッテンヴァルトのDirndlkleidディルンドルクライドを飾っていたお店で。右から2つ目がお気に入り。 -
写真は2008年4月、南ドイツ・Berchtesgadenベルヒテスガーデンに近いRamsauラムザウの巡礼教会前で、ディルンドルクライドを着飾ったご婦人(教会横のレストランで結婚披露宴に出席されたと云う)にお願いして撮らせていただいた。
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写真は2008年4月Ramsauラムザウの巡礼教会傍:民族衣装で着飾った*御一家(教会横のレストランで結婚披露宴に出席されたと云う)が木橋を渡ってこちら側に来られたので、お願いして撮らせていただいた。
*ラムザウ川に架かる木橋を渡って、川堤から様々な光景を撮っていると、木橋を渡って、数人のグループがやってきた。婚礼帰りのグループはお爺さんを中心に家族、親せき一同といったところだ。
帽子や上着のグリーンの縁取りが品良いアクセントになっている衣装で、皆さん快く、そろって並んでくれました。
家内も一緒にポーズです。小学生ぐらいの女の子は一人娘で、はにかみ屋のようです。お母さんの後に隠れてしまい、さてどうなるかと思っていたら、シャッターを押す瞬間にお母さんの前に顔を出してくれました。 -
写真は2008年4月“Herzogstüberl 公爵の間”で若い女性のスタッフと一緒に。
(1泊) ⑬ Romantik Hotel Fürstenhof
D-84034 Landshut 、Stethaimerstr.3
全24室・?星、203号室(3階) Euro 110
http://www.fuerstenhof.la
バイエルンで最も美しいゴシックの町LandshutランツフートにあるRomantik Hotel Fürstenhofにはミシュラン1つ星のレストラン“Fürstenzimmer領主の間”( Jugendstilユーゲント・シュティール )があり、旅の最後の日に相応しいホテルである。
レストランは日曜と、月曜日の昼が休みなので、火曜日に宿泊・食事ができるように行程をわざわざ調整した。それに応えるだけのホテルでした。ミュンヘン空港まで30分、凡そ42kmとパンフレットにあった。
若く、才能あるオーナーシェフ夫妻がこのホテルにかける意気込みと美意識が隅々まで感じられたホテルだった。宿泊した203号室は3階の右手奥まった部屋で、Jugendstilユーゲント・シュティールと思われる装いが見える。
室内の設備、家具なども室料金に比して、大変立派だ。
・・・・・ -
写真は2019年10月Gelnhausen*ゲルンハウゼンの民族衣装のお店で。
*ゲルンハウゼンはヘッセン州南東部のマイン・キンツィヒ郡の郡庁所在都市である。人口23千人の町はフランクフルト・アム・マインとフルダとのほぼ中間に位置している。
初めて訪れるゲルンハウゼンは以前から名前は知っていたが、いつも通過してしまう町だった。この古い帝国都市は楕円形した旧市街を保ち、UntermarktウンターマルクトおよびObermarktオーバーマルクトに町の中心がある。
特に5つの現存する楼門(Inneres Holztorインネレス・ホルツ門1220年、Ziegeltorレンガ門、Schifftor船の門、Haintorハインの門、Haitzer Torハイツァー門)は古い城塞都市という中世の姿を留めている。
ゲルンハウゼンの創設は1170年にKaiser Friedrich I. genannt Barbarossa皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサの名でドイツ人に人気が高い王)によってなされた。Kaiserpfalzカイザープファルツ神聖ローマ皇帝の宮殿跡が残っている。
現在、「Barbarossastadtバルバロッサシュタット」(赤髭王・バルバロッサの町)という言い方をする。(尚、テューリンゲン州のAltenburgアルテンブルクも(バルバロッサの町)を名乗っているそうだ)
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(2025年04月05日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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