1984/07/08 - 1984/07/08
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jijidarumaさん
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【デュッセルドルフ近郊の小旅行:④KaiserswerthカイザースヴェルトのSchützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)に出会った。】
ドイツでは6月から8月頃までにかけて、全国各地でSchützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)という伝統的な祭りが開かれる。
7月8日、Kaiserswerthカイザースヴェルトの射撃祭が開かれていて、運よく射撃祭を見物する事が出来た。
St. Sebastianus Bruderschaft Kaiserswerth 1285 e.V.
聖セバスティアヌス カトリックの兄弟会カイザースヴェルト 創立1285年
ドイツの町の夏の風物詩といえば射撃祭で、1862年から始まった歴史があると云う。
射撃祭は各地のSchützenvereinシュッツェンフェライン(射撃協会)が主催し、伝統あるユニフォームを着こんだ射撃隊が、音楽隊と共に行進する行事である。
その射撃協会は中世に設立された射撃隊に由来すると云う。ドイツは歴史的に中央集権国家ではなく、諸候や帝国都市が独立して統治していた地方分権だったので、中世の時代より自分たちの地域は自分達で守るという習わしがある。射撃祭の始まる以前から長い歴史を持っていることになる。
元来、それぞれの町が自分たちで自分たちの町を守るべく、いわゆる自治の精神で市民たちが防衛隊=射撃隊を組織したのである。
写真はKaiserswerthカイザースヴェルトには皇帝Friedrich I.フリードリッヒ1世(赤髭王バルバロッサ)の居城跡あり、この日、Schützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)が行われていた。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 船
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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この日、娘達の夏休み(6月28日~8月12日)も11日目に入りました。
7月20日から多分最後の夏の休暇旅行(15日間)が始まる。
ライン川の市内観光クルーズの船で目的地のKaiserswerthカイザースヴェルト(Düsseldorfer Stadtbezirk 5)を訪れた。
天気に恵まれて、気持ち良い船旅でした。
ライン川畔は日光浴、川遊び、散歩の人達でにぎわっていました。
カイザースヴェルトに着くと、思いがけないシュッツェンフェスト(射撃祭)が行われていて、楽しい半日を過ごすことになりました。
写真はこの日の覚えをスキャンした。 -
ライン川の市内観光クルーズはデュッセルドルフ(744kmの地点)からKD Deutsche Rheinschiffahrt GmbHの船に乗船し(住所:旧市街Altstadt (アルトシュタット) のBurgplatzブルク広場前の港)、ライン川をカイザースヴェルト(755kmの地点)まで11kmの距離を下ります。
運賃は大人往復DM6、子供はDM3で合計DM18でした。
現在も旧市街の船着場を出発して、ラインタワーや旧市街アルトシュタット、デュッセルドルフのやや北方にあるカイザースヴェルトという町や展示会場を川の上から1時間ほど眺めて周遊するコースがある。
ライン川の船着場で乗船したが、ちょっとした船旅ですから船も小さなものです。
船内から対岸の日本人学校があるOberkasselオーバーカッセルや、Lörickレーリック、Meerbuschメアーブッシュなどの地区の景色を眺めながら進みます。
因みに“父なるDer Rheinライン川”は全長1,320kmに及び、古くから交通の要所でした。「中ライン川」流域の都市コブレンツはラインの源泉から半分近い591km、ドイツ第一の商業都市のデュッセルドルフは743kmの距離にある。
ここから282kmさらに流れて行き、オランダのロッテルダムの先で、通称“オランダの角”で北海に注ぎ込んでいく。
写真はデュッセルドルフからカイザースヴェルトまでの船旅・・・右上から時計回りで乗船(後ろに船舶博物館が見える)、デュッセルドルフのRheinstadionラインスタジアムの建物が見える、カイザースヴェルトの船着場に到着、KD Deutsche Rheinschiffahrt GmbHの船内。ブルクプラッツ 建造物
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写真はデュッセルドルフからカイザースヴェルトまでの船旅でKD Deutsche Rheinschiffahrt GmbHの船に乗船(後ろに船舶博物館が見える)
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参考写真はKD Deutsche Rheinschiffahrt GmbHの船・・・正式名はDie Köln-Düsseldorfer Deutsche Rheinschiffahrt GmbHで短縮名を KDケーディーと称する。
1853年ケルン<=>デュッセルドルフ間で、ライン川蒸気汽船の就航を始めた。(写真は現在の船MS RheinPoesie:運行期間は『3月30日~10月20日』) -
ドイツの西部に位置するNordrhein-Westfalenノルトライン・ヴェストファーレン州の州都デュッセルドルフ市、その北部の町であるカイザースヴェルトという小さな地区(人口8,000人)がある。
この町はライン川の東岸の町、中世よりライン川を航行する船の通行税を徴収した要所であり、また皇帝赤髭王の居住城跡が残っている。
日本企業がデュッセルドルフ市に進出したのは1950年代からで、1964年に日本人クラブ、1965年に総領事館、1966年に日本商工会議所、1971年に日本人学校が設立された。以来、この市を拠点とする日本企業(商社、金融、鉄鋼・機会メーカーなど)は続々と増えた。
最初の頃の駐在員は大変だったろう。私の3代前の先輩社員などはドイツの法律(例えば、多くの日本企業が有限会社形態をとっていたため、有限会社法を日本語に訳した)を訳していたほどである。
私の頃、1970年代、80年代と日本人駐在員とその家族はさらに増えて、当時のデュッセルドルフ市の人口の1%6,000人になっていたと云われている。
とりわけ日本企業が軒を連ねるImmermannstraßeイマーマン通り(ドイツの作家カール・イマーマンの名を冠した)は「ドイツの(ラインの)小さな東京」と呼ばれるほど、その存在感がある。
2016年の統計では、NRW州で日本企業は約600企業あり、そのうち380ほどの日本企業がデュッセルドルフ市にあり、日本企業からの税収(駐在員の所得税を含めて)だけをとっても、経済面でも大きな寄与となっている。
2020年代には8,400人以上の日本人がデュッセルドルフに住んでいると云う。
参考写真はKaiserswerth Rheinuferカイザースヴェルトのライン川畔と船着場。 -
ここにはラインの対岸の村Langst-Kierstラングスト・キールスト(人口1000人)間のRheinfähreフェリーがある。
写真はカイザースヴェルトのラインの船着場で、乗ってきた船が戻って行きます。 -
カイザースヴェルトは1929年にデュッセルドルフ市に編入されてからはこのカイザースヴェルト地域がデュッセルドルフで最も古く、最北端に位置している。
因みにKaiserswerthの名の謂れを書くと、中世の高地ドイツ語で、werthはInselインゼル(島の意味)であり、「Kaiserinsel bzw. Insel des Kaisers.皇帝の島」となる。その頃はカイザースヴェルトはライン川の中州=島であったのだろう。
「赤ひげ王」フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)がカイザースヴェルトに城塞を築いたから、そう呼ばれたのだろう。
最も古い部分は 8 世紀のものだと云うので、700年頃にはすでにここに要塞が造られていた事になる。その後1050年頃に「Kaiserpfalzカイザープファルツ(皇帝の居城)」が建てられた。居城には主に支配者とその側近の一時的な住居として使用された。
Hohenstaufenホーエンシュタウフェン朝Friedrich I., フリードリヒ1世( Barbarossaバルバロッサ)は、1174年にラインの通行料徴収権をオランダの都市Tielティールからカイザースヴェルトに移した。この事で新しい帝国の城として建設されカイザースヴェルトはその全盛期を迎えた。
現在残っている遺跡はこの時のホーエンシュタウフェン朝帝国のものになる。
何度か攻城され、その都度再建されたが、最終的には*スペイン継承戦争(1701~14年)の過程で、カイザースヴェルトは1702年に廃墟となった。
*カイザープファルツは、15世紀半ばからケルン大司教の所有となり、 1689年と1702年のスペイン継承戦争の間、カイザープファルツは2度フランス軍の手に落ちた。カイザープファルツは占領の過程でひどい損傷を受け、プファルツ選帝侯Johann Wilhelmヨハン・ヴィルヘルム(1658~1716年)は、再び仏軍に占領されることを恐れて、城を爆破している。
その後、廃城は都市の建設のため、石材の採石場として利用された。
ドイツの歴史的建造物の復古修復の機運が高まり、カイザープファルツも1899~1908年に考古学的発掘と部分的な再建作業が行われた。
1933~1945年にカイザープファルツは歴史記念碑になり、現在も修理は続けられていると云う。
写真はカイザースヴェルトのRuine der Kaiserpfalzカイザープファルツ(皇帝の居城)の遺跡 -
「Kaiserpfalzカイザープファルツ(皇帝の居城)」の遺跡は12世紀に「赤ひげ王」フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)により、ライン川の*通行税を徴収する、いわゆる税関がここに移された歴史が残る。
*ライン下りの際に見かける、ライン渓谷中流上部Kaubカウプに今も残るPfalzgrafensteinプファルツ城もまた同じ役目を果たしたものだが、平らな岩島上(中州)に1326年にルートヴィヒ4世(神聖ローマ皇帝)によって築かれたものだ。軍艦を模して造られた城の姿は独特である。
参考写真はDie_deutschen_Kaiser_Friedrich_I神聖ローマ皇帝リードリヒ1世(「赤ひげ王」1152~1190年)の絵 -
参考写真は「Kaiserpfalzカイザープファルツ(皇帝の居城)」の 縄張り図(4.81 km?)
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参考写真はカイザースヴェルト(Merianメリアン作1646年)
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<Belagerung_Kaiserswerthカイザースヴェルトの攻城戦_1702年>
スペイン継承戦争(1701~14年)の過程で、*カイザースヴェルトの攻城戦(1702年4月18日 ~ 6月15日)が行われ、この戦いでカイザースヴェルトは廃墟となった。
*カイザースヴェルト攻城戦(包囲戦)はスペイン継承戦争中の1702年4月18日から6月15日まで行われた攻城戦である。
神聖ローマ帝国元帥のナッサウ・ウジンゲン侯ヴァルラト率いる、総勢3万8千人と大砲120門を有するプロイセンとオランダの同盟軍はニーダーライン地方にあるカイザースヴェルトの要塞を攻城、占領した。
カイザースヴェルトはブルボン朝側のフランス王国軍(兵5千人、大砲30門)が前年に抵抗も受けずに占領していたが、パプスブルク朝側のスペイン王国と同盟したオランダ共和国軍は要塞の奪還を(同じくフランスに占領されていた)スペイン領ネーデルラントへの進軍よりも重要視した。
オランダ共和国軍はプロイセン王国軍と共同してカイザースヴェルト奪回すべく、攻撃し、2ヶ月の攻城戦が行われた。
この戦いの結果、パプスブルク朝側の同盟軍は6月9日だけで死傷者2,800人(うち2,101人はオランダ軍)を出しながらも勝利した。
参考写真はBelagerung_Kaiserswerthカイザースヴェルトの攻城戦_1702年 -
参考写真はカイザースヴェルトのRuine der Kaiserpfalzカイザープファルツ(皇帝の居城)の遺跡・・・厚い壁、丸いアーチ、頑丈な柱で特徴づけられるロマネスク様式の建築を持ち、現存している壁の部分は厚さが 4.5 m だという。その事からもかつての居城が壮大な建造物であったことが分かる。
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参考写真はカイザースヴェルトのRuine der Kaiserpfalzカイザープファルツ(皇帝の居城)の遺跡
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参考写真はカイザースヴェルトのRuine der Kaiserpfalzカイザープファルツ(皇帝の居城)の遺跡
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参考写真はカイザースヴェルトのRuine der Kaiserpfalzカイザープファルツ(皇帝の居城)の遺跡の絵画作品(1852年)・・・Johann Poppel ヨハン・ポッペル(1807~1882年)はドイツの風景画家
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参考写真はCarl_Schmitz-Pleisカール・シュミッツ・プライス(1877~1943年)作:Boote auf einem Fluss 川のボート1920年(カイザースヴェルトの景色を描いたもの)・・・プライスはドイツの画家で風景画、静物画、人物画を描いた。Kunstakademie Düsseldorfデュッセルドルフ美術アカデミー出身の画家で、主にデュッセルドルフで活動した。
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参考写真はBundesarchiv_Bild_195-0952,_Rheinbefliegung,_Kaiserswerth(1953年カイザースヴェルトの航空写真)
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イチオシ
カイザースヴェルトに着くとまず、皇帝Friedrich I.フリードリッヒ1世(ドイツ人の人気が高い赤髭王バルバロッサ)の居城跡に赴いた。
今は小さな廃墟跡であるが、かつては大きな縄張りを持つ城塞都市であったと云う。
レンガ作りの城壁に立って、ライン川や対岸にあるLangst-Kierstラングスト・キールストのキャンプ場をバックに娘達を撮った。もうセピア色になってもおかしくないが、スキャンした写真は予想以上にきれいな色合いだ。
何やら群衆が並らぶ、音楽が聞こえてくる方向に進んだ。
初めて見るSchützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)に出会う事となった。
シュッツェンフェスト(射撃祭)の晴れやかな、賑やかな行列を待った。
写真はKaiserswerthカイザースヴェルト・・・左上から時計回りで皇帝Friedrich I.フリードリッヒ1世の居城跡、ライン川畔のキャンプ場をバックに、大勢の人達が道の両側に立ちSchützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)の開始、乗馬姿とそれぞれのチームが伝統の旗を掲げて行進する。 -
【Schützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)】
このお祭りはSchüzenvereinシュッツェンフェライン(射撃協会)やSchützenbruderschaftenシュッツェンブリューダーシャフテン(射撃兄弟団=兄弟会)により構成され、年に一度射撃コンテストが開催される。射撃コンテストでは主に木製の鷲を標的にして射撃し、誰が一番上手かを競い合い名手を選びます。
この射撃コンテストで勝ち抜いた一番の名手はSchützenkönigシュッツェンケーニッヒ(射撃王)に任命され、シュッツェンフェストの代表として射撃女王と一緒に一年間活躍することになります。
まず Schüztenköningシュッツェンケーニッヒ(射撃王)はキリスト教信者であるということ、そしてお祭りの時に自宅をお城のように装飾して開放し、参加者を全員招待するということが条件になっているのだとか?!
参考写真はSt. Sebastianus Bruderschaft Kaiserswerth 1285 e.V.聖セバスティアヌス カトリックの兄弟会カイザースヴェルト 創立1285年のHP:カイザースヴェルトの射撃祭の代表者たち -
参考写真はSt. Sebastianus Bruderschaft Kaiserswerth 1285 e.V.*聖セバスティアヌス カトリックの兄弟会カイザースヴェルト 創立1285年のHP:2025年カイザースヴェルトのSchützen_Heimatfest(射撃祭・郷土祭)の日程は7月4日~6日の3日間である。
*聖セバスティアヌス (伝承による没月日287年)は、キリスト教(正教会・非カルケドン派・カトリック教会)の聖人・殉教者(致命者)。
3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殺害されたと云われた。彼は美術や文学で、柱に身を縛り付けられ、矢を射られた姿で描かれることが多い。 -
写真はカイザースヴェルトの射撃祭:大勢の人達が道の両側に立ち、Schützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)が開始された。祭りに主役たちSchützenkönigシュッツェンケーニッヒ(射撃王)と射撃女王が先頭に立っている。
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主役たちSchützenkönigシュッツェンケーニッヒ(射撃王)と射撃女王が先頭に進んだ後に、Zugツークと呼ばれるパレードが行われる。
鼓笛隊が先頭となり町中の人にパレードが来たことを知らせながら、子供達、Dirndel(ディルンドル若しくはディアンドル)などの民族衣装をまとった女性と共に、緑、青、赤色などの格調あるコスチュームを着た男性群が行進をはじめる。
手には、射撃協会の旗をかかげたり、巨大な花束をもったり、木製の銃をもったりと・・・。
射撃隊には伯、公、将校などの役職もあるとか、それぞれの役になりきりながら威厳をもって彼らは行進する。
写真はカイザースヴェルトの射撃祭:乗馬姿とそれぞれのチームが伝統の旗を掲げて行進する。 -
イチオシ
少年隊や旗を掲げた一団が続く行進を見ていると、突然!隣人のFrau Buchtaブーフタ夫人に肩をたたかれてビックリした。
この日、市電に一人で乗ってやってきたと言っていたブーフタ夫人はKirmesキルメス(夏のお祭り:移動遊園地)でピンクの小熊が当たったとかで、嬉しそうにしていた。
彼女はドイツ鉄鋼エーカーのクルップに務めるご主人と二人きりだったが。第二次大戦後、ポーランドからのドイツ人引き揚げ者の一人でご苦労されたようだったが、ブーフタ家の応接間などの美しさは見事なものだった。数年で帰国する日本人駐在員たちの住居はやはり一時しのぎの生活で、彼らの美意識で満ちた住居にはとてもかなわないと感じたものだ。
ぶっきら棒のブーフタ氏に比べて、奥様は日本人には実に親切で、なにくれとなく家内達はお世話になったものだ。
写真はカイザースヴェルトのSchützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)・・・左上から時計回りで隣人のFrau Buchtaブーフタ夫人と家族、少年隊も一応銃らしきものを担いで行進、ニコヤカなブーフタ夫人と家族、また旗を掲げて一団がやって来た。 -
尚、追記すれば、ポーランド系ドイツ人、つまりポーランドからのドイツ人引き揚げ者は大変苦労して、経済発展をしているルール工業地帯や商業の中心地デュッセルドルフ地域に集中して生活拠点を求めた。
私の友人や同僚の中にも引き揚げ者だった方がいた。
引き揚げ者ではないが、ポーランド系ドイツ人の代表的成功者であるドイツの最初の女性首相Angela Merkelアンゲラ・メルケル氏がいる。東西ドイツの統一(1990年)を成し遂げたHelmut Kohlヘルムート・コール第6代連邦首相(1930年~2017年:首相在任16年はビスマルク以来の在任記録)の子飼いであったため、あだ名「Kohls Mädchenコールのお嬢さん」、それにかけて「Eisernes Mädchen鉄のお嬢さん」とも呼ばれた。
写真はカイザースヴェルトの射撃祭:隣人のFrau Buchtaブーフタ夫人に肩をたたかれビックリした。 -
写真はカイザースヴェルトの射撃祭:少年隊も一応銃らしきものを担いで行進している。
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写真はカイザースヴェルトの射撃祭:また旗を掲げて一団がやって来た。
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イチオシ
また子供達のためにKirmesキルメス(夏のお祭り:移動遊園地)もある。
メリーゴーランドやゴーカートなどのようなものからグルグル目が回るスリリングな乗り物、Bratwurstブラートブルスト(焼きソーセージ)やReibekuchenライベクーヘン(ジャガイモのパンケーキ)などの屋台もでて、楽しいものだ。
・・・・・
写真はカイザースヴェルトの射撃祭:キルメスで手に入れたピンクの小熊さんを持って、ニコヤカなブーフタ夫人と家族を一緒に撮る。 -
メイン通りを行進する参加者たちは、この暑い日に帽子をかぶり盛装した姿で行進し、重そうな旗を掲げる方は肩に担ぐようになっている。
この日、オランダの近隣都市からの親善参加もあって、白い帽子、茶色の制服でそろえた楽団の行進、女性たちが揃って羽根飾りを付けた帽子に白と茶の制服で行進した姿は人気もあって、華やかなものだった。
写真はカイザースヴェルトのSchützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)・・・左上から時計回りで、この暑い日に帽子をかぶり盛装した姿の行進、重そうな旗を掲げ、オランダからの賛助出演である女性陣。 -
写真はカイザースヴェルトの射撃祭:この暑い日に帽子をかぶり盛装した姿で行う行進は辛いだろう。
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写真はカイザースヴェルトの射撃祭:こちらは重そうな旗を肩で担いでいるぞ!
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写真はカイザースヴェルトの射撃祭:オランダからの賛助出演である女性たち。
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イチオシ
シュッツェンフェスト(射撃祭)の行進もフィナーレを迎えようとしている。
人気があるのだろう、群衆からも声や拍手がおくられている。
登場したのはオランダからの賛助出演である白い帽子、茶色の制服でそろえた楽団の行進があり、こちらはドイツだろうか、頭上にコップ洗いの様な刷毛(ハケ)をつけた帽子に、白いエプロン姿の一団が行進してきた。なかなか色鮮やかで美しいユニフォームだ。
最後にシュッツェンフェスト(射撃祭)の女王様だろうか?!二頭立ての馬車に乗ってやってきた。
写真はカイザースヴェルトのSchützenfestシュッツェンフェスト(射撃祭)・・・左上から時計回りで、頭上にコップ洗いの様な刷毛を帽子に白いエプロン姿の一団、オランダからの賛助出演である白い帽子、茶色の制服でそろえた楽団の行進、
射撃祭の女王様だろうか?!二頭立ての馬車に乗って登場した。 -
写真はカイザースヴェルトの射撃祭:オランダからの賛助出演である白い帽子、茶色の制服でそろえた楽団の行進もにぎやかだ。
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写真はカイザースヴェルトの射撃祭:頭上にコップ洗いの様な刷毛を帽子に白いエプロン姿の一団が面白い。
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写真はカイザースヴェルトの射撃祭:射撃祭の女王様だろうか?!二頭立ての馬車に乗って登場した。
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写真はカイザースヴェルトの射撃祭:射撃祭の女王様だろうか?!二頭立ての馬車に乗って登場した。
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シュッツェンフェスト(射撃祭)も終わり、市電で帰ると言うブーフタ夫人と別れた。
途中、会食した事は無いが、この地区では知られたフランス料理のレストラン イム・シフヒェン前で家族の写真を撮ってから、KD Deutsche Rheinschiffahrt GmbHの船着場に戻った。
*Restaurant Im Schiffchenレストラン イム・シフヒェン
D-40489 Düsseldorf、
Kaiserswerther Markt 9、,
駐在当時、ミシュランの星などは全く話題になっていない、中級のフランス料理店だったが、2025年の評価はミシュラン1星(Jean-Claude Bourgueil)である。
美しい路地や歴史的な町並みで知られるカイザースヴェルト地区にある、かつてはミシュラン3星を獲っていた高級フランス料理レストランに変貌していた。
町のメイン通りであるカイザースヴェルター・マルクト通り9番地にある。
調べてみると、2005年当時は3星、2014年で2星だった歴史がある。
写真は左上から時計回りで、レストラン イム・シフヒェンの建物、船着場のレンガの壁にはめ込まれた銅版画(かつてのカイザースヴェルトの繁栄を描いたものだろう)、近所の並木道にあったLindenbaum リンデンバウム(菩提樹)の小さな花、Eicheアイヒェ(樫の木)の小型のギザギザの花にはドングリの小さな実がなっている。 -
写真はかつてのレストラン Im Schiffchenイム・シフヒェンの紹介・・・デュッセルドルフおよび近郊のレストラン案内書に中級レストラン、フランス料理と魚料理、座席数25とある。
・・・・・・・・・・・
以下はご参考に:
<2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅>
この旅で、初めてカイザースヴェルト地区のホテルに1泊した。
⑬10月26日(水)~10月27日(木):1泊
≪Hotel MutterHaus Düsseldorf
旧僧院ホテル ムッターハウス デュッセルドルフ≫
D-40489 Düsseldorf 、Geschwister-Aufricht-Strasse 1
(Kaiserswerth ; ehem. Alte Landstrasse 179)
Tel:+49(0)211-61727-0
https://www.hotel-mutterhaus.de/
4星・全55室。3階DZ・No.218(クラシックとうたっていたがシンプルで機能的な部屋:予約に書かれていた27㎡よりもずっと広いと思った)・Euro144(朝食込み=16,811円)。
ホテル ムッターハウスは1903年開業のHotel Garni(朝食のみのホテル)でデュッセルドルフのカイザースヴェルト地区、デュッセルドルフ空港からわずか5km(車で10分)に位置する。
ムッターハウスの300m先にある市電Klemensplatzクレメンス広場駅から、メッセ・デュッセルドルフ会場まで10分以内でアクセスできるので便利なホテルである。
水(ガス入り)0.375L 2本、コーヒー、ココア、紅茶のサービスはあったが、浴用ガウン、スリッパは無い。
古めかしい外観とは異なり、たいへんモダンなホテルである。
また、思っていた以上に部屋は明るく、広い。浴室の機能も十分なもので、宿泊客も多いようだった。
空港が近いという利点から、機会あればまた利用しても良いと思えた。
・・・・・・・・・・ -
参考に追記すると:
<Schützenfest-Hannoverハノーファー射撃祭>
約600年以上の伝統を持つ世界最大の射撃祭。当地に75ある射撃クラブのメンバーによるパレードは欧州でも最大級で、毎年150万人もの人々がこの祭りを訪れている。老若男女が楽しめる夏の一大祭りとなっている。
<Neusser Bürger-Schützenfestノイス市民射撃祭>
ドイツのライン川畔の都市ノイスで毎年8月の最週末に開催される射撃祭である。
7,700人以上の射撃兵(Schütze, 射撃協会加盟者)と音楽隊(約1,600人)が行進する。規模ではハノーファーの射撃祭には及ばないものの、単一の射撃協会が組織し、他都市からの応援部隊がない射撃祭としては世界最大である。
射撃祭では射撃王閲兵行進 (Königsparade)、射撃王決定戦 (Königsschießen)、その他の付随行事が行われる。
ノイスの地域社会に加え、周辺地域で最大の催事であり、最大100万人もの見物客が集う。見物客数の最高記録は2007年の150万人である。
参考写真は最初の駐在(1974~79年)で住んだ街デュッセルドルフ市の南にあるBilkビルクの射撃祭のシンボル旗・・・長い期間住んだ割に、ご当地の射撃祭(6月開催)は見ていない。 -
参考写真はかつて住んだ街デュッセルドルフ市の南にあるBilkビルクの射撃祭のシンボル旗を掲げた一団が教会前に集合している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
デュッセルドルフ近郊の小旅行も本編で4つ目になる。
4つの中ではカイザースヴェルトが一番近い場所だった。
(2025年08月23日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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旅行記グループ
デュッセルドルフ近郊の小旅行
この旅行記へのコメント (2)
-
- pedaruさん 2025/08/27 16:48:45
- 射撃王も楽ではない
- jijjdarumaさん こんにちは
カイザーズベルトの射撃祭は偶然の出会いですか?なんと運がいいのでしょう。
向こうの人なら神のお導きなどと、すべて神様のせいにしそうですが、我々日本人なら
普段の心がけがいいからだ、ということになります。
私など、心がけはまあまあだと思っているのですが、人より運が悪いのは、というか
要領がわるいのは普段の心がけでしょう、つまり学ぶ努力をしてないからでしょう。
射撃王になるのは名誉に違いないのですが、大勢の人を自宅に招き、酒、肴の饗応、
しかも飾り立てること。これも無理ですが、キリスト教徒であることも条件にはいるのですね。射撃が神の御心に沿っているかは疑問ですが、とにかく神様までひっぱりだしてのお祭りは盛大なことを予想させます。何処の国も祭り好きですね。
昔の写真をよみがえらせて立派な旅行記を創作するとは、感心します。魔法のようですね。題材がドイツですから様になるのですが、私の場合、長瀞や多摩川などではちょっと、スケールが小さすぎます。まあ、分相応ということばがありますから、こんど
やってみたいと思います。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2025/08/27 19:30:28
- Re: 射撃王も楽ではない
- pedaruさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
暑いですね!雷雨を期待していますが、今夜は柏近辺で降る予定があるものの、なかなか南に来てくれません。
暑い中のコメント、誠に申し訳ありません。
さて、私がドイツ大好き人間なので、ドイツの神さんも仏教徒にも幸運を与えたのでしょう。ほんと射撃祭は偶然の出会いでした。
(この頃、1985年1月に家族を先に帰国させる事としており、5月に私自身の帰国も予定していました。人事の帰国手形がきちんと期日通りに落ちたことも思えば、私の運をドイツの神さんも支えてくれたような^^)
とはいえ、ドイツの夏の風物詩といえば射撃祭といわれ、ドイツ好きと称しながら、私共も初めて見たのはちょっと情けないことですよ。
本編を書くにあたり、改めて射撃祭の歴史や仕組みを勉強させて頂きました。
日本でも夏の風物詩といえば、神社の祭りで、立派な神輿や山車が繰り出して人々は熱狂して楽しんでいますね。
苦労の後のビール、ワイン(酒)のふるまいを受けるのは、何処の国でも人々は楽しいものです。それにしても、太っ腹なドイツ人の射撃王(有力者)、多分軍歴のある方で、かつての領主だったら座り心地も良さそうです。
老い先短い?!者としては、古いアルバムの一頁からちょっとした小旅行記に仕立てるのも、家族史の一つになるかなと思っています。
(捨てられる運命のアルバムより、写真入りかつ逸話マジリの旅行記にすれば、きっと孫たちも興味をもってくれるかも・・・)
それではまた。
コメントに深謝です。
jijidaruma
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