2024/12/04 - 2024/12/04
4位(同エリア700件中)
たびたびさん
- たびたびさんTOP
- 旅行記842冊
- クチコミ41172件
- Q&A回答431件
- 6,811,085アクセス
- フォロワー687人
この旅行記スケジュールを元に
四日目の最終日は堺です。何度かそれなりに歩いたことがある堺ですが、さかい利晶の杜はなかなか訪ねる機会がなくて、課題になっていました。なんとなくいいものができたみたいだなあと気が付いてはいたのですが、調べてみるとオープンしたのは2015年3月。これに対して、前回、堺を歩いたのは2013年12月(https://4travel.jp/travelogue/10842199)と2014年3月(https://4travel.jp/travelogue/10887075)。堺は、仁徳天皇陵を中心とする古墳群と南蛮貿易で栄えた堺の名残りをまあまあ丁寧に訪ねて、ちょっと一服感がありましたからね。しばらくのブランクも自然なことでした。ただ、それでも気になっていたのはさかい利晶の杜。前回の旅以降にできたというのもありますが、南宗寺や妙國寺、山口家住宅とかを回っていても、堺の歴史と文化に触れるならここしかないよね!といった感じがあんまり湧いてこなかったし、むしろ、堺の栄光の時代があまりにも遠くなってしまったことの方が強く印象に残って、なんだか寂しい気持ちになったくらい。そこがずっと引っかかっていたんですね。やっぱり旅は新しい世界が広がるものにならないと面白くないです。
前置きが長くなりましたが、さかい利晶の杜は、その辺りのリベンジの機会を期待したいという気持ちかな。そこにまだ確認していなかったマイナースポットを加えて一日の旅としてみたのですが、さかい利晶の杜はやはりほぼ期待通り。主役の千利休と与謝野晶子がビッグネームというのもあるのでしょうが、それだけではなく二人を入り口にするとその先にいろんな世界が見えて来る。改めて、味わい深い二人なのかなと感じいりました。
まず、千利休であれば茶の湯。海外との交易を積極的に行っていた商人の町、堺が生んだスーパースターですが、その目指したものは堺の街の暮らしや利休に求められた役割が背景にあってのもの。「新しき作意」「市中の山居」「天下人と茶頭」とかのシンプルなワードもここで拝見するとそのひとつひとつがよく刺さります。
少し脱線するかもしれませんが、日本の伝統文化のほとんどは中国とか大陸をルーツにしているものです。独自の文化は数が少ないですが、私はその最たるものが茶の湯ではないかと思っていました。しかし、実はそうではないんですね。中国の唐代、陸羽によって著された茶経という書物があって、そこには既に単にお茶を飲むというだけではない茶道に至る精神性が説かれているのです。わび茶の祖は村田珠光ですが、そうした書物をたぶん読んでいたのではないかと思います。利休もそうだったとしてもおかしくはないですね。ただ、大事なのはその説くところを実際に自分のものとして深く共感し、形にできるかということ。そして、青は藍より出でて藍より青し。本家よりも一段と本質的で素晴らしい文化や思想が生まれたりして、日本の風土や日本人の強みは往々にしてそういうところなんですね。ちょっと横道にそれましたが、いずれにしても、「新しき作意」「市中の山居」「天下人と茶頭」ほかの解説は日本的な茶道の成り立ちに大きな示唆を与えてくれたように感じました。茶聖と称される茶人、千利休ですが、堺という基盤がなければとてもその高みには到達できていないのではないか。展示を拝見して、そう思えたのは大きな収穫だったと思います。
与謝野晶子は、明治から昭和初期にかけて長く活躍した女性作家。女性というのがどうしても前面に出てしまうのですが、私が今回感じたのは明治人の気骨かな。夫、与謝野鉄幹への深い愛情と交友の広さは、明確な意志があって、かつ、それを伝えようとする気持ちの強さが伴ったもの。
「ああ、弟よ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ。」「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。よく知られた晶子の代表的なフレーズですが、その主張は鮮やかで今でも力強いメッセージとしての輝きがある。明治の文壇の両巨頭は夏目漱石と森鴎外ですが、与謝野晶子もその熱量ではあんまり負けてはいないかもしれません。ただ、不思議なのはそうした鮮やかな個性は文壇に限らず、明治から大正、昭和と時代を経てあんまり見なくなっていくということ。もちろん戦争への足音が大きいとは思いますが、それでもですね。そして、現代は世の中が複雑になって、あちらを立てればこちらが立たずのことも少なくない。鮮やかな主張は敬遠されて、むしろ鬱積感がたまっているところもあるのですが、そうした中で触れる明治の香りは悪くない。ちなみに、私も尊敬する夏目漱石が今でも輝いているのは理由がないことではないと思います。
ちょっと過大解釈があるかもしれませんが、いずれにしてもさかい利晶の杜はいわば堺市の威信をかけたビジターセンター。悠々とした館内には、美しい展示や懇切丁寧な解説がふんだんにあってとてもいい。私のニーズにぴったり合った施設でした。堺の魅力も改めて理解が深まったと思います。
さて、これで四日間の旅は無事に終了。お疲れさまでした。
-
堺に魚市場のイメージはありませんでしたが、調べると堺駅から歩いて行けるところに堺魚市場があるよう。
これは、行ってみるしかないですね。堺駅から海側に少し歩いていくと。。規模はあまり大きくはありませんが、昔ながらの魚市場といった感じの建物が。 -
中を覗くと仲買人さんのお店が何軒かあって、まあまあの雰囲気でした。
-
ただ、観光の方で言うと、お楽しみは天ぷら 大吉の朝飯ですよね。ちょっと汚いですが、大人気店。
-
お勧めは7点セットということでしたが、それでは多過ぎなので、ししゃもとワカサギのてんぷら。あとはご飯とみそ汁にしました。ちょっと甘めのつゆにつけて食べると熱々のてんぷらはめちゃめちゃおいしいですね。あさりの味噌汁もなかなかです。朝からいいものを食べたなあという満足感が湧いてきました。ただ、これで1320円。値段は書いてなかったので、言われた時に想定より高くてちょっと戸惑いました。そうすると7点セットだったらどうなっていたんでしょうね。その辺りは要注意ですね。
(なお、堺魚市場は、2025年7月31日をもって営業終了したようです) -
お腹もいっぱいになったところで、ここから散策の開始です。
地元の人なら誰でも知っている橋上ポルト之助は、南海本線の堺駅の南側すぐにある南蛮橋の上に立つ像。橋の上から川を眺める南蛮人のほぼ等身大の像で、知らないと実際に誰かが立っているのではないかと思ってしまいます。今のシーズンはクリスマスバージョンで、赤いサンタのかっこうをしていました。実際に誰かが立っているのではないかと思ってしまいます by たびたびさん橋上ポルト之助 名所・史跡
-
続いて、堺紡績所跡を訪ねましたが、まず目に入るのは明治天皇御駐蹕之跡の碑。その下の方に堺紡績所跡の説明板がありました。
-
堺紡績所は、明治3年、日本で2番目に設立された洋式紡績工場。幕末の開国以降、手仕事だった日本の綿糸業は輸入品の増加で打撃を受けますが、それに対抗すべく洋式紡績工場を開設したのは薩摩藩。まずは藩内に立ち上げますが、その次に立ち上げたのが交通の要衝である堺だったということのようです。薩摩藩の気分な対応、さすがです。なお、廃藩置県は明治4年7月。明治3年はまだ薩摩藩は存在しています。
明治3年、日本で2番目に設立された洋式紡績工場 by たびたびさん堺紡績所跡 名所・史跡
-
糸割符会所跡は、江戸初期の役所跡。
説明によれば、江戸時代の重要な輸入品である生糸は、慶長9年(1604年)、幕府により堺、京、長崎の商人にのみ買付けが許される。その後、江戸、大坂の商人が加わりますが、その割合は堺が最大。糸割符会所は、その生糸の買付け商人が事務を行うために置いたものだそうです。
ただ、鎖国が始まるのは寛永16年(1639年)。以降は、中国からの生糸の輸入は長崎ですから、実質はそれまでの歴史くらい。短い運命だったのかなとは思います。
なお、江戸期を通じて、中国からの生糸や絹織物の輸入は膨大。金や銀の流出が幕府の財政を圧迫することになります。生糸の買付け商人が事務を行うために by たびたびさん糸割符会所跡 名所・史跡
-
堺奉行所跡には立派な説明板。
堺奉行所の前身は堺政所。貞享年間(1684-1688)に堺奉行と改称され、与力10騎、同心50人が堺の支配にあたったとのこと。元禄9年(1696年)から一時廃止され、大坂町奉行所が堺を管轄することに。再興された以降も、大坂町奉行所の指揮下にはあったようです。
つまり、江戸期、幕府の直轄地の行政体制は軽微なもの。細かいことは町衆に任せるというのが基本的なスタンスだったと思います。 -
ここからは、寺町へ。
超善寺は、天正年間(1573-1591)に創建された浄土宗の寺。現在地は、大坂夏の陣後に再建されたもの。 -
境内は少し荒れた感じもなくはないですが、樹齢30年以上の桜がいくつかあって、桜の名所とも。堺一番の名水と評判だった清水もあったとか。
-
「三国聖賢図」や「現代地獄極楽画」といった襖絵が有名なようですが、境内に建つお堂には立派な釈迦の仏画があるので、お見逃しなく。
-
妙国寺は南宗寺と並ぶ堺を代表する大寺。本能寺の変が起きた時、徳川家康はここに宿泊していたのですが、慌てて国に帰ることになります。いわゆる「伊賀越え」ですが、時は落ち武者狩りとか普通だった時代。家康の人生最大の危機のひとつと言われます。
今日はここはスルーですけどね。妙國寺 寺・神社・教会
-
蓮花寺は、妙国寺の向かいに建つ小さな浄土宗のお寺。門前に「本尊歯吹如来」と書いた石碑が建っていて、それがまあまあ目立つくらいかな。口を開けていて歯が見える如来像なのかと思います。あとは門の外から中を覗くとたくさんのお墓が見えるくらいです。
-
成就寺は、応永14年(1407年)創建の日蓮宗の寺。京都の本圀寺の末寺で、西国500ヵ寺の頭領となるなど隆盛の時代も。天文5年(1834年)法華法乱の際には本圀寺14世日助がここに避難してきたとも。
-
境内は奥に深くて悠々。その歴史を感じさせる雰囲気が今でも何となく漂います。
-
真宗寺は、通りに向かって堂々とした構えの本堂が建つ迫力あるお寺。こういうところは浄土真宗らしいですね。
-
正門は、向かって右側。
創建は、延元年中(1336-39年)。足利尊氏は孫にあたるという足利義氏の第4子祐氏が出家し、本願寺第3代覚如に帰依し一寺を開いたというもの。その後の石山合戦の際も堺での浄土真宗のリーダー的な位置づけがあったということです。 -
阪堺電車の走る紀州街道沿いの方に出て、これは小西行長屋敷跡。
説明によると、行長は永禄元年(1558年)薬を扱う商家に生まれ、幼い頃にキリスト教の洗礼を受ける。秀吉のもとで戦功をたて、天正16年(1588年)佐々成政が手を焼いた肥後国人一揆が鎮圧されると成政の後、肥後国宇土ほか20万石の領主に。朝鮮出兵では加藤清正とともに自軍を率い、和平交渉を担当。関ヶ原の戦いでは家康の東軍に敗れ、京都で斬首。
それなりに有能だった人物だと思いますが、関ケ原の戦いでは6千の兵力があって陣の位置も島津軍と宇喜多秀家軍の間という主力の位置づけ。西軍では相当に頼もしい戦力だったはずなのですが、ほとんどこれといった働きを見せることはなかったとされていて、私としてはそれがどうにも腑に落ちないんですよね。結果、ネガティブな人物評価にしかならないのですが、いかがでしょうか。どうにもネガティブな評価 by たびたびさん小西行長屋敷跡 名所・史跡
-
郷学所跡もその並び。
天保14年(1843年)、堺奉行所は北糸屋町に町屋を買い取り、郷学所を発足。これが幕府の援助で市民の上級教育機関として発展していくことに。堺市中だけでなく、近隣の河内・和泉の農村からも多くの人が学びに来たようです。
徳川幕府の役人はいわゆる当時のエリート。こうしたいいことをちゃんとやるのは当たり前にあったというのは司馬遼太郎の受け売りです(笑) -
浄得寺は、塀に白い線が五本入る格式の高い寺。
天平12年(740年)頃、聖武天皇の勅願によりで行基が創建したと伝わります。七道という地名もこの寺に七堂伽藍があったから。
現在地に移ってきたのは、慶長3年(1598年)ですが、その前、永享3年(1431年)には専修念仏の道場に。浅井長政の孫が第8代の住職を務めていたこともあるようです。堺の自治の高さが江戸期になってからも多くの人を引きつけていたという逸話のひとつだと思います。 -
パンの木は、店内がよく見える外観からして昔から地元に密着したパン屋さんというのがよく分かる。温厚そうなおじいちゃんがやっていて、今までずっと仕事一筋なのも伝わってきますよね。
-
いただいたのは、粒あんぱん。これがふかふかで、うんまーい。私はハード系のパンが好みとか言っている人はこのあんぱんを是非食べていただきたいなと思います。
(なお、このお店もその後、閉店したようです) -
ここから市街をさらに北に向かいます。
株式会社水野鍛錬所の創業は、明治5年(1872年)。刃物の伝統を誇る堺にあって、日本刀や庖丁を鍛える老舗の工房です。法隆寺の魔除け鎌の鍛造や全日本学生相撲選手権優勝者に贈られる日本刀の鍛刀もしたとか。お店の構えもいかにもといった感じです。 -
水野鍛錬所の前に説明板があって、ここは榎並屋勘左衛門 芝辻理右衛門屋敷跡。榎並屋勘左衛門は、江戸幕府の御用鉄砲鍛冶。芝辻理右衛門とともに鉄砲年寄として鉄砲鍛冶の中心という地位にあったそうです。
芝辻理右衛門は、大阪城攻めの大砲も鋳造を命ぜられ、これは鉄製大型大砲の走りということです。 -
堺の三大偉人は、利久と与謝野晶子と河口慧海。
河口慧海の生家跡が住宅が軒を並べる市街地の一角にありました。家と家の間の狭い場所になんとか石碑と説明板。日本人として初めてチベットを訪れ、仏教のルーツを探ることになる。小乗仏教が本来の仏教の姿であるというのが慧海の考えのようですが、まあそれはそれとして非情な熱意は高く評価されることだと思います。 -
七道駅の方に進んで。
海船政所跡は、三好長慶の曾祖父、三好之長が計画して作られた館跡。阿波に拠点を持つ三好氏が京都に近くかつ阿波に渡るのに都合の良い堺に目を付けたというのが始まり。三好氏が畿内に進出する始まりに関係するものでもあり、畿内の支配者として君臨した三好長慶もここに住んでいた時期があったということです。堺と阿波との関係も面白いこと。京都弁には少し阿波弁が混じっているというのはどれくらい知られているでしょうか。 -
七道駅に到着です。
鉄砲試射場跡に建つ石碑は駅前。「放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)」と題する漢文を刻んだもの。碑文の説明では、江戸時代初期の鉄砲師範であった小濱民部丞嘉隆が堺の海辺に鉄砲の試射場を設け、砲術の訓練と研究を重ねたということ。当然そういうことはあったんだろうなあという内容ですけどね。 -
七道駅からさらに北に進んで。
コンペイトウ堺プチミュージアムは、 -
いろんな味や色を考えて、オリジナルのコンペイトウ作りが体験できるという施設です。
-
中に入ると大きな釜。コンペイトウを作る釜だそうですが、砂糖水を煮詰めていくと2~3日でとげとげができ始める。それを1週間くらいかけて大きく育てるというのだそうですが、どうしてとげとげができるのかは科学的には謎なんだそうです。ということでコンペイトウ作りは、最後の仕上げの行程だけですが、面白い話を聞かせてもらいました。
-
七道駅から堺駅にまた戻ってきました。
サイクルライフ さ・か・いは、南海本線の堺駅の地階。ちょっと気が付きにくい場所でもあり、4traでも登録されたジャンルがレンタサイクルの交通となっていますが、基本は観光案内所。観光案内所がレンタサイクルもやっているというということですね。なお、観光案内としては、かなり細かいことまで説明対応してくれる。実力はかなりあります。駅の一階の方にあんまりあてにできない観光案内所モドキなので、ここを上階に持っていくといった時期もあったようですが、いろんな制約でここになっているよう。もったいない話です。 -
堺駅から大きく堺東駅方面へ向かいます。
丸市菓子舗は、堺山之口商店街のすぐ隣り。一見していかにも老舗らしい店構え。いろんな種類のお菓子の張り紙が出ていて、これは寄らずにはいられませんね。 -
イチオシ
いただいたのは、利久に因んだ斗々屋茶碗というお饅頭。ニッケの香りがほんのりする皮に餡子は普通の餡と柚子餡の二層構造。完成度が高くて、さすがという味わい。やっぱり堺のお菓子屋さんはしっかりしています。
-
そのまま堺山之口商店街に入ります。こちらは、もしかしたら開口神社の門前街みたいな位置づけですが、堺の街では、最も長い歴史を持つ商店街です。
-
せっかくなので、どこか老舗はないかなとキョロキョロ。浪花亭というのを発見して、そこで昼飯を食べることに。
堺にはいいお店があるものです by たびたびさんれすとらん 浪花亭 グルメ・レストラン
-
イチオシ
いただいたのは、サービルランチ780円。ハンバーグととんかつのセットです。レトロな雰囲気の店内に、きちんとした味わいの洋食。期待どおりのいいお店でした。
-
昼飯を食べて、落ち着いたところで。
いよいよさかい利晶の杜を訪ねます。うーん、やっぱり立派ですねえ。いわば堺市の威信をかけたビジターセンター by たびたびさんさかい利晶の杜 名所・史跡
-
入り口を入ると
-
広々したロビー。
-
世界と日本の古地図のパネルも、南蛮貿易で栄えた堺らしい展示でしょう。
-
ここからが有料ゾーン。
一階が千利休茶の湯館、二階が与謝野晶子記念館です。 -
イチオシ
一階から入ります。
プロローグ 世界に開かれたまち堺
堺は「SACAY」ですか。 -
南蛮船の展示とその奥には
利休と堺をめぐる人々 -
貿易商人と茶人のまち
竹野紹鴎、今井宗久
会合衆による強い自治組織も堺の大きな特徴です。 -
イチオシ
天下人のまち
三好長慶、信長、秀吉、家康
会合衆の堺に対し、堺奉行を派遣し支配を強化。
石田三成、小西行長も堺奉行を勤めます。 -
イチオシ
堺の海外交易
ルソン、アユタヤ、ホイアン、マラッカ、バタビア
東南アジアに広く展開して、南蛮船との競合も大いにあったことでしょう。家康が当初は御朱印船貿易で彼らを保護していたのも忘れてはならないことですね。 -
利休の生涯と堺
-
利休年表
利休が信長の茶頭となったのは、天正元年(1573年)。利休52歳の頃。
天正10年(1582年)、本能寺の変。利休61才。
その後、秀吉に仕えますが、秀吉の茶頭になったという記述はなくて、秀吉の開く茶会の数々の後見をしたという表現。そして、
天正19年(1591年)、切腹を命ぜられる。利休70才。
天下人となった秀吉ですから、利休も持ち物みたいなもの。利休を仕えさせることが自らの権威を高めることになるし、利休も秀吉に仕えることで自らの価値を高めることができたでしょう。野上弥生子の「秀吉と利休」ではその関係のほころびを唐入りからとしていましたが、これもひとつの見方として説得力がありますね。 ただ、冷静に考えると秀吉はもう天下人として揺るぎない存在。利休の利用価値はもうなくなっていたのでしょう。大名たちのレベルからすると惜しい人物となるのですが、天下人からするとそれも含めて下々のこととなっていたのではないかと思います。まあ、そんなことではつまらなくて物語にはなりませんけどね。 -
茶の湯関係図
竹野紹鴎、今井宗久
利休七哲ほかの弟子たち
しかし、村田珠光がないのはちょっとどうでしょう。わび茶の祖は利休ではなく、あくまで村田珠光なんですけどね。 -
茶会の振舞
-
簡単な食事にお菓子
-
新しき作意
この辺りは揺るぎない美の基準が出来上がっています。 -
堺の茶の湯
富裕な町衆、市中の山居、天下人と茶頭
権力を持っているわけではないが、それでも財力はあって自立と自由を得た特別な人々。そこに茶の湯を通じて一種の権威が生まれていくという構図でしょうか。その流れは堺という特殊な環境があったればこそ。 -
ただ、そこから普遍性を追求し道を開いたのが利休ということかな。秀吉もそこを認めていたのだと思いますが、なんとなく最大の理解者は稀代のパイオニア信長だったような気がしなくもない。秀吉は信長への嫉妬心から逃れることはありませんでしたからね。秀吉と利休、そこに信長を加えた三角関係とか。どうでしょうか。
-
イチオシ
続いては、二階の与謝野晶子記念館です。
-
堺の老舗和菓子店に生まれた少女が新しい詩歌の世界を切り開く。
-
イチオシ
晶子の書斎に残る愛用の品々
-
夫、鉄幹との出会いから
-
二人は夫唱婦随の人生を歩むことに。
-
イチオシ
晶子の生家
-
交友の広さも晶子の特徴。
もう一つは、鉄幹と全国各地を訪れた紀行も素晴らしいですよね。北海道から四国・九州まで。こんなところにも歌碑があると私は何度も驚かされました。地域からするといい宣伝にもなるということかもしれませんが、地元にしっかり足跡を残せるのはその才能の致すところ。猿ヶ京温泉で三国路与謝野晶子紀行文学館を拝見した時のことは今でも強く心に残っています。(https://4travel.jp/travelogue/11399842)
以上で、さかい利晶の杜は終了です。 -
ここからもう少し散策を続けます。
武野紹鴎屋敷跡は、石柱と裏側に案内板。
案内板には「武野紹鴎は、文亀2年(1502年)大和で生まれ、堺に移る。皮屋の号を持つ豪商。京で三条西実隆に和歌を村田珠光の流れをくむ茶人に茶の湯を学び、堺では津田宗及、今井宗久、千利休にわび茶を伝える」とありました。
利休は「術は紹鷗、道は珠光より」としていて、村田珠光→武野紹鴎→千利休という系譜で理解していい人物だと思います。 -
今井屋敷跡は、堺の豪商で茶人、今井宗久の子である今井宗薫の屋敷跡。織田有楽斎から譲り受けた屋敷と伝わります。
豊臣秀吉に近く仕えた宗薫ですが、その後は徳川家康に重用され、関ヶ原合戦後は、河内・和泉の代官となったり、大坂冬の陣でも兵糧・弾薬調達の働き。その後、今井家は徳川幕府の旗本として続いたようです。 -
顕本寺は、創建宝徳3年(1451年)の日蓮宗の寺。
-
立派な本堂の先には、
-
三好元長の墓というのがあります。
三好元長というのは、大永7年(1527年)、細川晴元とはかって阿波から足利義維を迎え堺幕府を樹立した人物。しかし、ほどなく晴元とは決裂。この寺で自害に追い込まれ、堺幕府も滅びます。ただ、元長の子が三好長慶で、長慶は信長の前の実質的な天下人。しっかりリベンジを果たしていますので、問題はありません。 -
祥雲寺は、寛永2年(1625年)、沢庵和尚によって創建された寺。
-
見どころは、大徳寺の方丈庭園と類似するという枯山水の庭園。
-
ただ、土塀寄りに石組を配置して、手前に広い白砂空間をとるのは江戸時代初期の枯山水の特徴だとか。ここを入って大丈夫かなあというような境内の奥にどんどん進むとこの庭が現れます。
-
堺市役所21階展望ロビーは、仁徳天皇陵を眺めるならここという場所ですね。
-
市街の先に見えましたが、市街と比べると仁徳天皇陵がいかに大きいかがよく分かります。周辺にはほかにも古墳がいくつもあるはずなのですが、ちゃんとその存在が確認できるのは仁徳天皇陵だけ。やっぱり仁徳天皇陵は特別です。
-
堺銀座商店街は、堺東駅からすぐの商店街。
ちらりと寄って、古墳群の方へ急ぎます。 -
途中に寄った旧天王貯水池は、明治43年、大阪府では明治28年の大阪市に次いで建設された堺市の上水道配水池。以降約50年の間、その役割を果たしてきたというのですが、斜面のところにレンガの遺構が一部見えていました。傍らに貯水槽の構造とかの説明板もありました。
-
仁徳天皇陵のある大仙公園に到着。
-
万葉歌碑は、仁徳陵西側遊歩道の途中。堺万葉歌碑の会が建立したもので、平成7年の建立。中央に自然石の歌碑。その両側に2基づつ4基のコンクリートの歌碑が建っています。
中央の歌碑は「居明而 君乎者将待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文」
訳は、このまま佇(たたず)みつづけて我が君のお出(いで)を待とう。この私の黒髪に霜は白々と降りつづけようとも。です。
この後、小さな倍塚をいくつか回りましたが、その辺りは省略して。。 -
大仙公園の中にある堺市茶室伸庵へ。利休のことを考えていたら、私もお茶がいただきたくなったという次第です
-
建物は、昭和55年の博物館開館に合わせて移築された国の登録有形文化財。
-
椅子席で抹茶一服は500円。
-
イチオシ
お菓子は、百舌鳥と古墳を象った干菓子。上品な味わいが印象に残りました。
着物を着たスタッフの方に「もう長いんですか?どうしてお茶をしようと思ったんですか?」みたいな話をしたら、「はじめてお茶をいただいた時においしいと思ったので」の答え。シンプルな答えですが、おいしいというのは味だけじゃなくて、その場の雰囲気とかいろんなものにピンときたということでしょう。いい出会いがあってよかったですね。堺で育った人ならなおさら。ちょっとうらやましいような気持ちにもなりました。 -
最後に百舌鳥古墳群ビジターセンターへも。
大仙公園観光案内所は、百舌鳥古墳群ビジターセンターの建物内。ただ、大仙公園の中は古墳だらけだし、しっかり遊歩道も整備されているので、ここで改めて観光案内を受ける必要はないかも。むしろ、百舌鳥古墳群ビジターセンターの展示や解説についてサポートしてもらうという役割かと思います。 -
百舌鳥・古市古墳群だけでなく、堺の歴史についても触れるシアター映像があって、なかなかいい感じ。
-
一方で、百舌鳥・古市古墳群の位置関係を示す地図もありましたが、古墳はたくさんあり過ぎてちょっと頭には入りにくいかな。実際に歩いてみるのと併せて少しづつ分かってくるという類のものだと思います。
これで、堺は終了です。 -
晩飯は、阿倍野まで帰ってから。
大阪釆なりうどん きらくは、あべのハルカス近鉄本店 タワー館の地下二階食品売り場の脇のエリア。デパ地下の食堂ですが、店内は悠々としていて落ち着きます。 -
いただいたのは、おろしぷっかけ。大阪のうどんでちょっと不安もありましたが、いやいやこれはまさに讃岐うどんのおいしさでしょう。コシが程よくあって、舌触りも抜群。すっきりしたうまさはけっこうインパクトがあると思います。
これで、四日間の旅は終了。お疲れさまでした。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
もっと見る
堺(大阪) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
85