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2024年のGW明け、近場の1泊お出かけ Ver.2です。<br /><br />グランドメルキュール奈良橿原で、優雅に過ごした翌日は、約50年振りの飛鳥から、初めての壷阪寺を巡ってきました。<br /><br />私の高校時代は、葛城山の麓から近鉄南大阪線、吉野線で、橿原神宮駅を経由して吉野神宮駅まで1時間20分程毎日通っていましたので、もの凄く懐かしい沿線です。<br /><br />その頃は、高松塚やキトラ古墳で彩色壁画等が発見され、一大ニュースとなっていましたが、今のような展示施設等は無く、発掘調査の様子を遠くから見た記憶しかなく、石舞台古墳が唯一の観光地だったような記憶がありますが、今は保存施設の整備が進み、複製画や映像を含めて見学できるようになっていました。<br /><br />たが、綺麗な施設が点在する明日香村ですが、風景は私が見ていた50年近い昔と変わらぬ、懐かしい田園風景でした。<br /><br />ランチで近くまで来たので、初めての壷阪寺を参拝し、眼病に霊験あらたかなと言われているご本尊を参拝しましたが、何より大きな石像には驚きました。<br /><br />GW明けの平日旅、満喫いたしました。<br />

GW明け近場での1泊旅行 VER.2(橿原神宮・飛鳥・壷阪寺散策 編)

60いいね!

2024/05/10 - 2024/05/11

74位(同エリア993件中)

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31

まつじゅん

まつじゅんさん

この旅行記スケジュールを元に

2024年のGW明け、近場の1泊お出かけ Ver.2です。

グランドメルキュール奈良橿原で、優雅に過ごした翌日は、約50年振りの飛鳥から、初めての壷阪寺を巡ってきました。

私の高校時代は、葛城山の麓から近鉄南大阪線、吉野線で、橿原神宮駅を経由して吉野神宮駅まで1時間20分程毎日通っていましたので、もの凄く懐かしい沿線です。

その頃は、高松塚やキトラ古墳で彩色壁画等が発見され、一大ニュースとなっていましたが、今のような展示施設等は無く、発掘調査の様子を遠くから見た記憶しかなく、石舞台古墳が唯一の観光地だったような記憶がありますが、今は保存施設の整備が進み、複製画や映像を含めて見学できるようになっていました。

たが、綺麗な施設が点在する明日香村ですが、風景は私が見ていた50年近い昔と変わらぬ、懐かしい田園風景でした。

ランチで近くまで来たので、初めての壷阪寺を参拝し、眼病に霊験あらたかなと言われているご本尊を参拝しましたが、何より大きな石像には驚きました。

GW明けの平日旅、満喫いたしました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
自家用車 徒歩
  • こちらは前日、今井町からホテルにチェックインし、散歩がてら歩いた橿原神宮です。<br /><br />私、2019年9月に同窓会で来た際、1人で久し振りに橿原神宮を歩いたのですが、奥様は初めてだったようです。<br /><br />*43年振りの同窓会で橿原へ↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11550497

    こちらは前日、今井町からホテルにチェックインし、散歩がてら歩いた橿原神宮です。

    私、2019年9月に同窓会で来た際、1人で久し振りに橿原神宮を歩いたのですが、奥様は初めてだったようです。

    *43年振りの同窓会で橿原へ↓
    https://4travel.jp/travelogue/11550497

    橿原神宮前駅

  • 私の高校時代の通学経路で、橿原神宮駅は途中の通過駅でした。<br /><br />当時も、駅周辺には高校生が遊ぶような場所は無かったので、殆ど改札を出た記憶のない駅ですが、あまり変わっていない印象ですね。<br /><br />2019年の同窓会の会場だった、一の鳥居前の「橿原観光ホテル」がマンションに変わっていて驚きでした。<br />COVID-19の影響で、2020年度の売り上げが前年比で8割減となり、建物の老朽化も進み、改修等が必要な状況の中、今後の需要回復が見通せないとの事で、2021年7月末で営業を終了したそうです。<br /><br />1953年8月の開業以来、200人超を収容できる宴会場を持つ、県の中南和地域を代表する老舗のホテルでしたが、少し淋しいですね。

    私の高校時代の通学経路で、橿原神宮駅は途中の通過駅でした。

    当時も、駅周辺には高校生が遊ぶような場所は無かったので、殆ど改札を出た記憶のない駅ですが、あまり変わっていない印象ですね。

    2019年の同窓会の会場だった、一の鳥居前の「橿原観光ホテル」がマンションに変わっていて驚きでした。
    COVID-19の影響で、2020年度の売り上げが前年比で8割減となり、建物の老朽化も進み、改修等が必要な状況の中、今後の需要回復が見通せないとの事で、2021年7月末で営業を終了したそうです。

    1953年8月の開業以来、200人超を収容できる宴会場を持つ、県の中南和地域を代表する老舗のホテルでしたが、少し淋しいですね。

    橿原神宮 寺・神社・教会

  • 橿原神宮は、初代天皇とされている神武天皇と、皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年4月2日に官幣大社として創建された、皇室にゆかりのある神社です。<br /><br />神社としての歴史は新しいですが、今でも皇室の方々が訪れていて、最近では2024年3月27日に愛子様が神武天皇陵に参拝された際、立ち寄られたそうです。

    橿原神宮は、初代天皇とされている神武天皇と、皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年4月2日に官幣大社として創建された、皇室にゆかりのある神社です。

    神社としての歴史は新しいですが、今でも皇室の方々が訪れていて、最近では2024年3月27日に愛子様が神武天皇陵に参拝された際、立ち寄られたそうです。

  • 橿原は「日本書紀」において、日本建国の地と記されています。<br /><br />2,600余年前の紀元元年、天照大神の血を引く神倭伊波禮毘古命(後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から畝傍山東南の麓に橿原宮を創建され、第一代天皇として即位されました。<br /><br />奈良県内では春日大社に次いで、110万人もの初詣参拝者がある神社です。<br /><br />散歩を終え、ホテルに戻り温泉、ラウンジ&食事を楽しみたいと思います。<br />*GW明け近場での1泊旅行 VER.1 ↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11909308

    橿原は「日本書紀」において、日本建国の地と記されています。

    2,600余年前の紀元元年、天照大神の血を引く神倭伊波禮毘古命(後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から畝傍山東南の麓に橿原宮を創建され、第一代天皇として即位されました。

    奈良県内では春日大社に次いで、110万人もの初詣参拝者がある神社です。

    散歩を終え、ホテルに戻り温泉、ラウンジ&食事を楽しみたいと思います。
    *GW明け近場での1泊旅行 VER.1 ↓
    https://4travel.jp/travelogue/11909308

  • 翌日も良い天気です。<br /><br />ホテルを出て明日香村に向かいます。<br />玄関口の近鉄飛鳥駅は、私が中学生位までは橘寺駅でしたが、1970年に飛鳥駅に改名されました。<br />私が通学していた頃は、単線(橿原神宮駅から吉野駅まで)で、ホームは上下線とも同じでしたが、凄く綺麗になっていました。<br />単線は変わりませんが2線になり、無人駅になりましたが特急の停車駅となっていました。<br /><br />駅前ロータリーも整備されていて、明日香村の玄関口と呼ぶにふさわしい駅舎になっていました。<br /><br />レンタルサイクルも考えたのですが、案内所で各施設には駐車場もあるとの事で、暑さ対策もあって車で移動する事にしました。

    翌日も良い天気です。

    ホテルを出て明日香村に向かいます。
    玄関口の近鉄飛鳥駅は、私が中学生位までは橘寺駅でしたが、1970年に飛鳥駅に改名されました。
    私が通学していた頃は、単線(橿原神宮駅から吉野駅まで)で、ホームは上下線とも同じでしたが、凄く綺麗になっていました。
    単線は変わりませんが2線になり、無人駅になりましたが特急の停車駅となっていました。

    駅前ロータリーも整備されていて、明日香村の玄関口と呼ぶにふさわしい駅舎になっていました。

    レンタルサイクルも考えたのですが、案内所で各施設には駐車場もあるとの事で、暑さ対策もあって車で移動する事にしました。

    飛鳥駅

  • 先ずはキトラ古墳の壁画保存管理施設である、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」に向かいます。<br /><br />キトラ古墳近くの丘に潜り込むような形で建てられた施設は、㈱宮本忠長建築設計事務所の設計で、地下1階、地上1階で延床面積は2459.71m2、施工は㈱鉄建建設で、2016年2月の竣工です。<br /><br />飛鳥には天皇の宮が置かれた事が多く、推古天皇が592年に豊浦宮での即位から、持統天皇が694年に藤原京へ移転するまで、約100年間は飛鳥時代と呼ばれ、政治・文化の中心地でした。

    先ずはキトラ古墳の壁画保存管理施設である、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」に向かいます。

    キトラ古墳近くの丘に潜り込むような形で建てられた施設は、㈱宮本忠長建築設計事務所の設計で、地下1階、地上1階で延床面積は2459.71m2、施工は㈱鉄建建設で、2016年2月の竣工です。

    飛鳥には天皇の宮が置かれた事が多く、推古天皇が592年に豊浦宮での即位から、持統天皇が694年に藤原京へ移転するまで、約100年間は飛鳥時代と呼ばれ、政治・文化の中心地でした。

    キトラ古墳壁画体験館 四神の館 美術館・博物館

  • キトラ古墳壁画体験館 四神の館の地下1階は、展示室となっていて、キトラ古墳やキトラ古墳の壁画を分かりやすく、楽しく学べるようになっています。<br /><br />石室の東・西・南・北の中央の壁に、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が描かれていました。<br />また、四神の下には玄武(子)、青龍(寅)、白虎(戌)、朱雀(午)(巳)等の6体が発見されており、3体ずつ十二支の獣面人身像が描かれていると想定されています。

    キトラ古墳壁画体験館 四神の館の地下1階は、展示室となっていて、キトラ古墳やキトラ古墳の壁画を分かりやすく、楽しく学べるようになっています。

    石室の東・西・南・北の中央の壁に、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が描かれていました。
    また、四神の下には玄武(子)、青龍(寅)、白虎(戌)、朱雀(午)(巳)等の6体が発見されており、3体ずつ十二支の獣面人身像が描かれていると想定されています。

  • 天井に描かれた三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側に北斗七星等の星座も、展示室の天井に再現されています。<br /><br />古墳の傾斜部に描かれていた、西に月像、東に日像を配した本格的な天文図は、現存する中では東アジア最古の天文図と考えられています。<br />天文図に描かれている星の総数は、277個にも及ぶそうです。<br /><br />また、別館には体験学習施設があり、主に学校の休日には「勾玉づくり」や「バードコールづくり」等、飛鳥の歴史や自然を体験できる様々な体験プログラムが開催されています。<br /><br />1階には、キトラ古墳の壁画や出土品を(当面の間)保存管理・展示する施設が設けられています。<br /><br />壁画を保存管理する壁画保管室、古墳より出土した副葬品等を保存管理する出土品保管室、壁画を見学できる窓が設置された展示室等があり、展示室からは、期間限定で壁画を収蔵した状態で見学することができ、遺物も展示されています。

    天井に描かれた三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側に北斗七星等の星座も、展示室の天井に再現されています。

    古墳の傾斜部に描かれていた、西に月像、東に日像を配した本格的な天文図は、現存する中では東アジア最古の天文図と考えられています。
    天文図に描かれている星の総数は、277個にも及ぶそうです。

    また、別館には体験学習施設があり、主に学校の休日には「勾玉づくり」や「バードコールづくり」等、飛鳥の歴史や自然を体験できる様々な体験プログラムが開催されています。

    1階には、キトラ古墳の壁画や出土品を(当面の間)保存管理・展示する施設が設けられています。

    壁画を保存管理する壁画保管室、古墳より出土した副葬品等を保存管理する出土品保管室、壁画を見学できる窓が設置された展示室等があり、展示室からは、期間限定で壁画を収蔵した状態で見学することができ、遺物も展示されています。

  • これがキトラ古墳です。<br />小さな二段築成の円墳で、7世紀末~8世紀初頭頃に造られたと考えられています。<br /><br />上段の直径が9.4mで高さは2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cmで、墳丘の中央に、18個の凝灰岩の切石を組み上げた石室があり、1983年11月7日に、石室内に描かれた極彩色壁画(玄武)が発見されました。<br /><br />古墳の埋葬者は未だ特定されていませんが、年代等から天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと考えられているようです。<br />金象眼が出土しているので、身分や地位の高い人物は間違いないようですが、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりは、身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測されています。

    これがキトラ古墳です。
    小さな二段築成の円墳で、7世紀末~8世紀初頭頃に造られたと考えられています。

    上段の直径が9.4mで高さは2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cmで、墳丘の中央に、18個の凝灰岩の切石を組み上げた石室があり、1983年11月7日に、石室内に描かれた極彩色壁画(玄武)が発見されました。

    古墳の埋葬者は未だ特定されていませんが、年代等から天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと考えられているようです。
    金象眼が出土しているので、身分や地位の高い人物は間違いないようですが、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりは、身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測されています。

    キトラ古墳 名所・史跡

  • お昼を過ぎたので、軽くランチタイムといたします。<br />Google先生の案内で、近鉄壷阪寺駅前にある「双葉食堂」に向かいます。<br /><br />近鉄壷阪寺駅も、高校時代には幾度となく通過した駅ですが、降りた事はありません。<br />駅を利用していた同級生等も居なかったので、全く未踏の駅ですが、凄く寂れた感じがしますね。<br /><br />今は特急停車駅のようですが、私の頃は30分に1本の電車を1時間に1本の特急が追い越す駅でした。(たぶん・・・・)

    お昼を過ぎたので、軽くランチタイムといたします。
    Google先生の案内で、近鉄壷阪寺駅前にある「双葉食堂」に向かいます。

    近鉄壷阪寺駅も、高校時代には幾度となく通過した駅ですが、降りた事はありません。
    駅を利用していた同級生等も居なかったので、全く未踏の駅ですが、凄く寂れた感じがしますね。

    今は特急停車駅のようですが、私の頃は30分に1本の電車を1時間に1本の特急が追い越す駅でした。(たぶん・・・・)

    壺阪山駅

  • 1940年の創業らしいです。<br /><br />メニューにはカレーライスからお好み焼き、丼にうどん&そば等々、大衆食堂といった感じのラインナップですが、お好み焼きは時間が掛かりますとの但し書きがありました。<br />「注文しないでね」というオーラーが溢れていました。<br /><br />店内はテーブル席と鉄板カウンター席。<br />気さくなおばちゃんと話しながら「お里にゅうめんセット」と親子丼を発注。<br /><br />にゅうめんは、揚げ、えのき、三つ葉、玉子焼き、かしわ等の具沢山、三輪そうめんも美味しく、出汁と合ったやさしい味わいでした。<br /><br />お米は「ひのひかり」が有名で、水が良いのか美味しかったです。

    1940年の創業らしいです。

    メニューにはカレーライスからお好み焼き、丼にうどん&そば等々、大衆食堂といった感じのラインナップですが、お好み焼きは時間が掛かりますとの但し書きがありました。
    「注文しないでね」というオーラーが溢れていました。

    店内はテーブル席と鉄板カウンター席。
    気さくなおばちゃんと話しながら「お里にゅうめんセット」と親子丼を発注。

    にゅうめんは、揚げ、えのき、三つ葉、玉子焼き、かしわ等の具沢山、三輪そうめんも美味しく、出汁と合ったやさしい味わいでした。

    お米は「ひのひかり」が有名で、水が良いのか美味しかったです。

    双葉食堂 グルメ・レストラン

  • 結構、観光客の人の忘れ物が多いようで、大丈夫かと何度も確認されましたが、本当に困っているのでしょうね。<br /><br />次に向かったのは、車で10分程の壷阪寺です。<br />結構な坂道を登って、駐車場に到着です。<br /><br />壷阪寺の正式名は、南法華寺。<br />真言宗系単立の寺院で、山号は壺阪山です。

    結構、観光客の人の忘れ物が多いようで、大丈夫かと何度も確認されましたが、本当に困っているのでしょうね。

    次に向かったのは、車で10分程の壷阪寺です。
    結構な坂道を登って、駐車場に到着です。

    壷阪寺の正式名は、南法華寺。
    真言宗系単立の寺院で、山号は壺阪山です。

    壷阪寺(南法華寺) 寺・神社・教会

  • 創建年等は不明点が多いようですが、寺伝によると703年に元興寺の弁基上人がこの山で修行し愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んで祀ったのが始まりとの事です。<br /><br />京都の清水寺が北法華寺と呼ばれていたのに対し、壷阪寺は南法華寺と呼ばれ、長谷寺と共に古くから観音霊場として信仰を集めていたようで、最盛期には36堂60余坊もの堂舎があったと伝わっています。<br /><br />その後、数度の焼失や戦国時代の戦乱により衰退してしまいましたが、1596~1615年頃に、豊臣秀長の家臣で高取城主 本多俊政が伽藍復興に尽力し、江戸時代には高取藩主 植村氏の庇護を受け栄え、本尊の十一面千手観世音菩薩が眼病封じの観音様として親しまれ、眼病に霊験があると言われて、人形浄瑠璃「壺坂霊験記」の舞台としても有名になりました。

    創建年等は不明点が多いようですが、寺伝によると703年に元興寺の弁基上人がこの山で修行し愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んで祀ったのが始まりとの事です。

    京都の清水寺が北法華寺と呼ばれていたのに対し、壷阪寺は南法華寺と呼ばれ、長谷寺と共に古くから観音霊場として信仰を集めていたようで、最盛期には36堂60余坊もの堂舎があったと伝わっています。

    その後、数度の焼失や戦国時代の戦乱により衰退してしまいましたが、1596~1615年頃に、豊臣秀長の家臣で高取城主 本多俊政が伽藍復興に尽力し、江戸時代には高取藩主 植村氏の庇護を受け栄え、本尊の十一面千手観世音菩薩が眼病封じの観音様として親しまれ、眼病に霊験があると言われて、人形浄瑠璃「壺坂霊験記」の舞台としても有名になりました。

  • 大講堂は2000年に落慶した建物で、500人以上を収容できる大広間があります。<br />本尊は鎌倉時代の作の弘法大師像です。<br /><br />眼病に霊験があることから、1961年に日本で最初の養護盲老人ホーム「慈母園」が大講堂の前に建設されました。

    大講堂は2000年に落慶した建物で、500人以上を収容できる大広間があります。
    本尊は鎌倉時代の作の弘法大師像です。

    眼病に霊験があることから、1961年に日本で最初の養護盲老人ホーム「慈母園」が大講堂の前に建設されました。

  • 大講堂には本尊の弘法大師像を中心に、大日如来、薬師如来、不動明王、愛染明王、多聞天、増長天等々、沢山の仏像が安置されていました。<br /><br />多くの寺院では、仏像の撮影を禁止している所が多いですが、壷阪寺では写真撮影が許されています。

    大講堂には本尊の弘法大師像を中心に、大日如来、薬師如来、不動明王、愛染明王、多聞天、増長天等々、沢山の仏像が安置されていました。

    多くの寺院では、仏像の撮影を禁止している所が多いですが、壷阪寺では写真撮影が許されています。

  • 仁王門です。<br />1212年建立で、貞慶解脱上人が係ったと伝わっています。<br /><br />室町と安土桃山時代に大修理が行われ、昭和に解体修理を行いましたが、1998年台風により屋根が半壊し、2003年に防災上の見地から場所を移し、解体修理が行われました。<br /><br />仁王像は一丈一尺(約3.33m)の高さで、自立しているとの事でしたが、修復のためか不在でした。

    仁王門です。
    1212年建立で、貞慶解脱上人が係ったと伝わっています。

    室町と安土桃山時代に大修理が行われ、昭和に解体修理を行いましたが、1998年台風により屋根が半壊し、2003年に防災上の見地から場所を移し、解体修理が行われました。

    仁王像は一丈一尺(約3.33m)の高さで、自立しているとの事でしたが、修復のためか不在でした。

  • 灌頂堂です。<br />2005年落慶の比較的新しい建物です。<br /><br />ご本尊の室町時代作の十一面千手観音菩薩や、安土・桃山時代の豊臣秀長像や本多俊政像が安置されています。<br /><br />壷阪寺は子島流又は壷坂流と呼ばれる、真言宗の流派道場であったため、その教を伝えるためお堂が灌頂堂で、平安時代には存在していた推察されます。<br /><br />15世紀に3度目の火災により焼失し、その後再建されたという記録は無く、壷阪寺開創1300年を期に、重要なお堂の一つであった灌頂堂の再建が発願されました。<br /><br />再建に当たっては、慶長年間に伽藍再興に尽力した、高取城主 本多因幡守の寄進による、因幡堂の部材の大部分を使用し、老朽化した部材は新調し、旧因幡堂の幅と奥行を拡げ、現在の正面五間、奥行四間のお堂として再建されました。<br />俗にいう部分増築ですね。

    灌頂堂です。
    2005年落慶の比較的新しい建物です。

    ご本尊の室町時代作の十一面千手観音菩薩や、安土・桃山時代の豊臣秀長像や本多俊政像が安置されています。

    壷阪寺は子島流又は壷坂流と呼ばれる、真言宗の流派道場であったため、その教を伝えるためお堂が灌頂堂で、平安時代には存在していた推察されます。

    15世紀に3度目の火災により焼失し、その後再建されたという記録は無く、壷阪寺開創1300年を期に、重要なお堂の一つであった灌頂堂の再建が発願されました。

    再建に当たっては、慶長年間に伽藍再興に尽力した、高取城主 本多因幡守の寄進による、因幡堂の部材の大部分を使用し、老朽化した部材は新調し、旧因幡堂の幅と奥行を拡げ、現在の正面五間、奥行四間のお堂として再建されました。
    俗にいう部分増築ですね。

  • 山間に見え隠れする大きな石像、天竺渡来 大釈迦如来石像です。<br /><br />インドでの奉仕活動の縁から始まった国際交流・石彫事業の一環として、製作されたもので、21世紀初頭から発生が顕著となっている、世界中の暴力や中傷等によって痛んだ心を癒やすため建立されたそうです。<br /><br />世界平和、紛争が一日も早く亡くなる事を祈っておられるのですね。

    山間に見え隠れする大きな石像、天竺渡来 大釈迦如来石像です。

    インドでの奉仕活動の縁から始まった国際交流・石彫事業の一環として、製作されたもので、21世紀初頭から発生が顕著となっている、世界中の暴力や中傷等によって痛んだ心を癒やすため建立されたそうです。

    世界平和、紛争が一日も早く亡くなる事を祈っておられるのですね。

  • 2007年11月に開眼法要が行われました。<br />天竺渡来 大釈迦如来は身丈10m、台座5mと大きい石像です。<br /><br />前立の、十一面千手観音菩薩像は、身丈3.3m 台座1.5m。<br />文殊菩薩石像と普賢菩薩石像は、身丈3m、台座2m。<br /><br />文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」を、普賢菩薩は「行」観音菩薩は「慈悲」を表しているそうです。

    2007年11月に開眼法要が行われました。
    天竺渡来 大釈迦如来は身丈10m、台座5mと大きい石像です。

    前立の、十一面千手観音菩薩像は、身丈3.3m 台座1.5m。
    文殊菩薩石像と普賢菩薩石像は、身丈3m、台座2m。

    文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」を、普賢菩薩は「行」観音菩薩は「慈悲」を表しているそうです。

  • 多宝塔です。<br />9世紀に天台・真言の密教が興り、密教寺院で多く存在する建築物です。<br /><br />こちらも、2003年の壷阪寺開創1300年を期に建立が発願され、2002年4月に落慶法要が行われました。<br />ご本尊は平安時代の作品である大日如来です。<br /><br />外見は二重塔ですが、本来は一重で宝塔の周りに裳階がついたものです。<br />円形の燈身に宝形造の屋根をのせたものを宝塔と言いますが、多宝塔の上部が円形で、上に丸みがついているのは宝塔の名残りのようです。

    多宝塔です。
    9世紀に天台・真言の密教が興り、密教寺院で多く存在する建築物です。

    こちらも、2003年の壷阪寺開創1300年を期に建立が発願され、2002年4月に落慶法要が行われました。
    ご本尊は平安時代の作品である大日如来です。

    外見は二重塔ですが、本来は一重で宝塔の周りに裳階がついたものです。
    円形の燈身に宝形造の屋根をのせたものを宝塔と言いますが、多宝塔の上部が円形で、上に丸みがついているのは宝塔の名残りのようです。

  • 国の重要文化財に指定されている三重塔です。<br /><br />1497年の再建で、初重は中央間十二枝、脇間十枝、二重は総柱間で二十八枝、三重は二十五枝、二重中央間を十枝とする他はすべて一枝落ちとなっています。<br />総高は初重総長の5倍で、手先の肘木を内側に延ばして繋いでいる構造が多いですが、こちらの三重塔は、二段目、三段目の肘木も繫いで強化されています。

    国の重要文化財に指定されている三重塔です。

    1497年の再建で、初重は中央間十二枝、脇間十枝、二重は総柱間で二十八枝、三重は二十五枝、二重中央間を十枝とする他はすべて一枝落ちとなっています。
    総高は初重総長の5倍で、手先の肘木を内側に延ばして繋いでいる構造が多いですが、こちらの三重塔は、二段目、三段目の肘木も繫いで強化されています。

  • 重要文化財の礼堂内にあるご本尊です。<br /><br />本尊お身拭い特別拝観が行われていて、私達も仮設の階段でご本尊の近くまで上り、お身拭いをしてその布を持ち帰りました。<br /><br />ご本尊の十一面千手観音菩薩座像は、室町時代の作品で蓮華座上にどっしりとした姿でふくよかな顔立ちをされています。<br /><br />「眼の佛」として広く信仰を集めていて、奈良・平城京を開いた元正天皇も眼病の治癒を祈ったと伝えられている程、白鳳時代から壷阪観音として多くの人に親しまれています。<br /><br />礼堂は創建当初から、本尊の安置場所として建てられていたと伝わっていますが、焼失して再建したお堂も鎌倉時代初期に焼失し、その後数度の焼失があり幾度となく再建されてきました。<br /><br />江戸時代の大改築で規模が縮小されたようですが、昭和の解体修理時の発掘調査等から、室町時代の礼堂の大きさ等に戻されたようです。<br /><br />組物の方式は、東大寺法華堂礼堂や、般若寺楼門のような室町時代中期の手法です。

    重要文化財の礼堂内にあるご本尊です。

    本尊お身拭い特別拝観が行われていて、私達も仮設の階段でご本尊の近くまで上り、お身拭いをしてその布を持ち帰りました。

    ご本尊の十一面千手観音菩薩座像は、室町時代の作品で蓮華座上にどっしりとした姿でふくよかな顔立ちをされています。

    「眼の佛」として広く信仰を集めていて、奈良・平城京を開いた元正天皇も眼病の治癒を祈ったと伝えられている程、白鳳時代から壷阪観音として多くの人に親しまれています。

    礼堂は創建当初から、本尊の安置場所として建てられていたと伝わっていますが、焼失して再建したお堂も鎌倉時代初期に焼失し、その後数度の焼失があり幾度となく再建されてきました。

    江戸時代の大改築で規模が縮小されたようですが、昭和の解体修理時の発掘調査等から、室町時代の礼堂の大きさ等に戻されたようです。

    組物の方式は、東大寺法華堂礼堂や、般若寺楼門のような室町時代中期の手法です。

  • 壺阪寺と言えば「壺阪霊験記」お里澤市です。<br /><br />今から300年以上昔、座頭の沢市は三歳違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていました。<br />沢市は盲目ゆえ、琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしでしたが、沢市の胸中に一つの不安が生まれていました。<br />お里が毎晩床を明けの七つ(午前4時)になると、抜け出していたので、「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この3年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていたのです。<br /><br />沢市は疑った自分を恥じ、共に観音様にお参りすることにしたのですが、心の中は盲目がゆえにお里が不遇な暮らしをしているのだと自分を責め、お里を家に帰して、自由な身にしてやろうとして、自分の身を投げてしまいました。<br /><br />お里は不吉な予感がし、慌てて戻ったのですが非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまいました。<br /><br />この2人のせつない夫婦愛は、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼したという物語です。<br /><br />本堂の横には、2人が身を投げた投身の谷、と言い伝えられている谷がありました。

    壺阪寺と言えば「壺阪霊験記」お里澤市です。

    今から300年以上昔、座頭の沢市は三歳違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていました。
    沢市は盲目ゆえ、琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしでしたが、沢市の胸中に一つの不安が生まれていました。
    お里が毎晩床を明けの七つ(午前4時)になると、抜け出していたので、「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この3年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていたのです。

    沢市は疑った自分を恥じ、共に観音様にお参りすることにしたのですが、心の中は盲目がゆえにお里が不遇な暮らしをしているのだと自分を責め、お里を家に帰して、自由な身にしてやろうとして、自分の身を投げてしまいました。

    お里は不吉な予感がし、慌てて戻ったのですが非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまいました。

    この2人のせつない夫婦愛は、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼したという物語です。

    本堂の横には、2人が身を投げた投身の谷、と言い伝えられている谷がありました。

  • この寺院には、とにかく石造物が多いです。<br />こちらは、天竺渡来佛伝図レリーフ「釈迦一代記」で、1987年に安置された、高さ3m、全長50m、重さ300tもあるレリーフです。<br /><br />南インドのカルナタカ州カルカラにおいて、延べ57,000人の石彫師の手によって、彫刻されたもので、原図は奈良教育大学教授の小川清彦氏が、インドを旅し、釈尊の道を訪ねて構図をまとめたもので、数百に及ぶ佛伝図の中から、誰でも知っているという釈尊の道を描いています。<br /><br />インドでは、輸送の都合上で各場面を数個に分断し彫刻され、結合・修正は高松市郊外の庵治町で行われたようです。<br />本体の彫刻は、何千年もの間、石を刻んできたインドの技術者達の技術をそのまま伝えるため一切修正せず、レリーフを支える基壇の石も大観音石像と同じ古石が使用されているそうです。

    この寺院には、とにかく石造物が多いです。
    こちらは、天竺渡来佛伝図レリーフ「釈迦一代記」で、1987年に安置された、高さ3m、全長50m、重さ300tもあるレリーフです。

    南インドのカルナタカ州カルカラにおいて、延べ57,000人の石彫師の手によって、彫刻されたもので、原図は奈良教育大学教授の小川清彦氏が、インドを旅し、釈尊の道を訪ねて構図をまとめたもので、数百に及ぶ佛伝図の中から、誰でも知っているという釈尊の道を描いています。

    インドでは、輸送の都合上で各場面を数個に分断し彫刻され、結合・修正は高松市郊外の庵治町で行われたようです。
    本体の彫刻は、何千年もの間、石を刻んできたインドの技術者達の技術をそのまま伝えるため一切修正せず、レリーフを支える基壇の石も大観音石像と同じ古石が使用されているそうです。

  • 一際存在感がある香高山に立つ、天竺渡来 大観音石像、1983年3月に開眼法要が行われた全高20m、全重量1,200tの巨大な石像です。<br /><br />壷阪寺が行っている、インドハンセン病救済事業が縁で、インド国民の協力と南インドカルカラの三億年前の古石が、インド政府他多くの人の協力で提供され、インドの文化勲章受章者シェノイ氏及び延べ7万人の一門によって製作されたものです。<br /><br />巨岩は66個に分割して彫刻し、日本に運ばれ組み立てられました。<br />土台は深く岩盤まで掘り下げられ、数万巻の写経と土台石が埋納されていて、胎内には数万巻の写経と胎内石が納められています。

    一際存在感がある香高山に立つ、天竺渡来 大観音石像、1983年3月に開眼法要が行われた全高20m、全重量1,200tの巨大な石像です。

    壷阪寺が行っている、インドハンセン病救済事業が縁で、インド国民の協力と南インドカルカラの三億年前の古石が、インド政府他多くの人の協力で提供され、インドの文化勲章受章者シェノイ氏及び延べ7万人の一門によって製作されたものです。

    巨岩は66個に分割して彫刻し、日本に運ばれ組み立てられました。
    土台は深く岩盤まで掘り下げられ、数万巻の写経と土台石が埋納されていて、胎内には数万巻の写経と胎内石が納められています。

  • 天竺渡来 大観音石像真に横たわる、天竺渡来 大涅槃石像です。<br /><br />1999年に安置された、全長8mの涅槃像で、大観音石像と同じく、インドにおける国際交流・石彫事業の一環として製作されたものです。<br /><br />涅槃えて、入滅せんとする釈迦の姿を顕しています。<br />お釈迦様の最後の説法は「自灯明・法灯明」で、これは自らをよりどころとし、法を灯明し、法をよりどころとすることを説かれたもので、お釈迦様がいる、いないにもかかわらず、自分を頼りとし、正しい教えを頼りとすることを意味している、との事です。

    天竺渡来 大観音石像真に横たわる、天竺渡来 大涅槃石像です。

    1999年に安置された、全長8mの涅槃像で、大観音石像と同じく、インドにおける国際交流・石彫事業の一環として製作されたものです。

    涅槃えて、入滅せんとする釈迦の姿を顕しています。
    お釈迦様の最後の説法は「自灯明・法灯明」で、これは自らをよりどころとし、法を灯明し、法をよりどころとすることを説かれたもので、お釈迦様がいる、いないにもかかわらず、自分を頼りとし、正しい教えを頼りとすることを意味している、との事です。

  • 壷阪寺を後に、最後に国営飛鳥歴史公園「高松塚地区」に向かいます。<br /><br />高松塚は、7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の小さな円墳ですが、1972年3月に石室内に彩色壁画が発見され、戦後最大の発見として大きな注目を集めました。<br /><br />当初は、盗掘を逃れ残っていた銅鏡等から、7世紀末から8世紀初めの終末期のものと推定されていましたが、2005年の発掘調査によって、694年~710年の藤原京期のものと確定されました。<br /><br />高松塚壁画館は、「高松塚古墳」に隣接していて、館内には壁画発見当時の精密な壁画の模写や、剥落や汚れを加減した模写(一部復元模写)、さらに凝灰岩に漆喰を塗り再現した「再現模造模写」があります。<br /><br />また、棺を納めていた石槨を復元した「石槨模型」や、副葬されていた太刀装飾金具、木棺金具、海獣葡萄鏡等の「副葬品レプリカ」も展示されていて、高松塚古墳の全貌を、解りやすく解説されています。

    壷阪寺を後に、最後に国営飛鳥歴史公園「高松塚地区」に向かいます。

    高松塚は、7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の小さな円墳ですが、1972年3月に石室内に彩色壁画が発見され、戦後最大の発見として大きな注目を集めました。

    当初は、盗掘を逃れ残っていた銅鏡等から、7世紀末から8世紀初めの終末期のものと推定されていましたが、2005年の発掘調査によって、694年~710年の藤原京期のものと確定されました。

    高松塚壁画館は、「高松塚古墳」に隣接していて、館内には壁画発見当時の精密な壁画の模写や、剥落や汚れを加減した模写(一部復元模写)、さらに凝灰岩に漆喰を塗り再現した「再現模造模写」があります。

    また、棺を納めていた石槨を復元した「石槨模型」や、副葬されていた太刀装飾金具、木棺金具、海獣葡萄鏡等の「副葬品レプリカ」も展示されていて、高松塚古墳の全貌を、解りやすく解説されています。

    高松塚壁画館 美術館・博物館

  • 石槨の内部には、古代中国道教の影響を受けたと考えられる壁画があり、東壁には青龍と日像、西壁には白虎と月像、北壁には玄武、東西の両脇には人物像、天井には星宿図が描かれていました。<br /><br />被葬者は7~8世紀の皇子とみられる長身の男性、と推測されていますが、詳細は分かっていませんが、3つの主な説があるそうです。<br /><br />古墳の内部は、保存の為密閉されていて見学はできませんが、こちらにある精巧な模写や石槨の模型で当時の姿を感じることが出来ます。

    石槨の内部には、古代中国道教の影響を受けたと考えられる壁画があり、東壁には青龍と日像、西壁には白虎と月像、北壁には玄武、東西の両脇には人物像、天井には星宿図が描かれていました。

    被葬者は7~8世紀の皇子とみられる長身の男性、と推測されていますが、詳細は分かっていませんが、3つの主な説があるそうです。

    古墳の内部は、保存の為密閉されていて見学はできませんが、こちらにある精巧な模写や石槨の模型で当時の姿を感じることが出来ます。

  • 壁画の中でも特に、色彩鮮やかな西壁の女子群像は、国宝に指定されていて、教科書等にも紹介されています。<br /><br />発見された時には、記念切手も発行されたのを覚えています。

    壁画の中でも特に、色彩鮮やかな西壁の女子群像は、国宝に指定されていて、教科書等にも紹介されています。

    発見された時には、記念切手も発行されたのを覚えています。

  • 最後に、国営飛鳥歴史公園館に立ち寄りました。<br /><br />飛鳥歴史公園は、1966年「古都法」の公布により、明日香村は「古都」に指定され、村内全てが歴史的風土の保存地区となりました。<br /><br />ただ、高度経済成長期に入り、明日香村にも隣接する橿原市の開拓の波が押し寄せ、開発か保存かで村民の議論が深まる中、御井敬三氏が自らの思いをテープに吹き込み「声の直訴状」として佐藤栄作総理に送り、そこから飛鳥の保存が大きく動き出しました。<br /><br />1970年に「国営飛鳥歴史公園」の整備が始まり、1972年に高松塚壁画が発見され、1983年のキトラ古墳壁画の発見へと続きます。<br /><br />飛鳥の歴史的風土を保存し活用を図る上で拠点となる地域は、現在「高松塚周辺地区」「石舞台地区」「甘樫丘地区」「祝戸地区」「キトラ古墳周辺地区」の5地域あり、その歴史的蓄積や植生等を考慮して、周辺と調和した景観となるよう整備が進められています。<br /><br />公園といっても、エリアにはフェンスもなければ大きな看板も無く、1300年以上もの時の流れと共に、この地を守りたいという村民の熱い思いが凝縮されているように思います。

    最後に、国営飛鳥歴史公園館に立ち寄りました。

    飛鳥歴史公園は、1966年「古都法」の公布により、明日香村は「古都」に指定され、村内全てが歴史的風土の保存地区となりました。

    ただ、高度経済成長期に入り、明日香村にも隣接する橿原市の開拓の波が押し寄せ、開発か保存かで村民の議論が深まる中、御井敬三氏が自らの思いをテープに吹き込み「声の直訴状」として佐藤栄作総理に送り、そこから飛鳥の保存が大きく動き出しました。

    1970年に「国営飛鳥歴史公園」の整備が始まり、1972年に高松塚壁画が発見され、1983年のキトラ古墳壁画の発見へと続きます。

    飛鳥の歴史的風土を保存し活用を図る上で拠点となる地域は、現在「高松塚周辺地区」「石舞台地区」「甘樫丘地区」「祝戸地区」「キトラ古墳周辺地区」の5地域あり、その歴史的蓄積や植生等を考慮して、周辺と調和した景観となるよう整備が進められています。

    公園といっても、エリアにはフェンスもなければ大きな看板も無く、1300年以上もの時の流れと共に、この地を守りたいという村民の熱い思いが凝縮されているように思います。

    国営飛鳥歴史公園館 美術館・博物館

  • 日も傾いてきたので、飛鳥、橿原を後にR24から阪奈道路から四条畷に出て、外環状線から中央環状線で自宅に向かいます。<br />帰宅途中の車内で、奥様野球中継を見ていたのですが、阪神は最大7点のリードを守れず、DeNAに逆転負けを食らう、という今考えると今シーズンの結末を予感させるような試合となりました。<br /><br />どこかで夕食をと考えたのですが、結局「不二家 桃山台店」でいつものメニューを頂き、無事帰還しました。<br /><br />今回、これまで。<br />

    日も傾いてきたので、飛鳥、橿原を後にR24から阪奈道路から四条畷に出て、外環状線から中央環状線で自宅に向かいます。
    帰宅途中の車内で、奥様野球中継を見ていたのですが、阪神は最大7点のリードを守れず、DeNAに逆転負けを食らう、という今考えると今シーズンの結末を予感させるような試合となりました。

    どこかで夕食をと考えたのですが、結局「不二家 桃山台店」でいつものメニューを頂き、無事帰還しました。

    今回、これまで。

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