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今回は、JR「新橋駅」周辺を散策してみることにしました。JR「新橋駅」というとすぐ頭に浮かぶのは、サラリーマンや通行人などへのテレビの街頭インタビューや何か重大ニュースがあったときに配布される新聞の号外でしょう。この「新橋駅西口広場」(SL広場)は、その光景がよく放送される場所なのでほとんどの人が一度は見たことのある場所でしょう。当日、私もあやうくインタビューをされそうになりました。まず、「烏森口」方面からの散策です。最初に訪れたのが、細い路地の参道の奥にあり、ビルの谷間に囲まれた「烏森神社」です。「心願色みくじ」で有名ですが、「烏森神社」にしかない特別な「癌封じ御守り」もあります。次が「新橋駅西口広場」(SL広場)にある盲導犬の理解と活躍を広げるための拠点になった記念碑的な像である「乙女と盲導犬の像」です。次は、「新橋駅西口広場」(SL広場)のランドマーク的存在である「蒸気機関車C11形292号機」で、12、15、18時には汽笛が鳴らされ、ありし日の面影を垣間見ることができます。次は、JR「新橋駅」構内の散策です。JR「新橋駅」の北改札をでてすぐ正面にあるのが、「烏森駅開業時の柱」です。実は、現在の「新橋駅」は、明治42年(1909年)12月に電車専用の駅として開業した「烏森駅」がその前身です。ですからその関係の遺構として残されています。次は、北改札から駅構内に入り、向かうのは「京浜東北線」(品川・蒲田・横浜)方面の3番線ホーム4号車3番ドア付近です。そこには、線路上のレアなモニュメンである「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」があります。通勤ラッシュ緩和のために「横須賀線」を地下に移した際に建てられたものです。次がJR「新橋駅」の南改札を出て汐留方面に進むと「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」が、仲よく並んであります。何と「鉄道唱歌」は、全ての歌詞を載せると全5集、334番にもなる大長編唱歌です。その隣にあるのが「D-51機関車の動輪」で、子供の時に見た黒い煙を上げて走るD-51機関車が目に浮かびます。次が、JR「新橋駅」駅前ロータリーの都営バス乗り場の3、4番停留所の中間付近にある「狸広の像」です。よく見ると目がとても可愛く、愛くるしい顔をした開運の狸像でした。次が高層ビルの立ち並ぶシオサイト方面に移動します。まず、明治5年(1872年)に開業した日本最初の鉄道ターミナル「旧新橋停車場」の駅舎を当時と同じ場所に開業当時の外観と同じように忠実に再現した「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」です。文明開化当時からの鉄道の歴史が学べます。次が「昭和通り」の「銀座ときめき橋歩道橋」下の両側にある汐留遺跡を見に行きます。まず、「龍野藩脇坂家上屋敷」内の祠の参道から出土した「手水鉢」、次が大名屋敷の石組溝(排水施設)に使われていた「間知石と切り石」そして独眼竜正宗で知られた「伊達家上屋敷建物礎石」です。次に「銀座郵便局」方面に向かいます。「銀座郵便局」の窓口入口付近に、工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験がおこなわれた。ことを記念して「検査業務開始の地」碑が建立されました。「銀座郵便局」の脇には、「浜離宮前踏切跡」もあります。「浜離宮前踏切」は、「汐留貨物駅」と「東京市場駅」(築地市場)を結んでいた長さ1.1kmの貨物線の踏切跡です。次が、首都高速沿いに200mほど進むと、「浜離宮恩賜庭園」があります。江戸時代には「甲府浜屋敷」、「浜御殿」と呼ばれ、明治時代には「浜離宮」と名称を変え、そして、終戦後に、現在の「浜離宮恩賜庭園」となっています。「浜離宮恩賜庭園」は、「潮入の池」と二つの「鴨場」をもつ江戸時代の代表的な「大名庭園」で、江戸時代の大名屋敷で数多く作庭された「池泉回遊式庭園」です。そして、最後に向かったのが、JR山手線・京浜東北線「浜松町駅」のすぐそばにある「旧芝離宮恩賜庭園」です。「旧芝離宮恩賜庭園」は、30分あれば十分回れるコンパクトな大名庭園ですが、全体を見渡した時に不思議な感覚を覚えた庭園でもありました。ごつごつした石組の、まるで磯のような水辺だったからです。今回の散策巡路は、下記に取りまとめてあります。<br /><br />【今回の散策順路】<br />①《烏森神社》⇒②《乙女と盲導犬の像》⇒③《蒸気機関車 C11形292号機》⇒④《烏森駅開業時の柱》⇒⑤《汽笛一聲 新橋地下駅開業記念》⇒⑥《鉄道唱歌の碑》⇒⑦《狸広の像》⇒⑧《旧新橋停車場 鉄道歴史展示室》⇒⑨《手水鉢(汐留遺跡)》⇒⑩《間知石と切り石》⇒⑪《伊達家上屋敷建物礎石》⇒⑫《検査業務開始の地》⇒⑬《浜離宮前踏切跡》⇒⑭《浜離宮恩賜庭園》⇒⑮《旧芝離宮恩賜庭園》<br /><br />では、早速新橋駅周辺の散策に映りたいと思います。まず、向かったのは「烏森神社」です。<br /><br />01_「烏森神社」<br />「烏森神社」へのアクセスは、JR「新橋駅」の烏森口を出て、横断歩道を渡り、左方向に進むと「烏森通り」になります。「烏森通り」を右折し、「ニュー新橋ビル」沿いに110mほど進むと、信号がありますので横断歩道を渡ります。「ファミリーマート新橋駅西店」があり、その先の角を右折し、飲み屋が軒を連ねる細い路地を30mほど進むと、正面に「烏森通り」の石鳥居が姿を現します。<br />最初に、「烏森神社」の歴史と概要について紐解いてみたいと思います。「二の鳥居」をくぐると右手に「烏森神社縁起板」がありました。それによると天慶3年(940年)に、東国で「平将門」が乱を起こしました。むかで退治で有名な時の将軍「藤原秀郷」が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を「藤原秀郷」に与えました。「藤原秀郷」は、その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、「藤原秀郷」はお礼に一社を勧請しようとしたところ、再度、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げました。そこで「桜田村」の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営しました。それが、「烏森稲荷」の起こりだそうです。そして、「烏森神社」が人々に崇敬されているのは、明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」(振袖火事)が起こった際に、江戸市中は焼け野原となり、もちろん「烏森稲荷社」の周辺も大方焼けてしまいました。ところが「烏森稲荷社」だけは不思議にも類焼を免れました。これは神威の致すところと考えられ、以降「烏森稲荷社」に対する信仰は日に日に厚くなっていきました。また、「椙森神社」(日本橋)、「柳森神社」(神田)と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されています。明治6年(1873年)にはこれまでの「烏森稲荷社」の社名を「烏森神社」と改め、新橋烏森の守り神として多くの人々の信仰を得ています。そして、昭和46年(1971年)には「社殿」を造営し現在に至っています。<br />それでは、さっそく参拝したいと思います。まず驚いたのが「二の鳥居」の形です。今まで見てきた「神明鳥居」や「明神鳥居」などの通常のものと、鳥居の形がまったく違っています。一般的には、二本の柱と柱の上に乗せた「笠木」が広がっているのですが、広がりの部分がありません。大都会の神社なので、スペースの関係でしょうか。「二の鳥居」をくぐると、右手に「縁起板」と一体になったコンパクトな「手水舎」があります。左手には「神輿庫」があり、その先には「狛犬が」が鎮座しています。そして、15~16段の石段があり、それを上ると「拝殿」があります。参拝を終え石段を降りると、左手に「社務所」があります。右手には、「心願色みくじ用の書き処」があり、インスタ映えするフォトスポットとしても人気のスペースです。「心願色みくじ」は、「烏森神社」独自のおみくじで、色で叶える「おみくじ」と「願い札」と「願い玉」がセットになっており、同じ色のペンで願い事を書き入れます。赤色が恋愛、良縁、黄色が金運、幸運、商売、青色が厄祓、仕事学業、緑色が健康家庭です。専用書き処にて同色のペンで願い事を書いたあとに、お御籤掛けの結び紐に付けます。この願い札は後日、神職により心願成就祈願が行われるそうです。その他に、「鈴守」や「御恵守」もあります。「鈴守」は「天鈿女命」にあやかった御守で、身体の前で左・右・左と3度振って身を清めます。まるで自分が神職になった気分になれます。「御恵守」は御守袋5色で内符が10種類あり、願い事によって選ぶことができるものです。そして最後に、忘れてはならない、「烏森神社」にしかない特別な御守りを社務所でいただきます。それは「癌封じの御守り」です。有名な女優さんもここに通い癌を治したと言われています。<br />「烏森神社」の次は、「新橋駅西口広場」に戻り、「乙女と盲導犬の像」へ向かいます。「乙女と盲導犬の像」は、JR「新橋駅」の日比谷口を出ると、西口広場の「ニュー新橋ビル」の前にあります。<br /><br />02_「乙女と盲導犬の像」<br />「乙女と盲導犬の像」は、昭和44年(1939年)に「東京虎ノ門ライオンズクラブ」によって建立され、当初は、「日比谷公園」の「心字池」の西側に置かれていました。そして、昭和49年(1974年)10月28日に、この像は盲導犬の認知度を上げるために、「日比谷公園」から現在の「新橋駅西口広場」に移設されました。「乙女と盲導犬の像」は、向かって左側にワンピース姿の少女とその左側には、ハーネス(胴輪)を装着した盲導犬の「ジャーマン・シェパード」が仲良く並んでいる像です。少女は、安心してハーネスのハンドルを左手で握っているようにも見えました。ちなみに、現在よく見かけるのは、主に「ラブラドール・レトリーバー」と「ゴールデン・レトリーバー」ですよね。レトリーバは、頭がいい上に性格が穏やかで見た目が愛らしいので社会に受け入れられやすいからです。言うまでもなく「乙女と盲導犬の像」は、盲導犬普及のために設置された銅像です。昭和42年(1967年)に「財団法人日本盲導犬協会」が設立され、昭和44年(1969年)6月28日に「乙女と盲導犬の像」が設置され、この銅像の設置を機に盲導犬パレードや募金活動がはじまりました。台座には作詞家、脚本家の「川内康範」による詩が刻まれています。「川内康範」は、大正9年(1920年)2月26日に北海道函館市で生まれました。「川内康範」は、作詞家、作詩家、脚本家、政治評論家です。1950年代から数多くの映画やテレビドラマの原作や脚本を手がけ、代表作は、原作・脚本・主題歌作詞を務めた、誰もがみんな知っている「月光仮面」です。次が、同じ「新橋駅西口広場」(SL広場)にある「蒸気機関車C11形292号機」へ向かいます。<br /><br />03_「蒸気機関車C11形292号機」<br />「新橋駅西口広場」(SL広場)は、サラリーマンなどへのテレビの街頭インタビューなどがよくおこなわれる場所なので、ほとんどの人が一度は見たことのある場所でしょう。当日、私もインタビューをされそうになりました。「新橋駅西口広場」(SL広場)にある蒸気機関車(SL)の静態展示が「蒸気機関車C11形292号機」です。ここに、「蒸気機関車C11形292号機」が展示されたのは、昭和47年(1972年)に、新橋駅(汐留駅)から一番列車が出発した鉄道発足100周年を記念して設置されました。「蒸気機関車C11形292号機」は、昭和20年(1945年)に製造され、姫路機関区へ配属ののち中国地方の播但線・姫新線などで運行されました。昭和47年(1972年)に廃車となり役目を終え、現在の「新橋駅西口広場」(SL広場)に設置されました。当時の国鉄(現JR)から港区へ無償貸与され静態保存されています。「C11形」はローカル線や入換えなどに用いられた小型機関車で資材、熟練工とも不足する戦時中の一両なので煙突後部の蒸気溜や砂箱が細工の容易な角型でできています。ですから、蒸気機関車というと思い浮かぶ「D51形」比較すると、それほどの重厚感はありませんが、戦後の日本の復興に貢献したことには間違いないと思います。12、15、18時には汽笛が鳴らされ、ありし日の面影を垣間見ることができます。「蒸気機関車C11形292号機」は、すっかり駅頭のランドマークとなっています。そして、毎年冬の時期になるとイルミネーションが実施されているようです。機会があれば点灯される時間帯に行ってみたいと思います。次は、JR「新橋駅」構内に移動し、「烏森駅開業時の柱」へ向かいます。<br /><br />04_「烏森駅開業時の柱」<br />JR「新橋駅」の北改札をでてすぐ正面にあるのが、「烏森駅開業時の柱」です。日本人や外国人の旅行客が絶えず「烏森駅開業時の柱」の前にいました。私見ですが、記念のモニュメントと気づかず、待ち合わせ場所として利用されている感じです。現在の「新橋駅」は、明治42年(1909年)12月に電車専用の駅として開業した「烏森駅」がその前身です。「烏森駅」は、わが国初の煉瓦アーチ橋の高架駅として誕生しました。明治5年(1872年)10月14日に、「新橋―横浜間」に日本で最初の鉄道が開業いたしました。当時の「新橋駅」は、現在の東新橋付近に設置され、「新橋停車場」として親しまれましたが、大正3年(1914年)に、「東京駅」が完成しました。東海道線の始発駅が「東京駅」に変更された際に、それまで始発駅であった「新橋駅」は、「東京駅」の開業により42年間の幕を閉じました。「新橋駅」は「汐留駅」と改称され貨物専用駅となり、「汐留駅」も昭和61年(1976年)に役割を終えました。「烏森駅」が二代目の「新橋駅」となりました。「烏森駅」ができた当初は2面4線の駅で、東海道線と山手線が使用していました。大正3年(1914年)に「東京駅」から京浜線の運転が開始され、山手線と線路を共用していました。昭和31年(1956年)に「田端~田町間」の線路を増設して山手線と京浜東北線が分離され、現在の新橋地上駅の状態となりました。平成14年(2002年)に、3、4番線ホームのエスカレーター新設に伴う階段解体工事のため、93年間ホーム階段を支えてきた「明治41年(1908年)製造」の柱をはずして、現在地に保存したそうです。次は、北改札口からJR「新橋駅」構内に入ります。向かうのは「京浜東北線」(品川・蒲田・横浜)方面の3番線ホーム4号車3番ドア付近です。<br /><br />05_「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」<br />「烏森駅開業時の柱」の次は「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」の碑を目指します。「汽笛一聲新橋地下駅開業記念碑」は、レアなモニュメントで、電車の通っている線路付近にあります。まず、券売機で入場券を購入し、北改札口からJR「新橋駅」構内に入ります。向かうのは「京浜東北線」(品川・蒲田・横浜)方面の3番線ホーム4号車3番ドア付近です。3番線ホームと2番線ホームとの間の線路わきには「汽笛一聲 新橋地下駅開業記念」のモニュメントがあります。「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」の碑は、昭和51年(1976年)に、通勤ラッシュへの対応のため輸送力増大の目的で「新橋駅」内の線路を移設し、「横須賀線」を地下に移した際に建てられたものです。ホームを端から端まで歩き、見つけた時の喜びは言いようがありませんでした。電車が次から次へと入線し、乗客が下車するので、周囲を気にしながら写真を撮るのは結構大変でした。<br /><br />06_「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」<br />「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」の次は「鉄道唱歌の碑」へ向かいます。JR「新橋駅」の南改札を出て、左方向に進むと「烏森口」(汐留方面)があります。「烏森口」(汐留方面)を出て、左方向に進むと、左手すぐの所に「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」があります。<br />向かって右側にある「鉄道唱歌の碑」は、昭和32年 (1957年)10月4日に、「鉄道開通85周年記念」の作詞家である「大和田建樹の生誕100年」を記念して建立されたパブリックアートです。「鉄道唱歌」は、「大和田建樹」自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録でもあります。「鉄道唱歌の碑」には、1番の歌詞と記念の文が刻まれています。ちなみに、「鉄道唱歌」は、全ての歌詞を載せると全5集、334番にもなる大長編唱歌です。この歌が出来た当時の「新橋駅」は、現在のゆりかもめ「新橋駅」の向こう側に設置されていたことから、その方向に向かって建てられたのだそうです。<br />向かって左側にある「D51形蒸気機関車」は、「デゴイチ」の愛称で親しまれた機関車です。昔、相撲界に黒姫山という関取がいて、馬力の強い押し相撲を得意としていたので、「デゴイチ」というのを子供心に覚えています。ちなみに、「D51形蒸気機関車」は、「日本国有鉄道」(国鉄)の前身である「鉄道省」が設計、製造した、単式2気筒で過熱式の「テンダー式蒸気機関車」です。「D51形蒸気機関車」は、主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しており、「ディーゼル機関車」や「電気機関車」などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録したそうです。「D-51機関車の動輪」は、「新橋駅」への総武快速線・横須賀線乗入を記念して昭和51年(1976年)に現在の地へ設置されました。<br /><br />07_「狸広の像」<br />「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」の次は、「狸広の像」です。「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」から「狸広の像」までは、徒歩2分160mほどの距離です。JR「新橋駅」の銀座口方面に60mほど進むと横断歩道がありますので渡ります。横断歩道を渡ったら、右方向に進み、駅前ロータリーを回り込むように90mほど進むと、都営バス乗り場の3、4番停留所の中間付近に「新橋駅前ビル1号館」入口があり、その中央に「狸広の像」が腰を据えています。<br />「狸広の像」は、平成3年3月9日に建立されました。最初に、「新橋」の地理的時代背景と発展状況を紐解いてみると、江戸時代の「新橋」は狐や狸などが出没し、また、けもの道がたくさんあり人もよりつかない辺ぴなところだったようです。それが明治時代になり鉄道建設が始まりました。鉄道建設工事のために、新橋周辺を開拓したところ、狸が住んでいることが分かり、その巣の中に3匹の子狸がいたそうです。鉄道開通工事の関係で巣はやむなく取り壊し、その代わりに3つの小屋を建て、作業員が餌を与えていたそうです。その場所が丁度この「新橋駅前ビル1号館」だったそうです。やがて、3匹の子狸が巣立ち、子狸たちが残した3つの小屋を中心に、人々が集まり、お酒を楽しむ場所になったそうです。それがきっかけとなり、飲食店が次々と作られ、界隈が繁昌し、やがて「狸小路」という繁華街に発展しました。つまり、狸が開運を導いてくれたということで、開運の「狸広の像」が設置されました。今も右手に「通い帳」、左手に「打ち出の小づち」を持った姿は、愛くるしく見えます。ちなみに、クリスマスには「たぬサンタ」、お正月には「注連縄サンタ」に変身するそうです。<br /><br />08_「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」<br />「狸広の像」の次は「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」へ向かいます。「狸広の像」から「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」までは、徒歩5分300mほどの距離です。「狸広の像」から戻るようにして90mほど直進すると「都道405号」(外堀通り)になります。「せとうち旬彩館」のところを右折して、210mほど道なりに直進すると、「パナソニック東京汐留ビル」の手前右手に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」があります。<br />最初に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の歴史と概要をみてみると、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」は、明治5年(1872年)に開業した日本最初の鉄道ターミナル「旧新橋停車場」の駅舎を当時と同じ場所に開業当時の外観と同じように忠実に再現し、平成15年(2003年)にオープンしました。「鉄道歴史展示室」は、一階が「常設展示」、二階が「企画展」に分かれています。日本の鉄道発祥地である汐留の歴史をご紹介するとともに、明治期に日本の近代化を牽引した鉄道の発展を垣間見ることができます。特に、「常設展示」では、お雇い外国人が使用した西洋陶磁器、改札鋏や工具類などの金属製品、汽車土瓶など発掘調査で出土した遺物や床の一部がガラス張りになっていて、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることもできます。また、二階で行われる「企画展」は、展示替えが3回行われ、今回は、第64回目の企画展で、埼玉県さいたま市にある「鉄道博物館」の所蔵資料約67万点の中から、平成19年(2007年)の開館以来展示される機会のなかった資料や、近年収蔵した様々なコレクション資料を中心に、「驚おどろき・鉄道博物館収蔵展」と題して開催展示しています。期間は、2024年8月6日(火)から11月24日(日)までとなっています。<br />それでは、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」に入館します。まず、一階の受付で写真撮影について尋ねてみたところ、1Fの「常設展示」は撮影が可能ですが、2Fの「企画展示」は、撮影が一切できないということでした。受付の係員が、まず2Fの「企画展示」から見て1Fの「常設展示」を見てくださいというアドバイスがありました。「企画展示」では、鉄道の歴史や汐留界隈の郷土史などをテーマとした歴史資料が展示されています。螺旋式の階段を昇り、「企画展示」へ入ると、すぐ左手に「映像の記憶」コーナーがあり、大きなプラズマディスプレイが設置されていて、鉄道開業の歴史的な経緯や往時の「新橋停車場」と「汐留」の活気ある様子などを伝える映像が映し出されていました。そのほか、「鉄道博物館」の前身の「交通博物館」時代の資料や、鉄道以外の交通系資料、あの懐かしい「青春18きっぷ」などのポスターや鉄道をモチーフにしたキャラクターなどもありました。ここで、特に、面白いものが展示されていました。それは、列車に変身するトランスフォーマーのようなロボットの大きな模型が展示されていました。それと注意すべきことが一点あります。2Fの「企画展示」へ通じる螺旋階段の上の天井から垂れ下がるバナーは、いずれも明治時代の新橋停車場が描かれている「港区立郷土歴史館」所蔵の錦絵ですが、残念ながら、これも撮影禁止だと言われました。<br />1Fの「常設展示」へ進むと、年表や地図によって、汐留地区の移り変わりと鉄道の発展の歴史を紹介する「汐留の記憶」のパネル、「旧新橋停車場駅舎」の縮尺100分の1の模型、発掘された「旧新橋停車場駅舎」や「プラットホーム」の石積みや基礎の構造を紹介する「駅舎とプラットホーム」のパネル、お雇い外国人が使用した西洋陶磁器、改札鋏や工具類などの金属製品、汽車土瓶など発掘調査で出土した遺物出土物が語る「旧新橋停車場」、<br />そして、1Fの「常設展示」の一番の見どころである「遺構見学窓」があります。「遺構見学窓」は、1階展示室の床の一部をガラス張りにして、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることができます。また、同じ建物内に隣接して「お茶の文化創造博物館&#183;お~いお茶ミュージアム」も右手にあります。<br />そして、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の建物の裏側には、プラットフォームや0哩標識(ゼロマイルポスト)もありました。こちらは、見学自由となっています。<br /><br />09_「手水鉢(汐留遺跡)」<br />「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の次は「手水鉢(汐留遺跡)」へ向かいます。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」から「手水鉢(汐留遺跡)」までは、徒歩7分490mほどの距離です。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」を出て、右方向に進むと「蓬莱橋歩道橋」があります。「蓬莱橋歩道橋」を渡り道路の反対側に向かいます。「蓬莱橋歩道橋」を降りて左方向に200mほど進むと「銀座ときめき橋歩道橋」の下に「手水鉢(汐留遺跡)」があります。<br />「手水鉢(汐留遺跡)」は、現在の兵庫県にあった「龍野藩脇坂家上屋敷」内の祠の参道から出土したものです。「龍野藩脇坂家」は、「徳川家康」の江戸入府以後の町作りによる埋め立てによって陸地化した汐留地区に、初めに屋敷の拝領を受けました。「手水鉢」には、「奉献 羽団扇紋 ○月吉○」と刻まれていました。<br /><br />10_「間知石と切り石(汐留遺跡)」<br />「手水鉢(汐留遺跡)」の次は、「間知石と切り石(汐留遺跡)」です。「間知石と切り石(汐留遺跡)」は、「手水鉢(汐留遺跡)」から横断歩道を渡るとすぐの所にあります。やはり、「銀座ときめき橋歩道橋」下にあり、距離にして1分25mの距離です。<br />「間知石と切り石(汐留遺跡)」の説明板によると、四角錘の形をした「間知石」と、板状に加工された「切り石」は、大名屋敷の石組溝(排水施設)に使われていたものだそうです。ちなみに、「汐留」の地名は、江戸城外堀と海を仕切る「土橋」に設けられていたため、ここからは海の水が外堀に入り込めない、つまり「汐が留まる」ことから付近の地名として使われるようになったものだそうです。<br /><br />11_「伊達家上屋敷建物礎石」<br />「間知石と切り石(汐留遺跡)」の次は「伊達家上屋敷建物礎石」です。「銀座ときめき橋歩道橋」を渡り「昭和通り」の反対側に降ります。進行方向右側の階段を降ります。距離にして1分47mほどです。<br />「仙台藩」(伊達家)は、江戸初期の寛永18年(1641年)頃から「仙台藩」がこの地に上屋敷を設けました。「仙台藩上屋敷」は、立地を生かし、江戸でも最大級の船入場が設けられた邸であったといわれています。明治以降は、日本初の鉄道の起点として「新橋駅」が開業し、昭和61年(1986年)に廃止されるまで、長い間鉄道駅として使用されていました。平成7年(1995年)から再開発が始まり、この時、江戸時代の「仙台藩上屋敷跡」が遺跡として発掘されました。この時発掘された「伊達家上屋敷建物礎石」が銀座七丁目交差点付近の「銀座ときめき橋歩道橋」下に置かれています。ちなみに、「仙台藩」の藩祖は、あの有名な戦国大名として知られる「伊達正宗」です。<br /><br />12_「検査業務開始の地」<br />「伊達家上屋敷建物礎石」の次は「検査業務開始の地」へ向かいます。「伊達家上屋敷建物礎石」から「検査業務開始の地」へは、徒歩4分280mほどの距離にあります。「伊達家上屋敷建物礎石」から「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」方向へ戻ります。140mほど進むと「首都高速八重洲線」が見えてきます。突き当りになりますので、左折し120mほど進むと「銀座郵便局」の窓口入口の手前に「検査業務開始の地」の碑があります。<br />「検査業務開始の地」の碑に刻まれた説明文によると、「明治9年(1876年)6月17日に、この地に工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験がおこなわれた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。」と書かれていました。要は、外国から輸入された通信器材である「碍子」などを検査する目的で工部省電信寮の碍子試験所を発足させたということでしょうか。そう言えば、東京と横浜間で電信が行われたのは、明治2年(1869年)だったと思います。これから推測すると、送信網構築に欠かせない「碍子」の検査を行った場所ということですね。ちょっと気になったのでネットで調べてみると、明治の初めは、日本でも輸入品の「ガラス碍子」を用いて電信網を少しずつ広げていったそうです。その後、「碍子」の歴史的転換期となったのが、明治3年(1870年)に佐賀の「八代深川栄左衛門」が日本伝統の技術を活用して「陶器製の碍子」を製造し始めま、これが電信網の普及に大いに貢献したそうです。ちなみに、「碍子」は、電線とその支持物とのあいだを絶縁するために用いる器具のことです。鉄塔、電車の架線、変圧器などに必ず付いている部品であり一般的には白のそろばん状の物で、材質はセラミックスがほとんどです。セラミックス製は、絶縁性、耐候性、強度が優れています。「碍子」は、絶縁性、耐候性、強度に優れているために変電所、電車の架線など強い電流が流れてきても耐えうる力を持っています。できればもう少し詳しい説明文があればよかったと思いました。<br /><br />13_「浜離宮前踏切跡」<br />「検査業務開始の地」の次は「浜離宮前踏切跡」へ向かいます。「検査業務開始の地」から「浜離宮前踏切跡」までは、徒歩1分70mほど先の横断歩道の左手前に「浜離宮前踏切跡」があります。<br />「浜離宮前踏切」は、「汐留貨物駅」と「東京市場駅」(築地市場)を結んでいた長さ1.1kmの貨物線の踏切跡で、通称「東京市場線」と呼ばれるこの路線は、昭和10年(1935)年2月に、「築地市場」の開場と同時に開業しました。「東京市場線」は、広大な「汐留貨物駅」の片隅から線路が延び、「汐留川」(現在の「海岸通り」)を渡り、その先にこの踏切がありました。線路は「築地川」を渡り「築地市場」につながっていました。「東京市場線」は、昭和6年(1931年)から昭和62年(1987年)まで使用され、鮮魚列車などが運行されて東京の食を支えていましたが、「汐留貨物駅」とともに廃止されました。線路跡は現在、8mほどの道路になっており、交差点に立つ踏切は「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機」と書かれた案内板があります。踏切の台座には、「説明書き」と「保存理由」の銘板が設置されています。ただし、踏切自体は、サビが目立ち、歴史を感じますが、せっかく保存したなら手入れをキチンとしてほしいものですね。<br /><br />14_「浜離宮恩賜庭園」<br />「浜離宮前踏切跡」の次は、「浜離宮恩賜庭園」へ向かいます。「浜離宮前踏切跡」から「浜離宮恩賜庭園」へは、徒歩3分200mほどで行くことができます。「浜離宮恩賜庭園」の出入口は、「大手門口」の「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」と「中の御門口」の「中の御門売札所」の二箇所です。今回は、「大手門口」から入場しました。「浜離宮前踏切跡」から「首都高速八重洲橋線」沿いに100mほど直進すると信号があります。ここまで来ると左斜めに「浜離宮恩賜庭園」が見えてきます。横断歩道を渡り左方向に50mほど進むと「大手門橋」がありますので、それを渡り100mほど進むと「大手門口」の正門があり、その先に「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」があり、入場券を購入します。<br /><br />【「浜離宮恩賜庭園」のお薦め見学順路】<br />今回は、「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」から時計回りの方向で「浜離宮恩賜庭園」を見学することにしました。<br />①《三百年の松》⇒②《内堀》⇒③《お花畑》⇒④《ボタン園》⇒⑤《旧稲生神社》⇒⑥《梅林》⇒⑦《水上バス発着場》⇒⑧《灯台跡》⇒⑨《将軍お上がり場》⇒⑩《横堀水門》⇒⑪《「樋の口山」と「新樋の口山」》⇒⑫《汐見の御茶屋跡》⇒⑬《富士見山》⇒⑭《潮入の池》⇒⑮《観音堂跡》⇒⑯《馬場跡》⇒⑰《新銭座鴨場》⇒⑱《中島の御茶屋》⇒⑲《お伝い橋》⇒⑳《燕の御茶屋》⇒&#12881;《鷹の御茶屋》⇒&#12882;《松の御茶屋》⇒&#12883;《御亭山》⇒&#12884;《庚申堂鴨場》⇒&#12885;《休憩所》⇒&#12886;《芳梅亭》⇒&#12887;《明治天皇銀婚式記念可美真手命像》⇒&#12888;《延遼館跡》<br /><br />「浜離宮恩賜庭園」の歴史と概要を紐解いてみると、まず、名称の変遷という観点に着目してみると、江戸時代には「甲府浜屋敷」、「浜御殿」と呼ばれ、明治時代には「浜離宮」と名称を変え、そして、終戦後に、現在の「浜離宮恩賜庭園」となっています。「浜離宮恩賜庭園」は、寛永年間までは、将軍家の鷹狩場で、辺り一面芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、4代将軍「徳川家綱」の弟で甲府宰相 の「松平綱重」です。承応3年(1654年)に、「松平綱重」は将軍から海を埋め立てて「甲府浜屋敷」と呼ばれる別邸を建造しました。その後、6代将軍「徳川家宣」のときに、「甲府浜屋敷」は、将軍家の別邸となり、名称も「浜御殿」と改められました。その後、「徳川家宣」(家宣) が6代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も「浜御殿」と改められました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、11代将軍「徳川家斉」のとき11代将軍「徳川家斉」のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治時代になると皇室の離宮となり、名称も「浜離宮」と改められました。そして、昭和20年(1945年)11月3日に、東京都に下賜され、「浜離宮恩賜庭園」となり、昭和21年(1946年)4月1日に一般に有料公開されるようになりました。<br />「浜離宮恩賜庭園」は、「潮入の池」と二つの「鴨場」をもつ江戸時代の代表的な「大名庭園」で、江戸時代の大名屋敷で数多く作庭された「池泉回遊式庭園」です。広大な池泉の周囲を回遊して鑑賞する形式の庭園で、小島、橋、飛び石、築山。茶亭などの特色が良く残されています。ちなみに、「潮入の池」とは、海水を導き、潮の満ち引きによって創り出される多様な景観の変化が望めるようになっているもので、海辺の大名庭園でよく用いられていた建築様式です。「旧芝離宮恩賜庭園」、「清澄庭園」、「旧安田庭園」なども昔は「潮入の池」でしたが、現在、実際に海水が出入りしているのは、「旧芝離宮恩賜庭園」だけです。「旧浜離宮庭園」は、四方を築地川、汐留川、東京湾で囲まれた約25万㎡の敷地面積を誇る広大な庭園です。また、「浜離宮恩賜庭園」は、国の文化財保護法に 基づき、昭和23年(1948年)12月には「国の名勝及び史跡」に、同27年(1952年)11月には周囲の水面を含め、「国の特別名勝及び特別史跡」に指定されました。ちなみに、「特別名勝」とは、国宝と同格で国から指定を受けている大変価値の高い景観のこと、「特別史跡」とは 国が文化財保護法で指定した史跡のうち、学術上の価値が特に高く、わが国の文化の象徴たるものです。 国宝(建築物、美術工芸品、文書などで使われる概念)と同格のものです。特に、「特別名勝」と「特別史跡」の二重指定を受けている日本庭園については、全国的に見ても9カ所程度で、都内には「浜離宮恩賜庭園」、「小石川後楽園」の2カ所、京都府に3カ所、岩手県、福井県、奈良県、広島県に各1カ所しかありません。<br /><br />① 「三百年の松」<br />「三百年の松」は、「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」のすぐ近くにあり、太い枝が低く張り出し、ひときわ存在感を放っています。「三百年の松」は、今から約300年前に、6代将軍「徳川家宣」が、庭園を大改修したとき、その偉業をたたえて植えられたといわれている松です。「三百年の松」は、都内最大級の松として知られ、何本かの松の木が集まっているように見えますが、実は一本の黒松のみで横から見ると一本の幹から二股に分かれていることが確認できます。松の枝が下にせせり出すように生えた黒松の迫力は圧巻です。遠くから近くから、左右、正面色々な角度で見るとその真の姿を確認できます。<br /><br />② 「内堀」<br />「三百年の松」を進むと、前方に石橋と右手の方に堀が見えてきます。これが「内堀」です。江戸時代の「浜御殿」は、現在の庭園というイメージではなく、庭園以外に、様々な機能を持っていました。何故かというと、飢饉に備えた貯蔵庫でもあり、また、江戸城で必要とする物資の荷揚げ場でもあったりしました。その他に、水軍の拠点でもあったり、薬園などもあったそうです。そのような色々な機能がある中で、「内堀」は、「築地川」から構内に深く入り込んでおり、各地から運ばれてきた物資を「籾倉」に保管した後、江戸城に入れるための港湾施設でした。「内堀」の東側(石橋に立ち左側)は、広場になっていますが、かつてはここに2棟、合計4棟の「籾倉」がありました。「内堀」には荷揚げ場の石段が残っています。フジツボ・カキなどの貝類が石垣に付着しているので、海水が引き込まれていることが分かります。水門による水位の調節ではなく、園内で唯一自然の潮汐を見ることができる場所だそうです。「籾倉」の説明板の手前には「藤棚」もあります。<br /><br />③ 「お花畑」<br />「内堀」のある「内堀広場」の最初にあるのが「お花畑」です。私が訪れた日には、「キバナコスモス」、「コスモス」が美しく咲き誇っていました。まさに、オレンジと黄色の海原が目の前に広がっている感じです。この「お花畑」の最大の見どころは、2月下旬から4月下旬から見頃になる「菜の花」だそうです。約30万本の「菜の花」が咲き、目も覚めるような鮮やかな黄色いじゅうたんが広がる光景を見ることができるそうです。また、「菜の花」の「お花畑」の中を散歩すると、「菜の花」の独特の香りと、黄色に全身が包み込まれるような錯覚を体験することができるそうです。そして、8月中旬から9月下旬は、「キバナコスモス」、「コスモス」になり、輝くようなまばゆいばかりのオレンジ色と黄色で「お花畑」一面を覆います。<br /><br />④ 「ボタン園」<br />「内堀広場」の「お花畑」の奥にあるのが「ボタン園」です。残念ながら私が訪れた日は、9月初旬だったので、美しく咲き誇る「ボタン園」を見ることができませんでした。「ボタン園」には、八千代椿、紫雲殿、八雲など57種類、1200本のボタンが咲き誇り、訪れる人々の目と心を楽しませてくれるそうです。驚くべきはボタンの花の大きさで、どれも子供の頭ほどある大輪の花を咲かせるそうです。毎年4月の中旬から赤、ピンク、白など色とりどりの大輪の花が咲き始め、黄色の花びらのハイヌーンが開花すると「ボタン園」は終演を迎えるそうです。<br /><br />⑤ 「旧稲生神社」<br />「ボタン園」からもと来た道に戻ると少し先に「旧稲生神社」があります。「鳥居」をくぐると「稲荷社」(社殿)がありますが、柵が設けられ近づくことはできませんでした。説明板によると、「旧稲生神社」の創建年代は不詳ですが、江戸時代後期の絵図には現在の場所より西方に「稲荷社」が描かれていることから,庭園内に「稲荷社」が古くから祭られていたことは間違いないようです。現在の建物は,前身となる「社殿」が明治27年(1894年)6月20日の東京湾を震源とする地震で倒壊したため,翌明治28年(1895年)年に当時の宮内省内匠寮の手によって,同規模・同形式で再建されたものです。大正12年(1923年)の関東大震災では倒壊は免れましたが大きく傾き、昭和6年(1931年)になって大修理が行われています。戦後は十分な管理が行われないまま、朽ち果てる寸前であったものを平成17年から1年10ヶ月かけて全解体し、明治時代の創建当時の姿を復元したそうです。残念ながら見ることができませんが、内部に祭られている「宮殿」は,その建築技法から江戸時代後期のものであると推定されています。<br /><br />⑥ 「梅林」<br />「旧稲生神社」から「水上バス発着所」の間には、「梅林」の道が続いています。「梅林」には、シラカガ、ブンゴウメなど約70本があり、「浜離宮庭園」全体では140本があるそうです。他の「大名庭園」も同じですが、どの「大名庭園」にもたくさんの梅の木が植えられています。これは、「天明の大飢饉」と呼ばれる大飢饉などがあり、その飢饉対策として梅の実の活用も兼ね植えられたそうです。「梅林」が見頃は、1月下旬から3月中旬頃です。その頃になると、独特の梅の香が辺りを包み、花が散る4月中旬以降には、梅の木の枝に鈴生りの実を間近に見ることができるそうです。<br /><br />⑦ 「水上バス発着場」<br />「浜離宮恩賜庭園」の中には「水上バス発着場」もあります。「水上バス発着場」は、右手に「梅林」を見ながら進むとすぐ先の左手にあります。「水上バス発着場」の停留所名は、もちろん「浜離宮」ですが、乗降する場合は「浜離宮恩賜庭園」の入園料が必要となりますので、注意してください。「水上バス」は、約40分で「浅草~浜離宮~日の出桟橋」間をつなぐ「隅田川ライン」(東京都観光汽船株式会社)と、2002年4月27日より、都の「東京水辺ライン」によって新たに運行が開始された「両国~浜離宮~葛西臨海公園」の二社による運行です。私が訪れた当日は、月曜日だったので休航で、入口が閉まっていました。ちなみに、「水上バスの発着所」は、江戸時代の船蔵の跡を利用したものだそうです。<br /><br />⑧ 「灯台跡」<br />「水上バス発着場」の右手前方には、「隅田川」河口の水面に面した場所に、周辺と比較すると小高い「灯台跡」がありました。灯台の面影はなく、礎石だけが残っています。実はこの場所には、三重県の安乗崎に明治9年(1876年)に建設された木造の洋式灯台が、昭和24年(1949年)に移され設置されていました。しかし、昭和30年(1955年)に横浜港に移されました。「安乗崎灯台」は、現在は、「船の科学館」で保存展示されているそうです。<br /><br />⑨ 「将軍お上がり場」<br />「灯台跡」から50mほど先の「隅田川」に面したところに「将軍お上がり場」があります。「将軍お上がり場」は、読んで字の如く、将軍が船で「浜御殿」に来た際に乗降する場所です。ちなみに、将軍が乗った「御座船」は、「天地丸」といい、現在は「船の科学館」に模型が展示されています。「天地丸」は、3代将軍「徳川家光」が「御座船」として建造したもので、その後、230年間以上、将軍の「御座船」として利用されました。「将軍お上がり場」は、昭和24年(1949年)の「キティ台風」で階段の一部が崩れて海中に沈みました 。また、現在は「お上り場」は、「将軍お上り場」一カ所だけしか残っていませんが、実は、江戸時代には、すぐ近くにもうひとつの石段があり、そこが、家臣たちが上陸する場所で「御付お上り場」と呼ばれていました。この「御付のお上り場」は、昭和24年(1949年)の「キティ台風」の際に海中に崩れ落ちてしまい、その後、復元されていません。しかし、干潮の時には、その「御付のお上り場」の痕跡をみることができるそうです。また、「将軍お上がり場」の別の側面の歴史の一コマもあります。それは、15代将軍「徳川慶喜」が、「鳥羽伏見の戦い」で敗れ、大阪城から軍艦「開陽丸」で江戸に逃げ帰り、慶応4年1月12日8時30分過ぎに「将軍お上り場」に上陸しました。<br /><br />⑩ 「横堀水門」<br />「将軍お上がり場」から「隅田川」沿いに75mほど進むと、東京湾の水位の干満に従って「潮入池」の水の出入りを調整している「横堀水門」が、「樋の口山」と「新樋の口山」の間にあります。「浜離宮恩賜庭園」を歩いていると、いくつかの水門を見かけましたが、「横堀水門」は一番大きい水門で、現在はポンプで海水を取り込んだり、池の水を排水しているようです。私が「横堀水門」に着いたときは、「潮入池」の水を排水していました。「水門」は、潮の干満を利用し「潮入の池」の水位を上下させ、池の風景も変わるように設計されています。なんと、池の干満の差は2mあり、現在も夜間以外は「水門」のセンサーで毎日水位の調節をしているそうです。「水門」や海水が流れる水路の壁には、フジツボ・カキなどの貝類がびっしりと付着していました。<br /><br />⑪ 「樋の口山」と「新樋の口山」<br />「横堀水門」を挟むようにしてあるのが、「潮入の池」に向かって右側の「樋の口山」と「潮入の池」に向かって左側の「新樋の口山」です。残念ながら「樋の口山」は登ることができず、まわりから眺めるだけの山ですが、「新樋の口山」は眺望も良く、庭園の緑越しに都心のオフィス街を眺めることができるそうです。とりあえず「新樋の口山」に登ってみると、東京湾がパノラマの景色で体験でき、前方には「レインボーブリッジ」、右手にはビル群が高く連なる臨海副都心が眺望できました。そして、夜間には、左手の晴海方面にある「トリトンスクエア」の夜景が三角形に輝き、日中では想像もつかない雰囲気を堪能できるそうです。ちなみに、このような「築山」は、江戸時代に各藩の大名が競って築造した庭園に人の手で造られた小高い山のことで、各藩の景勝地や名山などを縮景として多くの庭園に築かれました。代表的なものとして、六義園の藤代峠(標高35m)、小石川後楽園の「小盧山」(標高10m)、浜離宮恩賜庭園の「富士見山」(高さ5m)、旧芝離宮恩賜庭園の「大山」(高さ5m)などがあります。<br /><br />⑫ 「汐見の御茶屋跡」<br />「樋の口山」から90mほど進むと、「海手お伝い橋」の反対側の「隅田川」沿いに「汐見の御茶屋跡」があります。当時の面影はありませんが、土台の石組が残っています。「汐見の御茶屋」は、宝永4年(1707年)の6代将軍徳川家宣が船遊びや漁夫達の漁猟のようすを眺めるために建てた休憩所です。「汐見の御茶屋」の由来は、最も海の眺望に恵まれた場所に建てられたことだそうです。また、別名も海にちなみ「汐見の茶屋」であります。説明板には、「最初に建てられたのは、宝永4年(1707年)とされています。初代の建物は「海手茶屋」、「海涯の亭」などと称されており、房総半島などを望むことができ、風景を楽しんだり、船などの見物をしたようです。「汐見」と称されたのは、明治に入ってからと思われます。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により焼失してしまいました。「御茶屋」とは、茶室とは異なり、将軍の接待や休憩場所として建てられた建物です。」と書かれていました。<br /><br />⑬ 「富士見山」<br />「汐見の御茶屋跡」から「潮入の池」沿いに270mほど進むと、庭園の一番奥のところにビューポイントでもある高さ5mの「富士見山」があります。「浜離宮恩賜庭園」には、「富士見山」、「御亭山」そして「新樋の口山」の三つの築山があります。小高い丘の「富士見山」に登り、その頂上に立つと富士山や房総の山々、筑波山まで眺めることができたそうです。庭園の重要な要素である「眺望」を演出する場所でした。また、江戸時代に「富士見山」は、庭園の最南端の隅に位置していましたが、幕末に砲台を設置した際に、現在の場所に移されました。現在は、高層ビルが立ち並び「富士山」は見えませんが、「浜離宮恩賜庭園」全体を見渡すことができます。<br /><br />⑭ 「潮入の池」<br />「富士見山」から「潮入の池」の「大泉水」へ向かいます。「浜離宮恩賜庭園」は、「大名庭園」の伝統的な「回遊式庭園」のスタイルが取り入れられています。江戸時代には、海辺に面した「大名屋敷」などでは、海水を引き入れて池をつくる「潮入の池」が、流行していたそうです。「潮入の池」の最大の特徴は、潮の満ち引きによって生じる違った趣ある風景の変化が楽しめることです。<br />「浜離宮恩賜庭園」の「潮入の池」は、東京都内に残るのは唯一のもので、現在も東京湾の水位の上下に従って水門を開閉し、池の水の出入りを調節しています。私も「潮入の池」の周辺を散策しましたが、眺める場所によって、庭園の松やお伝い橋、池の周辺に点在する茶屋等様々な風情を楽しむことができました。「浜離宮恩賜庭園」の「潮入の池」には、ボラやハゼ、ウナギといった海の生物が生息しているのも見どころのひとつだそうです。私も目を凝らして水面を見たのですが、水面が太陽の光に反射して、発見することができませんでした。発見できたのは、池の周りの石に付着しているフジツボなどの貝類だけでした。<br /><br />⑮ 「観音堂跡」<br />「潮入の池」の大泉水から池沿いに沿って歩いていると「汐留水門」がありました。「横堀水門」と同じようにポンプで「潮入の池」の排水していました。大きさは断然、「横堀水門」の方が大きかったです。「汐留水門」から120mほど進むと前方に「観音堂跡」が見えてきます。「観音堂」は、宝永年間の1710年頃に建てられました。現在は階段だけしか残されておらず往時の面影はありません。残された石段の右手に説明板がありました。それによると徳川将軍家の別邸でもあった際は、将軍や訪れた客人も多くここに立ち寄った場所で、当時は、「観音堂」の左に鐘楼もあったそうです。家臣がこの庭園に招かれた際には、このあたりに植えられた木々は、記念品として贈られたといわれています。残念ながら、皇室の離宮になってから間もなく、なくなってしまったそうです。本当かどうか分りませんが、「観音堂」は「浜離宮恩賜庭園」のパワースポットだそうです。「観音堂跡」の御本尊は「慈覚大師」(円仁)の作と伝えられ、狩野派の絵師によって描かれた絵馬も掲げられていたそうです。<br /><br />⑯ 「馬場跡」<br />「観音堂跡」からさらに100mほど進むと「八景山」付近の左手に「馬場跡」の案内板があります。そこを左折し少し進むと、左右に「馬場跡」が広がっています。直線距離でどのくらいあるのか分りませんが、かなりの長さのある「馬場」です。「馬場跡」は、武芸鍛錬の場としても使われ、京都の寺社にある庭園と比較すると、「大名庭園」だけに見られる特徴です。現在の「延遼館跡」にかつてあった「表馬場」に対して「内馬場」と呼ばれ、将軍上覧の際の御座所や馬見所がありましたが、関東大震災による被害で取り壊されました。<br /><br />⑰ 「新銭座鴨場」<br />次は、「新銭座鴨場」へ向かいます。せっかくなので、馬の気持ちになって「馬場跡」を東の端から西の端まで歩いてみました。結構長い距離で、120m~130mくらいあるのでしょうか。100mほど進むと突き当りの手前に右に曲がる小道があります。小道を30mほど進むと「新銭座鴨場」がありました。ここも「浜離宮恩賜庭園」の大きな特徴だそうですが、「庚申堂鴨場」と「新銭座鴨場」の2つの「鴨場」があることです。現存する鴨引き場が残る「鴨場」は全国で5つしかなく、一般に通常公開しているのは「浜離宮恩賜庭園」のみとなっているそうです。築造は、「庚申堂鴨場」が安永7年(1778年)、「新銭座鴨場」が寛政3年(1791年)という歴史ある施設です。11代将軍「徳川家斉」の時代に最盛期を迎え、幕末から明治にかけて荒廃していったそうです。説明板によると、「鴨場」には、「鴨池」(元溜り)、「中の島」、「引堀」、「小土手」、「大覗」、「小覗」等鴨猟のための施設があります。そして、鴨の狩猟方法は、「元溜り」に、よく訓練されたおとりのアヒルを放しておきます。「大覗」という、「元溜り」を見渡せる監視所で、鴨などの集まり具合や風向きなどを確認し、どの引堀で猟をするかを決めます。見張りが隠れている「小覗」で、「板木」を叩いてき餌をまくと、おとりのアヒルが「引堀」に入ります。鴨はアヒルの後を追う習性があり、つられて引堀に入ってくるのです。「引堀」に引き入れる鴨の数も、確実に捕獲できる数をあらかじめ決めておき、一定数になると鞴を使って「引堀」の入り口を泡立てて、後の侵入をさえぎる仕掛けがありました。捕り手が「引堀」の「小土手」に隠れていて、合図を受けて鷹を放ち、鴨を捕らえるのです。明治以降は、「叉手網」を使いました。「叉手網」を逃れたものを鷹が飛び立って捕獲するのだそうです。逃してしまうと、鴨はその場所が危険だと仲間に知らせてしまうのです。残念ながら見落としてしまったのですが、「鴨場」の近くには、狩猟で獲物となった鴨を供養するため、昭和10年(1935年)11月に「鴨塚」が建てられたそうです。<br /><br />⑱ 「中島の御茶屋」<br />「新銭座鴨場」の次は、「中島の御茶屋」へ向かいます。「新銭座鴨場」に通じる小道を「馬場跡」を横切り直進すると「観音堂跡」にでます。「観音堂跡」のところで左方向に進むと前方に「中島橋」があります。「中島橋」を渡ると「中島の御茶屋」があります。「浜離宮恩賜庭園」には、「中島の御茶屋」、「松の御茶屋」、「燕の御茶屋」、「鷹の御茶屋」の4つの御茶屋があります。「御茶屋」とは、江戸時代の「大名庭園」等に設けられた園遊接待のための施設です。それぞれの御茶屋で、歴代の将軍たちは、招いた賓客とともに景色を楽しみながら食事や調度品を鑑賞するなどして過ごしていたそうです。また、鷹狩の際の休憩場所としても使用していました。しかし、残念ながら、これらの「御茶屋」は焼失してしまいました。現在ある「御茶屋」は歴史資料に基づき忠実に復元されたものです。宝永4年(1707年)に建造された「中島の御茶屋」は昭和58年(1983年)に再建され、11代将軍「徳川家斉」の時代に建てられた「松の御茶屋」は平成22年(2010年)、「燕の御茶屋」は平成27年(2015年)、「鷹の御茶屋」は平成30年(2018年)にそれぞれ再建されたものです。「中島の御茶屋」は、宝永4年(1707年)に、のちの6代将軍「徳川家宣」が建設したものです。4つの御茶屋の中で、室内からの眺めが素晴らしく、最も立派な御茶屋でした。「中島の御茶屋」は、別名「狎鴎亭」とも呼ばれていました。享保9年(1724年)におきた大災のため焼失し、64年後の天明8年(1788年)11代将軍「徳川家斉」の時代に再建されました。明治維新後皇室の離宮となり、18代アメリカ大統領「グラント将軍」が来日の際、27歳の「明治天皇」と憩いのひとときを過ごされた御茶屋でもあります。しかし、昭和19年(1944)11月29日第2次大戦の空襲により焼失しました。現在の建物は昭和58年(1983年)に再建され、建坪は約50坪、建築様式は、木造平屋建入母屋造り、一部寄棟銅板葺161.5㎡、霞台78.3㎡となっています。「中島の御茶屋」が鳥の最高峰である「鶴」の体、両側の「お伝い橋」が翼に見たてられています。「中島の御茶屋」では、大きなガラス張りの座敷に座って池を一望しながら、お茶とお菓子(抹茶セット)が1000円で楽しめます。<br /><br />⑲ 「お伝い橋」<br />「中島の御茶屋」の次は門を出てすぐ右手にある「お伝い橋」です。「お伝い橋」は、「潮入の池」の岸から「小の字島」と「中島」に架かるかぎ型の橋です。延長が約120mあり、高知県産の総檜造りの橋です。「中島の御茶屋」は、寛政9年(1793年)に11代将軍「徳川家斉」が架けたものが最初といわれています。当時は、橋全体がフジの回路になっていたといわれています。「中島の御茶屋」は、平成24年(2012年)に改修工事を終えました。ちなみに、「小の字島」の名前の由来は、「小の字島」を中心として左右に橋で結ばれた二つの飛島が配置されている形が、漢字の「小」の字に似ているところから名称がつけられたそうです。<br /><br />⑳ 「燕の御茶屋」<br />「お伝い橋」の藤棚を抜けると左手にあるのが「燕の御茶屋」です。「燕の御茶屋」は、11代将軍「徳川家斉」の時代にあった御茶屋のひとつです。「燕の御茶屋」の名前の由来は、施されている「釘隠し」の金物が「ツバメ」の形をしていたところからきているそうです。「燕の御茶屋」は将軍専用の「御茶屋」で、「燕の御茶屋」の中には、将軍が座るための1段高いしつらえがあり、そこに座って窓の外を見ると「大泉水」と「中島の御茶屋」方面が真っ直ぐに眺めら

新橋駅周辺の散策~鉄道唱歌を口ずさみながら鉄道の歴史を学びそして都内唯一の汐入の池のある大名庭園や付近の名所旧跡めぐりました。~

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2024/09/07 - 2024/09/07

98位(同エリア414件中)

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544

Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2024/09/07

  • JR北千住駅発(9:12)⇒JR新橋駅着(9:32) ※JR常磐線上野東京ライン品川行き

  • JR浜松町駅発(14:17)⇒JR西日暮里駅(乗換)⇒JR北千住駅着(15:32)※山手線⇒常磐線

この旅行記スケジュールを元に

今回は、JR「新橋駅」周辺を散策してみることにしました。JR「新橋駅」というとすぐ頭に浮かぶのは、サラリーマンや通行人などへのテレビの街頭インタビューや何か重大ニュースがあったときに配布される新聞の号外でしょう。この「新橋駅西口広場」(SL広場)は、その光景がよく放送される場所なのでほとんどの人が一度は見たことのある場所でしょう。当日、私もあやうくインタビューをされそうになりました。まず、「烏森口」方面からの散策です。最初に訪れたのが、細い路地の参道の奥にあり、ビルの谷間に囲まれた「烏森神社」です。「心願色みくじ」で有名ですが、「烏森神社」にしかない特別な「癌封じ御守り」もあります。次が「新橋駅西口広場」(SL広場)にある盲導犬の理解と活躍を広げるための拠点になった記念碑的な像である「乙女と盲導犬の像」です。次は、「新橋駅西口広場」(SL広場)のランドマーク的存在である「蒸気機関車C11形292号機」で、12、15、18時には汽笛が鳴らされ、ありし日の面影を垣間見ることができます。次は、JR「新橋駅」構内の散策です。JR「新橋駅」の北改札をでてすぐ正面にあるのが、「烏森駅開業時の柱」です。実は、現在の「新橋駅」は、明治42年(1909年)12月に電車専用の駅として開業した「烏森駅」がその前身です。ですからその関係の遺構として残されています。次は、北改札から駅構内に入り、向かうのは「京浜東北線」(品川・蒲田・横浜)方面の3番線ホーム4号車3番ドア付近です。そこには、線路上のレアなモニュメンである「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」があります。通勤ラッシュ緩和のために「横須賀線」を地下に移した際に建てられたものです。次がJR「新橋駅」の南改札を出て汐留方面に進むと「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」が、仲よく並んであります。何と「鉄道唱歌」は、全ての歌詞を載せると全5集、334番にもなる大長編唱歌です。その隣にあるのが「D-51機関車の動輪」で、子供の時に見た黒い煙を上げて走るD-51機関車が目に浮かびます。次が、JR「新橋駅」駅前ロータリーの都営バス乗り場の3、4番停留所の中間付近にある「狸広の像」です。よく見ると目がとても可愛く、愛くるしい顔をした開運の狸像でした。次が高層ビルの立ち並ぶシオサイト方面に移動します。まず、明治5年(1872年)に開業した日本最初の鉄道ターミナル「旧新橋停車場」の駅舎を当時と同じ場所に開業当時の外観と同じように忠実に再現した「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」です。文明開化当時からの鉄道の歴史が学べます。次が「昭和通り」の「銀座ときめき橋歩道橋」下の両側にある汐留遺跡を見に行きます。まず、「龍野藩脇坂家上屋敷」内の祠の参道から出土した「手水鉢」、次が大名屋敷の石組溝(排水施設)に使われていた「間知石と切り石」そして独眼竜正宗で知られた「伊達家上屋敷建物礎石」です。次に「銀座郵便局」方面に向かいます。「銀座郵便局」の窓口入口付近に、工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験がおこなわれた。ことを記念して「検査業務開始の地」碑が建立されました。「銀座郵便局」の脇には、「浜離宮前踏切跡」もあります。「浜離宮前踏切」は、「汐留貨物駅」と「東京市場駅」(築地市場)を結んでいた長さ1.1kmの貨物線の踏切跡です。次が、首都高速沿いに200mほど進むと、「浜離宮恩賜庭園」があります。江戸時代には「甲府浜屋敷」、「浜御殿」と呼ばれ、明治時代には「浜離宮」と名称を変え、そして、終戦後に、現在の「浜離宮恩賜庭園」となっています。「浜離宮恩賜庭園」は、「潮入の池」と二つの「鴨場」をもつ江戸時代の代表的な「大名庭園」で、江戸時代の大名屋敷で数多く作庭された「池泉回遊式庭園」です。そして、最後に向かったのが、JR山手線・京浜東北線「浜松町駅」のすぐそばにある「旧芝離宮恩賜庭園」です。「旧芝離宮恩賜庭園」は、30分あれば十分回れるコンパクトな大名庭園ですが、全体を見渡した時に不思議な感覚を覚えた庭園でもありました。ごつごつした石組の、まるで磯のような水辺だったからです。今回の散策巡路は、下記に取りまとめてあります。

【今回の散策順路】
①《烏森神社》⇒②《乙女と盲導犬の像》⇒③《蒸気機関車 C11形292号機》⇒④《烏森駅開業時の柱》⇒⑤《汽笛一聲 新橋地下駅開業記念》⇒⑥《鉄道唱歌の碑》⇒⑦《狸広の像》⇒⑧《旧新橋停車場 鉄道歴史展示室》⇒⑨《手水鉢(汐留遺跡)》⇒⑩《間知石と切り石》⇒⑪《伊達家上屋敷建物礎石》⇒⑫《検査業務開始の地》⇒⑬《浜離宮前踏切跡》⇒⑭《浜離宮恩賜庭園》⇒⑮《旧芝離宮恩賜庭園》

では、早速新橋駅周辺の散策に映りたいと思います。まず、向かったのは「烏森神社」です。

01_「烏森神社」
「烏森神社」へのアクセスは、JR「新橋駅」の烏森口を出て、横断歩道を渡り、左方向に進むと「烏森通り」になります。「烏森通り」を右折し、「ニュー新橋ビル」沿いに110mほど進むと、信号がありますので横断歩道を渡ります。「ファミリーマート新橋駅西店」があり、その先の角を右折し、飲み屋が軒を連ねる細い路地を30mほど進むと、正面に「烏森通り」の石鳥居が姿を現します。
最初に、「烏森神社」の歴史と概要について紐解いてみたいと思います。「二の鳥居」をくぐると右手に「烏森神社縁起板」がありました。それによると天慶3年(940年)に、東国で「平将門」が乱を起こしました。むかで退治で有名な時の将軍「藤原秀郷」が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を「藤原秀郷」に与えました。「藤原秀郷」は、その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、「藤原秀郷」はお礼に一社を勧請しようとしたところ、再度、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げました。そこで「桜田村」の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営しました。それが、「烏森稲荷」の起こりだそうです。そして、「烏森神社」が人々に崇敬されているのは、明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」(振袖火事)が起こった際に、江戸市中は焼け野原となり、もちろん「烏森稲荷社」の周辺も大方焼けてしまいました。ところが「烏森稲荷社」だけは不思議にも類焼を免れました。これは神威の致すところと考えられ、以降「烏森稲荷社」に対する信仰は日に日に厚くなっていきました。また、「椙森神社」(日本橋)、「柳森神社」(神田)と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されています。明治6年(1873年)にはこれまでの「烏森稲荷社」の社名を「烏森神社」と改め、新橋烏森の守り神として多くの人々の信仰を得ています。そして、昭和46年(1971年)には「社殿」を造営し現在に至っています。
それでは、さっそく参拝したいと思います。まず驚いたのが「二の鳥居」の形です。今まで見てきた「神明鳥居」や「明神鳥居」などの通常のものと、鳥居の形がまったく違っています。一般的には、二本の柱と柱の上に乗せた「笠木」が広がっているのですが、広がりの部分がありません。大都会の神社なので、スペースの関係でしょうか。「二の鳥居」をくぐると、右手に「縁起板」と一体になったコンパクトな「手水舎」があります。左手には「神輿庫」があり、その先には「狛犬が」が鎮座しています。そして、15~16段の石段があり、それを上ると「拝殿」があります。参拝を終え石段を降りると、左手に「社務所」があります。右手には、「心願色みくじ用の書き処」があり、インスタ映えするフォトスポットとしても人気のスペースです。「心願色みくじ」は、「烏森神社」独自のおみくじで、色で叶える「おみくじ」と「願い札」と「願い玉」がセットになっており、同じ色のペンで願い事を書き入れます。赤色が恋愛、良縁、黄色が金運、幸運、商売、青色が厄祓、仕事学業、緑色が健康家庭です。専用書き処にて同色のペンで願い事を書いたあとに、お御籤掛けの結び紐に付けます。この願い札は後日、神職により心願成就祈願が行われるそうです。その他に、「鈴守」や「御恵守」もあります。「鈴守」は「天鈿女命」にあやかった御守で、身体の前で左・右・左と3度振って身を清めます。まるで自分が神職になった気分になれます。「御恵守」は御守袋5色で内符が10種類あり、願い事によって選ぶことができるものです。そして最後に、忘れてはならない、「烏森神社」にしかない特別な御守りを社務所でいただきます。それは「癌封じの御守り」です。有名な女優さんもここに通い癌を治したと言われています。
「烏森神社」の次は、「新橋駅西口広場」に戻り、「乙女と盲導犬の像」へ向かいます。「乙女と盲導犬の像」は、JR「新橋駅」の日比谷口を出ると、西口広場の「ニュー新橋ビル」の前にあります。

02_「乙女と盲導犬の像」
「乙女と盲導犬の像」は、昭和44年(1939年)に「東京虎ノ門ライオンズクラブ」によって建立され、当初は、「日比谷公園」の「心字池」の西側に置かれていました。そして、昭和49年(1974年)10月28日に、この像は盲導犬の認知度を上げるために、「日比谷公園」から現在の「新橋駅西口広場」に移設されました。「乙女と盲導犬の像」は、向かって左側にワンピース姿の少女とその左側には、ハーネス(胴輪)を装着した盲導犬の「ジャーマン・シェパード」が仲良く並んでいる像です。少女は、安心してハーネスのハンドルを左手で握っているようにも見えました。ちなみに、現在よく見かけるのは、主に「ラブラドール・レトリーバー」と「ゴールデン・レトリーバー」ですよね。レトリーバは、頭がいい上に性格が穏やかで見た目が愛らしいので社会に受け入れられやすいからです。言うまでもなく「乙女と盲導犬の像」は、盲導犬普及のために設置された銅像です。昭和42年(1967年)に「財団法人日本盲導犬協会」が設立され、昭和44年(1969年)6月28日に「乙女と盲導犬の像」が設置され、この銅像の設置を機に盲導犬パレードや募金活動がはじまりました。台座には作詞家、脚本家の「川内康範」による詩が刻まれています。「川内康範」は、大正9年(1920年)2月26日に北海道函館市で生まれました。「川内康範」は、作詞家、作詩家、脚本家、政治評論家です。1950年代から数多くの映画やテレビドラマの原作や脚本を手がけ、代表作は、原作・脚本・主題歌作詞を務めた、誰もがみんな知っている「月光仮面」です。次が、同じ「新橋駅西口広場」(SL広場)にある「蒸気機関車C11形292号機」へ向かいます。

03_「蒸気機関車C11形292号機」
「新橋駅西口広場」(SL広場)は、サラリーマンなどへのテレビの街頭インタビューなどがよくおこなわれる場所なので、ほとんどの人が一度は見たことのある場所でしょう。当日、私もインタビューをされそうになりました。「新橋駅西口広場」(SL広場)にある蒸気機関車(SL)の静態展示が「蒸気機関車C11形292号機」です。ここに、「蒸気機関車C11形292号機」が展示されたのは、昭和47年(1972年)に、新橋駅(汐留駅)から一番列車が出発した鉄道発足100周年を記念して設置されました。「蒸気機関車C11形292号機」は、昭和20年(1945年)に製造され、姫路機関区へ配属ののち中国地方の播但線・姫新線などで運行されました。昭和47年(1972年)に廃車となり役目を終え、現在の「新橋駅西口広場」(SL広場)に設置されました。当時の国鉄(現JR)から港区へ無償貸与され静態保存されています。「C11形」はローカル線や入換えなどに用いられた小型機関車で資材、熟練工とも不足する戦時中の一両なので煙突後部の蒸気溜や砂箱が細工の容易な角型でできています。ですから、蒸気機関車というと思い浮かぶ「D51形」比較すると、それほどの重厚感はありませんが、戦後の日本の復興に貢献したことには間違いないと思います。12、15、18時には汽笛が鳴らされ、ありし日の面影を垣間見ることができます。「蒸気機関車C11形292号機」は、すっかり駅頭のランドマークとなっています。そして、毎年冬の時期になるとイルミネーションが実施されているようです。機会があれば点灯される時間帯に行ってみたいと思います。次は、JR「新橋駅」構内に移動し、「烏森駅開業時の柱」へ向かいます。

04_「烏森駅開業時の柱」
JR「新橋駅」の北改札をでてすぐ正面にあるのが、「烏森駅開業時の柱」です。日本人や外国人の旅行客が絶えず「烏森駅開業時の柱」の前にいました。私見ですが、記念のモニュメントと気づかず、待ち合わせ場所として利用されている感じです。現在の「新橋駅」は、明治42年(1909年)12月に電車専用の駅として開業した「烏森駅」がその前身です。「烏森駅」は、わが国初の煉瓦アーチ橋の高架駅として誕生しました。明治5年(1872年)10月14日に、「新橋―横浜間」に日本で最初の鉄道が開業いたしました。当時の「新橋駅」は、現在の東新橋付近に設置され、「新橋停車場」として親しまれましたが、大正3年(1914年)に、「東京駅」が完成しました。東海道線の始発駅が「東京駅」に変更された際に、それまで始発駅であった「新橋駅」は、「東京駅」の開業により42年間の幕を閉じました。「新橋駅」は「汐留駅」と改称され貨物専用駅となり、「汐留駅」も昭和61年(1976年)に役割を終えました。「烏森駅」が二代目の「新橋駅」となりました。「烏森駅」ができた当初は2面4線の駅で、東海道線と山手線が使用していました。大正3年(1914年)に「東京駅」から京浜線の運転が開始され、山手線と線路を共用していました。昭和31年(1956年)に「田端~田町間」の線路を増設して山手線と京浜東北線が分離され、現在の新橋地上駅の状態となりました。平成14年(2002年)に、3、4番線ホームのエスカレーター新設に伴う階段解体工事のため、93年間ホーム階段を支えてきた「明治41年(1908年)製造」の柱をはずして、現在地に保存したそうです。次は、北改札口からJR「新橋駅」構内に入ります。向かうのは「京浜東北線」(品川・蒲田・横浜)方面の3番線ホーム4号車3番ドア付近です。

05_「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」
「烏森駅開業時の柱」の次は「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」の碑を目指します。「汽笛一聲新橋地下駅開業記念碑」は、レアなモニュメントで、電車の通っている線路付近にあります。まず、券売機で入場券を購入し、北改札口からJR「新橋駅」構内に入ります。向かうのは「京浜東北線」(品川・蒲田・横浜)方面の3番線ホーム4号車3番ドア付近です。3番線ホームと2番線ホームとの間の線路わきには「汽笛一聲 新橋地下駅開業記念」のモニュメントがあります。「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」の碑は、昭和51年(1976年)に、通勤ラッシュへの対応のため輸送力増大の目的で「新橋駅」内の線路を移設し、「横須賀線」を地下に移した際に建てられたものです。ホームを端から端まで歩き、見つけた時の喜びは言いようがありませんでした。電車が次から次へと入線し、乗客が下車するので、周囲を気にしながら写真を撮るのは結構大変でした。

06_「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」
「汽笛一聲新橋地下駅開業記念」の次は「鉄道唱歌の碑」へ向かいます。JR「新橋駅」の南改札を出て、左方向に進むと「烏森口」(汐留方面)があります。「烏森口」(汐留方面)を出て、左方向に進むと、左手すぐの所に「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」があります。
向かって右側にある「鉄道唱歌の碑」は、昭和32年 (1957年)10月4日に、「鉄道開通85周年記念」の作詞家である「大和田建樹の生誕100年」を記念して建立されたパブリックアートです。「鉄道唱歌」は、「大和田建樹」自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録でもあります。「鉄道唱歌の碑」には、1番の歌詞と記念の文が刻まれています。ちなみに、「鉄道唱歌」は、全ての歌詞を載せると全5集、334番にもなる大長編唱歌です。この歌が出来た当時の「新橋駅」は、現在のゆりかもめ「新橋駅」の向こう側に設置されていたことから、その方向に向かって建てられたのだそうです。
向かって左側にある「D51形蒸気機関車」は、「デゴイチ」の愛称で親しまれた機関車です。昔、相撲界に黒姫山という関取がいて、馬力の強い押し相撲を得意としていたので、「デゴイチ」というのを子供心に覚えています。ちなみに、「D51形蒸気機関車」は、「日本国有鉄道」(国鉄)の前身である「鉄道省」が設計、製造した、単式2気筒で過熱式の「テンダー式蒸気機関車」です。「D51形蒸気機関車」は、主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しており、「ディーゼル機関車」や「電気機関車」などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録したそうです。「D-51機関車の動輪」は、「新橋駅」への総武快速線・横須賀線乗入を記念して昭和51年(1976年)に現在の地へ設置されました。

07_「狸広の像」
「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」の次は、「狸広の像」です。「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」から「狸広の像」までは、徒歩2分160mほどの距離です。JR「新橋駅」の銀座口方面に60mほど進むと横断歩道がありますので渡ります。横断歩道を渡ったら、右方向に進み、駅前ロータリーを回り込むように90mほど進むと、都営バス乗り場の3、4番停留所の中間付近に「新橋駅前ビル1号館」入口があり、その中央に「狸広の像」が腰を据えています。
「狸広の像」は、平成3年3月9日に建立されました。最初に、「新橋」の地理的時代背景と発展状況を紐解いてみると、江戸時代の「新橋」は狐や狸などが出没し、また、けもの道がたくさんあり人もよりつかない辺ぴなところだったようです。それが明治時代になり鉄道建設が始まりました。鉄道建設工事のために、新橋周辺を開拓したところ、狸が住んでいることが分かり、その巣の中に3匹の子狸がいたそうです。鉄道開通工事の関係で巣はやむなく取り壊し、その代わりに3つの小屋を建て、作業員が餌を与えていたそうです。その場所が丁度この「新橋駅前ビル1号館」だったそうです。やがて、3匹の子狸が巣立ち、子狸たちが残した3つの小屋を中心に、人々が集まり、お酒を楽しむ場所になったそうです。それがきっかけとなり、飲食店が次々と作られ、界隈が繁昌し、やがて「狸小路」という繁華街に発展しました。つまり、狸が開運を導いてくれたということで、開運の「狸広の像」が設置されました。今も右手に「通い帳」、左手に「打ち出の小づち」を持った姿は、愛くるしく見えます。ちなみに、クリスマスには「たぬサンタ」、お正月には「注連縄サンタ」に変身するそうです。

08_「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」
「狸広の像」の次は「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」へ向かいます。「狸広の像」から「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」までは、徒歩5分300mほどの距離です。「狸広の像」から戻るようにして90mほど直進すると「都道405号」(外堀通り)になります。「せとうち旬彩館」のところを右折して、210mほど道なりに直進すると、「パナソニック東京汐留ビル」の手前右手に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」があります。
最初に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の歴史と概要をみてみると、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」は、明治5年(1872年)に開業した日本最初の鉄道ターミナル「旧新橋停車場」の駅舎を当時と同じ場所に開業当時の外観と同じように忠実に再現し、平成15年(2003年)にオープンしました。「鉄道歴史展示室」は、一階が「常設展示」、二階が「企画展」に分かれています。日本の鉄道発祥地である汐留の歴史をご紹介するとともに、明治期に日本の近代化を牽引した鉄道の発展を垣間見ることができます。特に、「常設展示」では、お雇い外国人が使用した西洋陶磁器、改札鋏や工具類などの金属製品、汽車土瓶など発掘調査で出土した遺物や床の一部がガラス張りになっていて、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることもできます。また、二階で行われる「企画展」は、展示替えが3回行われ、今回は、第64回目の企画展で、埼玉県さいたま市にある「鉄道博物館」の所蔵資料約67万点の中から、平成19年(2007年)の開館以来展示される機会のなかった資料や、近年収蔵した様々なコレクション資料を中心に、「驚おどろき・鉄道博物館収蔵展」と題して開催展示しています。期間は、2024年8月6日(火)から11月24日(日)までとなっています。
それでは、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」に入館します。まず、一階の受付で写真撮影について尋ねてみたところ、1Fの「常設展示」は撮影が可能ですが、2Fの「企画展示」は、撮影が一切できないということでした。受付の係員が、まず2Fの「企画展示」から見て1Fの「常設展示」を見てくださいというアドバイスがありました。「企画展示」では、鉄道の歴史や汐留界隈の郷土史などをテーマとした歴史資料が展示されています。螺旋式の階段を昇り、「企画展示」へ入ると、すぐ左手に「映像の記憶」コーナーがあり、大きなプラズマディスプレイが設置されていて、鉄道開業の歴史的な経緯や往時の「新橋停車場」と「汐留」の活気ある様子などを伝える映像が映し出されていました。そのほか、「鉄道博物館」の前身の「交通博物館」時代の資料や、鉄道以外の交通系資料、あの懐かしい「青春18きっぷ」などのポスターや鉄道をモチーフにしたキャラクターなどもありました。ここで、特に、面白いものが展示されていました。それは、列車に変身するトランスフォーマーのようなロボットの大きな模型が展示されていました。それと注意すべきことが一点あります。2Fの「企画展示」へ通じる螺旋階段の上の天井から垂れ下がるバナーは、いずれも明治時代の新橋停車場が描かれている「港区立郷土歴史館」所蔵の錦絵ですが、残念ながら、これも撮影禁止だと言われました。
1Fの「常設展示」へ進むと、年表や地図によって、汐留地区の移り変わりと鉄道の発展の歴史を紹介する「汐留の記憶」のパネル、「旧新橋停車場駅舎」の縮尺100分の1の模型、発掘された「旧新橋停車場駅舎」や「プラットホーム」の石積みや基礎の構造を紹介する「駅舎とプラットホーム」のパネル、お雇い外国人が使用した西洋陶磁器、改札鋏や工具類などの金属製品、汽車土瓶など発掘調査で出土した遺物出土物が語る「旧新橋停車場」、
そして、1Fの「常設展示」の一番の見どころである「遺構見学窓」があります。「遺構見学窓」は、1階展示室の床の一部をガラス張りにして、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることができます。また、同じ建物内に隣接して「お茶の文化創造博物館·お~いお茶ミュージアム」も右手にあります。
そして、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の建物の裏側には、プラットフォームや0哩標識(ゼロマイルポスト)もありました。こちらは、見学自由となっています。

09_「手水鉢(汐留遺跡)」
「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の次は「手水鉢(汐留遺跡)」へ向かいます。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」から「手水鉢(汐留遺跡)」までは、徒歩7分490mほどの距離です。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」を出て、右方向に進むと「蓬莱橋歩道橋」があります。「蓬莱橋歩道橋」を渡り道路の反対側に向かいます。「蓬莱橋歩道橋」を降りて左方向に200mほど進むと「銀座ときめき橋歩道橋」の下に「手水鉢(汐留遺跡)」があります。
「手水鉢(汐留遺跡)」は、現在の兵庫県にあった「龍野藩脇坂家上屋敷」内の祠の参道から出土したものです。「龍野藩脇坂家」は、「徳川家康」の江戸入府以後の町作りによる埋め立てによって陸地化した汐留地区に、初めに屋敷の拝領を受けました。「手水鉢」には、「奉献 羽団扇紋 ○月吉○」と刻まれていました。

10_「間知石と切り石(汐留遺跡)」
「手水鉢(汐留遺跡)」の次は、「間知石と切り石(汐留遺跡)」です。「間知石と切り石(汐留遺跡)」は、「手水鉢(汐留遺跡)」から横断歩道を渡るとすぐの所にあります。やはり、「銀座ときめき橋歩道橋」下にあり、距離にして1分25mの距離です。
「間知石と切り石(汐留遺跡)」の説明板によると、四角錘の形をした「間知石」と、板状に加工された「切り石」は、大名屋敷の石組溝(排水施設)に使われていたものだそうです。ちなみに、「汐留」の地名は、江戸城外堀と海を仕切る「土橋」に設けられていたため、ここからは海の水が外堀に入り込めない、つまり「汐が留まる」ことから付近の地名として使われるようになったものだそうです。

11_「伊達家上屋敷建物礎石」
「間知石と切り石(汐留遺跡)」の次は「伊達家上屋敷建物礎石」です。「銀座ときめき橋歩道橋」を渡り「昭和通り」の反対側に降ります。進行方向右側の階段を降ります。距離にして1分47mほどです。
「仙台藩」(伊達家)は、江戸初期の寛永18年(1641年)頃から「仙台藩」がこの地に上屋敷を設けました。「仙台藩上屋敷」は、立地を生かし、江戸でも最大級の船入場が設けられた邸であったといわれています。明治以降は、日本初の鉄道の起点として「新橋駅」が開業し、昭和61年(1986年)に廃止されるまで、長い間鉄道駅として使用されていました。平成7年(1995年)から再開発が始まり、この時、江戸時代の「仙台藩上屋敷跡」が遺跡として発掘されました。この時発掘された「伊達家上屋敷建物礎石」が銀座七丁目交差点付近の「銀座ときめき橋歩道橋」下に置かれています。ちなみに、「仙台藩」の藩祖は、あの有名な戦国大名として知られる「伊達正宗」です。

12_「検査業務開始の地」
「伊達家上屋敷建物礎石」の次は「検査業務開始の地」へ向かいます。「伊達家上屋敷建物礎石」から「検査業務開始の地」へは、徒歩4分280mほどの距離にあります。「伊達家上屋敷建物礎石」から「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」方向へ戻ります。140mほど進むと「首都高速八重洲線」が見えてきます。突き当りになりますので、左折し120mほど進むと「銀座郵便局」の窓口入口の手前に「検査業務開始の地」の碑があります。
「検査業務開始の地」の碑に刻まれた説明文によると、「明治9年(1876年)6月17日に、この地に工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験がおこなわれた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。」と書かれていました。要は、外国から輸入された通信器材である「碍子」などを検査する目的で工部省電信寮の碍子試験所を発足させたということでしょうか。そう言えば、東京と横浜間で電信が行われたのは、明治2年(1869年)だったと思います。これから推測すると、送信網構築に欠かせない「碍子」の検査を行った場所ということですね。ちょっと気になったのでネットで調べてみると、明治の初めは、日本でも輸入品の「ガラス碍子」を用いて電信網を少しずつ広げていったそうです。その後、「碍子」の歴史的転換期となったのが、明治3年(1870年)に佐賀の「八代深川栄左衛門」が日本伝統の技術を活用して「陶器製の碍子」を製造し始めま、これが電信網の普及に大いに貢献したそうです。ちなみに、「碍子」は、電線とその支持物とのあいだを絶縁するために用いる器具のことです。鉄塔、電車の架線、変圧器などに必ず付いている部品であり一般的には白のそろばん状の物で、材質はセラミックスがほとんどです。セラミックス製は、絶縁性、耐候性、強度が優れています。「碍子」は、絶縁性、耐候性、強度に優れているために変電所、電車の架線など強い電流が流れてきても耐えうる力を持っています。できればもう少し詳しい説明文があればよかったと思いました。

13_「浜離宮前踏切跡」
「検査業務開始の地」の次は「浜離宮前踏切跡」へ向かいます。「検査業務開始の地」から「浜離宮前踏切跡」までは、徒歩1分70mほど先の横断歩道の左手前に「浜離宮前踏切跡」があります。
「浜離宮前踏切」は、「汐留貨物駅」と「東京市場駅」(築地市場)を結んでいた長さ1.1kmの貨物線の踏切跡で、通称「東京市場線」と呼ばれるこの路線は、昭和10年(1935)年2月に、「築地市場」の開場と同時に開業しました。「東京市場線」は、広大な「汐留貨物駅」の片隅から線路が延び、「汐留川」(現在の「海岸通り」)を渡り、その先にこの踏切がありました。線路は「築地川」を渡り「築地市場」につながっていました。「東京市場線」は、昭和6年(1931年)から昭和62年(1987年)まで使用され、鮮魚列車などが運行されて東京の食を支えていましたが、「汐留貨物駅」とともに廃止されました。線路跡は現在、8mほどの道路になっており、交差点に立つ踏切は「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機」と書かれた案内板があります。踏切の台座には、「説明書き」と「保存理由」の銘板が設置されています。ただし、踏切自体は、サビが目立ち、歴史を感じますが、せっかく保存したなら手入れをキチンとしてほしいものですね。

14_「浜離宮恩賜庭園」
「浜離宮前踏切跡」の次は、「浜離宮恩賜庭園」へ向かいます。「浜離宮前踏切跡」から「浜離宮恩賜庭園」へは、徒歩3分200mほどで行くことができます。「浜離宮恩賜庭園」の出入口は、「大手門口」の「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」と「中の御門口」の「中の御門売札所」の二箇所です。今回は、「大手門口」から入場しました。「浜離宮前踏切跡」から「首都高速八重洲橋線」沿いに100mほど直進すると信号があります。ここまで来ると左斜めに「浜離宮恩賜庭園」が見えてきます。横断歩道を渡り左方向に50mほど進むと「大手門橋」がありますので、それを渡り100mほど進むと「大手門口」の正門があり、その先に「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」があり、入場券を購入します。

【「浜離宮恩賜庭園」のお薦め見学順路】
今回は、「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」から時計回りの方向で「浜離宮恩賜庭園」を見学することにしました。
①《三百年の松》⇒②《内堀》⇒③《お花畑》⇒④《ボタン園》⇒⑤《旧稲生神社》⇒⑥《梅林》⇒⑦《水上バス発着場》⇒⑧《灯台跡》⇒⑨《将軍お上がり場》⇒⑩《横堀水門》⇒⑪《「樋の口山」と「新樋の口山」》⇒⑫《汐見の御茶屋跡》⇒⑬《富士見山》⇒⑭《潮入の池》⇒⑮《観音堂跡》⇒⑯《馬場跡》⇒⑰《新銭座鴨場》⇒⑱《中島の御茶屋》⇒⑲《お伝い橋》⇒⑳《燕の御茶屋》⇒㉑《鷹の御茶屋》⇒㉒《松の御茶屋》⇒㉓《御亭山》⇒㉔《庚申堂鴨場》⇒㉕《休憩所》⇒㉖《芳梅亭》⇒㉗《明治天皇銀婚式記念可美真手命像》⇒㉘《延遼館跡》

「浜離宮恩賜庭園」の歴史と概要を紐解いてみると、まず、名称の変遷という観点に着目してみると、江戸時代には「甲府浜屋敷」、「浜御殿」と呼ばれ、明治時代には「浜離宮」と名称を変え、そして、終戦後に、現在の「浜離宮恩賜庭園」となっています。「浜離宮恩賜庭園」は、寛永年間までは、将軍家の鷹狩場で、辺り一面芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、4代将軍「徳川家綱」の弟で甲府宰相 の「松平綱重」です。承応3年(1654年)に、「松平綱重」は将軍から海を埋め立てて「甲府浜屋敷」と呼ばれる別邸を建造しました。その後、6代将軍「徳川家宣」のときに、「甲府浜屋敷」は、将軍家の別邸となり、名称も「浜御殿」と改められました。その後、「徳川家宣」(家宣) が6代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も「浜御殿」と改められました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、11代将軍「徳川家斉」のとき11代将軍「徳川家斉」のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治時代になると皇室の離宮となり、名称も「浜離宮」と改められました。そして、昭和20年(1945年)11月3日に、東京都に下賜され、「浜離宮恩賜庭園」となり、昭和21年(1946年)4月1日に一般に有料公開されるようになりました。
「浜離宮恩賜庭園」は、「潮入の池」と二つの「鴨場」をもつ江戸時代の代表的な「大名庭園」で、江戸時代の大名屋敷で数多く作庭された「池泉回遊式庭園」です。広大な池泉の周囲を回遊して鑑賞する形式の庭園で、小島、橋、飛び石、築山。茶亭などの特色が良く残されています。ちなみに、「潮入の池」とは、海水を導き、潮の満ち引きによって創り出される多様な景観の変化が望めるようになっているもので、海辺の大名庭園でよく用いられていた建築様式です。「旧芝離宮恩賜庭園」、「清澄庭園」、「旧安田庭園」なども昔は「潮入の池」でしたが、現在、実際に海水が出入りしているのは、「旧芝離宮恩賜庭園」だけです。「旧浜離宮庭園」は、四方を築地川、汐留川、東京湾で囲まれた約25万㎡の敷地面積を誇る広大な庭園です。また、「浜離宮恩賜庭園」は、国の文化財保護法に 基づき、昭和23年(1948年)12月には「国の名勝及び史跡」に、同27年(1952年)11月には周囲の水面を含め、「国の特別名勝及び特別史跡」に指定されました。ちなみに、「特別名勝」とは、国宝と同格で国から指定を受けている大変価値の高い景観のこと、「特別史跡」とは 国が文化財保護法で指定した史跡のうち、学術上の価値が特に高く、わが国の文化の象徴たるものです。 国宝(建築物、美術工芸品、文書などで使われる概念)と同格のものです。特に、「特別名勝」と「特別史跡」の二重指定を受けている日本庭園については、全国的に見ても9カ所程度で、都内には「浜離宮恩賜庭園」、「小石川後楽園」の2カ所、京都府に3カ所、岩手県、福井県、奈良県、広島県に各1カ所しかありません。

① 「三百年の松」
「三百年の松」は、「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」のすぐ近くにあり、太い枝が低く張り出し、ひときわ存在感を放っています。「三百年の松」は、今から約300年前に、6代将軍「徳川家宣」が、庭園を大改修したとき、その偉業をたたえて植えられたといわれている松です。「三百年の松」は、都内最大級の松として知られ、何本かの松の木が集まっているように見えますが、実は一本の黒松のみで横から見ると一本の幹から二股に分かれていることが確認できます。松の枝が下にせせり出すように生えた黒松の迫力は圧巻です。遠くから近くから、左右、正面色々な角度で見るとその真の姿を確認できます。

② 「内堀」
「三百年の松」を進むと、前方に石橋と右手の方に堀が見えてきます。これが「内堀」です。江戸時代の「浜御殿」は、現在の庭園というイメージではなく、庭園以外に、様々な機能を持っていました。何故かというと、飢饉に備えた貯蔵庫でもあり、また、江戸城で必要とする物資の荷揚げ場でもあったりしました。その他に、水軍の拠点でもあったり、薬園などもあったそうです。そのような色々な機能がある中で、「内堀」は、「築地川」から構内に深く入り込んでおり、各地から運ばれてきた物資を「籾倉」に保管した後、江戸城に入れるための港湾施設でした。「内堀」の東側(石橋に立ち左側)は、広場になっていますが、かつてはここに2棟、合計4棟の「籾倉」がありました。「内堀」には荷揚げ場の石段が残っています。フジツボ・カキなどの貝類が石垣に付着しているので、海水が引き込まれていることが分かります。水門による水位の調節ではなく、園内で唯一自然の潮汐を見ることができる場所だそうです。「籾倉」の説明板の手前には「藤棚」もあります。

③ 「お花畑」
「内堀」のある「内堀広場」の最初にあるのが「お花畑」です。私が訪れた日には、「キバナコスモス」、「コスモス」が美しく咲き誇っていました。まさに、オレンジと黄色の海原が目の前に広がっている感じです。この「お花畑」の最大の見どころは、2月下旬から4月下旬から見頃になる「菜の花」だそうです。約30万本の「菜の花」が咲き、目も覚めるような鮮やかな黄色いじゅうたんが広がる光景を見ることができるそうです。また、「菜の花」の「お花畑」の中を散歩すると、「菜の花」の独特の香りと、黄色に全身が包み込まれるような錯覚を体験することができるそうです。そして、8月中旬から9月下旬は、「キバナコスモス」、「コスモス」になり、輝くようなまばゆいばかりのオレンジ色と黄色で「お花畑」一面を覆います。

④ 「ボタン園」
「内堀広場」の「お花畑」の奥にあるのが「ボタン園」です。残念ながら私が訪れた日は、9月初旬だったので、美しく咲き誇る「ボタン園」を見ることができませんでした。「ボタン園」には、八千代椿、紫雲殿、八雲など57種類、1200本のボタンが咲き誇り、訪れる人々の目と心を楽しませてくれるそうです。驚くべきはボタンの花の大きさで、どれも子供の頭ほどある大輪の花を咲かせるそうです。毎年4月の中旬から赤、ピンク、白など色とりどりの大輪の花が咲き始め、黄色の花びらのハイヌーンが開花すると「ボタン園」は終演を迎えるそうです。

⑤ 「旧稲生神社」
「ボタン園」からもと来た道に戻ると少し先に「旧稲生神社」があります。「鳥居」をくぐると「稲荷社」(社殿)がありますが、柵が設けられ近づくことはできませんでした。説明板によると、「旧稲生神社」の創建年代は不詳ですが、江戸時代後期の絵図には現在の場所より西方に「稲荷社」が描かれていることから,庭園内に「稲荷社」が古くから祭られていたことは間違いないようです。現在の建物は,前身となる「社殿」が明治27年(1894年)6月20日の東京湾を震源とする地震で倒壊したため,翌明治28年(1895年)年に当時の宮内省内匠寮の手によって,同規模・同形式で再建されたものです。大正12年(1923年)の関東大震災では倒壊は免れましたが大きく傾き、昭和6年(1931年)になって大修理が行われています。戦後は十分な管理が行われないまま、朽ち果てる寸前であったものを平成17年から1年10ヶ月かけて全解体し、明治時代の創建当時の姿を復元したそうです。残念ながら見ることができませんが、内部に祭られている「宮殿」は,その建築技法から江戸時代後期のものであると推定されています。

⑥ 「梅林」
「旧稲生神社」から「水上バス発着所」の間には、「梅林」の道が続いています。「梅林」には、シラカガ、ブンゴウメなど約70本があり、「浜離宮庭園」全体では140本があるそうです。他の「大名庭園」も同じですが、どの「大名庭園」にもたくさんの梅の木が植えられています。これは、「天明の大飢饉」と呼ばれる大飢饉などがあり、その飢饉対策として梅の実の活用も兼ね植えられたそうです。「梅林」が見頃は、1月下旬から3月中旬頃です。その頃になると、独特の梅の香が辺りを包み、花が散る4月中旬以降には、梅の木の枝に鈴生りの実を間近に見ることができるそうです。

⑦ 「水上バス発着場」
「浜離宮恩賜庭園」の中には「水上バス発着場」もあります。「水上バス発着場」は、右手に「梅林」を見ながら進むとすぐ先の左手にあります。「水上バス発着場」の停留所名は、もちろん「浜離宮」ですが、乗降する場合は「浜離宮恩賜庭園」の入園料が必要となりますので、注意してください。「水上バス」は、約40分で「浅草~浜離宮~日の出桟橋」間をつなぐ「隅田川ライン」(東京都観光汽船株式会社)と、2002年4月27日より、都の「東京水辺ライン」によって新たに運行が開始された「両国~浜離宮~葛西臨海公園」の二社による運行です。私が訪れた当日は、月曜日だったので休航で、入口が閉まっていました。ちなみに、「水上バスの発着所」は、江戸時代の船蔵の跡を利用したものだそうです。

⑧ 「灯台跡」
「水上バス発着場」の右手前方には、「隅田川」河口の水面に面した場所に、周辺と比較すると小高い「灯台跡」がありました。灯台の面影はなく、礎石だけが残っています。実はこの場所には、三重県の安乗崎に明治9年(1876年)に建設された木造の洋式灯台が、昭和24年(1949年)に移され設置されていました。しかし、昭和30年(1955年)に横浜港に移されました。「安乗崎灯台」は、現在は、「船の科学館」で保存展示されているそうです。

⑨ 「将軍お上がり場」
「灯台跡」から50mほど先の「隅田川」に面したところに「将軍お上がり場」があります。「将軍お上がり場」は、読んで字の如く、将軍が船で「浜御殿」に来た際に乗降する場所です。ちなみに、将軍が乗った「御座船」は、「天地丸」といい、現在は「船の科学館」に模型が展示されています。「天地丸」は、3代将軍「徳川家光」が「御座船」として建造したもので、その後、230年間以上、将軍の「御座船」として利用されました。「将軍お上がり場」は、昭和24年(1949年)の「キティ台風」で階段の一部が崩れて海中に沈みました 。また、現在は「お上り場」は、「将軍お上り場」一カ所だけしか残っていませんが、実は、江戸時代には、すぐ近くにもうひとつの石段があり、そこが、家臣たちが上陸する場所で「御付お上り場」と呼ばれていました。この「御付のお上り場」は、昭和24年(1949年)の「キティ台風」の際に海中に崩れ落ちてしまい、その後、復元されていません。しかし、干潮の時には、その「御付のお上り場」の痕跡をみることができるそうです。また、「将軍お上がり場」の別の側面の歴史の一コマもあります。それは、15代将軍「徳川慶喜」が、「鳥羽伏見の戦い」で敗れ、大阪城から軍艦「開陽丸」で江戸に逃げ帰り、慶応4年1月12日8時30分過ぎに「将軍お上り場」に上陸しました。

⑩ 「横堀水門」
「将軍お上がり場」から「隅田川」沿いに75mほど進むと、東京湾の水位の干満に従って「潮入池」の水の出入りを調整している「横堀水門」が、「樋の口山」と「新樋の口山」の間にあります。「浜離宮恩賜庭園」を歩いていると、いくつかの水門を見かけましたが、「横堀水門」は一番大きい水門で、現在はポンプで海水を取り込んだり、池の水を排水しているようです。私が「横堀水門」に着いたときは、「潮入池」の水を排水していました。「水門」は、潮の干満を利用し「潮入の池」の水位を上下させ、池の風景も変わるように設計されています。なんと、池の干満の差は2mあり、現在も夜間以外は「水門」のセンサーで毎日水位の調節をしているそうです。「水門」や海水が流れる水路の壁には、フジツボ・カキなどの貝類がびっしりと付着していました。

⑪ 「樋の口山」と「新樋の口山」
「横堀水門」を挟むようにしてあるのが、「潮入の池」に向かって右側の「樋の口山」と「潮入の池」に向かって左側の「新樋の口山」です。残念ながら「樋の口山」は登ることができず、まわりから眺めるだけの山ですが、「新樋の口山」は眺望も良く、庭園の緑越しに都心のオフィス街を眺めることができるそうです。とりあえず「新樋の口山」に登ってみると、東京湾がパノラマの景色で体験でき、前方には「レインボーブリッジ」、右手にはビル群が高く連なる臨海副都心が眺望できました。そして、夜間には、左手の晴海方面にある「トリトンスクエア」の夜景が三角形に輝き、日中では想像もつかない雰囲気を堪能できるそうです。ちなみに、このような「築山」は、江戸時代に各藩の大名が競って築造した庭園に人の手で造られた小高い山のことで、各藩の景勝地や名山などを縮景として多くの庭園に築かれました。代表的なものとして、六義園の藤代峠(標高35m)、小石川後楽園の「小盧山」(標高10m)、浜離宮恩賜庭園の「富士見山」(高さ5m)、旧芝離宮恩賜庭園の「大山」(高さ5m)などがあります。

⑫ 「汐見の御茶屋跡」
「樋の口山」から90mほど進むと、「海手お伝い橋」の反対側の「隅田川」沿いに「汐見の御茶屋跡」があります。当時の面影はありませんが、土台の石組が残っています。「汐見の御茶屋」は、宝永4年(1707年)の6代将軍徳川家宣が船遊びや漁夫達の漁猟のようすを眺めるために建てた休憩所です。「汐見の御茶屋」の由来は、最も海の眺望に恵まれた場所に建てられたことだそうです。また、別名も海にちなみ「汐見の茶屋」であります。説明板には、「最初に建てられたのは、宝永4年(1707年)とされています。初代の建物は「海手茶屋」、「海涯の亭」などと称されており、房総半島などを望むことができ、風景を楽しんだり、船などの見物をしたようです。「汐見」と称されたのは、明治に入ってからと思われます。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により焼失してしまいました。「御茶屋」とは、茶室とは異なり、将軍の接待や休憩場所として建てられた建物です。」と書かれていました。

⑬ 「富士見山」
「汐見の御茶屋跡」から「潮入の池」沿いに270mほど進むと、庭園の一番奥のところにビューポイントでもある高さ5mの「富士見山」があります。「浜離宮恩賜庭園」には、「富士見山」、「御亭山」そして「新樋の口山」の三つの築山があります。小高い丘の「富士見山」に登り、その頂上に立つと富士山や房総の山々、筑波山まで眺めることができたそうです。庭園の重要な要素である「眺望」を演出する場所でした。また、江戸時代に「富士見山」は、庭園の最南端の隅に位置していましたが、幕末に砲台を設置した際に、現在の場所に移されました。現在は、高層ビルが立ち並び「富士山」は見えませんが、「浜離宮恩賜庭園」全体を見渡すことができます。

⑭ 「潮入の池」
「富士見山」から「潮入の池」の「大泉水」へ向かいます。「浜離宮恩賜庭園」は、「大名庭園」の伝統的な「回遊式庭園」のスタイルが取り入れられています。江戸時代には、海辺に面した「大名屋敷」などでは、海水を引き入れて池をつくる「潮入の池」が、流行していたそうです。「潮入の池」の最大の特徴は、潮の満ち引きによって生じる違った趣ある風景の変化が楽しめることです。
「浜離宮恩賜庭園」の「潮入の池」は、東京都内に残るのは唯一のもので、現在も東京湾の水位の上下に従って水門を開閉し、池の水の出入りを調節しています。私も「潮入の池」の周辺を散策しましたが、眺める場所によって、庭園の松やお伝い橋、池の周辺に点在する茶屋等様々な風情を楽しむことができました。「浜離宮恩賜庭園」の「潮入の池」には、ボラやハゼ、ウナギといった海の生物が生息しているのも見どころのひとつだそうです。私も目を凝らして水面を見たのですが、水面が太陽の光に反射して、発見することができませんでした。発見できたのは、池の周りの石に付着しているフジツボなどの貝類だけでした。

⑮ 「観音堂跡」
「潮入の池」の大泉水から池沿いに沿って歩いていると「汐留水門」がありました。「横堀水門」と同じようにポンプで「潮入の池」の排水していました。大きさは断然、「横堀水門」の方が大きかったです。「汐留水門」から120mほど進むと前方に「観音堂跡」が見えてきます。「観音堂」は、宝永年間の1710年頃に建てられました。現在は階段だけしか残されておらず往時の面影はありません。残された石段の右手に説明板がありました。それによると徳川将軍家の別邸でもあった際は、将軍や訪れた客人も多くここに立ち寄った場所で、当時は、「観音堂」の左に鐘楼もあったそうです。家臣がこの庭園に招かれた際には、このあたりに植えられた木々は、記念品として贈られたといわれています。残念ながら、皇室の離宮になってから間もなく、なくなってしまったそうです。本当かどうか分りませんが、「観音堂」は「浜離宮恩賜庭園」のパワースポットだそうです。「観音堂跡」の御本尊は「慈覚大師」(円仁)の作と伝えられ、狩野派の絵師によって描かれた絵馬も掲げられていたそうです。

⑯ 「馬場跡」
「観音堂跡」からさらに100mほど進むと「八景山」付近の左手に「馬場跡」の案内板があります。そこを左折し少し進むと、左右に「馬場跡」が広がっています。直線距離でどのくらいあるのか分りませんが、かなりの長さのある「馬場」です。「馬場跡」は、武芸鍛錬の場としても使われ、京都の寺社にある庭園と比較すると、「大名庭園」だけに見られる特徴です。現在の「延遼館跡」にかつてあった「表馬場」に対して「内馬場」と呼ばれ、将軍上覧の際の御座所や馬見所がありましたが、関東大震災による被害で取り壊されました。

⑰ 「新銭座鴨場」
次は、「新銭座鴨場」へ向かいます。せっかくなので、馬の気持ちになって「馬場跡」を東の端から西の端まで歩いてみました。結構長い距離で、120m~130mくらいあるのでしょうか。100mほど進むと突き当りの手前に右に曲がる小道があります。小道を30mほど進むと「新銭座鴨場」がありました。ここも「浜離宮恩賜庭園」の大きな特徴だそうですが、「庚申堂鴨場」と「新銭座鴨場」の2つの「鴨場」があることです。現存する鴨引き場が残る「鴨場」は全国で5つしかなく、一般に通常公開しているのは「浜離宮恩賜庭園」のみとなっているそうです。築造は、「庚申堂鴨場」が安永7年(1778年)、「新銭座鴨場」が寛政3年(1791年)という歴史ある施設です。11代将軍「徳川家斉」の時代に最盛期を迎え、幕末から明治にかけて荒廃していったそうです。説明板によると、「鴨場」には、「鴨池」(元溜り)、「中の島」、「引堀」、「小土手」、「大覗」、「小覗」等鴨猟のための施設があります。そして、鴨の狩猟方法は、「元溜り」に、よく訓練されたおとりのアヒルを放しておきます。「大覗」という、「元溜り」を見渡せる監視所で、鴨などの集まり具合や風向きなどを確認し、どの引堀で猟をするかを決めます。見張りが隠れている「小覗」で、「板木」を叩いてき餌をまくと、おとりのアヒルが「引堀」に入ります。鴨はアヒルの後を追う習性があり、つられて引堀に入ってくるのです。「引堀」に引き入れる鴨の数も、確実に捕獲できる数をあらかじめ決めておき、一定数になると鞴を使って「引堀」の入り口を泡立てて、後の侵入をさえぎる仕掛けがありました。捕り手が「引堀」の「小土手」に隠れていて、合図を受けて鷹を放ち、鴨を捕らえるのです。明治以降は、「叉手網」を使いました。「叉手網」を逃れたものを鷹が飛び立って捕獲するのだそうです。逃してしまうと、鴨はその場所が危険だと仲間に知らせてしまうのです。残念ながら見落としてしまったのですが、「鴨場」の近くには、狩猟で獲物となった鴨を供養するため、昭和10年(1935年)11月に「鴨塚」が建てられたそうです。

⑱ 「中島の御茶屋」
「新銭座鴨場」の次は、「中島の御茶屋」へ向かいます。「新銭座鴨場」に通じる小道を「馬場跡」を横切り直進すると「観音堂跡」にでます。「観音堂跡」のところで左方向に進むと前方に「中島橋」があります。「中島橋」を渡ると「中島の御茶屋」があります。「浜離宮恩賜庭園」には、「中島の御茶屋」、「松の御茶屋」、「燕の御茶屋」、「鷹の御茶屋」の4つの御茶屋があります。「御茶屋」とは、江戸時代の「大名庭園」等に設けられた園遊接待のための施設です。それぞれの御茶屋で、歴代の将軍たちは、招いた賓客とともに景色を楽しみながら食事や調度品を鑑賞するなどして過ごしていたそうです。また、鷹狩の際の休憩場所としても使用していました。しかし、残念ながら、これらの「御茶屋」は焼失してしまいました。現在ある「御茶屋」は歴史資料に基づき忠実に復元されたものです。宝永4年(1707年)に建造された「中島の御茶屋」は昭和58年(1983年)に再建され、11代将軍「徳川家斉」の時代に建てられた「松の御茶屋」は平成22年(2010年)、「燕の御茶屋」は平成27年(2015年)、「鷹の御茶屋」は平成30年(2018年)にそれぞれ再建されたものです。「中島の御茶屋」は、宝永4年(1707年)に、のちの6代将軍「徳川家宣」が建設したものです。4つの御茶屋の中で、室内からの眺めが素晴らしく、最も立派な御茶屋でした。「中島の御茶屋」は、別名「狎鴎亭」とも呼ばれていました。享保9年(1724年)におきた大災のため焼失し、64年後の天明8年(1788年)11代将軍「徳川家斉」の時代に再建されました。明治維新後皇室の離宮となり、18代アメリカ大統領「グラント将軍」が来日の際、27歳の「明治天皇」と憩いのひとときを過ごされた御茶屋でもあります。しかし、昭和19年(1944)11月29日第2次大戦の空襲により焼失しました。現在の建物は昭和58年(1983年)に再建され、建坪は約50坪、建築様式は、木造平屋建入母屋造り、一部寄棟銅板葺161.5㎡、霞台78.3㎡となっています。「中島の御茶屋」が鳥の最高峰である「鶴」の体、両側の「お伝い橋」が翼に見たてられています。「中島の御茶屋」では、大きなガラス張りの座敷に座って池を一望しながら、お茶とお菓子(抹茶セット)が1000円で楽しめます。

⑲ 「お伝い橋」
「中島の御茶屋」の次は門を出てすぐ右手にある「お伝い橋」です。「お伝い橋」は、「潮入の池」の岸から「小の字島」と「中島」に架かるかぎ型の橋です。延長が約120mあり、高知県産の総檜造りの橋です。「中島の御茶屋」は、寛政9年(1793年)に11代将軍「徳川家斉」が架けたものが最初といわれています。当時は、橋全体がフジの回路になっていたといわれています。「中島の御茶屋」は、平成24年(2012年)に改修工事を終えました。ちなみに、「小の字島」の名前の由来は、「小の字島」を中心として左右に橋で結ばれた二つの飛島が配置されている形が、漢字の「小」の字に似ているところから名称がつけられたそうです。

⑳ 「燕の御茶屋」
「お伝い橋」の藤棚を抜けると左手にあるのが「燕の御茶屋」です。「燕の御茶屋」は、11代将軍「徳川家斉」の時代にあった御茶屋のひとつです。「燕の御茶屋」の名前の由来は、施されている「釘隠し」の金物が「ツバメ」の形をしていたところからきているそうです。「燕の御茶屋」は将軍専用の「御茶屋」で、「燕の御茶屋」の中には、将軍が座るための1段高いしつらえがあり、そこに座って窓の外を見ると「大泉水」と「中島の御茶屋」方面が真っ直ぐに眺めら

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 徒歩
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