2024/08/26 - 2024/08/26
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gianiさん
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2024/08/26
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米国の調査で、山口市が日本のおすすめ訪問先に選ばれました。理由は観光化されていないから。地味な県庁所在地には、面白い歴史が詰まっていました。
- 旅行の満足度
- 5.0
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新幹線の新山口駅(旧小郡駅)からローカル線でトコトコ移動すると、山口駅。一応、県庁所在地の中心駅です。
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県庁/議事堂周辺に、ひっそりと存在する施設。
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地味な山口市域の歴史
古来から製塩が盛んな地域です。古墳時代の美濃ヶ浜遺跡で発見された製塩器具は、県中央部の製塩遺跡の基準(美濃ヶ浜式)となっています。位置情報には、近似スポットを入れておきます。菓秋やませ グルメ・レストラン
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浜焼式製塩(塩田以前の製塩法)
海藻を採って干し、乾かした後に焼きます。海から汲んだ海水と焼いた海藻を土器へ入れ、濃い塩水を作り、煮詰めて出来上がり。こうしてできた塩は、藻塩と呼ばれます。
古代山陽道は沿岸部を横断し、沿道は恩恵にあずかりますが、狭義の山口は取り残されます。 -
大内氏
周防国衙勤務の在庁役人で、多々良姓を名乗っていました。多々良盛房は国司(守)に次ぐ介となる頃、大内姓を名乗ります。1186年に周防国は東大寺造営料国となり、国領の多くが東大寺/皇室への寄進荘園となります。大内氏は鎌倉幕府の地頭職を得て荘園を横領していき、周防を実質的に支配します。
建武の親政では周防国守護、南北朝期には周防/長門の守護となります。15世紀には、九州にも進出します。 -
貿易(朝鮮/明/琉球)
14世紀末の大内義弘の時代には、倭寇問題を契機に朝鮮と始まりました、通信符を贈られ、日本国王に準じる待遇を受けました。銅/武具/扇/香木等を輸出し、大蔵経等を輸入しました。
1451年に博多(筑前国)を手中に収めると、博多商人と禅僧の力を借りて明(朝貢貿易)にも進出します。大運河を経由して北京で刀剣/鎧/螺甲(夜行貝)/胡椒/硫黄等を皇帝へ献上します。
螺甲(夜行貝)/胡椒/香木といった産物は、東南アジア/インドと繋がっていた琉球との貿易で得ていました。 -
輸出品
鎧兜や日本刀に代表される武具は、武家である大内氏の儀礼として献上されました。もちろん、芸術品として通用する完成度の高さが背後にあります。胡椒や夜行貝といった南方の産物を日本が献上したのは、明が対外貿易を大きく制限する海禁政策を施行していたことが関係します。 -
輸入品
永楽通宝(日本で貨幣として流通)/青磁/大蔵経/唐物漆器等が輸入されました。骨董品は、希少価値ゆえ皇室/公家や守護大名へ贈答することは外交に貢献し、家格に箔を付けました。大蔵経は、皇帝の名の下で編纂された経仏典/解説書で、領内の寺院に寄贈することで仏教界での地位も向上しました。 -
写真は、大内氏が明や朝鮮から日本国王の印を贈られていたことを示すものです。応仁の乱後は、室町幕府使節の一員としてではなく、細川(堺)/大内(博多)の2氏が幕府の許可で貿易を独占しました。寧波の乱後(1536以降)は、大内氏が独占しました。
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西の京
貿易で得た莫大な富と大陸の文化/知識は、応仁の乱の戦火に見舞われた京都の公家や芸術家の避難先となりました。山口は、西の京と呼ばれます。山口にも祇園祭が伝来します。1459年から続く山口の伝統的な祭りです。 -
大内塗
京都の漆器職人を呼び寄せ、現代へ続く漆産業を築きました。食器だけでなく、大内人形といったものも生み出されました。
大内義興は石見銀山を開発し、莫大な富を得ます。続く大内義隆は6か国の守護を務め、勢力範囲はピークに達します。 -
大内義隆は出雲遠征で尼子氏に敗北し、世継も戦死します。これを機に政治に無気力になり、家臣団は2派に分かれて闘争、武闘派の陶晴賢のクーデターに遭い1551年に自害します。
陶は大友宗麟の弟を傀儡領主に据え、大内義長と改名させますが、大内氏配下の毛利元就に滅ぼされます。中国地方の中心は毛利氏の広島へ移ります。
※大内氏分家の山口氏は、常陸牛久藩主として明治維新を迎えます。 -
江戸時代
防長2国と大幅な改易を受けた毛利輝元は、萩を城下町にします。萩~三田尻を結ぶ萩往還が開通し、石州街道の交差点に当たる山口は宿場町へ姿を変えます。一方で大内時代の寺社への奉仕が割り当てられ、大きな負担となりました。
領内は18の宰判に分割され、代官が派遣されます。山口宰判の勘場(役所)が置かれ、1616年には山口御茶屋と呼ばれる藩主別邸が併設されます(現在の亀山公園ふれあい広場/県立図書館)。位置情報には、近似スポットをいれてあります。大内時代は、陶氏の屋敷跡でした。浜屋餅舗 専門店
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周布政之助(1823-64)
1838年に13代藩主になった毛利敬親は、1858年に周布政之助を登用しますが、久坂玄瑞らの禁門の変を止められず、藩が朝敵の汚名を受けた責任を取って山口で自刃します。江戸で大村益次郎をヘッドハンティングし、藩のみならず明治政府の軍制改革の基盤を築きました。 -
政之助が着用した衣
家紋は、二重亀甲に久の字です。 -
藩庁/県庁所在地
1863年に毛利敬親は、攘夷決行(異国船撃払い)にあたり沿岸部では異国船の攻撃に耐えられないので、内陸部の山口に藩庁を移転します。山陽道へのアクセスが良く、かつ防衛に有利な立地でした。
廃藩置県後も、山口県庁が置かれ政治/行政都市となりますが、経済は下関等の沿岸部で発展します。 -
大内時代の山口
京都に倣い、一の坂川を鴨川に見立て、朱雀大路ならぬ堅小路沿いに町が広がりました。では、展示を離れて現地へ赴きます。一の坂川 自然・景勝地
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一の坂川
市街地のど真ん中を流れますが、蛍が見られます。大内時代には、旧暦4/24~捕獲禁止期間を定めて、風流を楽しみました。 -
堅小路
大内時代のメイン通りで、南北に縦断します。 -
大内氏館跡
大内弘世が1360年に大内御堀から移って館を築きました。1551年まで政務をここで執りました。
※大内御堀:椹野川と仁保川に挟まれたエリア。近似スポットを位置情報に入力。オリーヴェ グルメ・レストラン
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空中写真
160m四方の土地で、室町幕府の将軍邸をモデルにしています。城ではなく居館なので、背後の高嶺城が詰めの城として機能しました。現在は龍福寺境内となっています。高嶺城跡(大内氏遺跡) 名所・史跡
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龍福寺
大内氏が13世紀に開基するも1551年の大寧寺の変で焼失、1557年に後奈良天皇の綸旨(りんじ)を受け、毛利隆元によって大内義隆の菩提寺として開基、現在地に移ります。龍福寺 寺・神社・教会
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本堂
サッシが填められていますが、1479年建立で檜皮葺きの屋根が印象的。国の重文指定です。 -
池泉(2号庭園)
南北40m東西20mに及ぶ池の遺構が発見され、復元されています。 -
境内には、大内義隆の供養塔もあります。毛利隆元は、人質として3年間義隆の館で生活しています。元就が嫡子の隆元を差し出したことで、義隆の厚い信頼を得ます。
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居館の北側には、別館の築山館が建ちました。現在の南入口には、1880年代築の河村写真館が建ちます。
河村写真館 名所・史跡
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別館は迎賓館的役割を果たし、大内教弘が15世紀半ばに造営しました。
築山跡(大内氏遺跡) 名所・史跡
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西側は堅小路に接し、築山は現在築山神社および八坂神社の境内となっています。
築山神社 寺・神社・教会
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築山神社
1605年に毛利輝元が、最期の当主大内義隆を祀るために創建しました。 -
八坂神社
1369年に大内弘世が、京都から勧請。1459年以来行われる祇園祭の山車の出発点です。幕末に現在地に落ち着くまで度々移動していますが、本殿は1519年に大内義興が造営したものが遷座し続け、国の重文指定になっています。八坂神社 寺・神社・教会
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八坂神社の東側には、今八幡宮が建ちます。
今八幡宮 寺・神社・教会
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社殿は1503年築で、本殿/拝殿/楼門は国の重文指定です。
幕末には、八幡隊の屯所になりました。 -
1534年には、大内義隆が直径1m超えの鰐口を奉納しています。筑前芦屋製で、国の重文指定です。
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豊栄神社
毛利元就を祀っています。豊栄神社 寺・神社・教会
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野田神社
明治維新を成し遂げた毛利敬親を祀ります。「そうせい侯」とも呼ばれますが、生まれてすぐに臣籍へ下り、藩主3名が立て続けに急死する中での藩主就任であったために、家臣団の意見をよく聴いて慎重に物事を決定しました。野田神社 寺・神社・教会
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国道9号線を渡ると、雪舟がアトリエとした雲谷庵跡があります。1467年に遣明船で渡航し、1470年に帰国後、1507年に死去するまでここを拠点に活動し、多くの国宝作品も描いています。現在の建物は、1884年築。
雲谷庵跡 名所・史跡
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一の坂川を渡ると、香山公園です。
香山公園 公園・植物園
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国宝瑠璃光寺五重塔
地味な山口で、唯一華のあるスポットでした。
1442年に大内義弘の菩提を弔うために建立。国宝瑠璃光寺五重塔 寺・神社・教会
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スペック
高さ31.2mといっても、かなりの部分が屋根より上の部分。世界の建造物高さランキングで、アンテナ部分を伸ばして高さを稼ぐことにモヤモヤします。 -
本堂の方も情緒があります。
瑠璃光寺 寺・神社・教会
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素直に美しいです。
香山公園 公園・植物園
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山口に本拠地を移した大内弘世の像が建ちます。
続いて、藩政時代のスポットへ移ります。大内弘世公之像 公園・植物園
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萩往還
大内氏の町づくりの中核となる堅小路は、そのまま萩往還に編入されます。萩から延びる道は、瑠璃光寺と雲谷邸の間を抜けて堅小路を進みます。萩往還(山口) 名所・史跡
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現在は、江戸時代からこの地で商う商家の建物が残っています。
こちらは、1884年築の野村家。山口ふるさと伝承総合センター 美術館・博物館
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内部は、伝統工芸を紹介する施設になっています。
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札の辻で萩往還は右折し、石州街道と合流します。現在の大市/中市/米屋町/道場門前/西門前商店街という県下有数の一連アーケードとなっています。デパートの井筒屋もあったりします。写真は、ちょっと昔に撮った道場前商店街。
山口市中心商店街 市場・商店街
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萩往還と一の坂川が交差する地点に、山口宿の本陣がありました。現地には、安部家本陣之跡という石碑が立っています。
首相を輩出した安倍家は、部ではなく倍を当てます。 -
瑠璃光寺のある香山公園には、安部家の離れ座敷「枕流亭」が移築されています。
枕流亭 名所・史跡
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ここの2階では、1867年に薩長連合軍出兵を協議する会合が行われました。西郷隆盛/小松帯刀/大久保利通、木戸孝允/品川弥次郎/伊藤博文らが密議しました。
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県庁へ移動します。県議会議事堂/警察本部等、県行政の庁舎が立ち並ぶエリアです。地味県とはいえ、壮観です。
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山口御屋形
余り知られていませんが、1863年に長州藩主毛利敬親は、藩庁を萩から山口へ移しました。とはいえ用地選定も未決の状態で、政庁が完成したのは翌年にずれこみます。八角形の西洋式城塞でした。完成まで藩主は山口御茶屋/山口宰判勘場に滞在し、勘場は近隣の町屋へ移転しています。 -
旧山口藩庁門
藩主移転後、すぐに第一次長州征伐があり、講和条件として山口城の破城があったので、城門等を破却して萩へ戻ります。1866年5月に毛利敬親は再び山口入りします。明治維新では山口藩/山口県の政庁になり、現在に至ります。旧山口藩庁門 名所・史跡
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山口城内にあった茶室「露山堂」では、毛利敬親と家臣が倒幕/王政復古について密議を重ねました。現在は、香山公園に移設されています。
露山堂 名所・史跡
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県庁本館/議事堂
1926年築で、本館と議事堂が現存する貴重な建築です。山口県旧県庁舎及び旧県会議事堂 名所・史跡
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現役の守衛所もクラシック
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知事室
当時は選挙制ではなく、任命制でした。 -
会議室
内部は県政資料館として一般公開されています。山口県政資料館 美術館・博物館
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階段も丁寧な作品
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向こうの建物は、県会議事堂。非公開みたいです。県会議員は、戦前から公選でした。
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国道9号線(石州街道)を進みます。向こうには、ザビエル記念聖堂が見えます。
サビエル記念聖堂 美術館・博物館
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写真は、1552年にザビエルが山口を訪れた際に大内義長が発行した布教許可状。これには、教会を建てることも含まれます。
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普門寺
大内正恒が創建し、1336年に大内弘直が再建して菩提寺としています。 -
観音堂
幕末に山口が藩庁となると、大村益次郎は観音堂を宿舎として藩校で教務に就きました。併せて、観音堂で私塾も開いて西洋式兵法を伝授しました。普門寺塾跡 名所・史跡
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木戸神社
山口遷移に伴い、萩出身の木戸孝允も地所を購入し邸宅を構えます。明治10年に死を前にして、地所を地元民に寄付し、子弟の育英資金に充てるように遺言します。地区民は、彼を祀って恩を後世へ伝えます。木戸神社 寺・神社・教会
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明治5年の姿
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9号線を挟んで反対側には、標高40mの権現山(熊野権現)がそびえます。麓には、2016年に安倍首相とプーチン大統領が会談したホテル山水園があります。
湯田温泉 名勝 山水園 宿・ホテル
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熊野神社
10世紀に大内氏が勧請したとされ、毛利氏も庇護します。祭神は、天照大神の母親です。白狐伝説起源の地でもあります。熊野神社 寺・神社・教会
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湯田温泉
文献に初めて登場するのは鎌倉時代初期(1200)で、1372年に明の趙秩が詩に著して広く知られるようになりました。大内義興の時代には、権現山の老白狐が7日間池泉に通うと傷が治癒し、和尚が池泉へ行くと薬師如来像が現れたという伝説が誕生します。湯田温泉 温泉
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手軽に足湯を楽しめるスポットもあります。
源泉温度62℃で、軽いアルカリ性。疲れが取れます。温泉舎 名所・史跡
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かつては錦川に舟を浮かべて公家や大名が風流を楽しみましたが、1970年に暗渠化されました。
湯田温泉 温泉
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湯田御茶屋跡
御茶屋は藩主別邸のことで、領内の交通の要所に建てられました。こちらは、湯治目的に設けられ、賓客の接待にも用いられました。 -
往時の様子
長辺が一町(109m)もあり、参勤交代時に西国大名も立ち寄ったそうです。湯別当(お湯の管理)は、代々野原家が務めました。幕末には、勤王の志士が密議を重ねた場所でもあります。 -
近所には、井上公園があります。
長州ファイブの一人、伊藤博文の盟友井上馨(1835-1915)はここで生まれました。身分が高くないとはいえ、井上家は毛利元就以前から仕えていた毛利家の宿老です。井上公園 公園・植物園
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公園北側には、足湯もあります。
公園の南側が、井上家の敷地でした。伊藤とは対照的に、私腹を肥やして散財することでも知られました。足湯【湯田温泉】 温泉
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中原中也の生家には、記念館が建っています。
中原中也記念館 美術館・博物館
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NHK山口放送局の南側には、井上馨遭難の地があります。
留学先のロンドンで、列強4か国が長州に報復する(下関戦争)との情報を得て、急遽帰国。和平交渉に尽力。直後の禁門の変では9/25に藩主と会見後の帰宅時に、俗論派の刺客に襲われ瀕死の重傷を負いました。伊藤からは、安全に気を付けるようにと忠告を受けていました。井上馨遭難の地 名所・史跡
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湯田温泉駅には、白狐のモニュメントゆう太が建ちます。高さ8m重量3tです。
ゆう太 名所・史跡
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列車が来るまで足湯で一服
湯田温泉 足湯 (湯田温泉駅前) 名所・史跡
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新山口を目指します。
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おまけ
山口県立博物館のゆるキャラは、なっとくんといいます。
何とも言えない姿です。
縄文時代の磨製石斧 -
縄文時代の石棒(男性器)
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縄文時代の土偶
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弥生式土器
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弥生時代の石包丁
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古墳時代の甲冑
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古墳時代の馬具
おーい、はに丸? -
古墳時代の銅鏡
妖しいです。 -
古墳時代の勾玉/土玉/耳環
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古墳時代の紡錘車
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天文コーナーの入口にて
次は、山陽道を船木宿まで行きます↓
https://4travel.jp/travelogue/11931861
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