2024/09/09 - 2024/09/09
5位(同エリア421件中)
旅猫さん
二日目は、石巻を訪れる。まず、山村風景の残る北境へ向かい、その後、石巻の中心を自転車で巡ることにする。東日本大震災後、直接被災した街を訪れるのは初めてである。これまで、被災地に観光目的で行くのは、どうにも気が引けたからである。あれから13年。復興半ばではあるが、応援のためにも、足を向けることにした。
(2024.09.19投稿)
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 自転車 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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仙台駅から、7時24分発の仙石東北ラインの快速列車に乗り、石巻駅へ向かう。仙石線は、松島海岸駅までしか利用していないので、高城町駅から先は初利用である。東北本線を進んだ列車は、松島駅の手前で仙石線に入り、終点の石巻駅には、8時19分に到着した。その駅舎には、サイボーグ009に登場するジェットとフランソワーズの像が飾られていた。ここは、石ノ森章太郎氏所縁の地である。
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駅前から、8時25分発のバスに乗り、まずは北境へと向かう。僅かな客を乗せたバスは、石巻の中心を離れ、20分余りで北境バス停に着いた。バスを降りると、目の前には色付いた稲穂が広がっていた。
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バス停近くの集落への入口には、板碑が立っている。無造作に放置されているようだが、鎌倉時代から南北朝時代に立てられたものだそうだ。その奥に草に埋もれた石段が続き、その上には御堂が建っていた。法華堂とのことだが、由緒はわからない。
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その法華堂が建つ小高い丘は、かつて北境館と呼ばれた城館があったそうだ。その城館は、賤ケ岳七本槍の一人である脇坂安治の弟安景の居館であったらしい。伊達政宗に従い参戦した大坂夏の陣で討ち死にしたそうである。その遺骸は、この地に葬られ、その墓碑が残されているそうだ。
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その南麓沿いの道を進むと、左手に分かれる道があった。そこが北境集落である。道の両脇に、立派な長屋門などを構えた大きな邸宅が並び、あまり見られない景観である。
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中には、大きな門を構えた邸宅もあった。
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この地域は、どのような理由かはわからないが、かつては、かなり裕福であっただろう邸宅が多い。豪農と言ってよいかもしれない。
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集落と言っても、道沿いに数件建ち並ぶだけである、それでも、見応えはある。令和の世まで、よくも残されたものである。
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一番奥には、ひと際立派な長屋門を持つ邸宅があった。その屋根は、天然のスレート葺きのようだ。魚の鱗のようである。前日に訪れた登米にも近いので、この辺りも天然スレートが産出されていたのだろう。
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門の前から振り返ると、なかなかのものである。しかし、右側の家は建て替えられ、新建材の住宅となっていた。この集落の佇まいも、いずれは過去のものとなるだろう。この国では、儲かる場所では綺麗に改装して利用するが、多くの場所では、ただ失われるのを見過ごされるだけである。
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集落の入口まで戻って来た。その角には、この地区の庄屋であったであろう大きな邸宅が建っていた。石垣も立派である。その主屋の屋根も天然スレート葺きのようであり、とても見事であった。
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バス停へ戻り、9時20分発のバスで石巻駅へと戻る。30分ほどの滞在であったが、とても興味深い集落の佇まいを観ることが出来た。
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駅前にあった商業ビルの中に石巻市役所があり、その一階に観光案内所がある。そこに立ち寄り、地図をもらい、自転車を借りて街巡りへと出る。
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まず向かったのは、駅のすぐ南にある小高い丘である。坂道を登って行くと、神社の境内に出た。そこが、鳥屋神社である。延喜式神明帳に記載されている古社である。とりあえず、ここで石巻にお邪魔する挨拶をした。
鳥屋神社 寺・神社・教会
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この後、石巻城跡へと向かうため、その南麓を東へと走る。その途中で、立派な山門を構えた寺があった。永厳寺と言う寺院で、開祖は松本兼満と言う信州松本の豪族らしい。豊臣秀吉により信濃を追われたと云うが、調べても、松本氏と言う豪族の素性はわからなかった。
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その寺近くの路上に、石巻らしいマンホールがあった。石ノ森漫画館と、ロボコンが描かれていた。
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さらに南へと走っていると、どこかで道を間違え、旧北上川沿いの道に出てしまった。仕方が無いので、そのまま走っていく。すると、急に街並みが新しくなった。その辺りから海側が、津波に寄り被災した場所である。その一角に、また寺があった。津波が本堂床上まで押し寄せたそうだが、倒壊は免れたそうである。この寺には、真田信繁の子孫である真田幸歓が葬られているそうだが、墓所は不明であった。
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その近くの住宅地の中に、明治30年に建てられた蔵が取り残されていた。ここにあった本間家の土蔵の一つで、倒壊せずに残ったそうだ。同じ作りの蔵があったそうだが、そちらは倒壊してしまったそうである。
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そこから少し西寄りに、震災遺構である門脇小学校の校舎があった。6mの津波に襲われたとはいえ、校舎全体がかなり傷んでいる。これは、直後に起きた火災によるものだそうだ。車から漏れたガソリンに引火し、56,000㎡あまりが延焼したそうである。
震災遺構 門脇小学校 名所・史跡
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海の方へと向かうと、土台だけが残された遺構があった。旧門脇保育所であった。門脇小学校と同様に、地震直後に避難したため、犠牲者はほぼ無かったようだ。しかし、震災の遺構を残すというのは、なかなか難しい選択のように感じた。
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その傍らを水路が流れていた。震災前は、ここに街があり、その水路は暗渠となっていたそうである。聖人堀と呼ばれるもので、江戸時代後期の絵図にも描かれていたそうだ。街が失われたため、水路として復元したそうである。
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さらに海側へ進むと、広大な公園が広がっていた。石巻南浜津波復興記念公園である。その中にあった一丁目の丘に登ってみる。空が広く、雲が近くに感じられた。
石巻南浜津波復興祈念公園 公園・植物園
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海の方を眺めると、防潮堤の向こうに僅かに海が見えた。
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西側に目を向けると、かつてそこにあった街の写真があった。南浜地区である。多くの家が建ち並んでいたことがわかる。
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写真と同じ場所を眺めると、そこには公園が広がるだけである。津波の直撃を受けた南浜地区は、完全に失われてしまったのである、
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丘の麓に、『みやぎ東日本大震災津波伝承館』と言う施設があるのだが、月曜日は休館であった。週末と絡めて訪れる人も多いのだが。未だに月曜日を休みとしている施設が多いのは残念である。
みやぎ東日本大震災津波伝承館 美術館・博物館
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その前から空を眺めると、夏雲と秋の雲が鬩ぎ合っている。東北では、少しだけ暑さが和らぎ、秋の気配が漂い始めているようだ。
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公園の一角では、萩の花も咲き始めていた。
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公園を後にして、地図を頼りに石巻城跡を目指す。今度は、道を間違えないように、慎重に確認しながら自転車を走らせる。そして、震災時、津波が中心街を襲うのを食い止めた日和山に辿り着いた。そこからは、津波に襲われた海側の景色が望めた。『奥の細道』で、芭蕉も景色を眺めたそうである。中世には、葛西氏の城館である石巻城が築かれた場所でもある。
石巻城跡 名所・史跡
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その城跡跡には、延喜式内社である鹿島御児神社が鎮座している。日和山は、景勝地であったらしく、石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火などの文人が訪れている。句碑や歌碑が多いそうだが、見忘れてしまった。
鹿島御児神社 寺・神社・教会
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境内の片隅に、昭和の風情が漂う古風な茶店が建っていた。ちょうど昼時なので、立ち寄ることにした。
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中に入ると、扇風機が回っている。木製のテーブルと長椅子があり、壁には品書きと色紙が貼られている。見れば、モンキーパンチ氏や矢口高雄氏などのサイン色紙もあった。
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少し悩んだ後、石巻焼きそばなるものを注文。出て来たそれは、豚肉ともやし、キャベツが入った普通の屋台の焼きそばのようなものであった。味はかなり薄目で、ソースを掛けて食べるように勧められた。量もちょうどよく、素朴な味わいが気に入った。値段も500円と安かった。
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食後、日和山から市街地へと降りる。その急な坂の途中に、『たい平桜』と言う桜の木があった。落語家の林家たい平に所縁の桜とあった。落語家になるか悩んでいた頃、自分探しの旅の途中で立ち寄った日和山で、この桜の木のに向かって決意をしたそうである。
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坂を下りきると、永巌寺の前に出た。そのそばに、『ISHINOMAKI HOP WORKS』と言う麦酒工房があった。しかし、残念ながら週末のみの営業であった。
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そこから北へ走り、『石ノ森漫画館』へと向かう。しばらく走ると、交差点に出た。その角に、三階建ての古い洋風建築が建っていた。『旧観慶丸商店』と言う、かつては百貨店であった建物であった。
石巻にあった百貨店の遺構 by 旅猫さん旧観慶丸商店 名所・史跡
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その先の堤防上に、神社が建っていた。石巻の総鎮守である大島神社である。この社も延喜式内社である。江戸時代に建てられた社殿は津波の被害を免れたそうだが、堤防をかさ上げしたため、解体後に移築再建されたものだそうだ。
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その境内東側の旧北上川の中に、岩が顔を出している。これが『巻石』と呼ばれるものらしい。諸説あるようだが、『石巻』の語源となった岩だと考えられているそうである。ただ、水が渦を巻くような岩には見えない。
巻石 名所・史跡
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その巻石から川の景色を眺めていて、ふと気が付いた。中州にある石ノ森漫画館が見えないのである。そこで、地図を確認すると、何と通り過ぎていた。来た道を戻り、脇道に入ると、中州へと渡る橋があり、無事に辿り着いた。そこは、この日唯一、観光客で賑わう場所であった。
石ノ森萬画館 美術館・博物館
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館内に入り、最初に展示されていたのが、かの『トキワ荘』の模型であった。手塚治虫、赤塚不二夫、石ノ森章太郎など、後に巨匠となる漫画家たちが、若き日を過ごしたアパートである。実物は、昭和57年に解体されてしまった。
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展示室では、まず、『サイボーグ009』が登場。男性には、紅一点のフランソワーズが人気であった。
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続いて、『仮面ライダー』シリーズである。こちらは、今でも若手俳優により続いているので、若い女性に関心があるようだ。その次の『人造人間キカイダー』の展示は、少々地味であった。
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漫画館のすぐ近くに、教会が建っていた。旧石巻ハリストス正教会教会堂で、明治13年に建てられたものらしい。津波により被災したが、倒壊しなかったそうである。内部が無料で見学できたが、混み合う漫画館からすぐのところにあるにも関わらず、拝観している人はいなかった。
旧石巻ハリストス正教会教会堂 寺・神社・教会
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漫画館を後にし、先ほど参拝した大島神社の脇を抜けて、さらに北へと走る。そして、住宅街の一角に、志賀直哉生誕の地があった。明治16年に、この地で生まれ、東京に転居する二年間を過ごしたそうである。今は、標識だけが立っていた。
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駅へ戻る途中で、図柄の異なるマンホールを見つけた。旧北上川と日和大橋、そして、川開き花火大会が描かれている。
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駅近くまで来ると、交差点の近くに小さな社のようなものがあった。社についてはわからなかったが、この場所には、かつて、仙台藩の鋳銭場があったそうである。
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自転車を返し、駅に戻る。ホームには、13時55分発の仙台行快速列車がすでに入っていた。この列車に乗り、仙台駅へと向かう。仙石東北ラインの開通により、石巻への交通がかなり便利になった。
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そして、仙台駅からは、15時31分発の『こまち28号』に乗り、今回の旅を終えた。暑さの緩み始めた陸前への旅。初日の登米の町並みは気に入ったし、二日目の北境も風情があった。震災と津波に見舞われた石巻市街地は、津波の被害を受けた地区と免れた地区との光景の違いの大きさに、改めて自然の驚異を感じさせられた。そして、今後、機会があれば、宮古など、別の被災地にも足を向けることが出来ればと思う。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- hot chocolateさん 2024/12/08 08:23:00
- 震災の爪痕
- 旅猫さま
おはようございます。
ご無沙汰していてすみません。
「暑さ緩みし陸前へ「2」~山海の石巻~」の旅行記にお邪魔しています。
門脇小学校と大川小学校。
同じように震災と津波に襲われ、避難したものの、その後の判断の相違で、門脇小学校はほぼ犠牲者はなかった一方、大川小学校は多くの犠牲者を出してしまった。
あの混乱の中、どのように避難すべきか、何が正しい判断か、判断が難しかったとはいえ、家族にとってはその判断がどんなに悔やまれたことだろうと思います。
旧門脇保育所の土台だけが残された遺構、震災の遺構を残すというのは、なかなか難しい選択のように感じますが、跡形もなくなって、芝生の広場になったり、跡地に何かが建ったりするよりは、はるかに人々の記憶に残ると思う。広島の原爆ドームもそう。
東北の震災・津波の時、次男が取材とボランティアで仙台に8か月間、行っていましたが、私たちに、被災地に行って、現実の姿を見ないかと。
被災から6か月、被災地の現状を見に行くというのは、何かためらいを感じるものの、宮城県の名取市に行き息子に案内・説明を受けました。
TVのニュースや新聞の記事を読むよりもはるかに、事の重大さ・恐ろしさを感じました。
現実を、自分の目で見るということは大切なことだと思います。
hot choco
- 旅猫さん からの返信 2024/12/08 13:12:06
- RE: 震災の爪痕
- hot chocoさん、こんにちは。
書き込みありがとうございます。
石巻は初めてでしたが、やはり震災の影響は大きいようでした。
駅周辺は津波の影響を受けなかったため、変わらぬようでしたが。
あの二つの小学校の明暗は、対照的ですね。
犠牲者が多く出たほうは、『何故』と、悔やんでも悔やみきれないと思います。
三陸沿岸は、これまでも津波に何度も襲われ、その教訓は受け継がれていますが、それでも、以前は無かったことには対応できないこともあります。
今回の教訓で、今後は、まずは高台へ逃げろと言うことになるでしょう。
震災遺構の保存は難しいと思います。
実際に体験し、被災し、身内に犠牲者が出た方々にとっては、それがあるだけで思い出してしまうと言うこともあります。
原爆ドームも、直接知らない世代には、戦争や原爆の悲惨さを伝えるものとして大きな役割を持ちますが、被爆者にとっては、やはり複雑なものがあるようです。
僅か半年後に訪れているのですね。
まだ被災直後と変わっていなかったことでしょう。
仕事柄、大規模自然災害に関しては、何らかの形で接しています。
東北の時は、避難所の運営を行っていました。
24時間体制なので、夜通し起きていたりと。。。
2013年の大島の土砂災害では、現場まで国の調査官を案内しました。
あの時は、まさに呆然となりました。
日本は災害大国でもあるので、どこにいても巻き込まれる可能性があることを、日々知っておくことも重要です。
旅猫
-
- チーママ散歩さん 2024/09/20 22:03:25
- 最大の被災地から復興の石巻
- こんばんは 旅猫さん。
震災遺構である門脇小学校の校舎へ立ち寄られたのですね。
先生方の判断で迅速に裏山に避難されて.....
犠牲者は少なかったんですね。
いまさらですが よかったです。
そのあとの火災であの姿なのですね。
私も震災からしばらくしてからですがボランティアで
現地に入ったことがあります。
多くの犠牲者を出した大川小学校。
ご記憶にありますでしょうか。
その時 生徒の親御さんの悲しみの声を聴いて
非常につらい気持ちになったのを思い出しました。
津波がくるまでの50分の間の避難の判断の違いで
大きく明暗が分かれた2つの対照的な石巻の小学校。
大川小の校庭のすぐに裏にも山がありました。
子供の足でも十分避難できる山。そして時間....
なのに 必死に「逃げよう」と提案しても
「先生の指示は絶対」の小学生は動くことを許されず
泣きながら校庭で集まっていたと聞きました。
その間防災無線も消防も何度も避難を呼びかけていたのに。
「避難マニュアルの高台へ避難」というあいまいな表現に
判断が遅れ 起きてしまった人的被害ともいわれている
大川小学校。
災害時の適切な判断と迅速な避難行動の重要さを本当に
強く感じたのをおもいだしました。
飲み込まれた住宅街が緑の公園として静かに
佇んでいる写真....。
かつての賑わいは消え.....何もない空間には
さみしが漂い.....
やけに空が広く見えますね。
これらの遺構は後世に伝える重要な記録でもあり
風化させないようにしないといけないので....
お出かけ前は気が引けたとありましたが、こうして
旅行記を読んで伝えることも 大切なことかと思います。
悲しいだけの石巻だけでなく 復興しつつある今を
見せていただきありがとうございます。
- 旅猫さん からの返信 2024/09/21 00:32:53
- RE: 最大の被災地から復興の石巻
- チーママ散歩さん、こんばんは。
書き込みありがとうございます。
震災遺構を観るのはどうかと思いましたが、立ち寄ってみました。
外観だけでしたが、津波ではなく、火災による被害だとは知りませんでした。
門脇小学校の迅速な避難の話は、これからも語り継がれていくことでしょう。
その陰で、大川小学校の悲劇も教訓として、後世に伝わりますね。
判断の違いで、多くの子供たちの命が失われたというのは、悲しいことです。
しかも、避難が可能な場所と時間があったのに。。。
復興記念公園からの南浜地区の景色は衝撃でした。
津波が来る前は、多くの住宅が密集する大きな町が広がっていた場所。
それが、そこに町があったことが嘘のような景色が広がっていました。
多くの人が普通に暮らしていた町が、一瞬のうちに消失してしまうという怖さ。
改めて、津波災害の恐ろしさを感じました。
訪れるまでは、気が引けていましたが、その現場を自分の目で見るということは、やはり大切なことだと感じました。
自分がどこかで震災に遭った時、海に近ければ、迷わず高台に避難しようと思います。
災害の恐ろしさは、どんな形であれ、後世に伝えていくことが大切ですね。
旅猫
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