王子・十条旅行記(ブログ) 一覧に戻る
王子から駒込へのプロムナードの第三回目は、「醸造試験所跡地公園」をスタート地点として、本郷通り沿いにあるバラの花で有名な「旧古河庭園」までの観光スポットや名所旧跡についてリポートしたいと思います。次のような順路で巡りました。<br /><br />①《醸造試験所跡地公園(旧醸造試験所第一工場)》⇒②《渋沢栄一記念ポスト》⇒③《東京ゲーテ記念館》⇒④《西ヶ原一里塚》⇒⑤《七社神社》⇒⑥《東京高等蚕糸学校発祥之地》⇒⑦《御殿前遺跡(豊島郡衙跡)》⇒⑧《農業技術研究発祥の地》⇒⑨《平塚神社》⇒⑩《西ヶ原貝塚》⇒⑪《無量寺》⇒⑫《旧古河庭園》⇒⑬《和菓子平塚亭つるおか》<br /><br />まずは、「醸造試験所跡地公園」です。<br /><br />01_醸造試験所跡地公園(旧醸造試験所第一工場)<br />「醸造試験所跡地公園」へのアクセスは、JR京浜東北線「王子駅」の北口改札口を出て、左方向に進むと「親水公園口」になります。「親水公園口」を左折すると目の前に「本郷通り」があるので、そこを右折します。道なりに坂を160mほど直進すると信号(表示名「音無橋」)があります。横断歩道を渡り左折し、直ぐの角を右折し、そのまま道なりに20mほど進むと「醸造試験所跡地公園」があります。今回は、その右手奥にある「赤煉瓦酒造工場(旧醸造試験所第一工場)」にスポットを当てて説明します。<br />「旧醸造試験所第一工場」は、国による醸造技術の研究・発展を目指し、明治37年(1904年)5月に創設された「大蔵省醸造試験所」の「清酒醸造試験工場」として設立されました。何故、大蔵省の管轄になったのかというと大蔵省は酒税とも密接な関わりを持つことからだそうです。「大蔵省醸造試験所」の「清酒醸造試験工場」がここに設置された理由は、幕末に「滝野川大鳳製造徐」が置かれた敷地の一部で、水利が良く、王子停車場(現在のJR王子駅)も近いという理由だからそうです。設計は、明治の3大建築家の1人である「妻木頼黄」です。この建物は、通称「赤煉瓦酒造工場」といい、ドイツのビール工場を手本に設計された明治期の貴重な煉瓦造り建造物であるとともに、産業遺産としても貴重とされています。一部3階建、地下階に貯蔵室を持つ煉瓦造りで、外観を化粧レンガ小口積みとし、外壁上部はレンガを櫛形に並べたロンバルド帯風の意匠となっています。平成26年(2013年)12月に、建築学上貴重であり、歴史的価値が高いことから文化財審議会で審議の上、「国の重要文化財」に指定されました。「赤煉瓦酒造工場(旧醸造試験所第一工場)」は、10月下旬から11月上旬、「東京文化財ウィーク」の期間中は、内部が特別公開されますが、それ以外は、個人向けの一般公開はされていません。更に敷地内にも入ることができず、場の北側に隣接する「醸造試験所跡地公園」から、敷地のフェンス越しに、建物の外観を見ることになります。団体による見学はできるそうですが、人数制限があり、原則として10名以上25名以内の団体で、平日9:00~17:00の観覧(観覧時間は約1時間)が可能だそうです。ちなみに観覧料は、1団体あたり6,000円です。かなりハードルの高い条件ですよね。また、内部を見学できる施設は、「ボイラー室」、「原料処理室」、「廊下」、「旧麹室」の四箇所にあるそうです。中に入れなくても「醸造試験所跡地公園」から建物の全景を見るだけでも素晴らしい施設と分かるはずです。<br /><br />02_渋沢栄一記念ポスト<br />「醸造試験所跡地公園」から「渋沢栄一記念ポスト」へは、徒歩3分200mほどの距離ところにあります。「醸造試験所跡地公園」から「本郷通り」(都道455号)に戻り、140mほど「旧古河庭園」方面に進むと「飛鳥山前郵便局」がありその前にあります。<br />「渋沢栄一記念ポスト」を発見したのは、今回の散策の最終目的地である「旧古河庭園」に向かう途中の「飛鳥山前郵便局」前です。「渋沢栄一」は、沢山の事業を手掛けていますが、日本の近代郵便制度の創設者と呼ばれている「前島密」とも親交が深かったそうです。「渋沢栄一記念ポスト」(通称:ラッピングポスト)は、令和3年(2021年)3月25日、「飛鳥山前郵便局」に設置されました。ポストには、「渋沢栄一」が描かれているほか、「渋沢栄一」の手がけた銀行、鉄道、ビール、ガスなどの事業が描かれていました。日本には、一般的なイメージの赤いポストだけでなく、このような地域に密着した色々なポストがあるんでしょうね。<br /><br />03_東京ゲーテ記念館<br />「渋沢栄一記念ポスト」から「東京ゲーテ記念館」へは、徒歩10分650mほどの距離ところにあります。「本郷通り」(都道455号)を450mほど進むと二つ目の信号(表示名「一里塚」)があるので、そこを右折すると「ゲーテの小径」になります。「東京ゲーテ記念館」は、150m先の右手にあります。その反対側には、「ゲーテの小径ポケットパーク」もあります。<br />「東京ゲーテ記念館」は、ドイツの詩人「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」についての資料や情報を提供する民営の資料館です。従来は、「東京ゲーテ記念館」の館内にあるギャラリースペースは、「ゲーテ入門」の資料の一部を展示してきたそうですが、残念ながら令和2年(2020年)6月1日で終了になりました。ただし、「ゲーテ」に関する質問・情報提供はすべて無料で、メールで対応しているそうです。そのような訳で、「東京ゲーテ記念館」の外観のみの撮影となりましたが、建物はヨーロッパ風の建築で立派なものでした。「東京ゲーテ記念館」の道路の向かい側には、「ゲーテの小径ポケットパーク」があり、レリーフや「ゲーテの年譜」そして代表的な作品である「旅人の夜の歌」などの詩が刻まれていました。<br />ちなみに、「東京ゲーテ記念館」の歴史を遡ってみると、茨城県出身の実業家の「粉川忠」が、ゲーテの生誕200年にあたる昭和24年(1949年)に「財団法人東京ゲーテ協会」を発足させ、東京都北区王子で活動を開始しました。そして、昭和39年(1964年)に、東京都渋谷区神泉町に初代「東京ゲーテ記念館」が完成し、昭和53年(1988年)に、現在の地に移転してきました。<br /><br />04_西ヶ原一里塚<br />「東京ゲーテ記念館」から「西ヶ原一里塚」へは、徒歩5分300mほどの距離ところにあります。「ゲーテの小径」から「本郷通り」(都道455号)まで戻り横断歩道を渡り右方向に90mほど進むと、左手に「西ヶ原一里塚」があります。また、「本郷通り」(都道455号)の中州には「一里塚の碑」があります。<br />「西ヶ原一里塚」は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの旧位置にあります。「西ヶ原一里塚」は、「日光御成道」(旧道)の両脇に、対をなして築かれました。二つの塚に挟まれた部分が江戸時代の街道の道幅です。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになりましたが、実業家の渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功しました。大正11年(1922年)3月8日には、「国史跡」に指定されています。ちなみに、「一里塚」は、慶長9年(1604年)に江戸幕府が全国の主要街道に、一里(約3.9㎞)ごとに道の両側に塚を築かせ、その上に、主に榎の木を植えさせました。街道を旅する旅人にとって「一里塚」は、旅の長い道のりの目安となり、駕籠賃の目安にもなったそうです。残念ながら、その時に保存された往時の榎は枯れてしまい、現在の榎は新しく植えられたものです。そして、23区内には18カ所あったといわれていますが、当時の位置を保っているのは西ヶ原一里塚と板橋区の志村一里塚の二つだけだそうです。南側の一里塚は、道路に挟まれていますので、交通量はさほどでもありませんが、信号や横断歩道もありませんので、通りを渡るときには車に十分注意してください。<br /><br />05_七社神社<br />「西ヶ原一里塚」から「七社神社」へは、徒歩1分100mほどの距離ところにあります。「西ケ原一里塚の碑」と「滝野川警察署」の間の道のところに「大鳥居」がありますのでそれを潜り、住宅街の続く参道を抜けると「二の鳥居」があり、正面には、「七社神社」の「社殿」があります。<br />まず、「七社神社」の歴史を紐解いて見たいと思います。「七社神社」の創建は不詳です。何故ならば、寛成5年(1793年)の火災により古文書、古記録等を焼失したためです。しかし、寛成6年(1794年)年9月秋分の日に「社殿」は再建され、そのことにより、この日を「七社神社」の大祭日と定め、現在も賑やかなお祭りが執り行われています。「七社神社」は、江戸時代には「七所明神社」といい西ヶ原村(現在の北区西ヶ原)の鎮守でした。現在でも、西ヶ原・栄町の総鎮守として篤い崇敬を集めています。そして、「神仏混淆」の江戸時代には、別当寺である「無量寺」の境内にありました。御祭神は、紀伊国高野山の「四社明神」を勧請し、ここれに「天照大神」、「春日神」、「八幡神」の三柱を合祀したのが七所(七社)の由来です。江戸時代までは仏宝山西光院「無量寺」境内の高台、現在の「旧古河庭園内」にありました。「七社神社」は、明治維新の「廃仏毀釈」、「神仏分離」で「一本杉神明宮」の社地に遷り、「一本杉神明宮」は「天祖神社」と称するようになりました。「一本杉神明宮」と通称された元になった巨大な杉は残念ながら枯れてしまい、伐採されましたが現在も切り株だけが残されています。「七社神社」は、「渋沢栄一」ゆかりの神社でもあります。明治12年(1879年)に「渋沢栄一」は西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構え、明治34年(1901年)には飛鳥山邸を本邸とし「七社神社」の氏子となりました。崇敬心も篤く大正9年(1920年)には、「渋沢栄一」を筆頭とする諸氏の寄付により「社務所」が建築され、また「渋沢栄一」揮毫の「社額」、「掛け軸」を始めとした奉納品が神社に納められているなど、「七社神社」は「渋沢栄一」ゆかりの神社でもあります。そして、「七社神社」の境内には末社として「天祖神社」(一本杉神明宮)、「稲荷神社」、「熊野神社」、「菅原神社」、「三峯神社」、「疱瘡社」(ほうそうしゃ)が祀られています。「一本杉神明宮」は、もともとこの地に祀られていた神社ですが、「七社神社」の遷座により末社となりました。<br />では、「七社神社」へ参拝したいと思います。「七社神社」の最寄駅は、東京メトロ南北線の「西ヶ原駅」です。そこから「本郷通り」を「飛鳥山公園」方面へ向かうと「大鳥居」があります。「大鳥居」は、昭和9年(1934年)に建立されました。「大鳥居」の右前には、「七社神社参道」の碑があります。また、左側には、かつての一里塚である国史跡「西ヶ原一里塚」があります。「大鳥居」を潜り、長く続く住宅街の参道を抜けると明治24年(1891年)に建立された「二の鳥居」があります。この先が本格的な参道となっています。<br />次に、「二の鳥居」潜ってすぐ右手に「手水舎」があります。龍のいる「手水舎」で、龍のすぐ隣には手水の作法がかかれた看板があります。こちらの手水舎は天井にも龍の絵があります。「手水舎」でよく見かける龍は、水を守護することから置かれていることが多いそうです。<br />更に進むと「拝殿」の前には一対の狛犬があります。「本殿」が改築された明治26年(1893年)に奉納されたものです。阿吽の狛犬はどちらも子を抱えています。どちらも子を守るような造形です。そのため「狛犬」ならぬ「子守犬」(こまいぬ)として親しまれています。こうした「子守犬」からも「七社神社」は子宝・子孫繁栄の御神徳として崇敬を集めています。<br />そして、参道の正面に「社殿」があります。「拝殿」は昭和3年(1928年)に改築されたものが改修されつつ現在に至っています。「拝殿」の彫刻も丹念に彫られており、目に墨が入っているのが特徴です。正面には龍の彫刻があり、木鼻には表情豊かな獅子が飾られています。「拝殿」には「七社神社」の「扁額」(社号額)があります。この「扁額」(社号額)は、「七社神社」の氏子であった「渋沢栄一」による揮毫です。<br />そして、「拝殿」の前には当社のシンボルとなりつつある八重桜(里桜)が2本あります。右側が「福禄寿」と呼ばれる八重桜で、淡紅紫色に咲く桜として知られています。左側が「御衣黄」と呼ばれる八重桜で、白色から淡緑色に咲く桜です。そのため桜の時期になると、左が白系、右が紅系の桜が咲き、社殿前が紅白に彩られます。「七社神社」の「御衣黄」と「福禄寿」の八重桜は、例年だと4月中旬頃に見頃となるそうです。<br />次に、境内の右手に進みます。そこには「願掛け公孫樹」があります。公孫樹の周辺が「絵馬掛」、「御籤掛」となっているので、「願掛け公孫樹」と呼ばれているそうです。<br />次に、境内の左手に進みます。境内社が立ち並んでいます。一番右手は「菅原神社」と「三峯神社」の合殿で、扁額にも「菅原神社」「三峯神社」の文字が描かれています。その左側は「稲荷神社」で鳥居が設けられその先にお稲荷様が祀られています。更に左手には「天祖神社」があります。元々、現在地に鎮座していた「一本杉神明宮」で、現在は「七社神社」の境内末社になっています。令和元年(2019年)には当社の御遷座百五十年を迎え記念事業として玉垣も整備されました。一本杉の由来となった旧御神木(推定樹齢1,000年)も切り株の状態で社殿裏手に保存されています。他に「熊野神社」、その隣には「疱瘡社」の石碑があります。<br />さらに、境内左手に進むと、立派な「神楽殿」(舞殿)があります。多くの絵馬や額が掛けられていて、「七社神社」の歴史を伝えています。「神楽殿」(舞殿)では、遷座150周年の石見神楽が奉演されました。舞殿では、お祭りや行事の際に奉納演奏や舞が行われています。また、七五三詣の時期になるとは碁盤やお祝い太鼓などを設置されるそうです。<br /><br />06_東京高等蚕糸学校発祥之地<br />「七社神社」から「東京高等蚕糸学校発祥之地」へは、徒歩6分450mほどの距離ところにあります。「七社神社」出て「本郷通り」(都道455号)を左方向に230mほど進みます。「花と森の東京病院」の入口から少し先の歩道の左手にある植え込みの中に「東京高等蚕糸学校発祥之地」碑があります。<br />明治政府は産業奨励のため、麹町区内山下町1丁目1番地(現千代田区内幸町帝国ホテル付近)に「農産陳列所」設置しました。当時日本の輸出品の中心は生糸であったので、明治17年(1884年)4月に、ここに蚕病試験場を設けて特に蚕業の振興を図りました。この施設は明治19年(1886年)10月に西ヶ原(現北区西ヶ原)に移り、「農商務省蚕病試験場」となりました。そして、大正時代に, 全国各地に「蚕糸学校」が作られました。重複するところがありますが、その歴史を少し詳しく紐解いてみると、明治19年(1886年)10月に、麹町内山下町より移設し「農商務省蚕病試験場」としてスタートしました。明治29年(1896年)3月に名称を「農商務省蚕病業講習所」と改称しました。大正3年3月に「文部省」に移管され、「東京高等蚕糸学校」となりました。昭和15年(1940年)4月に現東京都小金井市に移転し、昭和19年(1944年)4月には、「東京繊維専門学校」と改称し、太平洋戦争後の昭和24年(1949年)5月に「東京農工大学」に昇格しました。「東京高等蚕糸学校発祥之地」の碑は、平成3年10月に、東京都北区教育委員会、東京高等蚕糸学校記念碑建立協賛会によって建立されました。<br /><br />07_御殿前遺跡(豊島郡衙跡)<br />「東京高等蚕糸学校発祥之地」から「御殿前遺跡(豊島郡衙跡)」へは、徒歩1分100mほどの距離ところにあります。「東京高等蚕糸学校発祥之地」から50mほど進むと左手に「北区滝野川公園」の入口があるので、そこを左折し公園の中を30mほど進むと、左手に「御殿前遺跡(豊島郡衙跡)」があります。<br />「御殿前遺跡」は、先土器時代から近世の長期にわたる複合する遺跡です。その中でも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の「郡衙」(地方役所)と推定されています。ちなみに古代律令国家は、地方を統治するために「国衙」とともに、郡ごとに役所を設置していました。この役所は 「郡衙」もしくは「郡家」と呼ばれていました。そして、古代の武蔵国には21の郡が置かれ、現在の東京都は「豊島郡」、「荏原郡」、「多麻郡」にあたります。「豊島郡」は、現在の千代田、文京、台東、荒川、豊島、北、板橋、練馬、新宿区の区域で、その「郡衙」の中心部分がこの一帯です。現在は遺跡周辺には、「北区立滝野川公園」、「滝野川体育館」、「地震の科学館」(防災センター)、「消防署」などが林立しています。「北区立滝野川公園」は滝や水路で水遊びのできる公園で、公園には、近代農業の研究施設であった「農事試験場跡地の碑」もあります。<br /><br />08_農業技術研究発祥の地<br />「御殿前遺跡(豊島郡衙跡)」から「農業技術研究発祥の地」へは、徒歩2分130mほどの距離ところにあります。「北区滝野川公園」をさらに奥に向かって150mほど直進すると、右手にある「北区滝野川体育館」を過ぎた右手の植え込みの中に、「農業技術研究発祥の地」の碑があります。<br />明治26年(1893年)4月に「農商務省農事試験場」が東京府北豊島郡瀧ノ川村西ヶ原に創設されました。日本の「農業技術研究」がここからスタートしました。ここの他に「仙台」、「金沢」、「柏原」、「広島」、「徳島」、「熊本」に置かれました。目的は農作物の品種改良や新技術の開発でした。それ以来、87年間の長きにわたり農業技術研究を推進してきました。ただし、その間 昭和25年(1950年)4月 には、「農業技術研究所」と改称されるなど組織機構の変遷はありましたが、「西ヶ原」は常に近代農業関係試験研究機関の母体として多くの輝かしい業績により農業の発展に寄与してきました。昭和55年(1980年)1月に「国立試験研究機関」の筑波研究学園都市への移転に伴い ここでの研究に終わりを告げました。付近には、「東京高等蚕糸学校」やこの碑の北側には「家畜衛生研究所」がありました。農事試験場」は公園の南半分や滝野川体育館、滝野川消防署のあたりに位置していたそうです。<br /><br />09_平塚神社<br />「農業技術研究発祥の地」から「平塚神社」へは、徒歩4分280mほどの距離ところにあります。「農業技術研究発祥の地」から「本郷通り」(都道455号)まで戻り、左折し90mほど進むと「和菓子平塚亭つるおか」がありそのすぐ先の左手に「平塚神社」の石鳥居があります。「和菓子平塚亭つるおか」の名物「みたらし団子」は「旧古河庭園」を見学した後にお土産として購入する予定です。<br />それでは、最初に「平塚神社」の歴史を紐解くと、「平塚神社」は、平安時代に創建された源氏にゆかりのある神社で、また、北区を代表する作家である「内田康夫」の推理小説「浅見光彦」ミステリーシリーズの中でも度々事件の舞台として登場します。「平塚神社」の創建は、平安後期元永年中(1118年~1120年)といわれています。「武略神に通じ、騎射神の如し」と謳われた平安末期の英雄であり、また、鎌倉幕府の開祖である「源頼朝」の祖父「八幡太郎源義家」が奥州征伐(後三年の役)の凱旋途中にこの地を訪れ、その饗応への返礼として、領主の「豊島太郎近義」に鎧一領と守り本尊の「十一面観音像」を贈りました。そして、「豊島太郎近義」は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。この塚は「甲冑塚」とよばれ、高さがないために「平塚」ともよばれました。さらに「豊島太郎近義」は「社殿」を建てて「源義家」、「源義綱」、「源義光」の三兄弟を「平塚三所大明神」として祀り一族の繁栄を願いました。中世の戦乱によって荒廃しましたが、江戸時代に平塚郷の無官の盲者であった針医「山川城官貞久」は「平塚明神」に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得ました。将軍「徳川家光」の近習となり立身出世を果たしました。その後「徳川家光」が病に倒れた際も「山川城官貞久」は「平塚明神」に「徳川家光」の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した「山川城官貞久」は「平塚明神社」を修復しました。「徳川家光」も五十石の朱印地を「平塚明神」に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れたそうです。<br />では、「平塚明神」へ参拝したいと思います。「平塚明神」へのアクセスは、最寄駅のJR京浜東北線「上中里駅」を利用するルートを説明しましたが、やはり「本郷通り」沿いの「一之鳥居」からの参拝巡路にしました。「平塚明神」の表参道の左手には、推理小説「浅見光彦」ミステリーシリーズの中に出てくる和菓子屋の「平塚亭つるおか」があります。「平塚明神」の「参道」は大変長いものの、現在ではその両脇は駐車場とし利用されています。そして駐車場として整備された参道を進むと、その途中に「一之鳥居」があります。左手には神輿庫が建てられ、この先もしばらく駐車場が続きます。長い参道を200mほど進むと左手に「手水舎」があり、正面には「社殿」が姿を現します。しばらく進むと小さな木製の「鳥居」があり、「社殿」はすぐそこです。<br />「社殿」の前には獅子の子落としを表現している立派な「獅子山」と「狛犬」があります。<br />「拝殿」は一見すると寺院のお堂にも見える、神社としては珍しい寄棟造りで、御神紋は五本骨扇に月丸となっています。「拝殿」前の賽銭箱にも「五本骨扇に月丸」の紋が施してありました。社殿の裏手に「甲冑塚」(平塚)がありますが、残念ながら一般公開はされていません。<br />「平塚明神」にある「境内社」は、「社殿」に向かって境内の左手にあります。まず、「菅原神社」で、瓦葺の立派な境内社です。御祭神は「菅原道真」のほか、「大己貴命」、「豊島太郎近義命」です。その隣が、「御料稲荷神社」と「大門先・元稲荷神社」で御祭神はいずれも「保食神」です。最後が「石室神社」(石室明神)で、「豊島氏」の後に当地の領主となった「蘓坂兵庫頭秀次」を祀ってあるそうです。<br /><br />10_西ヶ原貝塚と西ヶ原貝塚ひろば<br />「平塚神社」から「西ヶ原貝塚ひろば」へは、徒歩4分280mほどの距離ところにあります。「平塚神社」の前にある信号を渡り王子方面は150mほど戻ると、一つ目の信号の先に角があります。そこを右折し70mほど進むと「西ヶ原貝塚ひろば」があります。「西ヶ原貝塚」は、「西ヶ原貝塚ひろば」から30mほど戻ったところの十字路を左折し、突き当りを左折すると「北区飛鳥中学校」があり、その正門の所に説明板だけが設置されています。<br />「西ヶ原貝塚」と「西ヶ原貝塚ひろば」を合わせて見るのがこの史跡のポイントです。「西ヶ原貝塚」は、東京都を代表する貝塚の1つで、「大森貝塚」発見の翌年の明治11年(1878年)頃にはすでにその存在が知られていました。これまでに「坪井正五郎博士」をはじめとする多くの研究者によって調査されてきました。「西ヶ原貝塚」は東西約150メートル、南北約180メートル、平面形が馬蹄形を呈するムラ貝塚で大規模なものです。分布の中心は、飛鳥山丘陵の斜面にある「北区立飛鳥中学校」の校庭を中心とするものとみられていますが、今日では宅地化が進み、地表から貝塚の存在を確認することはできない状況です。これまでに行われた発掘調査によって、貝塚の形成は縄文時代の中期後半頃(約4200年前)から始まり、後期後半頃(約3200年前)まで続いていたことがわかっています。<br />また、途中にある「貝塚広場」は、平成20年(2007年)から平成21年(2008年)に「東京都立埋蔵文化財調査センター」が調査を実施しました。後期前葉から中葉(約4,200年から3,500年前)の貝層の剥ぎ取り標本が「東京都立埋蔵文化財調査センター」に展示されています。貝種はハマグリやヤマトシジミが多く見受けられるそうです。<br /><br />11_無量寺<br />「西ヶ原貝塚」から「無量寺」までは、徒歩4分280mほどの距離ところにあります。「西ヶ原貝塚」から先ほど渡った「平塚神社」の前にある信号のところまで戻ります。右手にある細い道を50mほど進むと「無量寺」の山門があります。<br />「無量寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「無量寺」は、真言宗豊山派の寺院です。「無量寺」の創建年代等は不詳ですが、調査によって寺地からは14世紀頃の板碑が多数確認されており、鎌倉期から室町期にかけての創建ではないかといわれています。そして、「新編武蔵国風土記稿」や寺伝等には、慶安元年(1648年)に江戸幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたことが記載されているそうです。また、元禄14年(1701年)4月に五代将軍「徳川綱吉」の生母「桂昌院」が参詣したことや寺号が九代将軍「徳川家重」の幼名「長福丸」と同じてあるため、これを避けて現在の寺社名である「無量寺」に改めたことが記されているそうです。「江戸六阿弥陀巡礼」の3番目、「豊島八十八ヶ所霊場59番札所」、「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場3番札所」、「足止め不動」として親しまれています。ちなみに、「足止め不動」と呼ばれるに至ったのは、ある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから「足止め不動」として信仰されるようになったそうです。「大師堂」の中には「恵心」作「の聖観音像」が安置されており、「雷除けの本尊」としても知られています。<br />「無量寺」の「山門」の右手には由緒板が設置されていました。そして、少し進むと左手に「ことぶき地蔵尊」があり、その奥に二つ目の「山門」がありました。ここで残念な事実が発覚しました。「山門」の前に柵があり、「これより山内(境内地)に付壇信徒・お檀家の墓参札所御朱印の方位階の入山はご遠慮願います。写真撮影及び動画SNS投稿並びにそれに準ずるもの厳禁」と書かれた看板が設置されていました。残念ながら「無量寺」の境内には入れませんでしたが、正門から山門につづく参道は、道幅も広く、木々が生い茂り、大自然の中にいるような感じでリラックスできました。<br /><br />12_旧古河庭園<br />「無量寺」から「旧古河庭園」までは、徒歩3分250mほどの距離ところにあります。「無量寺」から「平塚神社」の前にある信号のところまで戻り、右折して150mほど進むと右手に「旧古河庭園」の正門入口があります。<br />訪れた当日は、「旧古河庭園」の「2023春のバラフェスティバル」が開催されていて園内は、平日にもかかわらずかなり混雑していました。「旧古河庭園」に入園する前に、その歴史を少し紐解いてみたいと思います。<br />「旧古河庭園」は、もと明治時代の元勲「陸奥宗光」の邸宅でした。「陸奥宗光」は、明治時代に外交官・政治家として活躍し、「日英通商航海条約締結」を実現し、「日清戦争」の開戦と講和に関わりました。「陸奥宗光」の次男が「古河市兵衛」の養子となったことから「古河家」の所有になりました。ただし、残念ながらその当時の建物は現存していません。「旧古河庭園」は、武蔵野台地の斜面と低地を活かし、北の丘には「洋館」、斜面には「西洋庭園」、低地には「日本庭園」を配置しているのが特徴です。そして、「洋館」と「洋風庭園」は、イギリス人「ジョサイア・コンドル」博士が設計した石造りの重厚な建築物です。「日本庭園」は、京都の庭師「七代目植治」こと「小川治兵衛」の作庭によるもので、「旧古河庭園」は、見事なバランスのとれた庭園で有名です。ちなみに、イギリス人「ジョサイア・コンドル」は、旧古河庭園」以外にも、「旧岩崎邸庭園洋館」、「鹿鳴館」、「ニコライ堂」など数々の有名建築を設計し、日本建築界の基礎を築いたことでも知られています。また、「小川治兵衛」は、「山縣有朋」の京都別邸である「無鄰菴」、「平安神宮神苑」、「円山公園」などを作庭しました。「旧古河庭園」の見どころは満載です。現在は国有財産となり、平成18年(2006年)1月26日に文化財保護法により「国の名勝指定」を受けました。「旧古河庭園」は、東京都が国から無償で借受け、昭和31年(1956年)4月30日に一般公開がされるようになってからは、北区を代表する観光スポットになりました。また、「旧古河庭園」には「正門」、「西門」、「裏門」(染井門)の3つの門があります。常に開いているのは、「本郷通り」沿いの「正面門」のみとなっています。今回は、楽しみにしていたバラの咲き誇る「西洋庭園」は、最後に残し、次のような巡路で回ってみることにしました。<br /><br />【「旧古河庭園」の見学巡路】<br />①正門⇒②洋館⇒③西門前⇒④広場⇒⑤染井門⇒⑥沢ながれ⇒⑦見晴らし台⇒⑧枯滝⇒⑨心字池⇒⑩茶室⇒⑪書庫⇒⑫大滝⇒⑬船着石⇒⑭二枚橋⇒⑮中島⇒⑯渓谷⇒⑰黒ボク石積み⇒⑱西洋庭園<br /><br />03_【「旧古河庭園」の見どころ】<br />&#9332; 「洋館」<br />「旧古河庭園」の「洋館」は、日本建築の礎を築いたともいわれるイギリス人建築家「ジョサイア・コンドル」による設計で、大正6年(1917年)5月に完成しました。「洋館」の建築様式は、躯体が煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積で覆われ、屋根は天然スレート葺き、地上2F、地下1Fとなっています。「洋館」は、素朴で重厚な外観はスコットランドの建築や英国の別荘建築に近い形態になっています。また、大正12年(1923年)9月1日に発生した「関東大震災」発生時には、約2千人の避難者を収容した場所としても知られています。戦後は庭園建物ともに「古河家」の手を離れ国有となり、大蔵省の所管となりました。直後は進駐軍に接収され、英国大使館付き駐在武官の独身寮に6年ほど使用されました。接収が解除された昭和27年(1952年)から無人の状態が30年ほど続き荒廃が進み、修復工事は昭和58年(1983年)から6年間の歳月をかけて財団法人「大谷美術館」が東京都の助成金を得て行いました。昭和57年(1972年)には、「東京都の名勝指定」、平成18年(2006年)に「国の名勝指定」を受けています。「洋館」の最大の特徴は、1階がすべて洋室で主に接客のためのものに対し、2階の寝室を除いたすべての部屋が和室ということです。「洋館」の応接室やビリヤード室、書斎などは「大谷美術館」として、平成元年より一般公開を行っています。また、「洋館」内にある喫茶店と茶室では、お茶を飲みながら休憩ができます。ちなみに、「洋館」(大谷美術館)の入館料は400円で、10:00から16:30までの間は、館内の施設を自由に見学できます。事前予約になりますが、見学ガイドツアーもあります。<br />&#9333; 「西洋庭園」<br />「西洋庭園」は、「ジョサイア・コンドル」の設計で、「西洋庭園」は、左右対称の幾何学模様の刈り込みの「フランス整形式庭園」と石の欄干や石段・水盤など、そして、立体的な「イタリア露壇式庭園」の技法を合わせバラと洋館と調和した絵画的な景観美となっています。「西洋庭園」は、まるで南仏にいるような錯覚にとらわれ、日本にいるのを忘れてしまいそうなプチ外国旅行気分です。「西洋庭園」の何と言っても楽しみは、春と秋の年二回のバラの花の色鮮やかな美の競演です。コロナが収束しつつある「2023バラフェスティバル」では、今まで以上の多くの人々がバラ鑑賞を楽しんでいました。<br />&#9334; 「日本庭園」<br />「日本庭園」は、京都の庭師「七代目植治」こと「小川治兵衛」の作庭によるもので、見事なバランスのとれた「池泉回遊式庭園」で有名です。「小川治兵衛」は、「旧古河庭園」以外にも「山縣有朋」の京都別邸である「無鄰菴」、「平安神宮神苑」、「円山公園」や南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭しました。この「日本庭園」は、大正8年(1919年)に完成し、「心字池」を中心に「枯滝」、「大滝」、「中島」を配しています。冬のマツの雪吊とこも巻、ソテツの霜除は「日本庭園」の風物詩となっています。「日本庭園」の特徴は、池を中心に回遊する「池泉回遊式庭園」です。水は芝生広場の下あたりの台地が崖になる高低差を利用した十数メートルの高所から落ちる「大滝」から流れ出て「心字池」に入ります。また、「心字池」の南側には日本庭園のシンボルである「雪見灯籠」を配し、「大滝」に向き合う「枯滝」があり、その上は「見晴らし台」となっています。<br />&#9335; 「枯滝」<br />洲浜と連続した「枯滝」は、水を使わないで山水の景観を表現する「枯山水」の一つの手法で、「心字池」の渓谷の水源を見立てた景観です。「心字池」の洲浜の奥の渓谷に、御影石や青石、五郎太石など「枯滝石組」と呼ばれる手法で造られています。実際に水が流れている大滝の対岸に作られており、水の流れはなくてもあたかも滝の音が聞こえるような演出は、「旧古河庭園」での中でも最も素晴らしいポイントかもしれません。<br />&#9336; 「大滝」<br />「大滝」は、「心字池」の洲浜の奥の渓谷に、御影石や青石、五郎太石などで造られています。「大滝」は、高低差は10m以上の高所から落ちる滝で、水は「心字池」に流れ込みます。園内のもっとも勾配の急な所をさらに削って断崖とし、濃い樹林でおおって深山の渓谷の趣をだしています。曲折した流れから始まり、数段の小滝となり最後は深い淵に落ちるという凝った造りです。以前は井戸を水源にしていましたが、水源が枯渇し、現在は井戸水と池水の循環でまかなっています。また、「大滝」は、「小川治兵衛」が、特に力を入れた箇所と言われ、「大滝」は、は三段落ちとなっており、理想的な滝の音を実現するためのこだわりを感じることができます。<br />&#9337; 「茶室」<br />「旧古河庭園」には、茶室が二軒あります。京都でよく見られる手法で、茶室の土留めとして施工された「崩石積」がまず目に留まります。そして「庭門」を潜ると左前方奥の茶庭の中に、一般公開はされていない「上の茶屋」があります。現在、公開されている「茶室」は14坪程度の数寄屋で8畳の部屋と水屋があるだけです。普段は入ることができませんが、春と秋のみ、抹茶を出しており、お茶席利用のかたのみ入室可能です。<br />&#9338; 「深山の境」<br />「日本庭園」への入口はシイを主体にした濃い植込で、明るい「洋風庭園」とは雰囲気が一変します。さらに奥は、シイ、モチノキ、ムクノキ、カエデなどで構成され、この庭園で一番深い植込になっています。周りは渓谷でえぐられ、「深山幽谷」の観を呈しています。<br />&#9339; 「心字池」<br />「心」の字に似せて造った池で、「日本庭園」の中心にあります。鞍馬平石や伊予青石などで造られ、「船着石」があります。ここは池を眺めるための要となる所で、正面には「荒磯」、「雪見燈篭」、「枯滝」、「石組」、そして背後には「築山」が見られます。また、船の発着場所を模した「船着石」は、心字池の絶好のビュースポットになっていて写真撮影には最適です。「心字池」には2ヶ所の「中島」があり、大きい方の中島の西方では、護岸石組により「渓谷」を表現しています。五郎太石を敷き詰めた「州浜」は浜辺を表現しています。ここに設置された大型の「雪見灯篭」は、水面を照らすことを目的に設置されています。そして、「雪見灯篭」は、丈が低く笠が大きいことが特徴で、池の周りのどの箇所からも存在感を示せるように大型となっています。<br />&#9340; 「黒ボク石積み」<br />「黒ボク石積み」は、「西洋式庭園」と「日本庭園」を繋ぐ斜面にあり、石垣状に積み上げられています。「黒ボク石積み」は、富士山の溶岩で、多孔質であり軽く、加工もしやすいので、良い形の庭石の産出が少ない関東エリアで流行しました。「黒ボク」を組み合わせて大きな庭石に見せる技法は江戸の庭師の腕の見せ所でした。「黒ボク」を使うと山肌のごつごつした感じが出るので山の中にいる雰囲気を出す石組として用いられています。<br />&#9341; 「崩石積」<br />「小川治兵衛」の力作とされる「崩石積」は、石を垂直に積む方法です。京都で発達した伝統的な手法であり、石と石が噛み合って崩れそうで崩れない姿が美しいとされる。一見すると崩れそうですが、関東大震災や東日本大震災でも崩れなかった石積です。<br /><br />13_和菓子平塚亭つるおか<br />「平塚神社」の鳥居のところまで戻ります。徒歩3分190mほどの距離のところにあります。「和菓子 平塚亭つるおか」は、「平塚神社」の参道入口にある老舗の和菓子屋で、「内田康夫」の探偵小説「浅見光彦シリーズ」の中に度々登場します。探偵小説「浅見光彦シリーズ」では、このお店の「みたらし団子」が食べられていて、全国から「内田康夫」や「浅見光彦」のファンが訪れる聖地としても有名だそうです。また、テレビ朝日ドラマ「おかしな刑事」で伊東四朗と羽田美智子が必ずここで長椅子に座りお団子食べるシーンがありました。店内には、TVドラマ「おかしな刑事」の写真も飾られていました。「和菓子 平塚亭つるおか」の歴史は古く、創業は大正初期に遡る老舗の和菓子屋です。<br />当日は、「平塚神社」の参拝を終えて、「和菓子 平塚亭つるおか」でみたらし団子」を5本と「豆大福」を2個購入しました。名物の「みたらし団子」は、昔ながらの「みたらし団子」で、値段もリーズナブルですが若干小ぶりです。そして、「みたらし団子」は焼き目が香ばしく、甘さ控えめの醤油味のタレが、柔らかい焼き団子を引き立てていました。「豆大福」は、つきたての餅のコシと北海道十勝産特選の小倉餡の甘さが絶妙なバランスでした。「みたらし団子」は三時のおやつに、そして、「豆大福」は夕食のデザートとして食べましたが、特に、「豆大福」の皮は、普通は固くなるのですが、時間が経っているのにもかかわらず、柔らかくモチモチしていました。その他、お店には、「柏餅」、「豆餅」、「おはぎ」などありました。いずれも値段はリーズナブルですが、若干小ぶりで、昔ながらの素朴な和菓子でした。ここでワンポイントですが、店員さんの話によると、営業時間開始の9時頃には、全ての商品がショーケースに並んでいないので、11時30分頃に訪れるのがベストだそうです。その時間には、ほとんどの商品がショーケースに並ぶそうです。<br />お土産も買ったのでこれで安心して帰途につきます。<br />

王子から駒込へのプロムナード:【第三回目】飛鳥山周辺の名所・旧跡からバラの花香る古河庭園へ

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2023/06/02 - 2023/06/02

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2023/06/02

  • 北千住駅(09:00発:東京メトロ千代田線)⇒西日暮里駅(JR京浜東北線乗換)⇒王子駅

この旅行記スケジュールを元に

王子から駒込へのプロムナードの第三回目は、「醸造試験所跡地公園」をスタート地点として、本郷通り沿いにあるバラの花で有名な「旧古河庭園」までの観光スポットや名所旧跡についてリポートしたいと思います。次のような順路で巡りました。

①《醸造試験所跡地公園(旧醸造試験所第一工場)》⇒②《渋沢栄一記念ポスト》⇒③《東京ゲーテ記念館》⇒④《西ヶ原一里塚》⇒⑤《七社神社》⇒⑥《東京高等蚕糸学校発祥之地》⇒⑦《御殿前遺跡(豊島郡衙跡)》⇒⑧《農業技術研究発祥の地》⇒⑨《平塚神社》⇒⑩《西ヶ原貝塚》⇒⑪《無量寺》⇒⑫《旧古河庭園》⇒⑬《和菓子平塚亭つるおか》

まずは、「醸造試験所跡地公園」です。

01_醸造試験所跡地公園(旧醸造試験所第一工場)
「醸造試験所跡地公園」へのアクセスは、JR京浜東北線「王子駅」の北口改札口を出て、左方向に進むと「親水公園口」になります。「親水公園口」を左折すると目の前に「本郷通り」があるので、そこを右折します。道なりに坂を160mほど直進すると信号(表示名「音無橋」)があります。横断歩道を渡り左折し、直ぐの角を右折し、そのまま道なりに20mほど進むと「醸造試験所跡地公園」があります。今回は、その右手奥にある「赤煉瓦酒造工場(旧醸造試験所第一工場)」にスポットを当てて説明します。
「旧醸造試験所第一工場」は、国による醸造技術の研究・発展を目指し、明治37年(1904年)5月に創設された「大蔵省醸造試験所」の「清酒醸造試験工場」として設立されました。何故、大蔵省の管轄になったのかというと大蔵省は酒税とも密接な関わりを持つことからだそうです。「大蔵省醸造試験所」の「清酒醸造試験工場」がここに設置された理由は、幕末に「滝野川大鳳製造徐」が置かれた敷地の一部で、水利が良く、王子停車場(現在のJR王子駅)も近いという理由だからそうです。設計は、明治の3大建築家の1人である「妻木頼黄」です。この建物は、通称「赤煉瓦酒造工場」といい、ドイツのビール工場を手本に設計された明治期の貴重な煉瓦造り建造物であるとともに、産業遺産としても貴重とされています。一部3階建、地下階に貯蔵室を持つ煉瓦造りで、外観を化粧レンガ小口積みとし、外壁上部はレンガを櫛形に並べたロンバルド帯風の意匠となっています。平成26年(2013年)12月に、建築学上貴重であり、歴史的価値が高いことから文化財審議会で審議の上、「国の重要文化財」に指定されました。「赤煉瓦酒造工場(旧醸造試験所第一工場)」は、10月下旬から11月上旬、「東京文化財ウィーク」の期間中は、内部が特別公開されますが、それ以外は、個人向けの一般公開はされていません。更に敷地内にも入ることができず、場の北側に隣接する「醸造試験所跡地公園」から、敷地のフェンス越しに、建物の外観を見ることになります。団体による見学はできるそうですが、人数制限があり、原則として10名以上25名以内の団体で、平日9:00~17:00の観覧(観覧時間は約1時間)が可能だそうです。ちなみに観覧料は、1団体あたり6,000円です。かなりハードルの高い条件ですよね。また、内部を見学できる施設は、「ボイラー室」、「原料処理室」、「廊下」、「旧麹室」の四箇所にあるそうです。中に入れなくても「醸造試験所跡地公園」から建物の全景を見るだけでも素晴らしい施設と分かるはずです。

02_渋沢栄一記念ポスト
「醸造試験所跡地公園」から「渋沢栄一記念ポスト」へは、徒歩3分200mほどの距離ところにあります。「醸造試験所跡地公園」から「本郷通り」(都道455号)に戻り、140mほど「旧古河庭園」方面に進むと「飛鳥山前郵便局」がありその前にあります。
「渋沢栄一記念ポスト」を発見したのは、今回の散策の最終目的地である「旧古河庭園」に向かう途中の「飛鳥山前郵便局」前です。「渋沢栄一」は、沢山の事業を手掛けていますが、日本の近代郵便制度の創設者と呼ばれている「前島密」とも親交が深かったそうです。「渋沢栄一記念ポスト」(通称:ラッピングポスト)は、令和3年(2021年)3月25日、「飛鳥山前郵便局」に設置されました。ポストには、「渋沢栄一」が描かれているほか、「渋沢栄一」の手がけた銀行、鉄道、ビール、ガスなどの事業が描かれていました。日本には、一般的なイメージの赤いポストだけでなく、このような地域に密着した色々なポストがあるんでしょうね。

03_東京ゲーテ記念館
「渋沢栄一記念ポスト」から「東京ゲーテ記念館」へは、徒歩10分650mほどの距離ところにあります。「本郷通り」(都道455号)を450mほど進むと二つ目の信号(表示名「一里塚」)があるので、そこを右折すると「ゲーテの小径」になります。「東京ゲーテ記念館」は、150m先の右手にあります。その反対側には、「ゲーテの小径ポケットパーク」もあります。
「東京ゲーテ記念館」は、ドイツの詩人「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」についての資料や情報を提供する民営の資料館です。従来は、「東京ゲーテ記念館」の館内にあるギャラリースペースは、「ゲーテ入門」の資料の一部を展示してきたそうですが、残念ながら令和2年(2020年)6月1日で終了になりました。ただし、「ゲーテ」に関する質問・情報提供はすべて無料で、メールで対応しているそうです。そのような訳で、「東京ゲーテ記念館」の外観のみの撮影となりましたが、建物はヨーロッパ風の建築で立派なものでした。「東京ゲーテ記念館」の道路の向かい側には、「ゲーテの小径ポケットパーク」があり、レリーフや「ゲーテの年譜」そして代表的な作品である「旅人の夜の歌」などの詩が刻まれていました。
ちなみに、「東京ゲーテ記念館」の歴史を遡ってみると、茨城県出身の実業家の「粉川忠」が、ゲーテの生誕200年にあたる昭和24年(1949年)に「財団法人東京ゲーテ協会」を発足させ、東京都北区王子で活動を開始しました。そして、昭和39年(1964年)に、東京都渋谷区神泉町に初代「東京ゲーテ記念館」が完成し、昭和53年(1988年)に、現在の地に移転してきました。

04_西ヶ原一里塚
「東京ゲーテ記念館」から「西ヶ原一里塚」へは、徒歩5分300mほどの距離ところにあります。「ゲーテの小径」から「本郷通り」(都道455号)まで戻り横断歩道を渡り右方向に90mほど進むと、左手に「西ヶ原一里塚」があります。また、「本郷通り」(都道455号)の中州には「一里塚の碑」があります。
「西ヶ原一里塚」は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの旧位置にあります。「西ヶ原一里塚」は、「日光御成道」(旧道)の両脇に、対をなして築かれました。二つの塚に挟まれた部分が江戸時代の街道の道幅です。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになりましたが、実業家の渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功しました。大正11年(1922年)3月8日には、「国史跡」に指定されています。ちなみに、「一里塚」は、慶長9年(1604年)に江戸幕府が全国の主要街道に、一里(約3.9㎞)ごとに道の両側に塚を築かせ、その上に、主に榎の木を植えさせました。街道を旅する旅人にとって「一里塚」は、旅の長い道のりの目安となり、駕籠賃の目安にもなったそうです。残念ながら、その時に保存された往時の榎は枯れてしまい、現在の榎は新しく植えられたものです。そして、23区内には18カ所あったといわれていますが、当時の位置を保っているのは西ヶ原一里塚と板橋区の志村一里塚の二つだけだそうです。南側の一里塚は、道路に挟まれていますので、交通量はさほどでもありませんが、信号や横断歩道もありませんので、通りを渡るときには車に十分注意してください。

05_七社神社
「西ヶ原一里塚」から「七社神社」へは、徒歩1分100mほどの距離ところにあります。「西ケ原一里塚の碑」と「滝野川警察署」の間の道のところに「大鳥居」がありますのでそれを潜り、住宅街の続く参道を抜けると「二の鳥居」があり、正面には、「七社神社」の「社殿」があります。
まず、「七社神社」の歴史を紐解いて見たいと思います。「七社神社」の創建は不詳です。何故ならば、寛成5年(1793年)の火災により古文書、古記録等を焼失したためです。しかし、寛成6年(1794年)年9月秋分の日に「社殿」は再建され、そのことにより、この日を「七社神社」の大祭日と定め、現在も賑やかなお祭りが執り行われています。「七社神社」は、江戸時代には「七所明神社」といい西ヶ原村(現在の北区西ヶ原)の鎮守でした。現在でも、西ヶ原・栄町の総鎮守として篤い崇敬を集めています。そして、「神仏混淆」の江戸時代には、別当寺である「無量寺」の境内にありました。御祭神は、紀伊国高野山の「四社明神」を勧請し、ここれに「天照大神」、「春日神」、「八幡神」の三柱を合祀したのが七所(七社)の由来です。江戸時代までは仏宝山西光院「無量寺」境内の高台、現在の「旧古河庭園内」にありました。「七社神社」は、明治維新の「廃仏毀釈」、「神仏分離」で「一本杉神明宮」の社地に遷り、「一本杉神明宮」は「天祖神社」と称するようになりました。「一本杉神明宮」と通称された元になった巨大な杉は残念ながら枯れてしまい、伐採されましたが現在も切り株だけが残されています。「七社神社」は、「渋沢栄一」ゆかりの神社でもあります。明治12年(1879年)に「渋沢栄一」は西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構え、明治34年(1901年)には飛鳥山邸を本邸とし「七社神社」の氏子となりました。崇敬心も篤く大正9年(1920年)には、「渋沢栄一」を筆頭とする諸氏の寄付により「社務所」が建築され、また「渋沢栄一」揮毫の「社額」、「掛け軸」を始めとした奉納品が神社に納められているなど、「七社神社」は「渋沢栄一」ゆかりの神社でもあります。そして、「七社神社」の境内には末社として「天祖神社」(一本杉神明宮)、「稲荷神社」、「熊野神社」、「菅原神社」、「三峯神社」、「疱瘡社」(ほうそうしゃ)が祀られています。「一本杉神明宮」は、もともとこの地に祀られていた神社ですが、「七社神社」の遷座により末社となりました。
では、「七社神社」へ参拝したいと思います。「七社神社」の最寄駅は、東京メトロ南北線の「西ヶ原駅」です。そこから「本郷通り」を「飛鳥山公園」方面へ向かうと「大鳥居」があります。「大鳥居」は、昭和9年(1934年)に建立されました。「大鳥居」の右前には、「七社神社参道」の碑があります。また、左側には、かつての一里塚である国史跡「西ヶ原一里塚」があります。「大鳥居」を潜り、長く続く住宅街の参道を抜けると明治24年(1891年)に建立された「二の鳥居」があります。この先が本格的な参道となっています。
次に、「二の鳥居」潜ってすぐ右手に「手水舎」があります。龍のいる「手水舎」で、龍のすぐ隣には手水の作法がかかれた看板があります。こちらの手水舎は天井にも龍の絵があります。「手水舎」でよく見かける龍は、水を守護することから置かれていることが多いそうです。
更に進むと「拝殿」の前には一対の狛犬があります。「本殿」が改築された明治26年(1893年)に奉納されたものです。阿吽の狛犬はどちらも子を抱えています。どちらも子を守るような造形です。そのため「狛犬」ならぬ「子守犬」(こまいぬ)として親しまれています。こうした「子守犬」からも「七社神社」は子宝・子孫繁栄の御神徳として崇敬を集めています。
そして、参道の正面に「社殿」があります。「拝殿」は昭和3年(1928年)に改築されたものが改修されつつ現在に至っています。「拝殿」の彫刻も丹念に彫られており、目に墨が入っているのが特徴です。正面には龍の彫刻があり、木鼻には表情豊かな獅子が飾られています。「拝殿」には「七社神社」の「扁額」(社号額)があります。この「扁額」(社号額)は、「七社神社」の氏子であった「渋沢栄一」による揮毫です。
そして、「拝殿」の前には当社のシンボルとなりつつある八重桜(里桜)が2本あります。右側が「福禄寿」と呼ばれる八重桜で、淡紅紫色に咲く桜として知られています。左側が「御衣黄」と呼ばれる八重桜で、白色から淡緑色に咲く桜です。そのため桜の時期になると、左が白系、右が紅系の桜が咲き、社殿前が紅白に彩られます。「七社神社」の「御衣黄」と「福禄寿」の八重桜は、例年だと4月中旬頃に見頃となるそうです。
次に、境内の右手に進みます。そこには「願掛け公孫樹」があります。公孫樹の周辺が「絵馬掛」、「御籤掛」となっているので、「願掛け公孫樹」と呼ばれているそうです。
次に、境内の左手に進みます。境内社が立ち並んでいます。一番右手は「菅原神社」と「三峯神社」の合殿で、扁額にも「菅原神社」「三峯神社」の文字が描かれています。その左側は「稲荷神社」で鳥居が設けられその先にお稲荷様が祀られています。更に左手には「天祖神社」があります。元々、現在地に鎮座していた「一本杉神明宮」で、現在は「七社神社」の境内末社になっています。令和元年(2019年)には当社の御遷座百五十年を迎え記念事業として玉垣も整備されました。一本杉の由来となった旧御神木(推定樹齢1,000年)も切り株の状態で社殿裏手に保存されています。他に「熊野神社」、その隣には「疱瘡社」の石碑があります。
さらに、境内左手に進むと、立派な「神楽殿」(舞殿)があります。多くの絵馬や額が掛けられていて、「七社神社」の歴史を伝えています。「神楽殿」(舞殿)では、遷座150周年の石見神楽が奉演されました。舞殿では、お祭りや行事の際に奉納演奏や舞が行われています。また、七五三詣の時期になるとは碁盤やお祝い太鼓などを設置されるそうです。

06_東京高等蚕糸学校発祥之地
「七社神社」から「東京高等蚕糸学校発祥之地」へは、徒歩6分450mほどの距離ところにあります。「七社神社」出て「本郷通り」(都道455号)を左方向に230mほど進みます。「花と森の東京病院」の入口から少し先の歩道の左手にある植え込みの中に「東京高等蚕糸学校発祥之地」碑があります。
明治政府は産業奨励のため、麹町区内山下町1丁目1番地(現千代田区内幸町帝国ホテル付近)に「農産陳列所」設置しました。当時日本の輸出品の中心は生糸であったので、明治17年(1884年)4月に、ここに蚕病試験場を設けて特に蚕業の振興を図りました。この施設は明治19年(1886年)10月に西ヶ原(現北区西ヶ原)に移り、「農商務省蚕病試験場」となりました。そして、大正時代に, 全国各地に「蚕糸学校」が作られました。重複するところがありますが、その歴史を少し詳しく紐解いてみると、明治19年(1886年)10月に、麹町内山下町より移設し「農商務省蚕病試験場」としてスタートしました。明治29年(1896年)3月に名称を「農商務省蚕病業講習所」と改称しました。大正3年3月に「文部省」に移管され、「東京高等蚕糸学校」となりました。昭和15年(1940年)4月に現東京都小金井市に移転し、昭和19年(1944年)4月には、「東京繊維専門学校」と改称し、太平洋戦争後の昭和24年(1949年)5月に「東京農工大学」に昇格しました。「東京高等蚕糸学校発祥之地」の碑は、平成3年10月に、東京都北区教育委員会、東京高等蚕糸学校記念碑建立協賛会によって建立されました。

07_御殿前遺跡(豊島郡衙跡)
「東京高等蚕糸学校発祥之地」から「御殿前遺跡(豊島郡衙跡)」へは、徒歩1分100mほどの距離ところにあります。「東京高等蚕糸学校発祥之地」から50mほど進むと左手に「北区滝野川公園」の入口があるので、そこを左折し公園の中を30mほど進むと、左手に「御殿前遺跡(豊島郡衙跡)」があります。
「御殿前遺跡」は、先土器時代から近世の長期にわたる複合する遺跡です。その中でも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の「郡衙」(地方役所)と推定されています。ちなみに古代律令国家は、地方を統治するために「国衙」とともに、郡ごとに役所を設置していました。この役所は 「郡衙」もしくは「郡家」と呼ばれていました。そして、古代の武蔵国には21の郡が置かれ、現在の東京都は「豊島郡」、「荏原郡」、「多麻郡」にあたります。「豊島郡」は、現在の千代田、文京、台東、荒川、豊島、北、板橋、練馬、新宿区の区域で、その「郡衙」の中心部分がこの一帯です。現在は遺跡周辺には、「北区立滝野川公園」、「滝野川体育館」、「地震の科学館」(防災センター)、「消防署」などが林立しています。「北区立滝野川公園」は滝や水路で水遊びのできる公園で、公園には、近代農業の研究施設であった「農事試験場跡地の碑」もあります。

08_農業技術研究発祥の地
「御殿前遺跡(豊島郡衙跡)」から「農業技術研究発祥の地」へは、徒歩2分130mほどの距離ところにあります。「北区滝野川公園」をさらに奥に向かって150mほど直進すると、右手にある「北区滝野川体育館」を過ぎた右手の植え込みの中に、「農業技術研究発祥の地」の碑があります。
明治26年(1893年)4月に「農商務省農事試験場」が東京府北豊島郡瀧ノ川村西ヶ原に創設されました。日本の「農業技術研究」がここからスタートしました。ここの他に「仙台」、「金沢」、「柏原」、「広島」、「徳島」、「熊本」に置かれました。目的は農作物の品種改良や新技術の開発でした。それ以来、87年間の長きにわたり農業技術研究を推進してきました。ただし、その間 昭和25年(1950年)4月 には、「農業技術研究所」と改称されるなど組織機構の変遷はありましたが、「西ヶ原」は常に近代農業関係試験研究機関の母体として多くの輝かしい業績により農業の発展に寄与してきました。昭和55年(1980年)1月に「国立試験研究機関」の筑波研究学園都市への移転に伴い ここでの研究に終わりを告げました。付近には、「東京高等蚕糸学校」やこの碑の北側には「家畜衛生研究所」がありました。農事試験場」は公園の南半分や滝野川体育館、滝野川消防署のあたりに位置していたそうです。

09_平塚神社
「農業技術研究発祥の地」から「平塚神社」へは、徒歩4分280mほどの距離ところにあります。「農業技術研究発祥の地」から「本郷通り」(都道455号)まで戻り、左折し90mほど進むと「和菓子平塚亭つるおか」がありそのすぐ先の左手に「平塚神社」の石鳥居があります。「和菓子平塚亭つるおか」の名物「みたらし団子」は「旧古河庭園」を見学した後にお土産として購入する予定です。
それでは、最初に「平塚神社」の歴史を紐解くと、「平塚神社」は、平安時代に創建された源氏にゆかりのある神社で、また、北区を代表する作家である「内田康夫」の推理小説「浅見光彦」ミステリーシリーズの中でも度々事件の舞台として登場します。「平塚神社」の創建は、平安後期元永年中(1118年~1120年)といわれています。「武略神に通じ、騎射神の如し」と謳われた平安末期の英雄であり、また、鎌倉幕府の開祖である「源頼朝」の祖父「八幡太郎源義家」が奥州征伐(後三年の役)の凱旋途中にこの地を訪れ、その饗応への返礼として、領主の「豊島太郎近義」に鎧一領と守り本尊の「十一面観音像」を贈りました。そして、「豊島太郎近義」は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。この塚は「甲冑塚」とよばれ、高さがないために「平塚」ともよばれました。さらに「豊島太郎近義」は「社殿」を建てて「源義家」、「源義綱」、「源義光」の三兄弟を「平塚三所大明神」として祀り一族の繁栄を願いました。中世の戦乱によって荒廃しましたが、江戸時代に平塚郷の無官の盲者であった針医「山川城官貞久」は「平塚明神」に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得ました。将軍「徳川家光」の近習となり立身出世を果たしました。その後「徳川家光」が病に倒れた際も「山川城官貞久」は「平塚明神」に「徳川家光」の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した「山川城官貞久」は「平塚明神社」を修復しました。「徳川家光」も五十石の朱印地を「平塚明神」に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れたそうです。
では、「平塚明神」へ参拝したいと思います。「平塚明神」へのアクセスは、最寄駅のJR京浜東北線「上中里駅」を利用するルートを説明しましたが、やはり「本郷通り」沿いの「一之鳥居」からの参拝巡路にしました。「平塚明神」の表参道の左手には、推理小説「浅見光彦」ミステリーシリーズの中に出てくる和菓子屋の「平塚亭つるおか」があります。「平塚明神」の「参道」は大変長いものの、現在ではその両脇は駐車場とし利用されています。そして駐車場として整備された参道を進むと、その途中に「一之鳥居」があります。左手には神輿庫が建てられ、この先もしばらく駐車場が続きます。長い参道を200mほど進むと左手に「手水舎」があり、正面には「社殿」が姿を現します。しばらく進むと小さな木製の「鳥居」があり、「社殿」はすぐそこです。
「社殿」の前には獅子の子落としを表現している立派な「獅子山」と「狛犬」があります。
「拝殿」は一見すると寺院のお堂にも見える、神社としては珍しい寄棟造りで、御神紋は五本骨扇に月丸となっています。「拝殿」前の賽銭箱にも「五本骨扇に月丸」の紋が施してありました。社殿の裏手に「甲冑塚」(平塚)がありますが、残念ながら一般公開はされていません。
「平塚明神」にある「境内社」は、「社殿」に向かって境内の左手にあります。まず、「菅原神社」で、瓦葺の立派な境内社です。御祭神は「菅原道真」のほか、「大己貴命」、「豊島太郎近義命」です。その隣が、「御料稲荷神社」と「大門先・元稲荷神社」で御祭神はいずれも「保食神」です。最後が「石室神社」(石室明神)で、「豊島氏」の後に当地の領主となった「蘓坂兵庫頭秀次」を祀ってあるそうです。

10_西ヶ原貝塚と西ヶ原貝塚ひろば
「平塚神社」から「西ヶ原貝塚ひろば」へは、徒歩4分280mほどの距離ところにあります。「平塚神社」の前にある信号を渡り王子方面は150mほど戻ると、一つ目の信号の先に角があります。そこを右折し70mほど進むと「西ヶ原貝塚ひろば」があります。「西ヶ原貝塚」は、「西ヶ原貝塚ひろば」から30mほど戻ったところの十字路を左折し、突き当りを左折すると「北区飛鳥中学校」があり、その正門の所に説明板だけが設置されています。
「西ヶ原貝塚」と「西ヶ原貝塚ひろば」を合わせて見るのがこの史跡のポイントです。「西ヶ原貝塚」は、東京都を代表する貝塚の1つで、「大森貝塚」発見の翌年の明治11年(1878年)頃にはすでにその存在が知られていました。これまでに「坪井正五郎博士」をはじめとする多くの研究者によって調査されてきました。「西ヶ原貝塚」は東西約150メートル、南北約180メートル、平面形が馬蹄形を呈するムラ貝塚で大規模なものです。分布の中心は、飛鳥山丘陵の斜面にある「北区立飛鳥中学校」の校庭を中心とするものとみられていますが、今日では宅地化が進み、地表から貝塚の存在を確認することはできない状況です。これまでに行われた発掘調査によって、貝塚の形成は縄文時代の中期後半頃(約4200年前)から始まり、後期後半頃(約3200年前)まで続いていたことがわかっています。
また、途中にある「貝塚広場」は、平成20年(2007年)から平成21年(2008年)に「東京都立埋蔵文化財調査センター」が調査を実施しました。後期前葉から中葉(約4,200年から3,500年前)の貝層の剥ぎ取り標本が「東京都立埋蔵文化財調査センター」に展示されています。貝種はハマグリやヤマトシジミが多く見受けられるそうです。

11_無量寺
「西ヶ原貝塚」から「無量寺」までは、徒歩4分280mほどの距離ところにあります。「西ヶ原貝塚」から先ほど渡った「平塚神社」の前にある信号のところまで戻ります。右手にある細い道を50mほど進むと「無量寺」の山門があります。
「無量寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「無量寺」は、真言宗豊山派の寺院です。「無量寺」の創建年代等は不詳ですが、調査によって寺地からは14世紀頃の板碑が多数確認されており、鎌倉期から室町期にかけての創建ではないかといわれています。そして、「新編武蔵国風土記稿」や寺伝等には、慶安元年(1648年)に江戸幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたことが記載されているそうです。また、元禄14年(1701年)4月に五代将軍「徳川綱吉」の生母「桂昌院」が参詣したことや寺号が九代将軍「徳川家重」の幼名「長福丸」と同じてあるため、これを避けて現在の寺社名である「無量寺」に改めたことが記されているそうです。「江戸六阿弥陀巡礼」の3番目、「豊島八十八ヶ所霊場59番札所」、「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場3番札所」、「足止め不動」として親しまれています。ちなみに、「足止め不動」と呼ばれるに至ったのは、ある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから「足止め不動」として信仰されるようになったそうです。「大師堂」の中には「恵心」作「の聖観音像」が安置されており、「雷除けの本尊」としても知られています。
「無量寺」の「山門」の右手には由緒板が設置されていました。そして、少し進むと左手に「ことぶき地蔵尊」があり、その奥に二つ目の「山門」がありました。ここで残念な事実が発覚しました。「山門」の前に柵があり、「これより山内(境内地)に付壇信徒・お檀家の墓参札所御朱印の方位階の入山はご遠慮願います。写真撮影及び動画SNS投稿並びにそれに準ずるもの厳禁」と書かれた看板が設置されていました。残念ながら「無量寺」の境内には入れませんでしたが、正門から山門につづく参道は、道幅も広く、木々が生い茂り、大自然の中にいるような感じでリラックスできました。

12_旧古河庭園
「無量寺」から「旧古河庭園」までは、徒歩3分250mほどの距離ところにあります。「無量寺」から「平塚神社」の前にある信号のところまで戻り、右折して150mほど進むと右手に「旧古河庭園」の正門入口があります。
訪れた当日は、「旧古河庭園」の「2023春のバラフェスティバル」が開催されていて園内は、平日にもかかわらずかなり混雑していました。「旧古河庭園」に入園する前に、その歴史を少し紐解いてみたいと思います。
「旧古河庭園」は、もと明治時代の元勲「陸奥宗光」の邸宅でした。「陸奥宗光」は、明治時代に外交官・政治家として活躍し、「日英通商航海条約締結」を実現し、「日清戦争」の開戦と講和に関わりました。「陸奥宗光」の次男が「古河市兵衛」の養子となったことから「古河家」の所有になりました。ただし、残念ながらその当時の建物は現存していません。「旧古河庭園」は、武蔵野台地の斜面と低地を活かし、北の丘には「洋館」、斜面には「西洋庭園」、低地には「日本庭園」を配置しているのが特徴です。そして、「洋館」と「洋風庭園」は、イギリス人「ジョサイア・コンドル」博士が設計した石造りの重厚な建築物です。「日本庭園」は、京都の庭師「七代目植治」こと「小川治兵衛」の作庭によるもので、「旧古河庭園」は、見事なバランスのとれた庭園で有名です。ちなみに、イギリス人「ジョサイア・コンドル」は、旧古河庭園」以外にも、「旧岩崎邸庭園洋館」、「鹿鳴館」、「ニコライ堂」など数々の有名建築を設計し、日本建築界の基礎を築いたことでも知られています。また、「小川治兵衛」は、「山縣有朋」の京都別邸である「無鄰菴」、「平安神宮神苑」、「円山公園」などを作庭しました。「旧古河庭園」の見どころは満載です。現在は国有財産となり、平成18年(2006年)1月26日に文化財保護法により「国の名勝指定」を受けました。「旧古河庭園」は、東京都が国から無償で借受け、昭和31年(1956年)4月30日に一般公開がされるようになってからは、北区を代表する観光スポットになりました。また、「旧古河庭園」には「正門」、「西門」、「裏門」(染井門)の3つの門があります。常に開いているのは、「本郷通り」沿いの「正面門」のみとなっています。今回は、楽しみにしていたバラの咲き誇る「西洋庭園」は、最後に残し、次のような巡路で回ってみることにしました。

【「旧古河庭園」の見学巡路】
①正門⇒②洋館⇒③西門前⇒④広場⇒⑤染井門⇒⑥沢ながれ⇒⑦見晴らし台⇒⑧枯滝⇒⑨心字池⇒⑩茶室⇒⑪書庫⇒⑫大滝⇒⑬船着石⇒⑭二枚橋⇒⑮中島⇒⑯渓谷⇒⑰黒ボク石積み⇒⑱西洋庭園

03_【「旧古河庭園」の見どころ】
⑴ 「洋館」
「旧古河庭園」の「洋館」は、日本建築の礎を築いたともいわれるイギリス人建築家「ジョサイア・コンドル」による設計で、大正6年(1917年)5月に完成しました。「洋館」の建築様式は、躯体が煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積で覆われ、屋根は天然スレート葺き、地上2F、地下1Fとなっています。「洋館」は、素朴で重厚な外観はスコットランドの建築や英国の別荘建築に近い形態になっています。また、大正12年(1923年)9月1日に発生した「関東大震災」発生時には、約2千人の避難者を収容した場所としても知られています。戦後は庭園建物ともに「古河家」の手を離れ国有となり、大蔵省の所管となりました。直後は進駐軍に接収され、英国大使館付き駐在武官の独身寮に6年ほど使用されました。接収が解除された昭和27年(1952年)から無人の状態が30年ほど続き荒廃が進み、修復工事は昭和58年(1983年)から6年間の歳月をかけて財団法人「大谷美術館」が東京都の助成金を得て行いました。昭和57年(1972年)には、「東京都の名勝指定」、平成18年(2006年)に「国の名勝指定」を受けています。「洋館」の最大の特徴は、1階がすべて洋室で主に接客のためのものに対し、2階の寝室を除いたすべての部屋が和室ということです。「洋館」の応接室やビリヤード室、書斎などは「大谷美術館」として、平成元年より一般公開を行っています。また、「洋館」内にある喫茶店と茶室では、お茶を飲みながら休憩ができます。ちなみに、「洋館」(大谷美術館)の入館料は400円で、10:00から16:30までの間は、館内の施設を自由に見学できます。事前予約になりますが、見学ガイドツアーもあります。
⑵ 「西洋庭園」
「西洋庭園」は、「ジョサイア・コンドル」の設計で、「西洋庭園」は、左右対称の幾何学模様の刈り込みの「フランス整形式庭園」と石の欄干や石段・水盤など、そして、立体的な「イタリア露壇式庭園」の技法を合わせバラと洋館と調和した絵画的な景観美となっています。「西洋庭園」は、まるで南仏にいるような錯覚にとらわれ、日本にいるのを忘れてしまいそうなプチ外国旅行気分です。「西洋庭園」の何と言っても楽しみは、春と秋の年二回のバラの花の色鮮やかな美の競演です。コロナが収束しつつある「2023バラフェスティバル」では、今まで以上の多くの人々がバラ鑑賞を楽しんでいました。
⑶ 「日本庭園」
「日本庭園」は、京都の庭師「七代目植治」こと「小川治兵衛」の作庭によるもので、見事なバランスのとれた「池泉回遊式庭園」で有名です。「小川治兵衛」は、「旧古河庭園」以外にも「山縣有朋」の京都別邸である「無鄰菴」、「平安神宮神苑」、「円山公園」や南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭しました。この「日本庭園」は、大正8年(1919年)に完成し、「心字池」を中心に「枯滝」、「大滝」、「中島」を配しています。冬のマツの雪吊とこも巻、ソテツの霜除は「日本庭園」の風物詩となっています。「日本庭園」の特徴は、池を中心に回遊する「池泉回遊式庭園」です。水は芝生広場の下あたりの台地が崖になる高低差を利用した十数メートルの高所から落ちる「大滝」から流れ出て「心字池」に入ります。また、「心字池」の南側には日本庭園のシンボルである「雪見灯籠」を配し、「大滝」に向き合う「枯滝」があり、その上は「見晴らし台」となっています。
⑷ 「枯滝」
洲浜と連続した「枯滝」は、水を使わないで山水の景観を表現する「枯山水」の一つの手法で、「心字池」の渓谷の水源を見立てた景観です。「心字池」の洲浜の奥の渓谷に、御影石や青石、五郎太石など「枯滝石組」と呼ばれる手法で造られています。実際に水が流れている大滝の対岸に作られており、水の流れはなくてもあたかも滝の音が聞こえるような演出は、「旧古河庭園」での中でも最も素晴らしいポイントかもしれません。
⑸ 「大滝」
「大滝」は、「心字池」の洲浜の奥の渓谷に、御影石や青石、五郎太石などで造られています。「大滝」は、高低差は10m以上の高所から落ちる滝で、水は「心字池」に流れ込みます。園内のもっとも勾配の急な所をさらに削って断崖とし、濃い樹林でおおって深山の渓谷の趣をだしています。曲折した流れから始まり、数段の小滝となり最後は深い淵に落ちるという凝った造りです。以前は井戸を水源にしていましたが、水源が枯渇し、現在は井戸水と池水の循環でまかなっています。また、「大滝」は、「小川治兵衛」が、特に力を入れた箇所と言われ、「大滝」は、は三段落ちとなっており、理想的な滝の音を実現するためのこだわりを感じることができます。
⑹ 「茶室」
「旧古河庭園」には、茶室が二軒あります。京都でよく見られる手法で、茶室の土留めとして施工された「崩石積」がまず目に留まります。そして「庭門」を潜ると左前方奥の茶庭の中に、一般公開はされていない「上の茶屋」があります。現在、公開されている「茶室」は14坪程度の数寄屋で8畳の部屋と水屋があるだけです。普段は入ることができませんが、春と秋のみ、抹茶を出しており、お茶席利用のかたのみ入室可能です。
⑺ 「深山の境」
「日本庭園」への入口はシイを主体にした濃い植込で、明るい「洋風庭園」とは雰囲気が一変します。さらに奥は、シイ、モチノキ、ムクノキ、カエデなどで構成され、この庭園で一番深い植込になっています。周りは渓谷でえぐられ、「深山幽谷」の観を呈しています。
⑻ 「心字池」
「心」の字に似せて造った池で、「日本庭園」の中心にあります。鞍馬平石や伊予青石などで造られ、「船着石」があります。ここは池を眺めるための要となる所で、正面には「荒磯」、「雪見燈篭」、「枯滝」、「石組」、そして背後には「築山」が見られます。また、船の発着場所を模した「船着石」は、心字池の絶好のビュースポットになっていて写真撮影には最適です。「心字池」には2ヶ所の「中島」があり、大きい方の中島の西方では、護岸石組により「渓谷」を表現しています。五郎太石を敷き詰めた「州浜」は浜辺を表現しています。ここに設置された大型の「雪見灯篭」は、水面を照らすことを目的に設置されています。そして、「雪見灯篭」は、丈が低く笠が大きいことが特徴で、池の周りのどの箇所からも存在感を示せるように大型となっています。
⑼ 「黒ボク石積み」
「黒ボク石積み」は、「西洋式庭園」と「日本庭園」を繋ぐ斜面にあり、石垣状に積み上げられています。「黒ボク石積み」は、富士山の溶岩で、多孔質であり軽く、加工もしやすいので、良い形の庭石の産出が少ない関東エリアで流行しました。「黒ボク」を組み合わせて大きな庭石に見せる技法は江戸の庭師の腕の見せ所でした。「黒ボク」を使うと山肌のごつごつした感じが出るので山の中にいる雰囲気を出す石組として用いられています。
⑽ 「崩石積」
「小川治兵衛」の力作とされる「崩石積」は、石を垂直に積む方法です。京都で発達した伝統的な手法であり、石と石が噛み合って崩れそうで崩れない姿が美しいとされる。一見すると崩れそうですが、関東大震災や東日本大震災でも崩れなかった石積です。

13_和菓子平塚亭つるおか
「平塚神社」の鳥居のところまで戻ります。徒歩3分190mほどの距離のところにあります。「和菓子 平塚亭つるおか」は、「平塚神社」の参道入口にある老舗の和菓子屋で、「内田康夫」の探偵小説「浅見光彦シリーズ」の中に度々登場します。探偵小説「浅見光彦シリーズ」では、このお店の「みたらし団子」が食べられていて、全国から「内田康夫」や「浅見光彦」のファンが訪れる聖地としても有名だそうです。また、テレビ朝日ドラマ「おかしな刑事」で伊東四朗と羽田美智子が必ずここで長椅子に座りお団子食べるシーンがありました。店内には、TVドラマ「おかしな刑事」の写真も飾られていました。「和菓子 平塚亭つるおか」の歴史は古く、創業は大正初期に遡る老舗の和菓子屋です。
当日は、「平塚神社」の参拝を終えて、「和菓子 平塚亭つるおか」でみたらし団子」を5本と「豆大福」を2個購入しました。名物の「みたらし団子」は、昔ながらの「みたらし団子」で、値段もリーズナブルですが若干小ぶりです。そして、「みたらし団子」は焼き目が香ばしく、甘さ控えめの醤油味のタレが、柔らかい焼き団子を引き立てていました。「豆大福」は、つきたての餅のコシと北海道十勝産特選の小倉餡の甘さが絶妙なバランスでした。「みたらし団子」は三時のおやつに、そして、「豆大福」は夕食のデザートとして食べましたが、特に、「豆大福」の皮は、普通は固くなるのですが、時間が経っているのにもかかわらず、柔らかくモチモチしていました。その他、お店には、「柏餅」、「豆餅」、「おはぎ」などありました。いずれも値段はリーズナブルですが、若干小ぶりで、昔ながらの素朴な和菓子でした。ここでワンポイントですが、店員さんの話によると、営業時間開始の9時頃には、全ての商品がショーケースに並んでいないので、11時30分頃に訪れるのがベストだそうです。その時間には、ほとんどの商品がショーケースに並ぶそうです。
お土産も買ったのでこれで安心して帰途につきます。

旅行の満足度
4.5
グルメ
4.0
交通
3.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
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