上野・御徒町旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「寛永寺」は、江戸時代には36坊の子院から成る大規模な寺領を誇るお寺でした。しかし、現在は、約半分の19の子院しか残っていません。「寛永寺」へ行くだけではその偉大さと良さを詳しく知ることができないので、その19の子院を訪ねてみることを思い立ちました。そうすれば、「寛永寺」の歴史と成り立ちをより良く理解できるからと思ったからです。そして、その途中に寺院や名所旧跡があったので、せっかくですから立ち寄ってみました。<br />当日は、JR「上野駅」とJR「鶯谷駅」を利用する二つのルートがありましたが、JR「鶯谷駅」南口からの方が寛永寺と点在している子院に近いので、JR「鶯谷駅」で下車しました。JR「鶯谷駅」の南口の狭い駅前ロータリーの改札口を出て右方向に進みます。すると横断ほどがありますので、それを反対側に渡り、右折し「台東区立忍岡中学校」沿いに「新坂」を120mほど上って行きます。横断歩道がありますので、それを渡り最初の角を左折すると、道路の右手に「東京国立博物館」があり、左手の一角には「寛永寺」の15の子院が密集しています。本来であれば「寛永寺」を最初にまわるのが常道かもしれませんが、効率的に回りたいのであえてこのルートを選択しました。ちなみに、JR「上野駅」から来ると「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に15か所あります。<br /><br />【私が散策したお薦め順路】<br />スタート地点:JR「鶯谷駅」南口⇒最終地点:JR「鶯谷駅」北口<br />①東叡山寛永寺子院:「寒松院」⇒②東叡山寛永寺子院:「林光院」⇒③東叡山寛永寺子院:「現龍院」⇒<br />④東叡山寛永寺子院:「春性院」⇒⑤東叡山寛永寺子院:「修禪院」⇒⑥東叡山寛永寺子院:「泉龍院」⇒<br />⑦東叡山寛永寺子院:「吉祥院」⇒⑧東叡山寛永寺子院:「福聚院」⇒⑨東叡山寛永寺子院:「真如院」⇒<br />⑩東叡山寛永寺子院:「見明院」⇒⑪東叡山寛永寺子院:「本覺院」⇒⑫東叡山寛永寺子院:「元光院」⇒<br />⑬名所・旧跡①_「殉死者の墓」⇒⑭東叡山寛永寺子院:「覺成院」⇒⑮東叡山寛永寺子院:「等覺院」⇒<br />⑯名所・旧跡②_「輪王寺両大師堂」⇒⑰東叡山寛永寺子院:「護國院」⇒⑱東叡山寛永寺子院:「圓珠院」⇒<br />⑲「寛永寺」⇒⑳名所・旧跡③_浄名院⇒&#12881;東叡山寛永寺子院:「養寿院」⇒&#12882;東叡山寛永寺子院:「津梁院」<br /><br />《01_東叡山寛永寺の子院:「寒松院」》<br />最初は、「寒松院」です。横断歩道を渡り右折し、30m進むと左手に「寒松院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「寒松院」は、19か所ある「東叡山寛永寺」の一つです。そして、これらの子院は「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所あります。<br />「寒松院」は、JR「鴬谷」駅から来ると一番近い「寛永寺」の子院です。そしてこの一角にある子院の中で、比較的規模も大きく、「正門」前の階段を上がった所には、小さな、手入れの行き届いた「庭園」、「石灯籠」そして「本堂」があります。京都の三条や四条の大通りから入った通りに突然現れる小さなお寺を思い起こさせました。こんな街中にあるんだと感じたのが思い起こされます。ただ、非公開のため中に入れないので何とも言えませんが、「本堂」を入った奥には、「池泉庭園」か「枯山水庭園」か「露地庭園」などの素敵な庭園があるかもしれませんね。また、文化財等の史跡として、藤堂家墓所、宝篋印塔型墓石14基、灯籠12基があるということです。一日も早く一般に公開してくれるといいのですが。<br />【東叡山寛永寺の子院「寒松院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-11<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分200m<br />&#9334; 「寒松院」の歴史<br />寒松院は、津藩主「藤堂高虎」の法名をそのまま寺名にしたもので、1627年(寛永4年)に「徳川家康」を祀る上野東照宮の別当寺として開基されました本尊は、「阿弥陀如来」です。<br />&#9335; 文化財史跡<br />① 藤堂家墓所(台東区有形文化財)<br />② 宝篋印塔型墓石(供養塔を含む)14基<br />③ 灯籠12基<br /><br />《02_東叡山寛永寺の子院:「林光院」》<br />「寒松院」に隣接しているのが「林光院」で距離にして徒歩1分30mほどのところに「林光院」の「正門」があります。「林光院」は、“大きな石燈籠と葵の御紋が異彩を放っています。「寒松院」同様にここも残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。規模的には、「寒松院」と同じくらいの規模で、この一角にあるお寺としては大きい方です。また、他の子院を探すため反対側の路地を歩いていると裏口もありました。「林光院」に行ってまず驚いたのは、「表門」を上る階段の右側には、大きな「石灯籠」が置かれていました。この「石灯籠」には、「東叡山大猷院殿尊前慶安4年12月20日」と刻まれています。「徳川家光」の一周忌に、諸国大名から「大猷院殿」に寄進された「石灯籠」です。戦後の「寛永寺」再建の際の寄付の返礼として贈られました。「林光院」にある「石灯籠」もそのうちの一つです。「林光院」の「表門」は、徳島藩の中屋敷御庭仕切門を移築したもので、歴史ある貴重な建造物です。昭和30年 (1955年)に移築されました。「庭園」は、よく手入れされていますが感激するほどのものではありませんでした。<br />【東叡山寛永寺の子院「林光院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-9<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分230m<br />&#9334; 「林光院」の歴史<br />開基は、「宣雄大僧都」で江戸初期に創建しました。御本尊は、「阿弥陀如来」です。脇侍は、「観音菩薩」と「勢至菩薩」が安置されています。<br /><br />《03_東叡山寛永寺の子院:「現龍院」》<br />「林光院」の次は「現龍院」です。「林光院」から120mほど直進すると一つ目の角がありますので、それを左折し、30mほど進むと角がありますのでそれを左折します。30mほど進むと右手に「現龍院」の「正門」があります。ここも残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「現龍院」は、「東叡山寛永寺」の子院の中では、比較的奥行きがあります。そして本堂までの参道の両側には、よく手入れされた木々があり緑の小道になっています。「現龍院」で一番不思議に思ったのは、表門の所にある謎のオブジェです。私は、おそらく郵便受けだと思うのですが?<br />【東叡山寛永寺の子院「現龍院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-25<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩4分300m<br />&#9334; 「現龍院」の歴史<br />開祖は、「権大僧都什誉師」が寛永初年に創建しました。御本尊は、「阿弥陀如来」です。<br /><br />《04_東叡山寛永寺の子院:「春性院」》<br />「現龍院」の右斜め前の反対側にあるのが、「春性院」です。ここも残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「春性院」も、白い塀と木製の瓦ぶきの表門が調和してきれいに見えます。特に、表門から木々に囲まれて見える大きな石燈籠が歴史を感じ印象的でした。<br />【東叡山寛永寺の子院「春性院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-7 <br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩6分450m<br />&#9334; 「春性院」の歴史<br />開基は、「広海僧正」で、西暦1680年(延宝8年)の創建になります。本尊は、「阿弥陀如来」(厨子入り木像)です。<br /><br />《05_東叡山寛永寺の子院:「修禪院」》<br />「春性院」のすぐ先にあるのが「修禪院」です。「修禪院」も残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。情緒ある木製の表門から見える「修禪院」の本堂は、木々の間から顔を出しています。その本堂は、他の子院と比べお寺の雰囲気を醸し出しています。「木を見て森をみず」、中に入ってみないと本当の良さは分かりませんね。そして、木製の塀と表門が郷愁を誘います。<br />【東叡山寛永寺の子院「修禪院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-24<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩4分300m<br />&#9334; 「修禪院」の歴史<br />開祖は、「権僧正長清」が寛永初年に創建しました。<br /><br />《06_東叡山寛永寺の子院:「泉龍院」》<br />「修禪院」の少し先の左手に「泉龍院」があります。やはり残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「表門」から中を見ると白い小石を敷き詰めた庭園がきれいで印象的です。「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ありますが、その中では一番きれいな庭園だと思います。<br />【東叡山寛永寺の子院「泉龍院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-23<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分270m<br />&#9334; 「泉龍院」の歴史<br />開基は、「権大僧都慶倫」で、寛永初期に創建されました。本尊は、「阿弥陀如来」です。<br /><br />《07_東叡山寛永寺の子院:「吉祥院」》<br />「泉龍院」から進むと右手に「吉祥院」の「正門」があります。ここも残念ながら非公開のため「吉祥院」からしか中を見ることができません。「吉祥院」は、小さなお寺です。「正門」は昔ながらの木製の造りです。小さな門構えから見える小さな庭園と白い塀がマッチしていました。「正門」に架かっている「白いライト」に何となく安堵感を覚えました。<br />【東叡山寛永寺の子院「吉祥院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-21 <br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分250m<br />&#9334; 「吉祥院」の歴史<br />開基は、「権大僧都詮長」で、1624年(寛永初年)に水戸侯及び徳川頼房の寄進により創建されました。本尊は、「釈迦如来」です。<br /><br />《08_東叡山寛永寺の子院:「福聚院」》<br />「吉祥院」をさらに進むと左手に「福聚院」の「正門」があります。またしても非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。残念ながら庭も小さく、「表門」の寺社名の銘板がなければ、これが「福聚院」かと分からないでしょう。一見するとお寺かなあと言う感じでした。非公開なので中に入らないと本当の良さは分かりませんが、少々がっかりしました。でも前庭には、石が配置され、木々もよく手入れがされていました。<br />【東叡山寛永寺の子院「福聚院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-13 <br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩4分280m<br /><br />《09_東叡山寛永寺の子院:「真如院」》<br />次が「真如院」です。「福聚院」のすぐ先の左手に「真如院」の「正門」があります。ここも残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。東叡山寛永寺の子院の中では、美しい外観の表門があります。こじんまりとした庭園で手入れが行き届いていますが、率直に言って一般のお寺の庭園のように趣はありません。そして表門に架かっている木製の寺社名は、何か温かみが伝わってきます。<br />【東叡山寛永寺の子院「真如院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-17 電話:03-3821-5074	<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩2分180m<br />&#9334; 「真如院」の歴史<br />「真如院」は、1626年(寛永3年)に紀伊徳川家が創建するため、比叡山雙嚴院から転住したものです。開祖は比叡山雙嚴院より転任した「権僧正豪俔」で、本尊は「阿弥陀如来 (木像)」です。<br />&#9335; 文化財史跡<br />① 北白川宮能久親王建立銘(明治15年)のある、地蔵様の石仏一体<br />② 元禄年間の銘のある、庚申様の石仏(高さ1m50㎝)一体<br /><br />《10_東叡山寛永寺の子院:「見明院」》<br />「見明院」は、「真如院」の先を右折し、道なりに進むと「見明院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「見明院」は、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ある子院の中では、比較的規模の大きいお寺です。表門から見える東屋風の建物と木々の間から顔を見せる大きな石燈籠が印象的でした。<br />【東叡山寛永寺の子院「見明院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-18 <br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩2分190m<br />&#9334; 「見明院」の歴史<br />「見明院」は、「権僧正盛憲」が創建したと言われています。御本尊は「千手観音菩薩」です。<br /><br />《11_東叡山寛永寺の子院:「本覺院」》<br />「見明院」から上野駅方向に110mほど進むと、右手に「本覺院」の「正門」があります。「本覺院」では、一応本堂の前まで入ることができました。「本覺院」は、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所の子院の中では、お寺らしい「本堂」があります。本堂の前の庭園には、石燈籠、法華塔、石塔、それに百度石、更に境内社と見受けられる「お稲荷さん」が二社ありました。<br />【東叡山寛永寺の子院「本覺院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-22 <br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分220m<br />&#9334; 「本覚院」の歴史<br />「本覚院」は、江戸城内紅葉山山王社移転に伴い、東叡山寛永寺子院・山王社別当として1637年 (寛永14年)に創建されました。御本尊は「釈迦如来」です。<br /><br />《12_東叡山寛永寺の子院:「元光院」》<br /> “ベールに包まれた東叡山寛永寺の子院~元光院:前庭にある大きな石燈籠が目を引きます~”<br />「本覚院」のすぐ隣に「元光院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。訪れた当日は、「正門」が固く閉ざされていました。あまり見るものがなさそうな感じです。あえて無理やり評価するなら前庭にある石燈籠くらいです。<br />【東叡山寛永寺の子院「元光院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-24<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩4分300m<br />&#9334; 「元光院」の歴史<br />開基は「権僧正長清」で、寛永年間 (1624年~1643年)に創建しました。本尊は、「阿弥陀如来」です。<br /><br />【名所・旧跡①_「殉死者の墓」】<br />「元光院」の道路の反対側に、「殉死者の墓」があります。「殉死者の墓」は、慶安4年(1651年)4月20日に三代将軍「徳川家光」が死去した際に、その後を追って「徳川家光」の家臣5名が殉死しました。そのうち、家臣4名の墓が「現龍院」の墓地の中にあり、「殉死者の墓」という史跡となっています。「寛永寺」の子院である「現龍院」が管理をしています。残念ながら「現龍院」の墓地は施錠されていて自由には参拝できませんでした。寛永寺の子院は私の知る限りでは19ケ所あります。何故、「現龍院」の墓地にあるのか疑問に思ったので、家に帰って調べたところ、「現龍院」は、「春日局」が夫の「稲葉正成」の菩提のために「天海大僧正」と相談して建立したお寺で、実は、「春日局」の孫である「堀田正盛」は、「現龍院」と深い関係があるのでここに埋葬されたそうです。今では、殉死するなど到底考えられないことですが、昔の日本ではそれが美徳とされたのでしょうか。いささか寂しい感じもします。<br />01_【「殉死者の墓」の一口メモ】<br />所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園18<br />02_【「殉死者の墓」へのアクセス】<br />&#9332; JR「上野駅」公園口から徒歩6分450m<br />&#9333; 東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」6番出口から徒歩12分900m<br />&#9334; 京成本線「京成上野駅」正面口から徒歩14分1km<br /><br />《13_東叡山寛永寺の子院:「覺成院」》<br />「元光院」の前の通りを上の方向に向かうと、すぐ一つ目の角があるので右折します。20mほど進むと右手に「覺成院」の石段があります。実は、この「覺成院」だけなかなか見つかりませんでした。というより普通の民家と思い通り過ぎてしまいました。「正門」は閉まっているし、「正門」前も全くお寺らしくありません。ただの大きな住宅と言う感じです。この近辺の子院を訪ねるついでにチラッと見ればいいのではないでしょうか。<br />【東叡山寛永寺の子院「覺成院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-2<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩5分450m<br />&#9334; 「覺成院」の歴史<br />開基は、「忠俊」で、1634年 (寛永11年)に雅楽頭「酒井忠世公」によって創建されました。本尊は、「薬師如来」です。<br /><br />《14_東叡山寛永寺の子院:「等覺院」》<br />「覺成院」の先の角を右折すると左手に「等覺院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「 」からしか中を見ることができません。ただし、「等覺院」は、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ある子院の中では、「本堂」付近まで入って行くことができ、庭園もかなり整備されていています。驚いたことに表門から本堂までの間の庭園ばかりでなく、本堂に突き当りその左側にこれまた小さいながら整備された庭園がありました。近隣の子院と比較しておそらくベストワンと言っても過言ではないでしょう。さらに、庭園の中には、石燈籠、石仏、手水舎、宝塔そして天水桶もありました。<br />【東叡山寛永寺の子院「等覺院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-3<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩5分460m<br /><br />《15_東叡山寛永寺の子院:「東漸院》<br />それでは、このエリアにある最後の子院の「東漸院」へ行ってみたいと思います。「等覺院」の斜め右に「東漸院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。寺社名の銘板がないとこれがお寺と言う感じがしました。表面だけ見て評価するわけにはいかないのですが、どう見ても普通の家のような感じです。ただし、白い石製の門と石畳が印象的でした。子院も現代の波の流れに飲み込まれ変貌してしまうのですかね。<br />【東叡山寛永寺の子院「東漸院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-3<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩6分450m<br />&#9334; 「東漸院」の歴史<br />1649年 (慶安2年)に水谷伊勢守勝隆が権僧正宣祐の為に小院を創建しました。本尊は、「薬師如来」です。<br /><br />【名所・旧跡②_「輪王寺両大師堂」】<br />「東漸院」の次は、二人の「大僧正」を祀る「輪王寺両大師堂」へ向かいました。「東漸院」から道を戻ると目の前に、立派な建物がそびえ立っています。「寛永寺輪王殿」で、並ぶようにして「輪王寺両大師堂」があります。実は、これが「輪王寺両大師堂」かと思い、間違えて、「寛永寺輪王殿」に入ってしまいました。「寛永寺輪王殿」の山門もすごく立派で奥に大きな建物があったので、これが「輪王寺両大師堂」かと思い入ってみると「寛永寺輪王殿」でした。「寛永寺輪王殿」と「輪王寺両大師堂」の間に小さな門がありそこからどちらへも通行可能でした。実は、この門はだだの門でなく、「幸田露伴旧宅の門」で、谷中にあったものをここに移築したものです。さて、もう一度外へ出て「輪王寺両大師堂」の山門から入りました。「山門」の柱の右側には「両大師」、左側には「東叡山寛永寺 開山堂」の文字が刻まれていました。何故かと言うと、「輪王寺両大師堂」は、東叡山の開山である「慈眼大師天海大僧正」と「慈惠大師良源大僧正」の二人をお祀りしているからです。そのことから、一般に「両大師」と呼ばれています。入るとすぐ右手に「阿弥陀堂」があり、その中には三体の像が安置されていました。左から「地蔵菩薩立像」、真ん中が「阿弥陀如来坐像」そして左が「虚空蔵菩薩坐像」です。その隣には「鐘楼」、「手水舎」そして「本殿」があります。また、「本堂」に向かって左手には二千年以上の歴史ある古代「大賀蓮」の植え込みもありました。「輪王寺両大師堂」は、「上野公園」からほんの少し離れているので、静かで落ち着ける場所になっています。「輪王寺両大師堂」の見どころはまだまだ沢山あります。「輪王寺両大師堂」の見どころでまとめてありますのでご覧ください。<br />01_【「輪王寺両大師堂」の一口メモ】<br />所在地:〒110-0007 東京都台東区上野公園14-5 電話:03-3821-4050<br />02_【「輪王寺両大師堂」へのアクセス】<br />①JR「上野駅」公園口から徒歩3分280m<br />②JR「鶯谷駅」南口から徒歩7分550m<br />③京成電鉄「京成上野駅」正面口から徒歩10分750m<br />03_【「輪王寺両大師堂」の見どころ】<br />&#9332; 「山門」<br />「山門」のがいつ建てられたのかの建立年は不明です。「山門」の建築様式は瓦葺の薬医門です。また、屋根の瓦には、「天海僧正」が使用していた「二引き両の紋」が施されています。そして、「山門」の右側には「両大師」、左側には「東叡山寛永寺 開山堂」の文字が刻まれていました。<br />&#9333; 「銅燈籠」<br />参道を歩いていると立派な「銅燈籠」がありました。この「銅燈籠」は、江戸時代初期に建立されたもので、もともと「大猷院殿廟」にあったものです。「銅燈籠」には、「三つ葉葵」(徳川家紋)とニ引き両の紋(天海の紋)が刻まれていました。<br />&#9334; 「手水舎」<br />「手水舎」は、江戸時代に建立され、建築様式は銅板葺の切妻造です。龍が勢いよく水を吐き出していました。「水盤」は青銅製で四隅を獅子が支えていました。<br />&#9335; 「鐘楼」<br />「鐘楼」は、建立年は不明で、建築様式は瓦葺の八脚の切妻造になっています。もともとこの「鐘楼」には慶安4年(1651年)鋳造の「梵鐘」が吊るされていたそうですが、現在は「阿弥陀堂」内に置かれています。<br />&#9336; 「本堂」<br />「本堂」は、戊辰戦争、関東大震災、東京大空襲等の苦難を乗り切ったにも関わらず、昭和64年(1989年)の火災で焼失してしまいました。現在の「本堂」は、平成5年(1993年)に再建されたものです。建築様式は、瓦葺の 入母屋造で、本尊の「阿弥陀如来像」、「慈眼大師坐像」と「元三大師画像」が安置されています。<br />&#9337; 「阿弥陀堂」<br />「阿弥陀堂」は、入口の門の近く右側に建っています。建立年は不明で、建築様式は、瓦葺、漆喰壁の宝形造です。「阿弥陀堂」の中には三体の像が安置されていました。左から「地蔵菩薩立像」、真ん中が「阿弥陀如来坐像」そして左が「虚空蔵菩薩坐像」です。<br />&#9338; 「幸田露伴旧宅の門」<br />「輪王寺両大師堂」の境内にあり「輪王寺両大師堂」と「輪王殿」を結ぶ門が「幸田露伴旧宅の門」です。谷中にあったものをここに移築しました。瓦葺の簡素な腕木門です。<br />その他に、山門を入ってすぐ左手の方に「法華塔」、「地蔵堂」もあります。<br /><br />《16_東叡山寛永寺の子院:「護國院」》<br />「輪王寺両大師堂」の次は、東叡山寛永寺の子院「護國院」へ向かいます。徒歩11分、距離にして800mほどです。「輪王寺両大師堂」のを出て、「都道452号線」を右方向に620mほど進みます。「東京国立博物館」の前を通り、「東京藝術大学」の先の十字路を左折します。100mほど道沿いに直進すると「護國院」の「正門」が左手にあります。東叡山寛永寺の子院は、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に15か所ある子院と、「上野桜木から上野公園」にかけて4か所に点在している子院とに大きく大別され、「護國院」は、「上野桜木から上野公園」にかけて4か所に点在するその一つです。私が見た19か所の東叡山寛永寺の子院の中で一番のお薦めです。「護國院」は、寛永2年(1625年)、天海僧正が東叡山寛永寺を開山したのと同時に、「天海僧正」の命により東叡山寛永寺最初の子院として「生順」が創建したものです。宝永6年(1709年)に現在地に移転し、「谷中七福神」の「大黒天」となっています。19か所の子院の中で、一番見るべきものがたくさんあるお寺です。「本堂」も大きく、能の舞台のような「楽堂」、「手水舎」、「大黒天像」、「お御籤とお御籤掛け」など盛りだくさんです。<br />【東叡山寛永寺の子院「護國院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園10-18<br />&#9333; アクセス…東京メトロ「根津」駅1番出口から徒歩8分600m<br /><br />《17_東叡山寛永寺の子院「圓珠院」》<br />「護國院」の次は、東叡山寛永寺の子院「圓珠院」へ向かいます。「護國院」の「正門」を出て、来た道を戻ります。180mほど道なりに進むと、左手に「圓珠院」の「正門」があります。残念ながら非公開ですが、本堂の前までは拝観することができます。「圓珠院」は、19か所ある「東叡山寛永寺」の一つです。しかし、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ある子院とは違い、「上野桜木から上野公園」にかけて4か所に点在しています。そして「寛永寺輪王殿」の裏手の子院に比べて、庭園一つをとっても見るべきものはたくさんあります。「圓珠院」は、庭園の素晴らしさに目を奪われます。庭園はよく整備されていて、「石燈籠」も4基あり、その他に「宝塔」、「洗心台」もありました。何よりも庭園の美しさと庭園の中にある大きな枝振りの松が印象的でした。<br />【東叡山寛永寺の子院「圓珠院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0002 東京都台東区上野桜木1-5-3<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅北口から徒歩11分850m<br />&#9334; 「圓珠院」の歴史<br />開基檀家は長州(萩)藩第二代藩主毛利綱廣公であり、1652年(承応元年)に創建しました。本尊は「薬師如来」です。<br /><br />★【本題:寛永寺】<br />さて、次は本丸の「寛永寺」です。「圓珠院」の「正門」を出て左折し、220mほど直進すると正面に「寛永寺」が目の前に現れてきます。<br />「寛永寺」は天台宗の「別格大本山」のお寺で、正式名称は「東叡山寛永寺」です。ちなみに、「東叡山」は「東の比叡山」の意味で、平安時代に桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖「伝教大師最澄上人」が開いた「比叡山延暦寺」が、京都御所の鬼門に建立されたことにならったものです。また、「寛永寺」は創建時の元号を使っています。かつては元号を冠するには朝廷の許可が必要でした。延暦7年(788年)創建の「延暦寺」を皮切りに、京都の「仁和寺」や鎌倉の「建仁寺」と「建長寺」など、勅許を得た「元号寺」は数えるほどしか残っていません。それでは、ここで「寛永寺」の歴史と概要を紐解いてみると、寛永2年(1625年)に、江戸城の鬼門(東北)にあたる「上野の山」に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、「徳川家康」、「徳川秀忠」、「徳川家光」の3代にわたる将軍から深く信奉され、幕府の指南役として活躍した「慈眼大師天海大僧正」によって建立されました。その総本堂にあたる「根本中堂」は、元禄11年 (1698年)に現在の上野公園内「大噴水」(竹の台噴水)に建立されました。その後、第4代将軍「川家綱」の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。以後は5代将軍「徳川綱吉」、8代将軍「徳川吉宗」、10代将軍「徳川家治」、11代将軍「徳川家斉」、13代将軍「徳川家定」の豪華な霊廟が、次々と造営されました。幕末、最後の15代将軍「徳川慶喜」は、鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、「寛永寺」で謹慎生活を送りました。江戸城の無血開城までの2カ月間を過ごした「葵の間」には、今でも愛用の品などが残されている。「徳川慶喜」は神道式の葬儀を望んだため、谷中霊園内の寛永寺墓地にある一橋家墓所の隣で永眠しています。そして、東叡山主を皇室(「輪王寺宮」)から迎えたことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。慶応4年年(1868)、「上野戦争」の際に焼失してしまいた。その後、明治12年 (1879年)に「川越喜多院」の本地堂を山内子院の「大慈院」(現在の「寛永寺」)の地に移築し、再建したのが現在の「根本中堂」になります。御本尊は、「伝教大師最澄上人」がみずから彫ったと言われる「薬師瑠璃光如来像」(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしています。また、「東叡山寛永寺」は、かつては、「清水観音堂」、「不忍池辯天堂」、「 五重塔」、「開山堂」、「大仏殿」など36もの子院などを有する大寺院でした。「寛永寺」の境内は「上野公園」の土地を中心に30万5000坪に及び幕府から与えられた寺領は小藩の大名に匹敵する1万5000石を誇りました。<br />「本堂」内も見学することができます。しかし、秘仏のため「薬師瑠璃光如来像」は拝観することはできませんでしたが、その代わり、堂内には御本尊さんの他に、「日光・月光菩薩像」や「十二神将像や四天王像」など迫力ある仏像が安置され見ごたえ十分でした。パワーをもらったうえに、無料なので得した気分でした。<br />本堂から出て上を眺めると「瓦」には「寛永寺」の文字が施され、「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。また、門にも「三つ葉葵」が装飾されていました。上野公園から少し歩きますが、途中にも歴史的建造物やモニュメントもありますので、必見の場所です。「根本中堂」の見どころ等の情報は下に箇条書きにしてありますので、合わせてご覧ください。<br /><br />01_【「寛永寺」の一口メモ】<br />&#9332; 所在地 〒110-0007 東京都台東区上野公園14 <br />&#9333; 問い合わせ	寛永寺 電話:03-3821-1259<br />&#9334; 開門時間 9:00&#12316;17:00<br />&#9335; 本堂の拝観時間 10:00&#12316;16:00<br /><br />02_【「寛永寺」へのアクセス】<br />&#9332; 電車を利用した場合<br />① JR「上野駅」公園口から徒歩13分1km<br />② 京成電鉄「京成上野駅」池の端出口から徒歩18分1.4km<br />③ 東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」から徒歩18分1.4km<br />④ JR「鶯谷駅」北口から徒歩8分650m<br />&#9333; 台東区循環バス「東西めぐりん」を利用した場合<br />① [台東区役所] ⇒[永寿総合病院行]≪東西めぐりん≫「寛永寺バス停」下車から徒歩すぐ<br /><br />03_【「寛永寺根本中堂」の見どころ】<br />&#9332; 「本堂」(根本中堂)<br />天台宗の寺院では、比叡山にならって「本堂」を「根本中堂」と呼ぶことがあります。「寛永寺」の「根本中堂」は、以前は上野公園の噴水広場にありましたが、幕末の上野戦争で焼失し、明治時代に現在の場所に再建されました。そして、国の登録有形文化財に指定されている「本堂」(根本中堂)には、国指定重要文化財の「薬師瑠璃光如来像」が安置されており、「寛永寺」の秘仏となっています。「本堂」(根本中堂)の「木鼻」には、「獏」と「獅子」そして「蟇股」には「鶴」が彫刻されていました。また、「瓦」には「寛永寺」の文字が刻まれていました。「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。それもそのはず、「寛永寺」は徳川家の菩提寺なので、徳川家の「家紋」を「寺紋」として使っているからです。<br />&#9333; 「鐘楼」<br />「鐘楼」は天和元年(1681年)に建立され、「高さ」が177.2cm、鐘の「口径」は91.8cmの「銅鐘」です。この「鐘楼」は歴史があり、徳川幕府4代将軍「徳川家綱」の1周忌に奉献されたものだそうです。この「鐘」は、もともと「徳川家霊廟」の「鐘楼」に吊るされていましたが、明治時代に「寛永寺根本中堂」に移設されました。そして、「「寛永寺」の除夜の鐘は、境内にある「鐘楼」と、旧境内である上野公園内に残る「時鐘堂」の両方で撞かれます。ちなみに、上野公園にある「上野大仏」の近くある「時鐘堂」は、大晦日以外もいまでも毎日3回時を告げている時の鐘です。<br />&#9334; 「了翁禅師堂」<br />「寛永寺根本中堂」の境内には「了翁禅師堂」という「お堂」があります。「了翁禅師」は、江戸時代前期の僧侶で秋田県出身です。貧しい農家に生まれ、11歳の若さで出家し、修行をしながらたくさんの書物を集めていたそうです。そして、諸国を巡るうちに霊薬の処方を夢に見たことから、不忍池付近の薬屋で「錦袋円(きんたいえん)」と命名した薬を売ります。その利益で「了翁禅師」は、難民救済や「不忍池」に経堂を建てて文庫を創設し、さらには「寛永寺」の境内に「勧学寮」と「文庫」を建立しました。何とこれが日本で最初に一般公開された「図書館」と言われています。<br />&#9335; 二つの大きな「鬼瓦」<br />「寛永寺根本中堂」の境内には、大きな「鬼瓦」が二つありました。どうやらこの「鬼瓦」は、もともと「寛永寺」の「旧本坊表門」と「根本中堂」の鬼瓦据えられていたものらしいです。特に、向かって右側にある「鬼瓦」は、現在「黒門」と通称される国の指定重要文化財である「寛永寺旧本坊表門」に据えられていたものです。「旧本坊表門」は、寛永元年(1624年)に「天海大僧正」により建てられたもので、歴代の「輪王寺宮」が住んだ場所の門として知られていました。昭和12年(1937年)に、現在の「東京国立博物館」の地から「両大師堂」の隣に移築されています。<br />① 「旧本坊表門」の「鬼瓦」 ② 「根本中堂」の鬼瓦<br />&#9336; 「銅燈籠」<br />大きな「銅燈籠」が2基ありますが、残念ながら。記銘が見当たりません。元はどこにあったのか所在は不明です。<br />&#9337; 「石燈籠」<br />大きな「銅燈籠」ばかりでなく、「社務所」の前には大きな「石燈籠」が1基のみあります。この「石燈籠」は南部重直盛岡藩主が奉献したものです。「石燈籠」には、「奉献石燈籠両基 武州東叡山 大猷院殿尊前 慶安四年辛卯歳十二月廿日 従五位下南部山城守源重直」と刻まれていました。<br />&#9338; 「水盤」<br />「水盤」は元禄11年銘がきされています。コケが薄らと外側を覆い歴史を感じます。<br />&#9339; 「慈海僧正墓」(都旧跡)<br />「慈海僧正墓」は「寛永寺根本中堂」に向かって右側にあります。「了翁禅師堂」に比べると、「学頭」の割には小さく、質素なものです。「慈海僧正」は、「寛永寺一山」を統括する「東叡山凌雲院」の4代目の学頭でした。「慈海僧正」は、「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻などの著作があります。聖観世音菩薩像である墓石は、当初「凌雲院」境内墓地にありましたが、東京文化会館の建設のため「寛永寺」に移築されました。<br />&#9340;「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟」<br />「慈海僧正墓」の隣には、「墓」と「尾形乾山」を讃える「顕彰碑の写し」があります。「尾形乾山」は江戸時代を代表する画家であった「尾形光琳」の弟で、絵師や陶芸家として活躍した人物です。入谷に開いた入谷窯の作品は「入谷乾山」として高く評価されています。光琳を敬慕する江戸時代後期の絵師の「酒井抱一」の手によって探り当てられ、この「乾山深省蹟」顕彰碑が建てられたといわれています。<br />&#9341; 「上野戦争碑記」<br />ひときわ大きく、誰の眼にもとまるのが「上野戦争碑記」です。幕末の明治維新のとき、現在の上野公園の一帯では、幕臣たちが結成した「彰義隊」と「明治政府軍」との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる「阿部弘蔵」が、「上野戦争」の経緯を記したものです。寛永寺はこの上野戦争で被災し、明治時代初期に敷地の大部分は上野公園となりました。<br />&#9342; 「虫塚」<br />「虫塚」は、伊勢長島藩主であった増山雪斎が写生に使った昆虫の慰霊のために建てた碑です。「増山雪斎」は、江戸の文人「大田南畝」や大坂の豪商「木村兼葭堂」など広く文人墨客と交流を持ち、写実的な画法で多くの花鳥画を描きました。中でも虫類写生図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」は、指定有形文化財として指定されています。その昆虫も碑を建ててもらえるとは幸せですよね。<br /><br />【名所・旧跡③_浄名院】<br />「寛永寺」の山門を出て、右方向に90mほど進むと突き当りに信号があります。その信号を渡れば「浄名院」の「山門」があります。「浄名院」の境内に入ると欧米の外国人の観光客が目立ちます。やはりへちま地蔵、八万四千体地蔵など欧米の外国人の観光客にとっては興味を引くものなのでしょうか。<br /><br />《「浄名院での」六地蔵めぐりのポイント》<br />★「六地蔵巡り」と書かれた「白いのぼり旗」を順番に回ると、「浄名院」の「地蔵尊」を「第一番」から「第六番」まで全て見て回ることができます。まず、「山門」を潜り左方向に進むと「地蔵めぐり一番」があります。それから「地蔵堂」の石柱を左方向に進むと「地蔵めぐり二番・三番」があり、それからは、塀沿いに右回りで進むと「地蔵めぐり六番」まで行くことができます。<br /><br />「浄名院」は、天台宗の寺院です。「浄名院」の歴史と概要を紐解いてみると、天台宗寺院の「浄名院」は、「寛永寺36坊」の一つとしてとして「圭海大僧都」が開基となり、寛文6年(1666年)に「浄円院」として創建されました。享保8年(1823年)に寺号を「浄円院」から「浄名院」へ改めました。「山門」は歴史あるもので、享保年間(1716年-1735年)に建立されたものです。「浄名院」は、四代将軍」徳川家綱」の母「宝樹院」の菩提所として栄えました。そして、「浄名院」は、ぜんそくや病気平癒を祈願する「へちま加持祈祷会」で全国的に知られており、別名「へちま寺」とも呼ばれています。なお、旧8月15日の「へちま供養」には、せき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わうそうです。<br />また、1600坪を超える広い「境内」には、たくさんの「石地蔵尊」が所狭しと並べられています。これは、第38世「妙運大和尚」が、民衆の幸福と仏恩に報いるため、「八万四千体地蔵尊の建立」を発願されたもので、8万4千体地蔵尊の建立成就を目指し、現在も地蔵尊像の数は増え続けているそうです。<br />「境内」にある青銅製の大きな「地蔵菩薩坐像」は、かつて「江戸六地蔵第6番」の「地蔵菩薩像」があった「深川永代寺」が明治維新のとき廃寺になり、また、日露戦争の戦没者を弔うために、明治39年(1906年)に新たに建立されたものです。<br />見どころ等の情報については、下記に取りまとめてありますので、ご覧ください。<br /><br />01_【「浄名院」の一口メモ】<br />&#9332; 所在地…〒110-0002 東京都台東区上野桜木2丁目6番4号 電話:03-5832-9511<br />&#9333; 浄名院の概要 ①山号…東叡山 ②院号…浄名院 ③宗派…天台宗<br />&#9334; 御本尊…阿弥陀如来・地蔵尊<br /><br />02_【「浄名院」へのアクセス】<br />&#9332; 電車を利用した場合<br />① JR「上野駅」公園口から徒歩15分1200m<br />② 京成電鉄「京成上野駅」池の端出口から徒歩19分1500m<br />③ 東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」7番出口から徒歩19分1500m<br />④ JR「鶯谷駅」北口から徒歩7分500m<br />⑤ 東京メトロ千代田線「根津駅」1番出口から徒歩約13分1000m<br />&#9333; 台東区循環バス「東西めぐりん」を利用した場合<br />① [台東区役所] ⇒[永寿総合病院行]≪東西めぐりん≫「寛永寺」バス停下車徒歩2分110m<br />② [亀戸駅前] ⇒[上野公園]≪都バス:上26系統≫「上野桜木」バス停下車徒歩約1分80m<br /><br />03_【「浄名院」の見どころ】<br />&#9332; 「山門」<br />「山門」は、「山門」は歴史あるもので、享保年間(1716年-1735年)に建立されました。残念ながら、令和4年(2022年)に袖塀などが撤去されました。※現在は、改修保存中です。<br />&#9333; 「八万四千体地蔵」<br />1600坪を超える広い「境内」には、たくさんの「石地蔵尊」が所狭しと並べられています。これは、第38世「妙運大和尚」が、民衆の幸福と仏恩に報いるため、「八万四千体地蔵尊の建立」を発願されたもので、8万4千体地蔵尊の建立成就を目指し、現在も地蔵尊像の数は増え続けているそうです。ちなみに、第38世「妙運大和尚」は、明治12年(1879年)に、古代にインドのアショカ王が、八万四千の石塔を世界各地に建立したと伝えられることにならい、八万四千体の石地蔵建立を発願したそうです。<br />&#9334; 「江戸六地蔵」<br />「江戸六地蔵」は、明治39年(1906年)に新たに建立されたものです。この地蔵像は「江戸六地蔵」の第6番です。ちなみに、「江戸六地蔵」とは、18世紀初期に「京都六地蔵」に倣って江戸の出入口6箇所に置かれた「地蔵菩薩坐像」のことを言います。もともとは、千葉街道の出入口に位置する江東区富岡八幡宮「永代寺」にありましたが、明治政府の神道に傾倒する政策である「廃仏毀釈」、「神仏分離」により第6番の地蔵が失われたため、そして、」日清日露戦争の戦役者慰霊のためとして明治39年(1906年)に「浄名院」に復活したものです。ちなみに、「江戸六地蔵」とは、江戸市中の「品川寺」、「東禅寺」、「太宗寺」、「真性寺」、「霊巌寺」、「永代寺」の6か所に建てられた「地蔵菩薩坐像」です。<br />&#9335; 「へちま地蔵」<br />「へちま供養」は、旧暦8月15日の十五夜の日に執り行われます。この日に、「へちま地蔵」に祈願すれば喘息に効用があるというもので、へちま地蔵の前にはヘチマが供えられます。「へちま供養」は、明治初年に、痰、咳、喘息に苦しむ人々のためにへちま加持祈祷の法要をしたのが始まりとされる。ちなみに、「へちま」には、せき、たん、ぜんそく、心臓病、むくみ、小便不利、美容・美肌、腹痛などに対して薬効があることは、すでに科学的にも証明されています。<br />&#9336; 「うかがい地蔵」<br />「うかがい地蔵」は、「檀家に伺う」という意味からその名がついたそうです。数体のお地蔵さまが檀家の間を代わる代わる巡っていたといわれている。自分の願いが叶うか、おうかがいをたてながらお地蔵さまを持ち上げ、軽く感じれば願いは叶い、重く感じれば成就は難しいとされているそうです。<br /><br />《18_東叡山寛永寺の子院:「養寿院」》<br />「浄名院」の次は、東叡山寛永寺の子院「養寿院」です。「浄名院」の「山門」出て横断ほどを渡り160mほど直進すると、道路の反対側に「日展会館」がありその角を右折し10m進むと左手に「養寿院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。ただし、お寺の境内と庭園は見ることができます。「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ある子院とは違い、「上野桜木から上野公園」にかけて4か所に点在している一つです。そして「寛永寺輪王殿」の裏手の子院に比べて、庭園一つをとっても見るべきものはたくさんあります。「養寿院」の第一印象は、木製の塀に白い漆喰の壁があり、きれいな外観と言う感じでした。中に入るとよく手入れされた石庭と池には沢山の錦鯉がおよいでいました。なかなかこぎれいで整備されています。それと境内社と言っていいのか分かりませんが、「笠森稲荷」もありました。「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の子院と比べて、見るべきもがあります。<br />【東叡山寛永寺の子院「養寿院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0002 東京都台東区上野桜木1-15-3<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅北口から徒歩6分450m<br />&#9334; 「養寿院」の歴史<br />開祖は「第一世権大僧都廣海和尚」で、寛永年間に創建しました。本尊は「阿弥陀如来」です。<br /><br />《19_東叡山寛永寺の子院:「津梁院」》<br />いよいよ最後の東叡山寛永寺の子院である「津梁院」に向かいます。「養寿院」の「山門」を出て左方向に60mほど進むと正面に「津梁院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「津梁院」は、19か所ある「東叡山寛永寺」の一つです。<br />「津梁院」は、外見から判断すると今までの子院と比べて、本堂や墓地も大きく、普通のお寺の様相を呈しています。墓地へはいる入口の門の所に、かわいらしいお地蔵さんが飾られていたのが印象的です。<br />【東叡山寛永寺の子院「津梁院」の概要】<br />&#9332; 所在地…〒110-0002 東京都台東区上野桜木1-14-29<br />&#9333; アクセス…JR「鴬谷」駅北口から徒歩6分500m<br />&#9334; 「津梁院」の歴史<br />「津軽土佐守伸義」が寛永初期に創建しました。本尊は「阿弥陀如来木像」です。<br /><br />これで今回の寛永寺とその子院を巡る旅は終了です。あとは、もと来た道を戻り右方向に道なりに進むとJR「鶯谷駅」北口に着きます。駅の途中にJRの高架橋を通ると色々な電車が通過するのを眺めることができ、思わず童心にかえりました。<br />

寛永寺とその19の子院の散策とその途中にある寺院・史跡等もいくつか合わせて巡ってみました。

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2023/11/03 - 2023/11/03

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2023/11/03

  • 北千住発(09:06)JR常磐快速⇒日暮里(09:16)山手線に乗り換え⇒鶯谷駅(09:18)

  • JR鶯谷駅⇒東叡山寛永寺子院:「寒松院」

この旅行記スケジュールを元に

「寛永寺」は、江戸時代には36坊の子院から成る大規模な寺領を誇るお寺でした。しかし、現在は、約半分の19の子院しか残っていません。「寛永寺」へ行くだけではその偉大さと良さを詳しく知ることができないので、その19の子院を訪ねてみることを思い立ちました。そうすれば、「寛永寺」の歴史と成り立ちをより良く理解できるからと思ったからです。そして、その途中に寺院や名所旧跡があったので、せっかくですから立ち寄ってみました。
当日は、JR「上野駅」とJR「鶯谷駅」を利用する二つのルートがありましたが、JR「鶯谷駅」南口からの方が寛永寺と点在している子院に近いので、JR「鶯谷駅」で下車しました。JR「鶯谷駅」の南口の狭い駅前ロータリーの改札口を出て右方向に進みます。すると横断ほどがありますので、それを反対側に渡り、右折し「台東区立忍岡中学校」沿いに「新坂」を120mほど上って行きます。横断歩道がありますので、それを渡り最初の角を左折すると、道路の右手に「東京国立博物館」があり、左手の一角には「寛永寺」の15の子院が密集しています。本来であれば「寛永寺」を最初にまわるのが常道かもしれませんが、効率的に回りたいのであえてこのルートを選択しました。ちなみに、JR「上野駅」から来ると「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に15か所あります。

【私が散策したお薦め順路】
スタート地点:JR「鶯谷駅」南口⇒最終地点:JR「鶯谷駅」北口
①東叡山寛永寺子院:「寒松院」⇒②東叡山寛永寺子院:「林光院」⇒③東叡山寛永寺子院:「現龍院」⇒
④東叡山寛永寺子院:「春性院」⇒⑤東叡山寛永寺子院:「修禪院」⇒⑥東叡山寛永寺子院:「泉龍院」⇒
⑦東叡山寛永寺子院:「吉祥院」⇒⑧東叡山寛永寺子院:「福聚院」⇒⑨東叡山寛永寺子院:「真如院」⇒
⑩東叡山寛永寺子院:「見明院」⇒⑪東叡山寛永寺子院:「本覺院」⇒⑫東叡山寛永寺子院:「元光院」⇒
⑬名所・旧跡①_「殉死者の墓」⇒⑭東叡山寛永寺子院:「覺成院」⇒⑮東叡山寛永寺子院:「等覺院」⇒
⑯名所・旧跡②_「輪王寺両大師堂」⇒⑰東叡山寛永寺子院:「護國院」⇒⑱東叡山寛永寺子院:「圓珠院」⇒
⑲「寛永寺」⇒⑳名所・旧跡③_浄名院⇒㉑東叡山寛永寺子院:「養寿院」⇒㉒東叡山寛永寺子院:「津梁院」

《01_東叡山寛永寺の子院:「寒松院」》
最初は、「寒松院」です。横断歩道を渡り右折し、30m進むと左手に「寒松院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「寒松院」は、19か所ある「東叡山寛永寺」の一つです。そして、これらの子院は「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所あります。
「寒松院」は、JR「鴬谷」駅から来ると一番近い「寛永寺」の子院です。そしてこの一角にある子院の中で、比較的規模も大きく、「正門」前の階段を上がった所には、小さな、手入れの行き届いた「庭園」、「石灯籠」そして「本堂」があります。京都の三条や四条の大通りから入った通りに突然現れる小さなお寺を思い起こさせました。こんな街中にあるんだと感じたのが思い起こされます。ただ、非公開のため中に入れないので何とも言えませんが、「本堂」を入った奥には、「池泉庭園」か「枯山水庭園」か「露地庭園」などの素敵な庭園があるかもしれませんね。また、文化財等の史跡として、藤堂家墓所、宝篋印塔型墓石14基、灯籠12基があるということです。一日も早く一般に公開してくれるといいのですが。
【東叡山寛永寺の子院「寒松院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-11
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分200m
⑶ 「寒松院」の歴史
寒松院は、津藩主「藤堂高虎」の法名をそのまま寺名にしたもので、1627年(寛永4年)に「徳川家康」を祀る上野東照宮の別当寺として開基されました本尊は、「阿弥陀如来」です。
⑷ 文化財史跡
① 藤堂家墓所(台東区有形文化財)
② 宝篋印塔型墓石(供養塔を含む)14基
③ 灯籠12基

《02_東叡山寛永寺の子院:「林光院」》
「寒松院」に隣接しているのが「林光院」で距離にして徒歩1分30mほどのところに「林光院」の「正門」があります。「林光院」は、“大きな石燈籠と葵の御紋が異彩を放っています。「寒松院」同様にここも残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。規模的には、「寒松院」と同じくらいの規模で、この一角にあるお寺としては大きい方です。また、他の子院を探すため反対側の路地を歩いていると裏口もありました。「林光院」に行ってまず驚いたのは、「表門」を上る階段の右側には、大きな「石灯籠」が置かれていました。この「石灯籠」には、「東叡山大猷院殿尊前慶安4年12月20日」と刻まれています。「徳川家光」の一周忌に、諸国大名から「大猷院殿」に寄進された「石灯籠」です。戦後の「寛永寺」再建の際の寄付の返礼として贈られました。「林光院」にある「石灯籠」もそのうちの一つです。「林光院」の「表門」は、徳島藩の中屋敷御庭仕切門を移築したもので、歴史ある貴重な建造物です。昭和30年 (1955年)に移築されました。「庭園」は、よく手入れされていますが感激するほどのものではありませんでした。
【東叡山寛永寺の子院「林光院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-9
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分230m
⑶ 「林光院」の歴史
開基は、「宣雄大僧都」で江戸初期に創建しました。御本尊は、「阿弥陀如来」です。脇侍は、「観音菩薩」と「勢至菩薩」が安置されています。

《03_東叡山寛永寺の子院:「現龍院」》
「林光院」の次は「現龍院」です。「林光院」から120mほど直進すると一つ目の角がありますので、それを左折し、30mほど進むと角がありますのでそれを左折します。30mほど進むと右手に「現龍院」の「正門」があります。ここも残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「現龍院」は、「東叡山寛永寺」の子院の中では、比較的奥行きがあります。そして本堂までの参道の両側には、よく手入れされた木々があり緑の小道になっています。「現龍院」で一番不思議に思ったのは、表門の所にある謎のオブジェです。私は、おそらく郵便受けだと思うのですが?
【東叡山寛永寺の子院「現龍院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-25
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩4分300m
⑶ 「現龍院」の歴史
開祖は、「権大僧都什誉師」が寛永初年に創建しました。御本尊は、「阿弥陀如来」です。

《04_東叡山寛永寺の子院:「春性院」》
「現龍院」の右斜め前の反対側にあるのが、「春性院」です。ここも残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「春性院」も、白い塀と木製の瓦ぶきの表門が調和してきれいに見えます。特に、表門から木々に囲まれて見える大きな石燈籠が歴史を感じ印象的でした。
【東叡山寛永寺の子院「春性院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-7 
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩6分450m
⑶ 「春性院」の歴史
開基は、「広海僧正」で、西暦1680年(延宝8年)の創建になります。本尊は、「阿弥陀如来」(厨子入り木像)です。

《05_東叡山寛永寺の子院:「修禪院」》
「春性院」のすぐ先にあるのが「修禪院」です。「修禪院」も残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。情緒ある木製の表門から見える「修禪院」の本堂は、木々の間から顔を出しています。その本堂は、他の子院と比べお寺の雰囲気を醸し出しています。「木を見て森をみず」、中に入ってみないと本当の良さは分かりませんね。そして、木製の塀と表門が郷愁を誘います。
【東叡山寛永寺の子院「修禪院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-24
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩4分300m
⑶ 「修禪院」の歴史
開祖は、「権僧正長清」が寛永初年に創建しました。

《06_東叡山寛永寺の子院:「泉龍院」》
「修禪院」の少し先の左手に「泉龍院」があります。やはり残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「表門」から中を見ると白い小石を敷き詰めた庭園がきれいで印象的です。「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ありますが、その中では一番きれいな庭園だと思います。
【東叡山寛永寺の子院「泉龍院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-23
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分270m
⑶ 「泉龍院」の歴史
開基は、「権大僧都慶倫」で、寛永初期に創建されました。本尊は、「阿弥陀如来」です。

《07_東叡山寛永寺の子院:「吉祥院」》
「泉龍院」から進むと右手に「吉祥院」の「正門」があります。ここも残念ながら非公開のため「吉祥院」からしか中を見ることができません。「吉祥院」は、小さなお寺です。「正門」は昔ながらの木製の造りです。小さな門構えから見える小さな庭園と白い塀がマッチしていました。「正門」に架かっている「白いライト」に何となく安堵感を覚えました。
【東叡山寛永寺の子院「吉祥院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-21 
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分250m
⑶ 「吉祥院」の歴史
開基は、「権大僧都詮長」で、1624年(寛永初年)に水戸侯及び徳川頼房の寄進により創建されました。本尊は、「釈迦如来」です。

《08_東叡山寛永寺の子院:「福聚院」》
「吉祥院」をさらに進むと左手に「福聚院」の「正門」があります。またしても非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。残念ながら庭も小さく、「表門」の寺社名の銘板がなければ、これが「福聚院」かと分からないでしょう。一見するとお寺かなあと言う感じでした。非公開なので中に入らないと本当の良さは分かりませんが、少々がっかりしました。でも前庭には、石が配置され、木々もよく手入れがされていました。
【東叡山寛永寺の子院「福聚院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-13 
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩4分280m

《09_東叡山寛永寺の子院:「真如院」》
次が「真如院」です。「福聚院」のすぐ先の左手に「真如院」の「正門」があります。ここも残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。東叡山寛永寺の子院の中では、美しい外観の表門があります。こじんまりとした庭園で手入れが行き届いていますが、率直に言って一般のお寺の庭園のように趣はありません。そして表門に架かっている木製の寺社名は、何か温かみが伝わってきます。
【東叡山寛永寺の子院「真如院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園15-17 電話:03-3821-5074
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩2分180m
⑶ 「真如院」の歴史
「真如院」は、1626年(寛永3年)に紀伊徳川家が創建するため、比叡山雙嚴院から転住したものです。開祖は比叡山雙嚴院より転任した「権僧正豪俔」で、本尊は「阿弥陀如来 (木像)」です。
⑷ 文化財史跡
① 北白川宮能久親王建立銘(明治15年)のある、地蔵様の石仏一体
② 元禄年間の銘のある、庚申様の石仏(高さ1m50㎝)一体

《10_東叡山寛永寺の子院:「見明院」》
「見明院」は、「真如院」の先を右折し、道なりに進むと「見明院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「見明院」は、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ある子院の中では、比較的規模の大きいお寺です。表門から見える東屋風の建物と木々の間から顔を見せる大きな石燈籠が印象的でした。
【東叡山寛永寺の子院「見明院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-18 
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩2分190m
⑶ 「見明院」の歴史
「見明院」は、「権僧正盛憲」が創建したと言われています。御本尊は「千手観音菩薩」です。

《11_東叡山寛永寺の子院:「本覺院」》
「見明院」から上野駅方向に110mほど進むと、右手に「本覺院」の「正門」があります。「本覺院」では、一応本堂の前まで入ることができました。「本覺院」は、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所の子院の中では、お寺らしい「本堂」があります。本堂の前の庭園には、石燈籠、法華塔、石塔、それに百度石、更に境内社と見受けられる「お稲荷さん」が二社ありました。
【東叡山寛永寺の子院「本覺院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-22 
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩3分220m
⑶ 「本覚院」の歴史
「本覚院」は、江戸城内紅葉山山王社移転に伴い、東叡山寛永寺子院・山王社別当として1637年 (寛永14年)に創建されました。御本尊は「釈迦如来」です。

《12_東叡山寛永寺の子院:「元光院」》
“ベールに包まれた東叡山寛永寺の子院~元光院:前庭にある大きな石燈籠が目を引きます~”
「本覚院」のすぐ隣に「元光院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。訪れた当日は、「正門」が固く閉ざされていました。あまり見るものがなさそうな感じです。あえて無理やり評価するなら前庭にある石燈籠くらいです。
【東叡山寛永寺の子院「元光院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-24
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩4分300m
⑶ 「元光院」の歴史
開基は「権僧正長清」で、寛永年間 (1624年~1643年)に創建しました。本尊は、「阿弥陀如来」です。

【名所・旧跡①_「殉死者の墓」】
「元光院」の道路の反対側に、「殉死者の墓」があります。「殉死者の墓」は、慶安4年(1651年)4月20日に三代将軍「徳川家光」が死去した際に、その後を追って「徳川家光」の家臣5名が殉死しました。そのうち、家臣4名の墓が「現龍院」の墓地の中にあり、「殉死者の墓」という史跡となっています。「寛永寺」の子院である「現龍院」が管理をしています。残念ながら「現龍院」の墓地は施錠されていて自由には参拝できませんでした。寛永寺の子院は私の知る限りでは19ケ所あります。何故、「現龍院」の墓地にあるのか疑問に思ったので、家に帰って調べたところ、「現龍院」は、「春日局」が夫の「稲葉正成」の菩提のために「天海大僧正」と相談して建立したお寺で、実は、「春日局」の孫である「堀田正盛」は、「現龍院」と深い関係があるのでここに埋葬されたそうです。今では、殉死するなど到底考えられないことですが、昔の日本ではそれが美徳とされたのでしょうか。いささか寂しい感じもします。
01_【「殉死者の墓」の一口メモ】
所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園18
02_【「殉死者の墓」へのアクセス】
⑴ JR「上野駅」公園口から徒歩6分450m
⑵ 東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」6番出口から徒歩12分900m
⑶ 京成本線「京成上野駅」正面口から徒歩14分1km

《13_東叡山寛永寺の子院:「覺成院」》
「元光院」の前の通りを上の方向に向かうと、すぐ一つ目の角があるので右折します。20mほど進むと右手に「覺成院」の石段があります。実は、この「覺成院」だけなかなか見つかりませんでした。というより普通の民家と思い通り過ぎてしまいました。「正門」は閉まっているし、「正門」前も全くお寺らしくありません。ただの大きな住宅と言う感じです。この近辺の子院を訪ねるついでにチラッと見ればいいのではないでしょうか。
【東叡山寛永寺の子院「覺成院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-2
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩5分450m
⑶ 「覺成院」の歴史
開基は、「忠俊」で、1634年 (寛永11年)に雅楽頭「酒井忠世公」によって創建されました。本尊は、「薬師如来」です。

《14_東叡山寛永寺の子院:「等覺院」》
「覺成院」の先の角を右折すると左手に「等覺院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「 」からしか中を見ることができません。ただし、「等覺院」は、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ある子院の中では、「本堂」付近まで入って行くことができ、庭園もかなり整備されていています。驚いたことに表門から本堂までの間の庭園ばかりでなく、本堂に突き当りその左側にこれまた小さいながら整備された庭園がありました。近隣の子院と比較しておそらくベストワンと言っても過言ではないでしょう。さらに、庭園の中には、石燈籠、石仏、手水舎、宝塔そして天水桶もありました。
【東叡山寛永寺の子院「等覺院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-3
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩5分460m

《15_東叡山寛永寺の子院:「東漸院》
それでは、このエリアにある最後の子院の「東漸院」へ行ってみたいと思います。「等覺院」の斜め右に「東漸院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。寺社名の銘板がないとこれがお寺と言う感じがしました。表面だけ見て評価するわけにはいかないのですが、どう見ても普通の家のような感じです。ただし、白い石製の門と石畳が印象的でした。子院も現代の波の流れに飲み込まれ変貌してしまうのですかね。
【東叡山寛永寺の子院「東漸院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園16-3
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅南口から徒歩6分450m
⑶ 「東漸院」の歴史
1649年 (慶安2年)に水谷伊勢守勝隆が権僧正宣祐の為に小院を創建しました。本尊は、「薬師如来」です。

【名所・旧跡②_「輪王寺両大師堂」】
「東漸院」の次は、二人の「大僧正」を祀る「輪王寺両大師堂」へ向かいました。「東漸院」から道を戻ると目の前に、立派な建物がそびえ立っています。「寛永寺輪王殿」で、並ぶようにして「輪王寺両大師堂」があります。実は、これが「輪王寺両大師堂」かと思い、間違えて、「寛永寺輪王殿」に入ってしまいました。「寛永寺輪王殿」の山門もすごく立派で奥に大きな建物があったので、これが「輪王寺両大師堂」かと思い入ってみると「寛永寺輪王殿」でした。「寛永寺輪王殿」と「輪王寺両大師堂」の間に小さな門がありそこからどちらへも通行可能でした。実は、この門はだだの門でなく、「幸田露伴旧宅の門」で、谷中にあったものをここに移築したものです。さて、もう一度外へ出て「輪王寺両大師堂」の山門から入りました。「山門」の柱の右側には「両大師」、左側には「東叡山寛永寺 開山堂」の文字が刻まれていました。何故かと言うと、「輪王寺両大師堂」は、東叡山の開山である「慈眼大師天海大僧正」と「慈惠大師良源大僧正」の二人をお祀りしているからです。そのことから、一般に「両大師」と呼ばれています。入るとすぐ右手に「阿弥陀堂」があり、その中には三体の像が安置されていました。左から「地蔵菩薩立像」、真ん中が「阿弥陀如来坐像」そして左が「虚空蔵菩薩坐像」です。その隣には「鐘楼」、「手水舎」そして「本殿」があります。また、「本堂」に向かって左手には二千年以上の歴史ある古代「大賀蓮」の植え込みもありました。「輪王寺両大師堂」は、「上野公園」からほんの少し離れているので、静かで落ち着ける場所になっています。「輪王寺両大師堂」の見どころはまだまだ沢山あります。「輪王寺両大師堂」の見どころでまとめてありますのでご覧ください。
01_【「輪王寺両大師堂」の一口メモ】
所在地:〒110-0007 東京都台東区上野公園14-5 電話:03-3821-4050
02_【「輪王寺両大師堂」へのアクセス】
①JR「上野駅」公園口から徒歩3分280m
②JR「鶯谷駅」南口から徒歩7分550m
③京成電鉄「京成上野駅」正面口から徒歩10分750m
03_【「輪王寺両大師堂」の見どころ】
⑴ 「山門」
「山門」のがいつ建てられたのかの建立年は不明です。「山門」の建築様式は瓦葺の薬医門です。また、屋根の瓦には、「天海僧正」が使用していた「二引き両の紋」が施されています。そして、「山門」の右側には「両大師」、左側には「東叡山寛永寺 開山堂」の文字が刻まれていました。
⑵ 「銅燈籠」
参道を歩いていると立派な「銅燈籠」がありました。この「銅燈籠」は、江戸時代初期に建立されたもので、もともと「大猷院殿廟」にあったものです。「銅燈籠」には、「三つ葉葵」(徳川家紋)とニ引き両の紋(天海の紋)が刻まれていました。
⑶ 「手水舎」
「手水舎」は、江戸時代に建立され、建築様式は銅板葺の切妻造です。龍が勢いよく水を吐き出していました。「水盤」は青銅製で四隅を獅子が支えていました。
⑷ 「鐘楼」
「鐘楼」は、建立年は不明で、建築様式は瓦葺の八脚の切妻造になっています。もともとこの「鐘楼」には慶安4年(1651年)鋳造の「梵鐘」が吊るされていたそうですが、現在は「阿弥陀堂」内に置かれています。
⑸ 「本堂」
「本堂」は、戊辰戦争、関東大震災、東京大空襲等の苦難を乗り切ったにも関わらず、昭和64年(1989年)の火災で焼失してしまいました。現在の「本堂」は、平成5年(1993年)に再建されたものです。建築様式は、瓦葺の 入母屋造で、本尊の「阿弥陀如来像」、「慈眼大師坐像」と「元三大師画像」が安置されています。
⑹ 「阿弥陀堂」
「阿弥陀堂」は、入口の門の近く右側に建っています。建立年は不明で、建築様式は、瓦葺、漆喰壁の宝形造です。「阿弥陀堂」の中には三体の像が安置されていました。左から「地蔵菩薩立像」、真ん中が「阿弥陀如来坐像」そして左が「虚空蔵菩薩坐像」です。
⑺ 「幸田露伴旧宅の門」
「輪王寺両大師堂」の境内にあり「輪王寺両大師堂」と「輪王殿」を結ぶ門が「幸田露伴旧宅の門」です。谷中にあったものをここに移築しました。瓦葺の簡素な腕木門です。
その他に、山門を入ってすぐ左手の方に「法華塔」、「地蔵堂」もあります。

《16_東叡山寛永寺の子院:「護國院」》
「輪王寺両大師堂」の次は、東叡山寛永寺の子院「護國院」へ向かいます。徒歩11分、距離にして800mほどです。「輪王寺両大師堂」のを出て、「都道452号線」を右方向に620mほど進みます。「東京国立博物館」の前を通り、「東京藝術大学」の先の十字路を左折します。100mほど道沿いに直進すると「護國院」の「正門」が左手にあります。東叡山寛永寺の子院は、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に15か所ある子院と、「上野桜木から上野公園」にかけて4か所に点在している子院とに大きく大別され、「護國院」は、「上野桜木から上野公園」にかけて4か所に点在するその一つです。私が見た19か所の東叡山寛永寺の子院の中で一番のお薦めです。「護國院」は、寛永2年(1625年)、天海僧正が東叡山寛永寺を開山したのと同時に、「天海僧正」の命により東叡山寛永寺最初の子院として「生順」が創建したものです。宝永6年(1709年)に現在地に移転し、「谷中七福神」の「大黒天」となっています。19か所の子院の中で、一番見るべきものがたくさんあるお寺です。「本堂」も大きく、能の舞台のような「楽堂」、「手水舎」、「大黒天像」、「お御籤とお御籤掛け」など盛りだくさんです。
【東叡山寛永寺の子院「護國院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0007 東京都台東区上野公園10-18
⑵ アクセス…東京メトロ「根津」駅1番出口から徒歩8分600m

《17_東叡山寛永寺の子院「圓珠院」》
「護國院」の次は、東叡山寛永寺の子院「圓珠院」へ向かいます。「護國院」の「正門」を出て、来た道を戻ります。180mほど道なりに進むと、左手に「圓珠院」の「正門」があります。残念ながら非公開ですが、本堂の前までは拝観することができます。「圓珠院」は、19か所ある「東叡山寛永寺」の一つです。しかし、「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ある子院とは違い、「上野桜木から上野公園」にかけて4か所に点在しています。そして「寛永寺輪王殿」の裏手の子院に比べて、庭園一つをとっても見るべきものはたくさんあります。「圓珠院」は、庭園の素晴らしさに目を奪われます。庭園はよく整備されていて、「石燈籠」も4基あり、その他に「宝塔」、「洗心台」もありました。何よりも庭園の美しさと庭園の中にある大きな枝振りの松が印象的でした。
【東叡山寛永寺の子院「圓珠院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0002 東京都台東区上野桜木1-5-3
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅北口から徒歩11分850m
⑶ 「圓珠院」の歴史
開基檀家は長州(萩)藩第二代藩主毛利綱廣公であり、1652年(承応元年)に創建しました。本尊は「薬師如来」です。

★【本題:寛永寺】
さて、次は本丸の「寛永寺」です。「圓珠院」の「正門」を出て左折し、220mほど直進すると正面に「寛永寺」が目の前に現れてきます。
「寛永寺」は天台宗の「別格大本山」のお寺で、正式名称は「東叡山寛永寺」です。ちなみに、「東叡山」は「東の比叡山」の意味で、平安時代に桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖「伝教大師最澄上人」が開いた「比叡山延暦寺」が、京都御所の鬼門に建立されたことにならったものです。また、「寛永寺」は創建時の元号を使っています。かつては元号を冠するには朝廷の許可が必要でした。延暦7年(788年)創建の「延暦寺」を皮切りに、京都の「仁和寺」や鎌倉の「建仁寺」と「建長寺」など、勅許を得た「元号寺」は数えるほどしか残っていません。それでは、ここで「寛永寺」の歴史と概要を紐解いてみると、寛永2年(1625年)に、江戸城の鬼門(東北)にあたる「上野の山」に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、「徳川家康」、「徳川秀忠」、「徳川家光」の3代にわたる将軍から深く信奉され、幕府の指南役として活躍した「慈眼大師天海大僧正」によって建立されました。その総本堂にあたる「根本中堂」は、元禄11年 (1698年)に現在の上野公園内「大噴水」(竹の台噴水)に建立されました。その後、第4代将軍「川家綱」の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。以後は5代将軍「徳川綱吉」、8代将軍「徳川吉宗」、10代将軍「徳川家治」、11代将軍「徳川家斉」、13代将軍「徳川家定」の豪華な霊廟が、次々と造営されました。幕末、最後の15代将軍「徳川慶喜」は、鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、「寛永寺」で謹慎生活を送りました。江戸城の無血開城までの2カ月間を過ごした「葵の間」には、今でも愛用の品などが残されている。「徳川慶喜」は神道式の葬儀を望んだため、谷中霊園内の寛永寺墓地にある一橋家墓所の隣で永眠しています。そして、東叡山主を皇室(「輪王寺宮」)から迎えたことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。慶応4年年(1868)、「上野戦争」の際に焼失してしまいた。その後、明治12年 (1879年)に「川越喜多院」の本地堂を山内子院の「大慈院」(現在の「寛永寺」)の地に移築し、再建したのが現在の「根本中堂」になります。御本尊は、「伝教大師最澄上人」がみずから彫ったと言われる「薬師瑠璃光如来像」(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしています。また、「東叡山寛永寺」は、かつては、「清水観音堂」、「不忍池辯天堂」、「 五重塔」、「開山堂」、「大仏殿」など36もの子院などを有する大寺院でした。「寛永寺」の境内は「上野公園」の土地を中心に30万5000坪に及び幕府から与えられた寺領は小藩の大名に匹敵する1万5000石を誇りました。
「本堂」内も見学することができます。しかし、秘仏のため「薬師瑠璃光如来像」は拝観することはできませんでしたが、その代わり、堂内には御本尊さんの他に、「日光・月光菩薩像」や「十二神将像や四天王像」など迫力ある仏像が安置され見ごたえ十分でした。パワーをもらったうえに、無料なので得した気分でした。
本堂から出て上を眺めると「瓦」には「寛永寺」の文字が施され、「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。また、門にも「三つ葉葵」が装飾されていました。上野公園から少し歩きますが、途中にも歴史的建造物やモニュメントもありますので、必見の場所です。「根本中堂」の見どころ等の情報は下に箇条書きにしてありますので、合わせてご覧ください。

01_【「寛永寺」の一口メモ】
⑴ 所在地 〒110-0007 東京都台東区上野公園14 
⑵ 問い合わせ 寛永寺 電話:03-3821-1259
⑶ 開門時間 9:00〜17:00
⑷ 本堂の拝観時間 10:00〜16:00

02_【「寛永寺」へのアクセス】
⑴ 電車を利用した場合
① JR「上野駅」公園口から徒歩13分1km
② 京成電鉄「京成上野駅」池の端出口から徒歩18分1.4km
③ 東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」から徒歩18分1.4km
④ JR「鶯谷駅」北口から徒歩8分650m
⑵ 台東区循環バス「東西めぐりん」を利用した場合
① [台東区役所] ⇒[永寿総合病院行]≪東西めぐりん≫「寛永寺バス停」下車から徒歩すぐ

03_【「寛永寺根本中堂」の見どころ】
⑴ 「本堂」(根本中堂)
天台宗の寺院では、比叡山にならって「本堂」を「根本中堂」と呼ぶことがあります。「寛永寺」の「根本中堂」は、以前は上野公園の噴水広場にありましたが、幕末の上野戦争で焼失し、明治時代に現在の場所に再建されました。そして、国の登録有形文化財に指定されている「本堂」(根本中堂)には、国指定重要文化財の「薬師瑠璃光如来像」が安置されており、「寛永寺」の秘仏となっています。「本堂」(根本中堂)の「木鼻」には、「獏」と「獅子」そして「蟇股」には「鶴」が彫刻されていました。また、「瓦」には「寛永寺」の文字が刻まれていました。「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。それもそのはず、「寛永寺」は徳川家の菩提寺なので、徳川家の「家紋」を「寺紋」として使っているからです。
⑵ 「鐘楼」
「鐘楼」は天和元年(1681年)に建立され、「高さ」が177.2cm、鐘の「口径」は91.8cmの「銅鐘」です。この「鐘楼」は歴史があり、徳川幕府4代将軍「徳川家綱」の1周忌に奉献されたものだそうです。この「鐘」は、もともと「徳川家霊廟」の「鐘楼」に吊るされていましたが、明治時代に「寛永寺根本中堂」に移設されました。そして、「「寛永寺」の除夜の鐘は、境内にある「鐘楼」と、旧境内である上野公園内に残る「時鐘堂」の両方で撞かれます。ちなみに、上野公園にある「上野大仏」の近くある「時鐘堂」は、大晦日以外もいまでも毎日3回時を告げている時の鐘です。
⑶ 「了翁禅師堂」
「寛永寺根本中堂」の境内には「了翁禅師堂」という「お堂」があります。「了翁禅師」は、江戸時代前期の僧侶で秋田県出身です。貧しい農家に生まれ、11歳の若さで出家し、修行をしながらたくさんの書物を集めていたそうです。そして、諸国を巡るうちに霊薬の処方を夢に見たことから、不忍池付近の薬屋で「錦袋円(きんたいえん)」と命名した薬を売ります。その利益で「了翁禅師」は、難民救済や「不忍池」に経堂を建てて文庫を創設し、さらには「寛永寺」の境内に「勧学寮」と「文庫」を建立しました。何とこれが日本で最初に一般公開された「図書館」と言われています。
⑷ 二つの大きな「鬼瓦」
「寛永寺根本中堂」の境内には、大きな「鬼瓦」が二つありました。どうやらこの「鬼瓦」は、もともと「寛永寺」の「旧本坊表門」と「根本中堂」の鬼瓦据えられていたものらしいです。特に、向かって右側にある「鬼瓦」は、現在「黒門」と通称される国の指定重要文化財である「寛永寺旧本坊表門」に据えられていたものです。「旧本坊表門」は、寛永元年(1624年)に「天海大僧正」により建てられたもので、歴代の「輪王寺宮」が住んだ場所の門として知られていました。昭和12年(1937年)に、現在の「東京国立博物館」の地から「両大師堂」の隣に移築されています。
① 「旧本坊表門」の「鬼瓦」 ② 「根本中堂」の鬼瓦
⑸ 「銅燈籠」
大きな「銅燈籠」が2基ありますが、残念ながら。記銘が見当たりません。元はどこにあったのか所在は不明です。
⑹ 「石燈籠」
大きな「銅燈籠」ばかりでなく、「社務所」の前には大きな「石燈籠」が1基のみあります。この「石燈籠」は南部重直盛岡藩主が奉献したものです。「石燈籠」には、「奉献石燈籠両基 武州東叡山 大猷院殿尊前 慶安四年辛卯歳十二月廿日 従五位下南部山城守源重直」と刻まれていました。
⑺ 「水盤」
「水盤」は元禄11年銘がきされています。コケが薄らと外側を覆い歴史を感じます。
⑻ 「慈海僧正墓」(都旧跡)
「慈海僧正墓」は「寛永寺根本中堂」に向かって右側にあります。「了翁禅師堂」に比べると、「学頭」の割には小さく、質素なものです。「慈海僧正」は、「寛永寺一山」を統括する「東叡山凌雲院」の4代目の学頭でした。「慈海僧正」は、「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻などの著作があります。聖観世音菩薩像である墓石は、当初「凌雲院」境内墓地にありましたが、東京文化会館の建設のため「寛永寺」に移築されました。
⑼「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟」
「慈海僧正墓」の隣には、「墓」と「尾形乾山」を讃える「顕彰碑の写し」があります。「尾形乾山」は江戸時代を代表する画家であった「尾形光琳」の弟で、絵師や陶芸家として活躍した人物です。入谷に開いた入谷窯の作品は「入谷乾山」として高く評価されています。光琳を敬慕する江戸時代後期の絵師の「酒井抱一」の手によって探り当てられ、この「乾山深省蹟」顕彰碑が建てられたといわれています。
⑽ 「上野戦争碑記」
ひときわ大きく、誰の眼にもとまるのが「上野戦争碑記」です。幕末の明治維新のとき、現在の上野公園の一帯では、幕臣たちが結成した「彰義隊」と「明治政府軍」との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる「阿部弘蔵」が、「上野戦争」の経緯を記したものです。寛永寺はこの上野戦争で被災し、明治時代初期に敷地の大部分は上野公園となりました。
⑾ 「虫塚」
「虫塚」は、伊勢長島藩主であった増山雪斎が写生に使った昆虫の慰霊のために建てた碑です。「増山雪斎」は、江戸の文人「大田南畝」や大坂の豪商「木村兼葭堂」など広く文人墨客と交流を持ち、写実的な画法で多くの花鳥画を描きました。中でも虫類写生図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」は、指定有形文化財として指定されています。その昆虫も碑を建ててもらえるとは幸せですよね。

【名所・旧跡③_浄名院】
「寛永寺」の山門を出て、右方向に90mほど進むと突き当りに信号があります。その信号を渡れば「浄名院」の「山門」があります。「浄名院」の境内に入ると欧米の外国人の観光客が目立ちます。やはりへちま地蔵、八万四千体地蔵など欧米の外国人の観光客にとっては興味を引くものなのでしょうか。

《「浄名院での」六地蔵めぐりのポイント》
★「六地蔵巡り」と書かれた「白いのぼり旗」を順番に回ると、「浄名院」の「地蔵尊」を「第一番」から「第六番」まで全て見て回ることができます。まず、「山門」を潜り左方向に進むと「地蔵めぐり一番」があります。それから「地蔵堂」の石柱を左方向に進むと「地蔵めぐり二番・三番」があり、それからは、塀沿いに右回りで進むと「地蔵めぐり六番」まで行くことができます。

「浄名院」は、天台宗の寺院です。「浄名院」の歴史と概要を紐解いてみると、天台宗寺院の「浄名院」は、「寛永寺36坊」の一つとしてとして「圭海大僧都」が開基となり、寛文6年(1666年)に「浄円院」として創建されました。享保8年(1823年)に寺号を「浄円院」から「浄名院」へ改めました。「山門」は歴史あるもので、享保年間(1716年-1735年)に建立されたものです。「浄名院」は、四代将軍」徳川家綱」の母「宝樹院」の菩提所として栄えました。そして、「浄名院」は、ぜんそくや病気平癒を祈願する「へちま加持祈祷会」で全国的に知られており、別名「へちま寺」とも呼ばれています。なお、旧8月15日の「へちま供養」には、せき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わうそうです。
また、1600坪を超える広い「境内」には、たくさんの「石地蔵尊」が所狭しと並べられています。これは、第38世「妙運大和尚」が、民衆の幸福と仏恩に報いるため、「八万四千体地蔵尊の建立」を発願されたもので、8万4千体地蔵尊の建立成就を目指し、現在も地蔵尊像の数は増え続けているそうです。
「境内」にある青銅製の大きな「地蔵菩薩坐像」は、かつて「江戸六地蔵第6番」の「地蔵菩薩像」があった「深川永代寺」が明治維新のとき廃寺になり、また、日露戦争の戦没者を弔うために、明治39年(1906年)に新たに建立されたものです。
見どころ等の情報については、下記に取りまとめてありますので、ご覧ください。

01_【「浄名院」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒110-0002 東京都台東区上野桜木2丁目6番4号 電話:03-5832-9511
⑵ 浄名院の概要 ①山号…東叡山 ②院号…浄名院 ③宗派…天台宗
⑶ 御本尊…阿弥陀如来・地蔵尊

02_【「浄名院」へのアクセス】
⑴ 電車を利用した場合
① JR「上野駅」公園口から徒歩15分1200m
② 京成電鉄「京成上野駅」池の端出口から徒歩19分1500m
③ 東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」7番出口から徒歩19分1500m
④ JR「鶯谷駅」北口から徒歩7分500m
⑤ 東京メトロ千代田線「根津駅」1番出口から徒歩約13分1000m
⑵ 台東区循環バス「東西めぐりん」を利用した場合
① [台東区役所] ⇒[永寿総合病院行]≪東西めぐりん≫「寛永寺」バス停下車徒歩2分110m
② [亀戸駅前] ⇒[上野公園]≪都バス:上26系統≫「上野桜木」バス停下車徒歩約1分80m

03_【「浄名院」の見どころ】
⑴ 「山門」
「山門」は、「山門」は歴史あるもので、享保年間(1716年-1735年)に建立されました。残念ながら、令和4年(2022年)に袖塀などが撤去されました。※現在は、改修保存中です。
⑵ 「八万四千体地蔵」
1600坪を超える広い「境内」には、たくさんの「石地蔵尊」が所狭しと並べられています。これは、第38世「妙運大和尚」が、民衆の幸福と仏恩に報いるため、「八万四千体地蔵尊の建立」を発願されたもので、8万4千体地蔵尊の建立成就を目指し、現在も地蔵尊像の数は増え続けているそうです。ちなみに、第38世「妙運大和尚」は、明治12年(1879年)に、古代にインドのアショカ王が、八万四千の石塔を世界各地に建立したと伝えられることにならい、八万四千体の石地蔵建立を発願したそうです。
⑶ 「江戸六地蔵」
「江戸六地蔵」は、明治39年(1906年)に新たに建立されたものです。この地蔵像は「江戸六地蔵」の第6番です。ちなみに、「江戸六地蔵」とは、18世紀初期に「京都六地蔵」に倣って江戸の出入口6箇所に置かれた「地蔵菩薩坐像」のことを言います。もともとは、千葉街道の出入口に位置する江東区富岡八幡宮「永代寺」にありましたが、明治政府の神道に傾倒する政策である「廃仏毀釈」、「神仏分離」により第6番の地蔵が失われたため、そして、」日清日露戦争の戦役者慰霊のためとして明治39年(1906年)に「浄名院」に復活したものです。ちなみに、「江戸六地蔵」とは、江戸市中の「品川寺」、「東禅寺」、「太宗寺」、「真性寺」、「霊巌寺」、「永代寺」の6か所に建てられた「地蔵菩薩坐像」です。
⑷ 「へちま地蔵」
「へちま供養」は、旧暦8月15日の十五夜の日に執り行われます。この日に、「へちま地蔵」に祈願すれば喘息に効用があるというもので、へちま地蔵の前にはヘチマが供えられます。「へちま供養」は、明治初年に、痰、咳、喘息に苦しむ人々のためにへちま加持祈祷の法要をしたのが始まりとされる。ちなみに、「へちま」には、せき、たん、ぜんそく、心臓病、むくみ、小便不利、美容・美肌、腹痛などに対して薬効があることは、すでに科学的にも証明されています。
⑸ 「うかがい地蔵」
「うかがい地蔵」は、「檀家に伺う」という意味からその名がついたそうです。数体のお地蔵さまが檀家の間を代わる代わる巡っていたといわれている。自分の願いが叶うか、おうかがいをたてながらお地蔵さまを持ち上げ、軽く感じれば願いは叶い、重く感じれば成就は難しいとされているそうです。

《18_東叡山寛永寺の子院:「養寿院」》
「浄名院」の次は、東叡山寛永寺の子院「養寿院」です。「浄名院」の「山門」出て横断ほどを渡り160mほど直進すると、道路の反対側に「日展会館」がありその角を右折し10m進むと左手に「養寿院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。ただし、お寺の境内と庭園は見ることができます。「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の一角に14か所ある子院とは違い、「上野桜木から上野公園」にかけて4か所に点在している一つです。そして「寛永寺輪王殿」の裏手の子院に比べて、庭園一つをとっても見るべきものはたくさんあります。「養寿院」の第一印象は、木製の塀に白い漆喰の壁があり、きれいな外観と言う感じでした。中に入るとよく手入れされた石庭と池には沢山の錦鯉がおよいでいました。なかなかこぎれいで整備されています。それと境内社と言っていいのか分かりませんが、「笠森稲荷」もありました。「寛永寺輪王殿」の裏手(北側)の子院と比べて、見るべきもがあります。
【東叡山寛永寺の子院「養寿院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0002 東京都台東区上野桜木1-15-3
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅北口から徒歩6分450m
⑶ 「養寿院」の歴史
開祖は「第一世権大僧都廣海和尚」で、寛永年間に創建しました。本尊は「阿弥陀如来」です。

《19_東叡山寛永寺の子院:「津梁院」》
いよいよ最後の東叡山寛永寺の子院である「津梁院」に向かいます。「養寿院」の「山門」を出て左方向に60mほど進むと正面に「津梁院」の「正門」があります。残念ながら非公開のため「正門」からしか中を見ることができません。「津梁院」は、19か所ある「東叡山寛永寺」の一つです。
「津梁院」は、外見から判断すると今までの子院と比べて、本堂や墓地も大きく、普通のお寺の様相を呈しています。墓地へはいる入口の門の所に、かわいらしいお地蔵さんが飾られていたのが印象的です。
【東叡山寛永寺の子院「津梁院」の概要】
⑴ 所在地…〒110-0002 東京都台東区上野桜木1-14-29
⑵ アクセス…JR「鴬谷」駅北口から徒歩6分500m
⑶ 「津梁院」の歴史
「津軽土佐守伸義」が寛永初期に創建しました。本尊は「阿弥陀如来木像」です。

これで今回の寛永寺とその子院を巡る旅は終了です。あとは、もと来た道を戻り右方向に道なりに進むとJR「鶯谷駅」北口に着きます。駅の途中にJRの高架橋を通ると色々な電車が通過するのを眺めることができ、思わず童心にかえりました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
3.5
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 徒歩

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