2024/03/12 - 2024/03/20
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午前中はメディチ家関連の教会などを歩き、ドゥオーモを経てバルジェッロ博物館へ。ルネサンス期の彫刻を見た後はたくさんの方のお墓のあるサンタ・クローチェ教会へ。そして最後にアルノ川を渡ってカルミニ教会へ行く予定です。
昨日までの美術館巡りと違って、ルネサンスが発展していく上で大きな役割を果たしたメディチ家の施設は調べれば調べるほどエピソードがたくさん出てきてノートにびっしり書き込んでいて、それを文章に起こすのにもかなりの時間がかかりました。
13世紀頃からフィレンツェで薬屋を営み財を成したメディチ家は(街中でも見られる紋章の赤い6つの球は丸薬を表しています)、14世紀末には銀行業で栄え主要な街に支店を置くまでになっていました。特にローマ教皇の管財人となりその財産の管理にあたり名声を高め、フランス王やドイツの諸侯にも融資をしていたそうです。
そのメディチ銀行の創始者がジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチで、銀行業の利益から毛織物業も起こしフィレンツェ市制にも関わり芸術を保護するパトロンとしても活躍しメディチ家の基礎を築きました。そしてフィレンツェの共和政の中で大きな力を持つようになった15世紀のコジモ・イル・ヴェッキオとその孫ロレンツォの2人の時が最も有力で、フィレンツェがルネサンスの中心地として栄えた時代でもあったのです。
*横長の写真はクリックして拡大すると大きく鮮明に見えます。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 徒歩
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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今日は朝いちばんに行くメディチ家礼拝堂が8:15オープンのため、朝食はゆっくりとれました。そのおかげでスクランブルエッグとゆで卵も発見!
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果物、ご自由にお取りくださいとは書いてなかったものの、以前泊ったホテルで果物を持って帰っていた人がいて明日の朝食用に洋梨をいただきました。
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スクランブルエッグ、卵の味が濃厚でとても美味しかった!昨日はプロシュート・クルードというモルタデッラに似てる大きなハムで、今日はフィノッキオーナというスパイスの効いたサラミを選んだのですが、朝はやっぱり軽いプロシュート・クルードの方がいいかな?朝から脂身があっても大丈夫な方にはいいと思います。
明日は出発が早いので、バターをたっぷり塗った全粒粉のパンにプロシュート・クルードと穴のようなものがあるスイスハム(帰ってきてから見た”アンメット”ではトムとジェリーのチーズと言っていました)を挟んでサンドイッチも作りましたが、ひとこと言った方がよかったかも? -
外に出たら曇り空で夜半に雨が降ったような跡もありました。ノヴェッラ教会もグレーでしずんでいるみたい。
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時間があったのでドゥオーモ経由で行くことにしましたが、観光客はまだほとんどいません。
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ドゥオーモ広場もまだ眠っているようで、回りのレストランの方がお掃除しておられました。曇っていてファサードの色ははっきりとは写っていませんが、クリックして拡大するとピンク色があるのもわかります。
手前の洗礼堂に写っているブロンズの扉が、ギベルティが最初に作った扉です。 -
”メディチ家礼拝堂”
この建物はメディチ家礼拝堂の中の”君主の礼拝堂”で、”新聖具室”とともにサン・ロレンツォ聖堂の拡張建造物として建造されたもので、新聖具室は16世紀にミケランジェロが設計着工、君主の礼拝堂は17世紀に着工されました。
入口を入ると1階部分にはコジモ1世から最後のトスカーナ大公まで6人のお墓があるクリプタ、2階に教会の後陣部分になる君主の礼拝堂、奥に教会の右翼廊になる新聖具室と続いています。 -
君主の礼拝堂の下にあることから地下聖堂(クリプタ)と呼ばれていますが、天井の低い広いフロアで装飾品などもたくさん並んでいました。
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かわいい飾り物もありました。
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”アンナ・マリア・ルイーザ・メディチ像”
女性であるがために大公になれなかったメディチ家最後の当主で、18世紀にハプスブルグ家にトスカーナ大公の座を譲り渡しました。彼女は子宝に恵まれなかっただけでなく兄弟も同性愛者で後継ぎがなかったため、メディチ家はこれで絶えてしまったそうです。
その時の遺言が”家族の協定”と言われるもので、”私が亡き後、メディチ家の財産はすべて新トスカーナ大公に譲ります。ただしこれらの絵・彫刻・書物・宝石・その他貴重なものはフィレンツェ市民の財産でありトスカーナ大公国に利益をもたらすものであるから、領地より持ち出してはいけません。国民でも外国人でも誰もがそれを見て称賛できる状態にとどめ置かなくてはいけません”とあったそうです。
誇り高い横顔から彼女の人柄もわかるようです。 -
”君主の礼拝堂”
後陣の礼拝堂という場所に位置していて八角形のドーム状の屋根があり、壁面はたくさんの大理石と半貴石(ダイヤ・ルビー・エメラルド・サファイヤ以外)を使ったフィレンツェ・モザイクの複雑な模様で埋め尽くされている初代から6代までのトスカーナ大公が祀られている霊廟で、トスカーナ大公フェルディナンド1世の時代に造られました。
実際に見るとその大きさと豪華さにびっくり! -
外観にも写っていましたがここがこの礼拝堂の主祭壇で、いろいろな種類の大理石を使っているのがよくわかります。
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内部には6個の石棺が安置されていますがいずれも空で、礼拝堂が完成した後も地下聖堂のお墓に安置されたままだそうです。
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天井画は新古典主義のピエトロ・ベンヴェヌーティによって ”新・旧聖書のエピソード”が描かれていて、ドームの高さは56mもあります。窓から光が入り明るいのですが、遠すぎてよく見えませんでした・・・。写真をクリックするとよく見えます。
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壁の基部にはメディチ家支配のトスカーナ大公国の紋章が、大理石や輝石、ラピスラズリ、サンゴ、真珠などを使ったモザイク模様ではめられています。
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こちらはコルトーナとあります。
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”新聖具室” 1520~59年
細い通路を通って”新聖具室”に着きました。新聖具室は部屋全体の設計からコンセプト、彫刻作品までミケランジェロによるもので、ブルネレスキとドナテッロが造ったサン・ロレンツォ聖堂の旧聖具室と対をなす形で計画されたミケランジェロの最高傑作。部屋全体がミケランジェロの哲学と宗教観に基づいて設計されています。
ヌムール公ジュリアーノ(ロレンツォの三男)とウルビーノ公ロレンツォ(ロレンツォの長男、ピエロの息子でマニフィコの孫)が若くして相次いで亡くなったため、ロレンツォの次男であるレオ10世が彼らの死を悼んでミケランジェロに墓廟を依頼したのですが、ロレンツォとパッツイ家の陰謀で亡くなった弟ジュリアーノの墓廟もまだできていなかったため、新たな建造物を作ることになったのです。
そして旧聖具室と同じ形状の建物を作り、ヌムール公とウルビーノ公の墓廟を左右の壁面に、マニフィコとジュリアーノの共同墓廟を祭壇の対面に設置することに決まり、レオ10世の死後もジュリアーノの遺児であるクレメンス7世が計画を引き継ぎ、1525年から27年の間に夜と曙ほか4体の彫刻が完成しました。
ところがその後フィレンツェとミケランジェロは歴史の大きな渦に巻き込まれてしまったのです。 -
1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪などを行ったローマ劫掠によりクレメンス7世は打撃を受け、フィレンツェ市民もメディチ家のアレッサンドロ(ジュリアーノの庶子)を街から追放しました。この時メディチ家と結びつきの強かったミケランジェロは要塞建築監督として共和国側について戦ったのですが、負けて街から逃れたというのです。
1530年カール5世がフィレンツェ共和国を陥落させメディチ家は復権、アレッサンドロも帰還しました。カール5世とクレメンス7世も和解し、クレメンス7世は礼拝堂の建設を再開することを条件にミケランジェロを許し1531年に建設を再開したのです。しかしメディチ公爵家のフィレンツェ施政が苛烈だったこともあり、ウルビーノ公の肖像ができヌムール公の仕上げだけ残した34年に、”最後の審判”制作のためフィレンツェを去ってしまいました。その時ロレンツォとジュリアーノの墓に捧げられる壁面は彫刻やフレスコ画などが契約書にあったものの手がついてなく、45年にようやく彫刻群が新聖具室に安置されたのでした。メディチ家の守護聖人である聖コスマと聖ダミアーノの彫刻はミケランジェロの模型をもとに弟子のモントルソリらが造り、1559年になってコジモ1世の命でヴァザーリとアンマナーティが礼拝堂を整え今の形になったそうです。
ミケランジェロほどメディチ家に翻弄された芸術家はいませんが、それでも驚くほど長く生きてたくさんの彫刻作品やシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画などを完成させた、ルネサンスの中でも突出した才能の持ち主でした。 -
祭壇左 ”ヌムール公ジュリアーノの墓碑”
ロレンツォの3男であるジュリアーノ、デ・メディチの像には”行動する人”というタイトルをつけ、活動性を表したそうです。棺の右は”昼”、左は”夜”の彫像。 -
祭壇右 ”ウルビーノ公ロレンツォの墓碑”
ロレンツォの長男ピエロの息子であるロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの像には実際には粗暴で好戦的だったのにもかかわらず、”思索する人”というタイトルをつけています。棺の右は”曙”、左は”黄昏”の彫像。ミケランジェロは1日を表す4体の擬人像を置き、夭折した2人に”1日の時間が早くめぐって人生を短くしてしまった”という内容の詩を捧げているそうです。
2つの像は本人に似ていないと市民から不興を買いましたが、ミケランジェロは1000年経てば似てるかなんてわからない、と言ったとか・・・。 -
祭壇向かい ”ロレンツォ・デ・メディチと弟ジュリアーノの墓碑”
中央の”メディチの聖母子像”はミケランジェロの作で、左が聖コズマ、右が聖ダミアーノ。ともにメディチ家の守護聖人です。
ロレンツォはルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主でしたが自らの墓碑は上の二人のものとは比べられないほどシンプルで、未完のこのお墓に祀られたのはずいぶんと後のことでした・・・。 -
室内もドームもシンプルで静謐な感じを受けましたが、この後サン・ロレンツォ聖堂に行ってその訳がわかったのです。新聖具室は聖堂の旧聖具室と対称的に作られているため、ブルネレスキに敬意を表したのでしょうか?
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出口に向かう途中トイレに行ったのですが、出てみるとそこにはなんとドナテッロがデザインしたというコジモ・デ・メディチのお墓があったのです!近くにはプライベートでも近い存在だったドナテッロのお墓もあったはずなんですが、ただただびっくりして見落としました・・・。更に出口近くのブックショップも変わったデザインで、帰ってから調べたら近年発掘された中世の壁がそのまま展示されてあるとありました。
トイレに行かなくてもお墓は見えたと思いますが、まさかこんなところで見れるとは思っていなかったのでびっくりでした。 -
”地球の歩き方”にサン・ロレンツォ聖堂とメディチ家礼拝堂の位置関係が載っていて、これを見てから行ったのでほんとうにわかりやすかったです。
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”メディチ・リッカルディ宮殿”
メディチ家が15世紀半ばに建てた自宅で、コジモ・イル・ヴェッキオからトスカーナ大公コジモ1世の時代までおよそ100年間メディチ家の住まいでした。コジモは自分たちの家の設計を見た目を質素にと依頼し、ミケロッツオ・ミケロッティにより完成した邸宅はフィレンツェで最初のルネサンス様式の建築物でした。第1層は荒削りのままの石を積み上げた力強い粗石積み、第2層第3層と上に行くにつれ壁面のおうとつは少なくなって軽くなっています。1600年代半ばにメディチ家の住まいがピッティ宮移ったため、リッカルディ家に売却されました。
またここに収められていた美術品の多くは、1494年のサヴォナローラによるメディチ家追放の際に各地に散ってしまい、現在では”マギの礼拝堂”ほかが残るのみになっています。
よく見えませんがストロッツイ宮やこの建物、一番下に人が座れるようにベンチになっていて、”世界街歩き”で当時の人もここに座っていたと紹介されていたので座ってみましたが、けっこう奥行きがありました。 -
中庭は柱廊に囲まれた美しい静かな空間で、中央にあるのはバッチョ・バンディネッリの”オルフェウス像”。
かつてこの中庭にはコジモのお気に入りだったドナテッロのブロンズ製の”ダヴィデ像”が置かれていましたが、1494年の政変でメディチ家が追放されるとヴェッキオ宮殿の中庭に移されました。(現在はバルジェッロ)またここにはヴェッキオ宮殿”百合の間”にあったドナテッロの晩年作”ユーディットとホロフェルネス”も噴水彫刻としてあったそうです。 -
イチオシ
2階 ”マギの礼拝堂” ベノッツオ・ゴッツォリ ”東方3博士の行進” 1459~62年
マギの礼拝堂は1459年にメディチ家のプライベートチャペルとして作られたもので、三方の壁にゴッツォリの”エルサレムへ向かう東方の3博士”が描かれています。これは1439年から44年にかけてフィレンツェで行われた東方教会と西方教会の教義の統一を図った公会議の様子をコジモの息子であるピエロが残したいと考えゴッツオリに依頼したもので、フラ・アンジェリコの弟子であるゴッツォリが国際ゴシックの華やかな宮殿風の絵画として完成させました。
この壁画は一続きの場面をとして描かれていて、祭壇右の壁には白馬にまたがった若いメルキオール(ロレンツォと言われています)、バックには丘の狩猟の様子や美しい植物などが描かれ、エルサレムではないみたいです。 -
その右、祭壇向かいの壁に描かれている白馬に乗った口髭の騎士はバルタザールで東ローマ帝国の皇帝を描いたもの。そしてこのバックの風景も森の中にお城があったり緑も多くてとても美しいんです!
また帰ってから気づいたのですが、お付きの青年たちがみなくりくりパーマなんです(笑)。ビザンチンではこういう髪形が流行していたのでしょうか? -
列の先頭である祭壇左の壁には馬にチーターを乗せたロレンツォの弟ジュリアーノ、後方にいるロバにまたがった老人はカスパールでコンスタンティノーブルの総司教が描かれています。列が丘の上の街に続いているのが見えます。
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アップで見ると岩山も地面も淡いグレーの中、華やかな衣装を身につけたロレンツォの横顔が美しく(実際には似ていませんが)、こちらを向いている様子にどきどきしました。が、写真をロレンツォ中心に写したのでバックの丘の上にお城があるのは見ていませんでした・・・。
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中央の二人がピエロとコジモ。後ろには作者のゴッツオリ本人もいたそうなんですが、見落としました・・・。
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アップで見ると、馬から下りようとしている人もチーターらしき動物をひいていますね。またこの丘の上にもお城があるようです・・・。
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中央祭壇左の壁の”天使の礼拝”も壁画の続きとして描かれていて、中央の”幼子イエスの礼拝”に続くように描かれています。
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中央祭壇にはフィリッポ・リッピの”神秘の降誕”1459年(現在ベルリン美術館)のコピーしたピア―・フランチェスコ・フィオレンティーノの作品がありました。コピーとはいえ細密に描かれていて素敵な絵、横に立っている洗礼者ヨハネも可愛い。ここにつながっているんですね!
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右の壁の”天使の礼拝”の中央の天使たちはよろこんで歌っているのだとか。
この礼拝堂の絵がきれいな状態で残っているのは、窓がなく入口も小さく日光が入り込まなかったためろうそくが光源で、煤が表面に付着していたためだそうです。この礼拝堂ができた時コジモはまだ存命中で、見ることがかなったそうですから言葉にならないくらい感動したのではないでしょうか? -
ソンニーノの間 フィリッポ・リッピ ”メディチの聖母” 1466~69年
マギの礼拝堂からどう歩いたかまったく覚えていませんが、鏡のギャラリーの手前にありました。 -
”鏡のギャラリー”
天井画はルカ・ジョルダーノでメディチ家にまつわる物語や神話が描かれているそうです。こういう景色を見ると規模は違いますが、ローマのコロンナ宮殿を思い出しました。 -
鏡にも絵が描いてありました。
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出口に向かうとブックショップが・・・。パズルは孫たちのお土産に購入、よろこんでくれました。
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その他ロレンツォのアップの絵葉書やエコバッグなどまた散財してしまいましたが、女性が好きそうな美しいグッズを並べていて商売上手。でも大満足の礼拝堂でした!
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”サン・ロレンツォ教会”
ブルネレスキの設計によるフィレンツェで最初のルネサンス様式の教会。もともとここには4世紀末から聖ロレンツォ聖堂があり300年間フィレンツェの司教座教会でしたが、15世紀になって教会の拡張が検討されコジモの父であるジョヴァンニ・ディ・ビッチが当時ジョヴァンニのための礼拝堂(旧聖具室)を建設していたブルネレスキを推挙し、その後コジモが全面的に支援し1461年に完成しました。しかしファサードは1518年にレオ10世から一任されたミケランジェロが大理石の採掘場の選定でレオ10世と意見が合わず未完で、粗いレンガ積みのままの姿になっています。また奥に見えるのは中央が君主の礼拝堂、右が新聖具室のドーム、窓の位置など見ておけばよかった・・・。
サン・ロレンツォ聖堂は300年にわたってメディチ家の公式教会で、メディチ家の人々はここで洗礼を受け結婚し葬られました。
ほんとうならメディチ家礼拝堂からここに来たかったのですが、開くのが10時と遅いため先にマギの礼拝堂へ行ったのです。またフィレンツェカードで入れるのですが聖堂の左手にあるチケット売り場に並び、ここのチケットを発券してもらいました。 -
外観と違いブルネレスキのデザインで作られた内部は、こんなにも洗練された空間でした。柱とアーチはグレーのピエトラセレーナ石、その他の部分は白い漆喰を使っているのだそうですが、前日に行ったサント・スピリト聖堂に似て厳かです。
内部は3廊式で金の格間天井もシンプルで上品、それまでのゴシック様式では天井はヴォールトで支えられていましたが、水平でまっすぐに延びています。 -
コリント式の柱頭のデザインも素敵で身廊には礼拝堂が並び、窓が礼拝堂の上と柱廊の上にとられているため堂内がとても明るいんです。
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入口上部 ミケランジェロ ”聖遺物のトリブーナ” 1531~32年
ロレンツォの死後イタリア戦争が勃発してメディチ家が追放された際ロレンツォが収集した聖遺物が邸宅から略奪されたのですが、メディチ家が復帰した時にロレンツォの息子レオ10世によって買い戻されこれらを保管する場所をミケランジェロにに依頼したそうです。
ミケランジェロはファサードの裏側の扉の上にバルコニーを設け、その後ろに聖遺物を収納する棚を作りましたが(現在は使われていないそうです)、ブルネレスキが作ったルネサンス様式の雰囲気を尊重した控えめなデザインになりました。 -
右側廊2番目 ロッソ・フィオレンティーノ ”マリアの結婚” 1523年
マニエリスムの画家フィオレンティーノの美しい絵でした。 -
翼廊に接する壁面 デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ 浮き彫り祭壇”タベルナーコロ”
タベルナーコロは壁に作られた小さな祭壇のことで、中央の小窓のような所に聖体が収められていたそうです。セッティニャーノは夭折しましたが、繊細な大理石の彫刻を得意としたルネサンスを代表する彫刻家の1人でした。 -
その前には1460年代に作られたドナテッロ最後の作品で箱型のブロンズ製の説教壇があり、スティアッチャートと呼ばれる極端な浅い浮彫りで奥行きを表現し”キリストの復活”などを描きました。
ドナテッロはルネサンス初期に活躍した彫刻家で、まだ10代の頃サン・ジョヴァンニ洗礼堂の北側扉のコンクールでギベルティに負けたブルネレスキと共にローマへ行き、その間の仕事が評価され認められるようになりました。その後オルサンミケーレ教会の聖人像やメディチ・リッカルディ宮のために作ったブロンズの”ダヴィデ像”、パドヴァのガッタメラータ騎馬像などを製作。そしてここサン・ロレンツォ聖堂ではブルネレスキの設計した旧聖具室に彫刻で装飾を施しました。 -
主祭壇の前にあるのはヴェロッキオの初期の作品、大理石を使った幾何学模様のメディチ家の紋章でコジモ・イル・ヴェッキオの墓標なのでした。
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イチオシ
そしてこの紋章の下が聖堂が完成した3年後に亡くなったコジモ・ディ・メディチのお墓で、はめ込まれた銘板には”祖国の父コジモ・デ・メディチ、ここに眠る”とあるそうです。メディチ家礼拝堂の地下聖堂で見たあのコジモのお墓が、教会の中央祭壇の真下にある・・・、すごい造りです。周りのすかし模様のはめ板はたぶん地下聖堂の灯りとりなのではないでしょうか?
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左身廊 アーニョロ・ブロンズィーノ ”聖ロレンツォの殉教” 1565~69年
この教会の名前となった聖ロレンツォ(聖ラウレンティウス)の殉教シーンを描いた作品。トスカーナ公コジモ1世の宮廷画家だったブロンズィーノのよって描かれましたが、ちょっと正視できない絵でした。 -
こちらの説教壇は”キリストの受難”を描いたもの、磔刑図が見えます。
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聖具室の入り口。おごそかすぎて足がすくむようでした・・・。入口の奥に見える青銅扉とその上の2人の聖人の彫刻もドナテッロ作で、祭壇の左右に作られているもの。
実はこの左側の小さな礼拝堂にフィリッポ・リッピの”受胎告知”があったようなんです。ノートには書いていたのに礼拝堂が暗くてまったく気づきませんでした・・・。 -
イチオシ
旧聖具室はジョヴァンニ・ディ・ビッチが家族のための礼拝堂建設をブルネレスキに依頼し1428年に完成したもので、立方体の部屋の上に同じ直径のクーポラを乗せたデザインで聖堂より先に完成した初めてのルネサンス建築でした。
聖具室の完成後彫刻装飾を手掛けたのはブルネレスキの後輩で親友のドナテッロで、丸天井の周りには円形の浮彫り装飾が並び、左下に見える祭壇の左右には上の写真で見えた青銅扉があります。 -
ジョヴァンニ・ディ・ビッチはこの部屋が完成した翌年に亡くなり、この部屋で葬儀が行われたそうです。その後1433年に彼と妻のお墓がドナテッロにより造られ、部屋の中央へ置かれました。大理石のテーブルの下に石棺があるというふしぎな形をしていました。
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祭壇左の青銅扉の上にはドナテッロによる聖ステファノと聖ラウレンティウス。
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こちらは聖コズマと聖ダミアーノ。2人はアラビア生まれの双子でシリアで医学を学び無償で人々の治療を行ったため、医師や薬剤師の守護聖人になっています。またメディチ家のメディチは薬や医学を意味するメディスンからきていることから、メディチ家の守護聖人になっています。
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祭壇のクーポラには星空が描かれています。これは同じくブルネレスキが設計したサンタ・クローチェ教会のパッツイ家の礼拝堂にある星空と同じものだそうで、ブルネレスキの友人の天文学者の指導でペセッロという人が描いたのだとか。
パッツイ家と縁のあったフランスアンジュー家のルネ・ダンジューが、アラゴン家に王座を奪われてナポリを去りフランスに戻る途中フィレンツェを訪れた1442年7月4日の星空ではないかと言われています。ややこしい・・・。パッツイ家の礼拝堂は1441年から建設が始まったので、そこに描いてからこちらにも描いたということでしょうか?わからないだけに妙に気になり、ここをアップで撮っているとは(笑)。 -
”ピエロ・デ・メディチとジョヴァンニの墓碑” ヴェロッキオ 1470年代
コジモの息子であるピエロと弟ジョヴァンニのブロンズと大理石を使った美しいお墓で、棺の足の部分の装飾がウフィツイにある”受胎告知”の書見台の足の部分に似ていることから、当時ヴェロッキオの工房にいたレオナルドが制作に参加していたのではと言われています。またこの作品はメディチ家3代にわたり強力な支援を受けたヴェロッキオが、ロレンツォから受けた最初の注文だったそうです。
聖具室に入ってすぐ左手にあるので、見逃さないようにしてください。 -
中庭に出てラウレンツィアーナ図書館に行こうと2階へ上がったら、なんとここは別料金だと言われたのです。(フィレンツェカードの対象施設は公式ページで調べるべきでした・・・)もういちどチケット売り場で並んで買うのがしんどいなと思いここはあきらめ、回廊を回ってみるとドゥオーモのクーポラとジョットの鐘楼が見える場所がありましたが今日は曇りでした・・・。
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”ラウレンツィアーナ図書館”
出口付近から図書館の外観が見えました。一段と高くなっているところが入口、エントランスであの流れるような階段があるところで、左手の窓が並んでいるところが図書室の部分です。
この図書館はメディチ家出身のクレメンス7世が一族の蔵書を1か所に集めるためにミケランジェロに造らせたもので、回廊にある扉を開けると高い天井の吹き抜けと美しい階段のある玄関ホールで、美しい図書館に続いています。写真で見ると玄関ホールの壁のデザインは新聖具室の壁によく似ていました。
15世紀の旧聖具室、16世紀の新聖具室、17世紀の君主の礼拝堂と続いたメディチ家のお墓も完成し、この図書館の完成でサン・ロレンツォ聖堂の拡張計画は終了したのでした。 -
11時前にドゥオーモへ着きましたが、朝よりどんよりしています。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はそれまであったサンタ・レバラータ聖堂を拡大し街の大聖堂にするため13世紀末にアルノルフォ・ディ・カンビオに依頼され、1421年にはクーポラのデザインを選ぶコンクールでブルネレスキの案が採用され1436年に完成したもので、ブルネレスキはローマのパンテオンを参考にして木の仮枠なしで2重の構造を持つクーポラを世界で初めて造りました。
ドゥオーモのもうひとつの魅力であるファサードはネオ・ゴシック様式で19世紀に完成したもので、白・緑・赤の大理石を使った美しい幾何学模様が特徴になっています。身廊、後陣部分や洗礼堂、鐘楼などとデザインは異なっても違和感なく、それ以上に上品なたたずまいがあり、初めて見た時には震えるようでした。私はイタリア以外の教会は知らないのですが、イタリアでは文句なしにいちばん美しい教会だと思います。
アルノルフォ・ディ・カンビオはフィレンツェに移り住んだ晩年、このドゥオーモの建設を始めサンタ・クローチェ教会、ヴェッキオ宮殿と、現在まで残るフィレンツェの代表建築に携わった建築家でした。 -
このくらいに近づくと色がわかりますね!中央扉の上にあるモザイク画には花瓶に生けられた百合の花は描かれていて、”花の聖母マリア大聖堂”を表しているそうです。
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”サン・ジョヴァンニ洗礼堂”
大聖堂の前にある八角形の形をしたロマネスク様式の洗礼堂はフィレンツェの守護聖人”洗礼者ヨハネからその名前をとったもので、11世紀に建てられ大聖堂が建つまでの間ここが聖堂として使われていました。しかし住人の数が増えサン・ジョヴァンニ聖堂では手狭になったため現在の大聖堂のところにサンタ・レバラータ聖堂が建てられ、大聖堂の座を譲った後に洗礼堂としての役割を担うことになったそうです。
外部は三層からなり白と緑の大理石で装飾され、この幾何学模様がルネサンスのデザインに大きな影響を与えました。洗礼堂には3つの扉があり、北の扉は洗礼を授ける聖職者が入るための扉、南の扉は洗礼を受ける赤ちゃんとその親が入る扉、そして洗礼を終えると東の扉から出てドゥオーモへ入るのです。原罪を負って生まれてきた人間は”洗礼”をうけて初めて神の家である教会へ入れるのだとか・・・。
洗礼堂の内部は13世紀前半のビザンチン様式のモザイクが光り輝いていて、大理石の床のモザイクも美しいそうなんですが、ドゥオーモ関連施設はフィレンツェカードでは入れないのと付属美術館へ入る時間が取れそうにないのであきらめました。(この写真はジョットの鐘楼を過ぎたあたりから撮っています)またこの洗礼堂はピサのドゥオーモの洗礼堂に対抗しようと建設されたそうですが、ピサの洗礼堂はまた違った美しさがあったと思います。 -
北扉 ギベルティ ”キリストの生涯” 1403~24年
1401年、洗礼堂の”東側”の扉を設置するため旧約聖書の”イサクの犠牲”をテーマにコンクールを開き、最後まで残ったのがギベルティとブルネレスキでした。ギベルティの作品は当時の主流だった優美なゴシック様式だったのに対し、ブルネレスキの作品はそれまでにない斬新なデザインで、注文はギベルティが受けることになったのです。(この後ブルネレスキは親友のドナテッロとローマに行きました)
もともと旧約聖書を題材に作られるはずだったのですが、”東側”はドゥオーモの正面ということで”聖なる救済”の扉としてキリストの物語と4人の福音書記者、4人の教父を表現して欲しいという依頼に変わったのです。そのためギベルティはアンドレア・ピサーノが作った南側の扉と同じように28枚のパネルに、1段目が教父、2段目が福音書記者、3段目からキリストのストーリーが始まるようにして、最上段に”磔刑”と”復活”を置くようなデザインにしました。 -
四つ葉型の枠はゴシック特有のもので、中に浮き彫りされているのはキリストのストーリー最初の”受胎告知”のシーン。パネルとパネルの間は昆虫と植物の装飾で縁取られ、同時代の芸術家の肖像も・・・。
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ギベルティは初期ルネサンスの彫金師で、この扉の製作中にオルサンミケーレ教会の洗礼者ヨハネ像なども作り、その後は下記の”天国の門”を完成させました。
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イチオシ
洗礼堂の東扉 ギベルティ ”天国の門” 1425~52年
”東扉”はフィレンツェ市民を喜ばせ”北側”の最後の扉もギベルティに頼もうということになり、制作を任されたギベルティは四つ葉型の枠をやめ10枚のパネルで作ることを決めドナテッロに相談したところ、遠近法を使い奥と手前で高さを変えて彫ると1枚のパネルに複数のシーンを描くことができるとアドバイスをくれたのだそうです。ギベルティは絵画的な世界を表現して周縁も美しく装飾し全体に錬金仕上げを施し、この黄金に輝く扉が出来上がりました。写真をクリックすると、ほんとに絵画のような彫刻を見ることができます。
そうして注文主の依頼した旧約聖書のストーリーが描かれた”北扉”が出来上がったのですが、あまりの出来栄えに最も名誉のある”東側”に置かれることになり先に制作した扉が”北側”に移されたのでした。この扉はミケランジェロが”天国の門”と称賛して以来ずっとここにあったのですが、1966年のアルノ川の氾濫でかなりのダメージを受け修復のため取り外され現在はコピーが置かれています。(オリジナルは付属美術館)
またミケランジェロは”聖家族”の額縁の製作でこの扉の芸術家の彫像からヒントをもらったということです。 -
”ジョットの鐘楼”
1334年大聖堂の建築主任に任命されたジョットが鐘楼の建設にも着手したのですが、わずか3年で他界。その後ジョットの後任としてドゥオーモの建設を任されたアンドレア・ピサーノが鐘楼も引き継ぎ第1層の上部と第2層を、第3層から上はタレンティにより1387年に完成しました。大聖堂と同じ白・緑・赤の大理石で装飾されていて、イタリアでいちばん美しい鐘楼と言われています。
この日は鐘楼の全体を撮っていなかったのでフィレンツェに着いた日の写真ですが、ドゥオーモの真横にぴったりとくっついているような鐘楼はなかなか珍しいです。
ところでNHKの”世界はほしいモノであふれている”と言う番組で鈴木亮平さんがイタリアを旅しておられましたが、好感度のカメラを使っているのかローマ、フィレンツェ、ヴェネチアと極彩色の街が映し出されていてびっくりしました。いくら晴天でもあそこまでは見えません・・・。 -
1層下部がジョットのデザインをピサーノが彫ったもので”人類”、”芸術”、”産業”が表してあり、ピサーノは上部に”惑星”、芸術”、7つの秘跡”などを表しました。(オリジナルは付属博物館)近くで見ると赤い大理石と言っても濃い色から薄い色まであり、それが一層美しく見える理由かもしれません。
鐘楼の前に並んでいる人たち、実はドゥオーモの入場のための列だったんですよ・・・。側面の写真を見てもらえればわかりますがすごい人で、入場はあきらめました。ドゥオーモはオープンが10時と遅いんです。早くから並ぶ人もいて私はスケジュール的に無理でしたが、内部には見どころもいくつかあるのでぜひ早い時間に並ぶことをおすすめします。(私的には”パッツイ家の陰謀”でロレンツォが逃げ込んだという聖具室が見たかったです) -
1層は肉眼でも見えました。
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ドゥオーモのクーポラは地上55mの高さの基底部からさらに90m高く直径も45mという大きさで、クーポラ建設のための工法のコンペで選ばれたブルネレスキの仮枠なしの二重構造の案が選ばれ建設が始まりました。まず八角形の基底部に穴をあけ材木を通してそれらの上に足場を造りレンガを少しずつ内側に沿うように積み上げ、また壁を内側と外側の二重にすることで少しでも軽くなるような工夫をしたそうです。現在ドーモの頂上へ登るための階段が作られていますが、その壁の間になるそうです。
レンガは石よりも軽いことも完成にいたった要因ですが、使ったレンガの数はなんと400万個でブルネレスキは建材を引き上げる器械の開発も行い、こうして1434年に石造りとしては世界最大のクーポラが完成したのでした。そしてバチカンのサン・ピエトロ寺院のクーポラはこのクーポラをモデルにしてミケランジェロが設計したというのですから、天国のブルネレスキも建築家冥利に尽きたのではないでしょうか? -
窓もそうですが、扉上部の装飾が繊細です。
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その奥、聖堂参事会会員の扉の上も美しいです。
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”ピガッロの回廊”
鐘楼の向かい側にある14世紀中頃に建てられた公共のロッジアで、捨て子や孤児、病気の子供などを助けるための施設として使われていたそうです。 -
”アルノルフォ・ディ・カンビオとブルネレスキの彫像”
ドゥオーモに向かって右手のチケット売り場のある建物にはクーポラを見上げるように作られた2人の彫像があり(右がブルネレスキ)、二人の間に人が並んでいました。 -
”サンタ・マルゲリータ・ディ・チェルキ教会”
ダンテが恋し続けた女性、ベアトリーチェの実家とダンテの実家の方々のお墓がある教会。政権の対立に巻き込まれたダンテはフィレンツを永久追放になり、北イタリアを流浪する間に”神曲”を書き始めラヴェンナにたどり着きました。その後ヴェネチアへの旅の途中に亡くなってしまったため、お墓はラヴェンナにつくられました。 -
内部には2人がこの教会の前で会っている絵がありました。ダンテの創作の力となったベアトリーチェですが、初めてあったのは9歳の頃でダンテの一方的な恋だったそうです。そしてそれぞれ別の人と結婚したそうです。
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”ダンテの家”
アリギエーリ家の持ち家を1900年頃に再建したものですが、実際の家があったのはこの斜め向かい側にある広場辺りだったそうです。 -
”バディア・フィオレンティーナ教会”
978年創建で13世紀後半に建て直されたましたが、現存するフィレンツェで最古の教会。建造された時には街の端にあったそうですが、周辺の土地が寄進され街の中心になっていきました。
教会の正面はプロコンソロ通りですが、アリギエーリ通りから入るようになっていました。 -
フィリピーノ・リッピ ”聖ベルナルディーノに現われた聖母” 1496年
フィリピーノ・リッピの代表作と言われている作品、中央通路の左側にありました。 -
アンドレア・デッラ・ロッビア ”聖母子と2天使”
プロコンソロ通りの入り口の上に、きれいな色で残っています。アンドレアはルカ・デッラ・ロッビアの甥にあたります。 -
尖塔部分しか見えませんが鐘楼はジョットの鐘楼より少し古い14世紀初めのもので、70mあり特徴があるため街中で見かけることがあるそうですが、街歩きに余裕がなかったのでわかりませんでした・・・。
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”バルジェッロ国立博物館”
1200年代半ばに建てられた行政長官の館で、16世紀には司法長官(バルジェッロ)の役所兼邸宅となりその呼び名が残っています。 -
回廊や上階への階段が配置された中世の中庭の壁面は、様々な紋章や石板で飾られていました。ヴェローナにもこんな中庭がありました。
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バルトロメオ・アンマンナーティ ”ユノーの噴水” 1555~61年
もともとヴェッキオ宮殿の五百人の間に設置する予定だったそうです。中庭のどこにあったかまったく覚えていません・・・。 -
入口右の部屋にもミケランジェロなどの彫刻があるのですが、階段を上がる人につられて2階の”代表委員会の間”に来てしまいました。ここにはドナテッロと1400年代の彫刻作品が展示されています。
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イチオシ
ドナテッロ ”ダヴィデ像” 1435年
後にイスラエルの王となる羊飼いの少年ダヴィデが、討ち取ったゴリアテの首を足元に置き、勝ち誇ったポーズをとっている姿。このダヴィデ像はルネサンス期に制作された最初の自立するブロンズ彫刻で、古代ギリシャ・ローマ時代以降で初めての男性裸像でした。ドナテッロはミケランジェロが尊敬する彫刻家で、サン・マルコ修道院にあったドナテッロが監修したメディチ家の彫刻コレクションにも出入りしていたそうです。
コジモの依頼によってドナテッロが制作したこの像はメディチ・リッカルディ宮の中庭に置かれていました。そしてミケランジェロのダヴィデ像はこれより65年近く後に制作され、大きさといい非の打ちどころがないような美しさですが、この158㎝という大きさのダヴィデも比類ないくらい美しい作品でした。 -
ヴェロッキオ ”ダヴィデ像” 1473~75年
メディチ家の依頼で制作されたもので、完成後はロレンツォとジュリアーノによってフィレンツェ政庁に売却されヴェッキオ宮殿入口の階段に飾られていたそうです。着ているチュニックや剣には金箔がほどこされていたそうで、若い少年の姿は当時工房にいたレオナルドではないかと言われています。(レオナルドは美少年だったそうですよ)2人とも美しいですが、私は凛々しさでドナテッロかな?
ヴェロッキオはコジモ・ピエロ・ロレンツォの3世代にわたってメディチ家の強力な支援を受けた彫刻家で画家、金細工師で、サン・ロレンツォ聖堂にあったコジモ・ディ・メディチの床の墓標が最初の作品です。その後オルサンミケーレ教会の”聖トマスの懐疑”やドゥオーモのクーポラの上に設置する円球と十字架、そしてヴェッキオ宮殿にあった”イルカと天使”、この”ダヴィデ像”などを製作。絵画では当時工房にいたレオナルドと共に”キリストの洗礼を”制作しました。
50才を過ぎてヴェネチアに移り”バルトロメオ・コッレオーニ像”を制作していたのですが、途中で急死されたそうです。サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の前庭にあるコッレオーニ騎馬像はヴェロッキオの作品の中でも特に彫刻史に残る大作でした。 -
ドナテッロ ”ダヴィデ像” 1409年
こちらは初期の作品で大理石によるダヴィデ像、大きな作品でした。 -
イチオシ
ドナテッロ ”聖ジョルジョ像” 1417年
オルサンミケーレ教会の壁龕に飾られていたもの。台座の部分の”聖ジョルジョの竜退治”はスティアッチャートという平面的な浅彫りでありながら遠近法を感じられる技法で、ドナテッロが初めて開発しました。またすべての視線が聖ジョルジョに集まるように表現した一点透視法は、親友であるブルネレスキが確立してドナテッロやマザッチョに教えたものだそうです。
同じ時期に”聖マルコ像”、”トゥルーズの聖ルイ像”(現在はサンタ・クローチェ教会)も制作しましたが、聖ジョルジョはだんとつにカッコいいです! -
ドナテッロ ”マルゾッコ” 1419~20年
シニョーリア広場のネプチューンの噴水の隣に置かれているフィレンツェのシンボルのオリジナルで、百合の紋章の盾を持っています。”マルゾッコ”はフィレンツェの象徴であるライオンと百合の花の紋章が合わさった時の呼び名だそうですが、実際に花はアヤメなんだとか!?
奥にはこの部屋の主要3作品が並んでいます! -
浮彫り彫刻がされている中世の嫁入り道具の長持ち、洗礼堂があります。
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ギベルティ ”イサクの犠牲” 1401年
洗礼堂の扉の浮彫りコンクールで最終審査に残った作品で、ギベルティが選ばれたのは優美でそれまでの伝統的な表現に近かったことと、鋳造技術が優れていてブロンズの使用量が少ない上に堅牢で経済的だったことが理由らしいです。 -
ブルネレスキ ”イサクの犠牲” 1401年
コンクールには落ちたものの、ダイナミックで緊迫感がありルネサンスの幕開けにふさわしいと言われた作品。傷心のブルネレスキはこの後親友のドナテッロと共にローマを旅したくさんの古代建築を見て回り、それがドゥオーモのクーポラ建設に生きたのですから結果的にはよかったのでしょう。(パンテオンのドームにも登ったという話が残っているそうです)また彼はこのコンテストの後ブロンズ彫刻から手を引き”建築”という分野でのNO1を目指したそうです。 -
ルカ・デッラ・ロッビア ”聖母子と2天使” 1460年頃
バディア・フィオレンティーナ教会のアンドレア・デッラ・ロッビアの作品によく似ていますが、彩色テラコッタによるロッビアの作品は年数がたっても色あせることなく美しいです。 -
ルカ・デッラ・ロッビア ”聖母子と2天使”と”バラ園の聖母”
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ドナテッロのダヴィデに見とれる少年たち。観光客には見えなかったので市内に住んでいるのでしょうか、腕組みと後ろ手と2人2様の鑑賞風景です。
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ジョット ”ポデスタの礼拝堂”
彫刻作品が並んでいる美しいロッジアの先にある礼拝堂で、ジョット最後の作品となりました。 -
ダンテ・アリギエーリの横顔がかすかにわかります。
事前に調べた時、3階にもヴェロッキオの間やアンドレア・デッラ・ロッビアの間があるようになっていたのですが、代表委員会の間でヴェロッキオの”ダヴィデ像”を見てしまったので3階に行くことすら忘れてしまっていました・・・。 -
地上階はミケランジェロと1500年代の彫刻作品の部屋。
ミケランジェロ ”バッカス” 1497年
”ピエタ”と同じ頃に作られた初期の作品で、ブドウは生の象徴、ライオンの皮は死の象徴を表しているそうです。 -
ミケランジェロ ”ブルータス像” 1530年頃
古代の彫刻に似せ、未完成というテクニックを使っているそうです。 -
ミケランジェロ ”アポロ” 1530年
未完の作品。 -
ジャン・ボローニャ ”空飛ぶメリクリウス”
ローマ神話の中の商人や旅人の守護神で、英語ではマーキュリー。足に羽が生えています。ジャン・ボローニャはランツイのロッジアに置かれている”サビーニの女たちの略奪”も制作しました。 -
ジャン・ボローニャ ”ピサに勝利するフィレンツェ”
ヴェッキオ宮殿500人の間にある作品のオリジナル。オリジナルと知っているからかかなりの迫力を感じました(笑) -
チェッリーニ ”コジモ1世の胸像” 1545年頃
チェッリーニの初めてのブロンズ像の作品。目がちょっと怖い。 -
チェッリーニ ”ペルセウス像”台座部分 1545~54年
四面にユピテル、メリクリウス、ミネルヴァ、ダナエのブロンズ像を配して、大理石の台座のレリーフはペルセウスによるアンドロメダの救出を描いているそうです。(ペルセウスはメデューサの退治のあと空を飛んでいたら、アンドロメダが海の怪物の餌食にされようとしているのに出くわし、メデューサの首を用いて退治したというオウィディウスの変身物語にあるお話) -
バルジェッロ博物館を出て自分では北側のギベッリーナ通りを進んで、今日のランチに予定していたトラットリアへ着くはずだったのですが、なんと博物館の南側の通りを歩いたみたいでサンタ・クローチェ広場に着いてしまいました!
アッシジの聖フランチェスコが1211年にフィレンツェを訪れた後ここに小さな礼拝堂が建てられ、13世紀末にアルノルフォ・ディ・カンビオの設計で再建することになりましたが完成したのは14世紀末で、フランチェスコ派のトスカーナの総本山です。色大理石で装飾されたファサードは1800年代の半ばにネオゴシック様式で作り変えられました。”清貧”をモットーにしたフランチェスコ派の教会のため内部は装飾も少なく質素ですが、多くの文化人がここに埋葬されることを望んだためたくさんのお墓や記念碑があり独特の雰囲気のある教会です。
ちょうど右にパッツイ家の鐘楼のドーム部分と鐘楼も見えました。クリックして拡大して見るとこの教会の美しさがよくわかります。 -
気を取り直して北へ向かいたどり着いたこの ”Da Que' Ganzi "。サンタ・クローチェ教会の近くでお店を探していて高評価だったので決めたのですが、着いた12時40分の時点で店内にはお客さんが少なかったのにも関わらず、また”これからビジネス客が来るから2時に来て”と。お腹はぺこぺこだし近くのお店に美味しいお店はないか聞いて教えてもらったお店に行くとそこもがらがらで、私はお客がいないお店には入りたくないので口コミを信じて2時までサンタ・クローチェ教会へ行くことにしたのでした・・・。
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その頃には雨もぽつぽつ降り出して、でも5分もかからないで教会に着きました。ダンテ像が迎えてくれましたが、お天気がよくないとこんなにも暗い感じに見えるのでした・・・。
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入り口は正面左手にあります。正面と違ってゴシックの落ち着いた感じです。ツアーの自由時間に訪れた時はガリレオとミケランジェロのお墓しか見ていなかったので、たくさんあるという彫刻墓廟が楽しみです。
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サンタ・クローチェ教会の見取り図、”地球の歩き方”からお借りしました。
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入って左の左翼廊 ブロンズィーノ ”ピエタ”
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”ピエタ”の前の床にあったお墓、ご夫婦でしょうか?寄り添ってる感じが素敵です。
このようにこの聖堂にはフィレンツェ市民も葬られていて、お墓の数は250あるとか。墓標は踏まれる方がいいという話もあるようですが申し訳ない気がするので、このように囲ってあると踏まなくてすむので安心でした。 -
入って右の左翼廊 ”ガリレオの墓” 1736年
望遠鏡を手に天空を見上げているガリレオの下には、彼が発見した木星と4つの衛星を表した彫刻があります。また左には天文図を手にした”天文学”の寓意像、右には幾何学の図を示した板を持った”物理学”の寓意像が彼の棺を守っていました。後ろのフレスコ画はジョット派のものでしょうか?
ピサやパドヴァの大学で教えていたガリレオは1610年にトスカーナ大公と契約を交わし専属の科学者としてフィレンツェに住むことになりましたが、地動説を主張したことから宗教裁判で異端とされローマ教皇から破門されてしまいます。そして幽閉されていた1642年にフィレンツェ郊外で亡くなりましたが、当時は破門されていたため教会内にお墓を作ることができませんでした。死後100年近くたってメディチ家最後の大公ジャン・ガストーネの強い要望で1736年に彼を讃えるお墓が造られたそうです。亡くなる前には失明もしていたとか、辛い晩年でした・・・。 -
ファサードの裏側 ピオ・フェーディ ”詩の自由” 1883年
イタリア統一運動の時代に活躍した劇作家ジョヴァンニ・バッティスタ・ニッコリーニのお墓。”自由の女神”の作者であるフランス人彫刻家オーギュスト・バルトルディは、フィレンツェに訪れた際に見たこの彫刻から影響を受けて”自由の女神“を製作したと言われていますが、フランスではドラクロアの”民衆を導く自由の女神”に着想を得たと言われているそうです。ちなみに”自由の女神”は83年までに頭部やトーチ部分ができパリで完成したのは84年、それからニューヨークへ運ばれました。 -
右翼廊 ガリレオの墓の向かい ”ミケランジェロのお墓” ヴァザーリ他
ミケランジェロの棺の下にいる3人の女性は、左は絵筆を持っている”絵画”、中央はノミを持っている”彫刻”、右はコンパスを持っている”建築”を表している寓意像で3人ともミケランジェロの死を悼んでか悲しげな顔をしていました。上部のだまし絵のようなフレスコ画はミケランジェロに似合わないような気がしますがどうでしょう?
ローマで亡くなったミケランジェロはローマの教会に葬られていましたが、本人がフィレンツェに帰りたいと願っていたためサン・ロレンツォ聖堂で葬儀が行われ、彼の一族が眠るこの聖堂にモニュメントを作るようコジモ1世によりミケランジェロを崇拝していたヴァザーリに命が下されたということです。ブオナローティ家は代々サンタ・クローチェ地区に住んでいて、ミケランジェロ自身も6歳の頃から教会前のアングイッラーラ通りに住んでいたそうですからようやく故郷に戻れたのですね・・・。 -
”授乳の聖母” アントニオ・ロッセリーノ
ミケランジェロの墓碑のちょうど正面の柱には、”パッツイ家の陰謀”の際自らを犠牲にしてロレンツォの命を救ったフランチェスコ・ノーリの墓碑があります。
時の教皇シクストゥス4世が教皇庁の金融を担当していたメディチ家が持っていた権利を古くから銀行業を営んでいたパッツイ銀行に委譲したため、メディチ家とパッツイ家の対立が激化し1478年の事件が起きてしまいました。この事件でロレンツォの弟のジュリアーノは亡くなりましたが、生き残ったロレンツォはフィレンツェの支配を強力にし、ルネサンスも栄えたのでした。そして陰謀の11年後、14才のミケランジェロはロレンツォに見いだされメディチ家に寄宿して、後の教皇になるロレンツォの息子たちと一緒に教育を受け教養を身につけていったというのです。ミケランジェロもまたフランチェスコ・ノーリが命の恩人なのかもしれませんね。
ルネサンスの彫刻家であるロッセリーノは、アーモンド形の装飾の中に聖母子を置き、また聖母子を包み込むような幕の模様も彫っていてやさしく繊細な表現でノーリを悼みました。 -
”ダンテの記念碑” ステファノ・リッチ 1829年
フィレンツェ生まれの詩人。政治抗争に巻き込まれフィレンツェを追放されたあと北イタリア各地を転々としながら”神曲”を書き上げ、1321年にラヴェンナで亡くなりました。またダンテはそれまでラテン語で著作を表していたのに対し、フィレンツェで話されていた口語で”神曲”を表しその言葉が現代イタリア語の元になっているため”イタリア語の父”と呼ばれています。
お墓はラヴェンナにあるため霊廟のように見えるこの記念碑は、19世紀終わりにイタリア統一後再評価されるようになってから作られました。左の”イタリア”の寓意像がダンテを指し示し、右の”詩”の寓意像が大きな悲しみを表現しています。またちょっと見えにくかったのですが、ダンテの頬杖の下には”神曲”があるそうです。 -
右3番目の柱 ダ・マイアーノ ”説教壇”
”聖フランチェスコの生涯”が遠近法を使って描かれていました。 -
”アルフィエーリの墓” カノーヴァ
アルフィエーリは18世紀のイタリアの劇作家ですが、調べると奔放な方だったようです。カノーヴァらしい上品な墓廟は素敵ですが・・・。 -
イチオシ
ドナテッロ ”カヴァルカンティの受胎告知” 1430年代
フィレンツェの名門カヴァルカンティ家の礼拝堂のために制作されたもので、フィレンツェ近郊で採れる青灰色のセレーナ石に金箔をほどこしています。この作品はドナテッロがローマから帰ってまもなく作られたそうで、ローマの古代建築からヒントをもらっていると思われます。また壁籠の奥行きが30㎝あまりと狭いのに大天使と聖母マリアを立体的に彫っていて、しばらく見とれていました。 -
”レオナルド・ブルーニの墓” ベルナルド・ロッセリーノ 1448~50年
優れた古典学者の1人、L.ブルーニのお墓。
15世紀半ばまでフィレンツェでは彫刻をともなう壁面墓碑はほとんどなく、教会の床面に墓石板をはめ込んだものが一般的だったそうです。この墓碑は壁面墓碑の最初の重要な作品で、そののち向かいにある”カルロ・マルスッピーニの墓”へと発展していったそうです。まるで古代の建築物の中に棺が置かれているようです。 -
”カルロ・マルスッピーニの墓” デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ 1455年
マルスッピーニはイタリアの人文学者で、この墓碑は夭折の天才彫刻家セッティニャーノによって作られました。ブルーニの墓の対面付近に置かれています。
ライオンの足でできている棺の足の部分といい棺の形や装飾彫刻も、1470年代にヴェロッキオが制作したロレンツォ聖堂の旧聖具室にあるピエロとジョヴァンニのお墓によく似ていて、ここからヒントを得たのではないかと言われています。そうしてそれをレオナルドも参考にした・・・。ルネサンスの真っただ中でたくさんの芸術家が刺激を受け合ってよりよい作品がうまれていったのでしょう。 -
”ロッシーニの墓” カッシオーリ 1887年
開いたカーテンの下には本人の胸像があり、胸像の下にあるのはよく見えませんでしたがト音記号のレリーフだそうです。そして棺に向かって哀悼の意を表している”音楽”の擬人像と、その下には生まれた街PESARO、初めてオペラを上演した街FIRENZE、亡くなった街PARIGIと表記がありました。
ロッシーニはたくさんのオペラを作曲したペーサロ生まれの作曲家で、この墓廟はサンタ・クローチェ聖堂の中で最後に建てられました。本人は18才でオペラデビューをした後、24才の時”セビリアの理髪師”、37才の時”ウイリアム・テル”と大作を作りそれが最後のオペラとなりました。人気作曲家となったため多忙による疲労と不眠症に悩み各地を転々として活躍しましたが、晩年は病気との戦いでパリで亡くなり本人の希望でここに埋葬されたそうです。モーツアルトもそうでしたね、才能のある人の苦悩というのははかりしれないものがあるのでしょうね・・・。 -
イチオシ
主祭壇 アーニョロ・ガッディ ”聖十字架の物語” 1380年頃
タッデオ・ガッディの息子アーニョロにより作られた礼拝堂で、ステンドグラスも彼の作品。聖十字架はキリストが磔にされた十字架の事で、その木の伝説が左右の壁に描かれています。聖十字架、サンタ・クローチェにふさわしい主祭壇です。
色彩がとてもきれいで美しいと思ったら、金沢大学とフィレンツェの国立修復研究所が協力して修復に取り組み2010年に完成したものだそうです。そういえばウフィツイで石川県から来られた学生さんのグループにお会いしましたが、この修復の事を知っていてこの教会に来られていたらいいのにと思いました。 -
右の壁面は上から ”アダムの死”、”シバの女王の躓拝”、”十字架の発見と検証”、”十字架をエルサレムに持ち帰る聖女ヘレナ”、の順に描かれています。
アダムが亡くなった後お墓の上に大天使ミカエルからもらった木の枝を植えたところ、立派な木が育ちます。ソロモン王を訪ねて来たシバの女王がその木で作った橋を渡ろうとした時に、その木が”救世主を殺す木”となることを予見しつまづいて礼拝しました。謁見の際女王からその話を聞いた王は、その木を地中深く埋めるようにと命じます。その後しばらくしてその木を埋めた場所で池を掘っていたところ霊水がわき、キリストの受難が近づいた時その木がひとりでに浮かび上がってきてその木でキリスト磔刑の十字架が作られたというのです。
その後4世紀になってマクセンティウスとの戦い勝ちローマ皇帝となったコンスタンティヌスはキリスト教を公認し、熱心なキリスト教徒であった母エレナはエルサレムへ巡礼の旅に出かけ十字架を発見しました。しかしゴルゴタの丘で発見された十字架は3本あったため通りかかった葬列にかざして、最後の十字架で死者が蘇ったため”真の十字架”とわかったのです。(金沢大学の”壁画修復プロジェクト”のレポートから抜粋させていただきました)
右の壁の絵はわかりやすいのでぜひ見て欲しいです。 -
左の壁面は上から”十字架をエルサレムに持ち帰る聖女ヘレナ”から始まり、ペルシャ王が十字架を奪ったシーン、神のようにふるまっていたペルシャ王を東ローマ皇帝が倒し、十字架と共にエルサレムに凱旋した様子が描かれていますが、人物が多くわかりにくかったです・・・。旧約聖書から始まり7世紀にまでいたる壮大な歴史物語です。
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そのふたつ右 ペルッツィ礼拝堂 ジョット
洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネに捧げられた礼拝堂です。
主祭壇の隣にある同じくジョットによる”バルディ礼拝堂”は修復中でした・・・。 -
今から700年も前のフレスコ画なので修復していなければこのくらいしか見えません。でもはげ落ちた部分がないだけでも救われます。
ペルッツイ礼拝堂の装飾画はルネサンス期において非常に有名で、特にブランカッチ礼拝堂で”貢の銭”を描いたマサッチオに多大な影響を与えたそうです。今日の午後最後に行く予定だったのですが・・・。 -
右翼廊 バロンチェッリ礼拝堂 タッデオ・ガッディ ”聖母マリアの生涯” 1328~38年
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左部分はきれいに残っています。
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多翼祭壇画 ”聖母戴冠” ジョット、タッデオ・ガッディ 1328年
祭壇画の中央部分だけがジョットの手によるものだそうです。タッデオ・ガッディはジョットの弟子でした -
上の絵 ”羊飼いへの天使の知らせ”
西洋絵画史上初めて夜の場面を描いた作品と言われています。 -
聖具室 チマブーエ ”磔刑図” 1272~80年
1966年11月、アルノ川が歴史的な氾濫をおこしこの磔刑図も大きな損傷を受けました。その後修復されたもののこれ以上戻らず、大洪水の記憶をとどめるシンボルとなっているそうです。
チマブーエの磔刑像はキリストの体を曲線を使って描いており、1290年にジョットがノヴェッラ教会のために制作した磔刑像につながった作品だそうです。 -
内陣突き当り メディチ家礼拝堂 アンドレア・デッラ・ロッビア ”聖母戴冠”
綺麗としか言いようのないロッビアの作品です。 -
左翼廊奥 バルディ礼拝堂 ドナテッロ ”磔刑像”
ひっそりとたたずんでいる磔刑像、ブルネレスキはこれを見てノヴェッラ教会の磔刑像を作ったそうです。友人とはいっても芸術家同志ライバル心があったのですね。 -
聖堂右手の出口から回廊に出るとパッツイ家の礼拝堂がありました。
ブルネレスキがアンドレア・デ・パッツイのために建造したルネサンス様式の礼拝堂の傑作で彼の代表作。パッツイ家が栄華を誇っていた15世紀半ば、サン・ロレンツォ聖堂の旧聖具室より20年あとに建てられました。 -
入口ポルティコ上部の小クーポラはルカ・デッラ・ロッビアによるテラコッタを使ったもの。白にブルーの円のモチーフがちりばめられていて、まん中にパッツイ家の紋章(イルカが背を合わせたもの)があります。
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内部の大クーポラ。サン・ロレンツォ聖堂旧聖具室の内部に似ていますが、ブルネレスキはドナテッロの装飾過多をあまりよく思っていなかったようでこちらの四隅のペンデンティブのメダイオンやその下のパッツイ家の紋章はブルネレスキ自身が製作しました。たしかにシンプルになっています。
こちらも礼拝堂内部の全体は撮っていなかったですが、下部にある12使徒のテラコッタはルカの作品だそうです。 -
彩色テラコッタのメダイヨンは4人の福音書記者を表していて、ジョヴァンニ・デッラ・ロッビアよりかなり以前に多色使いをしたテラコッタで、絵図柄もなかなかユニークなものでした。また写真左下に写っている堂内左側の小さな礼拝堂のクーポラは、サン・ロレンツォ聖堂のものと同じ、1442年7月4日のフィレンツェの星空だそうです。
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ポルティコの柱頭の装飾はサン・ロレンツォ聖堂身廊のものに似ていますね。
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イチオシ
中庭をぐるっと回るとポルティコのある礼拝堂の全景と鐘楼もよく見えました。クーポラがただ単にドームではないところが可愛いです。またこの回廊の中庭にはフィレンツェ出身ナイチンゲール像もあったようです・・・。
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回廊を回って出口付近の修道院の食堂であった場所に、付属美術館がありました。
タッデオ・ガッティ ”生命の木”と”最後の晩餐” 1340年頃
修道院の食堂に”最後の晩餐”が描かれていることはたくさんありますが、この絵は”最後の晩餐”だけではなく”生命の木”を中央に左右にも別の絵を描いています。
”生命の木”は旧約聖書の創世記にあるエデンの園に植えられた2本の木のうちの1本で、もう1本は”善悪の知恵の木”。生命の木の実を食べると永遠の命を得ることができることから、知恵の木の実を食べた人間が生命の木の実までも食べて永遠に生きる事がないようにするため楽園から追放したそうです。
ジョットの弟子であったガッディの代表作です。 -
かすかに”聖母戴冠”も残っていました。
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”トゥルーズの聖ルイ” ドナテッロ
フランチェスコ会の聖人の1人でもともとナポリのアンジュー家の王子。もともとオルサンミケーレ教会のために作られましたが、フランチェスコ会のこの教会に移されました。最初は外にあったそうですよ。 -
”最後の晩餐” ヴァザーリ
1966年11月に起きたアルノ川の氾濫の際、この付属美術館にあったヴァザーリの作品も大きな損傷を受けました。その後長い間の修復を経て洪水から50年の2016年に戻って来たそうです。ヴァザーリらしい色鮮やかな”最後の晩餐”です。
もともとここはアルノ川の中州にあたりフィレンツェで最も低い地域だったそうで、そのため大きな被害を受けてしまいました。現在アルノ川沿いには堤防が作られていますが、最近でもヴェッキオ橋の橋げたぎりぎりまで水位が上がったこともあったそうでこの先が心配ですね・・・。
やっと昼食です。 -
”Da Que' Ganzi”に着いたのは13時50分前でしたが、お店はがらがらのままですんなり席に通してもらえました。
渡されたのは紙のランチメニューとちゃんとしたメニューもありましたが、もう何でもいいやという気分で前菜とパスタを選びました。セットメニューはパスタだけのものとセコンドだけのもの、パスタとセコンド両方を選べるものと3種類あるのですが、前菜とパスタを選べるものはなかったので。どれも500mlの水と食後のエスプレッソがつく超お得なメニューです。 -
ほんとに2組くらいしかいませんでした・・・。この時間小雨も降っていたし、お客さんは来ていないと思いました。
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選んだ前菜は、ポレンタを焼いたものの上にポルチーニ茸をのせたもの。どちらも大好きな食材なのに、そこはお得なメニューの悲しいところで味はまずくはないですが美味しくもなく残念な前菜でした。
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パスタで選んだのは海のパスタでしたが、これはランチ用の作り置きされているパスタだったようで、アルデンテ感もなく伸びた感じでシーフード類も身が小さく、唯一トマトソースだけは美味しかったです。
そしてエスプレッソを待ったのですがなかなか来なくて、先にレシートが来てしまいエスプレッソは?と尋ねてようやくいただけました。レシートには前菜が6.5ユーロにパスタが7.5ユーロでコペルトが1.5ユーロ、イレギュラーな組み合わせのためエスプレッソ込みのセットメニューにはなってなかったようでエスプレッソ代は別に払いました。まあとにかくお腹はふくれました(笑)
この後カルミネ教会へ4時までに着かないといけないので、ふたつ隣くらいにあるカーサ・ブオナロッティ(甥が建てた邸宅でミケランジェロの美術館になっている)の事はまったく忘れていました・・・。 -
もう一度サンタ・クローチェ広場を通りました。この広場で噂の馬上大会があったのですね!
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”オルサンミケーレ教会”
ドゥオーモからシニョーリア広場に抜けるカルツァイウォーリ通りに建つ教会。ここにはもともとサン・ミケーレを祀る礼拝堂があり13世紀の中頃小麦市場と礼拝堂を兼ねた建物が造られたものの火災で焼失し1337年から再建されたもので、1階には吹き抜けの市場が上階には礼拝堂が設けられていました。最初のペストの流行が終わったころにオルカーニャに祭壇の製作が依頼され、小麦市場は移転して1階部分が閉じられ教会になりました。
外壁の4面には壁籠があり14~16世紀の14体の彫刻が飾られていて、上部にはロッビア工房のテラコッタのレリーフも残っています。中世のフィレンツェではそれぞれの職業の人たちが自分たちの産業を守るために組合(ギルド)を作っていて、それぞれ守護聖人が決まっていたそうです。教会の正面中央にあるのはヴェロッキオ作”聖トマスの不信”、(もともとここにはサンタ・クローチェ教会にあった”トゥルーズの聖ルイ”があったそうです)上はフィレンツェの紋章でルカ・デッラ・ロッビアの作品です。
正面左手の入り口にチケット売り場がありますが、この教会の至宝オルカーニャのタベルナーコロがすごい迫力で目の前に見えました!(入口は反対の西側、またこの教会はフィレンツェ・カードは使えなかったです) -
南面右端 絹織物の組合の紋章 アンドレア・デッラ・ロッビア
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南面右から2番目 ”バラの聖母” 医師・薬種商の組合
上にはルカ・デッラ・ロッビアの聖母子像の紋章がきれいに残っていました。 -
南面左端 ”聖マルコ” ドナテッロ 麻織物・古物の組合
有翼のライオンがお供で美しい彫刻に囲まれています。 -
北面右端 ”聖ジョルジョ” ドナテッロ 武器・甲冑の組合
オリジナルはバルジェッロ博物館ですが、下の”ジョルジョの竜退治”、右側にお姫様がいますね!バックに建物が遠近法で彫られているのがかすかにわかります。 -
こんな紋章もありました。
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北面右から2番目 ”4人の殉教者” ナンニ・デ・バンコ 石工・木工の組合
下には右に木工職人、左に石工職人を表した浮彫りがありました。壁籠にある彫刻はすべてコピーで”聖ジョルジョ”以外は2階の美術館に置かれています。 -
教会内部 正面右 オルカーニャ ”タベルナーコロ” 1352~59年
人々の信仰を集めていた中央の板絵”オルサンミケーレの聖母”を収納・開示するために造られた大理石製の大きな祭壇で、天井に着きそうなくらいの大きさと非常に繊細なレースのような彫刻が美しく光っていました。こうやって離れて見ても大きいですが、チケット売り場から見ると間近なのでもっと驚きます。 -
イチオシ
ベルナルド・ダッディ ”恩寵の聖母” 1366年
言葉も出ないくらいの美しさでした。 -
正面左 ”聖母子と聖アンナ像” サンガッロ 1526年
フィレンツェを治めていたアテネ公が専制政治を行おうとしたため1343年7月26日に市民が蜂起してアテネ公を追放し、その日が聖アンナの日だったため聖アンナはフィレンツェの守護聖人となりました。それから200年後、フィレンツェ市が聖アンナへ捧げるこの祭壇を作ったそうです。上部にあるステンドグラスは”聖母マリアの生涯”を描いたもので教会内をぐるっと囲んでいます。 -
教会から出て向かいの羊毛会館から2階に上がり連絡通路を渡ると、2階の美術館に行くことができます。
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連絡通路からは街並み越しにジョットの鐘楼が見えました。
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美術館には所狭しとブロンズ像が並んでいます。
ヴェロッキオ ”聖トマスの不信” 商業の組合 1483年
12使徒の中で一人だけイエスが復活したところを見ていない聖トマスは主の傷痕に手を入れるまで復活を信じないと言いましたが、その8日後聖トマスの前にイエスが現れ聖トマスに自らの傷痕に手を差し入れなさいと言っている場面。正面にふさわしい彫刻です。 -
”バラの聖母” 医師・薬種商の組合の守護聖人はやさしい彫像です。
帰ろうとすると初日にお世話になった方が、”3階に上がるとドゥオーモが見えますよ”と教えてくださったのですが、お天気がよくなくてジョットの鐘楼もくっきり見えなかったのと先を急いでいたのでお断りしました。 -
”新市場のロッジア”
中央市場の皮製品の屋台と違って広々としています。 -
”サンタ・トリニタ橋”
この橋はバルトロメオ・アンナンマーティによって1567年から69年かけて建設された世界で最も古い楕円アーチ橋で、1608年にはコジモ2世とオーストリアのマリア・マッダレーナの結婚を記念して春・夏・秋・冬の四季像が付け加えられました。しかし第2次世界大戦で退却するドイツ軍によって橋は破壊され、その後川から引きあがられた石材を使い再建されたそうです。
またこの橋からは晴れていればヴェッキオ橋もよく見えるので、橋のたもとの”Gelateria Santa Torinita" でジェラートを買って休憩するのもおすすめです! -
16時に”サンタ・マリア・デル・カルミネ教会”に着きました。
13世紀創建のカトリックの修道院であるカルメル会の教会で18世紀に火事で焼失後内部はロココ調で再建されましたが、ファサードは多くの教会と同じように仕上げなしで残されています。この教会にはルネサンスの幕開けとなったマゾリーノとマザッチョが制作したブランカッチ礼拝堂があり、Googlemapに出ている施設情報には礼拝堂は金曜から月曜までの10時から17時までとあり、チケット売り場は16:15に閉まると口コミがあり午後から急いでいたのですが・・・。 -
教会に入ろうとすると中には入れないようになっていて、教会の見取り図などがありました。もともと礼拝堂には右手の白いドアから入って回廊を抜けてたどり着くようになっているようでした。
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こんな絵もありますよ、という説明だけ・・・。右の当時のファッションも気になりますがいちばんは”貢の銭”が見たかった・・・。
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礼拝堂内部はこんなですよ、という写真・・・。
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よく見ると入り口のドアには張り紙があり、なんと曜日指定ではなく礼拝堂に入れる日が決まっているというお知らせがあるではありませんか!3月は4、8、11、15、18…。えっ、昨日来れば入れたの?もう頭の中が真っ白・・・。教会の入り口で呆然としていたら、なんと救世主が現れたのです。80才くらいの神父様が近づいてこられたので、日本からこの礼拝堂を見に来ましたなどなど訴えたら右側のドアの方へ手招きしてくださったのです。
回廊を過ぎて礼拝堂へ着くとなんと礼拝堂は改修中で足場が組まれ幕に覆われていて、隙間からのぞき込むくらいしかできません。それでもこの貴重な空間に招き入れてもらえてだけでも感動してしまって、ただただ感謝を伝えて教会を後にしました。 -
カルミニ教会周辺のカフェなど調べていてけっこう評価が高かった ”S.forno”というパン屋さんにトイレを借りるために入ったのですが、カフェラテもチェリーパイもまったく美味しくなく、次のジェラテリアがあるので残してしまいました・・・。
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”Gelateria La Carraia"
ここも評価の高いお店で期待していたのですが、午後で疲れていたのか何を選ぼうとかあまり考えなかった・・・。 -
結局選んだのは右から3番目のクッキー入りのレモンのジェラート。FROLLINOが花かなと思ったのに単純にクッキー(笑)
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そして先ほど失敗したのにダークチェリーのジェラートです。
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味は、微妙でした(笑)黄色いクッキーの存在が強くて、ダークチェリーの方もヴェネチアのSUSOにくらべたらシンプルすぎるお味でした。でもこのお店がよかったのは外にかなり広いベンチがあったんです!1日中歩いていると休憩できる時間はとても貴重でゆっくり味わいながらいただいていると、ひとつ先の席に日本人の親子さんらしい方とお友達のフィレンツェっ子のグループがわいわいと楽しそうにいるではありませんか!みんなイタリア語で話しているので話しかけようか迷っていたら、男の子が”あっ”と驚いたような声を出したのです。聞いてみたらご主人がこちらで仕事をされている方で、ここは安くて美味しいんですよ!と。私のチョイスが悪かっただけでした。疲れている夕方はいつもフルーツ系のさっぱりしたものを選ぶのですが、もしまた来れたらしっかり選びたいと思いました。
このあとオンニサンティ通りにある小さなCONADにお水を買いに寄ったら、ピエモンテ産のチーズやアンチョビの大きい瓶があり、CONADのサラダボールも買っていったんホテルへ戻りました。 -
ホテルで少し休憩した後、中央市場近辺へ出かけました。お昼が遅かったのでお腹はそんなに空いていなかったのですが軽食を食べるためと、2日目に買ったバッグをもう一つ買うため、そしてその時もう閉まっていた ”il Cantuccio" へ行くためです。
Wi-Fiのつながるホテルで調べたら20時までとあったので、着いていちばんに行ってみました。お客さんもまあまあいました。 -
入口には袋詰めされたもの。ノーマルだけでなくチョコ味、ミックスなどもあり、大きさも2種類ありました。
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カウンターの下のショーケースには量り売りのものや他にもいろいろな焼き菓子が並んでいましたが、袋詰めされたノーマルの小さい袋をを3つお土産用に買い、隣の通りにある皮製品の屋台へ。
同じお兄さんがおられたのですが、欲しかった紺色がもう売り切れていたんです。違う色をすすめられましたがくすんだパステルカラーで合わせるのが難しそう・・・。断って帰ろうとしたらなんと隣の屋台から紺色を持ってきたんです。”OK?”と聞くと大丈夫、みんな兄弟とかなんとか言っていました(笑)そして30ユーロというお兄さんに”これは3個目だから”とお願いして大幅に安くしてもらったのでした! -
中央市場に着きぐるっと回って見ましたがそんなに食指が動くものがありません。そんな中牛肉を使ったお寿司屋さんを見つけ、値段も6つで10ユーロとお手頃だったので買ってみました。ライスペーパーで巻いてあるお寿司はペーパーが水分を吸ってぱさぱさしていたのですが、生のお肉の握りは美味しかったです。でもめっちゃ小さかった!
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ホテルに戻ったのが7時半でその頃にはお腹も空いていたので、CONADのサラダとアーティチョークの残りに洋梨をいただいてようやく長い1日が終わりました。(この洋梨はホテルの朝食会場にあったもの、洋梨は柔らかいくらいが美味しいですね)
衣替えに始まり庭の花の植え替えからプランターの野菜も植え替えたりとたくさんの家事に追われ、4日間はずいぶんと時間がかかってしまいました・・・。
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