2024/03/12 - 2024/03/20
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2日目は朝一にウフィツイ美術館へ入り、その後ヴェッキオ宮殿、ランチを挟んでパラティーナ美術館、そして教会をいくつかめぐるこの旅のハイライトです。
ルネサンスは誰でも聞いたことがある言葉と思いますが、再生・復活などを意味するフランス語で古代ギリシャやローマの文化を再評価しようとする文化運動のことです。14世紀にイタリアで始まりやがて西欧各地に広がっていきましたが、ルネサンスの中心地となったのは地中海貿易で繁栄した北イタリアのトスカーナ地方の街でした。特にフィレンツェは毛織物業と銀行業が盛んになり大きな経済力を持ったメディチ家がパトロンとなり、多くの芸術家を育てました。
私がルネサンスに興味を持ったのは学生時代に”西洋美術史”という教養の科目を受講したからで、ようやく2016年のツアーでフィレンツェを訪れたのでした。ただツアーだったためウフィツイ美術館も主だった作品しか見れず、午後からの自由時間でアカデミア美術館とパラティーナ美術館を回りましたが、いつかゆっくり街全体を見たいと思ってきてやっと今回実現しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
昨夜は9時半過ぎに寝て目が覚めたのは夜中の2時過ぎ!いくら時差ボケでもこれは早すぎると睡眠導入剤を半錠飲んだのが失敗でした。たしか寝る前にアラームを6時に設定しておいたはずなのに、目が覚めたらなんと7時!部屋は昨日片づけないまま寝てしまったのでぐちゃぐちゃで、それよりもウフィツイ美術館の8:15の予約をホテルの方にとっていただいていたのでそれまでにフィレンツェカードを買わないといけないのです。
ほんとうなら今朝はホテルの朝食抜きでレップブリカ広場にある”Caffe Gilli”でコルネットとカプチーノをいただき、朝のアルノ川でも見てチケット売り場へ行くつもりでした。とにかくホテルを出発せねばと、乾いていた下着をスーツケースに放り込み(窓の下にちょうど広げていました)、買ったお土産や化粧道具も入れてなんとか15分過ぎには部屋を出ました。
エレベーターで下りると30分からと聞いていた朝食会場の準備ができているではありませんか!まだ30分は時間があると計算してホテルの朝食をいただくことにしました。 -
ハム類に向こうにはチーズと美味しそうなものが並んでいます。それにまだ誰も来ていません。
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ケーキ類もパチリ!イタリアの人ってほんとうに甘いものが好きで、朝からずらりと並んでいます。
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mila のヨーグルトにカットしたフルーツもありました♪
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少なめにチョイスして急いで食べていたら、コーヒーカップの奥にあるチーズケーキがめちゃくちゃ美味しいのです!これだけはゆっくり味わっていただきました。
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途中の写真はまったくとる余裕がありませんでしたが、チケット売り場で困ったことに・・・。
ウフィツイのチケット売り場に8:05頃に着いて10人も並んでいなかったと思います。手前に予約者の引き換え窓口があるのですが、そこも同じくらいでした。15分になり列が進んで順番が来てフィレンツェカードを下さいと伝えたところ、窓口の30くらいの男性はあまりフィレンツェカードを発券したことがないのか引き出しを探したり他のパソコンを操作したり出し方が分からないようなんです。もう一つの窓口のベテランの女性が私の後ろに並んでいた人に発券し終わったので8:15からの予約番号を見せると、ウフィツイの入場券だけは発券してくれました。ちょうどその頃には彼もわかったみたいでフィレンツェカード一式を渡してくれ、アカデミアにはいつ行くの?と聞いてくれたのです!
お兄さん、ナイス!私はドタバタを見ている間にアカデミア美術館も予約してもらうというミッションを完全に忘れていたのでした(笑)土曜の9時からのチケットをもらい出ようとすると、そのまま向かいの入り口に行ってね、みたいなことを言われたのですが、売り場から向かいに行くと全然人が並んでいないのにテープで区切ってあって、美術館の建物の半分くらい戻ってまた半分くらい進んでやっとたどり着いたのでした(なかなか応用の効かないお国です)。
美術館に入って最初にすることは、そうトイレに行くことです。入場口も人が少なかったのですが、3階へ上がるとこのくらいしか人がいませんでした。以前ツアーで来たのも3月でしたが終わりの頃で、ホテルでの朝食もそこそこに添乗員さんに”時間が勝負”と言われて急ぎ足で美術館へ向かったのを覚えていますが、コロナは終息しても世界の状態がこんな風でなおかつ不況やいろいろな要素があり、完全には観光客が戻っていないのでしょう。
廊下にも彫刻が飾ってあり天井も美しいのですが、心に余裕がないとじっくり見れません・・・。
ウフィツイ美術館は16世紀にメディチ家のコジモ1世が行政庁舎として建てた建物で、Uffiziは英語のOfficeと同じ語源を持つ言葉です。息子のフランチェスコがメディチ家の貴重な美術品を集めたのがウフィツイ美術館の美術コレクションの始まりで、その後展示する場所として発展していきました。
3階東側より見ていきますが、部屋番号は記載しません。
ビザンチン美術の影響の強かった13世紀後半の作品からスタートです。
写真はほとんどCANONのIXY650で撮っったので、iPhoneの画像よりかなり落ちると思います。私のスマホはandroidでおまけに指先が乾燥しているせいかシャッターが押せないことが多いのです。美術館のように混雑している場所では一瞬の間で撮らなければいけないので、片手でもほとんどブレないIXYにしました。
横長の写真はクリックすると拡大して見ることができます。 -
チマブーエ ”サンタ・トリニタの聖母” 1283~91年頃
サンタ・トリニタ教会の祭壇画で、信者がどこからでも眺められるようにと描かれた大きな板絵です。シエナ派と違いフィレンツェ派はより正確なリアルさを追求したと言われていますが、まだ平面的です。
チマブーエやドウッチョはルネサンス期の黎明期に活躍した画家で、ビザンチンの影響が強く残っています。 -
ドウッチョ ”ルッチェライの聖母” 1285年
ドウッチョはシエナで活躍しシエナ派の祖と言われていますが、この絵はサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のルッチェライ礼拝堂の祭壇画でした。椅子に立体感が出ていて聖母子も立体的に描かれ、表情も柔らかです。天使の所作も可愛い~ -
ジョット ”荘厳の聖母” 1310年頃
オンニサンティ教会の祭壇画として描かれたジョット唯一の板絵。オンニサンティ教会はジョットの磔刑像もある教会です。
羊飼いの少年だったジョットはチマブーエに見いだされ弟子になります。これまでの二人のようなビザンチンの作風から離れ、より自然で人間らしく写実的な絵を描きました。衣服には立体感があり人物の感情まで表した初めての画家で、最初のルネサンス絵画と言われています。聖母の表情がほんとうに柔らかい。そして玉座の階段の模様もすごく細かく描いてありました。
この絵はこの部屋の中央にありいちばんの人だかりがしていて、それもみんな長くいるんです。私も惹きこまれてしまいなぜか縦長に撮っていませんでした・・・。 -
ピエトロ・ロレンツェッティ ”聖母子と天使”
シエナ派の画家。13世紀後半にシエナで始まった国際ゴシックという流派の画家でアンブロージョ・ロレンツェッティの兄。アッシジの聖フランチェスコ聖堂の下堂のフレスコ画を担当したことから、ジョットの影響を受けたと言われています。(ドウッチョやチマブーエも下堂のフレスコ画を担当しています)
シエナは14世紀当時フィレンツェと並び繫栄していて、パトロンの存在が美術も大きく育てました。 -
イチオシ
シモーネ・マルティーニ ”受胎告知” 1333年
正式には”聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知”、シエナのドゥオーモの聖アンサノ祭壇のために描かれた作品。本来受胎告知は大天使ガブリエルが純潔のシンボル”百合の花”を持っていますが、敵対するフィレンツェの市の花であるため後ろに据えられ、平和の象徴であるオリーブの枝を持っています。また小さくて見えにくいですが、天使の口からマリアへ向けて言葉が発せられています。”おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる”とラテン語で描いてあるそうです。(この作品はリッポ・メンミとの共作と言われています)
シモーネ・マルティーニはシエナ派を代表する国際ゴシックの画家で、ロレンツェッティ兄弟とともに活躍しました。この絵はこれまで見たことがなかったのでものすごく楽しみにしていましたが、想像以上の素晴らしさ!ジョットなどの部屋から小さい部屋に入るので驚きも倍!天使も少し身をそらすマリアもとても繊細で美しい。シエナ派でいちばん好きになった作品でした。 -
アンブロージョ・ロレンツェッティ ”3面祭壇画” 1332年
シエナ派を代表する画家ですがフィレンツェに滞在していた頃に描かれた作品。聖母の表情とびっくりしたような幼子キリスト、繊細な美しい絵です。 -
アンブロージョ・ロレンツェッティ ”聖ニコラウス伝” 1332年
聖ニコラウスはサンタクロースの元になった聖人で、聖伝には弱い者を助けた話や、起こした奇跡の話が数多く残っているそうです。4つの絵はそれぞれ”絞殺された子供の再起”、”小麦の奇跡”、貧しい娘に持参金を施す”、”聖ニコラウスの叙階”。 -
タッデオ・ガッディ ”荘厳の聖母” 1355年
ジョットの弟子を長く務めた画家でこれまで名前も知らなかったのですが、サンタクローチェ教会のバロンチェッリ礼拝堂や付属美術館に有名な絵があり今回楽しみにしていた画家の1人です。
ちょこんと座った幼子イエスが可愛い~ -
ロレンツォ・モナコ ”聖母戴冠” 1414年
シエナ出身の画家ですが14世紀末から15世紀初めにかけてフィレンツェで活躍しました。この絵はシエナ派らしい国際ゴシックの、金箔や鮮やかな色で描かれています。またフィリッポ・リッピの師でした。 -
イチオシ
ファブリアーノ ”東方3博士の礼拝” 1423年
この絵も今回見たかった絵のひとつ。ファブリアーノはロレンツォ・モナコと同時代に活躍し晩年をフィレンツェで過ごしましたが、これはその頃の作品で代表作です。色使いといい人物の描き方といい非常に美しい絵でした。
幼子キリストの誕生を知り、東方からカスパール、バルタザール、メルキオールの三博士がベツレヘムの星に導かれ生誕の地にやってきた様子が描かれています。金の使い方がとてもおしゃれ!遠景も細かく描かれています。
人物もそうですが馬の描き方なども急にいきいきしてきた気がします。ヴェローナのサンタアナスタシア教会にあった同じ国際ゴシックのピサネッロの絵にも似ています。 -
3博士の服装、とてもきれい!幼子キリストはカスパールの頭に手を伸ばしていますが、メルキオールの足元にいる青い服の従者は何をしているのでしょうか?
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裾絵は”エジプトへの逃避”ですね。
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フラ・アンジェリコ ”砂漠での聖なる父たちの生活”
ネームプレートを見なければ誰の作品かわからなかったけれど、細かな生活の様子がメルヘンのような作品。”聖母戴冠”も撮ったのですが光が多すぎてきれいに写りませんでした・・・。
フラ・アンジェリコはドミニコ会の修道士で1436年に設立されたばかりのサン・マルコ修道院に移ってきましたが、当時のフィレンツェは芸術が花開き始めた頃で、サン・マルコに個室を持っていたコジモ・デ・メディチの後援も受け、ローマに移るまでの10年間に宗教的モチーフを題材にたくさんの作品を残しました。
修道士としても重要な役職に就き、謙虚で温和な性格の持ち主だったそうです。 -
フィリッポ・リッピ ”聖母戴冠” 1439-47年
絵画の師はロレンツォ・モナコと言われていて前出の”聖母戴冠”とよく似た構図ですが、カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂の製作を手伝っていたことがあり、マザッチョの影響を受けていました。人物ひとりひとりの表情が生き生きと描かれています。 -
フィリッポ・リッピ ”幼子キリストへの礼拝” 1455年頃
フィリッポ・リッピは家が貧しかったことからカルミネ教会の修道院に預けられ修道士になりましたが、絵が上手であったため画家でもありました。 -
フィリッポ・リッピ ”幼子キリストへの礼拝” 1458年頃
同じテーマながら、メディチ・リカルディ宮殿マギの礼拝堂にある”幼児礼拝”の構図に似ています。 -
イチオシ
フィリッポ・リッピ ”聖母子と2天使” 1465年頃
非常に美しい絵でリッピの代表作。
プラ―トの大聖堂の壁画制作中の1456年、司祭に任命されていた修道院の修道女ルくレツィア・ブティを自宅に連れ去ってしまいましたが、彼の才能を知っていたメディチ家のはからいで結婚が許され翌年には息子フィリピーノ・リッピが誕生しました。この絵はその二人をモデルにした絵で、それまでの聖母子像からフィリッポ・リッピ独自の世界観で描いた絵としても有名です。
イタリア語講座のヤマザキマリさんの独断美術館によれば、当時の宗教画はメディアのひとつでファッションや髪形が流行になることもあったそうで、フィリッポ・リッピは審美眼もあり画家として意識して絵に投影していたのだそうです。マリアの髪型、ベールの付け方、ドレスの襟元や袖口、そしてつけている髪飾りも女性たちの目をくぎ付けにしたことでしょうね。
リッピはたくさんの聖母マリアの絵を描いていて、この滞在中いくつも見ることができました。 -
パウロ・ウッチェロ ”サン・ロマーノの戦い” 1435年頃
遠近法を使った初期ルネサンスの傑作。フィレンツェ軍とシエナ軍の間で1432年に起きた戦いで、ニッコロ・ダ・トレンティーノが敵将を倒したところが臨場感あふれるタッチで描かれています。この絵は3連祭壇画の中心部分で、ロレンツォ・デ・メディチが獲得を切望した作品だそうですが、残りの左右2面はロンドンのナショナル・ギャラリーとルーブルに所蔵されているそうです。
丘では驚いた動物たちが逃げ回っています(笑) -
ピエロ・デッラ・フランチェスカ ”ウルビーノ公夫妻の肖像” 1467年頃
ルネサンス期でいちばん有名な肖像画と言われている絵です。横顔のモチーフは当時流行していた様式で、バックにはモンテフェルトロ家の領地が広がっていてトラジメーノ湖も見えます。
西洋美術は宗教画からスタートしましたが、15世紀後半になると有力者の肖像画など幅広い対象が描かれるようになったそうです。 -
裏面は、出産後亡くなった妻への追悼文だそうです。
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ボッティチェッリの部屋。ボッティチェッリ ”3人の大天使とトビアス”
大天使ラファエルとトビアスが旅をしている絵はヴェネチアでも見たことがありますが、今回大天使は3人で気になって調べてみました。出典は旧約聖書の”トビト伝”で、父親が失明してしまったため息子トビアスに借金を回収してきてほしいと頼む”トビアスの冒険”です。当時借金の回収も旅をすることもかなり危険をはらんでいたため、大天使ラファエルが道中を守ると申し出ました。このエピソードの絵は当時の豪商たちのお守りだったそうですが、天使が3人いるのはより強力にという願いが込められているそうです。(右は大天使ガブリエル、左は大天使ミカエル。ローマのサンタンジェロ城の上にも剣を持った大天使ミカエルがいました)
また犬は始めからお供に連れて行く予定で、トビアスの衣装は当時のフィレンツェの裕福な商人の最新のファッションだそうです♪ -
イチオシ
ボッティチェッリ ”マニフィカトの聖母” 1481年
聖母マリアが、神様に捧げる感謝の祈り”マニフィカト”の冒頭部分を書いている場面。左手に持っているザクロはイエスの受難の象徴として描かれることが多いそうですが、聖母子だけでなく囲んでいる天使も色彩もとても美しい作品です。ボッティチェッリはリッピの弟子で彼もまたたくさんの聖母マリアを描きましたが、より優雅で魅力的な絵を残しました。
これからいくつか出てきますが、このように丸い額に入った絵はフィレンツェ・ルネサンス特有のもので”トンド”と呼ばれています。 -
ボッティチェッリ ”ザクロの聖母” 1483年
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イチオシ
ボッティチェッリ ”春” 1482年
ローマ時代の詩人オウィディウスの”祭暦”から。西風の神ゼピュロスの求愛を受けた森の妖精クロリスが花の女神フローラに変身するという物語で、変身したフローラは春の女神となってガウンの襞に集めた花を大地へふりまいたというお話で、それ以来春には様々な花であふれるようになったそうです。
暗い森の中央にいるのは地上のヴィーナス。手を取って踊っているのはヴィーナスの侍女である愛と美と貞節を表す三美神で、ヴィーナスの上を飛んでいる息子のキューピットが左端にいるローマ神話の神のひとりであるマーキュリーに矢を放とうとしています。
この絵はフィレンツェ郊外のメディチ家の別荘ヴィッラ・カステッロに飾られていて、ロレンツオ・ディ・ピエルフランチェスコの結婚を祝うためにボッティチェッリに依頼されたものと考えられていますが、今にも動き出しそうなフローラをはじめみな美しい!立ち止まっている人がいちばん多かった絵でした。またこの絵のフローラとマーキュリーは結婚した二人という説もありますが、やはり若くして亡くなった二人なのではないでしょうか? -
ボッティチェッリ ”ヴィーナスの誕生” 1484年
海の泡から生まれたヴィーナスを西風の神ゼピュロスと花の女神フローラが風を吹きつけて岸まで運ぼうとしている場面で、岸でも春の女神が花模様のマントを広げ着せようとしています。この絵もヴィッラ・カステッロにあり、ロレンツオ・ディ・ピエルフランチェスコ自身がボッティチェッリに依頼したとされています。
この絵のヴィーナスのモデルは、ボッティチェッリが憧れていたジェノヴァ出身でフィレンツェのヴェスプッチ家に嫁いだシモネッタでした。当時フィレンツェでは珍しい碧眼金髪の絶世の美女で、到着後またたく間に評判になりロレンツォ豪華王の弟ジュリアーノにも愛されていたそうです。悲しいことにシモネッタは23歳という若さで亡くなってしまったため、ボッティチェッリは絵に描くことで彼女を愛し続けたのだと思います。
ボッティチェッリの家とシモネッタの嫁いだヴェスプッチ家はごく近くにあり、ともに菩提寺がオンニサンティ教会でした。教会のミサで一目ぼれしてしまったのかもしれませんがボッティチェッリはシモネッタ家の支援も受けていて、なんとジュリアーノ・デ・メディチがクローチェ教会の馬上大会に出場した際、彼女をモデルに描いた女神の旗印をボッティチェッリに注文したのはご主人だったそうです。ジュリアーノ・デ・メディチは1478年にドゥオーモの礼拝中に襲われ亡くなってしまいましたが、シモネッタが亡くなって2年後の事だったでした。
丸紅本社にボッティチェッリの”美しきシモネッタの肖像”があるそうです。世界中で何枚もない肖像画、お近い方はぜひご覧になって下さい。 -
ボッティチェッリ ”カステッロの受胎告知” 1489年
サンタ・マリア・マッダレーナ・デ・パッツイ教会のカステッロ修道院のために描いた作品。 -
もう一度”春”
この日はいちばん混雑するこの部屋でさえ、人垣が途切れる時があるくらいでほんとうに鑑賞しやすかったです。朝早いためか団体の方が少なかったのもよかったと思いました。 -
ボッティチェッリ ”東方3博士の礼拝” 1476年
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会にある銀行家の礼拝堂のために描かれた初期の作品でで、メディチ家のたくさんの人物が描かれていること、中央の高い位置に聖家族を描いたことが特徴の作品です。どの人物が誰かは”地球の歩き方・フィレンツェ編”に載っています。また右端にはちゃっかりボッティチェッリ本人もこちらを向いて立っています。 -
ヒューゴ・ファン・デル・グース ”ポルティナーリの祭壇画” 1477~78年
”羊飼いの礼拝”を描いた3連祭壇画。ウフィツイ美術館にフランドル派の絵画があると知った時はヴェネチアにあったように交易からかと単純に思っていましたが、サンタ・トリニタ教会にあるギルランダイオの”羊飼いの礼拝”など当時の画家に非常に影響を与えたと知り、帰ってからWikipediaで調べてみました。
この絵を依頼したトンマーゾ・ポルティナーリはベルギーのブルッヘにあったメディチ銀行の代理人で、フィレンツェにあるポルティナーリ家が創設した病院内にあった私用の礼拝堂の主祭壇を飾るために注文したそうです。依頼した1470年頃はトンマーゾがいちばん活躍していた頃で、この画家を選んだことと画家最大のサイズだったのは彼が富裕であったからなしえたものだったそうです。この絵はトンマーゾ自身によって船でフィレンツェに運ばれ、ポルティナーリ家の礼拝堂の祭壇に置かれたところ多くの画家が絶賛し模倣しようとしたそうで、そのうちの代表作がギルランダイオの作品でした。
生まれたばかりのキリストが飼葉桶の中ではなく地面の上に横たわっているのには驚きましたが、羊飼いを普段のそのままの姿で描くなどたくさんのエピソードの詰まった絵を前にすると言葉が出ないほどでした。時間が許せばもっと見ていたい絵でした。
それまでイタリアで主流だったのはテンペラやフレスコで、初期フランドル派が完成させた油彩は表現にも厚みがでて時間がたっても修正・加筆が容易でフィレンツェの芸術家に多大な影響を与えましたが(当時ヴェロッキオ工房にはボッティチェッリやギルランダイオ、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチもいました)、絵画そのものでも大きな影響を残していたことをはじめて知りました。Wikipediaには3つの部分をそれぞれ拡大して見れるようになっているので、その不思議さが分かると思います。 -
3階東側が終わり南側の通路からはヴェッキオ橋が見えます。橋は石造りの3連アーチでいちばん上がヴァザーリの回廊。ヴェッキオ宮、ウフィツイ美術館、ヴェッキオ橋を経てピッティ宮まで続いています。ヴァザーリの回廊がウフィツイからどのように続いているか見える場所があるそうなんですが、工事中のテントが貼ってあってよく見えませんでした・・・。
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西回廊 ペルジーノ ”フランチェスコ・デッレ・オペレの肖像” 1494年
こんなところにラファエロ?と思ったら、ラファエロの師であるペルジーノの作品でした。背景はトラメズィーノ湖周辺。 -
フィリピーノ・リッピ ”東方3博士の礼拝” 1496年
フィレンツェ郊外のサン・ドナード・ア・スコペート修道院がレオナルド・ダ・ヴィンチに依頼した作品が未完であったため、フィリピーノ・リッピがあらたに描いたもの。古代の廃屋と城をバックに、多くのメディチ家の人々を描いたところはボッティチェッリの作品にも似ています。 -
ルカ・シニョレッレ ”パルテ・グエルファの聖家族” 1490年頃
オルヴィエートのドゥオーモの礼拝堂でルカ・シニョレッリの絵を見た時には正直あまり好きではなかったのですが、ミケランジェロは彼の仕事をいつも賛嘆していて”最後の審判”の制作ではシニョレッリの力強い裸体表現を参考にしたそうです。
コルトーナ出身のため教区美術館にもいくつかの作品が残っていましたが、このマリアと幼子キリストは美しい。そして深い色の使い方に品があると思いました。 -
途中ドゥオーモも見えましたがどこだったか全く覚えていません・・・。
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レオナルドの部屋 ヴェロッキオ ”キリストの洗礼” 1472~75年
フィレンツェにあるサン・サルヴィ修道院の依頼で制作された作品。ヴェロッキオは専門は彫刻でしたが絵画など広く才能があり、多くの弟子をかかえた工房を持っていました。この絵もヴェロッキオ自身が制作を始め腕のいい弟子が引き継ぎ、レオナルド・ダ・ヴィンチが左端の天使と背景を描き完成させたものと言われています。当時レオナルドは20才でこの絵を見てヴェロッキオは筆をおいたという逸話も残っていますが、実際には絵画制作は弟子に任せ彫刻に専念していったということのようです。 -
あどけない天使の表情、そしてカールした髪もとてもきれい。背景も細かく描かれています。
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レオナルド・ダ・ヴィンチ ”受胎告知” 1472~75年
神によって遣わされた大天使ガブリエルがマリアの元を訪れ、神の子を身ごもることを告げている”受胎告知”。この作品はヴェロッキオ工房が注文を受けレオナルドが20才の時に描いた作品と言われていて、フィレンツェ郊外のベッロスグアルドの聖バルトロメオ修道院の聖具室に飾られていました。
これまでの他の作品のように大げさなポーズではなく大天使も聖母マリアも自然体で、足元には春の花々が描かれ大天使の持つ白ゆりや衣服の襞も繊細に描かれています。また背景も前景(庭)、中景(糸杉)、遠景と3つの景色で、遠くのものは色が変化し境界がぼやけるという空気遠近法を使い、より立体的に見えるように描いています。
レオナルドは画家であっただけでなく科学、解剖学、軍事工学などあらゆる分野の研究をするなど万能の人で、完全主義者だったため現存する絵画作品は15点程度と少なく、何度となく美術番組でも見たこの作品をフィレンツェでゆっくり見ることができてほんとうに貴重なひとときでした。 -
大天使の翼はほんとうに飛べるようなリアルさで描かれています。また大天使が指を2本立てているのは祝福のポーズだそうです。私は横顔が知的だと感心、着ているブラウスも可愛い♪
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マリアの右手は旧約聖書の上に置かれ、左手は突然の告知に対する驚きを表現していると言われていますが、表情から了承のサインではないかと思ったのですが・・・。また聖母マリアの右手が長く描かれているのは、置かれていた修道院の部屋に修道士たちは右手から入って、右下から仰ぎ見られることを意識して描かれているのだそうです。
書見台の浮彫りは、当時ヴェロッキオが作っていたサン・ロレンツォ聖堂の聖具室にあるピエロ・ディ・メディチと弟ジョヴァンニのお墓の装飾に酷似していて、レオナルドも制作を手伝うか見に行ったと言われています。 -
レオナルド・ダ・ヴィンチ ”東方3博士の礼拝” 1481年
フィレンツェ郊外のサン・ドナード・ア・スコペート教会の祭壇画として描き始めましたが、途中でロレンツォ・デ・メディチの使者としてミラノ公国へ向かったため未完に終わり、その後17年間スフォルツォ公の宮廷画家兼技術者としてミラノで過ごすことになったそうです。”最後の晩餐”はその時期の作品。その後フランス軍が侵攻してきたためフィレンツェに戻り、1503年から”モナ・リザ”を制作。生涯手離さなかったそうです。 -
ミケランジェロとラファエロの部屋。
ミケランジェロ ”聖家族” 1505~06年
豪商アーニョロ・ドーニの結婚祝いに依頼されたもので、ドーニ家の円形画(トンド・ドーニ)と呼ばれている作品。ミケランジェロらしい力強いタッチの聖家族が描かれていますが、当時のままの額装はミケランジェロがサン・ジョヴァンニ洗礼堂のギベルティの北扉からヒントを得たもので、一番上の彫像は聖家族を見下ろすキリスト、まん中のはふたりの預言者、下の二人は巫女を表しているそうです。フィレンツェに残るミケランジェロ唯一の作品で、ダヴィデ像を制作した翌年に描かれたもの。
ギルランダイオの工房へ入ったミケランジェロは14才の時ロレンツォ・デ・メディチに紹介され、プラトン・アカデミーで後の法王レオ10世やクレメンス7世と英才教育を受けました。ロレンツォの死後サヴォナローラの台頭もあって仕事のなくなったミケランジェロは、ローマ時代のものに見せかけた偽のキューピット像を制作しローマの枢機卿がこれを購入。贋作とバレてしまうのですがこの彫刻が素晴らしくその後のミケランジェロの運命を大きく変えたのです。
ローマに招かれたミケランジェロは22才の時に”ピエタ”を制作。その後サボナローラ失脚後のフィレンツェに戻り共和国政府から注文を受けた”ダヴィデ像”も完成させたことで、ミケランジェロの彫刻家としてのたぐいまれな才能、技量が決定的なものになったのでした。 -
ラファエロ ”グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ” ”エリザベッタ・ゴンザーガ” 1504年頃
ラファエロの父親が使えていたフェデリーコ3世の後を継いでウルビーノ公になったグイドバルドと、妻であるエリザベッタ・ゴンザーガの肖像。ゴンザーガ家はマントヴァの君主で当時のイタリアではもっとも音楽と芸術が盛んだったため、ウルビーノ宮廷の文化水準は高く維持されました。そしてラファエロは宮廷での生活を通じて洗練されたマナーと社交的な性格を身につけていき、生涯を通じて上流階級との交際も巧みで画家としてのキャリアを積み重ねていったそうです。(ラファエロが生れたのはグイドバルドが継いだ翌年) -
イチオシ
ラファエロ ”ひわの聖母” 1505~06年
マリアの下にはひわを持つ幼い洗礼者ヨハネとそひわの頭をなでている幼子キリスト。ひわはキリストが処刑される時にも現れていることから後の受難を暗示しているそうですが、マリアの穏やかで優しいまなざしと幼子二人のあどけなさなど、若きラファエロが初期から完成度の高い作品を描いていたことに驚きました。
父親はウルビーノの宮廷画家でしたが11才頃亡くなり、ペルージャにあったペルジーノの工房に弟子入りしたラファエロは、工房の仕事をしながら北イタリアの街を旅し、1504年からはフィレンツェに滞在し最先端のフィレンツェ美術を学び自身の作風を確立して行きました。中でもレオナルドが創始した聖母子を三角の構図で描く方法やスフマートとよばれるぼかし画法も自身の技法として自然な形で作品に取り入れたそうです。この作品にも2つが取り入れられていますね。 -
ラファエロ ”アーニョロ・ドーニの肖像””マッダレーナ・ドーニの肖像” 1504~07年
フィレンツェの裕福な毛織物商人だったアーニョロがマッダレーナと結婚した時にラファエロに依頼された作品。少し横向きのマッダレーナの姿勢と手の置き方、当時レオナルドが制作していた”モナ・リザ”を見に行きスケッチしたという記録も残っているそうなので、参考にしたと思われます。
アーニョロ・ドーニ夫妻は美術収集家で、この絵とミケランジェロの”聖家族”は自身の寝室に飾っていたそうです。豪華すぎます。 -
西回廊の見たかった作品を見終えたのでカフェへ向かいます。それぞれの部屋にはそれなりに人がいたと思うんですが、廊下へ出たらほんとうに人が少なくて3月中旬でよかったと思いました。
この廊下の突き当りには”ラオコーン”と”イノシシ像”がありました。”イノシシ像”は16世紀にローマで発見され修復後メディチ家に贈られたもので、新市場にあるイノシシ像のオリジナルだそうです。 -
ランツイのロッジアの上部分にあるカフェ。お天気がよかったら最高の眺めなんですが・・・。
帰ってからヴェッキオ宮殿の全景を撮った写真がないことに気づきましたが、ここには部分的ですがヴェッキオ宮の上部が写っていました。建物の上部にフィレンツェの9つの行政区の紋章が描かれていているのが見えます。 -
入口にあったメニューを見て”エスプレッソ コン パンナ”を注文。
怒涛の1時間半で頭の中はいっぱいいっぱい。クリームを溶かしながらゆっくり頂きました。ノートを見てもう一度見に行こうと決め会計をお願いしたら、”33”と。え?33ユーロ?と恐る恐るレジに並ぶと、皆さん数字を申告していてテーブルナンバーだったんだと分かりました(笑)。順番が来て33ユーロかと思ったと言ったらレジの人は笑っていましたが、たしか3.5ユーロくらいでした。 -
シモーネ・マルティーニの”受胎告知”の前に、ジョットの”オンニサンティの祭壇画”をじっくり見るつもりだったんですが、小学校低学年の20人くらいの子供たちが絵の前に座っていて、先生のお話を静かに聞いているところに出くわしてしまいました。みなお行儀がよく鑑賞の妨げにはならなかったのですが、こんな小さい頃からウフィツイ美術館に授業の一環で訪れるというイタリアの教育に感動してしまい、しばらく子どもたちを鑑賞してしまったのでした。
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今降り立ったところでしょうか?マントが泳いでいます。
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身をよじったところが素敵です。
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ボッティチェッリなどほとんどの作品をもう一度見て目に焼き付け、先ほどは大勢の人が並んでいて中央から見ることができなかった”トリブーナ”が横から見える場所がありました。
”トリブーナ”はボッティチェッリの部屋などの後にある八角形の部屋で、メディチ家の最後の1人アンナマリア・ルドヴィカが「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり一般公開されること」を条件にすべての美術品をトスカーナ政府に寄贈したため、その美術品を展示する部屋として使用されていたものでこの部屋が公開されたのがウフィツイ美術館の始まりだったそうです。当時は現在ウフィツイにある作品だけでなく、現在パラティーナ美術館にある有名作品もここに展示されていて、部屋に入って周回できたそうです。
現在は3つのドアから中をのぞくことしかできませんが、壁面にはトスカーナ公お気に入りのブロンズィーノやロッソ・フィオレンティーノなど16世紀の画家の絵が並び、壁の上部の装飾も真珠貝が使われている天井の内側もとてもきれいでした。 -
ここにはローマで発見されメディチ家のフェルディナンド公に譲られた紀元前1世紀頃の彫刻”メディチのヴィーナス”があったのですが、横でさえかなりの人で写真に撮ることもできませんでした・・・。
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カフェのそばまで戻ってきましたが、2度目は40分で回っていました。晴れていたらドゥオーモのクーポラもよく見えるのですが・・・。
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これから2階西側ですが、ここになぜか祭壇画が・・・。
タッデオ・ガッディの息子のアーニョロ・ガッディの作品でした。 -
ポントルモはマニエリスム期、ティツィアーノは盛期ルネサンスヴェネチア派、カラヴァッジョはバロック期をそれぞれ代表する画家です。
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ラファエロ ”自画像” 1506年
なぜかこの部屋にありました。ラファエロはフィレンツェで4年間過ごした後、2008年ローマ教皇ユリウス2世からユリウス2世専用図書室のフレスコ画の依頼を受けローマに移り、”ラファエロの間”を完成させました。その後も亡くなるまでの12年間はローマで過ごしたのでした。 -
ルーベンス ”4人の哲学者” 1611~12年
人文主義者、哲学者と議論しているルーベンスの兄フィリップと、後ろに立っているのはルーベンス自身。この絵は兄フィリップが亡くなってから描かれたそうです。 -
ベルニーニ ”自画像”
バロック期のイタリアを代表する彫刻家で建築家、画家。街のいたるところにある噴水、教会の彫刻などローマは彼の手で華麗な装飾のあふれる街に変わっていきました。 -
ブロンズィーノ ”鎧のコジモ1世” 1545年
ブロンツイーノはマニエリスム期の画家で、トスカーナ大公コジモ1世の宮廷画家として活躍しました。
コジモ1世は1537年以来フィレンツェ公国の君主として30年以上統治し、領土をシエナなどトスカーナ全域に広げ、1569年にはトスカーナ大公に任命されました。彼はその後200年にわたるトスカーナ大公国の政治的行政的支配を築いただけでなく、ウフィツイ美術館(当時は政庁)、ピッティ宮殿、ボーボリ公園、ヴェッキオ宮殿内の装飾、ランツィの回廊の彫刻の設置など、フィレンツェをそれまでの質実剛健な街からヨーロッパの宮廷都市と競うような美しい街に変貌させました。
そしてパトロンとしてもヴァザーリやブロンズィーノなどを育て、フィレンツェで再びルネサンス文化が花開いたのでした。 -
ブロンズィーノ ”エレオノーラ・ディ・トレドと息子ジョヴァンニの肖像” 1544~45年
エレオノーラはスペイン貴族の娘として生まれコジモ1世と結婚、11人の子をもうけました。しかし43才の時にマラリアに感染し、ふたりのお子さんと亡くなってしまわれたそうです。 -
ここには4人の子の肖像画も並んでいました。
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ポントルモ ”祖国の父 コジモ” 1520年頃
コジモ・イル・ヴェッキオは父親ジョヴァンニ・デ・メディチの築いた銀行業を発展させ1434年に当主となった後、共和制の中で大きな力を持つようになりメディチ家のフィレンツェ支配を確立した人物。
初期マニエリスムの画家ポントルモもメディチ家の支援を受けていました。 -
中央はヴァザーリの”ロレンツォ・デ・メディチ”
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ティツィアーノ ”エレオノーラ・ゴンザーガ” 1536~38年
マンドヴァ公の娘でウルビーノ公に嫁いだエレオノーラ・ゴンザーガを描いた作品で、ウルビーノ公の絵も並んでいたみたいですが美しい絵だけ見てしまいました。黒に近い深い色のたっぷりとしたドレスにリボンのような飾りがついていて、中ののブラウスもとても豪華で素敵な絵でした。ラファエロが描いた同じゴンザーガ家のエリザベッタとは似ていませんね。 -
ヴァザーリの回廊はコジモ1世の命で1565年に完成しました。少し空が明るくなったような・・・。
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カラヴァッジョ ”イサクの犠牲” 1603年
神のお告げに従い息子イサクを犠牲に神へ捧げようとしているアブラハムと、それを止める天使を描いた作品。カラヴァッジョらしい動きのある絵です。 -
カラヴァッジョ ”メデューサ” 1596~97年
ギリシャ神話の中にある話で、見たものを石に変えてしまうという”メデューサ”の首がペルセウスによって切り落とされた瞬間を描いた作品。盾に写った姿にはその力が及ばないという神話の中の助言通り盾に描かれたもの。
メデューサは髪の美しい女性でしたが海神ポセイドンの愛を得て傲慢になり、これに憤慨した女神アテナはメデューサの髪を蛇に変え彼女の顔を見た者が石に変わるようにしてしまいます。さらに彼女を殺そうとする英雄ペルセウスがメデューサを見ることなく殺せるように、盾に写った姿を見て首を切断するよう助言しました。カラヴァッジョはこの神話通りにメデューサを描き、この絵は当時カラヴァッジョが寄宿して支援を受けていたローマのデル・モンテ枢機卿からフェルディナンド1世の武具コレクションに加えてもらうよう贈られたものだったそうです。
カラヴァッジョが寄宿していたマダーマ宮は初めて教会に宗教画を描いたフランチェージ教会に隣接していて、年代も同じ頃です。それにしてもガラスケースの中に宙づりの状態で展示されていたのには驚きましたが、たくさんの人が触れたのかガラスが汚れていたのが残念でした。 -
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イチオシ
ティツィアーノ ”ウルビーノのヴィーナス” 1538年頃
ウルビーノ公グイドバルド2世が自身の婚礼のために政策を依頼した作品で、愛と美の女神ヴィーナスが永遠の愛の象徴であるバラを手にした姿が描かれています。
ティツィアーノはヴェネチア派のジョルジョーネと同時期に仕事をしていて、ジョルジョーネの遺作となった”眠れぬヴィーナス”が未完となったため、背景を加筆して完成させました。この絵はそれから28年後に描かれましたもので場面が室内になっています。美しいこの絵もウフィツイを代表する1枚です。 -
カルパッチョ ”斧槍兵と年長者” 1490~93年
この絵のシチュエーションはわかりませんでした・・・。 -
壁の色からティツィアーノの作品でしょうか?
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イチオシ
カラヴァッジョ ”バッカス” 1596~97年
カラヴァッジョがローマに来てすぐに手がけた初期の作品で、ギリシャ神話のワインの神”バッカス”を描いたもの。髪に葡萄と葡萄の葉をつけたバッカスが、見る人を誘っているように見える作品ですが、かごの中には破裂したザクロと腐ったリンゴが描かれ、若さと喜びははかなくすべてが滅び腐敗していくということを示唆しているそうです。ローマのボルゲーゼ美術館にある”果物籠を持つ少年”もそうですが、初期のカラヴァッジョは果物などを写実的に描くのにもとても秀でていました。
この作品も”メデューサ”と共にデル・モンテ枢機卿からフェルディナンド1世に贈られ、ウフィツイ美術館を代表する1枚になっています。またウフィツイにあると思っていた作品の中でティツィアーノの”フローラ”と”マルタ騎士団員の肖像”は見当たらず、学芸員の方に聞いたところ”ない”という返事でした。 -
やっとグッズ売り場へたどり着きました。2階へ下りてからは早かったものの、気がつけば3時間近くいたことに・・・。
絵葉書も選べないくらい種類があり、結局絵葉書数枚に”春”のトレイ、あとボッティチェッリとピエロ・デッカ・フランチェスカのマグネットを購入。トレイはお土産にもしました。会計の場所がいくつかあり、並ばずに買えたのもよかったです。 -
団体にもほとんど会わなかったのも鑑賞がしやすかった理由だと思いますが、うれしかったのは卒業旅行の男の子2組に会ったことでした。中でも1組は節約のため安い航空会社を利用してかなり時間をかけてイタリアに来て、おまけに市内中心部ではなく郊外のホテルに泊まっているそうなんです。2組とも後半の混んでいない部屋で会ったので少し話ができましたが、円安のこの時期なのにイタリアに来ていて、コロナが落ち着いてほんとうによかったと思いました。
12時半とお昼を過ぎてしまいましたが、このままヴェッキオ宮へ向かいます。
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