2024/03/12 - 2024/03/20
483位(同エリア3825件中)
広島れもんさん
- 広島れもんさんTOP
- 旅行記22冊
- クチコミ6件
- Q&A回答0件
- 21,810アクセス
- フォロワー12人
ほんとうは午前中に終わらせるつもりだったヴェッキオ宮殿を駆け足で巡り、ランチの後ヴェッキオ橋を渡りパラティーナ美術館へ。ラファエロの絵を堪能した後はアルノ川周辺の教会を歩きましたが、午後から晴れて絶好の街歩きになりました!
*横長の写真はクリックすると大きく鮮明に見えます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ウフィツイ美術館の出口は建物の裏側にあり、ぐるっと回ってシニョーリア広場へ来ました。人も多くなっていますね!
ヴェッキオ宮殿は14世紀初めにアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設され、当時はフィレンツェ共和国の政庁舎として使われ一時住居にもなっていましたが、ピッティ宮に移ってからは古い宮殿を意味する”ヴェッキオ宮”と呼ばれるようになりました。粗い石造りの外観は建設当時のものですが、内部はコジモ1世が越してきてから大掛かりに改装したもの。
入口のダヴィデ像とヘラクレス像の間から入りますが、現在もフィレンツェ市庁舎として使われているそうです。そしてなんと帰ってから気がついたのですが、ヴェッキオ宮殿の全景もアルノルフォの塔も撮っていなかった・・・。 -
15世紀後半にミケロッツォの設計した中庭
先を急いでしまったためゆっくりと見れませんでしたが、回廊の柱の豪華なこと!白と金の漆喰だそうです。回廊の天井もきれい、ウフィツイ美術館の廊下の天井にも似ています。受付への入り口を写したため中央のヴェロッキオ作”イルカを抱いたキューピット像”(レプリカ)がよそを向いていましたが、この奥にチケット売り場がありフィレンツェカード所有者は専用の窓口でレシートのようなものを発行してもらい、それが入場券でした。
この1階にはMuseoとTorreというふたつの入り口があるので、まずMuseoから。 -
2階は政治的使途に使われていた部屋でまずは有名な”五百人広間”です。
この広間は500人で構成される大評議会を開催するために、メディチ家を失脚させたサヴォナローラの命でクロナカが設計。当時はシンプルなホールでしたがコジモ1世の時代にヴァザーリによって装飾されました。 -
天井も7m引き上げられ中央の”コジモ礼賛”をはじめとする豪華な絵が掲げられました。色彩が濃く人物もたくさん描いてあるので、どういう絵かわかりづらいですね・・・。
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右側の壁にはヴァザーリ ”シエナ攻防”
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左の壁には同じくヴァザーリ ”ピサ攻防”
もともとここには右にレオナルド・ダ・ヴィンチの”アンギアーリの戦い”(フィレンツェ軍がミラノを打ち破った戦い)、左にミケランジェロの”カッシーナの戦い”(フィレンツェ軍とピサとの7年にもわたる戦い)が飾られる予定で1504年からほぼ同時に制作が始められたのですが、レオナルドは技法的な問題で、ミケランジェロはユリウス2世の墓廟を制作するためローマに呼ばれたため制作途中でフィレンツェを離れたのです。レオナルドはミラノで”最後の晩餐”を制作した後、ミケランジェロはダヴィデ像を仕上げたばかりでした。
2つの作品は1512年まで同じ部屋にあったのですが、”カッシーナの戦い”はミケランジェロの才能をねたんだ画家により切り刻まれ、残った””アンギアーリの戦い”はその後ヴァザーリによる改修が行われるまでたくさんの画家が模倣したそうです。そしてヴァザーリはこの2つの作品の上に描くことになったのでしたが、”アンギアーリの戦い”は壊さずに壁の上に2枚目の壁を造ってそこに描いたと言われています。 -
右の中央にあるのはミケランジェロの”勝利像”。この像はもともとローマのユリウス2世の霊廟用に作られたものだそうです。
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左の中央にはジャン・ボローニャの”ピサを倒すフィレンツェ”。オリジナルはバルジェッロにありました。
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広間の入り口左脇 フランチェスコ1世の書斎
マニエリズムの絵画で埋め尽くされた小さな部屋。全面にあるパネル絵はすべて開き中にコレクション品や実験道具が納められていたほか、パネルの何枚かは扉になっていて秘密の通路や部屋に通じていたそうです。
フランチェスコ1世はコジモ1世の長男でコジモ1世の死後トスカーナ大公となりましたが、学者肌で政治を顧みず錬金術を研究していたそうです。 -
これはエレオノーラですね。
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マニエリズムの絵は苦手ですが、天井画はルネサンス時代の哲学を表したものだそうできれいでした。
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こちらにはコジモ1世。
この部屋の対面にはレオ10世のアパートメントと呼ばれる、レオ10世や豪華王ロレンツォ、コジモの間がありましたが、装飾過多でそうそうに2階へ上がりました。 -
3階は住居的空間 まず四大元素の間
火や水、土、空気を主題にした絵で飾られています。写真右の水を表すフレスコ画がきれいでした。 -
ケレースの間
ローマ神話の豊穣の女神”ケレース”に捧げられた部屋で、天井画は冥界の王プルートに娘のペルセポネーを誘拐されたケレースが娘を探しているところだそうですが色がきれい。ローマのボルゲーゼ美術館にあったベルニーニの”プロセルピナの略奪”は、まさにプルートから逃げようとするペルセポネーでした。 -
どこの部屋か忘れましたが、きれいな飾り棚がありました。
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ヘラクレスの間の北側テラスの手前の小さなスペースに、中庭にあった”イルカを抱くキューピット像”のオリジナルがちょこんと立っていました。
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北側テラスからは、遠くにサンタクローチェ教会が見えます。晴れているではありませんか!
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ヘラクレスの間
天井画は、女神が放った蛇を赤子ながら握りつぶす小さなヘラクレス。 -
いちおう部屋の案内はあるのですが複雑な作りになっていてあっちに行ったりこっちに行ったり、順路が間違ってるかもしれません。
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1階の広間も上から見ると大きさがわかりますね。
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エレオノーラの礼拝堂
コジモ1世の妻エレオノーラのためにつくられた礼拝堂で、内部はすべてブロンズィーノの絵で飾られています。中央は ”十字架降下”。 -
天井画がとてもきれい!ゆっくり見たいけど時間がないのです。
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色彩がほんとうにきれいでした。
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サビーニの間
大公妃の控えの間で、侍女たちが待機していた部屋。 -
ペネローペの間
ギリシャ神話に登場するペネローペから名づけられた部屋。天井中央には夫の帰還を待つペネローペが、求婚を迫る男たちを断るために織物を織る姿が描かれていて、ペネローペは完成したら誰かを選ぶとしたが毎晩ほどいて完成をのばしていたそうです。 -
同じ部屋にボッティチェッリの”聖母子”がありました。
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謁見の間
共和国時代に総督の会議や法廷として使われていた部屋で、壁全体にフレスコ画が描かれていました。 -
この部屋は彫刻家のマイアーノ兄弟が手がけたもので、特にフィレンツェの紋章が刻まれた金箔で飾った八角形の格間天井が豪華でした。
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百合の間
この部屋もマイアーノ兄弟によって制作されました。”百合”は当時友好国だったフランスの王冠のシンボル”百合の紋章”に由来したもので、壁にも百合のマークがあるかなり大きな部屋でした。 -
この部屋の天井は青地に金色の百合の紋章。
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壁面を飾るのはギルランダイオのフレスコ画。中央はフィレンツェの初代司教である聖ゼノビウスで、左右にフィレンツェの国旗とアヤメの紋章が描かれ、国旗を掲げているのはフィレンツェのシンボル”マルゾッコ”です。
かなり濃い絵が多かったので、ギルランダイオの絵を見たらちょっと落ち着きました。 -
ドナテッロ ”ユーディットとホロフェルネス像” 1455年
美しき未亡人のユーディットが、敵の司令官ホロフェルネスが酒に酔って寝ている間に首を切り落としたという神話から作られたもので、これもダヴィデ像と同じようにフィレンツェ防衛のシンボルでした。もともとメディチ・リッカルディ宮の中庭にあったが、1494年にピエロ・ディ・メディチがフィレンツェを追放になった際にヴェッキオ宮殿玄関左手に置かれ、1504年にダヴィデ像にとって代わられその左側に移されたもので、現在はコピーが置かれているそうです。(ネプチューンの噴水の隣の隣で小さくて見落としました・・・) -
ヴェッキオ宮殿を出る時にはちゃんとプットが見えるように撮りました!
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12時半に入ってちょうど1時間で出てきました。ほんとうはアルノルフォの塔へも登りたかったのですが、時間もなくまた初日に膝を傷めたらあとあと大変なのであきらめました。ただお天気がいい日だったらドゥオーモの全景が見えるので、ぜひ登って下さい!
ペルセウス像、存在感があります。いちばん向こうにあるのはジャン・ボローニャの”サビーニの女たちの略奪”。そしてこの上がウフィツイのカフェがあるテラスで、もともとはメディチ家の人たちがシニョリーア広場で行われる式典などを観覧する場所として作られた場所だそうです。 -
ウフィツイ美術館とヴェッキオ宮殿の間の通りを行くと、フィレンツェでいちばん人気のパニーニ屋さん”All’Antico Vinaio”があって長蛇の列でした。
8年前に初めてフィレンツェに来た時半日の自由時間のおやつに買ったのですが、とにかく大きくてフォカッチャが固くて、美味しいのですがこれを全部食べたら夕食が入らないと半分であきらめた曰くのあるお店。でも安くて美味しいのは旅行者にとっては魅力で大人気で、ローマのパンテオンの近くにもお店ができていました。 -
今日のランチに選んだのはその先にあるこちらのカフェ、”DITTA ARTIGIANALE”。Googlemapで検索していて見つけたお店です。
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おめあてのメニュー、アボカドトーストとアメリカンを注文!店内は入口に4席くらい小さめのテーブルがあり奥はもっと広いようでしたが、両側はパソコンで仕事をしながらランチをしている人やデート中のカップルと様々。アジア人の私が座っても誰も気に留めない感じがうれしいお店でした。
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来ました、アボカドトースト!ザクロもトッピングしてあり、ライムを絞っていただきます。イタリアのパンは硬いパンがほとんどで、パンも美味しくてアボカドのペーストもとてもさわやかで疲れが取れる一皿でした。
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ケーキ類も美味しそう!2時くらいになるとカフェで利用する人もぼちぼち来られていました。
先ほどのパニーニ屋さんもいいのですがとにかく座りたいのがいちばんで、アメリカーノ2.1ユーロ、テーブル料も1ユーロの良心的なお店でした。パラティーナ美術館の近くにも姉妹店があるので、軽く食事したいときにはいいと思います。(たくさんの絵を見ておなかいっぱいの状態の時にもおすすめ!)
この近くには有名なジェラテリアもあるのですが、パラティーナの後に寄ってみたいお店があったのでがまんしました。 -
ランチをすませアルノ川沿いに出ると、遠くの丘の上にサン・ミニアート・アル・モンテ教会が見えました!この教会やミケランジェロの丘は、個人ではなかなか行きづらいところにあるのです・・・。
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見えますか?通りを歩いている人、堤防に座っている人、ほとんどが”All’Antico Vinaio”のパニーニを食べていました(笑)絶景です!
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左右にウフィツイ美術館、そして奥には撮っていなかったアルノルフォの塔!アルノルフォの塔はヴェッキオ宮と同じアルノルフォ・ディ・カンビオが設計した塔で宮殿より5年早く1310年に完成し、高さは95mもあるんです。アルノルフォ・ディ・カンビオは初期のドゥオーモの設計やオルサンミケーレ教会、そしてサンタ・クローチェ教会などを設計し、フィレンツェの礎を築いた建築家でした。
私が今朝フィレンツェカードを買ったチケット売り場はウフィツイの左手の端です。 -
アーケードのような歩道を通ってヴェッキオ橋に着きました。ヴェッキオ橋はアルノ川に架かる石造りの橋で、1345年に造られたフィレンツェで最古の橋です。そして第2次世界大戦で撤退するドイツ軍が破壊しなかった唯一の橋だそうです。
橋の上には宝飾店が並び上部には住居部分もあるのですが、現在のようになったのはコジモ1世の3男フェルディナンド1世の時代からで、それまでは肉屋などが並び悪臭が漂っていたそうなんです。
ヴェッキオ橋中央部の西側はこのように建物が途切れていて、中央にはヨーロッパでも随一だった金銀細工師チェッリーニの像があります。ランツィのロッジアにあったペルセウス像を作った方です。 -
中央部北側。上が住居になっています。
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こちらはピッティ宮側。花が飾ってありますね。
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橋の東側は上部がヴァザーリの回廊になっていて、その下から通ってきたアーケードと中央右にウフィツイも見えます。
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宝飾店はのぞくにはのぞいたんですが、あまりに高級なものばかりで眺めるだけでした。
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途中革製品のお店もありましたが、私が中央市場の通りにある屋台で買ったのと同じポシェットがけっこうなお値段で並べてありました。私は無難な紺を選んだけどフィレンツェの流行はこんな色なんでしょうか?
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ピッティ宮殿に到着!いつ見ても大きい!
メディチ家のライバルだった銀行家のルーカ・ピッティが15世紀にブルネレスキの設計で着工したものの、ルーカが亡くなりピッティ家が没落したため工事は中断したままでした。16世紀の半ばになりコジモ1世が体調を崩しがちだったエレオノーラのために買い取り自身の居城をヴェッキオ宮から移し、建築家アンマナーティに命じて大規模な増築・改修をしました。
建設当時は正方形だった建物は現在のように大きくなり、内部にはメディチ家の莫大なコレクションが展示されています。 -
チケット売り場は建物のはるか右手にありますが、私はフィレンツェカードを持っているため直接中央から入りました。
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手前の中庭部分は1560年代にアンナマーティによって造られ、ボーボリ庭園もその頃着工されました。ボーボリ公園は信じられないくらい広い庭園で、調べたら1時間くらいではどうにもならないことがわかり断念。同じようにピッティ宮殿の半分を占める”王様と皇帝の住まい”部分も断念しました。フィレンツェにある歴史的な施設をすべて見ようと思ったら1週間以上かかるのではないでしょうか?
パラティーナ美術館はコジモ1世の3男のフェルディナンド1世によって造られた美術館で、ピッティ宮の当時のままの装飾が残る美しい部屋に歴代トスカーナ公が収集したコレクションが展示されています。展示室はそれぞれの部屋にちなんだ雰囲気作りがされていて、天井もピエトロ・ダ・コルトーナらによるフレスコで装飾されているそうなんですが、なんせラファエロをはじめとするお目当ての絵を見るのが大きな目的で他のところにはほとんど目が行きませんでした・・・。
またエレノオーラはピッティ宮には住むことがかないませんでしたが、ボーボリ庭園には何度も足を運びできていく様子をご覧になっていたそうです。マラリアで亡くなられたのが残念でなりません・・・。 -
プロメテウスの部屋 フィリッポ・リッピ ”聖母子と聖アンナの物語” 1452年
背景に”聖アンナからの聖母の誕生”などが描かれている、フィリッポ・リッピ唯一のトンド。 -
ボッティチェッリ ”洗礼者ヨハネと聖母子” 1495年
同じ部屋にあったこの絵、構図が何ともいえないくらい可愛い。フィリッポ・リッピはボッティチェッリの師でした。 -
ローマでもいろんな宮殿美術館に行きましたが、ここの美しさは桁が違う感じがします。それでもそれを味わうだけの時間がないのです・・・。
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ユリシーズの間 ラファエロ ”布張り窓の聖母子” 1514年
ラファエロはユリウス2世からバチカン宮殿の教皇専用図書館のフレスコ画の依頼を受け1508年にローマに移りましたが、それまで個人からの依頼が多く大きな作品はありませんでした。初めて大きな壁画や天井画の制作を任され、ちょうどその頃システィーナ礼拝堂の天井画の製作をしていたミケランジェロの最初に完成した絵を見る機会があり、誰よりも早く影響を受け自身の絵画に取り入れたと言われています。動きのある絵です。
見つからなくて探したこの絵、ラファエロが全てを描いたわけではないみたいです・・・。 -
イリアスの間 ラファエロ ”身重の女の肖像” 1506~07年
フィレンツェに来て聖母子像で人気の出てきたラファエロは、次第に肖像画の依頼を受けるようになります。 -
こんなに素敵に装飾された部屋が続きます。
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サトゥルヌスの部屋 ラファエロ ”小椅子の聖母” 1513~14年
フィレンツェの典型的な様式 ”トンド” のラファエロ唯一の作品で、最も有名で人気の高い作品。8年前フィレンツを訪れフリータイムにここに来たのはこの絵を見たかったからで、私もこの聖母のまなざしに恋焦がれていたのでした。
ヤマザキマリさんの独断美術館によると、女性の理想が凝縮された聖母子像で当時一世を風靡したそうなんです。そしてラファエロは女の人の描き方をよくわかっていて、大衆の心をわしづかみにするような絵を描いたが、それは女性に興味がないと描けない、女性を美しく描こうとする人としてのあたたかみも感じる、とおっしゃっていました。
この絵は壁から斜めに展示してあるのですが、この部屋に入ったとたん聖母マリアと目が会うようで、それもすごい展示法だなと思いました。ローマに行ってからの作品は画風が変わっているのもわかりますね。 -
イチオシ
ラファエロ ”大公の聖母” 1506~07年
同じ部屋の入り口、”小椅子の聖母”の向かい側にあるこの作品は、フェルディナンド3世が気に入り常に身近に置いたことから ”大公の聖母”と呼ばれています。聖母がそっと幼子イエスを支えている、やさしい絵。レオナルドのスフマートも上手に取り入れています。
ヤマザキマリさんはフィレンツェに絵画留学していた時に模写の対象としてこの絵を選んだそうなんですが、楽そうと思ったら大変難しかったと話しておられました。シンメトリーの顔はどこかが1ミリずれただけでまったく違う顔になるそうなんです。でもマリさんにとってはここが出発点だったのかもしれませんね。(”プリニウス”、おめでとうございます!) -
イチオシ
ラファエロ ”トンマーゾ・インギラーミの肖像” 1510年
バチカンの図書館の館長だった方を描いた肖像画で、当時ラファエロはバチカンに出入りしていたため友人でもあったそうです。
ヤマザキマリさんによると、肖像画は難しくありのままを描いていいのか、依頼主が何を描いて欲しいのか(形を描いて欲しいのか中身を描いて欲しいのか)悩むそうなんですが、トンマーゾはルネサンス最高の知識人のひとりで彼の知性を描き出していて、ラファエロのリスペクトがあふれ出ている作品ということでした。 -
ラファエロ ”ペルジーノの肖像”
同じ部屋にあったので、たぶんラファエロが師のペルジーノを描いたものだと思います。 -
イチオシ
もう一度、アップで!
ウフィツイ美術館とパラティーナ美術館は展示作品が入れ替わることがあり、ガイドブックにウフィツイとあったものがこちらにあったり反対にウフィツイにあったりするので、見たい作品があったら辛抱強く探すことが大事です。学芸員の方に聞いてみてもいいけど、パラティーナでウフィツイにあると言われたら困りますよね。主だった作品は頭に入れていくのがいちばんだと思います。
またこの部屋にはペルジーノの”ピエタ”があったかもしれません。(ヤマザキマリさんのコーナーでは写っていました)短い時間の中で全部見ようとしても堪能はできないので、やはり作品をしぼっていった方がいいと思います。 -
イチオシ
ジュピターの間 ラファエロ ”ヴェールの女” 1516年
レオナルドの影響を受け、明るく自由に描かれたルネサンス肖像画の最高峰と言われている作品。白っぽく写っていますが実際は若い女性のつややかな顔や、地模様のあるシルクを使い金で縁取りするなどゴージャスな衣装もとても素敵で見とれました。
ローマのバルベリーニ美術館にある ”ラ・フォルラリーナ”と同じ真珠の髪飾りをつけていることから、ラファエロの生涯の恋人だったフォルラリーナ(パン屋の娘)ことマルゲリータ・ルーティを描いたと考えられています。この絵は生涯結婚することがかなわなかったマルゲリータに結婚衣装を着せて描いたように見えてなりませんでした。 -
イチオシ
ジョルジョーネ ”人間の3つの時代” 1500年
祖父、孫・そして息子の3人が孫が手にする楽譜を見ているというやさしい絵。ヴェネチア派の画家で夭折したためたくさんの作品が残っていないので、ここで見ることができ感無量でした・・・。 -
イチオシ
マルスの間 ルーベンス ”戦争の惨禍” 1637~38年
当時ドイツで勃発していた30年戦争を憂いて描いた作品で、ローマ神話の神々になぞらえて軍神マルスが恋人ヴィーナスの制止を振り切って、たいまつを持った復讐の女神に導かれながら戦いにまい進する姿を描いたもの。戦争によって芸術も知性も踏みにじられている様は、現在のヨーロッパや中東で起きている戦争となんら変わりません。
画家でありながら外交官としても各国の和平に奔走していたルーベンスらしい、そして力強い作品です。 -
ラファエロ ”法王レオ10世と二人の枢機卿” 1518年
肖像画はありのままを描いていいのか中身を描くべきか悩んでいたというラファエロのパトロンだったレオ10世とふたりのいとこを描いた作品で、左はのちのクレメンス7世。簡単に批評するべきではないかもしれませんが、ラファエロの気持ちはわかるような気がしました。 -
アポロの間 ティツィアーノ ”悔悛するマグダラのマリア” 1533年
キリストの死後洞窟で修業し、聖女になったマグダラのマリアを描いた作品で左手には香油の壺を持っています。
パラティーナ美術館はラファエロと共にティツィアーノの作品も多く、もしかして”フローラ”も見れるのではと思ったのですが・・・。 -
ティツィアーノ ”若いイギリス人の肖像” 1535年
灰色の目を持つ青年ともよばれている作品。個人的にはイケメンの ”ヴェンチェンツォ・モスティ”に会いたかった・・・。 -
イチオシ
ティツィアーノ ”ラ・ベッラ” 1536~38年
イタリア語で美しいをあらわす”La Bella”。モデルはウフィツイにあった”ウルビーノのヴィーナス”と同じ方だそうですが、このドレスもほんとうに綺麗で髪もきれいに編み上げてあり、ティツィアーノの描いた肖像画の中でもいちばんの作品ではないでしょうか? -
ティツィアーノ ”法王ユリウス2世の肖像画” 1545年
1511年に描かれたラファエロの絵を模写したもので、当時教皇の肖像画を斜めに描いたのは珍しく、思索にふけるような姿で描かれているのも例外的だったそうです。それ以降多くの画家がこの様式を採用するようになりましたが、肝心のラファエロの作品はウフィツイでは見当たりませんでした・・・。 -
ティツィアーノ ”コンチェルト” 1510~12年
ジョルジョーネを慕っていたティツィアーノは1510年に彼が亡くなってから ”眠れぬヴィーナス”を完成させましたが、その頃に彼の ”人間の3つの時代”に影響を受けて描いた作品だそうです。 -
イチオシ
カノーヴァ ”イタリカのヴィーナス” 1804年
パラティーナ美術館にはルネサンス期以降の絵画もたくさんあるのですが、まったく勉強していなかったのでスルーしてしまいました。それでもカノーヴァの作品は美しく思わず足を止めました。
ここのブックショップに、誰の絵かわからないけど気になった絵の絵葉書があって、裏をみたらなんとボッティチェッリだったんです!プロメテウスの間にありボッティチェッリのタッチに似ているとは思ったんですが、高い場所にあって確認できませんでした。”マッツォッキオをつけた若い男の肖像”。マッツォッキオはフィレンツェで流行っていた帽子のような頭飾りで、絵葉書は買ったので最後にのせようと思います。
ウフィツイで散財したのでここではその絵葉書だけ、でも記念の1枚になりました。 -
急ぎ足で回って1時間、外に出たら右手に ”ブオンタレンティの洞窟”が見え近くに行ってみました。
この洞窟はヴァザーリの回廊の終点にブオンタレンティによって造られたもので、ミケランジェロがユリウス2世の霊廟の装飾用に造った奴隷シリーズの6体のうち4体のオリジナルが1908年まで置かれていたそうです。 -
”Gelateria Della Passera"
ピッティ宮から少し戻ってスプネロ通りに入り最初のパッセ―ラ広場の右角にあるジェラテリア。8年前は半日で3つのジェラテリアに行きましたが、変わったところはないかなとYouTubeで探していて見つけたお店で、何でも”モナ・リザ”のモデルとなったジョコンドさんが産まれた場所がこの近くらしく、その名前のジェラートが有名なんだとか。
イタリアのジェラートはNocciola(ヘーゼルナッツ)やPistacchioなどのナッツ系とチョコレート系の濃い味とあっさりしたフルーツ系が定番ですが、いちばん小さな3.5ユーロのコーンは2つの味が選べるので、”モナ・リザ”と大好きなPeraにしました。”モナ・リザ”はクリーム、アップルソース、オレンジの花、コニャック漬けのレーズンにクルミというたくさんの素材が混じりあった複雑な味でしたが、Peraがものすごく美味しくていい組み合わせでした。 -
このお店は市中のお店と違ってジェラートをステンレスの容器に入れ蓋をして販売していました。これは温度管理と空気に触れさせないためだそうで、こういったお店は特に美味しいと言われています。
このお店の向かいにも同じような造りのカフェがありジェラートも置いていましたが、お客さんはよく知っていて次々訪れていました。これからトスカネッラ通りを進んで大きな通りに出たら右折します。 -
イチオシ
左手にある5つ星の”Hotel Lungaro”脇を入るとヴェッキオ橋がこんなにきれいに見える場所があるんです。西日をうけてとてもきれい!それに晴れた空とアルノ川に写ったヴェッキオ橋もなんとか見えます。ただここはホテルの敷地で恰幅のいいドアマンが見ておられたので、みんな静かに写真撮影をしていました。
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ビアンカ・カペッロの館
地球の歩き方”フィレンツェ・トスカーナ編”の巻頭のグラビアで見つけて、ちょうどサント・スピリト聖堂へ行く途中だったので寄ってみました。
ビアンカ・カペッロはヴェネチアの裕福なカペッロ家の出身で、美人の誉れ高かったフランチェスコ1世の2度目の妃。本人はヴェネチアで知り合ったフィレンツェの青年と駆け落ちしてフィレンツェに逃れましたが、夫の死後フランチェスコ1世と結婚しました。フランチェスコ1世はヴェッキオ宮殿に錬金術のための部屋を作っていた方で、最初の妻であるジョヴァンナが存命中もビアンカをそばに置き亡くなるとすぐに再婚したそうなんです。
ただこのお屋敷の壁の装飾はとてもきれいで洗練されていると思いました。 -
イチオシ
サント・スピリト教会
ブルネレスキの設計で15世紀半ばに建築が始まったルネサンス様式の教会。ブルネレスキは工事開始直後に亡くなったためデザインの変更が必要になりフェサードは未完のままですが、レオナルドやミケランジェロが絶賛、ベルニーニは世界一美しい教会と言ったそうです。快晴の空に真っ白なファサードが映えてとてもきれい!教会内部も白を基調としたシンプルなデザインで、翌日サン・ロレンツォ教会に入って”似てる”と思ったのですが同じブルネレスキでした。
この教会は写真撮影禁止だったため写真はありませんが、右翼廊奥から2番目には背景にフィレンツェの街が描かれているフィリピーノ・リッピの”ネルリ祭壇画”。中央祭壇はチボーリオと呼ばれる祭壇で、左翼廊から入る聖具室にはミケランジェロが18才の時に作った木製の”磔刑像”が掲げられていました。ミケランジェロは後援者のロレンツォが亡くなったあとこの教会の修道院に滞在したことがあり、その時修道院付属の病院で亡くなった人の体を解剖学の勉強のために提供してもらっていたそうで、修道院長へのお礼として制作したそうです。この経験がピエタやダヴィデなどの彫刻、それ以後の絵画などにも生かされたのかもしれません。
サンガッロが設計した聖具室は八角形のルネサンス様式の美しい部屋でした。 -
回廊に面した食堂に使われていたという狭い部屋には、16世紀末のベルナルディーノ・ボッチェッティによるキリストの食事をテーマにした3枚のフレスコ画が並んでいました。”最後の晩餐”を中央に、左が”エマウスの晩餐”、右が”カナの婚礼”でかなりきれいな状態で残っていて、何人も見に来ていました。
そこも写真撮影はできず、回廊だけ撮らせていただきました。鐘楼は1570年に完成したもの。内部の様子は Google Earth 美術館イタリアで検索できます。また教会をいったん出て右手の建物には修道院附属の食堂があり、オルカーニャの磔刑図と最後の晩餐が残っているそうなんですがすっかり忘れていました・・・。 -
サンタ・トリニタ橋を渡った広場右に立っているのは1289年に建てられたスピ―二・フェローニ宮で、フェラガモ本店と地下にフェラガモ博物館のある建物です。さすがにおしゃれ!博物館はフィレンツェカードで入れるのですが、何年も履いているニューバランスのスニーカーでは敷居が高くて入れなかったです・・・。
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その向かい サンタ・トリニタ教会
11世紀にはここに教会があり13世紀半ばにはゴシック様式に改築、さらに16世紀にはブオンタレンティによってバロック様式で改築された教会で、ファサードも彼の設計。扉の上のレリーフは”三位一体”をモチーフにしたもの。トリニタは三位一体を表す言葉で、ゴシックの教会だったころにはチマブーエの””サンタ・トリニタの聖母”が飾られていました。
”三位一体”とはキリスト教において「父なる神」、「子なるキリスト」、「聖霊」という三つの姿を持つ唯一つの神であるという考え方。 -
右側廊4番目 ロレンツォ・モナコ ”受胎告知”
まわりの壁画は少ししか残っていません・・・。 -
中央祭壇 三位一体にまつわる三連祭壇画
ボケています・・・。 -
主祭壇右翼廊 サセッティ礼拝堂 ギルランダイオ ”聖フランチェスコの生涯” 1480年
狭い礼拝堂にギルランダイオの整然とした絵が並んでいました。上は”会則の認可”。フランチェスコ会が教皇に認められた13世紀のローマでの出来事を15世紀後半のフィレンツェを舞台に描いたもので、これは帰ってからわかったことなんですが右にはロレンツォ・デ・メディチ、階段下にはパッツイ家の陰謀で亡くなった弟ジュリアーノの遺児とロレンツォのふたりの息子が描かれているそうです。(ライトがあったらしいのですが、気づきませんでした・・・)そしてバックには左にヴェッキオ宮と正面にシニョーリア広場のロッジアが描かれています。 -
下は”スピ―二家の子供の蘇生”。舞台はこの教会の前のサンタ・トリニタ広場で、左手のスピ―二宮から落ちてしまった子供(ちっちゃく描いてありました)を空中に現われた聖者の力でよみがえらせたという奇跡を描いたもので、左に立っているスピ―二家の人々が当時の美しい衣装を着ています。また右手には改築前の11世紀のサンタ・トリニタ教会が描いてあります。
祭壇画の左右に描かれているのは注文主のサセッティご夫妻。コジモ・イル・ヴェッキオの信頼を得てメディチ銀行の総支配人まで上り詰めたフランチェスコ・サセッティは自らの名前にちなんで聖フランチェスコの物語をノヴェッラ教会に描かせることを提案しましたが、ノヴェッラ教会はドメニコ会になるためフランチェスコ会のこの教会になったそうです。
コジモの死後跡を継いだピエロも豪華王と呼ばれたロレンツォも銀行経営には熱心でなかったため、メディチ銀行は1494年に破綻してしまいます。 -
右の壁 ”火の試練”と”聖フランチェスコの死”
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左の壁 ”資産の放棄”と”聖痕の奇跡”
聖フランチェスコは兵役のため出征した時に神の声を聞いて伝道の道に入ったと伝えられています。小高い丘はアッシジでしょう。 -
祭壇画 ”羊飼いたちの礼拝” 1480年
ウフィツイにあったヒューゴ・ファン・デル・グースの”ボルティナーリの祭壇画”の細密描写から大きな影響を受けた作品。東方3博士の礼拝の前に近くの羊飼いたちが礼拝に訪れたシーンで、仕事着を身につけた3人の羊飼いを自然な様子で描いています。(ちょっと振り向いている方はギルランダイオご自身みたいです)丘のほうからこちらに向かっているのが東方3博士の行列ですね。 -
天井画もとてもきれいでした。
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左翼廊 スカーリ礼拝堂 ルカ・デッラ・ロッビア ”司教フェデリーキの墓” 1454年
ルカ・デッラ・ロッビアはフィレンツェ生まれの彫刻家で、ルネサンス期のイタリアにマヨリカ陶器の技術で釉薬で彩色したテラコッタ彫像という新しい陶芸を作り出し、戸外での耐久性があり建物の外装に使うのに適した土器と釉薬の開発をしました。現在フィレンツェの街のあちらこちらで見かけるロッビアの作品はまったく色褪せなく残っていて、初めに見た時にはルネサンス期のものだとはわからないくらい鮮やかでびっくりしました。
その他左身廊いちばん奥に、デジデーリオ・ダ・セッティニャーノの”木彫りのマグダラのマリア像”があったはずなのですが、見逃しました・・・。
この教会は無料で入れます。ブランド街のトリナブオーニ通りから南に下ったところにあるので、街歩きに疲れたら入ってみてください。 -
オンニサンティ教会
もともとロンバルディア地方から来たウミリアーティ会の修道士たちによって創設されたものの16世紀に会が解散。メディチ家やヴェスプッチ家の保護を受けていたフランチェスコ会に譲り渡され、17世紀から18世紀にかけて大幅に手直しされフィレンツェで最初のバロックのファサードが取り付けられました。ファサードのロッビア風の彩色テラコッタ”聖母戴冠”は16世紀以前のファサードを飾っていたもの。13世紀の創建当時のものと言われる鐘楼は見るのを忘れていました・・・。見るところが多すぎるのです。
そしてここはヴェスプッチ家の菩提寺であり、あのボッティチェッリが眠っている教会でもあるのです。ここに明るいうちに来たくて、午後急いだのでした。 -
19世紀から20世紀にかけて修復された美しい内部には、メディチ家の紋章もありました。
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右手2番目 ヴェスプッチ礼拝堂 ギルランダイオ ”慈悲の聖母”
ヴェスプッチ一族がマリアの広げたマントの下に庇護されています。ヴェスプッチ家はフィレンツェの名士でここオンニサンティ地区に住んでいました。またボッティチェッリの憧れの人で若くして亡くなったシモネッタ・ヴェスプッチもここに眠っているそうです。 -
肖像画に描かれているヴェスプッチ一族が紹介されています。
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南米大陸を発見しそれが新大陸であるとしたアメリゴ・ヴェスプッチもここに眠っていて、幼いアメリゴも右から2番目に描いてありました。
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右側中央 ボッティチェッリ ”聖アウグスティヌス” 1480年
かなり大きな絵で聖アウグスティヌスの存在感がすごい。ヴェスプッチ家の依頼で描かれたため上部に紋章を描いています。また右上の本に、師であるフィリッポ・リッピがプラ―トで仕事を放り出して逃げた、と記述してあるそうです。 -
左側中央 ギルランダイオ ”聖ヒエロニムス” 1480年
同じ年に描かれたほぼ同じサイズの絵。2人はお互いの製作現場を見ていたのでしょうね。聖ヒエロニムスも素敵ですが、細部までこだわって描いています。
ボッティチェッリとギルランダイオの家もこの地区にあったそうで、この教会とも深いつながりがあったのです。 -
主祭壇右の奥にあるボッティチェッリの眠っている礼拝堂。バロックの装飾を本人はどう思っているのでしょう?
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この肖像画は”東方3博士の礼拝”のボッティチェッリです。墓標には”アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリピーぺ”と本名が書いてあるそうです。
”今日ウフィツイに行ってきました”と報告。シモネッタと同じ教会に眠っているなんて、なんだか胸が熱くなりました。 -
左翼廊 ジョット ”キリスト磔刑図” 1315年
少し高い位置にありライトも当たって神聖さが増し、ラピスラズリの十字架にキリストの真っ赤な血がしたたっている様は苦しいような気持ちになりました。この十字架像はノヴェッラ教会のものより20年後のものだそうです。
後ろの壁、右には”小鳥に説教する聖フランチェスコ”が描いてあります。 -
左翼廊奥の礼拝堂 タッデオ・ガッディ ”オンニサンティの磔刑” 1330~40年
タッデオ・ガッティはジョットの弟子なので、ジョットの磔刑図のそばに彼の絵で埋められた礼拝堂があり感動しました。 -
タッデオ・ガッティ ”受胎告知”
オンニサンティ教会も無料で入れます。市内中心部からでも20分もかからないのでノヴェッラ薬局に行かれた時にでも訪ねて欲しいです。またこの教会の左手にはかつての修道院があり、その食堂にギルランダイオの”最後の晩餐”(1480年)があるのですが、開いているのが週末から月曜までの13時までとかなりきびしい時間帯で、スケジュールに組み込むことができませんでした。
同じ”最後の晩餐”をサン・マルコ美術館(1486年)にも描いているのですが、そちらは弟子に任せたという話もあるのでぜひ見たかったのですが・・・。この後ボッティチェッリの生家があったというポルッチェラーナ通りを通っていったんホテルへ帰りましたが、狭く日もあまり当たらない通りなのにいくつかレストランがありました。 -
この日の夜は郊外のレストランへ行く予定でかなり時間があり、お土産を買いに行く前に前日お世話になったオルサンミケーレ教会の日本語が上手な方に辻利のおたべを渡しに行きました。
壁龕にたくさんの彫刻が並んでいるのがよくわかります。 -
”VENCHI”
スーパーでもチョコレートは買いますが、VENCHIには量り売りのチョコがあって好きな味が好きな組み合わせで買えるのでいつも自分と娘用に買っています。左手はジェラートの列、いつもたくさん並んでいます。 -
ギフト用に箱に入ったものもたくさん並んでいますが、その下がケースに入ったばら売りでどんなチョコなのか断面と説明があり味を想像して選ぶのが楽しい!でも値上がりしたのかかなり高かったです・・・。
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正面の壁は板チョコ、同じ種類のものが縦一列に並んでいます。
会計をお願いする時、量り売りのものをコンパクトな袋に入れて欲しいとお願いしました。店内にかけてあるまちのある透明な袋に選んだチョコを入れるんですが、袋が長すぎて余った部分がスーツケースの中でしわになるんです。きゅっとコンパクトだったら余白も少ないからいいのでは?とお願いしたら、入れなおしてくれました。言ってみるものです。板チョコも3枚買って7500円くらい、チョコは高いものだけど円安を痛感しました。でもこの後このチョコが役に立ったんです! -
お向かいはミラノ発のコスメ、KIKO。KIKOもどんどん進化していて変わったカラーが多くなっていて、いつもお土産用に買うリップペンシルにいい色がなくやめました。
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ホテルに寄った時夕方からのフロントの方にローマ門の先にあるレストランへ行くバス乗り場を聞いたのですが(だいたいはわかっていたけど念のために)、なんかむっつりした方でこの近くにはないというような返事だったんです。予約はしていなかったためもしバス停がわからなければやめようと、ホテルのあるスカラ通りを進むとちゃんと Scala Orti Oricollari あるではありませんか!調べていた36,37のバス番号もあり待っているとすぐにバスが来ました。
バスはアルノ川沿いまで出てカッライヤ橋を渡りタッソ広場を過ぎローマ門が見えて来た時、次のバス停からビブスを着た検札の人が6人走り込むように乗って来たんです!初めての光景にもうびっくり、乗客の方もそうそう会わないみたいで順に切符やスマホを見せています。そのうちにローマ門は過ぎ検札が終わらないと降りれないし、そもそも正確なバス停をチェックしていなかった・・・。ローマ門から2つめくらいというアバウトな認識で、検札の終わった人たちと降りたところははるか先だったんです・・・。(切符を持っていなかったら相当の違反金をとられるみたいなので必ずバスチケットは買って乗りましょう)
郊外に帰る車がびゅんびゅん飛ばす道をひとりとぼとぼローマ門へ向かって戻るのですが、行っても行ってもなかなかレストランが見つかりません。イタリアのレストランは時間外はネオンを完全に消しているお店が多く目印にもならない。不安になってすれ違った若い女性にレストランの名前を伝えると、Googlemapで調べてくれまだ10分かかると言われました。でも場所がわかっただけで気持ちは軽く、ローマ門が見えてくる頃やっとそのレストランに着いたのでした。 -
”Trattoria da Ruggero"
いくつかのサイトでここのパスタがべた褒めしてありどうしても食べたかったのですが、去年の秋に来る予定だった時にホテルに予約をお願いしたところ、何度電話しても電話に出ないと言われ今回開店直後に行こうと決めたのでした。ちょうど7時半過ぎに到着、一人なんですがと伝えたところカウンターにいた男性が”9時に来てくれ”と。えっ9時?どいういこと?と首をかしげると、7時半からは予約でいっぱいだから9時に来てと。見たところちらほらしかお客さんはいないけど、地元の人に人気とありこれから来るのかなとあきらめようと思ったのですが、検札をクリアして20分くらい歩いて来たのにあきらめたくないと思い、入る前に外で電話していた若い女性に相席にさせてもらえないか頼もうといったん出たのです。
彼女はまだ電話していてそのうちにお店のコックさんがレジ袋に入ったものを渡したのです。彼女はそのまま帰ろうとしていて失礼かと思ったんですが、”テイクアウト?”と聞いたんです。そうしたら電話を切ってくれて”そうよ、どうしたの?”と。予約してこなかったから9時に来てくれと言われたと話したら、”テイクアウエイでいい?(イタリアのテイクアウトのこと)何がいい?”と聞かれ、外に貼ってあるメニュー表を見て、”カレッティエッラと豚のアリスタ”というと、”アリスタよりカーチョフィの方がいいわ”と。カーチョフィは大好きなのでそれをお願いすると彼女が先に立ってお店に入ってくれて、”このご婦人がテイクアウエイしたいそう”と注文してくれたんです。(会話は片言ですが通じました)
何という親切な人!むっつりした男性も断ることができずにオーダー成立。もうなんてお礼を言ったらいいかわからなくて、ちょうど持っていたVENCHIの板チョコを差し出したのです。彼女は遠慮したけどまだ2枚あるからと受け取ってもらえ”ほんとにありがとう”とイタリア語と日本語を混ぜてお礼を伝えました。
彼女が外で待っていたので、外で待ちますか?と聞いたらむっつりの人が中でいいと。そして待つ間もなく注文した2つが渡されたのでした。驚いたことには代金がメニューのものより2ユーロ以上お安いんです。ラッキー!と支払いをすませバス停に向かいかけてパンがないのに気づき、その前にテイクアウエイした人がレジの後ろにあるパンの袋をもらっていたのを思い出しお店にもどり、”Pane?”と聞くと同じ袋を渡してくれたんです。そして”Quant costa?"と聞くといらないと手を振るではありませんか!なんだ、いい人? ”Grazie mille!"と言ってバス停に急いだのでした。
アジア人だしひとり客は単価も低いしレストランにとって歓迎されるお客ではないかも知れなくて、入口そばの狭い席に案内されたこともありました。でもローマのトラステヴェレの人気店など相席は当たり前で、小さなテーブルに大きな男性とぎゅうぎゅうに座ることになって恐縮していたら、30代の彼はまったく嫌なそぶりも見せずメニューを教えてくれたり楽しい時間を過ごせたのです。若い人から偏見を持たれたことはなく、反対に日本が好きなんだと話しかけられることもあり、今回はどうだったのか本当の事はわかりません。 -
バスはすぐに来て15分余りでホテルに到着!冷めないようにストールで巻いてトートバッグに入れて帰ったカレッティエッラはまだ温かく想像していた通りの美味しさで、カーチョフィの煮たもの(ローマ風)は苦みがあり春の香りがして、受けた親切と8ユーロ、6ユーロという驚きの安さの大満足の晩ご飯でした!
最初からテイクアウトが目的ではなかったのに、今思えば早くホテルに帰れるのも魅力だし、この旅行中何度もお世話になることになるとは(笑)。ほんとうにあの女性には感謝しかありません。
追記 後日日本人の店員さんがおられる革製品のお店に行ってこのことを話したところ、コロナ中からかなりのレストランがテイクアウエイを始めてそれが今でも残っている、ということでした。この先戦争が終わって以前のように観光客が戻ったら、テイクアウエイはなくなるかもしれません。
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