2024/05/04 - 2024/05/04
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たびたびさん
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前回金沢を歩いたのは、2014年1月。しばらくたっているとは思っていましたが、もう10年も経っていたとは。。その間だと、2017年9月に能登半島一周をしただけですからね。コロナ禍があったにせよ、気が付かないうちに石川県はちょっと縁遠くなっていたようです。 ただ、今回の金沢も富山県の城端祭を見るのにひっかけたもの。その流れはまだ続いているということかもしれませんけどね。
さて、前泊して早朝から回ったのは、まだ見ていなかった細々スポットですから、つまりはマイナースポットになるのかな。ただ、金沢は京都にも近いものがあって、どんなところを回ってもそれなりに意味があるし形にもなりますからね。むしろ、問題はこちら側。何気ないことにこちらがどれだけ気がつくか。どれだけ理解し受け入れられるかの方がポイントでしょう。そういう意味では、谷口吉郎 吉生記念 金沢建築館、国立工芸館に加賀本多博物館、石川県立伝統産業工芸館といったラインナップは、改めて、金沢の雅な文化に触れられた思い。藩政時代、百万石の大名は、金沢の前田家以外にはいませんでしたからね。ちょっとちょっとのことが、金沢だといい感じに熟成されて、私の琴線にも響くものがありました。実は3か月後の8月にももう一度金沢は予定しているので、金沢前半戦という意味にも十分なったかなと思います。
で、ついでにちょっと金沢について。知識としては比較的弱いところなので、少し妄想も入っているかもしれませんが、自分のイメージの現状整理です。金沢の萌芽は、本願寺勢力の拠点、金沢御堂(尾山御坊)と呼ばれた本源寺が天文15年(1546年)、ここに築かれた辺りから。長享2年(1488年)、加賀の一向一揆によって守護の富樫氏は滅ぼされ、加賀は既に百姓の持ちたる国となっていました。しかし、その後、石山合戦が始まったことで、本源寺は柴田勝家の先鋒、佐久間盛政により攻め落とされ、佐久間盛政がそこを金沢城と改称して金沢城主に。そして、前田利家が金沢に入城し尾山城と改称したのは天正11年(1583年)。賤ケ岳の合戦の後のこと。ここからが金沢の前田家の歴史です。いずれにしてもそれ以前は、金沢は特に栄えた場所ではなく、金沢、加賀は前田家のもとで初めて繁栄の歴史が始まったと言えるのではないかと思います。
この辺りはまだイントロなんですが、つまり、前田利家以降前田家が育んだ街、金沢を考える時、前田利家や前田家がそこまでのものだったのかどうかということです。前田利家は賤ケ岳の戦いの際には柴田勝家の与力であったにもかかわらず、秀吉に乗り換える。ただ、秀吉との関係はもともとそれなりに深かったということ。秀吉亡き後、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景の五大老のひとりとなったのも、その流れから行くと当然です。しかし、石田三成と謀って徳川家康に対抗した上杉景勝に比べると、早いうちから徳川家康には恭順する姿勢があって、豊臣家の重鎮としては何か物足りなさがなくもない。妻、松との夫唱婦随も含めて、少なくとも一代の英雄というイメージではないですね。続いて、秀吉のお陰で大大名になった前田家は、徳川時代も生き延びるのですが、これは徳川家との婚姻関係を重ねたことも大きな要因。皮切りは、加賀藩二代藩主、前田利常の正室、珠姫。珠姫は、徳川二代将軍秀忠の次女。あの豊臣秀頼の正室、千姫は珠姫の姉です。さらに、前田利常と珠姫の長男、加賀藩三代藩主、前田光高の正室は、徳川三代将軍家光の養女、大姫。徳川家との婚姻関係を重ね、お家の安泰を図りました。秀吉の恩顧を受けた大名は、福島正則の福島家も加藤清正の加藤家も改易となり、生き延びた例はほとんどありませんから、そういう意味では正しい判断だったような気もしますが、弱腰のような気もしなくはないですね。ただ、そういうイマイチのイメージの一方で、前田家が大大名となったのは、滅びた朝倉氏の家臣を積極的に召し抱えたり、一向宗ほかの宗教勢力を抑え込むことに成功したから。自らが独力で切り取ったのではない領地をいかにうまく治めていくか。抵抗勢力だらけの中で門徒を多数処刑する一方で、地元の有力者を活用し相互監視の役割を担わせた十村制を敷くとか必ずしもきれいなことばかりではなかったと思いますが、少なくとも結果論として、やはり内政の力には秀でたものがあったという評価はしなければならないと思います。そして、その力の現われが今の金沢につながっているとしたら、それは僥倖。後世の人間としては素直に感謝するしかないでしょう。
なお、この日は、少し早めに城端に移動して、城端曳山祭りの宵祭を見る予定。そのため、ちょっと時間は限られることになるのですが、まあ勝手知ったる金沢です。焦らず、時間の許す限り丁寧に回ってみたいと思います。
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二日目のうちに京都から金沢に入って、金沢は金沢カプセルホテル武蔵町で前泊。
ネットでの評判も良かったのでここにしました。シャワーだけの対応とか少しどうかなとも思っていましたが、一泊だけなら特に問題なし。施設全体はきれいで清潔だし、シャワー室を含めて使い勝手もいい。スタッフの対応もしっかりしていて、安心感がありました。ネットの評判はその通りだったかなと思います。ただ、宿泊客はやっぱり若い人が多いですね。 -
翌日は、早朝から金沢市内の散策。夕方までしかないので、どんどん回っていきますよ~
尾崎神社は、寛永20年(1643年)、加賀藩四代藩主、前田光高が金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立した神社。冒頭に触れましたが、前田光高は徳川家康のひ孫ですからね。別名は金沢東照宮 by たびたびさん尾崎神社 寺・神社・教会
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天照大神、東照大権現、加賀藩三代藩主前田利常を祀り、別名は金沢東照宮。現在地に移転されたのは、明治11年です。
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規模はさほどでもないのですが、けっこう手が込んだ派手な意匠。本殿、中門、透塀など当初に建立されたものが残っていて、国の重要文化財です。
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加賀藩御算用場跡地は、尾崎神社の隣りみたいな場所。駒札が立っているだけです。
加賀藩における財務を司る機関を御算用場は、寛文12年(1672年)からこの地に置かれ、算用場奉行以下、算用者と呼ばれる役人が150名勤務していたとか。加賀藩はやっぱり大藩。財務も他藩とは規模がだいぶ違うように思います。 -
同じ並びにある黒門前緑地敷地は、高い塀で囲まれたお屋敷のような一角。中には明治5年築で科学者、高峰譲吉の実家だった旧高峰家と明治43年築の旧検事正官舎が移築されて、それを囲むようにして日本庭園が整備されています。
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朝早かったので表の門は閉まっていましたが、横の生垣から中の様子を拝見しました。
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これも近くの旧園邸 松向庵。大正10年頃、羽二重商を営んでいた本郷長次郎なる人物が表千家家元千宗左、惺斎宗匠の指導により作ったという茶室です。普段は非公開なんだと思いますが、通りから茶室につながる玄関周りの様子を拝見すると、それだけでもそれらしい雰囲気。敷石とかもなかなかいいですね。植え込みも含めて、路地庭園風にしっかり管理されていて、さすがだと思います。
表千家家元千宗左、惺斎宗匠の指導により作ったという茶室 by たびたびさん旧園邸 松向庵 名所・史跡
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今度は、尾山神社の方へ。
尾山神社に上がっていく石段の下の方にある水路は金沢城惣構跡。慶長4年(1599年)、前田家2代利長が高山右近に命じて造らせた西内惣構の一部です。惣構は土居を盛った城の守りですが、その後、寛永9年(1632年)、3代利常が辰巳用水を引かせたことで西内惣構にも水が満たされることになります。 -
では、石段を上がって、
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イチオシ
尾山神社のシンボルとも言える神門をくぐって境内へ。
尾山神社 寺・神社・教会
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ギヤマンがはめられ灯台の役割を果たしていたと伝えられるこの門は、明治8年、地元の棟梁が設計施工したもの。擬洋風に中国風もちょっと混じった独特の雰囲気です。
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正面が本殿。
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金沢にあって、前田利家とまつを祀りますが、創建されたのは明治6年。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつであり、実は歴史はさほどではありません。
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境内にある前田利家の像。母衣を背負った姿は、信長の家臣だった時代の姿です。
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こちらは、尾山神社の庭園。尾山神社が建立される前、この辺りが加賀藩主前田家別邸の金谷御殿だった時代、江戸末期の遺構。
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池のほとりの丸雪見灯籠と中島に架かる何種類かの橋がアクセント。さすが加賀藩みたいなしゃれたセンスを感じます。
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尾山神社の裏側に回ると鼠多門。このは、金沢城の西側の郭、玉泉院丸にある櫓門形式の城門。鼠多門橋で金谷出丸と結ばれています。
ちょっと不思議な感覚です by たびたびさん金沢城公園 鼠多門 名所・史跡
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一見石垣のように見える模様は海鼠壁。目地が青っぽい黒漆喰なので、屋根の色と同系色。リアルな門なのに、全体はまるで絵にかいたような感じに見えてしまいますね。ちょっと不思議な感覚です。
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金沢城のお堀の方も庭園のような眺めです。
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イチオシ
尾山神社から通りを越えて西に進むとひらみぱん。
金沢では抜群の人気を誇るパン屋さん。いや、寄るつもりはなかったのですが、もう並んでいる人が少しいて、吊られて私も並んでみました。ゴールデンウイークというのもあったと思いますが、結局、朝8時のオープン前には長い行列ができました。朝8時のオープン前には長い行列ができていました by たびたびさんひらみぱん グルメ・レストラン
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入ってすぐにはパン棚。パンがぎっしりと並んでいます。
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で、そのまま先に進んで、店内のこじんまりした奥のスペースでモーニングをいただきました。
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ただ、お味の方はまあ普通。必ずしもびっくりするようなものではないですね。金沢ではお寿司屋さんとかだとかなりの競争があるのでしょうが、パン屋さんはそうでもないでしょう。人気の理由には金沢にあってそれなりのパン屋さんという希少価値も加わっているのではないかと思います。
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イチオシ
ひらみぱんで少し時間を取られましたが、ここからまた散策開始です。
金沢聖霊修道院聖堂は、昭和6年築。スイス人建築家マックス・ヒンデルの設計です。全体的にロマネスク建築様式を基調としたデザインというのですが、上部の八角塔と下部の円形屋根の建物の組み合わせや白地に濃い緑の色彩感覚とか。美しさの一方でかなり個性的な印象。ちょっとしたインパクトもあると思います。 -
イチオシ
そこから長者町の武家屋敷の方へ。
今日はいい天気ですよ~ -
大野庄用水も勢いよく流れてます。
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武家屋敷の中へ入って
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春日山窯 木米庵は、金沢で200年の歴史があるという鏑木商舗のお店。長町武家屋敷の中にある金沢九谷ミュウジアムに次ぐ出店店舗です。鏑木商舗は、窯元ではなく流通業者なので、お土産品や普段使いのものから美術品まで揃えるのが特徴なんですが、主体はお土産品や普段使いのものが多いような。こちらのそれなりの目がないとなにを見ていいか分からなくなるようなところもあるような気もします。
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近くにあるもうひとつのおいしいいっぷく鏑木も鏑木商舗がやっている食事処。金沢九谷ミュウジアムと同じ敷地内にあって、買い物を楽しんだり、食事を楽しんだりが一緒にできるというのがいいですね。ここは長町武家屋敷の中。近くに食事処はないので、実は意外に貴重です。
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先に進んで、これは大屋家住宅。藩政時代の直臣、平士級の武家屋敷の遺構。門を構え、周囲の土塀を巡らし、広い庭を持つ。
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内部は建具を含めて、内部も当時の状態を良くとどめている云々の説明板もありましたが、非公開。ただ、それ以上は玄関周りを窺ってみるしかありません。
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せせらぎ通り商店街は、長町武家屋敷跡と香林坊の間。大野庄用水のもうひとつ東側を流れる鞍月用水に沿った通り。少しカーブをした通りから、鞍月用水を渡る橋でそれぞれのビルに入っていくのが独特の景色になっています。食べ物屋さんが中心だし、夜の方が雰囲気は出るように思います。
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百万石通りに出て。北國新聞会館は、香林坊にも近い辺り。通り沿いに建つ高層ビルです。地元新聞の北國新聞社の本社ビルということですが、特に中を見学できるとかいうことではないですね。この辺りでは、ランドマークの一つになっているビルというだけのことかなと思います。
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香林坊の交差点角にある香林坊地蔵尊。大和の先に建つ小さな祠です。戦国時代、この地にあった薬屋が比叡山の僧侶、香林坊を婿養子に迎えたところ、地蔵尊のお告げにより処方した目薬が藩祖、前田利家の目の病を治したとか。寛永の大火の時、この辺りで火が止まったとか。いろんな霊験が示されたありがたい地蔵のようです。
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香林坊から、そのまま片町の方に進みます。
プレーゴは大通りに面したところに入口があって、おしゃれなブティックが集まったショッピングモール。百貨店の代わりになるような存在かな。奥はさほど深くはないので、入り口の辺りが一番雰囲気がいいのかなと思います。 -
イチオシ
その先が片町きらら。もう片町のエリアです。表通りに面した淡いパステルカラーの色調のちょっとデザイナービルみたいな建物なので、かなり目に付くと思います。
正面にはH&Mの看板。アパレル中心のショッピングセンターということが分かります。 -
養智院は、片町エリアの中央通り沿い。
「日本三地蔵 弘法大師真作 加賀延命地蔵大師」の看板が目に入ります。
寺は、天長元年(824年)淳和天皇の勅命により、大聖歓喜天を勧請して創建。加賀延命地蔵菩薩は、元禄6年(1693年)、本尊として迎えたもののよう。本堂の方にのぞき窓がありましたが、よく分かりませんでした。 -
イチオシ
犀川大橋を渡って、
犀川大橋 名所・史跡
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すぐが雨宝院。
室生犀星が子供の頃に預けられた寺です。 -
にし茶屋街に入って、
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落雁の諸江屋も定番のお店です。
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ここからいくつか周辺のお寺のチェック。
大蓮寺は、初代利家の四女で、宇喜多秀家の妻となった豪姫の位牌所。野田山にある豪姫の五輪塔の墓や豪姫の位牌と念持仏である聖観音を守っているのだとか。浄土宗の寺のようですが、建物は黒い瓦がとってもシック。きれいなお寺ですね。 -
なお、豪姫は、宇喜多秀家が関ケ原の戦いで敗れ八丈島に流されると高台院(ねね)に仕えていましたが、その後、金沢に。寛永11年(1634年)に死去しています。
宇喜多秀家の供養塔が境内にあるようですが、それはよく分かりませんでした。 -
願念寺の山門前には、松尾芭蕉の「塚もうごけ我が泣く声は秋の風」の句碑。
これは、奥の細道の旅の途中、芭蕉が弟子の小杉一笑の死を知って詠んだ句だとか。この寺はその一笑の菩提寺なんですね。 -
山門は立派ですが、本堂とかはちょっと古びた感じがして、訪れる人は少ないように感じました。
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本長寺は、山門もはっきりしないし、空き地の中に本堂が建っているような寂しい寺ですね。
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芭蕉の「春もやゝけしき調ふ月と梅」の句碑もあるはずですが、これではよくわかりません。なお、本堂内にはフレスコ壁画「釈尊伝」というのがあって、拝見できるようになっているというのはちょっと面白いかもしれません。
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金剛寺は、天正年間(1573~1592年)創建の曹洞宗の寺。もともとは越中射水郡にあったものを三代、利常の時代に当地に移転。ということで、能登末森城の守り本尊であったと伝えられる観世音菩薩像を安置しているとか。
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本堂が一風変わっていて、学校の古い校舎のように見えました。
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谷口吉郎 吉生記念 金沢建築館も寺町通沿い。堂々とした構えで建つ建築・都市についてのミュージアムです。
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入り口を入ると、明るい館内。
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イチオシ
一番の見どころは、迎賓館赤坂離宮和風別館「遊心亭」の広間と茶室。赤坂離宮と同じものが造られています。
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海外の要人を招いて、日本建築の美を感じてもらうということなんでしょうが、どこか他にもありそうな感じがするのは伝統を踏まえた設計だからかな。
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奇をてらわず、あくまでも正統派の美の追求。ひとつの極致なのかもしれません。
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ここから寺町通を南に進んで、桜橋の方に抜けます。
W坂は、犀川に架かる桜橋から寺町に上がっていくジグザグの石段。車の道もすぐ近くにあるのですが、こうした坂を通ると寺町がけっこう高い橋にあったことに初めて気が付くことになりますね。なお、坂の上にはかつて石工の職人町があったので、石伐坂とも。 -
イチオシ
桜橋から眺める犀川も美しいです。
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桜橋を渡って、対岸の川沿い。
高浜虚子 年尾、父子句碑は、犀星のみち沿いにあります。
高浜虚子は「北國の時雨日和やそれが好き」。虚子の息子、年尾は「秋深き犀川ほとり蝶飛べり」。いずれも金沢の情景を詠んだものですが、高浜虚子は子規と同じく愛媛県出身。子規の教えを忠実に守り通したというイメージがあって、これもそんな感じかなあ。
虚子の句だと芦屋市の虚子記念文学館で知った「白牡丹といふといへども紅ほのか」がけっこう気に入っています。 -
室生犀星文学碑も、その隣り。
碑面には「小景異情」の一節あんずの詩。
あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝やけ
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
室生犀星
別途、説明書きには「生涯犀川の美しさを忘れず、これを愛惜したといわれる」とありました。
ちなみに、金沢の三文豪は、徳田秋聲、泉鏡花、室生犀星。特に、異才は泉鏡花かな。甘美な不思議な世界を紡ぎます。 -
しばらく歩いて、鈴木大拙館。
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鈴木大拙館から
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緑の小径を抜けて行くと、松風閣庭園の小さな入り口がありました。
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霞ヶ池という池を中心に鬱蒼とした緑に覆われた庭で、苔も美しいですね。江戸時代初期に、古沼と自然林を生かして作庭された庭園だそうで、明治になってから、松風閣が移築され、現在の形になったようです。
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その松風閣は、加賀藩前田家13代前田斉泰が、旧加賀八家筆頭本多家の本多政和と輿入れする妹、寿々姫のため、天保5年(1834)、本多家上屋敷に建てた広坂御広式の一部、御対面所を引き継いだもの。現在地に移されたのは、明治40年。鬱蒼とした庭園の一角にあったことから、増築された建物とともに松風閣と命名されました。庭の方は自由散策できるので、そちらの方から遠目に外観を確認しました。
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緑の小径に戻って。。この道は、鈴木大拙館から中村記念美術館からへと続く細い道。鈴木大拙館の裏手に、こんなところに抜け道があったあというような感じですね。周囲は緑が多いですが、この道からだと鈴木大拙館の浅く水を張った敷地内の景色がきれいに見えて、これもちょっとお勧めです。
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中村記念美術館から石川県立美術館に抜ける石段の道は、美術の小径。脇には、兼六園から流れる辰巳用水が流れていて、この辺りの緑も濃いですね。しかし、この石段は割と急。こんな石段を上っていかないといけないのかなあとため息が出ましたが、このルートだとやっぱりこれが近道。無駄な道ではないようです。
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美術の小径を上がるとそこは本多の森公園。兼六園の南側です。もともとは旧加賀八家筆頭本多家の武家屋敷が軒を連ねていたエリアなのですが、今は石川県営の都市公園。公園内には、石川県立美術館、石川県立歴史博物館、加賀本多博物館や成巽閣など多くの文化施設が建っていて、金沢市内では有数の文化ゾーンともなっています。
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そのエリアに建つ国立工芸館。工芸館は、令和2年に東京国立近代美術館工芸館が金沢市へ移転したもの。レトロな建物が特徴的ですが、これは旧陸軍第九師団司令部庁舎と旧陸軍金沢偕行社の2つの建物を活用したもの。
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イチオシ
しっかり明治の香りがしています。
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玄関のオブジェを過ぎて、館内へ。
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この日は、人間国宝 鈴木藏の志野展をやっていたので、それを拝見することに。
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ちなみに、鈴木藏は土岐市出身。五代目加藤幸兵衛から作陶の教え受け、荒川豊蔵や加藤土師萌などに師事したとあって、志野焼に傾注したのもたぶん自然な流れですね。
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紅志野を中心に数多くの作品が展示されていましたが、紅志野は安土桃山時代から江戸時代初期に焼かれていたということですが、この鮮やかな赤色は北大路魯山人が作りだしたものとも。
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今では志野焼の定番みたいなことになっていますね。
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なので、こうした鮮やかな色彩も
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目新しいものではなくて、余程のものではないと独創性は感じませんね。
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そういう意味だと鈴木藏の作品の特徴は、重々しさとか豪快さかな。
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手にした時の
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ずっしりとした重さが
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想像できるような作風です。
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ただ、正統派は正統派。想定の範囲内といった感もあって、その純血さのゆえか逆に限界もあるような。。
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少し現代アートのような作品もありましたが、
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志野焼きの第一人者である荒川豊蔵の圧倒的な美しさやスケール感と比較すると、正直、ちょっと物足りなさも否めないような気がします。
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可児市には荒川豊蔵資料館があって、ずっと気になっていますが、そろそろどこかで行ってみたいなと思います。
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加賀本多博物館は、国立工芸館の隣り。石川県立歴史博物館(いしかわ赤レンガミュージアム)に同居する形。石川県立歴史博物館とか全体が赤レンガ建物3棟に入っているのですが、この建物はかつての陸軍兵器庫。建物自体が見ごたえのある歴史的建造物です。
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ここは、旧加賀八家筆頭本多家ゆかりの品々を公開していますが、
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本多家は前田家の家臣であっても5万石を有していたと言いますから、実質的には大名格。
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美しい展示品には威厳と格調があって、さすがの見応えです。
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そういえば、加賀藩は足軽でも他藩とは違って、いい家に住んでいましたからね。
加賀藩では年貢の取り立てが厳しかったとかも言いますし、金沢とそれ以外では大きな格差があったのではないかと思います。 -
今度は、金沢くらしの博物館の方に向かいます。
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その途中、北陸電力会館 本多の森ホールも本多の森の主要施設の一つ。建築家黒川紀章による設計で、ここにあった旧石川県営兼六園野球場の形状を反映した扇形の外観なのだとか。収容人数1707人という堂々とした規模もあって、かなりの存在感を放っています。
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金沢くらしの博物館に到着。
その前を流れる辰巳用水は、金沢市内、約11kmの用水路。金沢市内中心部には大野庄用水、鞍月用水もありますが、この用水も金沢城の防衛や防火のために、三代加賀藩主、前田利常の命によって、寛永9年(1632年)に完成したもの。今でも金沢の潤いとなっています。 -
で、これが金沢くらしの博物館。
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建物は、明治32年に建てられた石川県第二中学校の旧校舎。
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イチオシ
玄関部の車寄せにちらりと見える尖った塔とか、この建物自体も大きな見どころですね。
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この日は、端午の節句展をやっていて、華やかな展示で埋め尽くされていました。
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家族連れもけっこう来ていて、楽しんでいる様子。
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ここでも金沢のいろんな豊かさをここでもまた感じさせられました。
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もう一度、本多の森の方に戻ってきて、
目に留まったどんすきーで昼飯です。
なかなか人気店のようですが、結局、この周辺に食事処が他にないということもあるかもしれませんけどね。ここが混んでいるから別の店にしようと思っても、そんな選択肢はないようです。 -
ただ、うどんはなかなか。キレイ系の出汁のうまさはさすが金沢といった個性があるし、うどんのつるつる感も悪くない。メニューのラインナップもバリエーションがあるし、意外にちょっとした名店なのかもしれません。
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再びの散策は、石川護国神社へ。
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この鳥居は、やっぱり護国神社のものですね。
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戊辰戦争で戦死した加賀藩士の霊を祭るために創建された招魂社が始まり。公園の中にすっぽりと包まれた境内なので、公園みたいに明るい雰囲気がそのままここにもあるような感じ。気軽に寄れる神社です。
加賀藩は徳川家の血縁があったことから、幕末はその去就がはっきりしなかった藩のひとつですが、結局は新政府に恭順。7000人を超える動員を行い、官軍として庄内や会津若松まで転戦しています。新政府にいいように使われたような気もしなくはない。なんとなく前田利家からのイメージとも重なるような気がしてなりません。 -
石川県立伝統産業工芸館は、
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地元の伝統工芸品を網羅的に紹介する施設。
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加賀友禅は有名ですが、
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それだけではなくて、
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根来塗風の輪島塗、
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金をあしらった輪島塗、
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大樋焼、
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金沢漆器、
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九谷焼は、私も以前から着目している九谷焼の人気作家、武腰潤の作品。他の作家とは一線を画する洗練された美しさだと思います。
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金沢箔、
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金沢和傘、
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七尾和ろうそく、
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加賀水引、
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郷土玩具も
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かわいらしい。
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加賀獅子頭、
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加賀提灯、珠洲焼などなど。その多彩さは改めて目を見張るもの。
こういうところも小京都と言って十分な内容ですね。 -
最後は金沢城の方へ。
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この有名な石川門は、金沢城の裏口にあたる搦手門ですが、金沢城の観光だと兼六園に近いこの御門から入るのが一般的なこともあって、金沢城のシンボルというイメージが強いですね。
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天明8年(1788年)に再建されたもの。
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高麗門の一の門から櫓門の二の門に続く枡形門で、両側の2階建ての石川櫓がこの門ならではの豪華な意匠のポイントとなっています。
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そして、門を過ぎて奥に進むと金沢城公園。金沢城公園といってもちょっと漠としたところがあるのですが、この五十間長屋を望む広場の辺りが中心になるのかな。この日は、百万石菓子百工展というイベントが行われていて大賑わい。金沢城跡という歴史の場所ではあるのですが、すっかり憩いの場所になっています。
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石川門を出て、紺屋坂を下ります。金沢駅に帰るバス停はこの下ですからね。
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まだ少し時間があるので、石川県観光物産館の方へ。ここなら、お堀通りのバス停にも近いので安心です。意外に大きな建物で
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中は悠々。
お土産物をバランスよく揃えていて、金沢駅で買い物するのと一緒の感覚です。
では、金沢駅に帰ります。 -
金沢駅では、やっぱりあんとかな。
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この賑やかさはやっぱり金沢ならでは。見るだけでも、金沢観光をしている気分です。
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それと郵太郎ポストもちょいと確認。金沢駅の兼六園口を出てすぐの壁沿いにあって、郵便ポストの上に郵太郎という獅子舞の子どもをモチーフにした加賀人形が立っています。昭和29年、金沢駅舎の落成を記念して作られたものということで、実は意外に古いものです。
さて、これで金沢は終了。城端祭の宵山に向かいます。
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