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江戸時代まで、京~大宰府は国道1号線でした。<br />江戸時代も、京~長崎は五街道に次ぐ地位でした。通行量は言うまでもなく、世界情勢が幕府へ伝わる唯一の情報ハイウェイとして、幕府も特別視していました。<br />福岡藩内の六つの宿場町は、その中でも別格でした(筑前六宿)。<br />木屋瀬は、1963年の北九州市誕生時から市域に含まれました。

長崎街道の面影遺る木屋瀬(こやのせ)宿:筑前六宿②

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2023/10/07 - 2023/10/07

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gianiさん

この旅行記のスケジュール

この旅行記スケジュールを元に

江戸時代まで、京~大宰府は国道1号線でした。
江戸時代も、京~長崎は五街道に次ぐ地位でした。通行量は言うまでもなく、世界情勢が幕府へ伝わる唯一の情報ハイウェイとして、幕府も特別視していました。
福岡藩内の六つの宿場町は、その中でも別格でした(筑前六宿)。
木屋瀬は、1963年の北九州市誕生時から市域に含まれました。

旅行の満足度
5.0

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  • 旅のはじまりは、黒崎駅。<br />筑豊電鉄に乗車します。

    旅のはじまりは、黒崎駅。
    筑豊電鉄に乗車します。

    黒崎駅

  • 区役所の入るコムシティ1階には、黒崎歴史ふれあい館が入居。4travelにないスポットですが、穴場です。木屋瀬についても学べます。

    区役所の入るコムシティ1階には、黒崎歴史ふれあい館が入居。4travelにないスポットですが、穴場です。木屋瀬についても学べます。

    COM CITY 名所・史跡

  • 旅のはじまりは、黒崎駅。<br />筑豊電鉄に乗車します。<br />列車の半分は筑豊中間止まりなのでNG.<br />40分毎に運行される筑豊直方行に乗車します。

    旅のはじまりは、黒崎駅。
    筑豊電鉄に乗車します。
    列車の半分は筑豊中間止まりなのでNG.
    40分毎に運行される筑豊直方行に乗車します。

    黒崎駅前駅

  • 楠橋駅で下車。<br />1kmほど歩くと、宿場の入口です。

    楠橋駅で下車。
    1kmほど歩くと、宿場の入口です。

    楠橋駅

  • 東構口<br />構口は宿場の出入口のことで、道路と直角に石垣を組み、その上に白壁の練塀を築きました。<br />実際の方角に関係なく、上り方面を東、下り方面を西としました。<br />木屋瀬宿の東構口には、両側に松本家が建っています。

    東構口
    構口は宿場の出入口のことで、道路と直角に石垣を組み、その上に白壁の練塀を築きました。
    実際の方角に関係なく、上り方面を東、下り方面を西としました。
    木屋瀬宿の東構口には、両側に松本家が建っています。

  • 軽トラックの先にある構築物が、東構口跡です。<br />現在は練塀ではなく、焼瓦塀になっています。

    軽トラックの先にある構築物が、東構口跡です。
    現在は練塀ではなく、焼瓦塀になっています。

  • 郵便ポストからして、レトロ。<br />これでも政令指定都市(北九州市八幡西区)です。

    郵便ポストからして、レトロ。
    これでも政令指定都市(北九州市八幡西区)です。

  • なんだか、ほっこりとさせられます。

    なんだか、ほっこりとさせられます。

  • 郡屋跡<br />郡屋とは、藩の役人と村役人が会合を行う場所です。藩の役人は、年貢の徴収や諸役(大名行列の対応等)を指示し、村役人は(庄屋/年寄/百姓代の三役)現場の調整役でした。特に長崎街道は九州一の幹線道路で、諸藩の大名行列が通過するので、ダブルブッキングで本陣がキャパオーバーにならないように、近隣の宿場と連携して日程調整等を行いました。

    郡屋跡
    郡屋とは、藩の役人と村役人が会合を行う場所です。藩の役人は、年貢の徴収や諸役(大名行列の対応等)を指示し、村役人は(庄屋/年寄/百姓代の三役)現場の調整役でした。特に長崎街道は九州一の幹線道路で、諸藩の大名行列が通過するので、ダブルブッキングで本陣がキャパオーバーにならないように、近隣の宿場と連携して日程調整等を行いました。

  • 宿場の中心部で「く」の字に曲がります。防衛上の配慮です。<br />スポット巡りを中断して、折れ曲がった部分にある史料館へ入ります。<br />

    宿場の中心部で「く」の字に曲がります。防衛上の配慮です。
    スポット巡りを中断して、折れ曲がった部分にある史料館へ入ります。

  • ここが、なかなか奥深いんです。<br />道と共に歩んだ木屋瀬の歴史を振り返ります。

    ここが、なかなか奥深いんです。
    道と共に歩んだ木屋瀬の歴史を振り返ります。

    北九州市立長崎街道木屋瀬宿記念館 美術館・博物館

    学べる by gianiさん
  • 統一国家<br />律令に基づく国づくりが行われるなか、木屋瀬は筑前国に組み込まれました。筑前国の大宰府は都に次ぐ拠点で、大陸との交流にも関わる重要スポットでした。<br />都と各国を結ぶ官道(運輸/通信網)が設けられました。筑前国は、西海道に組み込まれます。<br />このころの木屋瀬は、官道とは無関係の郷です。

    統一国家
    律令に基づく国づくりが行われるなか、木屋瀬は筑前国に組み込まれました。筑前国の大宰府は都に次ぐ拠点で、大陸との交流にも関わる重要スポットでした。
    都と各国を結ぶ官道(運輸/通信網)が設けられました。筑前国は、西海道に組み込まれます。
    このころの木屋瀬は、官道とは無関係の郷です。

  • 荘園制度<br />律令制は奈良時代に崩れはじめ、荘園が台頭します。<br />荘園領主(天皇家/貴族/有力寺社)は、荘園から年貢が手元へ届くように、あるいは指示が各荘園に伝わるように、独自の道路/通信網を整備します。<br />木屋瀬の面する遠賀川流域は「鎮西米」というブランド米の産地で、都の人たちに重宝されました。遠賀川水運が発達すると共に、木屋瀬も発展します。犬鳴川が遠賀川に合流する要所です。

    荘園制度
    律令制は奈良時代に崩れはじめ、荘園が台頭します。
    荘園領主(天皇家/貴族/有力寺社)は、荘園から年貢が手元へ届くように、あるいは指示が各荘園に伝わるように、独自の道路/通信網を整備します。
    木屋瀬の面する遠賀川流域は「鎮西米」というブランド米の産地で、都の人たちに重宝されました。遠賀川水運が発達すると共に、木屋瀬も発展します。犬鳴川が遠賀川に合流する要所です。

  • 中世<br />鎌倉時代には、東国武士の宇都宮氏が代官として現在の北九州市へ赴任します。土着化して姓を麻生と改め、北条氏の土地を管理します。<br />麻生氏は足利尊氏の西国挙兵に組し、室町幕府では将軍の直臣として地位を築きます。遠賀川流域の寺社系荘園を次々と吸収し、守護大名の傘下で木屋瀬を支配します。木屋瀬には守護代の屋敷があり、筑前支配の拠点でした。<br />※守護の大内氏は複数国を束ねていたので、筑前には守護代(代理人)を派遣しました。

    中世
    鎌倉時代には、東国武士の宇都宮氏が代官として現在の北九州市へ赴任します。土着化して姓を麻生と改め、北条氏の土地を管理します。
    麻生氏は足利尊氏の西国挙兵に組し、室町幕府では将軍の直臣として地位を築きます。遠賀川流域の寺社系荘園を次々と吸収し、守護大名の傘下で木屋瀬を支配します。木屋瀬には守護代の屋敷があり、筑前支配の拠点でした。
    ※守護の大内氏は複数国を束ねていたので、筑前には守護代(代理人)を派遣しました。

  • 木屋瀬の地名<br />浄土宗鎮西派の開祖弁長が1200年頃に、上流(飯塚)の明星寺の建築木材を遠賀川の水運で運んだところ、水位不足で貯木場(木屋)を築いた河岸(瀬)ことから、木屋瀬と呼ばれるようになったとされます。<br />初めて文献に登場するのは1448年で、麻生弘家が将軍足利義教に安堵された所領の目録に含まれています。

    木屋瀬の地名
    浄土宗鎮西派の開祖弁長が1200年頃に、上流(飯塚)の明星寺の建築木材を遠賀川の水運で運んだところ、水位不足で貯木場(木屋)を築いた河岸(瀬)ことから、木屋瀬と呼ばれるようになったとされます。
    初めて文献に登場するのは1448年で、麻生弘家が将軍足利義教に安堵された所領の目録に含まれています。

  • 藩政時代<br />九州の幹線はJRや国道3号線と同じく、福岡(博多)を経由していました。江戸時代に福岡藩を任された黒田長政は、城下町を諸国の人々が通過することを防衛上の問題とみなし、博多/福岡を経由しない黒崎~原田(JR筑豊本線/国道200号線に相当)に街道を整備します。峠が難所だったので、実際は秋月街道(小倉~田代)へシフトしますが、冷水峠の整備を以てして黒崎~原田が長崎街道となります。最短距離で小倉へ通じるルートでもあります。

    藩政時代
    九州の幹線はJRや国道3号線と同じく、福岡(博多)を経由していました。江戸時代に福岡藩を任された黒田長政は、城下町を諸国の人々が通過することを防衛上の問題とみなし、博多/福岡を経由しない黒崎~原田(JR筑豊本線/国道200号線に相当)に街道を整備します。峠が難所だったので、実際は秋月街道(小倉~田代)へシフトしますが、冷水峠の整備を以てして黒崎~原田が長崎街道となります。最短距離で小倉へ通じるルートでもあります。

  • 宿場の整備<br />宿泊施設や貨物輸送の中継(馬借)が整備されていないと、旅人を呼び込むことはできません。福岡藩は、領内を通過する長崎街道沿いに6つの宿場町を大規模に整備しました。筑前六宿(むしゅく)と呼ばれ、九州有数のインフラ群でした。木屋瀬宿は全長900m、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠20数軒、茶屋(木賃宿)、商家が並び、代官所もある一大宿場町でした。1635年に参勤交代制度が始まると、大名行列も通過するようになります。<br />写真の手前が東構口で、くの字に屈折する部分が本陣跡(現史料館)です。

    宿場の整備
    宿泊施設や貨物輸送の中継(馬借)が整備されていないと、旅人を呼び込むことはできません。福岡藩は、領内を通過する長崎街道沿いに6つの宿場町を大規模に整備しました。筑前六宿(むしゅく)と呼ばれ、九州有数のインフラ群でした。木屋瀬宿は全長900m、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠20数軒、茶屋(木賃宿)、商家が並び、代官所もある一大宿場町でした。1635年に参勤交代制度が始まると、大名行列も通過するようになります。
    写真の手前が東構口で、くの字に屈折する部分が本陣跡(現史料館)です。

  • 唐津街道のバイパス機能<br />福岡藩は、海に通じる福岡城から直接船を出して参勤交代を行っていましたが、玄界灘の荒波のリスクを避けるために、小倉/門司まで陸路を取るようになります。<br />小倉から福岡を経由して唐津/平戸へ通じる唐津街道は、遠賀川河口の芦屋と洞海湾の若松の2箇所で渡し舟を必要としました。そのため、川上の木屋瀬で渡船するルートを採用しました。唐津街道支線(赤間~木屋瀬)が通じ、交通の要所としての重要性が増しました。<br />

    唐津街道のバイパス機能
    福岡藩は、海に通じる福岡城から直接船を出して参勤交代を行っていましたが、玄界灘の荒波のリスクを避けるために、小倉/門司まで陸路を取るようになります。
    小倉から福岡を経由して唐津/平戸へ通じる唐津街道は、遠賀川河口の芦屋と洞海湾の若松の2箇所で渡し舟を必要としました。そのため、川上の木屋瀬で渡船するルートを採用しました。唐津街道支線(赤間~木屋瀬)が通じ、交通の要所としての重要性が増しました。

  • 水運<br />遠賀川流域(4郡)の年貢米、蜜蝋や石炭といった特産品は、大坂へ運んで売却しました。大坂行きの船が発着する若松港までは、遠賀川の川船で輸送しました。木屋瀬は、周辺地域の川船を一手に引き受ける特権があり、水運業が栄えました。<br />

    水運
    遠賀川流域(4郡)の年貢米、蜜蝋や石炭といった特産品は、大坂へ運んで売却しました。大坂行きの船が発着する若松港までは、遠賀川の川船で輸送しました。木屋瀬は、周辺地域の川船を一手に引き受ける特権があり、水運業が栄えました。

  • 唐津街道は木屋瀬で遠賀川を渡るので、渡し船も栄えます。<br />写真は、実際に使われた渡し用の船です。<br />水位が増すと運休になり、増水期は延泊する旅人が余計なお金を木屋瀬で落とします。

    唐津街道は木屋瀬で遠賀川を渡るので、渡し船も栄えます。
    写真は、実際に使われた渡し用の船です。
    水位が増すと運休になり、増水期は延泊する旅人が余計なお金を木屋瀬で落とします。

  • 江戸時代前期には、水運で莫大な利益を上げた木屋瀬の伊藤家が豪商として名を馳せます。藩の財政に貢献することで、発言力を増します。<br />寛文年間に、密貿易が発覚した博多商人伊藤小左衛門は、分家筋に当たります。

    江戸時代前期には、水運で莫大な利益を上げた木屋瀬の伊藤家が豪商として名を馳せます。藩の財政に貢献することで、発言力を増します。
    寛文年間に、密貿易が発覚した博多商人伊藤小左衛門は、分家筋に当たります。

  • 伊藤家は単なる運送屋にとどまらず、それらを海外商人に売ったり、中国/オランダ/ポルトガル商人に銀を融資して莫大な利益を上げました。グローバルな金融/投資活動が木屋瀬で行われていました。

    伊藤家は単なる運送屋にとどまらず、それらを海外商人に売ったり、中国/オランダ/ポルトガル商人に銀を融資して莫大な利益を上げました。グローバルな金融/投資活動が木屋瀬で行われていました。

  • ついでと言ってはなんですが、こちらは、博多商人伊藤小左衛門の犯科帳(判決文)。朝鮮国の官僚と共謀して、武器を秘密裏に輸出していた罪を問われ、斬罪(磔)を申し渡されます。判決は、長崎奉行によるものです。<br />

    ついでと言ってはなんですが、こちらは、博多商人伊藤小左衛門の犯科帳(判決文)。朝鮮国の官僚と共謀して、武器を秘密裏に輸出していた罪を問われ、斬罪(磔)を申し渡されます。判決は、長崎奉行によるものです。

  • 現金収入(=藩の予算)を増やすために福岡藩も特産品の開発に取り組み、享保の大飢饉(1732)以降は遠賀川で櫨(ハゼ)の木を栽培します。櫨の実から採れる蜜蝋は、大坂の蝋燭市場を席巻しました。<br />高崎家は、絞蝋業で財を成しました。<br />※櫨は、荒れ地でも育つ特性があります。

    現金収入(=藩の予算)を増やすために福岡藩も特産品の開発に取り組み、享保の大飢饉(1732)以降は遠賀川で櫨(ハゼ)の木を栽培します。櫨の実から採れる蜜蝋は、大坂の蝋燭市場を席巻しました。
    高崎家は、絞蝋業で財を成しました。
    ※櫨は、荒れ地でも育つ特性があります。

  • 福岡藩の生蝋は、大坂の市場で80%のシェアを誇りました(18世紀末)。高崎家の屋号は柏屋で、カネシメのロゴを使用しました(¬=カネ、〆=シメ)。成形して卸した生蝋はロゴ入りの型で成形したものが出回り、全国に名をとどろかせました。

    福岡藩の生蝋は、大坂の市場で80%のシェアを誇りました(18世紀末)。高崎家の屋号は柏屋で、カネシメのロゴを使用しました(¬=カネ、〆=シメ)。成形して卸した生蝋はロゴ入りの型で成形したものが出回り、全国に名をとどろかせました。

  • 高崎家の間取り<br />右側が、長崎街道に面した軒先です。

    高崎家の間取り
    右側が、長崎街道に面した軒先です。

  • 情報街道<br />江戸~長崎を結ぶ東海道/西国街道/長崎街道は、オランダ使節が毎年将軍を表敬訪問する経路でした(後に5年毎へ変更)。<br />

    情報街道
    江戸~長崎を結ぶ東海道/西国街道/長崎街道は、オランダ使節が毎年将軍を表敬訪問する経路でした(後に5年毎へ変更)。

  • 特に、毎年幕府へ届けられる「オランダ風説書」は、国際情勢の年次レポートで、最重要書類でした。<br />実は1853年の黒船来航も、風説書を通して幕閣は予め知っていました。

    特に、毎年幕府へ届けられる「オランダ風説書」は、国際情勢の年次レポートで、最重要書類でした。
    実は1853年の黒船来航も、風説書を通して幕閣は予め知っていました。

  • オランダ使節一行が宿泊すると、蘭学の知識(西洋科学)や異国文化を宿場町にもたらしました。<br />例えば1691年には、『廻国奇観(写真右上)』『日本誌』を著したケンペルが木屋瀬に宿泊しています。日本に興味津々だったケンペルは、出会う日本人と活発に交流し、西洋文化を伝達しました。使節一行が宿泊する宿には、多くの蘭学者が訪れました。

    オランダ使節一行が宿泊すると、蘭学の知識(西洋科学)や異国文化を宿場町にもたらしました。
    例えば1691年には、『廻国奇観(写真右上)』『日本誌』を著したケンペルが木屋瀬に宿泊しています。日本に興味津々だったケンペルは、出会う日本人と活発に交流し、西洋文化を伝達しました。使節一行が宿泊する宿には、多くの蘭学者が訪れました。

  • 長崎街道=シュガーロード<br />庶民にとって一番身近なのは、砂糖です。長崎の輸入品トップは砂糖です。使節のメンバーは、砂糖を個人的な買い物の決済手段としていたので、長崎街道の宿場では多くの砂糖が出回り、砂糖をふんだんに使用した菓子文化が花開きました。

    長崎街道=シュガーロード
    庶民にとって一番身近なのは、砂糖です。長崎の輸入品トップは砂糖です。使節のメンバーは、砂糖を個人的な買い物の決済手段としていたので、長崎街道の宿場では多くの砂糖が出回り、砂糖をふんだんに使用した菓子文化が花開きました。

  • 本陣跡<br />「く」の字に折れ曲がる場所(資料館の建つ場所)は、大名本陣跡でした。宿泊施設の最高ランクで、大名や幕府使節といった特別な人物だけが利用しました。資料館建設前に発掘調査を行った際の空中写真です。遺構から、17世紀前半のものが出土しています。

    本陣跡
    「く」の字に折れ曲がる場所(資料館の建つ場所)は、大名本陣跡でした。宿泊施設の最高ランクで、大名や幕府使節といった特別な人物だけが利用しました。資料館建設前に発掘調査を行った際の空中写真です。遺構から、17世紀前半のものが出土しています。

  • 永源寺裏門<br />もともとは本陣の門で、1870年の本陣廃止に伴い、永源寺の山門に転用されます。1923年の山門改築で裏門として移設、現在に至ります。永源寺は、本陣跡のそばの脇道にある古刹です。

    永源寺裏門
    もともとは本陣の門で、1870年の本陣廃止に伴い、永源寺の山門に転用されます。1923年の山門改築で裏門として移設、現在に至ります。永源寺は、本陣跡のそばの脇道にある古刹です。

  • 参考までに、宿場内のおもな見どころを示した地図です。<br />大名本陣は御茶屋とも呼ばれます。御茶屋は、藩主が領内を移動する際に宿泊する施設を意味します。

    参考までに、宿場内のおもな見どころを示した地図です。
    大名本陣は御茶屋とも呼ばれます。御茶屋は、藩主が領内を移動する際に宿泊する施設を意味します。

  • 御茶屋の建物には、黒田家の家紋の入った瓦が使用されました。<br />写真は、1998年に発掘されたものです。<br />大名本陣として宿泊者の優先順位が決まっており、長崎奉行/諸大名/日田郡代の順番でした。上記以外の幕府役人は、ワンランク下の町茶屋(脇本陣)で接待しました。

    御茶屋の建物には、黒田家の家紋の入った瓦が使用されました。
    写真は、1998年に発掘されたものです。
    大名本陣として宿泊者の優先順位が決まっており、長崎奉行/諸大名/日田郡代の順番でした。上記以外の幕府役人は、ワンランク下の町茶屋(脇本陣)で接待しました。

  • 問(とい)屋場跡<br />大名本陣の向かい、くの字に折れ曲がる角に位置します。<br />問屋場は輸送を担う場所で、宿場間をリレー方式で中継しました。なので、管轄は両隣の宿場(黒崎/飯塚)まで、ここで牛馬/人足/飛脚を交代しました。今でいうと、運送屋と郵便局を兼業する内容です。

    問(とい)屋場跡
    大名本陣の向かい、くの字に折れ曲がる角に位置します。
    問屋場は輸送を担う場所で、宿場間をリレー方式で中継しました。なので、管轄は両隣の宿場(黒崎/飯塚)まで、ここで牛馬/人足/飛脚を交代しました。今でいうと、運送屋と郵便局を兼業する内容です。

  • 宿場内の道幅は5mですが、ここは荷物の付替等があるので7.5m幅を確保しています。水害対策で、宿場で一番標高の高い土地に建っています。江戸時代から、物流はライフラインでした。問屋場は、野口家が代々担当しました。明治4年に始まった郵便業務も、野口家が行っています。<br />25頭の馬を常備し、大名行列等では近隣の村から有償で人馬を徴収しました。

    宿場内の道幅は5mですが、ここは荷物の付替等があるので7.5m幅を確保しています。水害対策で、宿場で一番標高の高い土地に建っています。江戸時代から、物流はライフラインでした。問屋場は、野口家が代々担当しました。明治4年に始まった郵便業務も、野口家が行っています。
    25頭の馬を常備し、大名行列等では近隣の村から有償で人馬を徴収しました。

  • 藩直営の御茶屋は、2軒の脇本陣(町茶屋)に挟まれていました。御茶屋の管理は、脇本陣(町茶屋)の店主が割り当てられます(御茶屋守)。黒崎側に薩摩屋(石橋家)、飯塚側に長崎屋(中村家)が建っていました。両者は宿庄屋に就きました。<br />他にも旅籠(≒旅館)/木賃宿(≒素泊まり旅館)があります。薩摩藩の参勤交代は1000人規模だったので、本陣の大名以外にも家柄に応じて脇本陣/旅籠等もフル稼働でした。

    藩直営の御茶屋は、2軒の脇本陣(町茶屋)に挟まれていました。御茶屋の管理は、脇本陣(町茶屋)の店主が割り当てられます(御茶屋守)。黒崎側に薩摩屋(石橋家)、飯塚側に長崎屋(中村家)が建っていました。両者は宿庄屋に就きました。
    他にも旅籠(≒旅館)/木賃宿(≒素泊まり旅館)があります。薩摩藩の参勤交代は1000人規模だったので、本陣の大名以外にも家柄に応じて脇本陣/旅籠等もフル稼働でした。

  • 船庄屋跡<br />遠賀川流域で収穫された米は、換金作物として河口の芦屋(後に若松)の蔵屋敷に集めて大坂の米市場で現金化しました。周辺二十数か村の年貢米を河口の蔵屋敷へ運ぶ業務(水運)は、木屋瀬宿に与えられた特権でした。この利権を独占したのが船庄屋です。

    船庄屋跡
    遠賀川流域で収穫された米は、換金作物として河口の芦屋(後に若松)の蔵屋敷に集めて大坂の米市場で現金化しました。周辺二十数か村の年貢米を河口の蔵屋敷へ運ぶ業務(水運)は、木屋瀬宿に与えられた特権でした。この利権を独占したのが船庄屋です。

  • 梅本家は江戸末期24艘の預かり船庄屋で、油屋の屋号で酒醸造業も営んでいました。明治~昭和初期にかけては醤油醸造シフトしました。水運を独占する見返りに、藩へ運上金(営業税)納上と大名行列等の公役を引き受けました。<br />江戸末~戦後へかけて、成功した家は酒→味噌/醤油と醸造業へ進出するのが全国的トレンドでした。

    梅本家は江戸末期24艘の預かり船庄屋で、油屋の屋号で酒醸造業も営んでいました。明治~昭和初期にかけては醤油醸造シフトしました。水運を独占する見返りに、藩へ運上金(営業税)納上と大名行列等の公役を引き受けました。
    江戸末~戦後へかけて、成功した家は酒→味噌/醤油と醸造業へ進出するのが全国的トレンドでした。

  • 江戸情緒を残す屋内。<br />ご主人に声掛けすると、快く見せてくださいました。

    江戸情緒を残す屋内。
    ご主人に声掛けすると、快く見せてくださいました。

  • 通称代官小路を入って、代官所を目指します。<br />分かりにくい道です。街道沿いの朝日新聞の建物の向かいの歩行者道路です。

    通称代官小路を入って、代官所を目指します。
    分かりにくい道です。街道沿いの朝日新聞の建物の向かいの歩行者道路です。

  • 代官所跡<br />藩の代官と下代(3ないしは5名)が常駐し、年貢の取り立てや国継ぎ業務を行いました。1757年には役職名が変わりますが、通称として存続します。現在は住宅街ですが、足元に当時の石垣が残ります。

    代官所跡
    藩の代官と下代(3ないしは5名)が常駐し、年貢の取り立てや国継ぎ業務を行いました。1757年には役職名が変わりますが、通称として存続します。現在は住宅街ですが、足元に当時の石垣が残ります。

  • 街道に戻ると、1906年築の長野家が。

    街道に戻ると、1906年築の長野家が。

  • 旧高崎家住宅<br />資料館で展示されていた、江戸後期に栄えた柏屋(カネシメ)高崎家から分家した家系です。やはり、絞蝋を生業としました。

    旧高崎家住宅
    資料館で展示されていた、江戸後期に栄えた柏屋(カネシメ)高崎家から分家した家系です。やはり、絞蝋を生業としました。

  • 1階の床面積は272平方メートルあります。川に近い立地なので、礎石で囲まれた土台は、荷重に耐えるだけでなく地面から湿気を遮断する役目もあります。

    1階の床面積は272平方メートルあります。川に近い立地なので、礎石で囲まれた土台は、荷重に耐えるだけでなく地面から湿気を遮断する役目もあります。

  • 大戸口<br />建物の玄関です。内側へ収納する蝶番構造です。

    大戸口
    建物の玄関です。内側へ収納する蝶番構造です。

  • それ以外は、摺り上げ戸です。街道に面しているので、溝に沿って填めた覆いを外し、軒先はオープンな状態で営業します。

    それ以外は、摺り上げ戸です。街道に面しているので、溝に沿って填めた覆いを外し、軒先はオープンな状態で営業します。

  • 2階の屋根は、船底を逆さにした構造。棟札から1835年築とわかります。<br />※ちなみに水深の浅い遠賀川を航行する船は丸みを帯びず、平底のひらた船です。

    2階の屋根は、船底を逆さにした構造。棟札から1835年築とわかります。
    ※ちなみに水深の浅い遠賀川を航行する船は丸みを帯びず、平底のひらた船です。

  • 箱階段<br />階段と箪笥を融合した典型的な町家造りです。<br />

    箱階段
    階段と箪笥を融合した典型的な町家造りです。

  • 内部はちょっとした展示もあって、ボランティアガイドさんが常駐しています。

    内部はちょっとした展示もあって、ボランティアガイドさんが常駐しています。

  • 松尾家<br />村庄屋を務め、大庄屋格を有しました。江戸後期の建築で、漆喰壁を多用して防火を意識しているのが特徴です。<br />木屋瀬は、船庄屋(川船の管理)/宿庄屋(宿場の管理)/村庄屋(農村部分を含む)が存在しました。松尾家は、明治政府の地方自治制度で戸長(村長の前身)兼役場となります。

    松尾家
    村庄屋を務め、大庄屋格を有しました。江戸後期の建築で、漆喰壁を多用して防火を意識しているのが特徴です。
    木屋瀬は、船庄屋(川船の管理)/宿庄屋(宿場の管理)/村庄屋(農村部分を含む)が存在しました。松尾家は、明治政府の地方自治制度で戸長(村長の前身)兼役場となります。

  • すぐそばには、西構口の跡が。<br />実際は南向きですが、下り方面の口は一律に西構口と表現します。

    すぐそばには、西構口の跡が。
    実際は南向きですが、下り方面の口は一律に西構口と表現します。

  • 街道の両側に石垣が今も残っています。往時は、石垣の上に白壁の練塀が建っていました。扉や戸は、存在しなかったとのことです。

    街道の両側に石垣が今も残っています。往時は、石垣の上に白壁の練塀が建っていました。扉や戸は、存在しなかったとのことです。

  • 上の写真の手前の位置、西構口の手前を左に曲がったところに追分(分かれ道)の石碑が建っていました。現地にはレプリカが建っています。

    上の写真の手前の位置、西構口の手前を左に曲がったところに追分(分かれ道)の石碑が建っていました。現地にはレプリカが建っています。

  • 本物は、資料館に移設しています。<br />右:赤間道<br />左:飯塚道<br />裏には元文三年(1738年)建之と刻まれています。<br />右折して赤間道へ向かいます。

    本物は、資料館に移設しています。
    右:赤間道
    左:飯塚道
    裏には元文三年(1738年)建之と刻まれています。
    右折して赤間道へ向かいます。

  • 輿玉神社<br />旅の安全を守る猿田彦神が祀られます。

    輿玉神社
    旅の安全を守る猿田彦神が祀られます。

  • 木屋瀬の渡し<br />先ほど学んだように、福岡/博多~小倉を結ぶ唐津街道の重要なルート。福岡藩の大名行列も通過しました。<br />

    木屋瀬の渡し
    先ほど学んだように、福岡/博多~小倉を結ぶ唐津街道の重要なルート。福岡藩の大名行列も通過しました。

  • 当時の遠賀川は、幅91m/水深2mでした。<br />中の島を渡ると幅12mの犬鳴川を渡りました。<br />その後、植木宿を経て赤間宿へ至ります。<br />

    当時の遠賀川は、幅91m/水深2mでした。
    中の島を渡ると幅12mの犬鳴川を渡りました。
    その後、植木宿を経て赤間宿へ至ります。

  • 写真は、舫(もやい)石。<br />船を係留する舫綱を結び、流されないようにしました。

    写真は、舫(もやい)石。
    船を係留する舫綱を結び、流されないようにしました。

  • 西構口を右折せずに直進すると、長崎街道(下り方向)。地元の麻生財閥の麻生セメントを原料にする生コン工場が見えます。

    西構口を右折せずに直進すると、長崎街道(下り方向)。地元の麻生財閥の麻生セメントを原料にする生コン工場が見えます。

  • 幕末<br />第一次長州征討(1864)では、佐賀藩が木屋瀬に陣を敷きます。戦わずして長州藩は降伏し、朝廷で政局を握っていた七卿も京落ちします。<br />さらに翌65年に三条実美ら五卿が大宰府へ流された際に、木屋瀬に立ち寄って休憩しました。左の写真は、給仕した田代ふじ氏が記念として貰った箸です。

    幕末
    第一次長州征討(1864)では、佐賀藩が木屋瀬に陣を敷きます。戦わずして長州藩は降伏し、朝廷で政局を握っていた七卿も京落ちします。
    さらに翌65年に三条実美ら五卿が大宰府へ流された際に、木屋瀬に立ち寄って休憩しました。左の写真は、給仕した田代ふじ氏が記念として貰った箸です。

  • 第二次長州征討(小倉戦争)<br />1866年に幕府は再び長州征伐を決行、4方面から攻撃します。幕府譜代の小倉城もその一つです。木屋瀬には、福岡藩/佐賀藩が陣を敷きました。<br />写真は、佐賀藩主鍋島直正が村庄屋松尾家に滞在した際に下賜した皿です。

    第二次長州征討(小倉戦争)
    1866年に幕府は再び長州征伐を決行、4方面から攻撃します。幕府譜代の小倉城もその一つです。木屋瀬には、福岡藩/佐賀藩が陣を敷きました。
    写真は、佐賀藩主鍋島直正が村庄屋松尾家に滞在した際に下賜した皿です。

  • 佐賀藩は、御茶屋近くの長徳寺を宿陣としました。

    佐賀藩は、御茶屋近くの長徳寺を宿陣としました。

  • 小倉口の合戦の図では、福岡藩が小倉背後の木屋瀬に「チクゼン」の名前で記載されています。長州の攻撃に屈した小倉藩は自ら城に火を放ち、山奥(香春)へ藩庁を移しました。<br />このように、幕末の紛争に巻き込まれた木屋瀬でした。

    小倉口の合戦の図では、福岡藩が小倉背後の木屋瀬に「チクゼン」の名前で記載されています。長州の攻撃に屈した小倉藩は自ら城に火を放ち、山奥(香春)へ藩庁を移しました。
    このように、幕末の紛争に巻き込まれた木屋瀬でした。

  • 幕府が架橋を禁止した時代は終わり、1918年に全長400m幅3.6mの中島橋が架かりました。

    幕府が架橋を禁止した時代は終わり、1918年に全長400m幅3.6mの中島橋が架かりました。

  • 現在の中島橋は、1989年にかけ替えられたものです。木屋瀬宿を横断する道路です。筑豊炭田の好況後、静かな町になり、結果的に往時の景観を残す姿になりました。<br />

    現在の中島橋は、1989年にかけ替えられたものです。木屋瀬宿を横断する道路です。筑豊炭田の好況後、静かな町になり、結果的に往時の景観を残す姿になりました。

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