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   鎌倉散策(15)鎌倉殿13人重臣のゆかりの地  神奈川県鎌倉市  全行程 5時間38分  鎌倉駅~(19分)寿福寺(22分)~(20分)鶴岡八幡宮 (27分)~ 白旗神社・法華堂跡・頼朝の墓・新法華堂・大江広元等の墓(29分)~(10分)荏柄天神社・永福寺跡(29分)~(33分)妙隆寺・本覚寺・妙本寺(1時間)~ (16分)畠山重保墓・和田塚(24) ~(26分)鎌倉駅<br />「日時」2023年5月9日 <br />「アクセス」JR横須賀線鎌倉駅<br />鎌倉殿とその重臣13人の紹介<br />*鎌倉殿は鎌倉幕府初代将軍源頼朝<br />*13人は北条義時、北条時政、安達盛長、梶原景時、比企能員、三浦義澄、和田義盛、足立遠元、八田知家、中原親能、大江広元、三善康信、二階堂行政です

鎌倉散策(15)鎌倉殿13人重臣

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2023/05/09 - 2023/05/09

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zenkyou01さん

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   鎌倉散策(15)鎌倉殿13人重臣のゆかりの地 神奈川県鎌倉市  全行程 5時間38分  鎌倉駅~(19分)寿福寺(22分)~(20分)鶴岡八幡宮 (27分)~ 白旗神社・法華堂跡・頼朝の墓・新法華堂・大江広元等の墓(29分)~(10分)荏柄天神社・永福寺跡(29分)~(33分)妙隆寺・本覚寺・妙本寺(1時間)~ (16分)畠山重保墓・和田塚(24) ~(26分)鎌倉駅
「日時」2023年5月9日 
「アクセス」JR横須賀線鎌倉駅
鎌倉殿とその重臣13人の紹介
*鎌倉殿は鎌倉幕府初代将軍源頼朝
*13人は北条義時、北条時政、安達盛長、梶原景時、比企能員、三浦義澄、和田義盛、足立遠元、八田知家、中原親能、大江広元、三善康信、二階堂行政です

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 鎌倉駅を出発し、小町通りを北に向かい、金沢街道手前にある横大路を西に向かう<br />岩窟不動尊 創建は不詳、源頼朝が鎌倉入りする前にはあったと伝えられる、本尊は不動明王です。崖下に 鳥居と堂宇と不動明王があります。新しそうな庚申供養塔もあります<br />横大路を西へ、JR横須賀線を渡り、今小路を北へ<br />

    鎌倉駅を出発し、小町通りを北に向かい、金沢街道手前にある横大路を西に向かう
    岩窟不動尊 創建は不詳、源頼朝が鎌倉入りする前にはあったと伝えられる、本尊は不動明王です。崖下に 鳥居と堂宇と不動明王があります。新しそうな庚申供養塔もあります
    横大路を西へ、JR横須賀線を渡り、今小路を北へ

  • 源義朝の館跡 寿福寺の裏山には源氏山という山がありますが、古くは旗立山、または亀谷山と称せられた。寿福寺一帯は鎌倉初代将軍源頼朝の父義朝の館があったところと言われています

    源義朝の館跡 寿福寺の裏山には源氏山という山がありますが、古くは旗立山、または亀谷山と称せられた。寿福寺一帯は鎌倉初代将軍源頼朝の父義朝の館があったところと言われています

  • 寿福寺本堂 臨済宗建長寺派の一寺。禅宗鎌倉五山の第三位。1200年創建。開基は北条政子、開山は栄西禅師。本尊は釈迦如来像です。伽藍は総門を潜ると、長い参道が続き、中門があります。中門の中には仏殿、庫裏、鐘楼等が建つっていますが、中門は閉鎖され、仏殿には近づけません。中門より、左に行きと仏殿の裏手に墓地があります。墓地には北条政子と源実朝の墓、高浜虚子、大佛次郎の墓がります。臨済宗の寺格の最上位は五山、次位は十刹、次次位は諸山です

    寿福寺本堂 臨済宗建長寺派の一寺。禅宗鎌倉五山の第三位。1200年創建。開基は北条政子、開山は栄西禅師。本尊は釈迦如来像です。伽藍は総門を潜ると、長い参道が続き、中門があります。中門の中には仏殿、庫裏、鐘楼等が建つっていますが、中門は閉鎖され、仏殿には近づけません。中門より、左に行きと仏殿の裏手に墓地があります。墓地には北条政子と源実朝の墓、高浜虚子、大佛次郎の墓がります。臨済宗の寺格の最上位は五山、次位は十刹、次次位は諸山です

  • 高浜虚子の墓 明治・大正・昭和時代に活躍した俳人・小説家です。やぐらの中にお墓があります

    高浜虚子の墓 明治・大正・昭和時代に活躍した俳人・小説家です。やぐらの中にお墓があります

  • 源実朝の墓 鎌倉第三代将軍で、源頼朝の子です。甥の公暁に鶴岡八幡宮で暗殺されます

    源実朝の墓 鎌倉第三代将軍で、源頼朝の子です。甥の公暁に鶴岡八幡宮で暗殺されます

  • 北条政子の墓 鎌倉幕府初代執権北条時政の娘、初代将軍源頼朝の正室、第二代頼家、第三代将軍実朝の母です<br />今小路を少し北へ<br />

    北条政子の墓 鎌倉幕府初代執権北条時政の娘、初代将軍源頼朝の正室、第二代頼家、第三代将軍実朝の母です
    今小路を少し北へ

  • 太田道灌屋敷跡 英勝寺は扇谷上杉氏の家宰を務めた太田道灌の屋敷があったところです。道灌は江戸城を築いた武将・歌人です。英勝寺の開基英勝院は道灌の子孫太田康資の娘で、徳川家康の側室です

    太田道灌屋敷跡 英勝寺は扇谷上杉氏の家宰を務めた太田道灌の屋敷があったところです。道灌は江戸城を築いた武将・歌人です。英勝寺の開基英勝院は道灌の子孫太田康資の娘で、徳川家康の側室です

  • 阿仏尼の墓 阿仏尼は藤原定家の息子藤原為家の妻で、冷泉家祖の冷泉為相の母です。為相と義兄との相続争いで子為相の正当性を幕府に訴えるために鎌倉に親子でやってきて、鎌倉で没しました(京から鎌倉までの阿仏尼が書いた道中記が十六夜日記です)。その阿仏尼の墓です

    阿仏尼の墓 阿仏尼は藤原定家の息子藤原為家の妻で、冷泉家祖の冷泉為相の母です。為相と義兄との相続争いで子為相の正当性を幕府に訴えるために鎌倉に親子でやってきて、鎌倉で没しました(京から鎌倉までの阿仏尼が書いた道中記が十六夜日記です)。その阿仏尼の墓です

  • 正一位稲荷大明神 稲荷神社は倉稲魂命がご祭神で、京都伏見稲荷神社に鎮座したのが始まりです。五穀豊穣に御利益がある神です<br />来た道を金沢街道まで戻り、鶴岡八幡宮に入る

    正一位稲荷大明神 稲荷神社は倉稲魂命がご祭神で、京都伏見稲荷神社に鎮座したのが始まりです。五穀豊穣に御利益がある神です
    来た道を金沢街道まで戻り、鶴岡八幡宮に入る

  • 鶴岡八幡宮舞殿と本宮 鶴岡八幡宮は1063年創建、 祭神は応神天皇、比売神、神宮皇后で、武家源氏の守護神です。一の鳥居が一番南側に有り、次に二の鳥居、参道若宮大路の中央の一段高い道を段葛がある。三の鳥居をくぐると太鼓橋、右に源氏池と旗上弁財天社、政子石、左に平家池、まっすぐ進むと舞殿その先に石段、石段の左に昔大銀杏があった。石段の右手に若宮、境内社白幡神社、左手には境内社丸山稲荷社、祖霊社、石段を登りきったところに本宮がある。若宮は本宮に当たる上宮に対する下宮ともいわれ、建物は拝殿に広い向拝が付いているのが特徴で、国の重要文化財に指定されています

    鶴岡八幡宮舞殿と本宮 鶴岡八幡宮は1063年創建、 祭神は応神天皇、比売神、神宮皇后で、武家源氏の守護神です。一の鳥居が一番南側に有り、次に二の鳥居、参道若宮大路の中央の一段高い道を段葛がある。三の鳥居をくぐると太鼓橋、右に源氏池と旗上弁財天社、政子石、左に平家池、まっすぐ進むと舞殿その先に石段、石段の左に昔大銀杏があった。石段の右手に若宮、境内社白幡神社、左手には境内社丸山稲荷社、祖霊社、石段を登りきったところに本宮がある。若宮は本宮に当たる上宮に対する下宮ともいわれ、建物は拝殿に広い向拝が付いているのが特徴で、国の重要文化財に指定されています

  • 鶴岡八幡宮銀杏一代目と二代目 源実朝が銀杏の木に隠れていた頼家の子公暁に石段13段目で暗殺されたという逸話の銀杏の木です。当時の銀杏は平成22年に倒れ、現在二代目銀杏が育っている<br />東の鳥居を出て、金沢街道を東へ

    鶴岡八幡宮銀杏一代目と二代目 源実朝が銀杏の木に隠れていた頼家の子公暁に石段13段目で暗殺されたという逸話の銀杏の木です。当時の銀杏は平成22年に倒れ、現在二代目銀杏が育っている
    東の鳥居を出て、金沢街道を東へ

  • 畠山重忠邸跡 現埼玉県深谷市出身の平家方の武将であったが、義経と共に平家討伐に参加し、鎌倉幕府成立に大いに寄与した。頼朝死後、北条時政と対峙し討ち死にする

    畠山重忠邸跡 現埼玉県深谷市出身の平家方の武将であったが、義経と共に平家討伐に参加し、鎌倉幕府成立に大いに寄与した。頼朝死後、北条時政と対峙し討ち死にする

  • 大蔵幕府舊蹟(きゅうせき) 現清泉小学校脇に建ち、頼朝が政権を得た時から、妻政子が亡くなるまでの間の幕府の主要施設がありました

    大蔵幕府舊蹟(きゅうせき) 現清泉小学校脇に建ち、頼朝が政権を得た時から、妻政子が亡くなるまでの間の幕府の主要施設がありました

  • 白幡神社 白旗神社鳥居と社殿 頼朝没後ここに法華堂が建てられ、そのご白旗神社(源氏の白旗に由来)と改められる。石段を登ると頼朝の墓があります

    白幡神社 白旗神社鳥居と社殿 頼朝没後ここに法華堂が建てられ、そのご白旗神社(源氏の白旗に由来)と改められる。石段を登ると頼朝の墓があります

  • 源頼朝の墓 白旗神社から更に50段ほど石段を登ると源頼朝の墓があります。源頼朝の幕府の北隅で頼朝が観音像を持仏堂に安置していました。頼朝没後、法華堂(行を行う仏堂または納骨堂を指す)がここに建てられ祭祀が行われました

    源頼朝の墓 白旗神社から更に50段ほど石段を登ると源頼朝の墓があります。源頼朝の幕府の北隅で頼朝が観音像を持仏堂に安置していました。頼朝没後、法華堂(行を行う仏堂または納骨堂を指す)がここに建てられ祭祀が行われました

  • 史跡法華堂跡(義時)頼朝の墓から少し東の処に、鎌倉幕府第二代執権北条義時の新法華堂(源頼朝の法華堂の後に建った法華堂)が建っていたところがあります。法華堂とは法華三昧の行を行う場所または貴族や皇族の墓所に建てられる堂のことを言います。ここでいう法華堂は後者をさします。発掘調査の結果、礎石を据えていた痕跡が発見され、瓦葺屋根の法華堂が建っていたことが分かりました。写真の木杭は柱の位置を示しています

    史跡法華堂跡(義時)頼朝の墓から少し東の処に、鎌倉幕府第二代執権北条義時の新法華堂(源頼朝の法華堂の後に建った法華堂)が建っていたところがあります。法華堂とは法華三昧の行を行う場所または貴族や皇族の墓所に建てられる堂のことを言います。ここでいう法華堂は後者をさします。発掘調査の結果、礎石を据えていた痕跡が発見され、瓦葺屋根の法華堂が建っていたことが分かりました。写真の木杭は柱の位置を示しています

  • 三浦泰村一族の墓 新法華堂が建っていたところの、石段の手前のやぐら(鎌倉周辺で多く見られ横穴式の納骨窟または供養堂)は三浦康村一族の墓と言われています。三浦泰村は三浦家初代忠通から数えて七代目(六代目義村の子)当主で、鎌倉第五代執権北条時頼との宝治合戦で敗れ、ここに葬られる

    三浦泰村一族の墓 新法華堂が建っていたところの、石段の手前のやぐら(鎌倉周辺で多く見られ横穴式の納骨窟または供養堂)は三浦康村一族の墓と言われています。三浦泰村は三浦家初代忠通から数えて七代目(六代目義村の子)当主で、鎌倉第五代執権北条時頼との宝治合戦で敗れ、ここに葬られる

  • 大江広元の墓 ここも法華堂跡の史跡に含まれているようです。墓は北條義時の新法華堂広場から100段余の石段を登り切ったところにあります。三基並ぶ中央が大江広元の墓で、広元の四男で長州藩毛利氏の祖となる毛利季光の子孫毛利斎煕が建立しました。広元は公家出身で、鎌倉幕府初代政所別当(長官)を務め、源頼朝の側近として鎌倉幕府創設に貢献する

    大江広元の墓 ここも法華堂跡の史跡に含まれているようです。墓は北條義時の新法華堂広場から100段余の石段を登り切ったところにあります。三基並ぶ中央が大江広元の墓で、広元の四男で長州藩毛利氏の祖となる毛利季光の子孫毛利斎煕が建立しました。広元は公家出身で、鎌倉幕府初代政所別当(長官)を務め、源頼朝の側近として鎌倉幕府創設に貢献する

  • 毛利末光の墓 三基並ぶ左端が大江広元の四男で後の毛利氏の祖となる毛利季光の墓です。宝治合戦では三浦泰村側に付いて敗れ法華堂で自刃したと言われています

    毛利末光の墓 三基並ぶ左端が大江広元の四男で後の毛利氏の祖となる毛利季光の墓です。宝治合戦では三浦泰村側に付いて敗れ法華堂で自刃したと言われています

  • 島津忠久の墓 右端は薩摩藩島津氏の祖となる島津忠久の墓です。忠久の祖母が源頼朝の乳母であったところから、鎌倉幕府の御家人として頼朝に重用され活躍する。忠久の子孫島津重豪が初代忠久の墓を造営する

    島津忠久の墓 右端は薩摩藩島津氏の祖となる島津忠久の墓です。忠久の祖母が源頼朝の乳母であったところから、鎌倉幕府の御家人として頼朝に重用され活躍する。忠久の子孫島津重豪が初代忠久の墓を造営する

  • 荏柄天神社拝殿 福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並ぶ三天神の一社です。祭神は菅原道真で御利益は学問成就と厄除けです

    荏柄天神社拝殿 福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並ぶ三天神の一社です。祭神は菅原道真で御利益は学問成就と厄除けです

  • 永福寺二階堂(本堂)跡 瑞泉寺から西へ5分程行った処にあります。国指定史跡です。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、源義経、藤原泰衡、数万人の将兵の鎮魂のために、中尊寺の二階堂(大長寿院)を模倣した大伽藍の永福寺を建てました。発掘調査の結果、阿弥陀堂、二階堂(二階建てから二階堂と言われる)、薬師堂、池、橋、庭園の配置が明らかになり、盛土をして遺跡を保護し、その上に基壇、礎石を再現しています。近辺に居を構えた藤原行政は地名になった二階堂を称しました<br />バス停岐れ道まで戻り、鎌倉街道を越え、少し東にある滑川にかかる大御堂橋を渡る

    永福寺二階堂(本堂)跡 瑞泉寺から西へ5分程行った処にあります。国指定史跡です。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、源義経、藤原泰衡、数万人の将兵の鎮魂のために、中尊寺の二階堂(大長寿院)を模倣した大伽藍の永福寺を建てました。発掘調査の結果、阿弥陀堂、二階堂(二階建てから二階堂と言われる)、薬師堂、池、橋、庭園の配置が明らかになり、盛土をして遺跡を保護し、その上に基壇、礎石を再現しています。近辺に居を構えた藤原行政は地名になった二階堂を称しました
    バス停岐れ道まで戻り、鎌倉街道を越え、少し東にある滑川にかかる大御堂橋を渡る

  • 文覚上人屋敷跡 文覚上人は鳥羽上皇に仕える北面の武士で、出家して文覚上人となり、その後伊豆に流罪になり、源頼朝と仲良くなる。Y字路の中央に建つ碑を正面に見て、左手方向に進むと勝長寿院跡碑が建つ<br />鎌倉街道に戻り、西に向かい、小町大路を南に下る

    文覚上人屋敷跡 文覚上人は鳥羽上皇に仕える北面の武士で、出家して文覚上人となり、その後伊豆に流罪になり、源頼朝と仲良くなる。Y字路の中央に建つ碑を正面に見て、左手方向に進むと勝長寿院跡碑が建つ
    鎌倉街道に戻り、西に向かい、小町大路を南に下る

  • 妙隆寺本堂 日蓮宗の一寺。1385年創建。開基は千葉胤貞、開山は日英、本尊は釈迦牟尼仏です。開基は千葉胤貞の別邸跡に建てられたといわれています。四脚門の山門を潜ると右手に寿老人堂、正面に本堂があります。日親上人像、日親上人墓があります。江ノ島・鎌倉七福神の一つ寿老人が寿老人堂に祀られています。第二世日親上人は立正治国論を持って幕府避難したため拷問(焼けた鍋を被せられたため鍋冠り日親と呼ばれる)を受けた、また寒中100日間水行をした(今でもその池が残っています)等随分タフな上人だったと感心しました

    妙隆寺本堂 日蓮宗の一寺。1385年創建。開基は千葉胤貞、開山は日英、本尊は釈迦牟尼仏です。開基は千葉胤貞の別邸跡に建てられたといわれています。四脚門の山門を潜ると右手に寿老人堂、正面に本堂があります。日親上人像、日親上人墓があります。江ノ島・鎌倉七福神の一つ寿老人が寿老人堂に祀られています。第二世日親上人は立正治国論を持って幕府避難したため拷問(焼けた鍋を被せられたため鍋冠り日親と呼ばれる)を受けた、また寒中100日間水行をした(今でもその池が残っています)等随分タフな上人だったと感心しました

  • 日蓮上人辻説法跡 跡は小町大路を本覚寺から少し北に行ったところにあります。鎌倉時代、この辺りは武家屋敷と商家が混在し、日蓮は毎日この辺りを訪れ、法華経の功徳を解く辻説法を行ったと伝えられる<br />小町大路を少し南へ

    日蓮上人辻説法跡 跡は小町大路を本覚寺から少し北に行ったところにあります。鎌倉時代、この辺りは武家屋敷と商家が混在し、日蓮は毎日この辺りを訪れ、法華経の功徳を解く辻説法を行ったと伝えられる
    小町大路を少し南へ

  • 本覚寺本堂 日蓮宗の本山、1436年創建、 開山は日出上人、本尊は釈迦三尊像です。日蓮の遺骨を分骨して移したことから東身延と言われる。伽藍は山門、本堂、夷堂、鐘楼、分骨堂等が建つ。鎌倉七福神の恵比寿天がある

    本覚寺本堂 日蓮宗の本山、1436年創建、 開山は日出上人、本尊は釈迦三尊像です。日蓮の遺骨を分骨して移したことから東身延と言われる。伽藍は山門、本堂、夷堂、鐘楼、分骨堂等が建つ。鎌倉七福神の恵比寿天がある

  • 本覚寺刀匠正宗の墓 加万倉時代末期から戦国時代初期にかけて、活躍した相模国の刀匠お岡崎五郎正宗です

    本覚寺刀匠正宗の墓 加万倉時代末期から戦国時代初期にかけて、活躍した相模国の刀匠お岡崎五郎正宗です

  • 夷堂橋碑 本覚寺山門前の滑川にかかる橋で、鎌倉十橋の一つです<br />夷堂橋を渡り、直ぐの分岐を左へ

    夷堂橋碑 本覚寺山門前の滑川にかかる橋で、鎌倉十橋の一つです
    夷堂橋を渡り、直ぐの分岐を左へ

  • 妙本寺二天門 日蓮宗の一寺、創建は1260年、開基は鎌倉幕府御家人比企能員の子能本、開山は日蓮聖人、本尊は三宝尊です。総門手前に、比企能員邸阯が建つ。総門を潜り、方丈門を潜り、石段を登るとアジサイが咲いています。石段を登りきると、左手に書院、本堂、鐘楼がある。右手高い所に持国天と多聞天が安置されている二天門があり、門を潜ると左手に日蓮上人銅像、右手に源一幡の袖塚、比企一族の墓、正面に大きな祖師堂がある。左手の右の石段を登ると源頼家の姫の墓がある。方丈門を出て、右手の石段を登った先に若狭の局を祀った蛇苦止堂がある。その隣には蛇形の井がある

    妙本寺二天門 日蓮宗の一寺、創建は1260年、開基は鎌倉幕府御家人比企能員の子能本、開山は日蓮聖人、本尊は三宝尊です。総門手前に、比企能員邸阯が建つ。総門を潜り、方丈門を潜り、石段を登るとアジサイが咲いています。石段を登りきると、左手に書院、本堂、鐘楼がある。右手高い所に持国天と多聞天が安置されている二天門があり、門を潜ると左手に日蓮上人銅像、右手に源一幡の袖塚、比企一族の墓、正面に大きな祖師堂がある。左手の右の石段を登ると源頼家の姫の墓がある。方丈門を出て、右手の石段を登った先に若狭の局を祀った蛇苦止堂がある。その隣には蛇形の井がある

  • 妙本寺一幡の袖塚 比企の乱の際に亡くなった一幡(頼家の側室若狭の局の子)着衣の小袖が焼け跡から見つかり、遺骨とともに供養された塚です

    妙本寺一幡の袖塚 比企の乱の際に亡くなった一幡(頼家の側室若狭の局の子)着衣の小袖が焼け跡から見つかり、遺骨とともに供養された塚です

  • 妙本寺比企能員一族の墓 祖師堂手前の山裾に比企一族の墓が並んでいる。比企能員は鎌倉殿13人の一人で、比企の変で北条時政に討たれる

    妙本寺比企能員一族の墓 祖師堂手前の山裾に比企一族の墓が並んでいる。比企能員は鎌倉殿13人の一人で、比企の変で北条時政に討たれる

  • 源よし子の墓 祖師堂の左わきの石段を登った先の一番奥に竹御所と言われた源頼家の娘の墓がある(案内板には源よし子と記す)

    源よし子の墓 祖師堂の左わきの石段を登った先の一番奥に竹御所と言われた源頼家の娘の墓がある(案内板には源よし子と記す)

  • 蛇苦止の井 蛇苦止堂の隣には若狭の局(比企能員の娘で鎌倉第二代将軍源頼家の側室)が家宝を抱いて身を投げた蛇形の井がある<br />西に向かい、若宮大路を南へ八幡宮一の鳥居に向かう

    蛇苦止の井 蛇苦止堂の隣には若狭の局(比企能員の娘で鎌倉第二代将軍源頼家の側室)が家宝を抱いて身を投げた蛇形の井がある
    西に向かい、若宮大路を南へ八幡宮一の鳥居に向かう

  • 畠山重保宝篋印塔 鎌倉幕府有力御家人畠山重忠の嫡男重保は北条時政の娘婿(源朝雅)と口論となり、後に時政のだまし討ちに会い重保は殺される。1393年銘の立派な宝篋印塔は、この重保の墓です。ここには重保の屋敷跡碑も建っています<br />西南に向かう

    畠山重保宝篋印塔 鎌倉幕府有力御家人畠山重忠の嫡男重保は北条時政の娘婿(源朝雅)と口論となり、後に時政のだまし討ちに会い重保は殺される。1393年銘の立派な宝篋印塔は、この重保の墓です。ここには重保の屋敷跡碑も建っています
    西南に向かう

  • 和田一族の墓 墳墓跡に和田義盛一族の墓が建っています。義盛は北条義時との戦い(和田合戦)でこの地で敗れ、ここは和田一族の屍を埋葬した塚と言われています<br />今小路通りを北に向かい、鎌倉駅に行く

    和田一族の墓 墳墓跡に和田義盛一族の墓が建っています。義盛は北条義時との戦い(和田合戦)でこの地で敗れ、ここは和田一族の屍を埋葬した塚と言われています
    今小路通りを北に向かい、鎌倉駅に行く

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