2022/12/25 - 2022/12/25
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gianiさん
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神話の中で神武天皇が即位前の国造りで7年間滞在したかと思えば、マツダ本社が所在し、今もホットな府中町。
広島駅から数キロですが、広島市との合併を良しとせず、独立を守っています。一度も合併を経験せずに、江戸時代の府中村がそのまま現在の町域になっている、日本でも希少な存在です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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府中町へは、広島駅からバスで行きます。
府中へ行く2系統は、ターミナル外の16番乗り場。エディオン蔦屋家電が入っているビルの前から発車します。乗り場、要注意です。
※始発の県庁バス停は、そごうの向かいから発車します。 -
2系統は、2-1,2-2,2-5,2-6,2-7に分かれ広電が運行。歴史民俗資料館へは2-2のみです。府中埃宮バス停で降ります。
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10月に新規移転した公民館の2階の一部と3階に展示室があります。
無料ですが、見ごたえのある展示です。学童を念頭に置いた分かりやすい説明です。府中町歴史民俗資料館 美術館・博物館
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神武東遷ゆかりの地
神武東遷は、初代神武天皇による日本の建国神話で、2600年ほど前の話です。神武天皇は日本を統一するため、都を造るのに最適な場所を探す旅に出ます。高千穂を出発して大和に落ち着くまでに、埃宮(えのみや:日本書紀)多祁理宮(たけりのみや:古事記)に7年間滞在しました。 -
松崎八幡宮跡には、神武天皇御腰岩があります。
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東遷時に岡田宮(現北九州市)から船で付いた時に、腰掛けて休息を取ったとされます。2600年分の土砂が堆積しています。
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神武天皇の滞在した場所を巡って、松崎八幡宮と総社の氏子双方が主張したために、どちらも廃社処分に。明治7年に広島城三の丸の稲荷神社を移設して、新たに多家神社を創建。論争に終止符を打たせました。写真は、城内から移設した宝蔵。
多家神社の宝蔵 名所・史跡
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古墳時代
ヤマト政権に従う地方豪族は、その見返りに土地支配および特別なデザインの古墳を造る許可を得ました。古墳は目立つ場所に造られ、与えられた権威を人々に見せつける意味もありました。府中町で見つかった古墳は円墳で、豪族より下位の地元の裕福な人の墓に相当します。 -
大化の改新以降、唐を手本とする中央集権国家建設が加速。律令制度を輸入し、豪族から土地を取り上げて、全ての土地を国有化しました。60ほどの国に区分して、地方にも政府の権威が及ぶようにしました。政府>律令国>郡>里という行政単位が誕生。現在の広島県西部は安芸国、東部は備後国に区分されました。
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地方行政
各国には国司という政府役人が派遣され、政庁の所在地は国府と呼ばれました。「府中」とは、国府の所在地を意味します。
下部組織の郡は、郡司として豪族が統治に参加(=領主)しました。 -
律令制度では、日本を五畿七道に区分し、中央の政策が速やかに各地へ伝わるように、官道を整備しました。安芸国は、都と大宰府を結ぶ山陽道が通り、16km毎に駅家を設置。公務で出張する役人の移動用に20頭の馬を配備し、食事や宿も提供されました。
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交通の拠点
山陽道は、七道の中でも最重要ルートで「大路」と呼ばれました。現在の府中町には、安芸駅という駅家が置かれました。
駅家を利用するには、朝廷が支給した駅鈴(写真)が必要でした。都と全国を結ぶ官道は、有事を知らせる急使や軍隊を迅速に移動させる上でも重要でした。 -
駅家で提供された食事。
案外質素です。お米も玄米。器は質素に見えますが、庶民が手にできない土師器や須恵器を使用。 -
下岡田遺跡で発掘された、重圏文(同心円のこと)という模様をした軒瓦。
瓦を使用できるのは、寺院・官庁・宮殿に限られました。
重文圏模様は、聖武天皇が造営した難波宮のスタイルで、奈良時代前期にここが駅家だった状況証拠になります。 -
屋根の頂部は、熨斗(のし)瓦。板状の瓦をずらして重ね、雨水の浸透を防ぎます。
斜面は、図のように丸瓦と平瓦を交互に並べます。 -
中世の海岸線と古山陽道
現在は内陸部ですが、中世は遺跡横に海岸線が迫り、古山陽道が走っていました。下岡田遺跡では大きな建物の礎石跡や大量の瓦・木簡等が発掘され、遅くとも奈良時代以降の駅家跡とされます。木簡は、現在の紙に相当し、水に強く、削れば再利用できるので、硯・筆と共に、役人の必須アイテムでした。 -
現在の姿
古山陽道は、現在の府中ニュータウンを縦断し、八幡橋交差点・安芸府中郵便局(写真)の横を走っていました。 -
その先には、宮の町2丁目交差点(写真)が。ガードレールに沿って、古山陽道も右へ折れました。
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真っすぐ北上すると、沿道に下岡田遺跡があります。
1957に発見され、駅家跡とされます。早馬立という地名も関連を感じさせます。
専ら8世紀のものが出土し、9世紀以降の発掘物がなくなることから駅家としての機能が失せたと推定されます。
山陽道は外国の使節も通交するので、各駅家はとりわけ威厳のある造りでした。下岡田官衙遺跡 名所・史跡
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府中=政庁・国府所在地
国府は時代と共に移動することも。
平安時代半ばに、府中町に安芸の国府が!
※(広島県)府中市は、備後の国府ということ。 -
安芸の国庁屋敷跡。
国庁は、国司が政務・儀式を行った建物。
とはいえ、10世紀には、国司は現地へ赴かず都に留まり、現地では国司代が実務を行いました(留守所)。地元の豪族が国司代を務め、安芸国は代々田所氏が務めました。 -
田所氏
安芸国造(律令前に各地を治めた領主の役職)を務めた豪族佐伯氏の末裔。律令下では、厳島神社を含む安芸国佐伯郡の郡司を世襲。国司が現地へ赴任しなくなると、「田所」という役職(国内の田畑を管理)に就いて、役職を姓にした。遅くとも11世紀には、国司代を世襲している。写真は移転後の屋敷跡に残る田所明神社。田所明神社 寺・神社・教会
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総社跡
国司最初の公務は、領内の神社を巡拝することだった。とはいえ多くの時間とエネルギーが必要とされ、政務に支障を及ぼす。という訳で、各社の神霊を一か所に集めて、まとめて参拝できる遥拝所(総社)を国府に造ることが平安時代に制度化された。
総社会館(公民館)の敷地内に石碑(写真)がある。 -
そのなかでも、安芸国一之宮(筆頭)の厳島神社は別格。
総社とは別に遥拝所を建設。遅くとも1072年には、記録に登場。現在は、石井城跡になっています。何故か、厳島神社に背を向ける配置。石井城跡 名所・史跡
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写真は、江戸時代に出版された資料の挿絵。
左下に国庁屋敷、右上に厳島神社遥拝所、右下に総社が。 -
1146年には、平清盛が安芸の国司になり、歴任します。
これ以降、平氏と厳島神社との関係が深まります。 -
武家政権
鎌倉幕府は、律令国に守護を任命し、国司と衝突を起こした。次第に実権は守護に移った。安芸国守護職は宗氏が務めたが、承久の乱で鳥羽上皇に味方して敗北。代わりに甲斐守護職の武田信光が兼任し、以後断続的に統治する。頼宗(写真)は、本拠地を府中から祇園武田山の銀山城(現広島市安佐南区)へ移した。
※武田氏は、信玄の祖先です。 -
写真は、対岸から祇園・武田山を写したもの。
今も交通の要衝で、太田川デルタの付け根に位置。銀山城跡 名所・史跡
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中世の地図
現在の太田川デルタは海の中。というわけで、広島の市街地も海の中。
下のおむすび形の島は仁保島で、現在の黄金山。 -
府中と白井氏
室町時代に安芸国守護は、武田氏信の家系が引き継ぎ、安芸武田氏として嫡流の(甲斐)武田氏から分家する。
府中周辺の支配は、甲斐から連れてきた家臣の白井氏に委ねた。白井氏の分家は守護の警固衆として水軍を組織し、瀬戸内海にも睨みを効かせる。 -
白井氏の拠点(橙)
府中の千代城が本拠地で、出張城などを持つ。分家は仁保城(現在は内陸化して黄金山)を拠点に戸田城等を持つ。
警固衆
海上交通の大幹線である瀬戸内海には海の武士団ともいえる海賊(現在とは意味が違い、ネガティブなニュアンスは無い。)が存在した。守護は、海賊と主従関係を結んで配下にした。白井氏のように海賊を束ねた武士は、水軍を組織して海上を支配する権限を守護から許された。 -
大内氏侵攻(1527)
隣国周防(山口)から大内氏が侵攻し、武田氏と白井氏を滅ぼします。水軍の白井氏は大内氏に味方したので、活動範囲を広げて繁栄します。 -
厳島合戦(1555)による毛利氏支配
大内義隆は家臣の陶晴賢に滅ぼされ、大内配下の毛利元就が征伐に向かいます。毛利勢4000に対し陶勢20000でしたが、村上水軍の活躍で毛利元就が勝利。白井水軍は陶方でしたが、存続を許され、毛利配下で活躍し続けます。
関ヶ原の合戦で毛利輝元は敗北し、安芸を追われます。 -
江戸時代
福島正則の支配を経て、250年間は浅野氏が安芸を支配。広島や府中で、大規模な干拓事業を展開します。府中町でも12の新開が開かれます。江戸時代は米が経済の主役だったために、農地を増やすことは各藩の命題でした。1686年に干拓された鹿籠新開は、広島城下で酒造業を営む伊豫屋によるもので、民間資本による新開。 -
干拓による街道の引き直し
船越峠を越えて、現在の県道151号線に沿って西進します。永田交差点で斜め右に、宮の町2丁目交差点で斜め左へ。恵比須神社付近で、川と分岐して府中大橋付近で151号に合流します。 -
写真は、現在の府中大橋。
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干拓地は塩分が残ったので、塩気に強い綿花が広く栽培されました。
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右が綿花で、左が糸車で紡いだ木綿糸。
農閑期に糸を織って布にして付加価値を上げました。
木綿の生産が増えたおかげで、庶民の服にも木綿が普及しました。 -
高畝づくり
水はけの悪い干拓地は、水田の稲を刈り取ると畝を幾筋にも築いて綿花・麦・野菜を栽培(裏作)しました。表面積が増すので土が良く乾き、稲の成長にも良い影響を及ぼしました。 -
明治以降
大きな変化は、松田重次郎が府中で東洋工業(現マツダ)を創設。現在も本社家屋および登記は府中です。1930年に工場を建設、1937年に府中村は町に昇格します。翌年にはキリンビールの工場も稼働開始します。 -
原爆投下とバックアップ
原爆投下で、広島市は壊滅的な打撃を受けます。本社内の病院(現マツダ病院)は徒歩避難した被爆者を治療。食堂や寄宿舎(現独身寮)も開放します。本社家屋には、県庁や警察署の機能が避難してきました。 -
戦後復興に伴い、広島のベッドタウンとして宅地が増加し、田畑は姿を消してゆきます。1990年には人口が5万人を突破。広島市との合併を拒んだのは、税収が多く財源が豊かだからです。キリンビールの工場は2004年に閉鎖し、現在はイオンのショッピングセンターになっています。
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上:キリンビール工場跡
下:マツダ本社 中央の緑の山がかつての仁保島(現黄金山)。住宅部分は、江戸時代以降に干拓された土地です。
続いてマツダ本社ミュージアムを訪問↓
https://4travel.jp/travelogue/11808131
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