2023/10/06 - 2023/10/06
105位(同エリア234件中)
gianiさん
- gianiさんTOP
- 旅行記238冊
- クチコミ54件
- Q&A回答0件
- 804,992アクセス
- フォロワー16人
この旅行記のスケジュール
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
長崎街道(西鉄バス)/筑豊電気鉄道/JR筑豊本線の3本を利用して、江戸時代~戦後にかけての地域の様子を実地と展示で検証します。
展示は、黒崎歴史ふれあい館/中間市歴史民俗資料館/木屋瀬宿記念館のものです。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
旅のはじまりは穴生。
ローカルフードが売りの乙な飲食店が多く、おすすめの町です。穴生駅 駅
-
黒崎~穴生(1948年撮影)
白:国鉄東折尾貨物駅(現在のJR陣原駅)
緑:日本化成(2018年に三菱化学へ吸収)
青:筑豊電気鉄道(1956年開業)
赤:穴生駅
黄:八幡製鉄所穴生アパート群 -
穴生地区は終戦後も田畑でしたが、1958年以降八幡製鉄所穴生アパート群が建てられました。住所は鉄竜/鉄王に跨り、いかにも製鉄所の町というネーミング。当時は独身寮として供用されましたが、君津製鉄所建設に伴う人員配置で1962年に家族向けへ変更されます。社宅専用プールがあるなど、先進的な住居環境でした。写真は、八幡製鉄所60年史より。
むらた亭 相生店 グルメ・レストラン
-
通谷駅で下車します。
通谷駅 駅
-
駅前には、井筒屋百貨店が。小さな店舗ですが、、、
-
ピザクック通りを東進します。
-
これが、通り沿いにあるピザクック。
-
通り沿いの中間市体育文化センターには、大正鉱業中鶴鉱の記念碑が。
晩秋の遠賀川中州に、シベリアから飛来する鶴が越冬することが由来です。
新一坑の入口に掲げられた銘版も展示されています。中間市役所市立歴史民俗資料館 美術館・博物館
-
筑豊四大石炭王の伊藤伝右衛門が、1906年に中鶴一坑を開坑しました。
中鶴鉱は一坑(1906-50)/二坑(1919-64)/新一坑(1941-64)/新二坑(1941-64)/三坑(1944-64)/垣生坑(1938-51)/五坑(1945-49)といった感じで拡大しました。(五坑/垣生坑は買収で取得) -
伊藤伝右衛門は筑豊御三家に次ぐ存在で、新手炭鉱鉱業として長津村(現中間市)に開坑します。
1914年に古河鉱業(足尾銅山で有名)と共同出資で大正鉱業を設立し、中鶴鉱と改名します。戦後の財閥解体で、伊藤の単独経営となります。 -
100年前の光景(1914年撮影)
ボタ山付近からの構図で、左右に横断する国鉄筑豊本線の先に、一坑のレンガ煙突(高さ45m/内径4m)がランドマーク。その左には、堀川運河への石炭積込場があります。 -
現在の一坑跡
左より遠賀川(枠外)、一坑跡、堀川と並びます。堀川の左岸には、手前より炭鉱労働者住宅/一坑が並びました。現在、南端は中間小学校になっています。 -
一坑の労働者住宅(1939年撮影)
概して坑夫は抑圧される存在でしたが、伝右衛門は環境改善に積極的で、教育機会を提供するなどしていました。 -
現在(2012年)の様子
赤:一坑…
緑:二坑/新二坑
黄:一坑のボタ山
青:遠賀堀川
一坑は遠賀堀川に面し、ひらた船で若松港まで石炭を運びました。南端は中間小学校になっており、北端は県営住宅と接しています。ボタ山は現在の中間北中学校周辺で、一坑とロープウェイで結ばれていました。後に二坑と高架橋で結ばれ、トロッコ輸送になります。 -
遠賀堀川を航行する川ひらた
遠賀堀川は1762-1804にかけて開通し、石炭積出港である若松までつながっていました。石炭輸送の主力で、大潮(毎月1,15日)の日は半日で到着しましたが、需要の増加に伴って交通渋滞が深刻になり、月平均2.5往復しか航行できませんでした。ピーク時には、往復に1か月掛かることもありました。早くて安い鉄道輸送に取って代わられます。 -
二坑(本坑)
1919年に開坑、主力坑となります。偲碑のあるところがセンターで、通谷駅と筑豊本線中間駅の間の広大な土地が、炭鉱の敷地でした。現在の市役所等の市の施設や住宅街は、跡地の広大な空き地に築かれたものです。当初は地名を取って、大根土炭鉱と呼ばれていました。一坑閉鎖後は、本坑と呼ばれます。 -
同じ構図
中間駅の南側から市民会館方面の光景。
中間駅から国鉄香月線が走っていた跡です(後述)。
二坑は、香月線と線路で繋がっていました。 -
二坑の北側の蓮花山には、一面にボタ山が残っています。当時は、麓から頂上までケーブルカーで採掘くずを積み上げました。市民病院の北東側です。
※市民病院の前身は、1918年開設の大正鉱業中鶴炭鉱付属病院です。 -
すべての峰にケーブルカーが張り巡らされている当時の写真は壮観です。現在は植生に覆われて、まったく想像できません。
余談ですが、1894-1921年まで蓮花炭鉱が存在しました。 -
二坑の山神社(1939年撮影)
各炭坑(cf.炭鉱)には、山の神である大山祇を祀り、毎日入坑前に炭鉱事故が起きないことを願って参拝し、出坑後は無事を感謝しました。手前の空き地には、事務所が建設されます。 -
1955年の様子
赤線:国鉄中間駅
赤丸:筑豊電鉄通谷駅(1956年開通)
青:二坑
通谷駅と中間駅を結ぶピザクック通りは、田圃の真ん中を通っています。並行する曲川の南側が二坑の敷地で、ほとんどが炭住です。青線が中心施設で、枠になった部分が選炭場や坑口、右上で扇状に拡がるボタ山までエンドレス(複線のケーブルカー)が通っています。左下の国鉄香月線まで引き込み線が伸び、中間駅を介して若松駅まで貨物輸送していました。
5年前に閉鎖されている一坑跡は、住宅が建っています。 -
2012年の中間市域図
赤:中鶴炭鉱。左より五坑と垣生坑/一坑/二坑/矢印:三坑。
青線:JR中間駅
青丸:通谷駅
三坑は右下に写る都市高速4号線の小嶺インター横にあります。竪坑跡の住所は、八幡西区船越1-9です。 -
垣生坑/五坑
遠賀川対岸の筑前埴生駅の西側(写真左枠外)に存在しました。現在は跡形もありません。 -
閉山(1964)
石油へのエネルギー転換を経て炭鉱経営は悪化し、通産大臣等が介入するリストラを決行します。1962年に労働組合は128日連続のスト等を決行し、一年間操業がほとんどストップします。日銀本店でもデモを行い、二二六事件以来の正門閉鎖という事態に陥ります。企業城下町だった中間市も、大いに巻き込まれます。
負債とストによる売上減で、1964年に大正鉱業は解散し、13000人が職を失います。 -
岩崎炭鉱(1896~)
中間唐戸の北西~市外にかけて黒川沿いに開発されました。上の写真では、黒川を航行する川ひらたに直接積載できるようになっています。香月線開通前年の写真です。
五坑まで存在し、大隈炭鉱と一体化します。合併で大隈炭鉱/九州採炭と社名を変えていきます。新手炭鉱/大隈炭鉱/岩崎炭鉱/大辻炭鉱の総称として、新手炭鉱とも呼ばれます。
※新手炭鉱は1883年開坑で、大正鉱業に買収されたので中鶴三坑と呼ばれていた時期(1927-30)がありました。先述の中鶴三坑と混同しているブロガーもいるので、要注意です。1954年閉山。 -
岩崎親子
岩崎久米吉は大辻村(現中間市)生まれで、岩崎家に養子入りして、炭鉱開発に携わります。1908年に開業した国鉄香月線は岩崎炭鉱を網羅し、岩崎炭鉱の久米吉/大辻炭鉱の貝島太助の陳情によって開業しました。右は、事業を発展させた長男の壽喜蔵。 -
新手鉱跡
堀川の右岸に位置しました。 -
岩崎家旧宅跡
遠賀橋のそばにある中間消防署は、岩崎家の旧宅跡です。後に寄贈され、旧宅は、中間町役場庁舎として使われていました。 -
新手鉱跡や岩崎邸跡の近くには、歴史的構造物である中間唐戸もあります。
堀川の中間唐戸 名所・史跡
-
国鉄香月線(1908~1985)
国鉄中間駅~香月間3.5kmで、石炭輸送を目的に開通。途中に新手/岩崎の駅がありました。路線跡は、世界中の石による彫刻がゾーンごとに設置されています。
※正確には、鉄道院傘下の官営鉄道として開業。 -
基点が日本で、韓国(写真)中国/インド/イランという感じで、西へ進みます。
-
屋根のない博物館と呼ばれています。
屋根のない博物館 名所・史跡
-
国鉄基点の中間駅まで続きます。
-
筑豊本線の石炭輸送
若松~中間は複々線で、香月線/鞍手軽便鉄道等からも輸送列車が走っていたためです。中間~植木は3線でした。中間駅の先には、撤去された3線目の構造物が残ります。両端が貨物輸送用、真ん中が旅客輸送用(単線)と区分けしていました。
筑豊本線は、若松港へ石炭を輸送するために筑豊御三家が共同出資した筑豊興行鉄道として、1891年に開業しています。 -
中間駅に到着。
折尾経由で黒崎へ移動します。中間駅 駅
-
筑鉄黒崎駅の横には、黒崎バスセンターがあります。
同じ階ですが、一度2階へ上がって移動します。
7番乗り場から直方行バスに乗って、長崎街道沿いを進みます。西鉄 黒崎バスセンター 乗り物
-
小嶺台バス停で下車。
小嶺インターチェンジ付近から山を登り、頂上から難所「アケ坂」を一気に下って中の谷に着いたシチュエーションです。
※現在は土地開発が進みアケ坂等は消失していますが、小嶺台まで急坂であることは実感できます。路線バス (西鉄バス北九州) 乗り物
-
現地に掲示された地図
-
小嶺2丁目交差点で、国道211号線を右折し、旧長崎街道へ進みます。伊能忠敬も歩いた道です。
※R211=旧長崎街道ですが、自動車が通行できない階段を含む部分はバイパスしています。 -
立場茶屋銀杏屋
「茶屋」は福岡藩主別宅に相当し、参勤交代時の休息に使用されました。諸藩大名や長崎奉行といった幕府高級官僚も使用しました。というわけで、格式の高い「上段の間」も用意されています。急坂に挟まれているので、小休止に用いられました。 -
名前の由来になった銀杏の大木
建物は、1836年の火災後に建替えられたものです。月曜以外は、無料で一般公開されています。
VIPに限らず旅人にとっては難所なので、宿場ではありませんが、周囲には茶店が並んでいました。 -
上石坂を上り切って、下石坂を下ります。
現在は切り通し等で上石坂は消失しており、スケールダウンした下石坂を下ります。左へカーブする車道に別れを告げ、直進します。茶屋より80m先の景観。 -
いざ、突入。
-
後ろを振り返ると急坂。
-
井戸も設置。
-
急傾斜ゆえに、お殿様も駕籠を降りて自ら歩いて昇降したそうです。
※現在は階段化され、手すりも付いています。 -
下の石坂を降りて、長崎街道は黒川を渡ります。
-
黒川は遠賀川の支流で、岩崎炭鉱等の水運を担っていました。遠賀堀川の中間唐戸に接続します↓
-
後ろを振り返ります。
森の上が小嶺台で、下の石坂が通っていました。 -
歩道には、長崎街道のプレートが。
-
池田という地名の通り、灌漑用の溜池が多く現存します。
現在は、黒川源流にもダム(畑貯水池)が構築されています。
R211と合流する地点には、古刹香徳寺が建ちます。 -
香徳寺
雲取城主(麻生氏)の菩提寺で、麻生氏の没落に伴い荒廃してしましたが、1592年の朝鮮出兵の際に徳川家康が名護屋城へ移動中に当地に滞在して復興。穴生弘善寺の末寺となりました。 -
都市高速(4号線)を跨ぎます。
-
こんな感じで国道と立体交差しています。
-
金剛川3号橋
笹尾川支流の金剛川は全長1941mですが、7.2kmの笹尾川に比肩する流域面積(3.4/4平方km)を持ちます。 -
右が直線化された新河道、左が蛇行している旧河道。
金剛村/野面(のぶ)村/笹田村は1889年に木屋瀬村と合併して、木屋瀬町となりました。 -
炭鉱史
1478年に金剛村で燃える石が発見されたという記述は、三池村に次ぐ日本最古の記録です。1889年に金剛炭鉱として、採掘がはじまります(1902年に木屋瀬炭鉱へ改称)。図の中心から右下枠外へかけて各坑が分布し、出炭量のピークは1921年です。 -
木屋瀬地域交流センターは、木屋瀬炭鉱跡に位置します。
鞍手軽便鉄道に関する案内板がありました。 -
鞍手軽便鉄道(1911-54)
採炭物は、馬が曳くトロッコで現在の野面大橋付近まで運ばれて、ここからは笹尾川/堀川運河を介して若松港まで川ひらたと呼ばれる川船で輸送されました。卸価格における輸送費の割合は2割程度でしたが、1898年に船頭が大幅値上げを行い、全体の4割以上になりました。
炭鉱を経営する木屋瀬採炭は、コスト対策で野面~香月間3.8kmに鉄道を敷設することで、若松港まで鉄道輸送できるようにしました。 -
全盛期の姿
木屋瀬は、宿場町から炭鉱町へ衣替えしました。 -
地域センターの手前には、野面駅がありました。
各炭坑と駅を結ぶエンドレス(ケーブルカー)の終点は貨車の真上で、上から荷台へ石炭を流し込みました。そのための積込桟橋(ポケット)の遺構が残っています。 -
草をどけると赤レンガのアーチが。本来は立入禁止ですが、たまたま自治会員による草刈り中で、皆さんの厚意で中へ入れてもらえました。冬なら、柵越しに見えるかもしれません。
-
先ほどの案内板には、全盛期の駅構内と周囲の地図が付いています。
各坑から届いた採掘物は駅に隣接した選炭場で選別され、石炭はポケットと呼ばれる積込桟橋から貨車へ積載されました。 -
実際の光景
駅の横には本坑/金丸坑がありました。エンドレスで宮下坑等5坑の採掘物も選炭場へ輸送されました。 -
炭坑の光景
-
炭坑は、こんな感じで地下まで伸びています。
-
1918-29年における採炭量(t)
12年間の実績を比較しています。九州産の65%が筑豊炭田のものです。今回のエリアでは、高松387,364/大辻339,230/中鶴一坑318,629/木屋瀬坑222,371/中鶴二坑125,066/大隈坑96,273/岩崎坑93947/深坂坑60,956/高谷坑38,742/楠橋坑35,134tとなっています。
受入先は、若松駅549万t/戸畑-枝光-西八幡駅(八幡製鉄所)480万t/門司駅67万tといった感じです。 -
野面駅前は商店が立ち並び、木屋瀬銀座と呼ばれました。馬を扱う店が多いのが意外です。
-
道路の両側は、駅構内。線路が並んでいました。
-
この辺りから駅構内でした。
100mほど進んで振り返った光景。
商店は、地域に1軒しかありませんでした。 -
煉瓦が残る民家
周囲は、馬を扱う店が多かったみたいです。 -
公民館の上にある公園の奥には、古墳があります。
-
野面古墳
玄室/羨道からなる横穴式古墳、ということで古墳時代後期の様式。玄室は375×225cm、羨道は10mほどあったと推定されます。内部には、後代の人が設置した石仏が七体安置されています。 -
金剛川が笹尾川に合流します。
-
野面大橋
笹尾川に架かる橋で、鉄道開通までは、馬が曳くトロッコから川舟へ積み替えた地点。 -
遠賀川の後背地
上の白黒写真は、野面大橋付近から撮影した写真。洪水で辺り一面が水で覆われています。一に野面、二に新延…と言われる遠賀川最大の窪地(図の水色の部分)でした。 -
笹尾川の対岸が、先ほどの炭鉱跡地。撮影地点が明らかに低い場所だということがわかります。
-
このような排水路が網の目のように張り巡らされ、笹尾川との合流点には水門が設置され、厳重に管理されています。
-
木屋瀬駅まで数百メートルです。
木屋瀬駅 駅
-
その先には、木屋瀬記念館があります。
木屋瀬周辺の展示資料は、ここが出どころです。北九州市立長崎街道木屋瀬宿記念館 美術館・博物館
-
宿場から寿命の唐戸を越えると、
-
終点は楠橋駅です。
楠橋駅 駅
-
線路の西側。石碑には、楠橋と。地名由来の橋です。
-
楠橋の南側
九州自動車道の高架橋が、左右に横断しています。 -
北側
笹尾川の流れが静かです。 -
赤レンガ壁の御屋敷。屋敷林も素敵です。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
86