2023/10/11 - 2023/10/18
108位(同エリア588件中)
j3matuさん
- j3matuさんTOP
- 旅行記100冊
- クチコミ622件
- Q&A回答0件
- 59,030アクセス
- フォロワー21人
この旅行記スケジュールを元に
西遊旅行社さんの「王の道が貫く砂漠の国ヨルダン8日間」のツアーに参加しました。旅全体の概要は旅行記①で紹介させていただいているので、ここでは省略させていただきます。
この旅行記②では、ツアー3日目(1日目、2日目とほぼ移動なので、本格的な観光はこの日からですが)、ペトラ遺跡観光の午前中の様子を紹介します。遺跡入場口からジン・ブロックス、オベリスクの墓を見て、シーク(岩の裂け目)を通り、エル・ハズネ、ファサード通り、ローマ円形劇場、柱廊通り、大神殿、カスル・アル・ビントと、ペトラ遺跡のメインストリートを巡ります。ツアーに同行する現地ガイドのモハマドさんに案内していただきました。
ご存知ない方のために、ペトラ遺跡について素人なりに解説させていただきます。興味がない人は飛ばしてください。
ペトラ遺跡を築き上げたのは、ナバテア人(ナバタイ人)と呼ばれる人々です。ナバテア人はアラビア半島から来た遊牧民で、紀元前6世紀頃にこの辺りに定住するようになりました。その後、アラビア半島と地中海を結ぶ交易で莫大な富を得て、紀元前2世紀頃にナバテア王国を築き上げました。全盛期は紀元前1世紀~紀元後1世紀で、ペトラに残る巨大な建造物の多くはその頃に作られています。西暦106年にローマ帝国に支配され、ナバテア王国は終わりを告げますが、その後もローマ帝国の属州として繁栄を続けます。しかし、やがて交易の中心は紅海を通る海上交易へと移行し、徐々にこの地から人々は去って行きました。19世紀にスイス人探検家が発見するまで、忘れられた都市となっていました。
ペトラ遺跡ではナバテア独自の文化に加え、東方文化やギリシャのヘレニズム文化の影響が多く見られます。また、ローマ帝国の属州になってからは、ローマ風の建造物が建てられたり、作り変えられたりしました。水道管を使った水路を張り巡らせたり、ダムを建設したりなど、高度な水利システムも持っていました。
1985年、ペトラ遺跡はユネスコの世界文化遺産に登録されました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
PR
-
ツアー3日目の朝。時差(日本時間からマイナス6時間)の影響か、夜中の1~2時くらいに目が覚めてしまいました。それからなんとか寝ようと足搔きましたが、犬の鳴き声が気になったり、朝5時のアザーンの声が聞こえてきたりして、結局たいして眠れず。朝6:13に起き出しました。宿泊したペトラゲストハウスの私の部屋からは岩肌しか見えないので、本館とシャレーを結ぶ通路から外を眺めます。外を歩いている人が見えたので、私も散歩に出かけることにしました。
ペトラ ゲスト ハウス ホテル
-
なんと、朝の6:16だというのに、お店が開いています!
上の写真はお土産物屋さん。下はジュース、アイス、お菓子などを売っているお店です。どちらの店からも元気な客引きの声がかかります。皆さん、めっちゃ働き者ですね! -
ホテルを出て、お店を通り過ぎると、左手にペトラ博物館です。今日の遺跡観光の後で時間があったら寄りたいと思います。
-
右手にはビジターセンターです。番犬くん?
-
ペトラ博物館やビジターセンターを通り過ぎて、昨日リトルペトラの方から来た車道の坂を少し登ると、こんな壮大な景色を眺められる場所に出ました。昨日、バスで通ったときに、目をつけていた場所です。ホテルから徒歩5分でこの景色!
-
山側の眺め。左にある気球は1万円くらいで乗ることができるということでした。ビビりなので乗りませんが…。
-
壮大すぎる眺めを見ると、ついついパノラマ写真を撮りたくなってしまいますが、伝わる気は全然しませんね(笑)
-
6:30、ホテルに戻って朝食です。昨日はずっとお腹いっぱいな状況だったので、漸く今日から純粋に食事を楽しめます。
写真は前菜のコーナー。果物や野菜、ハム、チーズが並んでいます。
ヨルダンは野菜が豊富なのか、どこに行っても前菜は野菜たっぷりの料理が並んでいました。女性陣に大好評でした。 -
パンのコーナー。写真では分かりづらいですが、シナモンブレッドやフルーツのデニッシュなど、甘い系のブレッドが充実していました。
写真はないですが、他にもスープコーナー、メインのコーナーなどがあり、種類は豊富だと思います。 -
明らかに、昨日のお皿と盛りが違う(笑)
-
特においしかったのは、このピスタチオが乗ったクリーム状のもの。最初はチーズかと思って取ったのですが、違っていました。これは多分中東の国々で食べられているお菓子、ハルヴァではないかと思います。ゴマペーストを固めた甘いお菓子です。初めて食べたけどとてもおいしかったです。
-
7:06、朝食を終えて部屋に戻る途中、また本館とシャレーを結ぶ通路へ。
-
あ、もうすぐ山の向こうからお日様が顔を出しそう。
-
反対側の山にも少しづつ朝陽が当たり始めます。
-
サンライズの瞬間、いただきました。
-
8:00にロビー集合で、ペトラ遺跡の入場チケットを渡されました。50JDなので、日本円で10000円越えの高額チケットです。私たちのツアーではツアー代金に含まれています。
ペトラ遺跡についての簡単な紹介は、この旅行記の「概要」のところに記してあります。興味がある方は読んでみてください。 -
昨夜のペトラバイナイトではチケットを渡されて入場した後は自由行動でしたが、今日の観光では昼食のレストランまで皆一緒の団体行動です。同行している現地ガイドのモハマドさんの案内で進みます。
入場口付近にはお馬さんが待機。ペトラ遺跡は大変広大な遺跡なので、いろいろな乗り物が用意されています。馬は入場口からシークの手前くらいまでしか行かないので、お気を付けください。入場口からエル・ハズネまで行きたいなら電動カートになります。乗らなかったのでうろ覚えですが、価格は15USDくらいだったような…? -
私達は観光しながらゆっくりと歩きます。キョウチクトウの花が咲いていますね。
-
入場してからしばらくすると、右手に四角い人工物が見えてきます。写真から想像するより、うんと大きいです。昨夜、この辺は真っ暗だったため、こんな巨大なものがあるなんて全然気がついていませんでした。
これはジン・ブロックスと呼ばれるもので、精霊(ジン)を祀るためのものだとか、方形墓だとか言われています。 -
このジン・ブロックスの周辺には穴の開いた岩がたくさんあって、これは身分の低い人達のお墓だということです。
一番下の写真は、お墓にしてはオープン過ぎるので、死者を送り出す饗宴の儀式をする場所かもしれないです。ガイドさんがそう説明してた気がするのですが、ちょっと自信なしです。すいません。
ナバテア人には定期的に集まって死者のための饗宴を開くという風習がありました。そのため、身分の高低に関わらず、お墓のそばには饗宴をする場所、トリクリニウムが用意されています。 -
ジン・ブロックスを通り過ぎて行くと、今度は左手に人工物が見えて来ます。昨日、ライトアップしていたところですね。
-
上段部分、四本の尖塔が建っていて、その下に小さな穴が開いている部分は「オベリスクの墓」と呼ばれています。誰のお墓か分かっていないようですが、とても身分の高い人のお墓だったそうです(見れば分かりますよね)
その下段の大きい穴が開いている部分は、死者のための饗宴の儀式を行った場所、トリクリニウムと言われています。 -
写真の左の方に見える石垣から左がペトラの都になります。写真の真ん中辺り、石垣の前の荒れた道のように見える部分は、都に水が流れ込まないように、水を逃がす役割を負っていたそうです。
雨など全然降らないように思うかもしれませんが、一旦雨が降ると山に降った雨が大量にこの辺りの低地に集まってくるのです。何年か前に山の方で大雨が降ったときも、これから行くペトラのシーク(岩の裂け目の通路)に土石流となって急激に流れ込み、ツーリストが数名亡くなるという事故も起きています。 -
ここが都の入口。シークと呼ばれる岩の裂け目の通路を抜けて行きます。
-
入口の崖には門の痕跡が残っています。特に上の矢印の、アーチ部分が崩れた残りの石垣も崩れそうでヒヤッとします。
-
シークではいろいろな地層が見られますが、この黒いのはマンガンだそうです。
-
雨水が流れ込まないように、所々にダムが作られています。
-
ほぼほぼ岩と砂ばかりのシークですが、少しばかり緑もあります。左はケッパーブッシュ? 右は手前がキョウチクトウで、奥がイチジクのようです。
-
シークの崖沿いにはこのように水路が作られています。
シーク (ぺトラ) 山・渓谷
-
水路にはテラコッタで作った水道管が埋め込まれていました。出土したテラコッタの水道管はペトラ博物館で見ることができます。一番左下の写真では、その水道管の破片が埋まっているのが見えました。右下の写真では埋め込んだ水道管の継ぎ目の跡を見ることができます。右上の写真では水路を覆っていた蓋の部分が残っています。
-
うわ~、両側から崖が迫ってくるよ!
ペトラ遺跡のシークは全長が1.2kmもあります。一番狭いところは幅3mだそうです。(ここのことかと…) 両脇の崖は高い所で70mあります。 -
見上げて…空が狭い!
-
地層も超絶美しい!
-
たてストライプのすぐお隣が…
-
横ストライプ…謎です。
-
道は花崗岩の石畳です。昨夜のペトラバイナイトの道中、暗闇の中で何度もコケッと足を取られたのは、この石畳のせいです。
-
シークの崖には所々で壁龕(へきがん)を見ることができます。壁龕とは、一般的には教会などの壁に崇拝対象の像などを安置するためのくぼみを指します。ナバテア人は壁龕に神の顔をかたどった石板を彫刻し、礼拝していたようです。
右下の写真に見られる小さな穴はお花を挿すための穴だそうです。 -
先ほどまで暗灰色っぽかった崖が、この辺から赤茶っぽい色に変わってきました。
-
なんだか幸せそうだワン!
-
時々電動カートが通るので、後方注意です。
-
ここにも壁龕が彫られ、その中にはナバテアの神ドゥシャラーと女神ウッザーの石板が祀られています。
-
赤い岩肌が美しい。
-
石畳に残る轍の跡。
-
ナバテア人のキャラバンの彫刻。人は下半身のみで、上半身は風化しています。これは土石流などが堆積して、長い間下の部分だけが埋もれていて、風化を免れたためです。人の下半身の隣にポコ、ポコと出っ張っているのは、実はラクダの足。足は途中で折れています。足の上にはラクダの身体が彫られていたようで、かろうじて丸みのあるおなかの部分だけを見ることができます。
-
水を堰き止めるためのダムのはずが、崩れた石を堰き止めてない?
-
切り取ったみたいに真っ直ぐな崖。
-
また狭い隙間に入って行きます。
-
おぉ~、見えて来ましたよ。
-
じゃじゃ~ん。エル・ハズネです。9:00到着。
映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」で有名になり、世界中からこれを見るために観光客が集まってきます。
光の加減によって色が変わるそうで、時間帯によっては綺麗な薔薇色に見えることもあるそうですが、この時間はまだ光が当たらない感じですね。エル ハズネ 史跡・遺跡
-
エル・ハズネとは「宝物殿」という意味です。壮麗な彫刻から宝物殿だと思われたようですが、これも墳墓のようです。紀元前1世紀に、ナバテア最盛期の王、アレタス4世が建造したと言われています。なんと、全て壁面を削り出して作られているそうです。
-
この真ん中の柱の上にある壺が墳墓の証。ちょっと角度的に壺に見えませんが…。
-
建築様式にはエジプトやギリシャの影響が色濃く見られます。
-
広場前にはたくさんのラクダ。
-
ラクダよりツアーの女性陣の関心を集めたイケメン・ポリスマン達。
最初は仕事中だからと撮影を断られましたが、後にOKをいただいて、撮影させていただきました。ありがとうございます。 -
…死んでないですよね?
こんなに人の多い場所で熟睡できるとは…。昨夜、あまり眠れなかった私には、なんとも羨ましい限りです。 -
電動カートはエル・ハズネまでしか来れないので、ここから先歩きたくない人はロバかラクダに乗り替えて進むようです。私達はもちろん歩きで!
-
エル・ハズネから少し先に進むと、ファザード通りと呼ばれる地域に入ります。
ファザードとは建築物の正面という意味です。
エル・ハズネほど壮麗ではありませんが、それなりに正面を装飾した巨大な墳墓群が並んでいます。 -
こちらはただの山ですが、元々はこんな感じのところに装飾を施して、墳墓を作り上げていくのでしょうか?
-
ファザード通りを歩いていると、サンドボトルのお店がありました。作っているところをしばし見学することができました。
サンドボトルはペトラの有名なお土産物です。このお店ではこの辺りで取れる自然のままの無着色な砂を使って、サンドボトルを作っているそうです。赤は鉄、黄色は硫黄、茶色は銅、青はコバルト、黒はマンガンです。職人はこれらのカラフルな砂をただボトルに詰めていくだけの工程で、様々な絵を描いていきます。お願いすれば自分の名前を入れたサンドボトルもオーダーできるそうですが、その場合作るのに時間がかかるので、行きにオーダーして、帰りに受け取ることになります。 -
サンドボトルのお店の先にはトイレとカフェがあるので、サンドボトルを購入している人を待って、トイレ休憩&カフェタイムです。と言っても、朝食を食べ過ぎたから、まだ何も飲食したくない感じ。モハマドさんの口利きのおかげか、「何も飲食しなくてもカフェでくつろいでいていいよ」と言われたので、にゃんこと一緒にくつろがせていただきました。癒される~。
こちらのカフェにはフレッシュなザクロを絞って作るザクロジュースがありました。ヨルダンではよく飲まれているジュースみたいです。ペトラ(有名観光地)価格で、相場よりお高めの6USD。オーダーした人に聞いたら、美味しいと絶賛していたので、私も帰りに寄って買ってみようかな? (…と思っていたのに、帰るときにはスコーンと忘れていました) -
10:00頃、カフェを後にします。
カフェの近くにはこのような墳墓群がありました。この墳墓群の前の道を行くと、後で行く王家の墓に出ます。私達はこちらの道を行かず、左方に続くメインの通りを歩いていきます。 -
こちらにも墳墓群。一体、いくつあるのでしょう?
-
これは自然に開いた穴なのか、人工的に開けられたものなのか…。判然とはしませんが、この紋様は紛れもない天然の色彩です。
シークやエル・ハズネを含む墳墓群は、全て砂岩でできています。砂岩はその名の通り砂が固められてできた岩石なので、堆積した地層が美しい筋模様を作り出します。そして、柔らかいので、加工もしやすいようです。 -
左手にローマ円形劇場が見えてきました。
劇場を拡張するときに背後にあった墳墓を削ったので、遺体を安置するための穴が上の方に見えています。
ペトラは一大宗教都市のような場所なので、この劇場は葬祭的な儀式を行う場所だったのではないかと言われています。ローマ円形劇場 史跡・遺跡
-
今度は右手の方。少し小高いところには、人工的に開けられた小部屋のようなものがありました。
モハマドさんは「お金持ちの家」とおっしゃっていて、「地球の歩き方」には遺体の安置所と書かれていました。どちらが正しいかは分かりませんが、とにかくこちらも砂岩の紋様が美しいです。 -
峻険な山の上に、微かに旗が立っているのが見えます。このペトラ遺跡にはたくさんのトレッキングコースがあって、私が今日見て回るメインの見どころ以外にもたくさん見て回るところがあるそうなのです。次回ヨルダンに来るときは、ペトラに数泊して、この辺のトレッキングコースを回るのも楽しそうです。
-
右手の離れたところには王家の墓が見えてきました。モハマドさんのガイドでは遠くから眺めるだけで、近くには寄りません。
-
ラクダやロバに乗った人々が頻繫に行き来しています。
-
モハマドさんが「ラクダだ!」と言い張るラクダ岩2種。
-
ニンファエウムと呼ばれる噴水跡地。樹齢400年とも言われるピスタチオの木が生えています。下の写真のピンク色の実がピスタチオ?
このニンファエウムから柱廊通りと呼ばれるペトラのメインストリートが始まります。 -
柱廊通りはその名の通り、柱が並んだ大きな通りで、ニンファエウムからラクダ岩の方角に向かって伸びています。
-
砂がくっきりと2色に分かれています。手前はピンク、向こう側は白。
柱廊通り 史跡・遺跡
-
柱廊通りを振り返って。
柱の向こうには、遠ざかった王家の墓が小さく見えています。 -
左手には大神殿跡がありました。階段を登って、見学に行くようです。
-
階段を登ると、このような広場に出ました。
-
右手に地震で崩れた柱。
-
左手にもたくさん。この広場を取り巻くように立っていたのかな?
-
床には綺麗な六角形に切り取られた石畳。
-
広場の奥には階段があって、さらに上段に行くと、神殿の建物が現れます。
-
右手の壁の上部には、美しく彩色された跡がわずかに残っています。
-
こちらにも。
-
壁と壁の間にある柱。
-
柱の上部。コリント式かな?
-
神殿の周囲には水路。
-
水路の向こう側には神殿を取り巻く壁。
-
かなり広い神殿だったようです。
-
これを見て、ダルマ落としを連想してしまうのは私だけ?
-
神殿の構内には600人収容の小劇場もありました。演説会場として使われていたようです。
-
地震で崩れたものが無造作に置かれています。これはザクロの花をモチーフにしたもののようです。
-
大神殿を後にして、再び柱廊通りを歩いて行くと、凱旋門が見えて来ました。
この凱旋門には当時木の扉がつけられ、ここから先は聖域として仕切られていたそうです。 -
凱旋門から振り返って。
ここまで歩いて来た柱廊通りと、小さく小さくなった王家の墓。 -
この辺りは綺麗な石畳が残っています。
-
凱旋門から抜けてすぐに、カスル・アル・ビントと呼ばれる建物が現れました。
正式名「カスル・アル・ビント・フィルアウン」というそうですが、これは「ファラオの娘の宮殿」という意味だそうです。名の由来は、ファラオがエジプトの技術者たちに、「ここに水を引けたら、娘を差し出す」と約束したという逸話からついたとのことですが、実際には宮殿ではなく神殿だったのではないかと言われています。
先ほどの大神殿が一般の人々が集う神殿だったのに対し、聖域の側にあったカスル・アル・ビントは格の高い神殿だったと推測されています。 -
ここで、モハマドさんからクイズが出されました。「どっちがロバで、どっちがラバ?」 ざわつくツアーメンバー…「え~、何が違うの?」
モハマドさん曰く、ラバはロバと馬の間に生まれた子どもなので、体の大きい方がラバだそうです。 -
カスル・アル・ビントを正面から。
上部の石が崩れてきそうなので、現在は立入禁止になっています。人間は立ち入らないけど、犬たちは柵を通り抜けて走り回っていました。
写真で想像するより、はるかに巨大な建物で、迫力があります。 -
8:00にホテルを出発し、モハマドさんのガイドを聞きながらゆっくりと歩き、途中休憩も挟んで、カスル・アル・ビントまでおよそ3時間でした。
この後、昼食をとり、ペトラ遺跡観光を再開しますが、この続きは旅行記③にて。ペトラ 史跡・遺跡
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
娘の反対を振り切ってヨルダンへ
-
前の旅行記
娘の反対を振り切ってヨルダンへ①前日の移動、リトルペトラ、ペトラバイナイト
2023/10/11~
ヨルダン
-
次の旅行記
娘の反対を振り切ってヨルダンへ③ペトラ遺跡・後編
2023/10/11~
ペトラ
-
娘の反対を振り切ってヨルダンへ①前日の移動、リトルペトラ、ペトラバイナイト
2023/10/11~
ヨルダン
-
娘の反対を振り切ってヨルダンへ②ペトラ遺跡・前編
2023/10/11~
ペトラ
-
娘の反対を振り切ってヨルダンへ③ペトラ遺跡・後編
2023/10/11~
ペトラ
-
娘の反対を振り切ってヨルダンへ④ワディラム
2023/10/11~
ワディ・ラム
-
娘の反対を振り切ってヨルダンへ⑤アンマン、ジェラシュ遺跡
2023/10/11~
ヨルダン
-
娘の反対を振り切ってヨルダンへ⑥ネボ山、マダバ、死海
2023/10/11~
ヨルダン
-
娘の反対を振り切ってヨルダンへ⑦アズラック、帰国
2023/10/11~
ヨルダン
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
-
ペトラ ゲスト ハウス
3.64
ペトラ(ヨルダン) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 娘の反対を振り切ってヨルダンへ
0
96