2023/05/04 - 2023/05/04
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ミズ旅撮る人さん
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2023年GWに南九州を周遊しました。
鹿児島市からフェリーで桜島に渡り、大隅半島へ。錦江湾に沿って南下して鹿屋市街地の西側にある海上自衛隊 鹿屋航空基地を訪れます。ここには「鹿屋航空基地史料館」があります。
鹿屋(かのや)は、日本で最も多くの特攻隊員が飛び立った地なのだそうです。
屋外展示場には、予想よりはるかに多い数の機体が史料館を取り巻くように配置されていました。まさかこれ程贅沢に置かれているとは思っていませんでした。
史料館の2階には零銭を復元した機体が展示されていて、操縦席を覗くことが出来ます。
薩摩半島の知覧特攻平和会館はツアーでも訪れる有名観光地ですが、同様の特攻隊のゆかりの地が大隅半島にもあるとは知りませんでした。
大隅半島を東に横断して肝付町に入ると、志布志湾の南の突端に
「内之浦宇宙空間観測所」があります。ロケット打ち上げ場があり、科学資料館も
併設されています。広い敷地の中を車で移動しながら各施設を外から見学することが出来ます。
実際に打ち上げがある時には、少し南に下った所にある「IHIスペースポート内之浦」から、その様子を見学することが出来ます。先にそちらに立ち寄りました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
桜島から錦江湾(鹿児島湾)沿いを南下して鹿屋市に入りました。
中心部の西端に海上自衛隊 鹿屋航空基地があります。「海上航空発祥の地」だそうです。 -
かなり広い駐車場ですが既にほぼ満杯。さすがはGWです。その駐車場のすぐ脇に機体が展示されています。
私は単なる立ち寄り観光客なので、知りませんでしたが、この辺りには戦跡が多くあってマニアには憧れの地のようです。そもそも鹿屋基地の他に、串良基地・笠野原基地の遺構があり、あちこちに地下壕電信室・特攻隊戦没者慰霊塔・掩体壕などがあります。
「第五航空艦隊司令部壕跡」などというものあって、ここは最前線地域だったのだなと感じます。 -
ちょっと立ち寄るだけのつもりが、すごいことになりました。
まさかこれ程の規模の展示があるとは思ってもいなかったのです。 -
R4D-6Q(まなづる)多用機
米ダグラス社製。重量11,800㎏。1,200馬力2基。
世界で最も寿命が長いので有名な、米民間輸送の傑作機DC-3/C-47で、昭和33年末から34年に海軍型R4D-6を4機導入して、物資や人員の輸送に使用していたが、うち1機はECM訓練用のR4D-6Qとなった。追加したレドームと胴体のアンテナカバーに注目。 -
S2F-1(艦載用対潜哨戒機)
米グラマン社製。重量11,793㎏。1,525馬力2基。
米海軍で航空母艦から行動できる対潜哨戒攻撃用機として設計・製作されたもので、P2V-7より小型化された航空機である。レーダー、磁気探知、電波逆探知、ソノブイ、探照灯のほか、ロケット弾を両翼に3発ずつ装備する等、対潜哨戒、攻撃のために必要な装備を殆ど装備していた。
通称トラッカーと呼ばれ、1957(昭和32)年から米海軍の供与(60機)を受け、1982(昭和57)年まで使用された。 -
P2V-7(おおわし)対潜哨戒機
米ロッキード社・川崎重工業製。重量36,288㎏。3,750馬力2基、ターボジェット1,542㎏2基。
米ロッキード社が開発した戦後の代表的な対潜哨戒機であり、レシプロエンジン2基とブースター用にジェットエンジン2基を搭載している。米軍から1955年から16機の供与を受け、日米政府間協定により、1958年から国産化、1965年までに48機の国産機が導入され、合計64機が1981年まで使用された。
通称ネプチューン。対潜機器として、レーダー、ソノブイ、磁気探知、電波逆探装置等の電子機器を搭載し、夜間に海上を照らす探照灯も右翼端に装備している。対潜魚雷、機雷、対潜爆弾、ロケット弾等も搭載できる。 -
お腹が出っ張っているのが気になるなあ。
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P-2J(対潜哨戒機)
川崎重工業製。重量33,100㎏。ターボプロップ3,060馬力2基、ターボジェット1,550馬力2基。
P2V-7の後継機の研究が1961年頃から海上自衛隊と川崎重工との間でなされた結果、P2V-7の改造型として、我が国独自のP-2Jが誕生した。
量産1号機が1969年に納入され、以後1983年の最終号機まで、合計83機生産された。P2V-7を改造したP-2J試作機1号機が、1966年7月に初飛行して以来、1994年の退役まで28年間、大きな事故等無く1機も失われなかった航空機である。 -
主な改造点は、メインエンジンをレシプロからターボプロップに、ブースター用ジェットエンジンを国内開発のJ3に換装、プロベラを4枚から3枚に変更、操縦席後部を1.3m延長、主脚の車輪を2本とした。
搭載機器も近代化し、レーダーも高性能小型化したものに換装し、機体下部のレーダードームもかなり小型化されている。 -
KM-2(練習機)
富士重工業製。重量1,510㎏。340馬力1基。
初等練習機として使用していたSNJ練習機の老朽化、訓練空域の高高度化、遠距離化などに伴った性能不足が明確になり、当時、単発軽飛行機として高い飛行性能を持っていたKM-2が採用された。
1962年に1号機が初飛行し、その後、鹿屋航空基地第201教育航空隊(現在、下関市小月航空基地に移転)に配属された。総生産機数62機、1996年まで使用された。 -
B-65クインエア(うみばと)練習機
米ビーチクラフト社、新明和工業製。重量3,493㎏。340馬力2基。
海上自衛隊が1962年からビーチSNB双発練習機の後継機として採用し、計器飛行訓練用に導入を開始したのがB-65クインエア。
後に海上自衛隊の乗員訓練体系が変わり、全機航空自衛隊に移管された。 -
岐阜県各務原市の「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」は屋外展示は大型の機体が何機か置かれていて、メインは屋内でしたが、ここは外の展示がメインで、史料館の中の機体は、復元された零戦があるだけです。
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T-34Aメンター(連絡機)
米ビーチクラフト社、富士重工業製。重量1,315㎏。225馬力1基。
1945年に原型機が初飛行したレシプロ単発軽飛行機である。
1953年自衛隊の前身である保安隊、警備隊に10機ずつ米軍から貸与され、海上自衛隊発足時には、1機が連絡機として配備された。
以後、1964年から1969年にかけて、航空自衛隊から11機移管され、訓練、連絡機として部隊で運用し、1980年まで使用された。 -
KV-107Ⅱ(しらさぎ)掃海機
米バートル社、川崎重工業製。重量9,707㎏。1,400馬力2基。
米バートル社(当時)が、タンデムロータ形態を取り入れて開発した着水可能な輸送用ヘリコプターである。陸海空3自衛隊で使用された。海上自衛隊では、1963年、3自衛隊の中で最初に2機が掃海用として導入され、合計9機が1988年まで使用された。
掃海具は、機体後部扉を開けて、海中に降ろし、低空飛行しながら曳航することにより、海中の機雷を除去する。陸上自衛隊では、物資・人員輸送用に使用され、航空自衛隊では、救難捜索用として使用された。 -
BELL-47(練習機)
川崎重工業製。重量1,273㎏。260馬力1基。
米ベル社で1945年に初飛行、世界で初めて実用化されたヘリコプターである。海上自衛隊の前身である海上警備隊発足当初の1952年にBELL-474機輸入。
以後、改良を加えた川崎重工製のBELL-47D-1を1機、G-2を2機、G-2Aを8機、計15機が練習機として導入され、1994年まで使用された。エンジンはレシプロエンジンである。うち1機は、砕氷船「ふじ」「しらせ」に搭載されていた。 -
HSS-2A(ちどり)対潜哨戒機
米シコルスキー社、三菱重工業製。重量9,128㎏。1,400馬力2基。
海上自衛隊初の対潜ヘリコプターHSS-1の後継機として導入された米シコルスキー社(当時)のHSS-2の性能向上(エンジン出力向上、レーダー装備)型であり、潜水艦の捜索と攻撃の両機能を持ち、28機導入された。
また、ソノブイ、磁気探知、電波逆探等の装備により、対潜能力を向上したHSS-2Bが84機導入された。2Aは1960年、2Bが1989年まで使用された。 -
駐車場から直に入ってしまったので、入り口付近に設置されているこの案内板を今頃見つけました。中央の建物が史料館で、その右側は一段低くなっています。また、下部の道路を隔てた向こう側にも巨大な機体が1機置かれています。
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US-1A(おおとり)救難飛行艇
新明和工業製。重量45,000㎏。3,400馬力4基。
戦時中に二式大型飛行艇を開発した川西航空機の後身、新明和工業が1960年代に開発した世界唯一の大型対潜飛行艇PS-1をベースに、外洋でも救難活動が可能な水陸両用機として開発された飛行艇である。
機内には海難救助のための投下用救難キット、救命いかだ、船外エンジン付ゴムボートなどを搭載し、機外には陸上の空港に離着陸できるように水陸両用の主脚を設けた。
救難ヘリコプターが対応できない洋上はるか遠方の船舶の救急患者、小笠原諸島の父島等の救急患者等の空輸などを実施した。
2017年まで使用され、現在では性能向上型であるUS-2救難飛行艇が使用されている。 -
この機体は近年まで活躍していたので、ニュースなどで見た事があると思います。胴体が大きくて、ボートの性格も併せ持った機体の特徴がよくわかります。
川西航空機は、紫電改を製作した会社です。紫電改は海中より引き上げられて、愛媛県宿毛市に近い愛南町にある「紫電改展示館」に置かれています(旅行記あり)。 -
戦闘機ではないのと、救難飛行艇なので見ていて安心感があります。
その大きさも好きです。 -
P-2J(対潜哨戒機) 2機目です。
この4783号機は生産最終号機であり、鹿屋航空基地に所在していた第7航空隊で除籍となったものを資料館に展示しています。 -
この基地所属だったからか、装備品がそのままあるようです。
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エンジンポッドの後部だけ新しいのか、素材が違うのか。
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お尻は随分シンプルです。
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魚雷が3種類置かれています。隣にはエンジンも3種類あります。
では、史料館に入って行きましょう。 -
入口の男性が、ここから縦に撮ると全部入りますよと案内してくれます。
おすすめ写真スポットなのでしょう。桜島のステンドグラスが力強いです。鹿屋はバラ園で有名なのでマットにはバラが描かれています。鹿屋航空基地史料館 美術館・博物館
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鹿屋航空基地見学ツアーがあるようです。年齢制限が厳しそうですね。
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この施設のパンフレットはありません。「税金で製作する訳にはいかない」のだそうです。料金を取ることを金儲けと考えずに、施設維持費を稼ぐのだと考えられないものでしょうかね。公金で箱ものを作って、後はほったらかしの方が余程、税金の無駄遣いです。
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2階の展示品の説明です。
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昭和16年12月8日真珠湾攻撃の模式図です。
午前6時15分(現地時間)発進と書かれています。攻撃隊は鹿屋基地から出発したのだそうです。「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文によって攻撃は開始されました。「トラ・トラ・トラ(我、奇襲に成功セリの意)」が返信されたのは、午前3時22分(日本時間)でした。 -
「鹿屋会談(日米開戦のための秘密会談)」
太平洋戦争の端緒がこんな九州の南端だったなんて。 -
「錦江湾での訓練(真珠湾攻撃の事前訓練)」
「・・・長く辛い訓練であったが、この辛さに耐えたのは飛行兵、整備兵だけでなく、低空飛行訓練時の騒音に耳を塞いで耐え続けた鹿児島・出水・鹿屋の市民たちであった。」
軍関係の資料には軍内部のことしか書かれないのが普通ですが、市民の辛抱について言及されているのが珍しいです。 -
鹿児島での真珠湾奇襲作戦訓練
攻撃隊のうち水平爆撃隊は各艦隊の戦闘機を集めて特訓を行い、驚異的命中率を達成した。
午前中は単機爆撃訓練、午後は編隊爆撃訓練と休む暇もなく続け、ついに1ヶ月の飛行時間が150時間に及んだ。また、急降下爆撃隊の訓練も猛烈を極め、通常の訓練弾は瞬く間に消費し、なんと30㎏演習爆弾と1㎏演習爆弾あわせて14,000の追加を要求した。これらの猛訓練により10月24日の訓練の時点において水平爆撃で17%急降下爆撃で55%という命中率を示すに至った。また、雷撃隊については真珠湾内で使用する浅海面魚雷の生産が間に合わず、地形的に真珠湾と似た場所のある鹿児島湾から鹿児島市にかけての海面で擬襲訓練に力を入れ、攻撃パターンの体得をした。この特殊な浅海面魚雷が舞台に配備されたのは10月30日であり、実際に訓練に入ったのは11月5日であったため、充分な反復訓練は出来なかった。 -
第22海軍工廠(鹿屋に実在した軍事工場)
鹿屋を舞台にした展示が現地ならではでおもしろいです。 -
配給切符。石鹸購入票、衣料切符。
これの実物を見たり使ったりした人は、もう90才以上。 -
特攻人形
鹿屋海軍航空基地から3月11日から6月27日までの間に908名の若者たちが沖縄方面へ向けて百死零生の旅へと飛び立ち、散華されました。
特攻隊員は、女学生たちが作ってくれた特攻人形を大切にしていました。 -
第5航空艦隊司令部壕
昭和20年2月10日軍令部は東シナ海方面に来寇する敵に組織的な特攻作戦で起死回生を図るため第5航空艦隊を編成し、鹿屋基地に司令部を置いた。 -
高等女学校学徒通信隊(鹿屋基地を支えた女子学生たち)
昭和19年9月1日学徒動員された女学生100名が鹿屋基地の門をくぐって行った。鹿屋・高山・志布志・末吉の各高等女学校の4年生16才の女学生たちだった。それまで授業はなく田植えや唐芋作りの奉仕作業に明け暮れていた。鹿屋基地では作戦電話や暗号電報の取り次ぎ、空襲情報の入手などを行った。 -
神雷部隊の宿舎となった野里国民学校
海軍鹿屋基地の地上施設は3月18日の空襲でその殆どが破壊されてしまった。神雷部隊の宿舎は飛行場西側の崖下にある明治時代に建てられた野里国民学校があてられた。そのため、周辺の約30戸の山下集落は高須川の向こう岸に強制移転が命ぜられた。 -
特攻隊員と市民の交流
自分たちの教室が特攻隊員の宿舎となった野里の子供たちの様子に心を痛めた予備学生たちは子供たちを集めて勉強を教えた。やがて周辺の人達との付き合いが始まった。そのうちに野里国民学校に慰問品が届くようになった。 -
二代目水戸黄門役で有名な西村晃さん
1943年学徒動員。特攻隊員として串良海軍基地より3度出撃したが、
エンジントラブル、天候不良等により引き返し終戦を迎える。 -
戦争史料に興味のある人には価値のある展示がたくさんあります。
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2階の展示室の「海軍航空の発展」コーナーには「零式艦上戦闘機」が復元されています。
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「ここに展示している戦闘機は、平成4年に錦江湾及び吹上浜から揚収された海軍の零式艦上戦闘機の残骸を基に、三菱重工業(株)名古屋航空宇宙システム製作所(MHI名航所)の技術支援を得て、鹿屋航空工作所を中核とする鹿屋基地所属隊員が復元した零戦52型である。」
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零戦の操縦席を覗き込むことが出来ます。
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航空時計やコンパス。
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左上の「航空機用極小カメラ」は、軍部の写真偵察への関心が薄かったためにカメラの進歩が遅れていたことを示しています。小西六製。
その下は送受信機で、二座機用電信電話丙用の無線機です。沖電気製。 -
恩賜の時計・煙草。数々の勲章・紀章。こうした物をありがたくいただいて、特攻して行ったんでしょうね。
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この先の「海軍航空兵力の興亡」というコーナーには、特攻隊員たちの記録が展示されています。主に写真は撮影禁止になっています。
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1階に降りると戦後の展示になります。「海自航空部隊の発展」コーナー。
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電算機の塊ですが、現在ではきっと多くがディスプレイになっているのでしょうね。
車の中もボタン装置が随分無くなりましたが、緊急時にはこちらの方が正確に扱えると思います。ボタンの形状や押した感覚は、タッチパネルでは捉えられない実感を感じられるものです。 -
P-2J(哨戒機)の機種部分が置かれています。何か作業をしていたので、入れませんでした。
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S-61(救難機)実物の中に入れます。
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この無数の計器が何を差しているのか分からないと、運転免許は取れないんだろうなあ・・・
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戦闘機の先端にも乗れます。正に最先端。怖かっただろうな。
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建物から出て、道を挟んだ向こう側の敷地に向かいます。
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ここには世界で唯一残されている二式大型飛行艇が展示されています。
「二式大艇は、昭和15(1940)年初飛行、当時世界一高性能を誇った大型飛行艇です。
昭和17(1942)年正式採用され、偵察・哨戒・輸送など長大な航続距離を活かした任務で活躍し、終戦までに合計167機が製造されました。
この機は、第5航空艦隊(司令部:鹿屋)れい下部隊の詫間海軍航空隊所属(香川県三豊市)の31号機であります。」 -
館内にあった、二式大型飛行艇の見取り図です。
内部は非公開とのことですが、これを見たら素人でも見たくなりますね。
1979~2004年は、東京の「船の科学館」で展示されていたそうです。
その時も中は見られなかったのかな?南極観測船は見た覚えがあるけれど・・・ -
大艇という呼称が相応しい堂々たる体躯です。
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尾翼の下にも銃座があります。
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終戦後、米軍に接収されてアメリカ本土で調査されましたが、昭和54(1979)年に日本に返還されました。
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大きな日の丸は、格好の的になりそうで現実的ではない気がします。
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艦首下部には、波押さえ装置(通称かつおぶし)があります。形がそう見えるのでしょう。
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最後の最後に敷地の正面に来ました。
史料館の中には、売店の類はありません。この史料館の資料は何も無いのですが、「戦跡を旅するKANOYA」及び「ふらっとかのや」というミニコミ誌に他の戦跡と共に掲載されています。 -
鹿屋から東に進むと大隅半島の反対側、肝付町に入ります。
大阪からのフェリーが着く志布志湾の南に突き出た場所に内之浦湾があり、JAXAのロケット打ち上げ場があります。その打ち上げを見学する場所がここです。前方の緑の斜面を上がると階段状の見学場所が現れます。そしてこちら側を見るのです。 -
斜面を上って振り返ると、この景色が見えます。
右から、ロケット発射装置・新型ランチャー・衛星追跡センターのパラボラアンテナです。 -
国道448を少し北上すると、JAXA宇宙航空研究開発機構の内之浦宇宙空間観測所があります。先ずは門衛所受付で受付を済ませ、説明を受けます。番号札をもらったら車のダッシュボードの上に置いておきます。
門衛所を通り過ぎるとKSセンター台地にある観測ロケットのランチャーやパラボラアンテナに行かれますが、ちょうど受付前の駐車場が開いていたので、車を置いて宇宙科学資料館に行きます。 -
入館する時は、橋を渡って建物の最上階に入ります。
内部は筒型の展示室を下りながら見学し、最後に一番下に着くと外に出て坂を上がって駐車場に戻るようになっています。
建物内にはエレベーターはないので、階段と坂道を5階分上下する覚悟が必須です。宇宙科学資料館 美術館・博物館
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宇宙科学資料館。歴代のロケットの展示が見られます。
宇宙科学資料館 美術館・博物館
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内之浦宇宙空間観測所のジオラマです。
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国産ロケットH-ⅡA・Bの発射の写真が並んでいますが、発射したのは種子島宇宙センターです。種子島までは簡単には行かれないので、地続きで訪れることの出来る内之浦にやって来ました。
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資料館の建物は八角柱で、中心が吹き抜けになっており、その外周を展示を見ながら歩いて降りて行きます。
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ロケットの中の衛星の様子が見られます。
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発射台にロケットが装填される様子を動くジオラマで再現しています。
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HAYABUSAの模型。
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太陽観測衛星ひので
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資料館の中心はロケット。発射台の雰囲気です。
M‐3S‐1の1/3の模型。昭和55年2月17日に打ち上げられました。
搭載している人工衛星は「たんせい4号」です。 -
人工衛星をどの様に利用しているかパネルで紹介しています。
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昭和38(1963)年にコントロールセンターに設置された科学観測ロケット発射司令管制装置。
初代ウルトラマンの世界ですね。 -
ようやく実際に内之浦のKSセンターから打ち上げた時のパネルがありました。観測用S-520型ロケット18号機。1997(平成9)年1月30日。
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車に乗って資料館脇の橋を渡り、Μ(ミュー)センターに来ました。
イプシロンロケットの打ち上げ場です。 -
M-V型ロケットの実物大模型が置かれています。その後ろは、手前が衛星整備室、向こうがロケット組立室です。後ろの山の上にパラボラアンテナとKSセンターが見えます。そちらに行くには一旦門衛所まで戻り、ゲートを開けてもらって入場します。
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人工衛星おおすみ打ち上げ記念碑と糸川英夫博士の像のあるところで道が分かれます。
手前を右に行くとKSセンター、上の道を行くと衛星追跡センターのパラボラアンテナに行かれます。 -
KSセンターの新型ランチャーです。ここからロケットが発射されるなんて、想像もしないです。
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ちょっと背の高い体育館くらいにしか見えないなあ。小型のロケットはこの程度の施設でいいんですね。
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M-3S-3の模型。S-1はさっき資料館で見て来ました。
直径34mと20mのパラボラアンテナが見えています。 -
糸川博士の前に戻り、更に坂道を上って行きます。
34mパラボラアンテナに着きました。 -
更に橋を渡って衛星(ほし)ヶ丘展望台へ。20mパラボラアンテナに到着。
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すぐ下に34mパラボラアンテナや電子計算室のKS発射管制室などが良く見えます。更に下にイプシロンロケットの発射台が見えます。
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ロケット発射時の最高の見学場所ですね。
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最近、失敗続きの日本のロケット打ち上げ。明るい未来が見えない業界は見ていても辛いです。
次回は鹿児島県内のSLを訪ねます。
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