2023/03/23 - 2023/03/26
141位(同エリア2647件中)
Noraさん
この旅行記のスケジュール
2023/03/23
この旅行記スケジュールを元に
3/18~4/3にかけてまだ寒いシカゴを抜け出し、大西洋を越えてポルトガル~スペインに行って来ました。スペインの表玄関は何といってもマドリード。ただしUAのアワードマイルを使ってシカゴからマドリード間を単純往復というのも芸がないので、エクスカーショニスト・パークの特典を活用してワンストップ=イスタンブール経由でマドリードに行きます。マドリードからはイベリア航空でリスボン。何故にイスタンブール?12年前にイスタンブールに行った時、どう頑張っても時間がなくて諦めたエフェスの遺跡(割と古いものに惹かれるタチで)それと旅行者を疲労困憊させる新スタンブール空港も見ておいていいかな。。と、割と単純な理由です。
蛇足ですが今度の旅で空路、陸路合わせると14000マイルくらいで、今までで一番の長旅、しかも一人旅と。。。家人はアンダルシアの高原で行き倒れになった時のこと等余計な心配をしてくれるのですが、深く考えずに出発することにしました。
7日目はいよいよリスボン市内のベレン地区を歩きますが今夜、ホテルを移動するのでちょっと慌ただしい1日になりそうです。これは7日目その2でジェロニモス修道院の巻です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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インペリオ広場庭園(Jardim da Praça do Império)は、「ポルトガル万国博覧会」(1940年、第二次世界大戦中に設計されたがポルトガルは中立を守っていたため戦乱に巻き込まれることはなかった。)のためにつくられたもの。中心にある噴水の周囲を32の紋章が囲むようなデザインになっており、ポルトガルの各州を象徴する低木や草花が配置されている。この後ろに見えるのがジェロニモス修道院。
インペリオ広場 広場・公園
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ジェロニモス修道院前には相変わらずの長い行列 (南門の向かって左手が入口)。ジェロニモス修道院は正式名称を「ベツレヘム(ポルトガル語ではベレン)の聖母マリア王立修道院(The Royal Monastery of Saint Mary of Belem)という。
ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓および、エンリケ航海王子の偉業を称え、1502年にマヌエル1世によって着工され、1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後、マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合による中断等もあり、最終的な完成には300年ほどかかっている-wikiジェロニモス修道院 寺院・教会
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南門。
この壮麗な門は、上部にキリスト騎士団の十字架、門の中央にはエンリケ航海王子の像が立っている(下の画像)。ベツレヘムの聖母の像を囲むようにジョアン・デ・カスティーリョの作といわれる24体の聖人や高位聖職者の像、紋章などの彫刻でぎっしり覆われている。また、ティンパヌムには、修道院の名前にもなった聖ヒエロニムス(ポルトガル語でジェロニモス)の生涯が描かれている。(※聖ジェロニモスはこの修道院の守護聖人。)この南門は、マヌエル様式の最高傑作の一つといわれる。-世界遺産オンラインガイドより。
ちなみに1582年に長崎を出発した天正遣欧少年使節は、2年後の1584年8月11日、苦難のすえに最終寄港地であるポルトガルのリスボンに上陸している。リスボン港に着いて初めて目にした大きな西洋の建物がこのジェロニモス修道院であったろうと思われる。その後使節団は陸路でマドリードやローマを訪れ1586年に再びリスボンを訪問、最終的に日本には1590年に帰着した。
偶然見つけたアマゾンのプライムビデオー>MAGI天正遣欧少年使節
https://www.magi-boys.com/introduction.html
まったく知らない俳優さんばかりだったが、時代考証がよくできてたように思う。 -
南門上部の拡大。一番トップにはキリスト騎士団の十字架。門の中央にはエンリケ航海王子の像が立っている
*なぜキリスト騎士団の十字架?=マヌエル1世は即位した年にキリスト騎士団長となり、主に海外にある騎士団領を王領に併合し、王室財産を拡大したと言われる。そしてその一部がヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見のための費用となった. -
L字型に曲がった行列のほんの先端部分。
数年前のBlogで’リスボアカードも入場券に引き換えないといけない’。とあったが今はそんなことはない。リスボアカードでそのまま入場できるが列に並ばないといけない。それと何もチケットを持ってない場合は、まずこの西側にある別の入り口(多分、考古学博物館)に並んで当日券を購入する。それからこの入り口のリスボアカードとは別の列にならんで入場しないといけないようだ。とてもややこしいのである!(2023年3月26日時点) -
30分後くらいにようやく入場。入口を入ると係員がいて、各自、どこから来たか(国名)を書かされた。プライバシーに関する質問ではない。多分単なるデータ分析に使うのだろう。入って大理石の階段を上ってすぐの図書館出口の天井には圧倒されるように美しい王立修道院の紋章が描かれている。
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中央の紋章。左半分は聖ジェロニムス、右半分はポルトガルの紋章。
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階段踊り場に掲げてある聖ジェロニモスのテンペラ画(St. Jerome in His Cell)。C1640~1645。ホセ.デ.アヴェラー.レベロ(Jose de Avelar Rebelo)作。
この絵は2つの部分に分かれている。
パネル上部の横構図部分:上部の天使と足元のライオンに囲まれ聖ジェロニモスが眠るシーン。
パネル下部は縦構図で立ち姿の聖ジェロニモスが左手にもったキリストの十字架を見つめるシーン。足元には司教のシンボルである赤い帽子とこの聖人の知恵と思慮深さの象徴である髑髏がおかれている。
*西洋の宗教画や神話画では異なる画家でもどの人物が描かれているか分かるよう、描く人物に共通した持ち物を持たせる。それを図像学では属性(アトリビュート)と呼んでいる。
聖ヒエロニムスのアトリビュートは帽子、聖書、ライオン、髑髏である。 -
中庭に面した回廊部分。一つ一つデザインが異なる列柱。
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知恵と知識の象徴とされるアーミラリ天球儀が彫刻された列柱の一つ。マヌエル1世の治世下には国家のシンボルとして用いられ、また現在のポルトガルの国旗にもアーミラリ天球儀が描かれている。
*アーミラリ天球儀はギリシャで発達し、3世紀には既に教育用の道具として使われていた。さらに重要な用途として、観測の補助としても使われてもいたのである。 -
2階部分。繰り返すアーチにロープその他の装飾が加わり、石材とは思えないようなデリケートな線を出している。ベレンの塔と同じリオズライムストーンという石灰岩が使われているはずだがこちらの方がクリーミィ―な色をしている。
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こうしてみると一階と2階ではアーチ部分のみでなく付随する装飾が異なっているのがわかる。
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中庭と回廊部分。
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回廊部分のボールトリブ(肋材)構造。
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修道士が瞑想する場として使われていた回廊部分。マニュエル様式はゴシック、ムデハル、ルネッサンス等の様々な様式に加え大航海時代にポルトガルが発見した自然物や航海に関連した用具等を装飾的に、やや過剰ともいえる程に配したスタイル。この天井部分はゴシック様式だがボールトが交差する中心部の装飾(ボタンのように見える)は各々異なっており中には大航海時代に莫大な利益をもたらした、胡椒の花の装飾もある。
右手のサインボードのある入口を入るとサンタマリア教会の2階部分になる。 -
サンタマリア教会の2階部分バルコニー、聖歌隊席。ジェロニモス修道院の付属施設であるこの教会の正式名称はIgreja Santa Maria de Belém (サンタマリア・デ・ベレン教会)
ここは修道士がミサのための詠唱を唱えたり讃美歌を歌う席である。オークとクルミの木を使いイタリアンルネッサンスとフレミッシュ様式がミックスされた仕様になっている。 -
ここからは教会の1階部分を見下ろすことが出来るだけでなく、天井の構造やこの磔刑のキリスト像もかなり近くで見ることが出来る。
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2階のギャラリー部分から天井を。
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椰子の木を模したものと言われる天井。
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教会のバルコニー(ギャラリー?)をでて1階へ下りる階段を進む。
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階段途中の左手の窓から。皆が覗いて通るので特別なものが見えるのかと思ったら、単なる中庭の一部だった。
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そして共同食事室(Refectory)。 1517~1518年に造られた部屋で、入って右手の壁(北側)に新約聖書マタイによる福音書14章13節~22節に由来する’パンと魚の奇跡’のアズレージョがある。
ー弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。ー
通常、修道士たちは沈黙のうちに食事をし(必要な場合は手でシグナルを送る)食事中は修道士たちの一人が聖典または聖人たちの著作を朗読した。 -
東西の壁にはヨセフの物語(旧約聖書)10景(その中の1景はドアの部分で見えない)が18世紀の色鮮やかなアズレージョで描かれている。
ヨセフはイスラエル人を大飢饉から救った人物で、父ヤコブと母ラケルとの間に(多妻のため、10人の異母兄弟のあと)11男として生まれた。ヤコブはヨセフが年をとってから最愛のラケルとの間に生まれた子であるため、彼を溺愛した。そのため他の異母兄たちはヨセフを憎むようになる。ある日ヨセフは自分が長になり兄弟たちの上に立つ夢を見たと語ったので(少し軽率)、兄弟たちの怒りと妬みを買い、穴に落とされ、やがて彼らによってミデヤン人の隊商に売られてしまう。その後、兄弟たちはヨセフの服に羊の血を付け、父ヤコブにはヨセフは獣に襲われて死んだと偽った。(途中略)
*ミデヤン人:古代パレスチナのセム系民族の一つ。ユダヤ人に吸収され消滅した。 -
これはヨセフが兄弟たちによって通りかかった隊商に売られてしまうところを描いたものかもしれない。兄弟たちが、このあと両親にどう話をすればいいか相談し合っているように見えるのだが。。。
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この後、エジプトに売られたヨセフは苦難にあいながらも持ち前の才気で逆境を乗り越えていく。ファラオの見た夢の解き明かしにより能力を認められ国の要職(宰相)にまで上り詰める。これはその夢の解き明かしの場面であろうか?
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時がたち、カナンを襲った大飢饉のため、エジプトに穀物を買いに来た異母兄弟に自らのことを明かしたヨセフ。兄弟たちは驚くも、その後ヨセフと抱き合い、和解を果たした場面と思われる。後ろにピラミッドがみえる。
この物語が教えるところは逆境における忍耐と神への完全なる信頼と言われる。 -
共同食事室のパースペクティブ。回廊部分の天井ボールトと似てはいるが違った意匠になっている。
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暖炉の上のミューラルはアントニオ.カンペロによる’羊飼いの礼拝’(Adoration of the Shepherds by António Campello) 。
Google Arts & Cultureで仮想鑑賞できる。
https://artsandculture.google.com/asset/adoration-of-the-shepherds-ant%C3%B3nio-campelo/pgGvrpczqPeIRQ -
ライオンには見えないライオンが睨みを利かす(?)ライオンの泉。
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サンタマリア教会の一階部分に行くには、いったんジェロニモス修道院をでて、すぐ左にある教会の正面入り口(方角でいうと西側になる)から入場する。拍子抜けするほど空いていて全然並ぶ必要はなかった。入場は無料。
(補足)キリスト教会堂建築:地理的な制約がない限り、基本的には東向き(アプスが東側に位置し、扉口が西側になる)に建築される。西側に作られた扉から人は教会内で東方向に歩んでいく。方向を決めるという「オリエンテーション(東に向くこと)」という言葉はここに由来している) -
教会の入り口の彫刻。ティンパヌム部分にあるのは左から受胎告知、生誕、東方からの三賢人(マギ)のレリーフ。
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入口すぐの右手に詩人であり軍人でもあったルイス・デ・カモンイス(Luís de Camões,1524~ 1580年)の石棺。竪琴と羽ペンが彼のエンブレム。
軍務終了後にはマカオの士官として勤務し、同地で彼の代表作になる叙事詩『ウズ・ルジアダス』(Os Lusíadas)を執筆した。この中でヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓を称賛し、大航海時代に繁栄をもたらしポルトガルの黄金時代を作った航海者達を格調高くうたった。 -
主祭壇部分と天井部分。
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主祭壇部分の拡大図。
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主祭壇部分の半ドームと正面のパネル。イエスキリストの生涯を描いた5点の画(宮廷画家ローレンソの筆による)が聖櫃を囲むように配置されている。
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祭壇両サイドに棺が見えるようにここは王家の霊廟であり向かって左はマヌエル1世と王妃マリア、右はその王子であるジャン3世と王妃カタリナの棺が安置されている。
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こちらのサイドチャペルも王家の人々の霊廟。こちらはジャン3世の王子達と孫にあたるセバスチャン1世が眠る。しかしセバスチャン1世の石棺には遺体がない。というのモロッコの戦闘中に落命し、決して遺体が発見されなかったからだとか。右側の霊廟はセバスチャン1世の父君、ジャン.マヌエル王の石棺が納められている。
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1階から先ほど通って来た2Fバルコニー(聖歌隊席)部分を見上げる。サンタ・マリア教会は身廊の両側に側廊がある三廊式建築様式である。繊細な彫刻の柱を通して視点が常に上に向かって移動するように設計されているのがわかる。
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ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1460頃 ―1524)の石棺。奥に見えるのは懺悔室。
1524年のクリスマスイブの日、ヴァスコ・ダ・ガマはマラリアのため任地のインドのコチンで他界した。現地の聖フランシスコ教会で葬儀のあと同教会に埋葬されたが、1539年に遺体はポルトガルに移され自分の領地であるヴィディゲイラ(Vidigueira)に埋葬された。そして1880年、ルイス・デ・カモンイス(Luís de Camões)と共にここ王室霊廟であるジェロニモス修道院内のサンタマリア教会に移され永眠。 -
ヴァスコ・ダ・ガマの石棺正面。エンブレムはキャラック船、両サイドにキリスト騎士団の十字架とアーミラリ天球儀がみえる。
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ヴァスコ・ダ・ガマの父、エステバン・ダ・ガマはサンティアゴ騎士団の騎士であり、ヴァスコ自身も父の後を継いで同団所属の騎士となっていた。一説によれば、本来エステバン・ダ・ガマがインド洋航海に赴くはずであったが病死したため、ヴァスコ・ダ・ガマが引き継いだとも。。
1497年7月7日つまりインド洋への出発前夜、共に船出する乗組員と共にエルミダ・ド・レステロ(Ermida do Restelo, キリスト修道士会の隠遁所)で祈りを捧げ翌朝テージョ川から船出したといわれる。 -
ヴァスコ・ダ・ガマの1497年の航海日誌(記録者:乗組員として同行したÁlvaro Velhoアルバロベルホが記録したと言われている)。
The Journal of the first voyage of Vasco da Gama to India from 1497 to 1499
https://www.loc.gov/item/2021667835/
UNESCO Memory of the World Register in 2013
尚、この航海日誌の英訳版はグーグルブックスにて閲覧できる。URLは
https://www.google.com/books/edition/A_Journal_of_the_First_Voyage_of_Vasco_D/13stAAAAMAAJ?hl=en&gbpv=1
(最初の40頁ほどは白紙やイントロダクションです!)
また、ヴァスコ・ダ・ガマと大航海時代に関する下記の貴重な歴史的遺物、2点を補足したい。 -
ヴァスコ.ダ.ガマの第2回航海(1502~1503年)で使用された船団の一隻「エスメラルダ号」から発見された航海用アストロラーベ(裏面)。
File:https://en.m.wikipedia.org/wiki/File:Sodre_Astrolabe_1503.jpg
https://en.m.wikipedia.org/wiki/File:Sodre_Astrolabe_1503.jpg より。 It is in the public domain since his work was published before January 1, 1898.
このアストロラーベはインド洋で猛嵐に遭い1503年5月に沈没したまま500年以上海底に眠っていた同船の中にあったもの。トップにポルトガル王室の紋章と下にアーミラリ天球儀が彫られている。アブラハム・ザクート(Abraham Zacuto)がヴァスコ.ダ.ガマのために作ったものと言われる。
*スペインよりレコンキスタが早く終わったポルトガルは、国家事業として海外進出に早くから取り組んでいた。ジョアン2世の時代、1488年にバルトロメウ・ディアスがアフリカ沿岸を南に航海し、最南端の喜望峰まではたどり着いていた。問題はその先であった。インドまで行く航路開拓に関して、ジョアン2世は、スペインから追放されてポルトガルに来たユダヤ人の優れた天文学者アブラハム・ザクート(Abraham Zacuto)に相談した。それで作られたのが、海上での緯度測定に特化した「アストロラーベ」つまり航海用アストロラーベであった。アストロラーベとは天体観測用の丸い板状の機器で、古代ギリシャにおいて発明され(初期のころは木製)中世の頃イスラム世界では航海用にすでに用いられていた。ヨーロッパにおける最初の金属製アストロラーベは、このアブラハム・ベン.S.ザクートが作ったものであった。金属製は木製に比べてより正確なことは言うまでもない。この新アストロラーベを持って、1497年、ヴァスコ・ダ・ガマはインドへの初航海へ出航した。その後もポルトガルの船舶では、ブラジルやインドなど遠洋を航行する時にはこの新アストロラーベが使用された。
因みにヴァスコ・ダ・ガマやC・コロンブスに地理学、天文学の指導訓練をしたのもこのアブラハム.ベン.S. ザクートであり、彼は当時ヨーロッパ随一の天文学者、地理学者といわれていた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Abraham_Zacuto
沈没船から発見されたヴァスコ・ダ・ガマ船団のアストロラ―ベ
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/102600415/ -
大航海時代の貴重な産物、カンティーノ図。wikimedia commons Public Domain under Attribution-ShareAlike 4.0 International (CC BY-SA 4.0).
1502年にポルトガルで作成されたといわれる地図、正式名称は「インディアスの諸地方で近年発見された島々への航海のための海図」という。しかし、その原図は現在消失しており、北イタリアのモデナ市の図書館に所蔵されているこの複写版(通称カンティーノ図と呼ばれる)のみが残っている。カンティーノというスパイに盗写されてポルトガルからイタリアに売られたものである。
この「カンティーノ図」はバルトロメウ・ディアスが発見した喜望峰とその地形、および1498年のバスコダガマのインド航路発見によって彼らが把握した新しい「世界」をほぼ正確に示している。南北アメリカ大陸はまだ茫洋としている段階であるが。。。参考:http://www.book-navi.com/book/syoseki/sekai_2.html
この地図がこれまでのものと一線を画しているのは測量や天測による経緯度の測定などによって作図されたものであること。その意味では最初の科学的、かつ実用的世界地図と言える。。この後18世期になると現代の我々が使っている地図にほぼ近いものが作られるようになる。 -
黄金でカバーされた’十字架の道行き男子修道院’のサイドチャペル。Senhor dos Passos(The Procession of the Lord’s Steps =十字架の道行き)キリストの磔刑像が置かれている。
*Chapel of Our Lord of the Stepsと英訳しているブログもある。
さあ、今日の探訪はこれくらいにしよう。 -
そろそろ日が陰ってきた。ラッシュアワーの時間帯かもしれない。見どころいっぱいの立ち去りがたいベレン地区だが。。。ホテルに帰って、パッキングしてあるケースをピックアップして次のホテルに移動するとしよう。
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今夜のホテルに移動中!!タクシーの窓から水道橋の端っこが見えた。走っている車から慌ただしく撮ったので、あまりよくないのだが単に記録として。。
一瞬ローマ時代の遺構かと錯覚しそうだが、これはアグアス・リブレス水道橋(Aqueduto das Águas Livres)。18世紀に建てられたもので、1755年のリスボン大震災にも耐え、1968年まで使われていたようだ。シントラ近郊に水源をとっていたようで、テージョ川があるのにわざわざシントラから水?と思ったのだが、当時のテージョ川は汚染が激しく、また海に近いため塩分が含まれていて飲用に適さなかったのがその理由らしい。昔はこの水道橋を歩いて渡ることもできたらしいが、ディオゴ・アルヴェスによる連続殺人事件のあと、通行禁止になってしまったらしい。閲覧注意だが、興味があればディオゴ・アルヴェスで検索してみて下さい。 -
Hotel Mercure Lisboaに到着。ここは次の日の夜行バスが出るセッテリオスバスターミナルに非常に近いのでBooking.comで予約したホテル。
ホテル メルキュール リスボア ホテル
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ビジネスホテル風でラグジュアリ―ではないが立地抜群。
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機能性のみのバスルーム。
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ふと目に留まったDo not disturbのドアノブサイン。’雲のなかでおやすみ中’なんて表現、気が利いてるではないか!
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Wifiがつながらなくてフロントのスタッフに電話で話すと、ラップトップをもって下に降りてくればヘルプできるという。昼間のシフトのスタッフが帰宅したのでフロント業務を一人でさばかないといけないからのようだ。ここはパスワードの設定アプリを外注業者に任せているようで何度かオン&オフを繰り返さないといけない。ちょっと込み入っているのだ。何度かトライしてやっとつながる。彼女はとても忍耐強くサポートしてくれた。感謝!
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そうこうするうちに、ディナータイムだという事に気付く。8時過ぎで外に食事に出るのも億劫なのでホテルの中で済ますことにする。メニューの品数は多くないがリスボンに来てバカリャウ(タラ)をまだ食していなかったので、ほうれん草とポテト付きバカリャウ、それとグリーンサラダをオーダー。
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グリン―サラダ。スプリングミックスサラダを袋からそのまンま出したような感じ! -_*
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これが出てきたバカリャウ。??? なんだかトボけた味だった。バカリャウに罪はないのだけれど調理の仕方に問題ありなのだ。それにほうれん草がもとは緑だったのだろうなと辛うじてわかるくらい暗く変色していて!!。半分くらい残してしまった。レモネードで喉を潤しシャワーを浴びて早く寝よう。明日は元気をだしてリスボン旧市内を探検しなければならないのだから。
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この旅行記へのコメント (4)
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- jijidarumaさん 2023/12/21 18:47:21
- タラ料理!
- Noraさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
ポルトガル旅行も素晴らしい詳細なもので、もし次回旅するならば、
サンプルとして、この情報を利用したいものです。
かつて、ポルトガルも一度行きました。
その旅の事は散発的なものとして、手元にちょっとした手記が残ります。
ドイツの旅ほどではありませんが、私共には記憶に残る旅になりました。
≪リスボン旅行;1982.12.28.~1983.01.03.)1週間≫
ポルトガルは初めてである。
この旅ではリスボンとその近郊に出かけた。タクシー、電車、市電、
地下鉄と交通機関はみな安くて、まずまずの効率的であった印象がある。
「ポルトは働き、リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ブラガは祈る」と云う。
楽しむリスボンではジェロニモス修道院も見事なものでした。
修道院前のインペリオ公園の傍、ちょっとした木陰の下に、小さな小屋の様な
(掘立小屋と言ったら失礼なのだが)グリルレストランがありました。
恐る恐る入って食べた「鱈の料理」が美味しかったことを思い出します。
昼食;
レストランに恐る恐る入った。言葉は通じないが気の良いご夫婦で異邦人に
対して、にこやかに料理を薦め、熱心に説明してくれた。
【鱈(タラ)のグリル、ピラフ、ジャガイモの揚げ物、牛肉の煮込み料理と、
何とか注文した料理、見かけ以上にレストランの料理は美味しかったのです。
Esd 1040=2900円】
・・・・・・・・・・・・・・・・・
それではまた。
jijidaruma
- Noraさん からの返信 2023/12/22 13:52:18
- Re: タラ料理!
- Jijidaruma様,今晩は。こちらこそいつもありがとうございます。励ましのお言葉を頂戴し感謝しております。
セピア色の思い出シリーズ中の ‘ポルトガル・ロカ岬の帰途、レストランRefugio da Rocaリフュージオ ロカで美味しい料理にであった‘を拝読しましたよ。ご家族皆さんでポルトガル料理を堪能されたり、景勝地を巡って楽しいひと時を過ごされたことが画像と文面からよく伝わってきました。
さてジェロニモス修道院に関連して仰っておられるベレン地区。インペリオ公園傍にあったという小さい小屋風のレストランについて触れておられる旅行記はまだ探し出せていません。ひょっとするとこれは旅行記として文字化されている類のものではなく、Jijidaruma様の記憶の中にとどまっている段階なのでしょうか?引き続き、御旅行記シリーズを継続的に探索させて頂きますが。。。
なるほど、「ポルトは働き、リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ブラガは祈る」ですか。それぞれの町の特徴をよく表した言葉ですねえ。今回の当方の旅行記ではリスボンとロカ岬のあたりを辛うじて掠めたくらいで終わっているのですが、次回チャンスがあれば、ポルトガルをもう少し深く知る旅などできればと思っている次第です。何といっても島国、日本にとって西欧文明とのファーストコンタクトはポルトガルによってもたらされたのですから。。Jijidaruma様の旅行記はどれを拝読しても目から鱗が落ちるような示唆に富んでおり、’あ、そうですか。なるほど‘と思いながら文字と画像を追って行っております。これからも楽しく中身の濃い旅行記をアップしてくださいませ。
まずはお礼まで。 Nora
- jijidarumaさん からの返信 2023/12/22 18:52:40
- Re: タラ料理!
- Noraさん、
今晩は。
ご返信ありがとうございました。
タラ料理につい反応してしまいました。
さて、<小さい小屋風のレストランについて>触れている
旅行記は、4Traでは掲載しておりません。スミマセン。
書くのは好きなので、かつての旅は一応、国ごとに
書き連ねておりますが、写真を入れて旅行記に仕上げる
ところまで進んでいません。どうしてもドイツ中心で、
生涯一度のイギリスなども口コミだけ、本編に進んでいません。
スペインもポルトガルもそうで、勿論アルバムはありますので、
ページごとにスキャンするか、写真で撮れば、格好は
付くのでしょうけど、そこまでの時間が無いのです。
皆さんの旅行記で楽しみ、時にコメントのように、自分たちの
旅のエピソードを書き込ませて頂くのが、現状です。
何やらできていない理由を述べています事、ご容赦ください。
旅行記は写真だけでは物足りず、詳細な説明や感想があると、
じっくり読みたくなります。
また立ち寄らせて頂きます。
それではまた。
jijidaruma
- Noraさん からの返信 2023/12/23 10:09:34
- Re: タラ料理!
- jijidaruma様:ご丁寧にフォロー頂きありがとうございました。了解いたしました。仰っておられるのはフィルムカメラの時代のご旅行写真ですね。当方もスライドや普通のフィルムで撮った写真が数万点ありますがjijidarumaと同様、スキャンしデジタル化する時間がありません。いつか、いつかと思いながら延び延びになっています。なので状況はよくわかるつもりです。ゆっくりいきましょう!それでは、また。 Nora
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