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3/18~4/3にかけてまだ寒いシカゴを抜け出し、大西洋を越えてポルトガル~スペインに行って来ました。スペインの表玄関は何といってもマドリード。ただしUAのアワードマイルを使ってシカゴからマドリード間を単純往復というのも芸がないので、エクスカーショニスト・パークの特典を活用してワンストップ=イスタンブール経由でマドリードに行きます。マドリードからはイベリア航空でリスボン。何故にイスタンブール?12年前にイスタンブールに行った時、どう頑張っても時間がなくて諦めたエフェスの遺跡(割と古いものに惹かれるタチで)それと旅行者を疲労困憊させる新スタンブール空港も見ておいていいかな。。と、割と単純な理由です。<br />蛇足ですが今度の旅で空路、陸路合わせると14000マイルくらいで、今までで一番の長旅、しかも一人旅と。。。家人はアンダルシアの高原で行き倒れになった時のこと等余計な心配をしてくれるのですが、深く考えずに出発することにしました。<br />7日目はいよいよリスボン市内のベレン地区を歩きますが今夜、ホテルを移動するのでちょっと慌ただしい1日になりそうです。これは7日目その1でベレンの塔、発見のモニュメントの巻です。

大西洋横断、イスタンブール~イベリア半島横断⑦3/25,7日目その1、ベレンの塔、発見のモニュメント

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2023/03/23 - 2023/03/26

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Nora

Noraさん

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2023/03/23

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3/18~4/3にかけてまだ寒いシカゴを抜け出し、大西洋を越えてポルトガル~スペインに行って来ました。スペインの表玄関は何といってもマドリード。ただしUAのアワードマイルを使ってシカゴからマドリード間を単純往復というのも芸がないので、エクスカーショニスト・パークの特典を活用してワンストップ=イスタンブール経由でマドリードに行きます。マドリードからはイベリア航空でリスボン。何故にイスタンブール?12年前にイスタンブールに行った時、どう頑張っても時間がなくて諦めたエフェスの遺跡(割と古いものに惹かれるタチで)それと旅行者を疲労困憊させる新スタンブール空港も見ておいていいかな。。と、割と単純な理由です。
蛇足ですが今度の旅で空路、陸路合わせると14000マイルくらいで、今までで一番の長旅、しかも一人旅と。。。家人はアンダルシアの高原で行き倒れになった時のこと等余計な心配をしてくれるのですが、深く考えずに出発することにしました。
7日目はいよいよリスボン市内のベレン地区を歩きますが今夜、ホテルを移動するのでちょっと慌ただしい1日になりそうです。これは7日目その1でベレンの塔、発見のモニュメントの巻です。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
ショッピング
5.0
交通
4.5
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 朝イチでロケーションの確認。ホテルから歩いて5分位でジェロニモス修道院前に到着。(前日15番のトラムがここにストップするのを確認しておいた。)グーグルマップ曰く、ここからそのトラムにのり2駅目のLg. Princesaで下車、そこから徒歩でベレンの塔へ行くべしと。OK.

    朝イチでロケーションの確認。ホテルから歩いて5分位でジェロニモス修道院前に到着。(前日15番のトラムがここにストップするのを確認しておいた。)グーグルマップ曰く、ここからそのトラムにのり2駅目のLg. Princesaで下車、そこから徒歩でベレンの塔へ行くべしと。OK.

  • ジェロニモス修道院前の15番トラムの乗り場。もう日差しがかなりキツい。<br />後で訪問するのだが、このジェロニモス修道院はバスコ・ダ・ガマのインド航路開拓とエンリケ航海王子の功績を讃えて作られたものだそうだ。着工から完成までに300年(途中で中断)と言うとんでもない時間がかかっていて、その建築資金はバスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料(特に黒コショウ)の売却利益が当てられ、その後も香辛料貿易による利益で建築が続けられたということである。

    ジェロニモス修道院前の15番トラムの乗り場。もう日差しがかなりキツい。
    後で訪問するのだが、このジェロニモス修道院はバスコ・ダ・ガマのインド航路開拓とエンリケ航海王子の功績を讃えて作られたものだそうだ。着工から完成までに300年(途中で中断)と言うとんでもない時間がかかっていて、その建築資金はバスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料(特に黒コショウ)の売却利益が当てられ、その後も香辛料貿易による利益で建築が続けられたということである。

  • 15番トラム(路面電車)がやって来た。トラムとバスを運営するのはカリスCarris社。1873年に運行を開始した長い歴史を持つリスボンの主要交通機関である。<br />トラムにはいろいろあって、旧市内を走るのは1両のみで走るトラム(地元の人はエレトリコ、elétricoと呼ぶ)。コンパクトなボディーで狭い入組んだ道や急坂をクルクル走るトラムはとてもフォトジェニックでリスボンのレトロな下町の風景に溶け込みインスタ映えする。一方、郊外の主要観光地まで乗客を運ぶトラムは、このように2両編成(路線によっては3両もある)で近代的なボディの車両になっている。

    15番トラム(路面電車)がやって来た。トラムとバスを運営するのはカリスCarris社。1873年に運行を開始した長い歴史を持つリスボンの主要交通機関である。
    トラムにはいろいろあって、旧市内を走るのは1両のみで走るトラム(地元の人はエレトリコ、elétricoと呼ぶ)。コンパクトなボディーで狭い入組んだ道や急坂をクルクル走るトラムはとてもフォトジェニックでリスボンのレトロな下町の風景に溶け込みインスタ映えする。一方、郊外の主要観光地まで乗客を運ぶトラムは、このように2両編成(路線によっては3両もある)で近代的なボディの車両になっている。

  • 15番トラムにリスボアカードで乗車。<br />リスボアカードは有効期限を24時間、48時間、72時間の3つのタイプから選ぶことが出来る(私が購入したのは48時間)。<br />また割引になる施設も多く、短期間でいろんな観光施設を回りたい場合に便利。またこのカードで、自由に乗り降り出来る交通機関も、メトロ、カリスのバスや路面電車(トラム)、CPのカスカイス線やシントラ線と色々あり、とてもパワフルな旅の友になってくれる。何よりいいのはキャッシュを出す、お釣りをもらう等の手間から解放されること。<br /><br /><br />

    15番トラムにリスボアカードで乗車。
    リスボアカードは有効期限を24時間、48時間、72時間の3つのタイプから選ぶことが出来る(私が購入したのは48時間)。
    また割引になる施設も多く、短期間でいろんな観光施設を回りたい場合に便利。またこのカードで、自由に乗り降り出来る交通機関も、メトロ、カリスのバスや路面電車(トラム)、CPのカスカイス線やシントラ線と色々あり、とてもパワフルな旅の友になってくれる。何よりいいのはキャッシュを出す、お釣りをもらう等の手間から解放されること。


  • ICリーダーはすべての乗降口にある。どの入り口からでも乗り降りできるが、一応下車する人たちが降りた頃合いを見計らって乗車。<br />清潔で静かな車内なのだが、問題点は下車する駅の確認が難しいこと。天井に近い部分に小さい電光掲示板があるのだが混んでいる場合見えないし、アナウンスもないので見逃す事がある。なのでグーグルマップとにらめっこで、しかもほかの観光客風の人々がゾロゾロと入口に移動する雰囲気を見て何とか下車。フ~~っ。<br />それともう一つの問題点は路面の駅看板の駅名表示が非常に分かりずらく、降りる直前に駅名を確認しにくい点。地元の人には問題ないだろうが観光客にとっては非常に不親切だと思う。

    ICリーダーはすべての乗降口にある。どの入り口からでも乗り降りできるが、一応下車する人たちが降りた頃合いを見計らって乗車。
    清潔で静かな車内なのだが、問題点は下車する駅の確認が難しいこと。天井に近い部分に小さい電光掲示板があるのだが混んでいる場合見えないし、アナウンスもないので見逃す事がある。なのでグーグルマップとにらめっこで、しかもほかの観光客風の人々がゾロゾロと入口に移動する雰囲気を見て何とか下車。フ~~っ。
    それともう一つの問題点は路面の駅看板の駅名表示が非常に分かりずらく、降りる直前に駅名を確認しにくい点。地元の人には問題ないだろうが観光客にとっては非常に不親切だと思う。

  • ベレンから2つ目の駅、Lg. Princesa駅で降りる。観光客らしき人々が数人、線路を超えて川岸へ向かって行くのでその後についていく。住宅街やガラージの横みたいなところを通っていくので、???と思いながら進むと跨道橋が見えてきた。大きな松の木のむこうにベレンの塔の先っぽが見え隠れしている。

    ベレンから2つ目の駅、Lg. Princesa駅で降りる。観光客らしき人々が数人、線路を超えて川岸へ向かって行くのでその後についていく。住宅街やガラージの横みたいなところを通っていくので、???と思いながら進むと跨道橋が見えてきた。大きな松の木のむこうにベレンの塔の先っぽが見え隠れしている。

    ベレンの塔 建造物

  • 渡って来た跨道橋を振り返り、トーレ.デ.ベレン公園の中の道をベレンの塔に向かってひたすら歩く。

    渡って来た跨道橋を振り返り、トーレ.デ.ベレン公園の中の道をベレンの塔に向かってひたすら歩く。

  • テージョ川の岸辺に建つベレンの塔。1514年~1519年の間にマヌエル1世(1495-1521年)によりに建てられた。正式名称は「サン・ヴィンセンテの砦」と呼ばれ、テージョ川を行き交う船を監視し、河口を守る要塞として建てられた見張り塔であった。(当時のリスボンは、後発の英国やオランダの海賊達に対する備えが必要だった。)もともとテージョ川の中州に建てられたのだが、土砂の堆積により川の流れが変化したため、現在川岸に立っている。軍事的に機能した後は、休む間もなく税関として使われた.<br />ところで、司馬遼太郎氏の著作「街道を行く23~南蛮の道Ⅱ」の中の「ポルトガル・人と海」に「テージョ川の公女」という項に ’さらに河口ちかくまでゆくと、水中の岩礁に美しい大理石の塔が立っている’。とあるようだが、この素材は大理石ではなく石灰岩である。シントラ地方特産の硬質な乳白色をしたリオズ石灰岩(Lioz Limestone)で宮殿や聖堂建築に多く使用されたのでロイヤルストーン(Royal Stone)とも呼ばれる。因みに大理石は石灰岩に熱と圧力が加わって組成変化したものでもっと透明感がある。<br />

    テージョ川の岸辺に建つベレンの塔。1514年~1519年の間にマヌエル1世(1495-1521年)によりに建てられた。正式名称は「サン・ヴィンセンテの砦」と呼ばれ、テージョ川を行き交う船を監視し、河口を守る要塞として建てられた見張り塔であった。(当時のリスボンは、後発の英国やオランダの海賊達に対する備えが必要だった。)もともとテージョ川の中州に建てられたのだが、土砂の堆積により川の流れが変化したため、現在川岸に立っている。軍事的に機能した後は、休む間もなく税関として使われた.
    ところで、司馬遼太郎氏の著作「街道を行く23~南蛮の道Ⅱ」の中の「ポルトガル・人と海」に「テージョ川の公女」という項に ’さらに河口ちかくまでゆくと、水中の岩礁に美しい大理石の塔が立っている’。とあるようだが、この素材は大理石ではなく石灰岩である。シントラ地方特産の硬質な乳白色をしたリオズ石灰岩(Lioz Limestone)で宮殿や聖堂建築に多く使用されたのでロイヤルストーン(Royal Stone)とも呼ばれる。因みに大理石は石灰岩に熱と圧力が加わって組成変化したものでもっと透明感がある。

  • ジェロニモス修道院とこのベレンの塔、いずれも16世紀頃のポルトガルで流行した建築様式(マヌエル様式)の傑作とされている建築物。大航海時代のポルトガルの繁栄を示すものとしてこの国で最初に登録された世界遺産である。この塔の建築を指揮した建築家のフランシスコ・デ・アルダ(Francisco de Arruda)は北アフリカの要塞をいくつか建設したことがあり、彼独特の手法で、イスラム風(ムーア風?)の色合いが濃い仕上がりになっているのも特徴。また塔のすべての角に設置された監視塔の丸屋根や、 胸壁の文様に見られるムデハル様式は、建設当時は斬新なものとして受け止められたという。<br />*フランシスコ・デ・アルダはイベリア半島で最も長い現役の水道橋と言われる’アモレイラの水道橋’も設計している。<br /><br /><br />

    ジェロニモス修道院とこのベレンの塔、いずれも16世紀頃のポルトガルで流行した建築様式(マヌエル様式)の傑作とされている建築物。大航海時代のポルトガルの繁栄を示すものとしてこの国で最初に登録された世界遺産である。この塔の建築を指揮した建築家のフランシスコ・デ・アルダ(Francisco de Arruda)は北アフリカの要塞をいくつか建設したことがあり、彼独特の手法で、イスラム風(ムーア風?)の色合いが濃い仕上がりになっているのも特徴。また塔のすべての角に設置された監視塔の丸屋根や、 胸壁の文様に見られるムデハル様式は、建設当時は斬新なものとして受け止められたという。
    *フランシスコ・デ・アルダはイベリア半島で最も長い現役の水道橋と言われる’アモレイラの水道橋’も設計している。


  • チケットについて。ベレンの塔やジェロニモス修道院の入場・チケットのルールが毎年コロコロ変わるようだ。例えばオンラインで去年買えたが今年はダメとか。ベレンの塔とジェロニモス修道院の共通入場券はもう販売していないとか。事前によく確認してから出かけた方がよさそうだ。私が行ったときは1時過ぎで待つ人の列もさほど長くはなく20分くらいで入場出来たし、リスボンカードを係員にチラッと見せるだけでするりと入場できた。(2023年3月26現在の状況)<br />リスボンカード所持者は中で入場券を発行してもらう必要あり等のネットの書き込みがあったがそれはずいぶん昔のことだと思う。

    チケットについて。ベレンの塔やジェロニモス修道院の入場・チケットのルールが毎年コロコロ変わるようだ。例えばオンラインで去年買えたが今年はダメとか。ベレンの塔とジェロニモス修道院の共通入場券はもう販売していないとか。事前によく確認してから出かけた方がよさそうだ。私が行ったときは1時過ぎで待つ人の列もさほど長くはなく20分くらいで入場出来たし、リスボンカードを係員にチラッと見せるだけでするりと入場できた。(2023年3月26現在の状況)
    リスボンカード所持者は中で入場券を発行してもらう必要あり等のネットの書き込みがあったがそれはずいぶん昔のことだと思う。

  • 跳ね橋を渡って塔の中へ。<br />この場所は1497年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに向けて旅立ったところと言われている。彼のインド航路開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれたーWiki<br />1515年に着工し、5年後の1520年に完成したこの要塞は全体で6層からなるマヌエル様式の塔で天球儀や、ロープ、海草、貝など船や海に関した(=マヌエル様式)装飾が随所に施されている。軍事的な機能を持ちながら芸術性も持ち合わせた歴史的建築物と評価されている。<br /><br />

    跳ね橋を渡って塔の中へ。
    この場所は1497年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに向けて旅立ったところと言われている。彼のインド航路開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれたーWiki
    1515年に着工し、5年後の1520年に完成したこの要塞は全体で6層からなるマヌエル様式の塔で天球儀や、ロープ、海草、貝など船や海に関した(=マヌエル様式)装飾が随所に施されている。軍事的な機能を持ちながら芸術性も持ち合わせた歴史的建築物と評価されている。

  • ヴァスコ・ダ・ガマのリスボン出航、ジョン.ヘンリー.アムシェヴィッツの画。-wikimedia, public domainより。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vasco_da_Gama_Leaving_Portugal.jpg<br />1497年7月8日、サンタマリア聖堂の司祭が執り行うミサを済ますと、大勢の観衆が見守る中、ガマの旗艦サン・ガブリエル号とその他3隻はテージョ川から大西洋に向けて出発した。資料によってまちまちだが、総勢約170名の乗組員の中には、黒人の給使や水先案内人、特赦の代償に危険な任務を負う10数名の元死刑囚もいた。-部分的にwikiより。<br />壊血病や海賊の襲撃等といった危険と隣あわせの大航海である。しかも貿易風を頼りのキャラベル船やナビオ船で喜望峰を回り前人未到のインド洋を目指すのである。この絵は出発間際にマヌエル1世とその皇后であるイサベル・デ・アラゴンがキリスト騎士団の旗をガマに賜って祝福しているところであろう。その横でガマに天文図を広げて説明しようとしているのは天文学者のアブラハム.ベン.S. ザクート。4隻の船団で出発したものの、東インド航路を発見しリスボンに帰還したときは2隻の船と50人の乗り組み員しか残っていなかった。1499年8月29日のことである。結局、ガマはインドとの往復航にほぼ 2年を要し、持ち帰った香辛料(ブラックペッパー)の量は見本程度というごくわずかなものであったが、約80年に及ぶインド航路の開拓という国家の一大事業を完遂させたのである。<br />*マヌエル1世は1484年にキリスト騎士団の団長に就任している。<br />**ここでは香辛料=ブラックペッパーを指す。ホワイトやグリーンは未成熟で変質しやすく、船便しかない当時の長期輸送には向いていなかった。一説には今の金のように価格の安定操作がされており、ブラックペッパーは同等の金の重さで取引されたと言われている。当時は冷蔵庫もなくまた冷温輸送の手段もなかったため、肉の保存が不完全で、腐臭を消すためにはブラックペッパーが不可欠だったようである。

    ヴァスコ・ダ・ガマのリスボン出航、ジョン.ヘンリー.アムシェヴィッツの画。-wikimedia, public domainより。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vasco_da_Gama_Leaving_Portugal.jpg
    1497年7月8日、サンタマリア聖堂の司祭が執り行うミサを済ますと、大勢の観衆が見守る中、ガマの旗艦サン・ガブリエル号とその他3隻はテージョ川から大西洋に向けて出発した。資料によってまちまちだが、総勢約170名の乗組員の中には、黒人の給使や水先案内人、特赦の代償に危険な任務を負う10数名の元死刑囚もいた。-部分的にwikiより。
    壊血病や海賊の襲撃等といった危険と隣あわせの大航海である。しかも貿易風を頼りのキャラベル船やナビオ船で喜望峰を回り前人未到のインド洋を目指すのである。この絵は出発間際にマヌエル1世とその皇后であるイサベル・デ・アラゴンがキリスト騎士団の旗をガマに賜って祝福しているところであろう。その横でガマに天文図を広げて説明しようとしているのは天文学者のアブラハム.ベン.S. ザクート。4隻の船団で出発したものの、東インド航路を発見しリスボンに帰還したときは2隻の船と50人の乗り組み員しか残っていなかった。1499年8月29日のことである。結局、ガマはインドとの往復航にほぼ 2年を要し、持ち帰った香辛料(ブラックペッパー)の量は見本程度というごくわずかなものであったが、約80年に及ぶインド航路の開拓という国家の一大事業を完遂させたのである。
    *マヌエル1世は1484年にキリスト騎士団の団長に就任している。
    **ここでは香辛料=ブラックペッパーを指す。ホワイトやグリーンは未成熟で変質しやすく、船便しかない当時の長期輸送には向いていなかった。一説には今の金のように価格の安定操作がされており、ブラックペッパーは同等の金の重さで取引されたと言われている。当時は冷蔵庫もなくまた冷温輸送の手段もなかったため、肉の保存が不完全で、腐臭を消すためにはブラックペッパーが不可欠だったようである。

  • リスボン港を出発するヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama leaving the port of Lisbon, Portugal)Wikipedia public domainより。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A_partida_de_Vasco_da_Gama_para_a_%C3%8Dndia_em_1497.jpg<br />苦難の末、インドのカリカットに到着したガマはサモリン王にマヌエル1世の親書を手渡し貢物が少ないと嘲笑されつつも最終的には貿易許可状をもらうのであるが。。。。こうしてポルトガルはそれまでアラビア人、更にはベネッツィア人、ジェノバ人らによって 独占されていた金、香辛料などの地中海経由の東方貿易をこの新たに切り拓いた自国の海上交易ルートへとシフトさせていくのである。この新ルート開拓こそ、辺境の一国に過ぎなかったポルトガルに莫大な富をもたらし歴史的な国家繁栄へと導くものであった。

    リスボン港を出発するヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama leaving the port of Lisbon, Portugal)Wikipedia public domainより。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A_partida_de_Vasco_da_Gama_para_a_%C3%8Dndia_em_1497.jpg
    苦難の末、インドのカリカットに到着したガマはサモリン王にマヌエル1世の親書を手渡し貢物が少ないと嘲笑されつつも最終的には貿易許可状をもらうのであるが。。。。こうしてポルトガルはそれまでアラビア人、更にはベネッツィア人、ジェノバ人らによって 独占されていた金、香辛料などの地中海経由の東方貿易をこの新たに切り拓いた自国の海上交易ルートへとシフトさせていくのである。この新ルート開拓こそ、辺境の一国に過ぎなかったポルトガルに莫大な富をもたらし歴史的な国家繁栄へと導くものであった。

  • 入ってすぐ右側にある階段は2階の総督の間とテラスへと続く。左に行くと堡塁で砲台が並んでいる(後で訪問)。

    入ってすぐ右側にある階段は2階の総督の間とテラスへと続く。左に行くと堡塁で砲台が並んでいる(後で訪問)。

  • ベレンの塔の構造。堡塁部分が2層、地上の部分が4層(+タワーテラス)になっている。<br />先にも書いたように白っぽいベージュの石材はリオズライムストーンという石灰岩でジェロニモス修道院の石材と同じもの。シントラ地域特産の石灰岩と説明版にあり。

    ベレンの塔の構造。堡塁部分が2層、地上の部分が4層(+タワーテラス)になっている。
    先にも書いたように白っぽいベージュの石材はリオズライムストーンという石灰岩でジェロニモス修道院の石材と同じもの。シントラ地域特産の石灰岩と説明版にあり。

  • 跳ね橋巻き上げ機。テラスを回り込んだ部分、渡って来た跳ね橋のちょうど上の部分に行くとこの装置が見える。。

    跳ね橋巻き上げ機。テラスを回り込んだ部分、渡って来た跳ね橋のちょうど上の部分に行くとこの装置が見える。。

  • 壁に取り付けられた跳ね橋のメカニズムを説明するサインボードの画像に書き込みしたもの。代表的な中世の跳ね橋の例。<br />

    壁に取り付けられた跳ね橋のメカニズムを説明するサインボードの画像に書き込みしたもの。代表的な中世の跳ね橋の例。

  • テラスから4層の主塔部分を見上げたところ。3層目(バルコニーのある王の部屋の上の階)はこの塔のIDを示したファサードになっている。正面の窓にマヌエル1世の大紋章、その左右にアーチ形の窓。そして両サイドにアーミラリ天球儀が設置されている。

    テラスから4層の主塔部分を見上げたところ。3層目(バルコニーのある王の部屋の上の階)はこの塔のIDを示したファサードになっている。正面の窓にマヌエル1世の大紋章、その左右にアーチ形の窓。そして両サイドにアーミラリ天球儀が設置されている。

  • テラス部分に佇みテージョ川を見守るマドンナ。船乗りたちはテージョ川からこの聖母像(別名、Our Lady of Safe Homecoming)に旅の安全を祈願して長い航海に旅立ったと言う。今からは想像もつかないほど危険で苦難に満ちた旅であったことだろう。

    テラス部分に佇みテージョ川を見守るマドンナ。船乗りたちはテージョ川からこの聖母像(別名、Our Lady of Safe Homecoming)に旅の安全を祈願して長い航海に旅立ったと言う。今からは想像もつかないほど危険で苦難に満ちた旅であったことだろう。

  • 1階部分を見下ろしたところ。吊り橋を渡ってすぐ横にある階段を上って来たので1階部分はまだ見ていない。

    1階部分を見下ろしたところ。吊り橋を渡ってすぐ横にある階段を上って来たので1階部分はまだ見ていない。

  • コーナーにある哨兵台(監視塔)の入口。

    コーナーにある哨兵台(監視塔)の入口。

  • Governer&#39;s Room(総督の間)。この要塞の実務(アドミ関係、関税業務やロジスティックス関連)を取り扱った部屋。手前に見えるのは貯水槽。

    Governer's Room(総督の間)。この要塞の実務(アドミ関係、関税業務やロジスティックス関連)を取り扱った部屋。手前に見えるのは貯水槽。

  • 貯水槽。雨水を集め飲料、生活用水とした。

    貯水槽。雨水を集め飲料、生活用水とした。

  • この部屋にある哨兵台(監視塔)へ通じる細い細い通路を振り返ったところ。

    この部屋にある哨兵台(監視塔)へ通じる細い細い通路を振り返ったところ。

  • 突き当りにある哨兵台(監視塔)内部。

    突き当りにある哨兵台(監視塔)内部。

  • 階段のシグナル。

    階段のシグナル。

  • 狭~い93段の螺旋階段の説明。

    狭~い93段の螺旋階段の説明。

  • これがその階段。すれ違い不可能のあくまでも一人用のスペース。各階には信号が付いていて、みんな揃って昇り降りするようになっているのだが、守られていないので専任の(?)交通整理のオニイサンがいて上り下りの指示をしていた。

    これがその階段。すれ違い不可能のあくまでも一人用のスペース。各階には信号が付いていて、みんな揃って昇り降りするようになっているのだが、守られていないので専任の(?)交通整理のオニイサンがいて上り下りの指示をしていた。

  • 主塔2層目、国王の間。テージョ川を船が行き来する様子を王がバルコニーから監視できるようにデザインされている。

    主塔2層目、国王の間。テージョ川を船が行き来する様子を王がバルコニーから監視できるようにデザインされている。

  • 国王の間のインテリア。アーチ形になっている天井に、市松模様の石床。コーナーには暖炉用のくぼみがあり、この部屋は一見、豪華で居心地よく作られているようだが実は冬は寒かったのではないか?河口という立地や床材や壁材が石である点からもそれは想像できる。<br />

    国王の間のインテリア。アーチ形になっている天井に、市松模様の石床。コーナーには暖炉用のくぼみがあり、この部屋は一見、豪華で居心地よく作られているようだが実は冬は寒かったのではないか?河口という立地や床材や壁材が石である点からもそれは想像できる。

  • バルコニーから下の階のテラスを見下ろせる。ここに船乗りたちが航海の無事を祈った聖母像(Our Lady of Safe Homecoming)がある。

    バルコニーから下の階のテラスを見下ろせる。ここに船乗りたちが航海の無事を祈った聖母像(Our Lady of Safe Homecoming)がある。

  • これもバルコニーから。遠くに発見のモニュメントや4月25日橋が見える。まったくテージョ川は海かと見まごう程、大きい。

    これもバルコニーから。遠くに発見のモニュメントや4月25日橋が見える。まったくテージョ川は海かと見まごう程、大きい。

  • 主塔3層目は謁見の間。外国の使者や大使を謁見した部屋で、変化にとんだ形状のアーチ型天井はアコースティックな効果があり、一方の部屋で使者たちの密談した内容が反対側にいる国王や重鎮に聞こえる程であったという。

    主塔3層目は謁見の間。外国の使者や大使を謁見した部屋で、変化にとんだ形状のアーチ型天井はアコースティックな効果があり、一方の部屋で使者たちの密談した内容が反対側にいる国王や重鎮に聞こえる程であったという。

  • 主塔4層目の礼拝所はなぜか閉鎖されていた。主塔のトップ、狭い螺旋階段を降りるところ。各階からの通行者は自動制御の信号に従って昇り降りするのだが、遵守されていない場合もある。

    主塔4層目の礼拝所はなぜか閉鎖されていた。主塔のトップ、狭い螺旋階段を降りるところ。各階からの通行者は自動制御の信号に従って昇り降りするのだが、遵守されていない場合もある。

  • 凝った作りの哨兵台(監視塔)。ムーア風の建築様式とマヌエル様式がミックスされている。

    凝った作りの哨兵台(監視塔)。ムーア風の建築様式とマヌエル様式がミックスされている。

  • 1階の堡塁の部分。砲塔としての役割があったので窓にむかって大砲が並べてある。外から水面ぎりぎりに並んだオープ二ングはこの大砲用の挟間であったことがわかる。

    1階の堡塁の部分。砲塔としての役割があったので窓にむかって大砲が並べてある。外から水面ぎりぎりに並んだオープ二ングはこの大砲用の挟間であったことがわかる。

  • このフロアの一角に格子状に鋳鉄の棒で蓋をした箇所があり、その下は19世紀まで使われた地下牢になっている。潮流により海水が入り込むと水牢になり、政変のたびに高位高官が数知れず幽閉され、ここで落命することも多々あったという。ベレンの塔は美しいだけではなくダークな一面も併せ持っているのである。<br />

    このフロアの一角に格子状に鋳鉄の棒で蓋をした箇所があり、その下は19世紀まで使われた地下牢になっている。潮流により海水が入り込むと水牢になり、政変のたびに高位高官が数知れず幽閉され、ここで落命することも多々あったという。ベレンの塔は美しいだけではなくダークな一面も併せ持っているのである。

  • これが地下牢に続く階段と思われたが、この前にスタンチオンポストが立ててあって一時的に立ち入り禁止になっていた。

    これが地下牢に続く階段と思われたが、この前にスタンチオンポストが立ててあって一時的に立ち入り禁止になっていた。

  • 次の目的地、向こうに見える発見のモニュメントまで速足で。さっき通った4月25日橋が見える。

    次の目的地、向こうに見える発見のモニュメントまで速足で。さっき通った4月25日橋が見える。

  • 途中のヨットハーバー。

    途中のヨットハーバー。

  • 発見のモニュメントに到着。遠くにクリスト.レイが見える。<br />このモニュメントはもともと、1940年の国際博覧会(Exposição do Mundo Português)の象徴として制作されたものだが、もろい素材で制作されていたため、エンリケ航海王子没後500年の記念行事として1960年にコンクリートで再度制作された。高さ52mのキャラベル船を模したこの記念碑には、海上帝国ポルトガルを支えた33人の英雄が並ぶ。先頭は、実際に航海には出ずここリスボンで航海事業者、パトロンとして船乗り達を援助したエンリケ航海王子。我々日本人にもよく知られたバスコ・ダ・ガマやフランシスコ・ザビエル 等もいる。

    発見のモニュメントに到着。遠くにクリスト.レイが見える。
    このモニュメントはもともと、1940年の国際博覧会(Exposição do Mundo Português)の象徴として制作されたものだが、もろい素材で制作されていたため、エンリケ航海王子没後500年の記念行事として1960年にコンクリートで再度制作された。高さ52mのキャラベル船を模したこの記念碑には、海上帝国ポルトガルを支えた33人の英雄が並ぶ。先頭は、実際に航海には出ずここリスボンで航海事業者、パトロンとして船乗り達を援助したエンリケ航海王子。我々日本人にもよく知られたバスコ・ダ・ガマやフランシスコ・ザビエル 等もいる。

    発見のモニュメント モニュメント・記念碑

  • 裏から見るとこの中心は十字架のように見えるが、実はこれは大航海時代ポルトガルを統治したアヴィス王家の剣を表したもの。

    裏から見るとこの中心は十字架のように見えるが、実はこれは大航海時代ポルトガルを統治したアヴィス王家の剣を表したもの。

  • 東側プロファイルは大航海時代を支えた偉人達の像が彫られており、その中にはバスコ・ダ・ガマやフランシスコ・ザビエル、バルトロメウ・ディアス がいる。<br />人物詳細は<br />https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Padr%C3%A3o_Descobrimentos_labels_(eastern_side).jpg

    東側プロファイルは大航海時代を支えた偉人達の像が彫られており、その中にはバスコ・ダ・ガマやフランシスコ・ザビエル、バルトロメウ・ディアス がいる。
    人物詳細は
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Padr%C3%A3o_Descobrimentos_labels_(eastern_side).jpg

  • 西側プロファイル。こちらは実際には海外には乗り出さなかったものの、大航海時代を文化面で支えた人々が彫刻されている。例えばルイス・デ・カモンイス やドナ・フィリパ・デ・レンカストレ(エンリケ航海王子の母君)等。<br />人物詳細は<br />https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Padr%C3%A3o_Descobrimentos_labels_(Western_side).jpg

    西側プロファイル。こちらは実際には海外には乗り出さなかったものの、大航海時代を文化面で支えた人々が彫刻されている。例えばルイス・デ・カモンイス やドナ・フィリパ・デ・レンカストレ(エンリケ航海王子の母君)等。
    人物詳細は
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Padr%C3%A3o_Descobrimentos_labels_(Western_side).jpg

  • 発見のモニュメント前のコンパスローズまたはウィンドローズ。中心部はこのようなマッパ・ムンディ(Mappa Mundi, 中世の地図)になっていてポルトガルが到達(発見?)した年度が記されている。日本到達(発見)の年が1541年(日本は戦国時代の天文10年)となっているのはポルトガルの難破船(あるいは明船)が豊後国(今の大分県)神宮寺浦に1541年7月27日に漂着したのを最初の上陸としているからである。そして1543年、種子島へポルトガル商人(あるいは倭寇に紛れたポルトガル人)が漂着し、鉄砲(火縄銃)伝来が起こる。-wiki<br />ただしほかの資料によれば鉄砲(火縄銃)はそれより以前に伝来していたとある。<br />

    発見のモニュメント前のコンパスローズまたはウィンドローズ。中心部はこのようなマッパ・ムンディ(Mappa Mundi, 中世の地図)になっていてポルトガルが到達(発見?)した年度が記されている。日本到達(発見)の年が1541年(日本は戦国時代の天文10年)となっているのはポルトガルの難破船(あるいは明船)が豊後国(今の大分県)神宮寺浦に1541年7月27日に漂着したのを最初の上陸としているからである。そして1543年、種子島へポルトガル商人(あるいは倭寇に紛れたポルトガル人)が漂着し、鉄砲(火縄銃)伝来が起こる。-wiki
    ただしほかの資料によれば鉄砲(火縄銃)はそれより以前に伝来していたとある。

  • マッパ・ムンディ(Mappa Mundi, 中世の地図)ー>中世のラテン語、Mappa(布または図) とMundi (世界)より成る。中世に作成された地図は約1100種あり、それらを総括してMappa Mundi と呼んでいる。<br />絵画的要素が強くキリスト教関連の図像や説明が入るのが特徴である。<br />

    マッパ・ムンディ(Mappa Mundi, 中世の地図)ー>中世のラテン語、Mappa(布または図) とMundi (世界)より成る。中世に作成された地図は約1100種あり、それらを総括してMappa Mundi と呼んでいる。
    絵画的要素が強くキリスト教関連の図像や説明が入るのが特徴である。

  • ウィンドロースの銘板:<br />This Windrose was offered to Portugal by the Union of South Africa (1960) on the 5th centenary of the death of Prince Henry, the navigator, whose genius made the discovery of the Cape of Good Hope Possible.<br />このウィンドローズは、喜望峰の発見を可能にした天才航海士ヘンリー王子の没後 500 年を記念して (1960 年)、南アフリカ共和国からポルトガルに寄贈されました。とある。<br />

    ウィンドロースの銘板:
    This Windrose was offered to Portugal by the Union of South Africa (1960) on the 5th centenary of the death of Prince Henry, the navigator, whose genius made the discovery of the Cape of Good Hope Possible.
    このウィンドローズは、喜望峰の発見を可能にした天才航海士ヘンリー王子の没後 500 年を記念して (1960 年)、南アフリカ共和国からポルトガルに寄贈されました。とある。

  • ’MAAT’(Museum of Art, Architecture, and Technology)と4月25日橋。<br />

    ’MAAT’(Museum of Art, Architecture, and Technology)と4月25日橋。

  • ジェロニモス修道院に行くため、地下道を通って道路の反対側に行く。前方に見えるのがその地下道入口。前のワンちゃん、飼い主に &#39;行きたくない~&#39; と駄々をこねてるようだけど。

    ジェロニモス修道院に行くため、地下道を通って道路の反対側に行く。前方に見えるのがその地下道入口。前のワンちゃん、飼い主に '行きたくない~' と駄々をこねてるようだけど。

  • 地下道。

    地下道。

  • 反対側に出てきたところ。

    反対側に出てきたところ。

  • すぐ目の前はベレンの中心であるインペリオ広場庭園(Jardim da Praça do Império)の大噴水。そして道路の先に輝くジェロニモス修道院が見える。<br />このあと、大西洋横断、イスタンブール~イベリア半島横断⑦7日目その2に続く。

    すぐ目の前はベレンの中心であるインペリオ広場庭園(Jardim da Praça do Império)の大噴水。そして道路の先に輝くジェロニモス修道院が見える。
    このあと、大西洋横断、イスタンブール~イベリア半島横断⑦7日目その2に続く。

    インペリオ広場 広場・公園

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